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ベルサイユの講和条約に、国境劃定委員会が出来て、その一分科である墺伊両国間の国境劃定に日本からも委員を出すことゝなつて服部兵次郎少将(当時中佐)が任命され、私は通訳として随行した。少々古い話だが――。
墺伊の国境にはチロルといふローマ時代の伝統をそのまゝ保存してゐる歴史的の小国がある。こゝは谷あひの、景勝の地を占め、いかにも平和な気の靉靆たる所で、欧洲人の避暑地、避寒地となつてゐる。私が此の国を訪れた時は戦後のためあまり入りこんでゐる人もなく、静かな旅行を続けることが出来た。
その一寒村、シユワルツエンシユタインに今もローマ時代の古城が残つてゐる。伊太利の某公爵夫妻が、一人の孫娘と淋しい生活を送つてゐたが、私の当時の記録には次のやうにある。
シユワルツエンシユタイン
ローマの古城、今は何とか公爵の隠遁所
金髪の少女が、乳桶を提げて出て来る
もう、鶏頭の花が咲いてゐる
(「言葉、言葉、言葉」中のチロルの旅の一節より)
朽ちはてた古城の一角で可憐な、しかも見惚れるほど気品のある一少女を発見して、私は忽ち芸術的感興に唆かされ、カメラを向けたのがこれである。意図はいゝのだが、腕がそれに伴はなかつたのが残念至極である。
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あるところに、なに不足なく育てられた少女がありました。ただ一人ぎりで、両親にはほかに子供もありませんでしたから、娘は生まれると大事に育てられたのであります。
世間にも知られるほどの金持ちでありましたから、娘はりっぱな家に住み、食べ物から着る物まで、ほかの子供らには、とうていそのまねのできないほど、しあわせに日を送ることができたのであります。
娘は大きくなると、それは美しゅうございました。目はぱっちりとして、髪の毛は黒く長く、色は白くて、この近隣に、これほど美しい娘はないといわれるほどでありましたから、両親の喜びは、たとえようがなかったのであります。
けれど、ここに一つ両親の心を傷めることがありました。それは、こんなに美しい娘が、いつも黙って、沈んでいて、うれしそうな顔をして笑ったことがなかった。
「なぜ、あの子は笑わないだろう。」
「まんざらものをいわないこともないから、おしではないが、いったいどうした子だろう。」
両親は、顔を見合わせて、うすうす我が子の身の上について心配しました。
なにしろ、金はいくらもありますから、金でどうにかなることなら、なんでも買ってやって、娘の快活にものをいい、楽しむ有り様をば見たいものだと思いました。
そこで、町へ人をやって、流行の美しい、目のさめるような華やかな着物や、また、飾りのついた人形など、なんでも娘の気に入りそうなものを、車にたくさん積んで持ってきて、娘の前にひろげてみせました。
娘は、ただ一目それを見たぎりで、べつにほしいともうれしいともいわず、また、笑いもしませんでした。両親は、娘の心を悟ることができなかった。
「なにか、心から娘を喜ばせるような美しいものはないものか。いくら高くても金をば惜しまない。」と、両親は、人に話しました。
そのことが、ちょうど旅から入り込んでいた、宝石屋の耳に、はいりました。すると宝石屋は、ひざを打って喜んで、これは、一もうけできると心で思いながら、その金持ちの家へやってきました。
「どんなに、気の沈んだお嬢さんでも、私の持ってきた、宝石をごらんになれば、こおどりしてお喜びなさるにちがいありません。それほど美しい、珍奇なものばかりです。」と、箱を前に置いていいました。
両親は、娘さえ喜んで、笑い顔を見せてくれれば、いくらでも金を出すといって、さっそく娘をそこへ呼びました。
しとやかに、娘は、そこに入ってきました。そして、両親のそばにすわりました。
「お嬢さん、これをごらんください。」といって、宝石屋は、箱のふたを開きました。すると、一時に、赤・青・緑・紫、さまざまの石から放った光が、みんなの目を射りました。
両親はじめ、平常それらの石を扱いつけている男までが、目のくらみそうな思いがしましたのに、娘の顔は、びくともせずに、かえって、さげすむような目つきをして、冷ややかに見下ろしていたのであります。
「お嬢さん、こんな美しい石をごらんになったことがありまして?」と、宝石屋は、驚きの目をみはっていいました。
「私は、毎夜、これよりも美しい星の光をながめています。」
と、娘は平気で答えました。
さすがに、自慢の宝石屋も、この答えにびっくりして、そうそうに箱を抱えて、その家から逃げ出してしまいました。
やがて、このことと、娘が沈んでいて笑わないといううわさが、世間に伝わりました。
あるところに、その話を聞いて、たいへん娘に同情をして、気の毒がったおじいさんがあります。そのおじいさんは、もう頭が真っ白でした。そして、背が低く、いつも太いつえをついて歩いていました。
「私の考えるに、その娘は、詩人というものじゃ。宝石より空の星が美しいとは、いまどきには、めずらしい高潔な思想じゃ。平常、沈んでいるのも、ものをいわないのもよくわかるような気がする。私がいって、その娘にあってやろう。」と、おじいさんはいって、独りできめてしまいました。
おじいさんは、つえをついて、ある日、その家をたずねました。そして、自分は娘を救いにやってきたことを両親に話しました。
両親は、この老人が、徳の高い人だということを知っていました。そして、そのしんせつを心から感謝しました。
「どうしたら、娘がもっと快活にものをいったり、笑ったりするようになるでしょうか。」と、両親は、老人に問いました。
「性質というものは、そう容易に変わらないものじゃ、けれどお嬢さんは、金持ちの家に生まれながら、衣服や、宝石などよりも、空の星を愛されるところをみると、たしかに詩人になられる素質があるようだ。そういう人を教育するには、物質ではいけない。やはり音楽や自然でなければならない。感情・趣味、そういう方面の教育でなければならないと思われる。これから、私は、お嬢さんに、音楽を教え、自然を友とすることを教えましょう。もっと生まれ変わったように、快活なお方となられると思うじゃ。」と、老人はいいました。
両親は、これを聞くと、たいそう喜びました。そこで、この老人に、娘の教育を頼みました。老人は、娘に音楽を教えました。また広い圃にはいろいろな草花を植えました。あるときはその花の咲いた園の中で、楽器を鳴らしました。小鳥は、その周囲の木々に集まってきました。美しいちょうは、ひらひらと飛んできて花の上を舞いながら、いい音楽のしらべに聞きとれているように見えました。こんな日が幾日もつづきましたけれど、娘は笑いませんでした。笑わないばかりでなく、前よりもいっそう顔の色が青白く、やつれて見えるのでありました。両親はたいそう心配しました。老人は、不思議に思いました。
「なんで、あなたは、そんなに憂わしい顔つきをしているのじゃ。」と、老人は、娘にききました。
すると、娘は、目にいっぱい涙をためて、
「この真っ赤な花弁に、晩方の風がかすかに吹き渡るのをながめますと、私はたまらなく悲しくなります。音楽の音色も私の心を楽しませることはできません。」と、娘は答えました。
さすがに徳の高い老人も、このうえ娘を快活にする術を考えることはできなくなりました。そして、暇を告げて、老人はどこへか、つえをつきながら立ってしまいました。
このうわさは、また世間に広がりました。
「だれか、あの金持ちの娘を笑わせるものはないか。」と、人々はいいました。
このことを、ある年の若い医者が聞きました。その医者は学者でありました。そして、あまり世間には顔を出さず、いっしょうけんめいに研究をしているまじめな人でありました。医者はこの話を聞くと、興味をもちました。
「その娘は、一種の精神病者にちがいなかろう。診察をして、できることなら自分の力でなおしてやりたいものだ。」と思いました。
年の若い、まじめな医者は、金持ちの家へやってきました。両親は、医者の話を聞いているうちに、もしや自分の娘は、精神病者でないかというような疑いを抱きましたから、
「どうぞ、早くご診察をしてください。そして、あなたのお力でなおることなら、どうぞなおしてください。」と、医者に頼みました。
医者は、娘について、いろいろ診察をしました。けれど、心臓は正しく打っており、肺は強く呼吸をし、どこひとつとして狂っているところはないばかりか、すこしも精神病者らしいところも見うけなかったのです。
「なぜ、あなたは笑いませんか?」と、まじめな医者は娘にたずねました。
「私には、どうしても笑えないのです。」と、娘は答えた。
「なぜですか?」
「なぜだか、それが私にもわからないのです。」と、娘は答えました。
医者は、それは自分の研究すべき領分でないことを感じました。そして、頭をかしげて、その家から去ってしまったのです。
そのころ、ちょうど旅から曲馬師が、この村に入ってきて、この話を聞きますと、
「若い時分には、そんなような性質の娘さんがあるものだ。私は、よくその娘さんの気持ちを知っている。」といいました。
この年をとった曲馬師は、堅いしんせつな人でありました。ある日、娘の家へたずねてきて、
「私に、娘さんをおあずけください。きっと快活な、愉快な人にしてあげますから。」と申しました。
両親は、大事な娘を、旅の曲馬師にあずけることを躊躇しましたが、その人がたいへんにしんせつな、正直な人だということがわかりましたものですから、娘に聞いてみました。
「私は、遠い国の知らない町を見たいと思っていましたから、どうかやってください。」と頼みました。
曲馬師は、両親から娘をあずかりました。娘は、その人たちの一行に加わって、故郷を出発したのであります。
それから、娘は南の町へゆき、あるときは西の都にまいりました。そして、いろいろの人たちに交わりました。春も過ぎ、夏もゆき、はやくも一年はたちました。両親は、娘のことを案じ暮らしていました。
ある日の暮れ方に、不意に娘が帰ってきました。両親は、見違えるように我が子の美しく、快活になっていたのに驚いたのです。
「どうして、おまえは、そんなに生まれ変わったように、おもしろそうに笑うようになったか?」と問いました。
「だって、世の中は、愉快なんですもの。」と、娘は答えた。
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Medium
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少年老い易し、麗人は刻を千金の春夜に惜む。われらがわかき日の小詩はまさに涙を流して歌ふべし。瑠璃いろ空のかはたれにわすれなぐさの花咲かばまた、過ぎし夜のはかなき恋も忍ぶべし。ここに選び出でたるはわが幼きより今にいたるあらゆる詩集の中より、ことに歌ひ易く調やさしき断章小曲のかずかず、すべてみな見果てぬ夢の現なかりしささやきばかり、とりあつむればあはれなることかぎりなし。かの西の国の詩人が
ながれのきしのひともとは
みそらのいろのみづあさぎ
なみことごとくくちづけし
はたことごとくわすれゆく。
と歌ひけむ。なにごともながれゆく水のながれのひとふれのみ。忘れえぬ人びとよ、われらが若さは過ぎなむとす。嘆かば嘆け。羊の皮の手ざはりに金の箔押すわがこころ、思ひあがればある時は、紅玉サフアイヤ、緑玉、金剛石をも鏤めむとする、何んといふ哀しさぞや、るりいろ空に花咲かば忘れなぐさと思ふべし。
大正四年四月白秋識
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Medium
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彼が恥ずかしそうに下を向いた
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Easy
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|
元禄享保の頃、関西に法眼、円通という二禅僧がありました。いずれも黄檗宗の名僧独湛の嗣法の弟子で、性格も世離れしているところから互いは親友でありました。
法眼は学問があって律義の方、しかし其の律義さは余程、異っています。或る時、僧を伴れて劇場の前を通りました。侍僧は芝居を見たくて堪りません。そこで師匠の法眼が劇場の何たるかを知らないのに附け込んで、斯う言いました。
「老師、この建物の中には尊いものが沢山あるのでございます。一つお詣りしていらっしては如何です」
法眼は暫らく立佇って考えていましたが、手を振って言いました。
「今日は是非行かねばならん用事があるのだ。そうもして居られない。だが、そう聴いた以上は素通りもなるまい。せめて結縁のしるしなりと、どれ」
と言って木戸番の前へ行って合掌礼拝しました。
円通の方は無頓着、飄逸という方です、或る人が此の禅僧に書を頼んだ事がありました。
円通は興にまかせて流るるような草書を書いて与えました。受取った人は大悦び、美しい筆の運びに眼を細めましたが、さて何と書いてあるのか余りひどいくずし方で読めません。立戻って円通に訊いてみたところが、筆者自身の円通さえ読めないという始末。けれども円通は一向平気でした。
「私の門人のSという男が、私の字を読み慣れている。これは其の方へ持って行って読みこなして貰う方が早道と思うが」
先ずこんな調子の人物でした。
法眼は不断、紀州に住み、円通は大阪に住んでいました。ところが法務の都合で二人は偶然、京都に落合ってしばらく逗留する事になりました。こういう二人が顔を合せたのですから、変った出来事が起るのも無理はありません。
京都の遊里として名高いのは島原ですが、島原は三代将軍家光の時分に出来、別に祇園町の茶屋というのが丁度此の時分に出来て、モダンな遊里として市中に噂が高かった。それがどうやら、二禅僧の耳にも入りました。もとより噂を生聴きの上、二人の性格からしても、その内容を察しられそうにも思われません。ただ
「折角、京都へ来た事でもあるから、その評判の茶屋とかいうものも見学しとこうではないか」
このくらいな、あっさりした動機で二人は連れ立って茶屋探険に出かけました。
襟の合せ目から燃えるような緋無垢の肌着をちらと覗かせ、卵色の縮緬の着物に呉絽の羽織、雲斎織の袋足袋、大脇差、――ざっとこういう伊達な服装の不良紳士たちが沢山さまようという色町の通りに、僧形の二人がぶらぶら歩く姿は余程、異様なものであったろうと思います。二人は、簾を垂らした中から艶っぽい拵え声で「寄らしゃりませい寄らしゃりませい」とモーションをかけている祇園の茶屋を、あちらこちらを物色して歩きましたが、いかさま探険するなら成るたけ大きな家がよかろうというので、門構えの立派な一軒へつかつかと入りました。そして
「私は摂津国法福寺の円通と申す禅僧、これなるは紀州光明寺の法眼と申す連れの僧、御主人も在らばお目にかかり度い」
と堅苦しく申入れました。取次ぎの女中から様子を聴いた茶屋の主人はびっくりしました。何の用事か知らないが、法眼、円通といえば当時噂に高い清僧たち、失礼があってはいけないと言うので、女中たちに云い含め、いとも丁寧に座敷へ通して正座に据え、自分は袴羽織で挨拶に出ました。これを見て、感心した法眼は円通に向って言いました。
「どうだ、茶屋というものは礼儀正しいものではないか」
主人が用向きを訊いてみると格別のことも無い様子、話の具合では、どうやら茶屋の遊びという事を清僧らしく簡単に思い做して、何も知らずに試みに来た様子。主人四郎兵衛は一時は商売並みにこの坊さんたちを遊興させて銭儲けをしようかとも思いましたが、二人の様子を見るのに余りに俗離れがしていて純情無垢のこどもに還っているのでこれに色町の慣わしのものを勧めるというのはどうにも深刻過ぎるように思え、また、二人の様子の、こどもの無邪気さに見えていながら、吹抜けてからっとした態度には、実に何もかも知り尽していながらわざと愚を装っているのではあるまいかと疑われるような奥底の知れない薄気味悪いものを感じまして、何も今更、自分等が職業にしているような普通人に魅力に感ぜられるものを、これ等の達人に与えて見せたところで、何だ、これしきのものかと一笑に附されるばかりでなく、あべこべに浅ましいこちらの腹の底まで読み取られそうな気がして、どう待遇したものか、四郎兵衛は思案に暮れていました。
夏の事ですから道喜の笹ちまき、それに粟田口のいちご、当時京都の名物とされていたこれ等の季節のものを運んで女中二三人が入れ交り、立ち交り座敷へ現れました。いずれも水色の揃いの帷子に、しん無しの大幅帯をしどけなく結び、小枕なしの大島田を、一筋の後れ毛もなく結い立てています。京女の生地の白い肌へ夕化粧を念入りに施したのが文字通り水もしたたるような美しさです。円通は先程からまじまじと女達の姿に見入っていましたが遂々感嘆の声を立てました。
「いや驚くほど美しい娘さんたちだ。揃いも揃って斯ういう娘さんがたを持たれた御主人は親御としてさぞ嬉しいことであろうな」
酌婦をすっかり此の家の令嬢と思い込んでしまったのでありました。この一言に、四郎兵衛は、もうこの客たちに遊興させようなぞという気は微塵も無くなりました。後は「へえー」と平伏して直ぐに座を立ち、信徒が帰依の高僧を供養する心構えで酒飯を饗応すべく支度にかかりました。
何にも知らぬ二僧は、すっかり悦んで箸を取りながら主人や女中を相手に四方山の咄の末、法眼が言いました。
「時に御主人、われ等ここへ斯う参って、御家族にお目にかかり懇な御給仕に預るのも何かの因縁です。折角の機会ですから娘御たちに三帰を授けてあげましょう。私の唱える通り、みなさんも合掌して唱えなさるがよい」
「それがいいそれがいい」
円通も賛成しました。まるで狐に憑かれたような顔をして互いに顔を見合せ、二僧を取巻いた主人と女中は環がたに坐って合掌しました。座敷はしんと静まり返りました。
夕風が立って来たか、青簾はゆらゆら揺れます。打水した庭にくろずんだ鞍馬石が配置よく置き据えられ、それには楚々とした若竹が、一々、植え添えてあります。色里の色の中とは思えぬ清寂な一とき。木立を距てた離れ座敷から、もう客が来ているものと見え、優婉な声で投げ節が聞えて来ます。
渡りくらべて世の中見れば阿波の鳴門に波もなし――
ここの座敷では法眼の錆びて淡々たる声で唱え出されました。
なむ きえ ぶつ――
なむ きえ ほう――
なむ きえ そう――
それを自然にまぬて口唱して居るうちに若い女たちは心の底から今までに覚えたことの無い明るい、しんみりした気持ちにさせられて、合せた手にも自ずから力が入りおやおや涙が出ると自分で不思議がるほど甘い軽快な涙が自然に瞼をうるおしているのでした。
なむ きえ ぶつ――
なむ きえ ほう――
なむ きえ そう――
一同はそれを繰り返しました。汲みかえられて、水晶を張ったような手水鉢の水に新月が青く映っています。
それが済んで二人は
「さて、帰ろう。御主人勘定はいくらですか」
「いえ、御出家からは頂戴致しません」
「ほほう、それは奇特な事ですな」
二人の清僧は寄寓の寺へ帰りました。そして大得意で茶屋見学の様子を若い僧たちに話して聴かせました。そして次の意見を附け加えました。
「成程、茶屋というところはよいところだ、若い僧の行き度がるのも無理はない。礼儀が正しくて、御馳走をして呉れて、金を取らんというのだから。あすこなら、みんなもせいぜい行きなさい」
青年僧達は茶屋の実際を経験してよく知って居ましたが、この二僧の茶屋探検観察談を聞いてからは、ふっつり内証の茶屋遊びを止めて仕舞いました。
一方、祇園の四郎兵衛の茶屋の女中たちは互いに噂をし合っていました。
「あの老僧たちは何という腕のある人達だろう。たった一時にしろ、あんなに人をしみじみした気持ちにさしてさ。私たちは幾つかの恋愛をしたけれども、どんな恋人からもあんな気持ちにさせられた事は一遍も無かった」
| 0.585
|
Hard
| 0.627
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彼がXで日頃のストレスを解消する
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Easy
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サラリーマンが休みを利用する
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|
Easy
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| 0.147867
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|
これはなんでござるか。
| 0
|
Easy
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| 11
|
斎藤さんの文学や、学問に理会のおそかったことが、私一代の後悔でもあり、遺憾でもある。勿論今の人たちのうちでは、私などが最長い愛読者であるには間違いない。ただその研究・作物を愛する道を知ることの遅れたことが、どんなに私の損失になっているかわからない。作家から言っても、千樫・赤彦と移って、其後、斎藤さんの具有する諸相を理会する時が、やっと到ったのである。それだけに、今における尊敬は、私にとって深刻なものである。が、何故もっと若い、触れ易く受けやすい時代に、斎藤さんを自分胸臆のものにしておかなかったかと思う。全面的に此人を感じることの出来たのは、今から思えば、肝腎私が、アラヽギを去って後のことであった。
松かぜは裏の山より音し来て、こゝのみ寺に しばし きこゆる
松かぜのとほざかりゆく音きこゆ――。麓の田居を 過ぎにけるらし
石亀の生める卵を くちなはが待ちわびながら 呑むとこそ聞け
こういう歌を作る境地に達した人と、しんから近づいて行って、心を重ねてものを言うことの出来ぬ寂しさを思うたことであった。その頃考えた。こういう極度に整頓した生活を表現することの出来る人が、同時に作った「石亀の歌」である。これにも尋常我々の音の感覚と変ったものが、通じているに違いない。これを唯作者の持つ特異の境地にある、異質のものと見過すのは間違っているだろう。そう思って、「がれいぢ」の歌・「ぼろ切れの如く」の歌・「ねずみの巣」の類の、それから後も続々あらわれた別殊の歌風にあるものとせられている歌の類を考え併せて行った。其作品に通じているある宗教観――或は逆に、宗教観を据えて見る時、理会の深くなるような種類――そういうものが、更にもっと底にあることを感じた。そして将来具相せられようとするものが、既に示されているらしいことをほのかに感じた。それが又後に愈著しくなって来ようとしていることを、私の心は、疑わなくなっていた。其が此人に逢う機会をなくした後の私に、気のついたことの一つであった。
互に近く山を距てて夏を住みながら、消息せずに暮した強羅の作を、幾度も見た。特に箱根山中でも、風物の変化の乏しい所に夏毎を籠って、而もあれだけの量の作物を為している。山を距てて姥子の奥に起臥して居た私などは、唯驚歎するばかりだ。風物によってのみ作っている我々から立ち離れて、風物自身の如く、静かにたたみ込まれた心の奥を打ち出して来る事の出来る境地に達した事を意味しているのだ。これに前後して、長崎の歌があり、更に一日のうち物を言わずして過すことの多い、そうして見る風物も、何一つ親昵感を起す物なき欧洲遠行中の多量の歌。又支那・満洲の無限につづく連作とも言うべき歌々。それから近年の北海道の諸作。それらのものの上に通じていて、而もどうしてもはっきり顕れて来ない姿のあることが、思われていた。
長い日のうちに、ただ一度二度異国のおとめが用を達するため、どあを開いて声をかけて来る。――こういう人間接触も、歌にすることの出来る人は、少しは、あるだろう。併し、唯物もない水平線や流沙に向って、倦んじ暮す大洋平原を心に活して詠むことの出来た人は、他に誰があったろう。国境を越えて更に国境へ――長い鉄路の経験――唯もう漠々たる長沙を幾日も眺め暮す生活などは、座談にのぼすことすらおっくうな筈である。而も、それをちゃんと、生活からかっきり截り出して作品にしている。ほかに学問や歌に対する手柄はいろいろあるが、この一つは、よく我々の同時代人には、見取っておいてほしいものである。
我々の次々の時代には、もうどういう風に、歌の考え方が変っているか訣らないからである。殆こう言う空虚を歌にすることの出来た人は、前人には一人もいなかったと言うことが言いたいのである。斎藤さんが、最尊敬する万葉人には、ややそうした風も見えるが、これはただ音調のみの世界を描き得たものがあるというだけのことであった。私をこわがらせる――こうした空虚を具相する心、此人の心を俟って具相し得た真実相が、茲にはあったことを言っておきたいのである。
日本人が尊び馴れて来た観念文学には、更に奥があって、それがこの人にとりあげられている。そういうことが、自信を失ってしまった日本人の心に、新しい力となって来ること、其に期待を掛けずには居られない。
茂吉文学の愛唱せられている奥に、更に見忘れられた真実がある。そう言うことも考える必要がありはしないか。
だが此事は、もっとこの人の人柄から出る学問と、関聯させて説くべきであった。
〔一九五二年四月〕
| 0.554
|
Hard
| 0.62
| 0.205
| 0.263
| 0.698
| 1,900
|
❶農林省案と政調会案とはどちらが妥当か。
正しいとかどうかという問題じやない。政調会長として…そんなこと質問にならんですよ。
❷農産物の二重価格制を採用すべきかどうか。
二重価格とはどんなことなのですか。改進党が主張してるつて?改進党がどういつてるか僕は分らん。こういう問題、一概にはいえませんよ。
❸農相の任免をめぐつて首相の側近人事という風評があるが……
知りません。総理大臣が任命されるんだから、長老とか役員とか相談してやつてるだろう。僕は当時三役でなかつたから知らない。
❹内田氏と保利氏とどちらが適任か。
両方とも適任、立派な人です。総理大臣が任命されることだから。
❺大政調会制度で閣僚がロボット化し、各省の責任の所在が稀薄にはならないか。
自由党の内閣だから両者のちがいはないはず。できるだけ党の公約を内閣へ申出るが、内閣を拘束するものではない。内閣と党とが調整していく。政調会には練達の士や、専門家がいて熱心にやつている。官僚ハダシですよ。
❻もつと麦を食べろという議論をどう思うか。
僕は自分で実行している、サアどのくらい混ぜてるかナ? ただ小麦を輸入する場合は、小麦が食えるようなタンパク、脂肪がないといけない。その問題で、経団連の意見はそのまま実行できぬという政調会副会長の意見だつた。
| 0.545
|
Medium
| 0.645
| 0.245
| 0
| 0.227
| 566
|
その頃の絵は、今日のやうに濃彩のものがなくて、何れもうすいものでした。恰度春挙さんの海浜に童子の居る絵の出たころです。そのころは、それで普通のやうにおもつてゐたのでした。今日のは、何だか、そのころからみるとずつと絵がごつくなつてゐるとおもひます。
法塵一掃は墨絵で、坊さんの顔などは、うすいタイシヤで描かれてゐました。尤も顔の仕上げばかりではなしに、一体にうすい絵でした。この作品が出品された年は、恰度栖鳳先生が、西洋から帰られた年でして、獅子の図が出品されました。その時分に屏風などが出てゐましたが、併しまたとても今日の展覧会などに出品されさうもないやうな小さな作品も出てゐました。寸法に標準と云ふものがまるでなかつたのでした。
私が二十五、六か七、八歳頃、森寛斎翁はなくなられましたが、そのころの春挙さんは、私もよくおめにかかつてゐました。塾がちがつたものですから、これと云つて、まとまつたお話もうかがつた事もありませんでしたし、ゆつくりおめにかかると云ふやうな機会もありませんでしたが、そのころ、お若い内から春挙さんは、すつくりした、いかにも書生肌の、大変話ずきの人でした。毒のない、安心して物の云へるいい人であつたと云ふ事は、私にも云へます。
私の若い時分は、今のやうに、文展とか、帝展とかと云つた、ああ云ふ公開の展覧会と云ふものが、そんなに沢山ありませんでしたので、文展時代の作品については、はつきりとした記憶がまだ残つてゐます。春挙さんの塩原の奥とか、雪中の松とかは、いまだにはつきりとした印象を残してゐます。
青年絵画協進会のは、海辺に童子がはだかでゐる絵で、その筆力なり、裸体の表現などが、当時の私共には、大変物珍らしく、そして新しいもののやうに感ぜられたのでした。取材表現のみならず、色彩に於ても、新しい感覚に依つてゐたものでありました。
おなくなりになる少し前の事でした。電車で、所用があつて外出しましたとき、ふとみると、私の座席の向ふ側に春挙さんが偶然にも乗り合はせてゐられました。その時恰度私の方の側が陽が照つて来ましたので、「こちらへおかけやす」と、その時、春挙さんの隣りに空席が出来たので、おとなりにかけましたところが、恰度ラヂオで放送された直後の事でしたので、その話をしてゐられました。伝統的な手法を忘れて、一体に画壇が軽佻浮薄に流れて、いけないと云ふやうなお話をしきりにせられてゐました。
その時、膳所の別荘は大変御立派ださうですねと云ひますと、あなたはまだでしたか、御所の御大典の材料を拝領したので茶室をつくりました、おひまの時は是非一度来てほしいと云はれて、それがもう去年の事になりました。そんなに早くなくなられるとは、とてもおもはれませんでした。
私が十六、七の頃ですが、全国青年絵画協進会と云ふのが御所の中で、古い御殿のやうな建物があつて、そこでよく開いてゐましたが、その時春挙さんが、海辺に童子のゐる絵を描かれました。私はその時、月下美人と云ふ尺八寸位の大きさの絹本に、勾欄のところに美人がゐる絵を描いて出しました。それが、一等褒状になりましたが、春挙さんが、それを親類の方でほしいと云ふので、私の方へゆづつてくれと云はれて、持つて行つた事があります。これは春挙さんのところへ行つてゐるのです。その後、どうなりましたかわかりませんが、それは明治二十五、六年の頃だつたとおもひます。
何しろ纒つた話もなく、問はれるままに思ひ出を語つてみました。(昭和九年)
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今年八つの一郎さんと、六つのたえ子さんとを、気だての優しい婆やが、一人でお守りをしておりました。その婆やが或日のこと、お里へまいりました時、かわいいかわいいひばりの子を一つ袂のなかへ入れてかえりました。それを見ると、一郎さんが、
「おやっ!」
と云って婆やのそばへ駈けよりました。
「あらっ!」
とたえ子さんも駈け寄ってのぞきこみました。
婆やはあまり二人の声が大へんなので、あとずさりをしながらにこにこして、
「まあ、ま、そんなにおさわぎになってはいけません。これはね、婆やが今日、西田甫の細道をとおると、どこやらで、ちち、ちち、と可愛い声がしますから、ふりかえって見ますと、すぐ道端の積藁のかげに、こんな小さなひばりの子がひとつ、淋しそうにうずくまって鳴いておりました。あんまり淋しそうでしたし、こんなに可愛いでしょう、ですから婆やも急にほしくなって、そっと抱いて来てしまったのですよ。ですがまだ、生れたばかりの赤ちゃんですから、あんまりおさわぎになるとびっくりいたしますよ」と申しました。
子ひばりはまた、急に見知らぬお座敷へつれて来られましたので、おどおどして、ちいちゃい茶色のからだを婆やの袂の中へ中へともぐらせようとしてあせるのでした。
その様子がまた、何とも云えないほど可愛らしいので一郎さんが、
「僕それをね、あの籠へいれて育てようや」
とお遊び場の方へ走せて行きました。そうかと思うと、たえ子さんも、
「あたしも、あの袋を持って来るわ」
とあとから、続いてまいりました。
やがて一郎さんは去年の夏、きりぎりすを飼った空籠を持って、たえ子さんは、きしゃごのはいっていたちいちゃな糸網をさげて飛ぶようにして戻ってまいりました。そして、
「さ、婆や」
と両方から、一時にお手々が出てしまいました。
婆やは、はたと困ってしまいました。たった一つしかない子ひばりを、どちらへ渡してよいものやらわからなくなったからです。婆やは、まごまごしておりますと、
「さ、僕に」と一郎さんが急ぎますし、
「あたしによ」とたえ子さんがせまります。
「早くさあ」と一郎さんがつめよると、
「よう、あたしに」とたえ子さんが手を出します。
「僕におくれ」
「あたしに頂戴」
「いやだ!」
「いやよ!」
とうとう二人は云い争って、一度にどっと泣き出してしまいました。泣き出しながらも、なお一生懸命に、たった一つのひばりの子を、争い合うのを止めません。日頃なかのよい兄妹がこのありさまですから、婆やはますますあわててしまいました。
その時、ちょうどそこへ、お母様がお見えになりました。婆やは大助りの思いで、お母様にこのわけを申し上げました。お母様は、お母様がふいにお出でになったので、びっくりして、ばったり泣きやんで、ぼんやりとしている二人を、しばらく見くらべていらっしゃいましたが、やがて婆やの袂のなかをのぞきこんで、しきりに子ひばりをお眺めになりました。子ひばりはすっかりあたりが静かになったのに安心してか、ごま粒のような眼をぱちぱちやりながら、頭を左右に振るのでした。
「お、お、お」
とそれをおいたわりになってからお母様は、
「だがね、これはまだ親のひばりのお乳をほしがっている赤ちゃんひばりですよ。誰のお手々でも育ちはしないのですよ」
とおっしゃいました。婆やもまた、
「さようでございますね、ですから、これは元の処へ置きに行ってやりましょう」
と申しますと、
「そうですとも、それがよい、それがよい、ね、一郎さん、たえ子さん」
とお母様は、優しく優しくおさとしになりました。一郎さんも、たえ子さんも、欲しい欲しいと思いつめていた心が、急にとけてしまいました。
「うん、返して来よう」
と一郎さんが機嫌よく云いますとたえ子さんも、
「それがいいわねえ」
とはっきり申しました。
それから間もなくでした。すみれや、たんぽぽが咲き乱れて、お日様の光がのどかに照りわたった西田甫の畔道に、子ひばりを抱いた婆やのあとから、睦しく声をそろえて唱歌をうたいながら行く一郎さんとたえ子さんの姿が見えました。
あくる朝、二人がふっと眼を覚しますと、枕元に、一郎さんの方のには真白な大きなごむ鞠が、たえ子さんの方にはそれより少し小さくて、絹の色糸でかがったきれいなきれいな鞠が一つずつ置かれてありました。二人は驚いて、眼をぱちぱちしておりますと、婆やが参りまして、
「この鞠はね、よく子ひばりをお返し下さいましたと云って親のひばりがお二人に置いてまいったのですよ」
と云って笑っておりましたが、やがてまた、
「ほんとうはね、お母様が、子ひばりの代りにといって、昨日お二人ともお聞きわけがよかったので御褒美に下さいましたのでございますよ、あとでお礼をおっしゃりあそばせ」
と申しました。
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Medium
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汽車の旅をして、いちばん愉しいことは、窓にもたれて、ぼんやりと流れてゆく風景を眺めていることである。
いろいろの形をした山の移り変りや、河の曲折などを眺めていると、何がなし有難い気持ちになって、熱いものを感じるのである。
ふっと、一瞬にして通りすぎた谷間の朽ちた懸け橋に、紅い蔦が緋の紐のように絡みついているのを見て、瞬時に、ある絵の構図を掴んだり、古戦場を通りかかって、そこに白々と建っている標柱に、何のそれがし戦死のところ、とか、東軍西軍の激戦地とかの文字を読んで、つわものどもの夢の跡を偲んだりするのは無限の愉しみである。
汽車に乗ると、すぐ窓辺にもたれて、窓外の風景へ想いをはしらすわたくしは――実は車内の、ごたごたした雰囲気に接するのを厭うためででもあった。
汽車の中は、ひとつの人生の縮図であり、そこにはいろいろ社会の相が展開されているので、それらの相を仔細に眺めていると、いろいろと仕事のほうにも役立つ参考になるものがあるのであるが、わたくしには、ときたまに見受ける公徳心を失った、無礼な乗客の姿に接することが、たまらなく厭おしいので、そういうものをみて、自分の心をいためることのいやさから、自然に窓の外へと、自分の眸を転じてしまう癖がついてしまったのである。
窓外の風景には、自分の心をいためるものは一つもない。そこにあるのは、いずれも、自分の心を慰め柔げてくれる風景ばかりである。
ところが、わたくしは偶然にも、真珠のような美しいものを一昨年の秋、上京の途上にその車中で眺めたのである。あとにも先にも、わたくしは車中で、このような美しいものを感じたことは一度もない。それは、幼い児を抱いた、若い洋装の母の姿であり、その妹の姿であり、その幼児のあどけない姿であった。
汽車が京都駅を発ってしばらくしてからのことであった。逢坂トンネルを抜けて、ひろびろとした琵琶の湖を眺めていると、近くで、優しい声がして、赤ン坊に何か言っているのが聞えて来たので、わたくしは、その声に何気なく振り返ると、ちょうどわたくしの座席と反対側の座席に、洋装の美しい若い女が、可愛い誕生前後とおぼしい幼児を抱えて、何か言っている姿が眼にうつった。
わたくしは、その姿を一眼みるなり、思わず、ほう……と、呟いた。その母親(おそらく二十二、三であったであろう)の洗練された美しさもさることながら、その向いに坐っている妹さんらしい人の美しさにも、
「よくも、このように揃った姉妹があったもの」
と、内心おどろきに似たものを感じざるを得ないほどであった。
姉妹とも洋装で、髪はもちろん洋髪であった。
近頃、若い女の間に、その尊い髪に電気をあてて、わざわざ雀の巣のように、あたら髪を縮らすことが流行して、わたくしなどの目には、いささかの美的情感も催さないのであるが、この姉妹の髪の、洋髪でありながら、なんという日本美に溢れていることか……
くしゃくしゃの電髪に懼れをなしていたわたくしであっただけに、洋髪にも、こういう日本美の型が編み出せるものかと、新しい日本美でも発見したように、わたくしはおどろきおどろき眸を睜ってしまったのである。
この姉妹は、額のところに、少しばかりアイロンをかけて、髪を渦巻にしているほか、あとはすらりと項のところへ、黒髪を垂らし、髪のすそを、ふっくらと裏にまげていた。
こういう新しい型の髪が、心ある美容師によって考案されたのであろうが、姉の顔立ちと言い、妹の顔立ちと言い、横から眺めていると、天平時代の上﨟をみている感じで、とても清楚な趣きを示しているのであった。
色の白い、顔立ちのよく整った、この二人の姉妹は、そのまま昔の彫刻をみている思いであった。
「洋髪でも、これくらい日本美を立派に取り入れた、これくらい気品のあるものなら、自分も描いてみたいものである」
わたくしは、そう思うと、そっと小さなスケッチ帳を取り出して、こっそり写生した。
わたくしは、汽車の中で、現代の女性を写生しながら、心は天平時代の女人の姿を描いているのであった。
なにごとも工夫ひとつで――むしゃむしゃの電髪も、このように「日本美」というものを根底に置いて考えれば、実に立派な美的な髪が生まれるのである。
ひと頃のように、何でもかでも、新しい欧米風でさえあれば……それが、そのまま取り入れられて「新しい」とされていた悪夢から醒めて、戦争以後の日本の女性にも、ようやく日本美こそ、われわれにとって、まことの美であることに気づき、美容師も客も、協力して新時代の日本美を、その髪の上にも創り出そうという兆しの現われを、わたくしは、この姉妹の女性の上に見てとって、ほのぼのとした悦びを感じたのであった。
若い母親の膝にいる幼児もまた、母親のやさしさが伝えられて、実に可愛い顔をしていた。
わたくしは、スケッチを、その姉妹から、幼児にむけた。
幼児は、わたくしを見ながら、にこにこと笑っていた。
何かやはり相通じるものがあるのであろう……幼児は東京へ着くまで、わたくしのいい相手になってくれて、わたくしは、いつになく楽しい汽車の旅を味わうことが出来たのである。好きな窓外風景も、この旅行には、とんと御無沙汰してしまって……
わたくしは、このあどけない幼児に別れるとき、ひそかに祈ったのである。
「よい日本の子となって下さい。あなたのお母様や叔母様は、立派に日本の土にしっかりと立っていなさる方であるから、お母様や叔母様を見ならってゆきさえすればきっと立派な日本の子となれるでしょうから」
わたくしは、今もあのときの姉妹の髪と色白の横顔とが忘れられない。
わたくしは、天平の上﨟を思うたびに、あのお二人を憶い出し、あの姉妹を思うたびに天平時代の女人を憶い出すのである。
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町からはなれて、街道の片ほとりに一軒の鍛冶屋がありました。朝は早くから、夜はおそくまで、主人は、仕事場にすわってはたらいていました。前を通る顔なじみの村人は、声をかけていったものです。
長かった夏も去って、いつしか秋になりました。林の木々は色づいて、日の光は、だんだん弱くなりました。そして枯れかかった葉が思い出したように、ほろほろと、こずえから落ちて、空に舞ったのであります。
もうこのころになると、この地方では、いつあらしとなり、あられが降ってくるかしれません。百姓は、せっせと畠に出て、穫りいれを急いでいました。鍛冶屋の主人は、仕事の間には、手をやすめて、あちらの畠や、こちらの畠の方をながめたのです。そして、天気がよく、ほこほことして、あたたかそうに、秋の日が平和に、林の上や、とび色に香った地の上を照らしているときは、なんとなく、自分の気までひきたって、のびのびとしましたが、いつになく曇って、うす寒い風が吹くと、これからやってくる冬のことなど考えられて、ものうかったのです。
ある日の晩方から、急にあらしがつのりはじめました。落ち葉は、ちょうど、ふいごを鳴らすと飛ぶ火の子のように、空を駆けて、ばらばらと雨まじりの風とともに、空へ吹きつけたのでした。
「いよいよ、このようすだと、二、三日うちには雪になりそうだ。」と、主人は、独り言をしました。
女房は、勝手もとで、用をしていましたが、彼は暗い奥の方をわざわざ向いて、
「晩には、雪が降るかもしれないから、みんな外に出ているものは、取りいれろや。」と、大きな声でいって、注意をしたのでした。
彼は、やがて、女房と二人で、そこそこに夕飯をすましました。ふたたび、仕事場にもどって、鉄槌で、コツコツと赤く焼けた鉄を金床の上でたたいていました。戸の外では、あらしがすさんでいます。彼は、思わず、その手をやめて、あらしの音に聞きとれたのでした。
このとき、戸の外で、だれか呼びかける声がしました。
だれだろう? この暗い、あらしの晩に、しかも、いまごろになって声をかけるのは……と、主人は考えました。きっと、村の人が、なにか用事があっておそくなり、そして、いま帰るのだろう……と、こう思って、彼は、立って雨戸を細めにあけて、のぞいたのです。
戸のすきまから、ランプの光が暗い外へ流れ出ました。そこには、まったく見知らない男が立っていた。主人は、目をみはりました。すると、その男は、
「私は、旅のものですが、知らぬ道を歩いて、日が暮れ、このあらしに難儀をしています。宿屋のあるところへ出たいと思いますが、町へは、まだ遠いでございましょうか?」と、たずねました。
主人は、その知らぬ男のようすをしみじみと見ましたが、まだ、それは若者でありました。どう見ても、ほんとうに、困っているように見られたのです。
「それは、お気の毒なことです。まあ、すこしこちらへはいって休んでから、おゆきなさい。」と、人のよい主人はいいました。
若者は、喜んで、あらしに吹かれてぬれた体を、家の内へいれました。この若者も、性質は、善良ですなおなところがあるとみえて、二人は、やがて打ち解けて話をしたのであります。
「私は、事業に失敗をして、いまさら故郷へは帰れません。私の故郷は、ここから遠うございます。どこかへ出かせぎでもして、身を立てたいと思って、あてもなく、やってきたのです。」と、若者は、いいました。
鍛冶屋の主人は、それは、あまりに無謀なことだと思ったが、すべて、成功をするには、これほどの冒険と勇気が、なければならぬとも考えられたのでした。
「それで、これから、どこへいきなさるつもりですか。」とたずねました。
「私は、北海道に知人がありますので、そこへ頼っていきたいと思います。しかし、それにしては、すこし旅費が足りません。それで、死んだ父の形見ですが、ここに時計を持っています。いい時計で、父も大事にしていたのでした。これを町へいったら、手ばなして、金にしたいと思っています……。」と、いうようなことを、若者は、話しました。
主人は、なんとなく、この知らぬ旅人の正直そうなところに、同情を寄せるようになりました。
「どれ、どんな時計ですか?」といった。
若者は、時計を出して、主人に見せました。小型の銀側時計で、銀のくさりがついて、それに赤銅でつくられたかざりの磁石が、別にぶらさがっていたのでした。その磁石の裏は、般若の面になっています。
「なるほど、いい音だ。これなら、機械は、たしかだろう……。」
「まだ、その時計にかぎって、機械の狂ったことを知りません。」
「すこしくらいなら、私が、ご用立てをしましょう。そのかわり、いつでもこの時計は、あなたにお返しいたします。町へいって、お売りになるのなら、それくらいの金で、私が、おあずかりしてもいいですよ。」と、主人は答えました。
若者は、どんなに、うれしく思ったかしれない。じつは、ここへくるまでに、他国の町で見せたことがあった。しかし、あまり安かったので売る気になれなかったのですが、若者は、そのことも打ち明けました。すると鍛冶屋の主人は、
「その値に、もうその値の半分も出したら、どうですか?」といった。
若者はよろこんで、それなら北海道へゆくのに余るほどだといって、主人に時計を買ってもらうことにしたのでした。
「これは、あなたのお父さんの形見だ。いつでも、ご入用のときは、さし上げた金だけかえしてくだされば、時計をおかえしいたします。」と、主人は、重ねていいました。
戸の外には、あらしが、叫んでいました。つるしたランプが、ぐらぐらとゆらぐほどでありました。若者は、厚く礼をのべて、教えられた方角へ、町を指してゆくべく、ふたたび、あらしの吹きすさむ闇の中へ出て、去ったのであります。その後を、しばらく主人は、だまって見送っていました。
二
いつしか、二十余年の月日はたちました。
空の色のよくすみわたった、秋の日の午後であります。一人の旅人が、町の方を見かえりながら、街道を歩いて、村の方へきかかりました。田は、黄金色に色づいていました。小川の水は、さらさらとかがやいて、さびしそうな歌をうたって流れています。木々の葉は、紅くまた黄色にいろどられて、遠近の景色は絵を見るようでありました。
旅人は、道のかたわらにあった、木の切り株の上に腰をおろして休みました。そのとき、ちょうど町の方から、村の方へゆく乗合自動車が、白いほこりをあげて前を通ったのです。彼は、それを見ると、
「そうだ、二十年にもなるのだから、あの時分と変わったのも無理がない。」と、ひとりでいったのです。
この旅人は、ずっと以前に、あらしの晩、鍛冶屋の戸をたたいた若者でありました。あの後、北海道へゆき、それから、カムチャツカあたりまで出かせぎをして、いまは、北海道でりっぱな店を持っているのでありました。
「あの時計は、まだあるだろうかな。いろいろお世話になった。あのご恩は忘れられん。しかし、あの時計についている、磁石の般若の面は、子供の時分から父親の胸にすがって、見覚えのあるなつかしいものだ。いまも、あのかざりだけは目に残っている。よくお礼をいって、時計をかえしてもらいたいばかりにやってきたのだが……。」
こう旅人は、昔を思い出して、だれにいうとなくいいました。やがて、また街道を歩きながら、右を見、左を見て、あらしの晩にいれてもらった鍛冶屋をさがしたのであります。その晩は真っ暗でした。そして、すさまじい風の音につれて、ランプのゆれるのを見たのでした。それが、いまはこの村もすっかり電燈になっていました。
たしかに、ここと思うところに、一軒の鍛冶屋がありました。旅人は、その前に立って、しばらくためらい、胸をおどらして中へはいると、思った人は見えなくて、まだ若い息子らしい人が、仕事をしていたのです。
彼は、昔のことをこまごまとのべました。
「それで、ご主人にお目にかかって、お礼を申したいと思って、遠いところをやってきました。」と告げたのであります。すると、息子は、目をまるくして旅人をながめましたが、
「父はもう三、四年前に亡くなりました。」と答えた。これを聞いた旅人は、どんなに驚いたでしょう。
北海道から持ってきた、いろいろのみやげものをさし出して、あらしの夜の思い出などを語り、そして、あの時分、買っていただいた時計を、まだお持ちなさるなら、譲っていただきたいと思ってきたことなどを話したのであります。
「母親は、年をとって、それに、あいにくかぜをひいて、あちらに臥っていますが。」と、息子は答えて、奥へはいったが、やがて時計を持って出てまいりました。
「この時計でございますか?」
旅人は、なつかしそうにその時計を手に取り上げてながめました。息子は、
「私は、子供の時分、そのくさりについている般若の面をほしいといって、どれほど、父にせがんだかしれません。しかし、父は、これは大事なのだといって、ほかのものは、なんでも、私が頼めばくれたのに、その磁石だけは、どうしてもくれなかったが、なるほど、この時計に、そんな来歴があったのですか?」と、昔を思い出していいました。
旅人は、この話を聞いているうちに、自分が子供の時分、ちょうど、それと同じように、般若の面をほしがったことを思い出しました。そして、この小さな、一つの磁石によって、自分と息子とが、同じように父親に対して、なつかしい記憶のあることをふしぎに思い、なんということなく、この人生に通ずる一種のあわれさを感じたのでありました。
「いくら、昔を思い出しても、なつかしいと思う父親は、もう帰ってきません。せっかく遠方からおいでなさいましたのですから、どうか、この時計をお持ちください。」と、息子がいいました。旅人は、その言葉をしみじみ悲しく身に感じました。
「形見の時計は、手にもどっても、自分の父親とてもふたたびこの世に帰るものでない。自分は、愚かしくも昔の夢をとりかえそうと思っていたのだ。そればかりか、息子の夢をも破ってしまおうとした。この時計などは、あのカムチャツカの雪の中にうもれてしまったものと思っていればよかったのである……。」こう考えると、もうその時計を取りかえす気にはなれませんでした。それから、二人はいろいろと話をして、またたがいに会う日を心に期しながら、別れたのであります。
| 0.378
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Medium
| 0.575
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| 4,300
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Xが3.6%に認められた
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Easy
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「文芸」所載の貴作『断層』について、「テアトロ」から何か感想を書けといふ註文ですが、僕はあれを草稿の時分に読んで聞かせていただいたきり、まだ活字になつたのを拝見してゐませんから、その後手をお入れになつた部分について――つまりその部分を含めて、全体の意見を述べることはできません。
しかし、あの草稿を仮に決定的なものとして、その印象を今ここで公に云々することはどうでありませうか? 僕には、それが聊か危険に思はれだしたのです。何故なら、ここをかう直したと伺つた二三の個所についてさへ率直に云へば、やや遺憾に思はれる節があるからです。
しかし、それはそれとして、恐らく、最初の感銘は、本質的にこの作品の一貫した精神からは抜け去つてゐないことを信じます。
僕はある文学的作品の価値を、作家の人間的な味ひとその才能の最も研ぎ澄まされた状態から判断するのを常とし、人格の分裂と対峙、その摩擦と相剋の中にのみ、調和と混沌の美を、更に稟質と教養とが自から向ふところの興味を捉へ、燃え上る何ものかに総てを托したといふやうな表現のうちに、最も作家的な魂を発見して、所謂「芸術的な」悦びを感じるのです。
戯曲は戯曲であるが故にのみ僕には面白い。これに盛られた思想などといふものは、それが独創的なものでない限り、しかも予めレッテルが貼られてゐては、なほさら、一向僕には魅力がありません。それ故、マルクス主義の作品と聞いただけで、実は今まで、おほかた敬遠してゐたといふことは、嘗て君にも告白した通りであります。
が、それは決して、一人の作家がある思想、ある主義を奉じてゐるから、その作品が面白くないといふことにはなりません。彼が文学的行動を取るに際して、自己批判の名にかくれて、全人格の赤裸々な表現を憚る卑怯さ、政治的なる口実の下に、修正され、装飾され、従つて、他所行きになつた自分自身の厚かましい押売り、さういふものが、作品を通じて、われわれのモラルではなく寧ろ神経を、趣味といふよりは寧ろ感覚そのものを絶えず焦ら立たせるからです。
一度過ちを犯した人間が、その過ちを「清算」しさへすれば、今度は、もうどんな過ちも犯さない人間になるやうな錯覚を、誰が承認できるでせう。「ああでなかつたからきつとかうだ」と単純に云ひ切れるやうな人物を僕は警戒します。「神聖な目的」を振りかざして、自分を赦すことのあの寛大さは、凡そ文学の精神からは遠いものであります。如何なる信念もそんなところからは生れないといふ信念は、僕を一見懐疑的にしてゐます。しかし、廻り道でも、僕はこの最後の信念から出発するつもりです。
久板君、君の今度の作品――僕は外のものはまだ読んでゐません――は、少くとも活字になる前までは、君の人間的な姿が、芸術家としての熱情が、ところどころ素晴らしい閃光となつて僕の心を搏ちました。構成の緻密さや、観察の豊富さは、勿論この作品の血となり肉となつてゐますが、何よりも、君の眼が澄んでゐました。聡明な額が感じられました。思ひ上つた力み返りがない。憤りはあつても、それを見せびらかさず、時折は、ああ見えて、内心はさぞ堪へられないくらゐだらうといふ底深い悩みが漂つてゐます。これはよほどのことではありますまいか。
僕は、もう、この作品を現在のレヴェルからいつて、無条件に傑作の部類に入れることを躊躇しませんでした。
僕は君の立場をよく承知してゐる関係上、故らこんなことは申したくないのですが、芸術の畑に於て、一つの才能がどういふ風に伸び育つかといふ甚だ示唆に富む例をここに見たのです。そして、君の芸術家としての成長は、同時に、「人間」としての輝やかしい発展であり、君の思想と、全行動の確乎たる「力」たるに相違ないことを僕は断言します。
プロレタリヤ演劇も、優れた演劇であることを知らしめるのは、多分これからではないでせうか?
僕は、如何なる才能の前にも、それが僕にとつて魅力である限り、わけなく頭を下げる人間です。少くとも君にそれがわかつてもらへれば、われわれは「あるところまで」手を繋いで、愉快に仕事ができると思ひます。
最後に、村山君の演出による新協劇団の舞台を、刮目期待してゐます。(一九三五・一一)
| 0.679
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Hard
| 0.622
| 0.221
| 0.171
| 1
| 1,750
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Xが何とも胸に痛い
| 0.183167
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Easy
| 0.146533
| 0.16485
| 0.128217
| 0.1099
| 9
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一 沼村
面白かりしは、房州に於ける一夏。指を屈すれば、凡そ二た昔となりぬ。一行の盟主ともいふべき佐々木高美氏は、既に世に在らず。同行者の中、今は海軍將校となれるもあり、工學士となれるもあり、理學士となれるもあり、中學教員となれるもあり。當時はいづれも血氣盛りの青年なりき。
館山の町つゞきなる沼村に、二階が一間、下が二間なる家を借り、飯だけは、家主にたいてもらひ、餘は一切、各自交代して之を辨じぬ。同じく寓するもの、少なき時は三四人となり、多き時は十人にも及べり。その多くなりたる時は、枕足らず。トランプの勝負によりて、枕の有無を定めしこともあり。日暮れぬさきより、早く枕を懷ろにせるもあり。時に腕力に訴へて、枕の奪ひあひをせしこともありき。
毎日、海水に泳ぐのみにては足れりとせず。舟をうけて、沖ノ島や、高ノ島に遊び、汐入川に網うち、小川をかへぼししたり、すくひたりして、小魚を漁る。日がへりの遠足は度々したりしが、二三日かけて旅せしこともあり。雨ふれば、トランプに日をくらす。なほあかずして、海に盥舟までうけて遊ぶ。かくて、ひと夏は、夢のうちに過ぎぬ。
二 鏡ヶ浦
宮は安房神社、官幣大社にして、天太玉命を祀る。寺は那古の觀音、船形觀音。本織村の延命寺には、里見氏累代の墓あり。白濱の杖珠院にも、里見氏の墓あり。鹽見村の龍伏の松、千年の老幹偃蹇して、ひろさ百坪に及ぶ。元名の覇王樹、高さ一丈にあまる。いづれも稀代の珍也。
洲ノ崎を左にし、大武岬を右にせる一大灣を館山灣と稱し、又鏡ヶ浦と稱す。浪はおだやかなり。遠淺にして水清く、最も海水浴に適す。八幡の濱邊には、松林つゞきて、逍遙するに快し。この一帶の濱邊より海をへだてて富士山を望むの景色は、われ幾たび見ても、飽くことを知らざりき。
三 清澄山
同寓者四人のみの時に、瀬戸氏に留守番を頼みて、藤井、生駒二氏と共に、房州を一周せしことあり。朝、沼村の宿を出で、神餘、瀧口を經て、白濱に到る。大盤石のひろがりて、海につき出でたる處を野島崎と稱す。燈臺あり。浪あらくして、景致雄壯也。杖珠院に、里見氏の祖、義實の墓を弔ひ、七浦を過ぎて、白須賀の濱邊に來りし頃は、既に夜もふけたり。この行、露宿するつもりなりしかば、蚊の防禦にとて、蚊帳を携へたるが、この濱邊をそれと定めて、砂上に寢ころぶ。萬里の波上、たゞ一痕の明月を見る。蚊は、一匹も居らず。天涯より吹き來る風、凉しさの度を越して冷やかなるに、蚊帳を布團にかへて、すや〳〵眠りぬ。顏のかゆく、また痛きに、目をさませば、蟹の横行せる也。蟹にさめしは、我れのみならず、他の二氏も同樣也。一たび覺めては、またとは眠られず、冷氣身にしむ。時計を見れば、まだ午前三時すぎなれども、むしろ歩きて暖を取らむと發足しぬ。
海岸をつたひ〳〵て、小湊にいたる。こゝは、安房の最東端也。巨刹あり、誕生寺といふ。寺の名の示すが如く、日蓮の誕生したる處也。寺は、山を負ひ、山門怒濤に俯す。景勝雄拔、日蓮の英風と呼應して、山川に靈あるを覺えぬ。
天津まで戻り、左折して清澄山に上る。天津より凡そ一里、頂上に清澄寺あり。老樹しげる。こゝは、日蓮の少時修業せし處也。旅店もあり。一泊す。『明日の行先』は『保田』、『昨夜のとまり』は、まさか野宿とも記しかねて、よい加減に、地名と旅店の名とをかきたるは、われまだ年若かりき。
四 鋸山
あくる朝、寺を過ぎて、上ること七八町、最高峯の頂に至りしが、生憎雨にて、眺望を縱まゝにするを得ざりき。清澄山より天津を經て保田に至るの路、凡そ十里、安房の最北端に一貫して、一方は、東海岸に達し、一方は西海岸に達す。安房、上總の境をなせる鋸、清澄一帶の連山の麓を通ることなれば、路は平ら也。
日暮るゝ頃、保田に達しぬ。一昨夜は野宿し、昨夜は人並に宿にとまりたれば、今夜は一風かへて山上の寺にやどからむとて、路傍の茅店に晩食し、提燈かりて、夜鋸山を攀づ。寺のありかが分りかねて、あちこち騷ぎまはる程に、いが栗頭の坊主の來たるに逢ふ。『この夜ふかきに人聲は何事ぞと怪しみて出で來れるなり』といふ。宿からむことを乞へば、われらの服裝を諦視すること、やゝしばし、『着るに布團なく、食ふに物なきを承知ならば、やどられよ』とて、われらを一室に導きぬ。ふすまを見れば、梁川星巖の詩が書かれたり。その詩に曰く、
流丹萬丈削芙蓉。寺在磅※(石+溏のつくり)第幾重。卷地黒風來海角。有時微雨變山容。
三千世界歸孤掌。五百仙人共一峯。怪得殘雲挾腥氣。老僧夜降石潭龍。
五 富山
朝、起き出でて、寺の庭より眺むるに、東京灣を見下し、更に外洋に及ぶ。洲ノ崎も見え、大武岬も見ゆ。烟を吐く大島も見ゆ。庭に石あり、龜に似たり。龜石と名づく。かれこれする程に、六時になりければ、寺を辭し、五百の石羅漢を顧みつゝ、上りて十州眺望臺にいたる。昨日の朝の雨にひきかへて、今日は晴天也。脚下に關八州を見わたして、快甚だし。
下りて、天然の石をそのまゝに刻みたる大佛を見上げ、なほ下りて海岸に出でて、猫石を見る。前夜の茅店に至りて提燈をかへし、午食す。生駒氏は、昨夜、山路によわり、『下らむ』と云ひしが、さま〴〵に勵まして、漸く寺までつれゆきたり。今日は、歩くがいやなりとて、保田より汽船に乘らむとせしが、二番船出でずといふに、已むを得ず、われらと共に歩きぬ。吉濱、勝山を經て、檢儀谷原といふ處にいたりて、終に袂を分つ。生駒氏は、直ちに沼村にかへらむとする也。われら二人は、迂路して、富山を攀ぢむとする也。
富山、犬掛、瀧田、白濱、神餘、洲ノ崎の名前は、八犬傳によりて、夙に我耳に熟せり。われ想像すらく、富山は、八犬傳にしるしゝが如くならずとも、孤立せずして、峯巒かさなるべし、樹木が繁かるべし、大ならずとも、谷川はあるべしと。現に見てその意外なるに驚きぬ。われ二部村より富山に上りて合戸村に下りぬ。上下、あはせて、一里に過ぎず。孤立せる山也、樹木なき山也。谷川らしきものは、一つもなき山也。頂上、二つにわかれ、一は高く、一は低し。高きを金比羅山といふ。測量の三角點あり。四方の眺望開けたり。安房一國を脚下に見下す。東西南の三方は、遠く海を望む。北に當りて、伊豫ヶ嶽、山骨を露はして、大鵬の將に飛ばむとするが如し。低きを觀音山といふ。觀音堂あり。全山の中たゞこゝのみに、少しばかり木立あり、井戸さへありて、人住めり。この山、高さわづかに千餘尺なるも、房總の間にては、高山のうち也。館山灣より北にあたりて、眼に見ゆる群山の中にて、最も高く、頂上のとがりて見ゆるは、即ち、この富山なり。
犬掛、瀧田、北條、館山を經て、沼村の宿にかへりしは、夜の十一時なりき。
六 人力車との競爭
余等は、今房州を去らむとする也。
瀬戸、生駒二氏は、汽船にて、直ちに東京にかへらむとす。他の八人は、木更津まで陸行し、鋸山に一泊し、鹿野山にも、亦一泊せむとする也。その八人の中にても、車にのるもの二人、盟主の佐々木高美氏と中村久弘氏と也。あとの六人は徒歩す。徒歩するものも、亦二組にわかる。佐々木高志氏、伊藤正弘氏、千頭直雄氏、中村岩馬氏は、先づ發す。藤井久萬三氏と余とは、人力車と同時に發す。余等二人は、ひそかに脚力の強きを恃める也。
午前六時半、四人の徒歩組は先づ發しぬ。九時に至りて、人力、徒歩の混成隊も發しぬ。二人の汽船組は、やがて後より發する也。
路を那古に取り、木根峠を越え、勝山、保田を經て、鋸山に上らむとす。われら二人、時には人車に先んじ、時にはおくる。菅笠を戴き、絲楯を負ふ。學生とは見えぬ風體也。車夫、佐々木氏にさゝやきて曰く、『旦那樣のおつれは、東京の人が東京にかへるにはあらで、田舍の人が東京へ上るやうなり』と。
午後四時頃、鋸山の入口に達し、こゝにて、佐々木氏も、中村氏も、人力車より下りて徒歩す。上ること八町にして、日本寺に達す。これ前日余等三人の來り宿せし所也。
七 鹿野山
あくる朝、寺を辭して山を下り、旅店について朝食し、一同つれだちて歩みぬ。路は海に沿ふ。金谷を過ぎて、竹岡に至るまでの間、浪最もあらし、その巖に碎けて散るさま、甚だ壯觀也。
湊川をわたり、湊村より右折し、和合地を經て、鬼涙山を攀ぢ、終に鹿野山に達す。この山、高さ千五百尺、これが房總第一の高山也。品川より海をへだてて、總房の方を見わたすに、山最も大にして高く見ゆるは、即ちこの鹿野山也。丸屋といふに投宿す。
日くるゝには、まだ程あれば、出でて散歩す。山頂は二段になりて平かに、東西に長し。宿屋は上の段に集まれり。こゝを上町と稱す。東にゆけば、上町の盡きむとする處に、宏壯なる寺あり。神野寺といふ。傳ふこれ聖徳太子の草創にして、元仁年間見眞大師も錫をこゝに留めしことありて、自作の肖像を殘せりと。老杉しげりて、古色一層掬すべし。
一段下れば農樵の家あり。こゝを下町と稱す。こゝを過ぎて、なほ東に行き、高峯を左に見て、右に入れば芝生あり。其端に立ちて望めば、群山遠く重なりあひて、其のつくる處を知らず。清澄山も、その中にあるべし。こゝを九十九谷と稱するは、見わたさるゝ谷の多きをさす也。一大壯觀也。
高峯には、三百級の石磴ありて通じ、全體に老杉しげる。上に白鳥神社あり。日本武尊を祀る。品川灣より鹿野山を望むに、連亙せる山上に、ぴよこんと、獨りつき出でて、尖りて最も高く見ゆるは、即ちこの白鳥神社のある處也。
宿の座敷よりの眺望太だ好し。東京灣、近く一大明鏡をひらき、關八州の野、遠く蒼茫たり。富士も見ゆ。關八州の山々は、すべて、雙眸に入る。眞に天下の壯觀也。
旅の宿は、今日限り、明日は都門に入らむとす。名殘りに、飮めや歌へや騷げやとて、興に乘じて夜のふくるを知らざりき。
山の低きにもよれど、山上に村ありて、旅館まで多きは、他に其比稀れ也。眺望の雄大なるは、筑波山と相竝びて、關東の雙璧と云ふべし。(明治四十二年)
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1粒にレモン1個分のビタミンCと、13種類のハーブエキスを配合しました
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今春、思いがけない大雪が降って、都下全体交通ストップ、自動車などは一夜に皆エンコして一歩も前進できない因果な時、拙作陶の展示会を催すことになった。この大雪では誰一人見る人はなかろうと悲観していたが、意外! 数百人の目で拙作は静かに見おろされた。
私の作品は例の如く勝手気儘で、どんどん移りゆく現実の世界に解されていこうなどとは、てんで望んではいない。私が切望しているのは、どうか自分の柄にあったことを一途にしていきたいというだけなのである。だから現代のグループには干与しない。恰もスネ者のように独歩している。気に入らない過去を見ては創り直すことに少しもひるむ者ではない。伝統に打たれることも多々あるが、伝統と乳兄弟になっても双子になりたくない。さりとてケンカ別れもしたくない。生活に合法と言われる西洋建築の美の如きはコーヒー茶碗ぐらいにしか私は認めない。それより生活に不合理と言われている空間だらけ、ムダだらけの床の間を持つ古典日本建築に生甲斐を感じる、有数の抹茶碗の持ち味に近い超道美をである。しかもこれだけで満足せず、これを如何に創り直すかが今後の仕事ではないかと考えている。この考えはどうやら及第であるらしい。
私は直接干与しないが、国立博物館か文部省かは知らないが、私の作品を諸方の持主から集めてフランス・パリにて催された日本陶器展に仲間入りされたとのこと。ところが私の作品が人気の中心であった如く評判されている。ピカソのいる陶器村でも志野八寸の如きは場中第一との賞賛を受けたといわれる。
私からすればフランスの目も甘いものだと思っているが、イタリアでも感動しているらしい。イサムノグチが語るところも、私の作品がニューヨーク、ワシントンなどで評判だとある。現につい先日東京でのダイジェスト日本陶器展で私のやや大作長方鉢をリッジウェイ大将夫人が目にとめて持ち帰られたという。これでみると、日本陶器に於ても勝手気儘の挙措に出た人間の自由思想が世界的に感動を受けるものであることを物語っているかである。即ち芸術の力こそ人種を超え、国籍を問題にせず、相抱いて楽しみを共にし、共に生きる道を発見するものなのであることを今更の如く感ずる。各自個性に生きることだ。
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美味い湯豆腐を食べようとするには、なんといっても豆腐のいいのを選ぶことが一番大切である。いかに薬味、醤油を吟味してかかっても、豆腐が不味ければ問題にならない。
そんなら、美味い豆腐はどこで求めたらいいか? ズバリ、京都である。
京都は古来水明で名高いところだけに、良水が豊富なため、いい豆腐ができる。また、京都人は精進料理など、金のかからぬ美食を求めることにおいて第一流である。そういうせいで、京都の豆腐は美味い。
一方、東京では、昔、笹乃雪などという名物の豆腐があった。これもよい井戸水のために、いい豆腐ができたのだが、今は場所も変わって、わずかに盛時の面影を偲ぶばかりだ。
東京は水の悪いことが原因してか、古来、豆腐の優れた製法が研究されていない。そんなわけで、昔も今も東京で美味い豆腐を食べることはまず不可能だ。それに、よい豆腐を美味く食うための第一条件であるいい昆布が、東京では素人の手に入りにくいから、なおさらむずかしい。
それなら、京都の豆腐は今なおどこでも美味いかというと、どっこい、そうはいかない。今日では水明の都でも、水道の水と変わり、豆をすることは電動化して、製品はすべて機械的になってしまったのみならず、経済的に粗悪な豆(満州大豆)を使うようになったりなどして、京都だからとて、美味い豆腐は食べられなくなってしまった。
ところが、わずかに一軒、京都の花街、縄手四条上ルところに、昔ながらの方法を遵奉して、よい豆腐をつくっている家があった。その家の豆腐のつくり方は秘法になっていて、うかがわんとしても、うかがえないことになっていた。ところが、私は運よくその家の主人の了解を得て、家伝の秘法を授けられることになった。おかげで、本家本元の豆腐に優るとも劣らぬ豆腐ができるようになった。それも一に、私の家に豆腐に適するすばらしい良水が湧出したためであった。
いかに京都で秘法を授かって来ても、良水を欠いたら、いい豆腐はできなかったであろう。残念ながら、縄手のこの店も、今はなくなってしまった。
良水に恵まれ、原料としての大豆を選択して、製法は飽くまでも機械にたよらず、人力で努力することによって、私もすばらしい豆腐をつくれるようになった。豆腐そのものがよいから、生の豆腐にいきなり生じょうゆをかけて食べても、実に美味い。あえて煮るまでもない。焼き豆腐はいうに及ばず、揚げ豆腐に拵えても、飛竜頭に拵えても、これが豆腐かと疑われるばかりに美味かった。湯豆腐に舌鼓を打って楽しまんとする人は、こんな豆腐を選ばなくてはならない。
嵯峨の釈迦堂付近、知恩院古門前、南禅寺あたりの豆腐も有名だが、いずれも要は良水と豆に恵まれたせいだろう。
湯豆腐をつくるには、次のような用意がいる。
一、土鍋 土鍋があれば一番よいが、なければ銀鍋、鉄鍋の類でもいい。その用意もなければ瀬戸引き、ニュームなどで我慢するほかはない。が、これらは感じも悪いし、煮え方がいらいらしておもしろくない。こんろか火鉢にかけてやる。
一、杉箸 湯豆腐を食べる箸は、塗箸や象牙箸のようなものでは豆腐をつまみ上げることができないから、杉箸にかぎる。すべらないので、豆腐が引き上げやすい。銀の網匙などがあれば充分である。
一、だし昆布 水の豊かに入った鍋の底に一、二枚敷いて、その上に豆腐を入れて煮る。昆布の長さ五、六寸。昆布は鍋に入れた場合、煮立ってくると湯玉で豆腐ののった昆布が持ち上げられる恐れがあるので、切れ目を入れておくようにする。
一、薬味 ねぎのみじん切り、ふきのとう、うど、ひねしょうがのおろしたもの、七味とうがらし、みょうがの花、ゆずの皮、山椒の粉など、こんな薬味がいろいろあるほうが風情があっていい。この中で欠くことのできないのはねぎだ。他のものは、そのときの都合と好みに任せていい。それからよく切れる鉋で、薄く削ったかつおぶし適量。食事する前に削るのが味もよく、香りもよい。
一、しょうゆ 上等品に越したことはない。しょうゆに豆腐をつける前に、先に述べたかつおぶしだの薬味を入れていい。豆腐には、敷いた昆布の味がついているから、おのずから味の調節がつく。なるべく化学調味料は加えないほうがいい。
一、豆腐(前記の通り)
なお、もともと東京人は美食知らずであるから、仔細に食を楽しむという人は極めて少ない。地方にだって、美食に恵まれた都市もあれば、町、村もある。志のある人は、諸地方の美食を参考にして、仔細に楽しまれるとよい。
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2つの質問をしてもよいですか。
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私は今湘南小田原の海岸近くに住んでゐるが、予期した通りの暖かさで、先日の大雪の日も、東京で無理をして品川からやつと電車を拾ひ、日が暮れて小田原の駅を降りると、驚いたことに、うつすらとしか雪の降つた形跡がない。
梅の花も熱海や湯河原より少しおくれるだけで、二月にはいるともう見頃はとうに過ぎて、城跡の公園は朝から霜どけの道に悩まされるくらゐである。
散歩の途中、住宅街の裏通りなどで、植込みのなかに夏蜜柑の黄に色づいたのを見かけると、土地に馴れない私は、つい、季節の錯覚に陥る。
この調子だと、今年は冬を知らずにしまひさうだ。贅沢な文句を言ふやうだが、その代り、たまに東京へ出ると、寒さが身に沁みて、なるほど、これが冬といふものかと、今更らしく感心してゐる。
医者の忠告で、去年の冬から寒い間だけ暖地を転々と歩いてゐるわけだが、かういふ生活にも少々飽きて来た。小田原は仮住居の不自由――例へば必要な書物を手許に揃へておけないこと――を除けば、たいへん住み心地がいゝ。気心の知れた人出入りも楽しみのひとつになつた。
はじめ私が小田原に眼をつけた因縁は、かつて詩人三好達治君がこの地に居を構へ、時をり自然の美しさ、穏やかさを私に漏らしたことがあつたからで、それを覚えてゐて、私が突然、小田原で家を探してくれる人はないかと、相談をもちかけたのである。三好君は困つたに違ひないが、早速、土地ッ子の歌人鈴木貫介君を私に紹介してくれた。
この鈴木君は大きな蜜柑山の主で、なかなかしつかりした歌は詠むが、借家のことには一向不案内であることがわかり、私は二重に悪いことをしたと思つた。
しかし、もう今では、そんな詫びを繰り返す必要もないほど親しい間柄になり、この間は、同君を生れてはじめての芝居見物に誘つた。
芝居といへば、この小田原には、北条秀司氏も数年間居たことがあるさうで、同氏の指導と庇護を受けたアマチュア劇団の人たちから懐旧談を聞かされることがある。言ひ漏らしてはならぬが、私の現在の住居は庭を隔てて西側に缶詰工場があり、その騒音と臭気が困りものだといへば困りものだが、会社側は工場長はじめ、たいへん礼儀正しく物わかりがよく、結局、こちらが我慢をするか、ほかへ移るかしなければ解決がつくまいと思はれる形勢である。かうなると、人権擁護といふこともなかなかむつかしい問題になる。
さて、私の健康もほゞ恢復したらしいので、ぼつぼつ仕事を始めるつもりでゐるが、まづ手始めに、文学座三月公演のゴーリキイ作「どん底」の演出を引受けることにした。かねて興味をもつてゐた「『どん底』の『明るさ』」といふテーマと、今取つ組んでゐる最中である。それにつけても、ゴーリキイがこの舞台のために撰んだ季節は早春である。この小田原などでは想像もつかぬ長い長い暗黒に閉された冬からの解放の季節である。私は、どうしても日本なら、私の大好きな山国の初春を想ひ出さずにはゐられない。
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二日酔いになっていませんかとスタッフがみんな心配しました
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世間、書を説く者は多いが、それは必ず技巧的にのみ観察したものであり、かつ、外見にのみ凝視することに殆ど決定的に偏している。すなわち、書家の書がそれである。ゆえに遠い昔はいざ知らず、近代では書家の書にうまい書があった例は皆無といってよい。全く書を専門に教える習字の先生から尊ぶべき書が生まれた試しはない。この一事実の現われは誰にとっても、うかうかと書家の教えを蒙る訳にはゆかない。
書家の書というのは、なぜそんなに価値がないか。書家の習字法は、なぜそんなに偏するか。それを一言にしていうならば、書家に芸術がないからという他はないのである。ついでながら美術もないからである。近い例としては市河米庵、巻菱湖、貫名海屋、長三洲、日下部鳴鶴、巌谷一六、吉田晩稼、金井金洞、村田海石、小野鵞堂、中林梧竹、永坂石埭等……みな芸術を解するところがないばかりでなく、美術を識らなかった。ために書道を誤認していた。従って後に遺るべき尊き書は生まれることがなかった。その中、辛うじて貫名海屋ひとりが若干実を識るのみであって、他はいずれも俗流で一時を鳴らしたに過ぎない。
習字の要訣というのは、俗書に陥らざる理解と用心が肝要である。
書に限らないが、書はすなわち、身につく所にまで進まなければならない。手につく所までは誰しも行くが、身につく所には大概至らないで終るものである。身につくというのは、稽古離れする時の出来栄えである。稽古離れということは、その先入主ともなるべき最初の心掛けが重き役目を勤める。(昭和九年)
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一
上等兵小野清作は、陸軍病院の手厚い治療で、腕の傷口もすっかりなおれば、このごろは義手を用いてなに不自由なく仕事ができるようになりました。ちょうどそのころ、兵免令が降ったので、彼はひとまず知り合いの家におちついて、いよいよ故郷へ帰ることにしたのであります。
胸の右につけられた、燦然として輝く戦傷徽章は、その戦功と名誉をあらわすものであると同時に、これを見る健全の人々は、この国家のために傷ついた勇士をいたわれという、温かい心のこもる貴いものでありました。どこへいくときにも、身につけよと、上官からいわれたのであるが、何事にも内気で、遠慮勝ちな清作さんは、同じ軍隊におって朝晩辛苦をともにした仲間で、死んだものもあれば、また、いまも前線にあって戦いつつある戦友のことを考えると、自分は武運つたなくして帰還しながら、なんで、これしきの戦傷を名誉として人に誇ることができようか、しかも戦争はなおつづけられているのだ。自分には、すこしもそんな気持ちがなくても、この徽章をつけていれば、あるいは人々にそうとられはしないかというとりこし苦労から、なるたけ外へ出るときにもこれをつけぬようにしていました。
しかし、今日は、故郷へ帰ることを申しあげに、靖国神社へお詣りをするのであります。清作上等兵は、軍服の威儀をただして、金色の徽章を胸につけ、堂々として宿を出かけたのでありました。
こうして見る清作さんは、じつにりっぱな軍人でした。だから町を通ると、男も女も振り向いて、その雄々しい姿をながめたのです。けれど中には、ぽかんとして、無表情な顔つきで見送るような、子供を背負った女もいました。
「世間の人たちは、勲章とでも思っているのかな。」
清作さんは、顔に微笑をうかべました。なぜ彼はそんなことを思ったでしょう。それは、この人たちの顔に、戦傷徽章に対しても、なんのかなしみの影が見えなかったからです。
このときあちらから、紳士ふうの若い男と、頭髪をカールして、美装した女の人がきかかり、やがて彼とすれちがったが、その人たちは、まんざら学問のない人とは思われなかったのに、やはり徽章には気のつかぬようなようすでいきすぎてしまいました。
「私は、いままであまり思いすぎていたようだ。」と、清作さんは、つぶやきました。なぜなら、世間は、戦争にたいして無関心なのか、それとも軍人が戦争にいって負傷をするのをあたりまえとでも思っているのか、どちらかのようにしか考えられなかったからでした。けれど人間であるうえは、同胞がこんな姿となったのを見て、なんとも心に感じないはずがあろうかと考えると、むらむらと義憤に燃えるのをどうすることもできませんでした。
「なに、いつの時代にもくさった人間というものはいるものだ。」
青々とした空をあおいで、深い呼吸をつづけました。
靖国神社の神殿の前へひざまずいて、清作さんは、低く頭をたれたときには、すでに討死して護国の英霊となった、戦友の気高い面影がありありと眼前にうかんできて、熱い涙が玉砂利の上にあふれ落ちるのを禁じえませんでした。この瞬間こそ、心が悲しみもなく、憤りもなく、自分の体じゅうが明るく、とうとく感ぜられて、このまま神の世界へのぼっていくのではないかとさえ思われたのであります。
お詣りをすますと、後に心をひかれながら、九段の坂を下りました。そして、町の停留場へきて電車をまっていました。身の周囲を見ても知らぬ人ばかりであったが、突然口ひげの生えた角顔の男の人が、彼の前へやってきて、ていねいに頭を下げました。
清作さんは、あまりだしぬけだったのと、その人の顔を見て、覚えがなかったので、びっくりしながら、たぶん人違いであろうと思いました。すると、その人は、
「ご苦労さまでした。どこをおけがなされましたか。」と、静かな調子で、たずねました。
「ああ、私の傷ですか、こちらの腕をやられました。」と、清作さんは左の腕を指しました。そして、よく戦傷徽章に目をつけて、たずねてくれたと、深く心に感謝しながら、じっとその人を見たのであります。
「おお、それは、この寒気に、傷口がお痛みになりはしませんか? 私は、若い時分シベリア戦役にいったものです。いまでも死んだ戦友のことや、負傷した友だちのことを片時もわすれることがありません。」
その老人の目はかがやき、言葉は熱をおびて、顔かたちにしみじみと真情があらわれていました。これをきくと、清作さんは、はじめて見るこの人にたいして、かぎりなき懐かしさと敬意を表せずにいられません。しぜんとその人の前に頭が下がるのを感じました。
ほどなく、電車がきたので乗ったけれど、停留場で見送る、老人の顔が、いつまでも頭に残りました。おりあしく、その電車は満員でした。彼は、右手でしっかりと釣り革にぶら下がっていたが、あちらへおされ、こちらへおされしなければなりませんでした。そして、こんなばあいに、これらの人たちが、彼の徽章に注意すると考えるこそ、まちがっていたのでありましょう。彼が、顔を赤くしてたおれまいとしたとき、
「兵隊さん、ここへおかけなさい。」という子供の声が、きこえました。見ると混雑した人をわけて立ち上がったのは、八、九歳ばかりのランドセルを負った二人の小学生でありました。
「やあ、ありがとうございます。」と、清作さんは、救われたような気がして、そこへ腰を下ろしました。そして、はじめて二人の子供を見ると、子供は、なにかいいたげに、清らかな瞳を人々の間から、こちらへむけているのでした。
「ああ、子供はいいな。」と、清作さんは、真に感動しました。
二
その晩のことでした。清作さんは、故郷へ帰る汽車の中にいたのであります。彼は、眠ろうとしても眠られず昼間のことなど思い出していました。
「そうだ。村の源吉さんもシベリア戦役にいって、片腕をもがれたのだった。あの時分、自分はまだ子供だったので、源吉さんが不具になって帰ってくると、おそろしがったものだ。自分ばかりでなく、ほかの子供たちも気味悪がってそばへいかなかったのだ。それにくらべると、このごろの子供は、なんというりこうで、やさしいことだろう。源吉さんは、みんなのため、戦争にいってきながら、寂しく、かわいそうだった。その後病気のため死んでしまったが、こんど帰ったら、お墓へお詣りをして、昔のおわびをしなければならぬ。」
夜中ごろ、汽車は山間にかかりました。山には雪がつもっていました。急に寒気がくわわって、忘れていた傷口がずきずきと痛み出しました。
「あの老人は、しんせつにも傷口が痛みはしませんかときいてくれたが……。」
清作さんは、自分よりは、もっと大きな負傷をしたり、また手術をうけたりした傷兵のことが、思い出されたのでした。あの人たちは、いまごろ、どこにどうして日を送っているだろうか。このごろの寒さに、傷口がひきつって、さぞ痛むことであろうと、案じられたのでありました。
清作さんが、村へ帰ると、さすがに村のものは、温かい心をもってむかえてくれました。そして、清作さんの喜びは、それだけではなかったのでした。みんなが今度の聖戦は、東洋永遠の平和のために、じゃまになるものは、いっさいをのぞくのであるから、簡単にいくわけがなく、戦線と銃後を問わず、心を一つにして、ともに苦しみ、相助け合い、最後の勝利を得るまでは、戦わなければならぬということを、よく知っているからでした。
自分の体でできることなら、清作さんは、どんな仕事でも喜んでする決心でありましたが、さいわいに、村の産業組合に適当な勤め口があって、採用されたので、いよいよこれから銃後にて、お国のために余生を捧げることにしたのです。
やがて、三月の季節となりました。春がこの村にも訪れてきたのであります。ある日、清作さんは、村の子供たちをつれて、帰ったら、かならずいこうと思っていた、源吉さんのお墓へお詣りをしました。そこは、小高い山でありました。
「さあ、これが話をした源吉さんのお墓だ。お国のためにつくした村の勇士だ。みんなよくお礼をいって拝みなさい。」
子供たちは、お墓の前にならんで、手を合わせて頭を下げました。南の方へゆるやかに傾斜して、陽のよく当たる丘のなかほどに、つばきの大きな木があって、赤い花が咲いていました。黄色な小鳥が、その枝にきて遊んでいたが、目を送ると、そのふもとの方には、わらぶきの家があって、三、四本の梅の木のつぼみが白くなりかけていました。
徐州、徐州と人馬は進む
徐州いよいか、住みよいか
と、子供らの中から、孝ちゃんが、ふいにうたい出した。清作さんは、これをきくと、きっと頭を上げて、思い出したように、
「そうだ。ちょうどもう二年前になるな。私はその徐州へ進軍する、列の中へ入っていたのだ。みんなここへおすわり。そのときのことを話してあげよう。」
「おじさん。戦争の話、どんな話?」
「いろいろ話があるが、思い出したから、まずその軍馬からだ。」
「軍馬?」
孝ちゃんと三ちゃんと、勇ちゃんと、武ちゃんは、清作さんを取り巻くようにして、枯れ草の上へすわりました。
「徐州へ進軍のときは、大雨の後だったので、たぶん僕たちの前に出発した馬だろう。足をすべらしたんだな、がけ下のどろ田の中へ落ちて、体を半分埋ずめながら、そこを列が通ると上を向いて鳴いていた。助けてやろうにも、ちょっと助けようがないのだ。それに先を急いでいるのでな。いっしょにここまできた友だちで、かわいそうに思ったが、頭を下げて、そこを通り過ぎてしまったよ。」
「かわいそうに、その馬どうなったろうか。」
「くにを出てから幾月ぞ、ともに死ぬ気でこの馬と、攻めて進んだ山や河……。ほんとうに、そうだった。みんなが馬を見返り、見返り、泣きながらいったよ。」
「僕たち、こんど慰問袋の中へ、お馬にやるものも入れて送らない?」と、孝ちゃんが、いうと、
「お馬には、図画や、つづりかたはわからないね。」と、小さな勇ちゃんがいったので、みんなが大笑いをしました。どこか遠くの方で鳴く鶏の声が、のどかにきこえてきました。
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ある人が、こんなことを言っていました。
先日文壇の大家の某氏にあったとき、談たまたま作品のことに及んだ折り、私はその作家の十五、六年前に問題になった小説のことを話題にして、
「こういう時局に、あの小説をお考え直しになると、あなたの作品中から抹殺したいお気持ちになりませんか」
ときいたところ、その大家は、
「とんでもない。あの作品は私の全作品中どれよりもすぐれた作で、今でもあれを書いたことを誇りとしていますよ」
と、こうぜんと言い放たれたそうです。
その作品というのは、当時、自由華やかな時代の作風で、とても今の時局には読み難いものなのでした。
しかし、その大家は、過去の作品だからと言って、自分の作を軽々には取り扱わず、却って、
「あれこそ、自分のもっとも会心の作」
であると言い切ったところに、この大家の偉さがあるのではないでしょうか。
ともすれば時局におもねって、
「あれはどうも……何しろ昔の作品ですからネ……」
などと空うそぶいている便乗作家の多い現代の中にあって、右の作家の態度こそ、
「さすがは、一時代の大家となる人」
と思わせるものがあります。
でも、ずっと以前の作が箱書に廻り、それが拙い絵であったりすると、
「これはどうも……何しろ若描きも若描き、まだ世の中へ出ないときの作ですから」
と言って箱書をしない人があるときいています。
さきの文壇の某大家の言と較べて、これほど自らを冒涜する言葉はないと思います。
画家――大家となっている人でも、その昔は拙い絵をかいていたのに違いありません。
素晴しい、大成の域に達した絵をかくには、それ相当の苦労は必要であり、幾春秋の撓まない精進が要る訳です。
生まれながらにして、完成された芸術を生むということはあり得ません。
してみれば、現在大家でも、そのむかし拙いもののあるのは当然のことで、少しも卑下するところはありません。
むしろ、その時代の幼稚な絵を大切にしてくれて箱書をもとめる人の気持ちを有難く受けとらねばなりますまい。
下手な時代は下手な時代なりに、一生懸命の努力をしている筈で、それはそれでいい筈です。
ことによると、大家となった現在よりも、火花を散らして描いたものかも知れないのです。
小松中納言として有名でした、のちの加賀百万石の大守前田利常公が、ある日近習の者の話をきいていられました。
近習のひとりの某が言いました。
「何々殿の息子の某はなかなかの才物で、年が若いに似ず四十歳くらいの才覚をもっている。あれは将来恐るべき仁になるに違いない」
すると利常公が、
「その者は今年いくつか」
と、きかれた。十八歳にございますと件の近習が答えると、利常公は、
「さてもさてもうつけな話かな。人はその年その年の分別才覚があってこそよきものを、十八歳にして四十歳の分別あるとは、予のとらざるところである。十八歳にして十三歳の分別しかなければ問題にしてもよきなるに、十八歳が四十歳の分別とは、さてさて困ったものじゃ」
利常公はそう言って、人間には、その時代その時代の年齢にあった力量こそ正しくもあり、人間として一番尊いものであることを近習にさとし――その十八歳の息子の取立てを断わられたという。
私はときどきそのことを憶って、
「さすがに加賀公はうまいことを申されたものである」
と、ひそかに感心するのでありました。
若い時の作品は、その年齢に適した絵であれば、それで十分に尊いものであるのです。
十五歳にして七十歳の老大家のような枯れた絵をかいたら、それこそおかしいし、そのような絵は、無価値であると言っていいのです。
私のところへも、ときどき若い頃の画の箱書が廻って参ります。
私は、そのころの時代をなつかしみながら、
「これはこれでええのや」
心の中でつぶやきながら、だまって箱に文字をかきつけています。
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標題のやうな意味の感想をもとめられた。私は文学にたづさはるものゝ一人として、むろん、多少の感想はないことはないが、それを今、なんのために、誰に向つて云ふべきであらう。元来、文学芸術の畑では、かゝる問題をかれこれ論議するものがないやうな状態が望ましく、少くとも個人としてこの種のことに必要以上の興味をもつなどは甚だ不可解だとさへ、私は信じてゐるのである。要するに、国家の恩典について専ら考慮をめぐらすべき地位にあるのは、ひとり政治家のみであつてほしいと、真面目な民衆は心に念じてゐるであらう。
しかしながら、現代の事情は、皮肉にも、この劃期的な新制度の運用について、民衆自身を安堵せしめない一面をもつてゐるのである。率直にいへば、今日まで、新国家建設の責任を負つて廟堂に立つたわが国の政治家たちが、他の部門はいざ知らず、文芸の領域だけを見ると、殆んどなんらのインテレストを示してゐなかつたことは明瞭であり、従つて、たとへ幾人にもせよ、現代日本を代表すべき詩人、作家、評論家にして、所謂、「文化発達に関して勲績卓絶なるもの」を選び、確信をもつてこれが叙勲を奏請しうるかどうか甚だ疑はしいのである。
もとより、その銓衡は、それぞれ専門的な評議機関を経ることになるのであらうが、その機関とはどういふものであるか、われ〳〵は先づそれを知りたいと思ふ。なぜなら、この制度が若しもいくらかは西欧諸国の例にならつたものだとすれば、既に私の知る限り、フランスなどでは、今や甚だ香しからぬ結果を示してゐるからである。
なるほど、林首相の「謹話」なるものゝ趣旨を察すると、これは、必ずしも、フランスのレジヨン・ド・ヌウルや、パルム・アカデミツクと類似のものではないやうであり、寧ろその点で、わが国独特の性質を帯びるに相違ないが、それならそれだけに、せめて教養ある国民の「良識」を基礎として、苟も、社会的栄誉の戯画化に陥らないことを予め注意してかゝる必要がある。
といふのは、文学者が一国の文化に貢献するといふ意味は、非常に複雑且つ微妙だからである。往々官憲の忌諱に触れたやうな作品が却て、民衆の貴い心の糧となり、且つ、国民全体の矜りとなるものであることが後世一般に認められるといふやうな例がいくらもあるのである。
また、何処の国でも、民衆は「御用学者」とか「御用作家」とかいふ失礼な名称で、ある種の「国家的名士」を呼んでゐることも考へねばならぬ。
科学文学芸術の領域では、官吏や実業家と違ひ、直接、国家へのサーヴイスの程度で、その仕事の「文化的価値」を判断するのは間違ひだといふことは、古今東西の歴史を通じて明かな点であるが、その間違ひが絶えず何処でも繰返されてゐるところをみると、日本だけは、なまじつか半可通を振りまはさない政治家によつて事が運ばれることに、十分期待がかけられないこともない。
そこで、まだなんら具体的な発表をみないうちに、われわれとして、これ以上希望に類することを陳べる余地はないが、たゞもうひとつ、是非、この機会に当局の方針を質したいと思ふのは、林首相の「謹話」中、日本古来の精神歴史を特に尊重するやうな意味が含まれてゐるが、それは単に、広い意味の民族的伝統と解するなら差支ないが、若仮に、過去の文化的遺産乃至旧時代の社会的、道徳的規範制度風習に従つた文学芸術の意に取るべきだとすると、一方で「進歩」といふ言葉が極めて消極的となり、或は全く矛盾することになるが、これはどうかといふことである。
甚だ愚問だとは思ふが、事、文学芸術に関する限り、現代日本の国家権力が、或は、日本的なものと鎖国的封建的なものとを混同し、西洋的なもの、影響、又は、その思想技法材料の採択による新文化運動を、一概に非民族的なものとして軽視し、若くは無視する意図があるのではないか、これをはつきり知つておきたいと思ふ。
例へば、長唄や浄瑠璃は「日本精神」による音楽であり、歌舞伎劇は「新劇」より文化的に高級であり、裸体を描いた日本人の油絵より西洋人が富士山を描いた墨絵の方が一層日本のためになるといふやうな偏見がありはしないだらうか?
こんなことをどうして今云はなければならないかといふと、政治家やお役人のうちには往々にしてそれに近い考へをもつてゐるか、或は、さういふ風を装つてゐるものが、かなりあることをわれ〳〵は気づいてゐるから、万一、今度のやうな勲章が、少数の人々に授けられる場合、さういふ標準で人選が行はれたら、民衆の大部分は失望し、或は、創造の何物であるかを見失ひ、悪くすると因襲的趣味に囚はれて「日本文化」を逆転させる恐れがないとは云へないのである。大袈裟な物云ひをするわけではない。国家が伝統を重んじ、輿論の定まつたものに価値を与へる賢明な途を撰ぶのは当然であらう。たゞ、懼れるところは、日本国民を甘やかす側の仕事に重点がおかれはせぬかといふことである。
これが仮に、フランスの文学者が胸につけてゐるレジヨン・ド・ヌウルの赤いリボンの如きものなら、誰が持つてゐるといふことはもう問題でなく、誰がまだ貰はないといふことだけ、世間は注意するのであるから、当人よりも細君が一生懸命になり、友人知己を介して文部大臣にまだかまだかと責めたてる始末である。ところが、そんな運動をしないでゐると、つい当局は忘れてゐることがあるらしい。しかも、作家生活十年以上に及んで、相当文名があがる頃になると、もう勲章をもつてゐないことが一向目立たなくなるのだからよくできたものである。つまり、当然もつてゐることだとみんなが思ひ込んでしまふ。
そのうちに、たまたま、新聞に誰それは今度勲三等になつたとか、勲一等を貰つたとかいふ所謂昇叙の報道がでる。あ、さうかと思ふだけである。
最近私の眼にふれたのは、たしか、ポオル・ブウルジエといふ老大家が勲一等になり、スゴン・ヴエヴエル夫人といふ若くない女優が勲一等になつた時がある。劇評家のエドモン・セエがもう勲三等で十数年前は未だぴいぴいの新進だつたと記憶する。これはなるほど出世の早さうな温厚篤実な劇評家であつたと私はちよつと愉快であつた。
たゞこのレジヨン・ド・ヌウルは日本の金鵄勲章にも旭日章にも瑞宝章にも宝冠章にも、更にまた文化勲章にも相当するものであつて、職業を問はず、官民の区別なく、国家は平等にその国民としての社会的功績を表彰する形式をとつてゐることは、これまた国民性の然らしむるところであらうか。
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□もう私が雑誌を譲り受けまして丁度一年になります。どうかしたい〳〵と思ひながら微力で思つた十分の一も実現することがなく無為に一年を過しました。今月号も新年号の事とてどうにかしたいと思つてゐましたが何しろ、私が帰京しましたのが十二月五日か六日だつたのにそれから一週間ばかりの間は咽喉をはらして食事をすることも話をすることも困難になつて何にも出来ませんでした為めに、大変手ちがひになつて今度もまたおはづかしいものをお目に懸けます。けれども私も身軽になつてかへつて来ましたからこれからは少し懸命に働きたいと思つてゐます。だん〳〵に少しづゝでも努力のあとが現はれるやうにしたいとおもつてゐます。何卒皆様にも一層御尽力を願つて共に育てゝゆきたいと思ひます。
□何時かも申ましたやうに、自分たちの勉強の為めにも何かの問題をとらへて皆で研究すると云ふのはいゝ事だと思ひます。それで次号から私は自分の書きたいものゝ外に何か思想上の実際的な問題をさがしてそれについて書かうと思ひます。そしてそれを皆様の仰言つた事と一緒に批評して頂きたいのです。一句でも一章でもいゝのです。そして出来るだけ発表する為に次号で六号欄を別に設けて其処で発表するやうにしたいのです。何卒お互ひに勉強のたしになる事ですから賛成して頂きたいと思ひます。それには実際読者諸姉の現在考へ悩んでゐらつしやるやうな事をさうして大勢の最も進んだ意見をお聞きになつてお考へになるのもいゝ一つの方法だと思ひます。さう云ふ方面での材料をお持ちになる方は私迄おしらせ下されば大変にいゝと思ひます。勿論決してお名前を出すやうな事はしませんし、私も知らなくてもいゝのです。
□平塚さんは九日にお嬢さんをお産みになりました。お産は少し重かつたやうですが、その後の経過は大変いゝやうです。哥津ちやんも一日ちがひに男のお子さんをお産みになつたさうです、まだ会ひません。
□平塚さんのお産をなすつた翌日位に何でも新聞記者が訪ねて行つたのを附添の人が知らずに上げました処、「御感想は?」と聞いたさうです。私はあんまりの事に本当に怒りました。何と云ふ無作法な記者だらうとまだお見舞の人も遠慮して得ゆかないお産室に、一面識もない者が新聞の材料をとりにゆくつて、何と云ふ人を侮辱した仕方でせう。私は頭が熱くなる程、腹が立ちました。平塚さんは洗面台の上にのせた花の鉢を指さして、「この花と私の感想を交換するつもりで来たのですよ、私は苦しいと云ふより他何の感想もありませんつて云つてやりました。」と話されました。私はさうした侮辱も黙つて許してお聞きになる平塚さんの気持を考へてゐると涙がにじんで来ます。何卒皆さんが幸福であるやうにと祈るより他はありません。
□私は「雑音」と云ふ題でかねてから書きたいと思つてゐました長篇を書きはじめました。青鞜に載せるのが私の望みでしたけれども種々な事情から大阪毎日に連載することにしました。それは私の見た青鞜社の人々について私の知るかぎり事実をかくのです。私はそれによつて幾分誤解された社の人々の本当の生活ぶりが本当に分るやうになるだらうと思ひます。そのつもりで書くのです。併し何と云つても私自身の過ぎた日の記録を書くと云ふ心持が主であるのは云ふ迄もありません。それでいろ〳〵なものを見、考へてゐますと、私の入社当時から今日までにも本当に、おどろくべき変化が何彼につけて来てゐます。あんなにさはぎまはつてゐた紅吉さん今は御良人と静かな大和に、子供を抱いてしとやかな日を送るやうになつたのですもの、あの文祥堂の二階で皆してふざけたり歌つたり、平塚さんのマントの中に入れて貰つて甘へたりした私が二人の母親に、他の皆も母になつたりした事を考へますと僅かの間にと、本当におどろいて仕舞ます。おどろくと云ふよりは不思議な気がします。
□今月、平塚さんも哥津ちやんもお産で書いて頂けず、野上さんからも頂けませんでした。本当に残念ですけれど。来月は皆さんに少しづゝでも書いて頂かうと思つてゐます。
□雑誌や書物の批評紹介をしばらく怠けました、来月からは正しくやりたいとおもひます。これも、どなたでもおよみになつたものの事でおきづきになつた事をお書き下さいまし。
□それから、これはとうから申上げたいと思つてゐましたが補助団の事なのです。あのままになつてゐる事が心苦しくてたまりませんから、小さな本でも何かいゝものを撰んで翻訳してパンフレツトでもつぎ〳〵に出してゆかうと思つてゐますのですが今日迄はひまがなくてどうしてもかゝれませんでした、それに払ひ込んで頂いた金はもう私が引きつぐずつと以前から今日迄引きつづいて雑誌の方の借金なんかにつぎ込んでいくらも残つてゐませんので実は大阪毎日に書きかけのものをまとめてその稿料ででも――小さなパンフレツトならそれで足りますから――出版しやうかと思つてゐるのです。おそくも四月か五月には是非一集を出すつもりです。金さへ都合が出来ますなら、若しかしましたら私の感想集を自分で出して、それをも配付したいと思つてゐます。何しろ、私自身に、どうかして働き出すより他に資力がありませんので誠に諸氏に対しては申訳けがありませんがあしからずお許し下さい。それから補助団の会員と申ましても今では十人あるかなし位ですからさうしてパンフレツトでも何でも出せるやうな風にすればもう少し加入の意志のある方には這入つて頂きたいと思つてゐます。それから留守の間集金を出すことを怠つてゐましたから一月に這入りましたら集金を出しますから何卒お払い込み下さいますやうお願ひいたします。
□私はこの雑誌の諸君の間にでも立派な考へをもつてゐらして黙つてお出になる方が沢山あるやうな気がして仕方がありません。そんな方はもういゝ加減筆をお持ち下すつてもいゝと思ひます。岡田八千代様、長谷川時雨様のやうな立派な方が何と云つてもまだ未成品の私共と一緒に筆をとつて下さることを本当にうれしく感謝いたします。今年こそは実のある仕事をしたいものだとおもひます。働ける丈け働きたいとおもひます。
[『青鞜』第六巻第一号、一九一六年一月号]
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日本の神道に、最重大な意味をもつてゐる呪法の鎮魂法が芸能化した第一歩が神楽だと思ひますから、どうしても、日本の芸能史に於ては此を第一に挙げるべきでせう。その点であんたが此の問題に第一指を触れられたのは見識があつたと思ひます。
あんた自身もさうでせう、一緒にやつて来た私もつく〴〵感ずることですが、すべての芸能に対してもさうだつたやうに、殊に神楽では、我々の考へが幾度変つたか訣りません。其中でも神楽の起源については、実に豹変に豹変を重ねて来たわけで、何処まで自分の前説を取り消さなければならないかと考へる位です。さうして此頃やつと暫定式な結論だけは得たと思ひますが、併し、さうしてみると、昔の人の言つてをつたのと大して違はない所におちて来たやうな気がするのです。どうせあんたの今度の本にも出て来るでせうから、あんたの書いてゐる部分をまう一度繰り返すやうな形になるかもしれませんが、一言だけ付け添へることに致しませう。
私共が最初、内侍所の御神楽だけについて議論してゐた時、あんたから注意を与へられて、清暑堂の御神楽の方も考へなければならぬといふことが訣つたのですが、今になつてみると、結局清暑堂の御神楽の方が、内侍所の御神楽よりは古いものだつた。さうして、神楽の歴史については、まう一つ重要な暗示を含んでゐるものだ、といふことがだん〳〵訣つて来ました。平安朝中期以後の神楽の形を考へるのに、まづ、そのうちに清暑堂の御神楽の要素を強く認めなければならない。その外に、薗韓神まつりの神遊び、之を加へたゞけで大体伝つてゐる神楽の形はできると思ひます。その外に色々な地方の大社、或は国々の特殊な神遊びが宮廷に摂り入れられて、それが合体したものだ、と言へば、それで足りるのだと思ひますが、さうすれば清暑堂の御神楽といふものが、どうして起つたかといふことが問題になります。これは恐らく大嘗祭に接続して、豊楽殿の後房、即、清暑堂で行はれた御遊が、大嘗祭の意味に於て毎年繰り返される新嘗祭にも行はれたといふところから、毎年行はれる御神楽となつたことは、まづ間違ひないことだと思ひます。それならば、御神楽が何故大嘗祭に行はれ、十一月に行はれないか、といふことになりますが、これは簡単に説明出来ると思ひます。つまり、同じやうな神遊びをもつてゐる鎮魂祭が、新嘗祭に近く行はれるからです。それならば、鎮魂祭の時にどういふものが行はれるかといふと、神遊び、倭舞、此の二つといふことになつてゐます。その倭舞のかはりに薗韓神の神遊びが這入つたものが、とりもなほさず御神楽だといふことになるのです。同時に宮廷が大和においでになつた時代と、山城京にお遷りになつてからとの相違を見せてゐる訣なのです。
あんたには説明するまでもないことですが、この本を読まれる人たちの為に薗韓神を我々の考へてゐる形で説明しますと、韓神は山城京の定つたその場所の地主神、薗神は大和時代で言へば御県の神、謂はゞ宮廷の御屋敷をとりまいて散在してゐる宮廷の御料の食物其他を生産する土地の神ですから、結局、この二神は御県の神と三輪或は大和の神にあたる訣です。だから御神楽といふものが、山城京になつてまとまつたものだといふことは、その一事でも説明出来ます。だが、世間の人にはまだ認められないことかもしれないが、我々仲間では定説にならうとしてゐる神楽のいま一つの大きな起源が、その上に加はつてゐることは疑はれません。つまりそれが、この本の中にも見えてゐる石清水系統の神遊びです。
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神楽の宮廷で行はれた、ごく自由な様子はよく訣らないのですが、御遊抄を見ますと、後一条院の長和五年の条に「他の宰相等相共に豊楽殿の東廂より建春門に到り歌曲を唱へ舞袖飄す」とあるのが、他の清暑堂の琴歌神宴の記述と違つて、神宴御遊果てゝ退出の時の様子を書いただけに過ぎませんが、凡、その時に行はれた神楽のもどき或はやつしと謂ふべき形が窺はれるのですから、従来考へてをつたやうな極めて狭い範囲のお庭のうちにかしこまつて行つてをつただけではなかつたやうに察せられます。さうして、この御遊抄から更に察せられますことは、所謂管絃の御遊に関しての記述ばかりで、舞ひを奉仕したことは、今挙げた例、或はそれより前の天慶九年村上天皇御宇の記述くらゐのものです。そこには「御神楽御遊内舎人十人、弾琴歌人二人」とあります。だから、全く舞ひが加はらなかつた訣ではなく、恐らく御遊と併行してそれが行はれてゐて、謂はゞ殿上と砌の下の舞ひとを、同時に行はれる別々のことに見てゐたやうに思はれます。これが一つになつて所謂琴歌神宴或は清暑堂御遊といふやうな名称を失うて、御神楽と称せられ、更にそれを庭上の神事といふ風に形を変へさせ、時期もくり下げて十二月に行ふやうになつたものと思はれます。さうして後に宮廷の御神、内侍所の神いさめに奉る風も生じて来たのだと思ひます。同じ宮廷にある御神でも神祇官にいらつしやる御神の為には既に鎮魂祭の神遊びがあるのですから、これが内侍所に止まつた理由も察せられます。さすれば、庭の神事或は庭の芸能になる道筋を言ふ必要はありませう。
神々は音楽がお好きであり、又和やかな噪音が神慮に叶ふものであり、殊に末座の神々はさうした欲望が非常に深いものと古人は考へてゐたのですから、清暑堂に御遊がある節には、宮廷の地主神並びにその周囲の神々が垣間見をし、更にもの見高く内庭にまで這入つて来られる様子が考へられます。其故、その頃殊に新しい勢力を持つて都近くまで近寄つて来てをられた石清水の神が這入つて来られ、大体石清水風に庭の芸能を統一せられたものと思ひます。勿論それ以外にも、諸国の神々が宮内或は内庭に集つて来られ、それ〴〵の神遊びを宮廷に寄与せられた様子は残つてゐます。
○
さつきの話ですが、人長の成立に関する想像を述べて見れば、大体神楽の疑問になる点が訣りさうですから述べてみませう。
京都辺の大社――賀茂・平野・梅宮・石清水、これ等の社の祭りにはそれ〴〵山人が参加してゐます。江家次第の平野祭に拠ると、山人は左右の衛士だといふ風にあります。其が而も、この祭りには二十人も出ます。これに対して梅宮では僅か二人です。どの社も山人が榊を持つて来て、これを斎庭に立てることになつてゐるやうですし、その上これが臨場する時に、祭りに関係した男女が出迎へることになつてゐるやうです。だから尠くとも、最古い祭りには真の山人が来たものとみてをつたに違ひありません。それが、段々仮装した山人になつた訣です。さうしてこの山人は、同時に薪を立て、庭燎を焚き、倭舞を舞うたことが梅宮に関する江家次第などの記述を中心として考へると訣ります。だから、山人は宮廷が大和においでになつたときからのものだといふことが推察出来るし、旁この本にも出てゐるであらう「穴師の山の山人と」の歌などが傍証を示してゐます。これで神楽における庭燎の意味も相当に訣るし、同時に、人長その他の成立も知れるといふものです。楽家録に拠りますと、人長が手に持つ榊は、御神楽の日に、吉田山・賀茂山などから衛士が伐り出したのを、内侍所の女官に渡して置き、刻限に及んで内侍所の南階の下で、人長が女官から請ひ受ける。その時「人長の榊、人長の榊」と呼ぶやうにあります。女官が人長に授ける榊は、長さ四尺許りに切つてあつて、枝は上の方二尺ばかりにとゞめて、下はゝらつて柄として持てるやうになつてゐるさうです。これは、主客が顛倒したやうに見えますが、同時に人長が榊に関係の深い事、それから山人の為事から出て来た役だといふことも察せられるやうです。さうして人長が歌人・楽人等の才を試すのは、つまり山人の主だつたものが、その仲間の中のものを一々指摘してその才を演じさせるといふことになる訣です。而もそれが後には、衛府の宮人の役になり、才男とまた別に歌人・楽人があるやうに想はれて来たのでせう。
神楽で最目のつくものは、殆、人長ばかりが舞つてゐるやうに見えることですが、他の人々には各、それ〴〵の才があるので、その才を特殊なものにして来た結果、人長の一人舞といふ形を生じたのでせう。だから、譬へば、前張を勤めるものゝあることを韓神の後に述べて、自分の座にかへります。そこで前張が始つて、それがしまふと朝倉になります。かういふところから、また歌が分化して、外国音楽の呂律に合つた催馬楽が出て来ることになつたのでせう。清暑堂の御遊には、堂上方の歌ふものが呂と律とに分れてをつて、それが特殊なものゝ外、譬へば安楽塩・鳥の破の如きものゝ外は、所謂催馬楽なのです。堂上方の御遊と庭上の芸能とは、別々に並行してゐる筈なのが、何時か堂上のを庭上に移すやうなことにもなつて来たのです。この芸能のはじめ〳〵に勧盃が行はれます。これが恐らく、今も東北地方の神楽系統のものに含まれてゐる剣舞といふ風に理会され易いけんばいの名のもとなのでせう。つまり酒を飲んで芸廻しをするといつた意味と思はれます。
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勿論、皆さういふ(才を試される男と才男とは同じ語)つもりで記録は書いてゐると思ひますし、或は語はそこから出てゐるかも知れません。しかし、語原は、別に考へられることは、あんたもさうだつたし、私も今まで言つて来たところで説明は尽きてゐるのですが、逆にかうした順序をとつて出て来た語と言へないこともないのです。しかしさうすると、宮廷以外の人形をもつてする才男の説明が、全部宮廷の才男を原として説かなければならないことになるのです。たゞ、どちらでも宜しいが、人形を前にする方が如何にも才男の説明には都合がよかつたのですが、さういふことが若し言へるとすれば、語だけは宮廷の才男が原であつても、人形は人形で自ら他の社或は国に於て発達し、宮廷の才男は又別に発達して来て而もその才男の中から、地方の人形のする態と最近い芸能を行ふものだけの名称を才男といふことになつたとも説明出来ませう。しかしこれは、宮廷側の記録の才男の説明が、或予断があつて出来てゐるものと思はれますから、今のところはまだ〳〵そちらへは決められません。
○
どうも、人長の持つ輪といふものは、楽家録には鏡に見立てたものだとあつたり、曲玉に見立てたのだといふ風にもありますけれども、それはたゞ、さう考へただけのことで、輪そのものゝ形は、到底榊の枝に下げられるやうなものではないのです。即、輪の製法は「小円木を以て作る、径八寸」とありますから相当に長い枝を折り曲げたものです。それと共に「柄有り、長さ一尺八寸」とありますから、謂はゞ靫猿の踊りに見ることの出来るやうな、又、どうかすれば普通の猿廻しも持つてをつた環鞭のやうなものなのです。さうして「白粉を以て之を塗り、白糸を以て輪を柄に結び附く」とあります。而もこの輪が、登比加介留又は釣招といふ名であつて、「庭燎諸歌の時、人長のとびかけるときこれを投げ掛く」とあるのは、誰に投げ掛けるのか訣りませんが、「人長輪を冠にかけて之を引き止む」とありますから、人にかけることは確かです。輪をとびかけらして人を捉へたところからこの名が出来たものと思はれますが、今ではその目的が訣りません。しかし、かういふ為方で他をつりまねくことは、恐らく同等の人間にすることではなかつたでせう。そこに、神楽の人数の中には異常なものが混つてゐることを示したことが訣ります。即、たゞの宮人たちが神楽を勤めるのではなく、人以外の者が来て祝福の芸能を演じたことを意味してゐるのではないでせうか。
それから、あんたの言はれた軾を蹴るといふことですが、これ亦人長のする特殊なことで、楽家録には、軾を蹴るやうに見えるだけだといふ風な説明もしてをります。「人長庭燎に立つて本末に行く時、軾を蹴る事、之を故実となす、然れどもこれ不解の説か、今案ずるに人長軾の前に立つて三つ拍子を踏み、東方に行き立ち、又軾の前を経て東方に行き立ち、その度毎に腰をめぐらし裾をよせる形をなす、事を好むもの誤つてその躰を見てこの説をなすものか」とあつて、寛永の内侍所の御神楽の時に、四辻大納言が多備前守盛忠を呼んで、軾を蹴らないやうに下知せしめた云々とありますが、是等は証拠になりません。たゞ、三拍子を踏むのも事実だつたのでせう。それをすることが即、軾を蹴ることにあたるのだつたら、別にかうした説は意味のあるものとは思はれません。人長が左右左と足踏みするのは、三拍子の法を書いた条を見ても訣る如く、これは反閇の単純なものらしいのです。たゞ軾が常に用ゐられるのは円座と同じ用途なのですから、それを蹴るといふことに或不調和を感じてかうした説を立てたのでせうが、我々が畳莚は座る為に用ゐてゐながら、又、反閇の範囲を模型式に示すことがあるのを思へば訣る筈です。つまり軾が、畳莚の代りに踏まれる、大地を意味してゐるものと見るのがほんたうなのでせう。祝福に来臨したものが、その庭を踏み鎮めることはあるべき筈で、舞踊と目的を一つにしてゐて、而も、もつと明らかにその目的を示してゐるものでせう。譬へば、猿楽能における翁・三番叟の踏むことゝ、他の五番能に於いて舞ふのと両立してゐるやうなものです。たゞ、あまりにこの神楽なる芸能が発生の時を去ること遠く、宮廷に這入つても、早く部分々々の意義を忘れてしまつてゐた為に、後世から思へば、とんでもないことが行はれてゐた訣なのでせう。それはあんたのこの御本に詳しく説明されてゐることですけれども、日本民族の間に、神楽以後に発達した芸能が、何等かの形に於て他の芸能を出来るだけとり込んで来たやうに、既にさうした日本芸能の宿命風な方向を、この最古い最神聖な芸能が暗示してゐたと申されるでせう。
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XをビタミンAとビタミンEが防ぎます
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書かれている事件が人を驚かすのでない。そのことは、ちょうど私達が活動写真を見るようなものであります。奇怪な事件が重なり合っているような場合であっても見ている時は成程、其れによって、いろ〳〵なことを想像したりまた感興を惹かれたりしても、一たび外に出て冷やかな空気に触れゝば、つい、今しがた見たことが夢のように、もっと其れよりは淡い印象しか頭に残らないのであります。
ドストイフスキイの作品は、雑な人生の事件が取扱われていることを否まないけれど、私達に感銘を深からしむるのは、そのためでない。
このときに於て事件というものは、そんなに役立っていない。たゞこういうようなことが人生にあるかと考えさせるより、多くを語るものでないと感ぜられます。そして、いかに、そうした事実の前に人々が動いたかという、真実を他にしては、芸術というものがないように考えられます。活動写真は、たゞ眼先をいろ〳〵に換えて其の間に、驚異と人情とを印象させるようにするけれど、もとより稀薄たるを免れない。しばらくは忘れることの出来ぬようなものであってもやがては忘れてしまうのです。凡そその程度のものであるから、もとより享楽すべきものであって、これによって、旧文化の根底を改めて新文化をば建設しようなどゝ考えるのは、あまりに安価な考え方であると思われます。
独りドストイフスキイの作品ばかりでなく他の有名なる名作は、事件そのことが異常なものがあるのは事実であるけれど、そのソロが深刻な感銘を与えるものでないことはやはり同じであります。たゞ其の中に含まれた真実を他にしては、芸術の力というものは他にないように考えられます。
それは、美に対して、正義に対して、その作家が真剣であるという一事であります。私達は、体験を経ないような事柄に対してはそう愛も感じなければ、またそう憎みをも感ずることが出来ない。もとより同感することも出来ないのであります。
親子の関係、夫妻の関係、友人の関係、また男女恋愛の関係、及び正義に対して抱く感情、美に対して抱く感激というようなものは何人にも経験のあることであって従って作中の人物に対して同感しまた其れに対して、好悪をも感ずるのであります。
芸術家として偉大なる所以は、是等の人間性の強さと深さとの問題であります。言い換えれば人間愛に対してどれ程までに其の作家が誠実であり、美に対してどれ程までに敏感であり、正義に対してどれ程までに勇敢に戦うかということにある。
事件の異常なる場合に際して、私達のそれに出遇った時の感情や、意志がまた著しく働くということも事実であるが其人の人格は、またいかなる小事に対しても発揮されるでありましょう。たとえば旅行をして遠くへ行かなくとも永久の自然は其の町に、其の村に常に眼の前にあります。もし其人が敏感であって、美に対して感激を有していたなら、たとえ其処に転がっている一個の林檎に対しても主観の輝きが見られる訳です。区役所に行って役人に遇ったゞけでも、また巡査に道を聞いただけでも、荷車を引いている労働者を見たゞけでも、また乳呑児を抱いて露店に坐っている女を見たゞけでも、そして其他各階級の人々に出遇い、或は遊び、或は働いている有様を見たゞけでも、私達はこの人生を感ずることが出来るのであります。
すべてが、芸術家その人が、いかに人生を見、感ずるかに帰着します。真にある事を感ずる者は同時にある事を信ずる人々でなければならない筈です。芸術家の貴い信念はこゝに萌芽します。彼等のすべてが人道主義者として、また殉教的な敬虔な心の持主として、人生のために戦うに至るのもこれあるがためです。
こゝに於て、芸術は畢竟享楽のためでなくして、一個の目的を有さなければならぬことを知ることが出来ます。
私は、この美に向上を感じ、愛のために戦わんとする精神は、理知そのものでもなければ、また主義そのものでもない。全く、詩的感激に他ならないと思うのです。
すべて、散文の裡に、若し、この詩的感激を見出さない記録があったなら、決してそれは芸術であり得ない。またこの革新的気分と、人生的の感激を有しないセンチメンタリズムが詩を綴っていたら詩の精神を有しないばかりでなく、常に、新生活創始に先駆たるべき文化の精神を、誤るものだということを憚らないのであります。
詩の誤解されていることも久しいけれど、また芸術が詩から離れて無感激な状態にいることも既に長い間であると言わなければなりません。そして、其れを救うものは、真に新しく、其の人の出るのを待つにあるばかりです。そしてかゝる芸術家は、眼前の社会に対して、最も真実であり、人間的愛を感ずる人道主義の高唱者に他ならないと私は感ずるものであります。
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一 姓名の由來と順位
わが輩はかつて『國語尊重』と題して、わが國固有の言語殊に固有名の尊重せらるべきゆゑんをのべた。今またこれに關聯して、わが國民の姓名の書き方について一言したいと思ふ。
わが國の姓名の發生發達の歴史はこゝに述べないが、要するに今日吾人の姓と稱するものは實は苗字といふべきもので、苗字と姓と氏とはその出處を異にするものである。
姓は元來身分の分類で、例へば臣、連、宿禰、朝臣などの類であり、氏は家系の分類で、例へば藤原、源、平、菅原、紀などの類である。
苗字は個人の家の名で、多くは土地の名を取つたものである。例へば那須の與一、熊谷の直實、秩父の重忠、鎌倉の權五郎、三浦の大介、佐野の源左衛門といふの類である。
昔は苗字は武士階級以上に限られたが、維新以來百姓町人總て苗字を許されたので、種々雜多な苗字が出現し、苗字を氏とも姓とも呼ぶ事になつて今日にいたつたのである。
わが國固有の風俗として家名を尊重する關係上、當然苗字を先にし名を後にし、苗字と名とを連合して一つの固有名を形づくり、これを以て個人の名稱としたので、苗字を先にするといふことに、歴史的意味の深長なるものがあることを考へねばならぬ。
東洋民族は概して苗字を先にし名を後にするの風習である。支那人はその適例である。
ヨーロツパでもハンガリーなどでは即ちマギアール族で東洋民族であるから、苗字を先にし、名を後にする。
西洋では家よりも個人を尊重するの風習から出たのか否かよく知らぬが、概して姓を後にし名を先にする。
ジヨージ・ワシントン。ジヨン・ラスキン。ジエームス・ワツト。ペーテル・ペーレンス。バウル・ゴーガンなどの類で、前名は即ち個人のキリスト教名後名は即ち家族名である。
印度は地理上東洋に屬するが、民族がアールヤ系であるから、矢張り名を先にし姓を後にする。ラビンドラナート・タゴールといへば、前名は即ち個人名で、後名のタゴールは家名である。
二 歐風模倣の惡例
現今日本では、歐文で通信や著作や、その他各種の文を書く場合に、その署名に歐米風にローマ字で名を先に姓を後に書くことにしてゐるが、これは由々しい誤謬である。小さい問題のやうで實は重大なる問題である。
わが輩の名は伊東忠太であつて、忠太伊東ではない。苗字と名とを連接した伊東忠太といふ一つの固有名を二つに切斷して、これを逆列するといふ無法なことはない筈である。
個人の固有名は神聖なもので、それ〴〵深い因縁を有する。みだりにこれをいぢくり廻すべきものでない。
然るに今日一般にこの轉倒逆列を用ゐて怪しまぬのは、畢竟歐米文明渡來の際、何事も歐米の風習に模倣することを理想とした時代に、何人かゞ斯かる惡例を作つたのが遂に一つの慣例となつたのであらう。
今更これを改めて苗字を先にし名を後にするにも及ばない。餘計な事であるといふ人もあるが、わが輩はさうは思はない。過ちて改むるに憚るなかれとは先哲の名訓である。
况んや若しも歐米流に姓名を轉倒するときは、こゝに覿面に起る難問がある。それは過去の歴史的人物を呼ぶ時に如何にするかといふ事である。
徳川家康と書かずして家康徳川といい、楠正成と書かずして正成楠といひ、紀貫之と書かずして貫之紀といふべきか。これは餘程變なものであらう。
過去の人は姓名を順位にならべ、現在の人は逆轉してならべるといふが如きは勿論不合理であるばかりでなく、實際においてその取扱ひ方に窮することになる。
この點において支那はさすがに徹底してゐる。如何なる場合にも姓名を轉倒するやうな愚を演じない。
張作霖は如何なる場合にも作霖張とは名乘るまい。李鴻章は世界の何國の人にも鴻章李と呼ばれ、または書かれたことがない。
世界の何國の人も支那では姓を先にし、名を後にすることを知つてをり、支那の風習に從つてゐる。世界の何國の人も日本では姓を先にし、名を後にすることを知つてゐる筈であるが、日本人が率先して自ら姓名を轉倒するから、外人もこれに從ふのである。
三 彼我互に慣習を尊重せよ
或人は、日本人が自ら姓名を轉倒して書く事は國際的に有意義であり、歐米人のために便宜多きのみならず、吾人日本人に取つても都合がよいといふが、自分はさう思はぬ。
結局無識の歐米人をして、日本でも姓を後に名を前に呼ぶ風習であると誤解せしめ、有識の歐米人をして、日本人が固有の風習を捨てゝ外國の慣習にならうは如何にも外國に對して柔順過ぎるといふ怪訝の感を起さしむるに過ぎぬと思ふ。
それよりも、吾人は必ず常に姓前名後を徹底的に勵行し、世界に日本の國風を了解させたならば各國の人も日本の慣例を尊重してこれに從ふに相違ない。
餘談に亘るが總じて歐米の慣習と日本の慣習とが全く正反對である實例が甚だ多い。
例へば年紀を記すのに、日本では年、月、日と大より小に入り、歐米では、日、月、年と逆に小より大に入る。
所在を記すのに、日本では、國、府縣、市、町、番地と大より小に入るに、歐米では、番地、町、市、府縣、國と、逆に小より大に入る。
日本人が歐文を書く場合、この慣例を尊重して、小より大に入るのは差支ないが、その内の固有名は斷然いぢくられてはならぬ。
例へば地名の中にも姓名を具ふるらしいのがあるが、この場合姓名を轉倒するのは絶對に不可である。
東京市の「櫻田本郷町」を「本郷町、櫻田」としてはいけない。鐵道の驛名の「羽前向町」を「向町、羽前」としてはいけない。同じ理由で「伊東忠太」を「忠太伊東」としてはいけないのである。
日本人が歐文を飜譯するとき、年紀や所在地の書き方は、これを日本流に大より小への筆法に直すが、固有名は矢張り尊重して彼の筆法に從ふのである。
例へばジヨージ・ワシントンと名を先に姓を後にして、日本流にワシントン・ジヨージとは書かない。
然らば歐米人も日本の固有名は日本流に書くのが當然であり、日本人自らは、なほ更徹底的に日本固有の慣習に從ふのが、當然過ぎる程當然ではないか。
四 斷じて姓名を逆列するな
わが輩のこの所見に對して、或人はこれを學究の過敏なる迂論であると評し、齒牙にかくるに足らぬ些細な問題だといつたが、自分にはさう考へられぬ。
これは曾つてわが輩が「國語尊重」の題下でわが國の國號は日本であるのに、外人の訛傳に追從して自らジヤパンと名乘るのは國辱であると論じたのと同じ筆法で、姓名轉倒は矢張り一つの國辱であると思ふのである。
或人は又いつた、汝の所論は一理窟あるが實際的でない。汝は歐文に年紀を記すとき西暦を用ゐて神武紀元を用ゐないのは何故か、いはゆる自家撞着ではないかと。
わが輩はこれについて一言辯じて置きたい。年紀は時間を測る基準の問題である。これは國號、姓名などの固有名の問題とは全然意味が違ふ。
歐文で日本歴史を書くとき、便宜上日本年紀と共に西歴を註して彼我對照の便に資するは最適當な方法であり、歐文で歐洲歴史を書くとき、西歴に從ふは勿論である。
要するに世間は未だ固有名なるものゝ意味を了解してをらぬのであらう。固有名を普通名と同一程度に見てゐるのであらう。
普通名は至る所で稱呼を異にするが、固有名は絶對性のものであり、一あつて二なきものである。
即ち日本人の姓名は唯一不二である。姓と名と連續して一つの固有名を形づくる。
外人がこれを如何に取扱はうとも、それは外人の勝手である。たゞ吾人は斷じて外人の取扱ひに模倣し、姓と名とを切り離しこれを逆列してはならぬ。
それは丁度日本の國號を外人が何と呼び何と書かうとも、吾人は必ず常に日本と呼び日本と書かねばならぬのと同じ理窟である。(完)
(大正十五年二月「東京日日新聞」)
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お別れしてから、あの煙草屋の角のポストの処まで、無我夢中で私が走つたのを御存じですか。あれはあなたにお別れしたくない心が、一種の反動作用を、私の行為の上に現はしましたの。それから私、走りながらも夢中の夢のやうに考へましたことは私がもし一寸でもふりかへつたら私はまたあなたの方へ……いえつひにあなたへ走りかへつて、永遠にあなたから離れられない、あの月夜の、月の雫が太く一本下界に落ちて、そのまゝ停つたやうに真新らしく白く木肌をかゞやかした電柱の下にしよんぼりと私を見送つてたつてゐらつしやつたであらうあなたのおそばから。それから私は、夢中で走りながら、まだこゝろのなかで、はつきり意識したことがありましたの。それは、あなたが、私の走るうしろ姿を見送る眼に、これはまた、同じ月の雫でも、実に、それを濃まやかにあなたの眼に点附したやうなあなたのお涙が……それが、あなたの特長である、幅広の二重まぶたの所へあふれ出てしまはないうち、つまりそのお涙をたゝへたまゝのあなたのお眼によつて、昨夜のお別れの最後のなかからなくなる私の姿を完全にみまもつていたゞき度いといふ意慾を、あの夢中で走る私の胸にはつきりと私、意識してゐましたの。
そのくせどうでせう、私、息せき切つてポストまで辿りつき、赤ぬりの少しはげてかたむきかゝつたあの裏街の煙草屋の角の爺さんのやうなもうろくしたポストの頭をつかまへるやいなや、その手へ満身の重心を集めて身体をさゝへながら、直ぐにあなたの方を――月の雫が太く下界に直立したやうな――電柱の方を見返しました。そして、その時、完全にあなたは私の視界にゐらつしやらない。その時、失望と安心が同時に私にやつてまゐりましたのはなぜかといへば、それはあなたが、私を、あの昨夜の明煌々とした月光のなかを、或、単純のやうで複雑であり、そして、恋の皮肉な心理状態にもてあそばれた稚拙な行為を、ありのままに行ひ終つた私を、ポストの際まで見送るがいなや、それは私が、あなたを振りかへるとほとんど同時に、あの電柱から実に巧妙に、恋人との別れのシーンに進退することの機微を遺憾なくなし終せられたといふ感嘆に価する安心でありました。が、やつぱりあき足りないにはあき足りない。やつぱりあなたがいつまでもあの月の雫の直立である電柱の下で、いつまでもいつまでも、私が、ポストの角からとうに曲つてしまつたのちのいつまでも、あなたから走り去つた私の背後の帯の輪の揺れ、着物の裾がひるがへつて月光に、どんな反色を見せたかといふことまでがあなたに幻影とまでなつてしまつてからでも、あの電柱の下に立ちどまつて、私に名残を惜んで下さるあなたの存在を見たかつた。私の失望といふのはそれですの。
でも、何といつても昨夜はうれしい夜でした。黙つて、黙つてゐるために、かへつて、二人とも切ない歓喜の哀愁がふかく胸をとぢたので御座いますね。月の前では、まつたく人間界の饒舌などほしいまゝにしてはすまないやうな冷厳な感じにうたれますのね、まして恋する身には……
まだ以上、このラブレターの続きはあるのですが、もはや書き続ける根気もありません。なぜなら、このラブレターは筆者が自分の熱情をもつて恋人にでも送つたらうと思はれたら大変な違ひのものなのですから。これは、或る女が、ある男から恋愛を強ひられて拒絶した。するとその男性から、『せめてこの様なラブレターでも時折は書き送つて下さい。小生は目下あまりに寂しい境遇にゐる。』と強要せられた時、その同封のなかにこのラブレターの文範がいれてありました。いふまでもなく、それゆゑ以上のラブレター文範はその男性が御苦労様にも、そのある女に自分から書いて示したものであります。ユーモラスな哀感をかんじながら私がそれを読んでゐますと、傍からそれをもらつた女性が『じようだんではありませんわ、私にそんなひまがありますか。』とふくれてをりましたが、それでもやはりその女性にも、ふくれるそばから口辺につい現はる微笑がありました。昭和二・五
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日本でこそ、その昔は河原乞食とまで蔑まれ、大正の代にあつてすら、未だに芸人扱ひを受けてゐるわが俳優も、仏蘭西などでは、今も昔も、さぞ、威張つたものであらうと、かう思ふ人もあらうが、どうしてどうして、ルイ十四世大王の寵遇を一身に集めてゐた一代の果報者、モリエールさへ、一公爵が、その頭を抱いて撫でまわすに任せ、遂に釦の角で顔を擦りむいたほどである。
当時の学僧ボッスュエは、演劇の風教問題を論じ、俳優稼業の卑むべきを述べて、かう結んでゐる。
「世に母として、そは基督教信者たるを要せず、また如何に不真面目なる女にてもよし、その娘が、舞台に立たんよりは、寧ろ墓の下に眠らんことを望まざるものあらんや」と。
十八世紀は、自由感想の天下である。更に、クレエロン、ル・カアン、ファヴァール、アドリエンヌ・ルクウヴルウル等の名優を輩出した時代である。
ヴォルテエルは一生、役者の――殊に女優の――頼もしき味方であつた。
之に反して、ジャン・ジャック・ルソオは俳優なるものを眼の敵にした。曰く
「俳優の才能とは何だ。自己を偽る術ではないか。己れの人格を他人の人格で覆ふ術ではないか。自己を在るがまゝに見せない術ではないか。平然として激し、恬然として心にもなきことを語る術ではないか。他人の位置に己れを置かんとして、己れの位置を忘るゝ術ではないか」
「俳優の職分とは何か。金銭の為めに、自己の肉体を公衆に晒すことではないか。公衆は彼等より侮辱と罵詈の権利を買ひ受けるのである。彼等は、その人格を挙げて公に之を売らんとするものではないか。」
十九世紀に至つて、「虐げられたるものゝ反抗」が眼を覚ます。それと同時に、タルマ、ルメエトル、マルス、ジョルジュゴット、ラシエル……等の天才俳優が簇出する。「虐げられたるものゝ味方」として、ヴィクトオル・ユゴオが現はれる。雄弁なる俳優の庇護者である。
忘れてはならないことは、ユゴオも云つたやうに、「人は、自分を悦ばせるものを何とかして復讐したい」傾きのあることである。この点で、日本の新劇俳優諸君は、当分、誰からも軽蔑される心配はない。
今日、仏蘭西の俳優は、勲章も貰へば、――珍しくもなからうが(なかなかどうして)――元老院議員の晩餐会にも招かれる。――日本だって何とか公爵が招待したといふんでせう。違ひますよ、それは、招待のしかたが。わかるでせう。――君、もつと飲み給へ。――へえ、もう結構で。――これや、招待ぢやない。
ルュシヤン・ギイトリイなんていふ役者はなかなか威張つてるやうですね。その辺の流行作家連を小僧扱ひにして、文部大臣なんか屁とも思はず、ブウルジェやアナトオル・フランスの劇作は、殆ど自分が骨組をこしらへてやつたやうなものなのを、それが当つて、表向きの作者が鼻をうごめかしてゐると、それを見て、にやりと笑つて、「おい、サシヤ公(これは伜の名です)てめえ、一体、いくつになるんだい」てなことを嘯いてゐるんですからね。
仏蘭西といつても、巴里のことしか識らないが、巴里にある劇場といへる劇場五十あまりは、それぞれ若干専属俳優を有し、そのうち、国立劇場四つと、前衛(先駆)劇場二三を除いては、多くは何れも、毎興行一、二人の所謂「ヴデット」を招聘する制度になつてゐる。
此の「ヴデット」といふやつ、甚だ怪しからんもので、俳優に支払ふ給料の大部分を一人でせしめてしまふのである。
「ヴデット」とは、云はゞ、立役者で、看板役者で、花形で、之あつて、お芝居がお芝居になり、客足がつき、作者が泣き笑ひをし、幕が何度も上つたり下りたりするのである。
此の「ヴデット」の中に、なかなか名優がゐるから仕方がない。アカデミシヤンの中に稀代の天才が紛れ込み、代議士のなかに相当話せる人物が混つてゐたりするやうに。
それでも、一晩に一萬五千法(二千五百円)取るのは少しひどい。一晩千法のきめで、その外、全収入の一割といふのは珍らしくない。
俳優組合の規定では、一季節間の契約なら、一ヶ月最低給料六百五十法、一興業期間なら、一晩三十法といふことになつてゐる。但し「ユチリテ」と呼ばれる役、まあ端役だ――「奥さま、御食事の用意が出来ました」と云つて引込むやうな役――これは一晩十五法(二円五十銭)。
かういふ連中は、生活費が、少くとも収入の倍はかゝる。――少くとも「かけてゐる」。なに、若いうちだ、何んでもやるさ。
或る劇場の、一女優の化粧部屋――
「ちよいと、こら、あたしんとこへこんなに花環が……」
「へえ、」
「大成功ね、あんた、うれしくないの。いくつあると想つて……ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なゝ、やあ、この……九つ。」
「それでみんなか」
「まだ少いつて云ふの」
「……(独言)畜生、花屋のやつ、一つ誤魔化しやがつたな」
国立劇場は、俳優組合と関係なしで、俳優を虐待してゐる。最初の一年は月五百法。二年たつと六百五十、これがオデオン座の相場である。コメディー・フランセエズの方は、これより鼻糞ほど余計出してゐる。尤も幹部になると、相当の収入はある。ブウルヴァアルのヴデットほどではなくとも、コメディーの一流女優などになると、自働車ぐらゐはもつてゐる。
後援者、それは勿論あります。クレマンソオでせうね、「天下の美人」セシル・ソレル嬢に例の真珠の頸飾を買つてやつたのは。
ヴィユウ・コロンビエ座では、俳優に給料の差をつけない方針である。均一とまでは行かないが、月々の給料としては三百法から四百法までを限度としてゐる。滅法少いが、それでなければ劇場が立ち行かない。役者もそれで苦情を云はない。親がかり、共稼もある。みんな品行方正であるらしい。「どうもこればかりは仕方がありませんからね」さう云ひさうである。
わが敬愛するB夫人の如きは、タイピストにも劣る服装をして、平気で町を歩いてゐる。
ヴィユウ・コロンビエ座で面白いのは、夏季巡回興業の制度である。それは、同座の俳優を夫または妻とするものは、希望により手当を給して一座と共に旅行をさせることである。勿論、座員の資格を以てゞある。無言役として舞台にも立つといふ条件附である。
逓信省の一小官吏が、ヴィユウ・コロンビエ座附女優を妻としてゐるお蔭で、懐を痛めずに炎熱の巴里を遠く離れ、ウイスバアデンあたりの避暑地のホテルで、大にやに下ることが出来るなど、座主コポオ氏もなかなか苦労人ではないか。
こんなことは興味がないかも知れないが――殊に日本の俳優諸君には――でもまあ、一寸序だから――
仏蘭西の劇場は、俳優組合の協賛を経た上で、俳優の勤務怠慢に対する罰則を設けてゐる。即ち減俸である。
本興行中
開幕又は場面転換の時刻に遅れたものは月給の百分の一。
登場遅刻――百分の二。
指定の扮装を違へたるもの――百分の二。
台詞を違へ、動作位置を誤りたるもの――百分の二。
稽古中
登場遅刻又は忘却――千分の二十五。
十分間遅刻――千分の四十。
十五分遅刻――千分の五十。
二十分遅刻――千分の六十。
三十分遅刻――千分の七十五。
稽古全部欠席――百分の四。
――此の割合は、稽古の最後の四日間に限り三倍とす。
一寸、厳しいですね。
稽古は一日四時間以上はしない規定になつてゐる。そして午後一時半から八時までの間に於て行ふことになつてゐる。興行時間を最大限四時間(普通二時間半乃至三時間半)としてゞある。
但し、最後の二日に限り、一時間だけ延ばしてもいゝ、つまり五時間やれるわけである。
稽古中は、少くとも一日十法の割増手当が出る。
閉幕後、即ち夜の十二時以後に、次回興行の稽古をやる場合は、最初の一時間は十五分について、三法以上、次の一時間は、十五分について四法以上の割増がつくわけである。
細かくきめたものである。それくらゐにして置かないとね、なかなか……。
月二千法以下の収入しかない俳優には、舞台用の現代服も劇場から支給する。時代服、職業服、並に様式服は勿論のこと。
月千法以下のものには、舞台用の靴、靴下、シヤツまでも支給する。舞台用と限つてあるからには、それを着けて外へは出られない。少々不便である。
病気又は懐姙の場合は、之を理由として俳優を解雇することは出来ない。
懐姙の為め休業中は、一日十五法以上の手当を給料の代りに与へる。
病気は、十五日間を限り、これまた給料の代りに十法以上の手当を給する。
或る寄席(ミュジク・ホオル)で、一人の歌劇女優を傭入れた時、その契約書に、こんな文句を書き入れてあつた。
「×夫人は、閉幕後と雖も、午前二時まで劇場に在るものとす。
夫たる×氏は、閉幕と同時に、如何なる事情あるも劇場を退去すべきことを契約す」
乱暴ですね。言語同断ですね。
既婚の婦人は夫の認可なくして劇場に傭はれること、また劇場側から云へば、傭入れることは出来ない法規がある。
十三歳以下の子供は舞台に立つことを許されない。
俳優は、新作の上演に当つて、その稽古の程度不充分と思惟した場合には、劇場主に開演日の延期を要求する権利がある。
勿論、一人だけそんなことを云つても駄目である。
「役者といふものはえたいの知れない「けだもの」だ。奴等は実際手綱をつけて引張つてやる必要がある――その必要があるのに、それに、さうされたがらない。そこなんだ、奴等が荷鞍で自分の背中を擦りむくのは。」
これは、二百五十年前モリエールの発した嘆声である。
仏蘭西の俳優について語るからには、「芸術と活動」社の首脳、ララ夫人を紹介しなければならない。
モンマルトルの高台、ルピック街のさゝやかな建物を、狭い階段を伝つて昇りきると、そこに、「芸術と活動」社のスチュヂオがある。
ララ夫人は、もう六十に近いと思はれる半白の老婦人であるが、その輝く眼にも、引締つた口元にも、豊な頬と頤の線にも、殊に、心持ちわざとらしい笑顔の中にも、人を魅する力――男をとは云はない――を充分にもつてゐる。夫君は富裕な建築師である。夫人は、最近、国立劇場コメディー・フランセエズの幹部たる位置を弊履の如く捨てゝ、因襲と生気なき伝統の束縛を脱し、「止まりて安きを望まんより、進んで躓かん。躓かば勇を鼓して更に起たんのみ」と、自ら「新芸術の肯定と擁護」を標榜して、若き芸術家の群に投じたのである。
――泣いてやしませんよ。
そこで、美術展覧会、演奏会、詩の朗読会、脚本の試験等が度々催される。
筆者は、ララ夫人を主役とするポオル・クロオデルの「正午の分割線」を聴いた。そして感嘆之を久しうした。よかつたですよ。クロオデルは、ほんとうに偉いと思つた。これは失礼、ララ夫人はおそろしい芸術家だと思つた。役者も、かうなると、ほんとうにわれわれの仲間ですね。態度がね、意気がね。
うれしかつた。ほんとうにうれしかつた。――え、僕、泣いてやしませんよ。
ララ夫人は、「真の芸術的演劇は、室内劇である」と云ふ。
おや、こんなことをお話しするのではありませんでしたね。
「コポオさんにお会ひになりたいんですか、ヴィユウ・コロンビエの……。大使か文部大臣の紹介状を持つてゐらつしやい」
これには一寸面喰つた。
コポオは愛国者である。ララ夫人は左傾党である。
そのララ夫人が、亜米利加あたりから流れて来た日本声楽家の「剣の舞」といふものを観て悦んだ。一度、躓いたね。早く起き上つて下さい。
仏蘭西の役者は――仏蘭西人だからでもあるが――如何にも仏蘭西の役者らしい。
何を云つてるんだ。
然し、実際、さうなんだから仕方がない。
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Medium
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ミルトンは情熱を以て大詩人の一要素としたり。深幽と清楚とを備へたるは少なからず、然れどもまことの情熱を具有するは大詩人にあらずんば期すべからず。サタイアをもユーモアをも適宜に備ふるものは多くあれど、情熱を欠くが故に真正の詩人たらざるもの挙て数ふべからず。情熱なきサタイアリストの筆は、諷刺の半面を完備すれども、人間の実相を刻むこと難し。ボルテーアとスウ※(小書き片仮名ヰ)フトの偉大なるは、その諷刺の偉大なるに非ずして、其情熱の熾烈なるものあればなり。ユーモリストに到りては自ら其趣を異にすれども、之とても亦た隠約の間に情熱を有するにあらざれば、戯言戯語の価直を越ゆること能はざるべし。
然はあれども尤も多く情熱の必要を認むるはトラゼヂーに於てあるべし。シユレーゲルも悲曲の要素は熱意なりと論じられぬ。熱意、情熱畢竟するに其素たるや一なり。情熱を欠きたる聖浄は自から講壇より起る乾燥の声の如く、美術のヱボルーシヨンには適ひ難し。情熱を欠きたる純潔は自から無邪気なる記載に止りて、将た又た詩的の変化を現じ難し。情熱を欠きたる深幽は自からアンニヒレーチーブにして、物に触れて響なく、深淵の泓澄たる妙趣はあれども、巨瀑空に懸つて岩石震動するの詩趣あらず。凡そ美術の壮快を極むるもの、荘厳を極むるもの、優美を極むるもの、必らず其の根底に於て情熱を具有せざるべからず。内に欝悖するところのものありて、而して外に異粉ある光線を放つべし、情熱はすべてこのものに奇異なる洗礼を施すものなり、特種の進化を与ふるものなり、「神聖」といふ語、「純潔」といふ語などに、無量の味ある所以のものは畢竟或度までは比較的のものにして、情熱と纏繋するに始まりて、情熱の最後の洗礼によりて、終に殆んど絶対的の奇観を呈す。
詩人は人類を無差別に批判するものなり、「神聖」も、「純潔」も或一定の尺度を以て測量すべきものにあらず、何処までも活きたる人間として観察すべきものなり、「時」と「塲所」とに涯られて、或る宗教の形に拘はり、或る道義の式に泥みて人生を批判するは、詩人の忌むべき事なり。人生の活相を観ずるには極めて平静なる活眼を以てせざるべからず。写実は到底、是認せざるべからず、唯だ写実の写実たるや、自から其の注目するところに異同あり、或は殊更に人間の醜悪なる部分のみを描画するに止まるもあり、或は特更に調子の狂ひたる心の解剖に従事するに意を籠むるもあり、是等は写実に偏りたる弊の漸重したるものにして、人生を利することも覚束なく、宇宙の進歩に益するところもあるなし。吾人は写実を厭ふものにあらず、然れども卑野なる目的に因つて立てる写実は、好美のものと言ふべからず。写実も到底情熱を根底に置かざれば、写実の為に写実をなすの弊を免れ難し。若し夫れ写実と理想と兼ね備へたるものに至りては、情熱なくして如何に其の妙趣に達するを得べけんや。
情熱は虗思の反対なり、情熱は執なり、放にあらず。凡そ情熱のあるところには必らず執るところあり、故に大なる詩人には必らず一種の信仰あり、必らず一種の宗教あり、必らず一種の神学あり、ホーマーに於て希臘古神の精を見る、シヱーキスピーアに於て英国中古の信仰を見る、西行に於て西行の宗教あり、芭蕉に於て芭蕉の宗教あり、唯だ俗眼を以て之を視ること能はざるは、凡ての儀式と凡ての形式とを離れて立てる宗教なればなり。彼等の宗教的観念は具躰的なるを得ざるも、之を以て宗教なしと言ふは、宗教の何物たるを知らざる論者の見なり。人類に対する濃厚なる同情は、以て宗教の一部分と名づく可からざるか。人類の為に沈痛なる批判を下して反省を促がすは、以て宗教の一部分と名く可からざるか。トラゼヂーも以て宗教たるを得べく、コメデーも以て宗教たるを得べし。然れども誤解すること勿れ、吾人は彼の無暗に宗教と文学を混同して、その具躰的の形式に箝めんとまでに意気込みたる主義に左袒するものにあらず。
宗教(余が謂ふ所の)は情熱を興すに就いて疑ひなく一大要素ならずんばあらず。是非と善悪とを弁別するに最大の力を持てる宗教なかつせば、寧ろブルータルなる情熱を得ることあるとも、優と聖と美とを備へたる情熱は之を期すべからず、宗教的本能は人心の最奥を貫きて、純乎たる高等進化をすべての観念に施すものなり。あはれむべき利己の精神によつて偸生する人間を覚醒して、物類相愛の妙理を観ぜしめ、人類相互の関係を悟らしむるもの、宗教の力にあらずして何ぞや。茲に宗教あり、而して後に高尚なる情熱あり、宗教的本能を離れざる情熱が美術の上に、異妙のヱボルーシヨンを与ふるの力、豈軽んずべけんや。
いかに深遠なる哲理を含めりとも、情熱なきの詩は活きたる美術を成し難し。いかに技の上に精巧を極むるものと雖、若し情熱を欠けるものあれば、丹青の妙趣を尽せるものと云ふべからず。美術に余情あるは、その作者に裡面の活気あればなり、余情は徒爾に得らるべきものならず、作者の情熱が自からに湛積するところに於て、余情の源泉を存す。単純なる摸倣者が人を動かすこと能はざるは、之を以てなり。大なる創作は大なる情熱に伴ふものなり、創作と摸倣、畢竟するに、情熱の有無を以て判ずべし、然り、丹青家が無意味なる造化の摸倣を以て事とし、只管に虚譫をのみ心とするは、抑も情熱を解せざるの過ちなり。
顧みて明治の作家を屈ふるに、真に情熱の趣を具ふるもの果して之を求め得べきや。露伴に於て多少は之を見る、然れども彼の情熱は彼の信仰(宗教?)によりて幾分か常に冷却せられつゝあるなり。彼は情熱を余りある程に持ちながら、一種の寂滅的思想を以て之を減毀しつゝあるなり。彼がトラゼヂーの大作を成さゞるは、他にも原因あるべけれど、主として此理あればなるべし。紅葉の情熱は宗教と共に歩まず、常に実際と相追随するものなり、故に彼は世相に対する濃厚なる同情を有すると雖、其の著作の何とやら技の妙に偏して、想の霊に及ばざるは寧ろ情熱の真ならざるに因するにあらずとせんや。美妙に於ては殆情熱と名くべきものあるを認めず。舒事家としては知らず、写実家としての彼の技倆は紅葉に及ぶべからず。湖処子を崇拝する人々にして荐りに彼の純潔を言ふ者あるは好し、然れども余は彼の純潔が情熱の洗礼を受けたるものにあらざるを信ずるが故に、美しき純潔なりと言ふを許さず。嵯峨のやにおもしろき情熱あるは実なり、然れども彼の情熱は寧ろ田舎法師の情熱にして、大詩人の情熱を離るゝこと遠しと言ふべし。頃日古藤庵の悲曲続出するや、読者孰れも何となく奇異の観をなすと覚ゆ、要するに古藤庵の情熱、自から従来の作者に異るところあればなるべし、悲曲としての価値は兎も角も、吾人は其の情熱を以て多く得難きものと認めざるを得ず。斎藤緑雨におもしろき情熱あるは彼の小説を一見しても看破し得るところなれど、憾むらくはその情熱の素たる自から卑野なるを免かれず、彼の如く諷刺の舌を有する作者にして、彼の如く野賤の情熱をもてるは惜しむべき至りなり、彼をして一年間も露伴の書斎に籠もらしめばやと外目には心配せらるゝなり。今日の作家が病はその情熱の欠乏に基づくところ多く、人間観に厳粛と真贄とを今日の作家に見る能はざるもの、職として之に因せずんばあらず。好愛すべきシンプリシチーと愛憐すべきデリケーシーとを見る能はざるも、職として之に因せずんばあらず。若し日本の固有の宗教を解剖して情熱と相関するところを発見するを得ば、文学史上に愉快なる研究なるべけれども、之れ余が今日の業にあらず、聊か記して識者に問ふのみ。
(明治二十六年九月)
| 0.763
|
Hard
| 0.671
| 0.225
| 0
| 1
| 3,127
|
Aozora Text Difficulty Dataset
This dataset contains Japanese literary texts from the Aozora Bunko digital library, enhanced with jReadability-based difficulty analysis for Japanese language learning and curriculum development.
Dataset Overview
- Source: Aozora Bunko (青空文庫) - Japan's premier digital library of public domain literature
- Enhancement: jReadability-based difficulty scoring using research-backed Japanese readability models
- Primary Methodology: jReadability - A Python implementation of Lee & Hasebe's Japanese readability evaluation system
- Use Cases: Japanese language curriculum design, reading level assessment, adaptive learning systems, difficulty-controlled text generation
- License: Original Aozora Bunko texts are public domain; analysis code and scores are provided under open source terms
📊 Dataset Structure
Total Records: 5,000 Japanese texts Total Columns: 21 Column Categories: Original Data (3) + Core Difficulty Scores (6) + Detailed Metrics (11) + Legacy Score (1)
🗂️ Column Descriptions
Original Data Columns (3)
| Column | Type | Description |
|---|---|---|
text |
string | Full Japanese text content from Aozora Bunko (50-532,561 characters) |
footnote |
string | Publishing information and bibliographic details in Japanese |
meta |
string | JSON metadata with work ID, title, author, and readings |
Core Difficulty Scores (6) - Main Features for Learning
| Column | Type | Range | Description |
|---|---|---|---|
overall_difficulty |
float64 | 0.0-1.0 | Primary difficulty score based on jReadability model |
kanji_difficulty |
float64 | 0.0-1.0 | Complexity based on kanji grade levels and density |
lexical_difficulty |
float64 | 0.0-1.0 | Vocabulary complexity using authentic frequency data |
grammar_complexity |
float64 | 0.0-1.0 | Grammatical structure complexity |
sentence_complexity |
float64 | 0.0-1.0 | Sentence length and structure variation |
difficulty_level |
string | categorical | Curriculum classification: Beginner/Elementary/Intermediate/Advanced/Expert |
Detailed Linguistic Metrics (11)
| Column | Type | Description |
|---|---|---|
text_length |
int64 | Total character count including punctuation |
kanji_density |
float64 | Proportion of Chinese characters (0.0-1.0) |
avg_sentence_length |
float64 | Average characters per sentence |
joyo_grade_avg |
float64 | Average educational grade of kanji used (1-9 scale) |
lexical_diversity |
float64 | Unique words ÷ total words (vocabulary richness) |
non_joyo_percentage |
float64 | Proportion of advanced kanji beyond standard education |
avg_word_length |
float64 | Average characters per word |
katakana_percentage |
float64 | Proportion of katakana (foreign/technical words) |
word_frequency_score |
float64 | Vocabulary rarity score (0=common, 1=rare) |
sentence_length_variance |
float64 | Statistical variance in sentence lengths |
grammar_complexity_score |
float64 | Grammatical pattern complexity score |
Legacy Compatibility (1)
| Column | Type | Range | Description |
|---|---|---|---|
difficulty_score |
float64 | 0.0-10.0 | Traditional 10-point difficulty scale for compatibility |
🎯 Difficulty Calculation Methodology
Primary Difficulty Score: jReadability Model
The overall_difficulty score is calculated using the jReadability Python library, which implements the research-backed Japanese readability model developed by Jae-ho Lee and Yoichiro Hasebe.
jReadability Model Formula:
readability = {mean words per sentence} × -0.056
+ {percentage of kango} × -0.126 # Chinese-origin words
+ {percentage of wago} × -0.042 # Native Japanese words
+ {percentage of verbs} × -0.145
+ {percentage of particles} × -0.044
+ 11.724
Score Normalization:
- jReadability output: 0.5-6.5 (higher = easier)
- Our normalization:
(6.5 - jreadability_score) / 6.0→ 0-1 scale (higher = harder)
Curriculum Level Classification
- Beginner (0.00-0.19): Basic modern Japanese
- Elementary (0.20-0.34): Simple literary texts
- Intermediate (0.35-0.54): Standard literary works
- Advanced (0.55-0.74): Complex literary language
- Expert (0.75-1.00): Classical or highly sophisticated texts
Supporting Linguistic Metrics
- Kanji Analysis: 3,003 kanji with official educational grades from kanjiapi.dev
- Vocabulary Analysis: wordfreq library with real corpus data
- Grammar Analysis: Pattern-based complexity scoring using formal Japanese constructions
- Sentence Analysis: Length variation and structural complexity measures
Research Foundation
- Lee, J. & Hasebe, Y. Introducing a readability evaluation system for Japanese language education
- Lee, J. & Hasebe, Y. Readability measurement of Japanese texts based on levelled corpora
- Model specifically designed for non-native Japanese learners (not native speaker grade levels)
📈 Dataset Statistics
jReadability-Based Analysis Results (5,000 texts):
- Overall Difficulty: Mean 0.547 (0.0-1.0 scale)
- Difficulty Distribution:
- Beginner: 97 texts (1.9%)
- Elementary: 552 texts (11.0%)
- Intermediate: 2,047 texts (40.9%)
- Advanced: 1,690 texts (33.8%)
- Expert: 614 texts (12.3%)
Text Characteristics:
- Text Length: 50 - 532,561 characters (mean: ~11,285)
- Kanji Density: 29.4% average
- Average Joyo Grade: 3.71 (elementary-intermediate level)
- Lexical Diversity: 0.270 (moderate vocabulary variation)
🔬 jReadability Advantages
Why jReadability?
- Research-Backed: Based on empirical studies of Japanese learner corpora
- Learner-Focused: Designed specifically for non-native Japanese speakers
- Linguistic Sophistication: Considers Japanese-specific features (kango/wago ratios, particle usage)
- Reproducible: Standardized implementation with consistent results
- Validated: Published research with proven correlation to learner difficulty perception
Improvements Over Composite Scoring
- Holistic Assessment: Considers text as a unified linguistic entity rather than separate features
- Native Speaker Bias Reduction: Avoids assumptions based on native speaker intuitions
- Empirical Foundation: Based on actual learner performance data
- Standardized Scale: Consistent 6-level difficulty assessment widely used in Japanese education
💻 Usage Examples
Loading the Dataset
from datasets import load_dataset
# Load the complete dataset
dataset = load_dataset("ronantakizawa/aozora-text-difficulty")
train_data = dataset['train']
Filtering by Difficulty Level
import pandas as pd
df = train_data.to_pandas()
# Get beginner-level texts
beginner_texts = df[df['difficulty_level'] == 'Beginner']
# Get texts within specific difficulty range
intermediate = df[
(df['overall_difficulty'] >= 0.35) &
(df['overall_difficulty'] < 0.55)
]
# Filter by kanji difficulty for kanji learning
easy_kanji = df[df['kanji_difficulty'] < 0.3]
Analyzing Text Metrics
# Examine vocabulary complexity
rare_vocab = df[df['word_frequency_score'] > 0.7]
# Find texts with specific sentence patterns
short_sentences = df[df['avg_sentence_length'] < 30]
# Analyze kanji grade distribution
elementary_kanji = df[df['joyo_grade_avg'] <= 4.0]
🎓 Applications
- Language Learning: Personalized reading recommendations based on learner level
- Curriculum Design: Structured progression of reading materials using research-backed difficulty assessment
- Assessment Tools: Automatic text difficulty evaluation for placement using jReadability standards
- Research: Japanese language complexity and readability analysis with validated metrics
- EdTech: Adaptive learning system development and content curation
- Text Generation: Difficulty-controlled generation of Japanese educational content
- Reading Comprehension: Graded text selection for language learning platforms
🛠️ Technical Implementation
jReadability Integration
from jreadability import compute_readability
# Calculate jReadability score
jreadability_score = compute_readability(japanese_text)
# Normalize to 0-1 difficulty scale (0=easiest, 1=hardest)
overall_difficulty = max(0.0, min(1.0, (6.5 - jreadability_score) / 6.0))
Batch Processing
For optimal performance when processing large datasets:
from fugashi import Tagger
from jreadability import compute_readability
# Initialize tagger once for batch processing
tagger = Tagger()
# Process multiple texts efficiently
for text in texts:
score = compute_readability(text, tagger) # Reuse tagger
Dependencies
- jreadability: Research-backed Japanese readability calculation
- fugashi: Fast Japanese morphological analysis (MeCab wrapper)
- unidic-lite: Japanese linguistic resources
- wordfreq: Authentic Japanese word frequency data
🔗 Related Datasets
- Japanese Character Difficulty Dataset - Kanji grades used in this analysis
- jReadability GitHub - Original jReadability implementation
📚 Acknowledgments
- Aozora Bunko for providing the foundational literary corpus
- kanjiapi.dev for comprehensive kanji educational data
- wordfreq project for authentic Japanese frequency data
📄 Citation
If you use this dataset in your research, please cite:
@dataset{aozora_text_difficulty_2024,
title={Aozora Text Difficulty Dataset},
author={Claude Code Analysis},
year={2024},
publisher={Hugging Face},
url={https://huggingface.co/datasets/ronantakizawa/aozora-text-difficulty}
}
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