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ベルサイユの講和条約に、国境劃定委員会が出来て、その一分科である墺伊両国間の国境劃定に日本からも委員を出すことゝなつて服部兵次郎少将(当時中佐)が任命され、私は通訳として随行した。少々古い話だが――。
墺伊の国境にはチロルといふローマ時代の伝統をそのまゝ保存してゐる歴史的の小国がある。こゝは谷あひの、景勝の地を占め、いかにも平和な気の靉靆たる所で、欧洲人の避暑地、避寒地となつてゐる。私が此の国を訪れた時は戦後のためあまり入りこんでゐる人もなく、静かな旅行を続けることが出来た。
その一寒村、シユワルツエンシユタインに今もローマ時代の古城が残つてゐる。伊太利の某公爵夫妻が、一人の孫娘と淋しい生活を送つてゐたが、私の当時の記録には次のやうにある。
シユワルツエンシユタイン
ローマの古城、今は何とか公爵の隠遁所
金髪の少女が、乳桶を提げて出て来る
もう、鶏頭の花が咲いてゐる
(「言葉、言葉、言葉」中のチロルの旅の一節より)
朽ちはてた古城の一角で可憐な、しかも見惚れるほど気品のある一少女を発見して、私は忽ち芸術的感興に唆かされ、カメラを向けたのがこれである。意図はいゝのだが、腕がそれに伴はなかつたのが残念至極である。
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あるところに、なに不足なく育てられた少女がありました。ただ一人ぎりで、両親にはほかに子供もありませんでしたから、娘は生まれると大事に育てられたのであります。
世間にも知られるほどの金持ちでありましたから、娘はりっぱな家に住み、食べ物から着る物まで、ほかの子供らには、とうていそのまねのできないほど、しあわせに日を送ることができたのであります。
娘は大きくなると、それは美しゅうございました。目はぱっちりとして、髪の毛は黒く長く、色は白くて、この近隣に、これほど美しい娘はないといわれるほどでありましたから、両親の喜びは、たとえようがなかったのであります。
けれど、ここに一つ両親の心を傷めることがありました。それは、こんなに美しい娘が、いつも黙って、沈んでいて、うれしそうな顔をして笑ったことがなかった。
「なぜ、あの子は笑わないだろう。」
「まんざらものをいわないこともないから、おしではないが、いったいどうした子だろう。」
両親は、顔を見合わせて、うすうす我が子の身の上について心配しました。
なにしろ、金はいくらもありますから、金でどうにかなることなら、なんでも買ってやって、娘の快活にものをいい、楽しむ有り様をば見たいものだと思いました。
そこで、町へ人をやって、流行の美しい、目のさめるような華やかな着物や、また、飾りのついた人形など、なんでも娘の気に入りそうなものを、車にたくさん積んで持ってきて、娘の前にひろげてみせました。
娘は、ただ一目それを見たぎりで、べつにほしいともうれしいともいわず、また、笑いもしませんでした。両親は、娘の心を悟ることができなかった。
「なにか、心から娘を喜ばせるような美しいものはないものか。いくら高くても金をば惜しまない。」と、両親は、人に話しました。
そのことが、ちょうど旅から入り込んでいた、宝石屋の耳に、はいりました。すると宝石屋は、ひざを打って喜んで、これは、一もうけできると心で思いながら、その金持ちの家へやってきました。
「どんなに、気の沈んだお嬢さんでも、私の持ってきた、宝石をごらんになれば、こおどりしてお喜びなさるにちがいありません。それほど美しい、珍奇なものばかりです。」と、箱を前に置いていいました。
両親は、娘さえ喜んで、笑い顔を見せてくれれば、いくらでも金を出すといって、さっそく娘をそこへ呼びました。
しとやかに、娘は、そこに入ってきました。そして、両親のそばにすわりました。
「お嬢さん、これをごらんください。」といって、宝石屋は、箱のふたを開きました。すると、一時に、赤・青・緑・紫、さまざまの石から放った光が、みんなの目を射りました。
両親はじめ、平常それらの石を扱いつけている男までが、目のくらみそうな思いがしましたのに、娘の顔は、びくともせずに、かえって、さげすむような目つきをして、冷ややかに見下ろしていたのであります。
「お嬢さん、こんな美しい石をごらんになったことがありまして?」と、宝石屋は、驚きの目をみはっていいました。
「私は、毎夜、これよりも美しい星の光をながめています。」
と、娘は平気で答えました。
さすがに、自慢の宝石屋も、この答えにびっくりして、そうそうに箱を抱えて、その家から逃げ出してしまいました。
やがて、このことと、娘が沈んでいて笑わないといううわさが、世間に伝わりました。
あるところに、その話を聞いて、たいへん娘に同情をして、気の毒がったおじいさんがあります。そのおじいさんは、もう頭が真っ白でした。そして、背が低く、いつも太いつえをついて歩いていました。
「私の考えるに、その娘は、詩人というものじゃ。宝石より空の星が美しいとは、いまどきには、めずらしい高潔な思想じゃ。平常、沈んでいるのも、ものをいわないのもよくわかるような気がする。私がいって、その娘にあってやろう。」と、おじいさんはいって、独りできめてしまいました。
おじいさんは、つえをついて、ある日、その家をたずねました。そして、自分は娘を救いにやってきたことを両親に話しました。
両親は、この老人が、徳の高い人だということを知っていました。そして、そのしんせつを心から感謝しました。
「どうしたら、娘がもっと快活にものをいったり、笑ったりするようになるでしょうか。」と、両親は、老人に問いました。
「性質というものは、そう容易に変わらないものじゃ、けれどお嬢さんは、金持ちの家に生まれながら、衣服や、宝石などよりも、空の星を愛されるところをみると、たしかに詩人になられる素質があるようだ。そういう人を教育するには、物質ではいけない。やはり音楽や自然でなければならない。感情・趣味、そういう方面の教育でなければならないと思われる。これから、私は、お嬢さんに、音楽を教え、自然を友とすることを教えましょう。もっと生まれ変わったように、快活なお方となられると思うじゃ。」と、老人はいいました。
両親は、これを聞くと、たいそう喜びました。そこで、この老人に、娘の教育を頼みました。老人は、娘に音楽を教えました。また広い圃にはいろいろな草花を植えました。あるときはその花の咲いた園の中で、楽器を鳴らしました。小鳥は、その周囲の木々に集まってきました。美しいちょうは、ひらひらと飛んできて花の上を舞いながら、いい音楽のしらべに聞きとれているように見えました。こんな日が幾日もつづきましたけれど、娘は笑いませんでした。笑わないばかりでなく、前よりもいっそう顔の色が青白く、やつれて見えるのでありました。両親はたいそう心配しました。老人は、不思議に思いました。
「なんで、あなたは、そんなに憂わしい顔つきをしているのじゃ。」と、老人は、娘にききました。
すると、娘は、目にいっぱい涙をためて、
「この真っ赤な花弁に、晩方の風がかすかに吹き渡るのをながめますと、私はたまらなく悲しくなります。音楽の音色も私の心を楽しませることはできません。」と、娘は答えました。
さすがに徳の高い老人も、このうえ娘を快活にする術を考えることはできなくなりました。そして、暇を告げて、老人はどこへか、つえをつきながら立ってしまいました。
このうわさは、また世間に広がりました。
「だれか、あの金持ちの娘を笑わせるものはないか。」と、人々はいいました。
このことを、ある年の若い医者が聞きました。その医者は学者でありました。そして、あまり世間には顔を出さず、いっしょうけんめいに研究をしているまじめな人でありました。医者はこの話を聞くと、興味をもちました。
「その娘は、一種の精神病者にちがいなかろう。診察をして、できることなら自分の力でなおしてやりたいものだ。」と思いました。
年の若い、まじめな医者は、金持ちの家へやってきました。両親は、医者の話を聞いているうちに、もしや自分の娘は、精神病者でないかというような疑いを抱きましたから、
「どうぞ、早くご診察をしてください。そして、あなたのお力でなおることなら、どうぞなおしてください。」と、医者に頼みました。
医者は、娘について、いろいろ診察をしました。けれど、心臓は正しく打っており、肺は強く呼吸をし、どこひとつとして狂っているところはないばかりか、すこしも精神病者らしいところも見うけなかったのです。
「なぜ、あなたは笑いませんか?」と、まじめな医者は娘にたずねました。
「私には、どうしても笑えないのです。」と、娘は答えた。
「なぜですか?」
「なぜだか、それが私にもわからないのです。」と、娘は答えました。
医者は、それは自分の研究すべき領分でないことを感じました。そして、頭をかしげて、その家から去ってしまったのです。
そのころ、ちょうど旅から曲馬師が、この村に入ってきて、この話を聞きますと、
「若い時分には、そんなような性質の娘さんがあるものだ。私は、よくその娘さんの気持ちを知っている。」といいました。
この年をとった曲馬師は、堅いしんせつな人でありました。ある日、娘の家へたずねてきて、
「私に、娘さんをおあずけください。きっと快活な、愉快な人にしてあげますから。」と申しました。
両親は、大事な娘を、旅の曲馬師にあずけることを躊躇しましたが、その人がたいへんにしんせつな、正直な人だということがわかりましたものですから、娘に聞いてみました。
「私は、遠い国の知らない町を見たいと思っていましたから、どうかやってください。」と頼みました。
曲馬師は、両親から娘をあずかりました。娘は、その人たちの一行に加わって、故郷を出発したのであります。
それから、娘は南の町へゆき、あるときは西の都にまいりました。そして、いろいろの人たちに交わりました。春も過ぎ、夏もゆき、はやくも一年はたちました。両親は、娘のことを案じ暮らしていました。
ある日の暮れ方に、不意に娘が帰ってきました。両親は、見違えるように我が子の美しく、快活になっていたのに驚いたのです。
「どうして、おまえは、そんなに生まれ変わったように、おもしろそうに笑うようになったか?」と問いました。
「だって、世の中は、愉快なんですもの。」と、娘は答えた。
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Medium
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少年老い易し、麗人は刻を千金の春夜に惜む。われらがわかき日の小詩はまさに涙を流して歌ふべし。瑠璃いろ空のかはたれにわすれなぐさの花咲かばまた、過ぎし夜のはかなき恋も忍ぶべし。ここに選び出でたるはわが幼きより今にいたるあらゆる詩集の中より、ことに歌ひ易く調やさしき断章小曲のかずかず、すべてみな見果てぬ夢の現なかりしささやきばかり、とりあつむればあはれなることかぎりなし。かの西の国の詩人が
ながれのきしのひともとは
みそらのいろのみづあさぎ
なみことごとくくちづけし
はたことごとくわすれゆく。
と歌ひけむ。なにごともながれゆく水のながれのひとふれのみ。忘れえぬ人びとよ、われらが若さは過ぎなむとす。嘆かば嘆け。羊の皮の手ざはりに金の箔押すわがこころ、思ひあがればある時は、紅玉サフアイヤ、緑玉、金剛石をも鏤めむとする、何んといふ哀しさぞや、るりいろ空に花咲かば忘れなぐさと思ふべし。
大正四年四月白秋識
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Medium
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彼が恥ずかしそうに下を向いた
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元禄享保の頃、関西に法眼、円通という二禅僧がありました。いずれも黄檗宗の名僧独湛の嗣法の弟子で、性格も世離れしているところから互いは親友でありました。
法眼は学問があって律義の方、しかし其の律義さは余程、異っています。或る時、僧を伴れて劇場の前を通りました。侍僧は芝居を見たくて堪りません。そこで師匠の法眼が劇場の何たるかを知らないのに附け込んで、斯う言いました。
「老師、この建物の中には尊いものが沢山あるのでございます。一つお詣りしていらっしては如何です」
法眼は暫らく立佇って考えていましたが、手を振って言いました。
「今日は是非行かねばならん用事があるのだ。そうもして居られない。だが、そう聴いた以上は素通りもなるまい。せめて結縁のしるしなりと、どれ」
と言って木戸番の前へ行って合掌礼拝しました。
円通の方は無頓着、飄逸という方です、或る人が此の禅僧に書を頼んだ事がありました。
円通は興にまかせて流るるような草書を書いて与えました。受取った人は大悦び、美しい筆の運びに眼を細めましたが、さて何と書いてあるのか余りひどいくずし方で読めません。立戻って円通に訊いてみたところが、筆者自身の円通さえ読めないという始末。けれども円通は一向平気でした。
「私の門人のSという男が、私の字を読み慣れている。これは其の方へ持って行って読みこなして貰う方が早道と思うが」
先ずこんな調子の人物でした。
法眼は不断、紀州に住み、円通は大阪に住んでいました。ところが法務の都合で二人は偶然、京都に落合ってしばらく逗留する事になりました。こういう二人が顔を合せたのですから、変った出来事が起るのも無理はありません。
京都の遊里として名高いのは島原ですが、島原は三代将軍家光の時分に出来、別に祇園町の茶屋というのが丁度此の時分に出来て、モダンな遊里として市中に噂が高かった。それがどうやら、二禅僧の耳にも入りました。もとより噂を生聴きの上、二人の性格からしても、その内容を察しられそうにも思われません。ただ
「折角、京都へ来た事でもあるから、その評判の茶屋とかいうものも見学しとこうではないか」
このくらいな、あっさりした動機で二人は連れ立って茶屋探険に出かけました。
襟の合せ目から燃えるような緋無垢の肌着をちらと覗かせ、卵色の縮緬の着物に呉絽の羽織、雲斎織の袋足袋、大脇差、――ざっとこういう伊達な服装の不良紳士たちが沢山さまようという色町の通りに、僧形の二人がぶらぶら歩く姿は余程、異様なものであったろうと思います。二人は、簾を垂らした中から艶っぽい拵え声で「寄らしゃりませい寄らしゃりませい」とモーションをかけている祇園の茶屋を、あちらこちらを物色して歩きましたが、いかさま探険するなら成るたけ大きな家がよかろうというので、門構えの立派な一軒へつかつかと入りました。そして
「私は摂津国法福寺の円通と申す禅僧、これなるは紀州光明寺の法眼と申す連れの僧、御主人も在らばお目にかかり度い」
と堅苦しく申入れました。取次ぎの女中から様子を聴いた茶屋の主人はびっくりしました。何の用事か知らないが、法眼、円通といえば当時噂に高い清僧たち、失礼があってはいけないと言うので、女中たちに云い含め、いとも丁寧に座敷へ通して正座に据え、自分は袴羽織で挨拶に出ました。これを見て、感心した法眼は円通に向って言いました。
「どうだ、茶屋というものは礼儀正しいものではないか」
主人が用向きを訊いてみると格別のことも無い様子、話の具合では、どうやら茶屋の遊びという事を清僧らしく簡単に思い做して、何も知らずに試みに来た様子。主人四郎兵衛は一時は商売並みにこの坊さんたちを遊興させて銭儲けをしようかとも思いましたが、二人の様子を見るのに余りに俗離れがしていて純情無垢のこどもに還っているのでこれに色町の慣わしのものを勧めるというのはどうにも深刻過ぎるように思え、また、二人の様子の、こどもの無邪気さに見えていながら、吹抜けてからっとした態度には、実に何もかも知り尽していながらわざと愚を装っているのではあるまいかと疑われるような奥底の知れない薄気味悪いものを感じまして、何も今更、自分等が職業にしているような普通人に魅力に感ぜられるものを、これ等の達人に与えて見せたところで、何だ、これしきのものかと一笑に附されるばかりでなく、あべこべに浅ましいこちらの腹の底まで読み取られそうな気がして、どう待遇したものか、四郎兵衛は思案に暮れていました。
夏の事ですから道喜の笹ちまき、それに粟田口のいちご、当時京都の名物とされていたこれ等の季節のものを運んで女中二三人が入れ交り、立ち交り座敷へ現れました。いずれも水色の揃いの帷子に、しん無しの大幅帯をしどけなく結び、小枕なしの大島田を、一筋の後れ毛もなく結い立てています。京女の生地の白い肌へ夕化粧を念入りに施したのが文字通り水もしたたるような美しさです。円通は先程からまじまじと女達の姿に見入っていましたが遂々感嘆の声を立てました。
「いや驚くほど美しい娘さんたちだ。揃いも揃って斯ういう娘さんがたを持たれた御主人は親御としてさぞ嬉しいことであろうな」
酌婦をすっかり此の家の令嬢と思い込んでしまったのでありました。この一言に、四郎兵衛は、もうこの客たちに遊興させようなぞという気は微塵も無くなりました。後は「へえー」と平伏して直ぐに座を立ち、信徒が帰依の高僧を供養する心構えで酒飯を饗応すべく支度にかかりました。
何にも知らぬ二僧は、すっかり悦んで箸を取りながら主人や女中を相手に四方山の咄の末、法眼が言いました。
「時に御主人、われ等ここへ斯う参って、御家族にお目にかかり懇な御給仕に預るのも何かの因縁です。折角の機会ですから娘御たちに三帰を授けてあげましょう。私の唱える通り、みなさんも合掌して唱えなさるがよい」
「それがいいそれがいい」
円通も賛成しました。まるで狐に憑かれたような顔をして互いに顔を見合せ、二僧を取巻いた主人と女中は環がたに坐って合掌しました。座敷はしんと静まり返りました。
夕風が立って来たか、青簾はゆらゆら揺れます。打水した庭にくろずんだ鞍馬石が配置よく置き据えられ、それには楚々とした若竹が、一々、植え添えてあります。色里の色の中とは思えぬ清寂な一とき。木立を距てた離れ座敷から、もう客が来ているものと見え、優婉な声で投げ節が聞えて来ます。
渡りくらべて世の中見れば阿波の鳴門に波もなし――
ここの座敷では法眼の錆びて淡々たる声で唱え出されました。
なむ きえ ぶつ――
なむ きえ ほう――
なむ きえ そう――
それを自然にまぬて口唱して居るうちに若い女たちは心の底から今までに覚えたことの無い明るい、しんみりした気持ちにさせられて、合せた手にも自ずから力が入りおやおや涙が出ると自分で不思議がるほど甘い軽快な涙が自然に瞼をうるおしているのでした。
なむ きえ ぶつ――
なむ きえ ほう――
なむ きえ そう――
一同はそれを繰り返しました。汲みかえられて、水晶を張ったような手水鉢の水に新月が青く映っています。
それが済んで二人は
「さて、帰ろう。御主人勘定はいくらですか」
「いえ、御出家からは頂戴致しません」
「ほほう、それは奇特な事ですな」
二人の清僧は寄寓の寺へ帰りました。そして大得意で茶屋見学の様子を若い僧たちに話して聴かせました。そして次の意見を附け加えました。
「成程、茶屋というところはよいところだ、若い僧の行き度がるのも無理はない。礼儀が正しくて、御馳走をして呉れて、金を取らんというのだから。あすこなら、みんなもせいぜい行きなさい」
青年僧達は茶屋の実際を経験してよく知って居ましたが、この二僧の茶屋探検観察談を聞いてからは、ふっつり内証の茶屋遊びを止めて仕舞いました。
一方、祇園の四郎兵衛の茶屋の女中たちは互いに噂をし合っていました。
「あの老僧たちは何という腕のある人達だろう。たった一時にしろ、あんなに人をしみじみした気持ちにさしてさ。私たちは幾つかの恋愛をしたけれども、どんな恋人からもあんな気持ちにさせられた事は一遍も無かった」
| 0.585
|
Hard
| 0.627
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彼がXで日頃のストレスを解消する
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|
Easy
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サラリーマンが休みを利用する
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Easy
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|
これはなんでござるか。
| 0
|
Easy
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| 11
|
斎藤さんの文学や、学問に理会のおそかったことが、私一代の後悔でもあり、遺憾でもある。勿論今の人たちのうちでは、私などが最長い愛読者であるには間違いない。ただその研究・作物を愛する道を知ることの遅れたことが、どんなに私の損失になっているかわからない。作家から言っても、千樫・赤彦と移って、其後、斎藤さんの具有する諸相を理会する時が、やっと到ったのである。それだけに、今における尊敬は、私にとって深刻なものである。が、何故もっと若い、触れ易く受けやすい時代に、斎藤さんを自分胸臆のものにしておかなかったかと思う。全面的に此人を感じることの出来たのは、今から思えば、肝腎私が、アラヽギを去って後のことであった。
松かぜは裏の山より音し来て、こゝのみ寺に しばし きこゆる
松かぜのとほざかりゆく音きこゆ――。麓の田居を 過ぎにけるらし
石亀の生める卵を くちなはが待ちわびながら 呑むとこそ聞け
こういう歌を作る境地に達した人と、しんから近づいて行って、心を重ねてものを言うことの出来ぬ寂しさを思うたことであった。その頃考えた。こういう極度に整頓した生活を表現することの出来る人が、同時に作った「石亀の歌」である。これにも尋常我々の音の感覚と変ったものが、通じているに違いない。これを唯作者の持つ特異の境地にある、異質のものと見過すのは間違っているだろう。そう思って、「がれいぢ」の歌・「ぼろ切れの如く」の歌・「ねずみの巣」の類の、それから後も続々あらわれた別殊の歌風にあるものとせられている歌の類を考え併せて行った。其作品に通じているある宗教観――或は逆に、宗教観を据えて見る時、理会の深くなるような種類――そういうものが、更にもっと底にあることを感じた。そして将来具相せられようとするものが、既に示されているらしいことをほのかに感じた。それが又後に愈著しくなって来ようとしていることを、私の心は、疑わなくなっていた。其が此人に逢う機会をなくした後の私に、気のついたことの一つであった。
互に近く山を距てて夏を住みながら、消息せずに暮した強羅の作を、幾度も見た。特に箱根山中でも、風物の変化の乏しい所に夏毎を籠って、而もあれだけの量の作物を為している。山を距てて姥子の奥に起臥して居た私などは、唯驚歎するばかりだ。風物によってのみ作っている我々から立ち離れて、風物自身の如く、静かにたたみ込まれた心の奥を打ち出して来る事の出来る境地に達した事を意味しているのだ。これに前後して、長崎の歌があり、更に一日のうち物を言わずして過すことの多い、そうして見る風物も、何一つ親昵感を起す物なき欧洲遠行中の多量の歌。又支那・満洲の無限につづく連作とも言うべき歌々。それから近年の北海道の諸作。それらのものの上に通じていて、而もどうしてもはっきり顕れて来ない姿のあることが、思われていた。
長い日のうちに、ただ一度二度異国のおとめが用を達するため、どあを開いて声をかけて来る。――こういう人間接触も、歌にすることの出来る人は、少しは、あるだろう。併し、唯物もない水平線や流沙に向って、倦んじ暮す大洋平原を心に活して詠むことの出来た人は、他に誰があったろう。国境を越えて更に国境へ――長い鉄路の経験――唯もう漠々たる長沙を幾日も眺め暮す生活などは、座談にのぼすことすらおっくうな筈である。而も、それをちゃんと、生活からかっきり截り出して作品にしている。ほかに学問や歌に対する手柄はいろいろあるが、この一つは、よく我々の同時代人には、見取っておいてほしいものである。
我々の次々の時代には、もうどういう風に、歌の考え方が変っているか訣らないからである。殆こう言う空虚を歌にすることの出来た人は、前人には一人もいなかったと言うことが言いたいのである。斎藤さんが、最尊敬する万葉人には、ややそうした風も見えるが、これはただ音調のみの世界を描き得たものがあるというだけのことであった。私をこわがらせる――こうした空虚を具相する心、此人の心を俟って具相し得た真実相が、茲にはあったことを言っておきたいのである。
日本人が尊び馴れて来た観念文学には、更に奥があって、それがこの人にとりあげられている。そういうことが、自信を失ってしまった日本人の心に、新しい力となって来ること、其に期待を掛けずには居られない。
茂吉文学の愛唱せられている奥に、更に見忘れられた真実がある。そう言うことも考える必要がありはしないか。
だが此事は、もっとこの人の人柄から出る学問と、関聯させて説くべきであった。
〔一九五二年四月〕
| 0.554
|
Hard
| 0.62
| 0.205
| 0.263
| 0.698
| 1,900
|
❶農林省案と政調会案とはどちらが妥当か。
正しいとかどうかという問題じやない。政調会長として…そんなこと質問にならんですよ。
❷農産物の二重価格制を採用すべきかどうか。
二重価格とはどんなことなのですか。改進党が主張してるつて?改進党がどういつてるか僕は分らん。こういう問題、一概にはいえませんよ。
❸農相の任免をめぐつて首相の側近人事という風評があるが……
知りません。総理大臣が任命されるんだから、長老とか役員とか相談してやつてるだろう。僕は当時三役でなかつたから知らない。
❹内田氏と保利氏とどちらが適任か。
両方とも適任、立派な人です。総理大臣が任命されることだから。
❺大政調会制度で閣僚がロボット化し、各省の責任の所在が稀薄にはならないか。
自由党の内閣だから両者のちがいはないはず。できるだけ党の公約を内閣へ申出るが、内閣を拘束するものではない。内閣と党とが調整していく。政調会には練達の士や、専門家がいて熱心にやつている。官僚ハダシですよ。
❻もつと麦を食べろという議論をどう思うか。
僕は自分で実行している、サアどのくらい混ぜてるかナ? ただ小麦を輸入する場合は、小麦が食えるようなタンパク、脂肪がないといけない。その問題で、経団連の意見はそのまま実行できぬという政調会副会長の意見だつた。
| 0.545
|
Medium
| 0.645
| 0.245
| 0
| 0.227
| 566
|
その頃の絵は、今日のやうに濃彩のものがなくて、何れもうすいものでした。恰度春挙さんの海浜に童子の居る絵の出たころです。そのころは、それで普通のやうにおもつてゐたのでした。今日のは、何だか、そのころからみるとずつと絵がごつくなつてゐるとおもひます。
法塵一掃は墨絵で、坊さんの顔などは、うすいタイシヤで描かれてゐました。尤も顔の仕上げばかりではなしに、一体にうすい絵でした。この作品が出品された年は、恰度栖鳳先生が、西洋から帰られた年でして、獅子の図が出品されました。その時分に屏風などが出てゐましたが、併しまたとても今日の展覧会などに出品されさうもないやうな小さな作品も出てゐました。寸法に標準と云ふものがまるでなかつたのでした。
私が二十五、六か七、八歳頃、森寛斎翁はなくなられましたが、そのころの春挙さんは、私もよくおめにかかつてゐました。塾がちがつたものですから、これと云つて、まとまつたお話もうかがつた事もありませんでしたし、ゆつくりおめにかかると云ふやうな機会もありませんでしたが、そのころ、お若い内から春挙さんは、すつくりした、いかにも書生肌の、大変話ずきの人でした。毒のない、安心して物の云へるいい人であつたと云ふ事は、私にも云へます。
私の若い時分は、今のやうに、文展とか、帝展とかと云つた、ああ云ふ公開の展覧会と云ふものが、そんなに沢山ありませんでしたので、文展時代の作品については、はつきりとした記憶がまだ残つてゐます。春挙さんの塩原の奥とか、雪中の松とかは、いまだにはつきりとした印象を残してゐます。
青年絵画協進会のは、海辺に童子がはだかでゐる絵で、その筆力なり、裸体の表現などが、当時の私共には、大変物珍らしく、そして新しいもののやうに感ぜられたのでした。取材表現のみならず、色彩に於ても、新しい感覚に依つてゐたものでありました。
おなくなりになる少し前の事でした。電車で、所用があつて外出しましたとき、ふとみると、私の座席の向ふ側に春挙さんが偶然にも乗り合はせてゐられました。その時恰度私の方の側が陽が照つて来ましたので、「こちらへおかけやす」と、その時、春挙さんの隣りに空席が出来たので、おとなりにかけましたところが、恰度ラヂオで放送された直後の事でしたので、その話をしてゐられました。伝統的な手法を忘れて、一体に画壇が軽佻浮薄に流れて、いけないと云ふやうなお話をしきりにせられてゐました。
その時、膳所の別荘は大変御立派ださうですねと云ひますと、あなたはまだでしたか、御所の御大典の材料を拝領したので茶室をつくりました、おひまの時は是非一度来てほしいと云はれて、それがもう去年の事になりました。そんなに早くなくなられるとは、とてもおもはれませんでした。
私が十六、七の頃ですが、全国青年絵画協進会と云ふのが御所の中で、古い御殿のやうな建物があつて、そこでよく開いてゐましたが、その時春挙さんが、海辺に童子のゐる絵を描かれました。私はその時、月下美人と云ふ尺八寸位の大きさの絹本に、勾欄のところに美人がゐる絵を描いて出しました。それが、一等褒状になりましたが、春挙さんが、それを親類の方でほしいと云ふので、私の方へゆづつてくれと云はれて、持つて行つた事があります。これは春挙さんのところへ行つてゐるのです。その後、どうなりましたかわかりませんが、それは明治二十五、六年の頃だつたとおもひます。
何しろ纒つた話もなく、問はれるままに思ひ出を語つてみました。(昭和九年)
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今年八つの一郎さんと、六つのたえ子さんとを、気だての優しい婆やが、一人でお守りをしておりました。その婆やが或日のこと、お里へまいりました時、かわいいかわいいひばりの子を一つ袂のなかへ入れてかえりました。それを見ると、一郎さんが、
「おやっ!」
と云って婆やのそばへ駈けよりました。
「あらっ!」
とたえ子さんも駈け寄ってのぞきこみました。
婆やはあまり二人の声が大へんなので、あとずさりをしながらにこにこして、
「まあ、ま、そんなにおさわぎになってはいけません。これはね、婆やが今日、西田甫の細道をとおると、どこやらで、ちち、ちち、と可愛い声がしますから、ふりかえって見ますと、すぐ道端の積藁のかげに、こんな小さなひばりの子がひとつ、淋しそうにうずくまって鳴いておりました。あんまり淋しそうでしたし、こんなに可愛いでしょう、ですから婆やも急にほしくなって、そっと抱いて来てしまったのですよ。ですがまだ、生れたばかりの赤ちゃんですから、あんまりおさわぎになるとびっくりいたしますよ」と申しました。
子ひばりはまた、急に見知らぬお座敷へつれて来られましたので、おどおどして、ちいちゃい茶色のからだを婆やの袂の中へ中へともぐらせようとしてあせるのでした。
その様子がまた、何とも云えないほど可愛らしいので一郎さんが、
「僕それをね、あの籠へいれて育てようや」
とお遊び場の方へ走せて行きました。そうかと思うと、たえ子さんも、
「あたしも、あの袋を持って来るわ」
とあとから、続いてまいりました。
やがて一郎さんは去年の夏、きりぎりすを飼った空籠を持って、たえ子さんは、きしゃごのはいっていたちいちゃな糸網をさげて飛ぶようにして戻ってまいりました。そして、
「さ、婆や」
と両方から、一時にお手々が出てしまいました。
婆やは、はたと困ってしまいました。たった一つしかない子ひばりを、どちらへ渡してよいものやらわからなくなったからです。婆やは、まごまごしておりますと、
「さ、僕に」と一郎さんが急ぎますし、
「あたしによ」とたえ子さんがせまります。
「早くさあ」と一郎さんがつめよると、
「よう、あたしに」とたえ子さんが手を出します。
「僕におくれ」
「あたしに頂戴」
「いやだ!」
「いやよ!」
とうとう二人は云い争って、一度にどっと泣き出してしまいました。泣き出しながらも、なお一生懸命に、たった一つのひばりの子を、争い合うのを止めません。日頃なかのよい兄妹がこのありさまですから、婆やはますますあわててしまいました。
その時、ちょうどそこへ、お母様がお見えになりました。婆やは大助りの思いで、お母様にこのわけを申し上げました。お母様は、お母様がふいにお出でになったので、びっくりして、ばったり泣きやんで、ぼんやりとしている二人を、しばらく見くらべていらっしゃいましたが、やがて婆やの袂のなかをのぞきこんで、しきりに子ひばりをお眺めになりました。子ひばりはすっかりあたりが静かになったのに安心してか、ごま粒のような眼をぱちぱちやりながら、頭を左右に振るのでした。
「お、お、お」
とそれをおいたわりになってからお母様は、
「だがね、これはまだ親のひばりのお乳をほしがっている赤ちゃんひばりですよ。誰のお手々でも育ちはしないのですよ」
とおっしゃいました。婆やもまた、
「さようでございますね、ですから、これは元の処へ置きに行ってやりましょう」
と申しますと、
「そうですとも、それがよい、それがよい、ね、一郎さん、たえ子さん」
とお母様は、優しく優しくおさとしになりました。一郎さんも、たえ子さんも、欲しい欲しいと思いつめていた心が、急にとけてしまいました。
「うん、返して来よう」
と一郎さんが機嫌よく云いますとたえ子さんも、
「それがいいわねえ」
とはっきり申しました。
それから間もなくでした。すみれや、たんぽぽが咲き乱れて、お日様の光がのどかに照りわたった西田甫の畔道に、子ひばりを抱いた婆やのあとから、睦しく声をそろえて唱歌をうたいながら行く一郎さんとたえ子さんの姿が見えました。
あくる朝、二人がふっと眼を覚しますと、枕元に、一郎さんの方のには真白な大きなごむ鞠が、たえ子さんの方にはそれより少し小さくて、絹の色糸でかがったきれいなきれいな鞠が一つずつ置かれてありました。二人は驚いて、眼をぱちぱちしておりますと、婆やが参りまして、
「この鞠はね、よく子ひばりをお返し下さいましたと云って親のひばりがお二人に置いてまいったのですよ」
と云って笑っておりましたが、やがてまた、
「ほんとうはね、お母様が、子ひばりの代りにといって、昨日お二人ともお聞きわけがよかったので御褒美に下さいましたのでございますよ、あとでお礼をおっしゃりあそばせ」
と申しました。
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Medium
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汽車の旅をして、いちばん愉しいことは、窓にもたれて、ぼんやりと流れてゆく風景を眺めていることである。
いろいろの形をした山の移り変りや、河の曲折などを眺めていると、何がなし有難い気持ちになって、熱いものを感じるのである。
ふっと、一瞬にして通りすぎた谷間の朽ちた懸け橋に、紅い蔦が緋の紐のように絡みついているのを見て、瞬時に、ある絵の構図を掴んだり、古戦場を通りかかって、そこに白々と建っている標柱に、何のそれがし戦死のところ、とか、東軍西軍の激戦地とかの文字を読んで、つわものどもの夢の跡を偲んだりするのは無限の愉しみである。
汽車に乗ると、すぐ窓辺にもたれて、窓外の風景へ想いをはしらすわたくしは――実は車内の、ごたごたした雰囲気に接するのを厭うためででもあった。
汽車の中は、ひとつの人生の縮図であり、そこにはいろいろ社会の相が展開されているので、それらの相を仔細に眺めていると、いろいろと仕事のほうにも役立つ参考になるものがあるのであるが、わたくしには、ときたまに見受ける公徳心を失った、無礼な乗客の姿に接することが、たまらなく厭おしいので、そういうものをみて、自分の心をいためることのいやさから、自然に窓の外へと、自分の眸を転じてしまう癖がついてしまったのである。
窓外の風景には、自分の心をいためるものは一つもない。そこにあるのは、いずれも、自分の心を慰め柔げてくれる風景ばかりである。
ところが、わたくしは偶然にも、真珠のような美しいものを一昨年の秋、上京の途上にその車中で眺めたのである。あとにも先にも、わたくしは車中で、このような美しいものを感じたことは一度もない。それは、幼い児を抱いた、若い洋装の母の姿であり、その妹の姿であり、その幼児のあどけない姿であった。
汽車が京都駅を発ってしばらくしてからのことであった。逢坂トンネルを抜けて、ひろびろとした琵琶の湖を眺めていると、近くで、優しい声がして、赤ン坊に何か言っているのが聞えて来たので、わたくしは、その声に何気なく振り返ると、ちょうどわたくしの座席と反対側の座席に、洋装の美しい若い女が、可愛い誕生前後とおぼしい幼児を抱えて、何か言っている姿が眼にうつった。
わたくしは、その姿を一眼みるなり、思わず、ほう……と、呟いた。その母親(おそらく二十二、三であったであろう)の洗練された美しさもさることながら、その向いに坐っている妹さんらしい人の美しさにも、
「よくも、このように揃った姉妹があったもの」
と、内心おどろきに似たものを感じざるを得ないほどであった。
姉妹とも洋装で、髪はもちろん洋髪であった。
近頃、若い女の間に、その尊い髪に電気をあてて、わざわざ雀の巣のように、あたら髪を縮らすことが流行して、わたくしなどの目には、いささかの美的情感も催さないのであるが、この姉妹の髪の、洋髪でありながら、なんという日本美に溢れていることか……
くしゃくしゃの電髪に懼れをなしていたわたくしであっただけに、洋髪にも、こういう日本美の型が編み出せるものかと、新しい日本美でも発見したように、わたくしはおどろきおどろき眸を睜ってしまったのである。
この姉妹は、額のところに、少しばかりアイロンをかけて、髪を渦巻にしているほか、あとはすらりと項のところへ、黒髪を垂らし、髪のすそを、ふっくらと裏にまげていた。
こういう新しい型の髪が、心ある美容師によって考案されたのであろうが、姉の顔立ちと言い、妹の顔立ちと言い、横から眺めていると、天平時代の上﨟をみている感じで、とても清楚な趣きを示しているのであった。
色の白い、顔立ちのよく整った、この二人の姉妹は、そのまま昔の彫刻をみている思いであった。
「洋髪でも、これくらい日本美を立派に取り入れた、これくらい気品のあるものなら、自分も描いてみたいものである」
わたくしは、そう思うと、そっと小さなスケッチ帳を取り出して、こっそり写生した。
わたくしは、汽車の中で、現代の女性を写生しながら、心は天平時代の女人の姿を描いているのであった。
なにごとも工夫ひとつで――むしゃむしゃの電髪も、このように「日本美」というものを根底に置いて考えれば、実に立派な美的な髪が生まれるのである。
ひと頃のように、何でもかでも、新しい欧米風でさえあれば……それが、そのまま取り入れられて「新しい」とされていた悪夢から醒めて、戦争以後の日本の女性にも、ようやく日本美こそ、われわれにとって、まことの美であることに気づき、美容師も客も、協力して新時代の日本美を、その髪の上にも創り出そうという兆しの現われを、わたくしは、この姉妹の女性の上に見てとって、ほのぼのとした悦びを感じたのであった。
若い母親の膝にいる幼児もまた、母親のやさしさが伝えられて、実に可愛い顔をしていた。
わたくしは、スケッチを、その姉妹から、幼児にむけた。
幼児は、わたくしを見ながら、にこにこと笑っていた。
何かやはり相通じるものがあるのであろう……幼児は東京へ着くまで、わたくしのいい相手になってくれて、わたくしは、いつになく楽しい汽車の旅を味わうことが出来たのである。好きな窓外風景も、この旅行には、とんと御無沙汰してしまって……
わたくしは、このあどけない幼児に別れるとき、ひそかに祈ったのである。
「よい日本の子となって下さい。あなたのお母様や叔母様は、立派に日本の土にしっかりと立っていなさる方であるから、お母様や叔母様を見ならってゆきさえすればきっと立派な日本の子となれるでしょうから」
わたくしは、今もあのときの姉妹の髪と色白の横顔とが忘れられない。
わたくしは、天平の上﨟を思うたびに、あのお二人を憶い出し、あの姉妹を思うたびに天平時代の女人を憶い出すのである。
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町からはなれて、街道の片ほとりに一軒の鍛冶屋がありました。朝は早くから、夜はおそくまで、主人は、仕事場にすわってはたらいていました。前を通る顔なじみの村人は、声をかけていったものです。
長かった夏も去って、いつしか秋になりました。林の木々は色づいて、日の光は、だんだん弱くなりました。そして枯れかかった葉が思い出したように、ほろほろと、こずえから落ちて、空に舞ったのであります。
もうこのころになると、この地方では、いつあらしとなり、あられが降ってくるかしれません。百姓は、せっせと畠に出て、穫りいれを急いでいました。鍛冶屋の主人は、仕事の間には、手をやすめて、あちらの畠や、こちらの畠の方をながめたのです。そして、天気がよく、ほこほことして、あたたかそうに、秋の日が平和に、林の上や、とび色に香った地の上を照らしているときは、なんとなく、自分の気までひきたって、のびのびとしましたが、いつになく曇って、うす寒い風が吹くと、これからやってくる冬のことなど考えられて、ものうかったのです。
ある日の晩方から、急にあらしがつのりはじめました。落ち葉は、ちょうど、ふいごを鳴らすと飛ぶ火の子のように、空を駆けて、ばらばらと雨まじりの風とともに、空へ吹きつけたのでした。
「いよいよ、このようすだと、二、三日うちには雪になりそうだ。」と、主人は、独り言をしました。
女房は、勝手もとで、用をしていましたが、彼は暗い奥の方をわざわざ向いて、
「晩には、雪が降るかもしれないから、みんな外に出ているものは、取りいれろや。」と、大きな声でいって、注意をしたのでした。
彼は、やがて、女房と二人で、そこそこに夕飯をすましました。ふたたび、仕事場にもどって、鉄槌で、コツコツと赤く焼けた鉄を金床の上でたたいていました。戸の外では、あらしがすさんでいます。彼は、思わず、その手をやめて、あらしの音に聞きとれたのでした。
このとき、戸の外で、だれか呼びかける声がしました。
だれだろう? この暗い、あらしの晩に、しかも、いまごろになって声をかけるのは……と、主人は考えました。きっと、村の人が、なにか用事があっておそくなり、そして、いま帰るのだろう……と、こう思って、彼は、立って雨戸を細めにあけて、のぞいたのです。
戸のすきまから、ランプの光が暗い外へ流れ出ました。そこには、まったく見知らない男が立っていた。主人は、目をみはりました。すると、その男は、
「私は、旅のものですが、知らぬ道を歩いて、日が暮れ、このあらしに難儀をしています。宿屋のあるところへ出たいと思いますが、町へは、まだ遠いでございましょうか?」と、たずねました。
主人は、その知らぬ男のようすをしみじみと見ましたが、まだ、それは若者でありました。どう見ても、ほんとうに、困っているように見られたのです。
「それは、お気の毒なことです。まあ、すこしこちらへはいって休んでから、おゆきなさい。」と、人のよい主人はいいました。
若者は、喜んで、あらしに吹かれてぬれた体を、家の内へいれました。この若者も、性質は、善良ですなおなところがあるとみえて、二人は、やがて打ち解けて話をしたのであります。
「私は、事業に失敗をして、いまさら故郷へは帰れません。私の故郷は、ここから遠うございます。どこかへ出かせぎでもして、身を立てたいと思って、あてもなく、やってきたのです。」と、若者は、いいました。
鍛冶屋の主人は、それは、あまりに無謀なことだと思ったが、すべて、成功をするには、これほどの冒険と勇気が、なければならぬとも考えられたのでした。
「それで、これから、どこへいきなさるつもりですか。」とたずねました。
「私は、北海道に知人がありますので、そこへ頼っていきたいと思います。しかし、それにしては、すこし旅費が足りません。それで、死んだ父の形見ですが、ここに時計を持っています。いい時計で、父も大事にしていたのでした。これを町へいったら、手ばなして、金にしたいと思っています……。」と、いうようなことを、若者は、話しました。
主人は、なんとなく、この知らぬ旅人の正直そうなところに、同情を寄せるようになりました。
「どれ、どんな時計ですか?」といった。
若者は、時計を出して、主人に見せました。小型の銀側時計で、銀のくさりがついて、それに赤銅でつくられたかざりの磁石が、別にぶらさがっていたのでした。その磁石の裏は、般若の面になっています。
「なるほど、いい音だ。これなら、機械は、たしかだろう……。」
「まだ、その時計にかぎって、機械の狂ったことを知りません。」
「すこしくらいなら、私が、ご用立てをしましょう。そのかわり、いつでもこの時計は、あなたにお返しいたします。町へいって、お売りになるのなら、それくらいの金で、私が、おあずかりしてもいいですよ。」と、主人は答えました。
若者は、どんなに、うれしく思ったかしれない。じつは、ここへくるまでに、他国の町で見せたことがあった。しかし、あまり安かったので売る気になれなかったのですが、若者は、そのことも打ち明けました。すると鍛冶屋の主人は、
「その値に、もうその値の半分も出したら、どうですか?」といった。
若者はよろこんで、それなら北海道へゆくのに余るほどだといって、主人に時計を買ってもらうことにしたのでした。
「これは、あなたのお父さんの形見だ。いつでも、ご入用のときは、さし上げた金だけかえしてくだされば、時計をおかえしいたします。」と、主人は、重ねていいました。
戸の外には、あらしが、叫んでいました。つるしたランプが、ぐらぐらとゆらぐほどでありました。若者は、厚く礼をのべて、教えられた方角へ、町を指してゆくべく、ふたたび、あらしの吹きすさむ闇の中へ出て、去ったのであります。その後を、しばらく主人は、だまって見送っていました。
二
いつしか、二十余年の月日はたちました。
空の色のよくすみわたった、秋の日の午後であります。一人の旅人が、町の方を見かえりながら、街道を歩いて、村の方へきかかりました。田は、黄金色に色づいていました。小川の水は、さらさらとかがやいて、さびしそうな歌をうたって流れています。木々の葉は、紅くまた黄色にいろどられて、遠近の景色は絵を見るようでありました。
旅人は、道のかたわらにあった、木の切り株の上に腰をおろして休みました。そのとき、ちょうど町の方から、村の方へゆく乗合自動車が、白いほこりをあげて前を通ったのです。彼は、それを見ると、
「そうだ、二十年にもなるのだから、あの時分と変わったのも無理がない。」と、ひとりでいったのです。
この旅人は、ずっと以前に、あらしの晩、鍛冶屋の戸をたたいた若者でありました。あの後、北海道へゆき、それから、カムチャツカあたりまで出かせぎをして、いまは、北海道でりっぱな店を持っているのでありました。
「あの時計は、まだあるだろうかな。いろいろお世話になった。あのご恩は忘れられん。しかし、あの時計についている、磁石の般若の面は、子供の時分から父親の胸にすがって、見覚えのあるなつかしいものだ。いまも、あのかざりだけは目に残っている。よくお礼をいって、時計をかえしてもらいたいばかりにやってきたのだが……。」
こう旅人は、昔を思い出して、だれにいうとなくいいました。やがて、また街道を歩きながら、右を見、左を見て、あらしの晩にいれてもらった鍛冶屋をさがしたのであります。その晩は真っ暗でした。そして、すさまじい風の音につれて、ランプのゆれるのを見たのでした。それが、いまはこの村もすっかり電燈になっていました。
たしかに、ここと思うところに、一軒の鍛冶屋がありました。旅人は、その前に立って、しばらくためらい、胸をおどらして中へはいると、思った人は見えなくて、まだ若い息子らしい人が、仕事をしていたのです。
彼は、昔のことをこまごまとのべました。
「それで、ご主人にお目にかかって、お礼を申したいと思って、遠いところをやってきました。」と告げたのであります。すると、息子は、目をまるくして旅人をながめましたが、
「父はもう三、四年前に亡くなりました。」と答えた。これを聞いた旅人は、どんなに驚いたでしょう。
北海道から持ってきた、いろいろのみやげものをさし出して、あらしの夜の思い出などを語り、そして、あの時分、買っていただいた時計を、まだお持ちなさるなら、譲っていただきたいと思ってきたことなどを話したのであります。
「母親は、年をとって、それに、あいにくかぜをひいて、あちらに臥っていますが。」と、息子は答えて、奥へはいったが、やがて時計を持って出てまいりました。
「この時計でございますか?」
旅人は、なつかしそうにその時計を手に取り上げてながめました。息子は、
「私は、子供の時分、そのくさりについている般若の面をほしいといって、どれほど、父にせがんだかしれません。しかし、父は、これは大事なのだといって、ほかのものは、なんでも、私が頼めばくれたのに、その磁石だけは、どうしてもくれなかったが、なるほど、この時計に、そんな来歴があったのですか?」と、昔を思い出していいました。
旅人は、この話を聞いているうちに、自分が子供の時分、ちょうど、それと同じように、般若の面をほしがったことを思い出しました。そして、この小さな、一つの磁石によって、自分と息子とが、同じように父親に対して、なつかしい記憶のあることをふしぎに思い、なんということなく、この人生に通ずる一種のあわれさを感じたのでありました。
「いくら、昔を思い出しても、なつかしいと思う父親は、もう帰ってきません。せっかく遠方からおいでなさいましたのですから、どうか、この時計をお持ちください。」と、息子がいいました。旅人は、その言葉をしみじみ悲しく身に感じました。
「形見の時計は、手にもどっても、自分の父親とてもふたたびこの世に帰るものでない。自分は、愚かしくも昔の夢をとりかえそうと思っていたのだ。そればかりか、息子の夢をも破ってしまおうとした。この時計などは、あのカムチャツカの雪の中にうもれてしまったものと思っていればよかったのである……。」こう考えると、もうその時計を取りかえす気にはなれませんでした。それから、二人はいろいろと話をして、またたがいに会う日を心に期しながら、別れたのであります。
| 0.378
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Medium
| 0.575
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| 4,300
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Xが3.6%に認められた
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Easy
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「文芸」所載の貴作『断層』について、「テアトロ」から何か感想を書けといふ註文ですが、僕はあれを草稿の時分に読んで聞かせていただいたきり、まだ活字になつたのを拝見してゐませんから、その後手をお入れになつた部分について――つまりその部分を含めて、全体の意見を述べることはできません。
しかし、あの草稿を仮に決定的なものとして、その印象を今ここで公に云々することはどうでありませうか? 僕には、それが聊か危険に思はれだしたのです。何故なら、ここをかう直したと伺つた二三の個所についてさへ率直に云へば、やや遺憾に思はれる節があるからです。
しかし、それはそれとして、恐らく、最初の感銘は、本質的にこの作品の一貫した精神からは抜け去つてゐないことを信じます。
僕はある文学的作品の価値を、作家の人間的な味ひとその才能の最も研ぎ澄まされた状態から判断するのを常とし、人格の分裂と対峙、その摩擦と相剋の中にのみ、調和と混沌の美を、更に稟質と教養とが自から向ふところの興味を捉へ、燃え上る何ものかに総てを托したといふやうな表現のうちに、最も作家的な魂を発見して、所謂「芸術的な」悦びを感じるのです。
戯曲は戯曲であるが故にのみ僕には面白い。これに盛られた思想などといふものは、それが独創的なものでない限り、しかも予めレッテルが貼られてゐては、なほさら、一向僕には魅力がありません。それ故、マルクス主義の作品と聞いただけで、実は今まで、おほかた敬遠してゐたといふことは、嘗て君にも告白した通りであります。
が、それは決して、一人の作家がある思想、ある主義を奉じてゐるから、その作品が面白くないといふことにはなりません。彼が文学的行動を取るに際して、自己批判の名にかくれて、全人格の赤裸々な表現を憚る卑怯さ、政治的なる口実の下に、修正され、装飾され、従つて、他所行きになつた自分自身の厚かましい押売り、さういふものが、作品を通じて、われわれのモラルではなく寧ろ神経を、趣味といふよりは寧ろ感覚そのものを絶えず焦ら立たせるからです。
一度過ちを犯した人間が、その過ちを「清算」しさへすれば、今度は、もうどんな過ちも犯さない人間になるやうな錯覚を、誰が承認できるでせう。「ああでなかつたからきつとかうだ」と単純に云ひ切れるやうな人物を僕は警戒します。「神聖な目的」を振りかざして、自分を赦すことのあの寛大さは、凡そ文学の精神からは遠いものであります。如何なる信念もそんなところからは生れないといふ信念は、僕を一見懐疑的にしてゐます。しかし、廻り道でも、僕はこの最後の信念から出発するつもりです。
久板君、君の今度の作品――僕は外のものはまだ読んでゐません――は、少くとも活字になる前までは、君の人間的な姿が、芸術家としての熱情が、ところどころ素晴らしい閃光となつて僕の心を搏ちました。構成の緻密さや、観察の豊富さは、勿論この作品の血となり肉となつてゐますが、何よりも、君の眼が澄んでゐました。聡明な額が感じられました。思ひ上つた力み返りがない。憤りはあつても、それを見せびらかさず、時折は、ああ見えて、内心はさぞ堪へられないくらゐだらうといふ底深い悩みが漂つてゐます。これはよほどのことではありますまいか。
僕は、もう、この作品を現在のレヴェルからいつて、無条件に傑作の部類に入れることを躊躇しませんでした。
僕は君の立場をよく承知してゐる関係上、故らこんなことは申したくないのですが、芸術の畑に於て、一つの才能がどういふ風に伸び育つかといふ甚だ示唆に富む例をここに見たのです。そして、君の芸術家としての成長は、同時に、「人間」としての輝やかしい発展であり、君の思想と、全行動の確乎たる「力」たるに相違ないことを僕は断言します。
プロレタリヤ演劇も、優れた演劇であることを知らしめるのは、多分これからではないでせうか?
僕は、如何なる才能の前にも、それが僕にとつて魅力である限り、わけなく頭を下げる人間です。少くとも君にそれがわかつてもらへれば、われわれは「あるところまで」手を繋いで、愉快に仕事ができると思ひます。
最後に、村山君の演出による新協劇団の舞台を、刮目期待してゐます。(一九三五・一一)
| 0.679
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Hard
| 0.622
| 0.221
| 0.171
| 1
| 1,750
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Xが何とも胸に痛い
| 0.183167
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Easy
| 0.146533
| 0.16485
| 0.128217
| 0.1099
| 9
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一 沼村
面白かりしは、房州に於ける一夏。指を屈すれば、凡そ二た昔となりぬ。一行の盟主ともいふべき佐々木高美氏は、既に世に在らず。同行者の中、今は海軍將校となれるもあり、工學士となれるもあり、理學士となれるもあり、中學教員となれるもあり。當時はいづれも血氣盛りの青年なりき。
館山の町つゞきなる沼村に、二階が一間、下が二間なる家を借り、飯だけは、家主にたいてもらひ、餘は一切、各自交代して之を辨じぬ。同じく寓するもの、少なき時は三四人となり、多き時は十人にも及べり。その多くなりたる時は、枕足らず。トランプの勝負によりて、枕の有無を定めしこともあり。日暮れぬさきより、早く枕を懷ろにせるもあり。時に腕力に訴へて、枕の奪ひあひをせしこともありき。
毎日、海水に泳ぐのみにては足れりとせず。舟をうけて、沖ノ島や、高ノ島に遊び、汐入川に網うち、小川をかへぼししたり、すくひたりして、小魚を漁る。日がへりの遠足は度々したりしが、二三日かけて旅せしこともあり。雨ふれば、トランプに日をくらす。なほあかずして、海に盥舟までうけて遊ぶ。かくて、ひと夏は、夢のうちに過ぎぬ。
二 鏡ヶ浦
宮は安房神社、官幣大社にして、天太玉命を祀る。寺は那古の觀音、船形觀音。本織村の延命寺には、里見氏累代の墓あり。白濱の杖珠院にも、里見氏の墓あり。鹽見村の龍伏の松、千年の老幹偃蹇して、ひろさ百坪に及ぶ。元名の覇王樹、高さ一丈にあまる。いづれも稀代の珍也。
洲ノ崎を左にし、大武岬を右にせる一大灣を館山灣と稱し、又鏡ヶ浦と稱す。浪はおだやかなり。遠淺にして水清く、最も海水浴に適す。八幡の濱邊には、松林つゞきて、逍遙するに快し。この一帶の濱邊より海をへだてて富士山を望むの景色は、われ幾たび見ても、飽くことを知らざりき。
三 清澄山
同寓者四人のみの時に、瀬戸氏に留守番を頼みて、藤井、生駒二氏と共に、房州を一周せしことあり。朝、沼村の宿を出で、神餘、瀧口を經て、白濱に到る。大盤石のひろがりて、海につき出でたる處を野島崎と稱す。燈臺あり。浪あらくして、景致雄壯也。杖珠院に、里見氏の祖、義實の墓を弔ひ、七浦を過ぎて、白須賀の濱邊に來りし頃は、既に夜もふけたり。この行、露宿するつもりなりしかば、蚊の防禦にとて、蚊帳を携へたるが、この濱邊をそれと定めて、砂上に寢ころぶ。萬里の波上、たゞ一痕の明月を見る。蚊は、一匹も居らず。天涯より吹き來る風、凉しさの度を越して冷やかなるに、蚊帳を布團にかへて、すや〳〵眠りぬ。顏のかゆく、また痛きに、目をさませば、蟹の横行せる也。蟹にさめしは、我れのみならず、他の二氏も同樣也。一たび覺めては、またとは眠られず、冷氣身にしむ。時計を見れば、まだ午前三時すぎなれども、むしろ歩きて暖を取らむと發足しぬ。
海岸をつたひ〳〵て、小湊にいたる。こゝは、安房の最東端也。巨刹あり、誕生寺といふ。寺の名の示すが如く、日蓮の誕生したる處也。寺は、山を負ひ、山門怒濤に俯す。景勝雄拔、日蓮の英風と呼應して、山川に靈あるを覺えぬ。
天津まで戻り、左折して清澄山に上る。天津より凡そ一里、頂上に清澄寺あり。老樹しげる。こゝは、日蓮の少時修業せし處也。旅店もあり。一泊す。『明日の行先』は『保田』、『昨夜のとまり』は、まさか野宿とも記しかねて、よい加減に、地名と旅店の名とをかきたるは、われまだ年若かりき。
四 鋸山
あくる朝、寺を過ぎて、上ること七八町、最高峯の頂に至りしが、生憎雨にて、眺望を縱まゝにするを得ざりき。清澄山より天津を經て保田に至るの路、凡そ十里、安房の最北端に一貫して、一方は、東海岸に達し、一方は西海岸に達す。安房、上總の境をなせる鋸、清澄一帶の連山の麓を通ることなれば、路は平ら也。
日暮るゝ頃、保田に達しぬ。一昨夜は野宿し、昨夜は人並に宿にとまりたれば、今夜は一風かへて山上の寺にやどからむとて、路傍の茅店に晩食し、提燈かりて、夜鋸山を攀づ。寺のありかが分りかねて、あちこち騷ぎまはる程に、いが栗頭の坊主の來たるに逢ふ。『この夜ふかきに人聲は何事ぞと怪しみて出で來れるなり』といふ。宿からむことを乞へば、われらの服裝を諦視すること、やゝしばし、『着るに布團なく、食ふに物なきを承知ならば、やどられよ』とて、われらを一室に導きぬ。ふすまを見れば、梁川星巖の詩が書かれたり。その詩に曰く、
流丹萬丈削芙蓉。寺在磅※(石+溏のつくり)第幾重。卷地黒風來海角。有時微雨變山容。
三千世界歸孤掌。五百仙人共一峯。怪得殘雲挾腥氣。老僧夜降石潭龍。
五 富山
朝、起き出でて、寺の庭より眺むるに、東京灣を見下し、更に外洋に及ぶ。洲ノ崎も見え、大武岬も見ゆ。烟を吐く大島も見ゆ。庭に石あり、龜に似たり。龜石と名づく。かれこれする程に、六時になりければ、寺を辭し、五百の石羅漢を顧みつゝ、上りて十州眺望臺にいたる。昨日の朝の雨にひきかへて、今日は晴天也。脚下に關八州を見わたして、快甚だし。
下りて、天然の石をそのまゝに刻みたる大佛を見上げ、なほ下りて海岸に出でて、猫石を見る。前夜の茅店に至りて提燈をかへし、午食す。生駒氏は、昨夜、山路によわり、『下らむ』と云ひしが、さま〴〵に勵まして、漸く寺までつれゆきたり。今日は、歩くがいやなりとて、保田より汽船に乘らむとせしが、二番船出でずといふに、已むを得ず、われらと共に歩きぬ。吉濱、勝山を經て、檢儀谷原といふ處にいたりて、終に袂を分つ。生駒氏は、直ちに沼村にかへらむとする也。われら二人は、迂路して、富山を攀ぢむとする也。
富山、犬掛、瀧田、白濱、神餘、洲ノ崎の名前は、八犬傳によりて、夙に我耳に熟せり。われ想像すらく、富山は、八犬傳にしるしゝが如くならずとも、孤立せずして、峯巒かさなるべし、樹木が繁かるべし、大ならずとも、谷川はあるべしと。現に見てその意外なるに驚きぬ。われ二部村より富山に上りて合戸村に下りぬ。上下、あはせて、一里に過ぎず。孤立せる山也、樹木なき山也。谷川らしきものは、一つもなき山也。頂上、二つにわかれ、一は高く、一は低し。高きを金比羅山といふ。測量の三角點あり。四方の眺望開けたり。安房一國を脚下に見下す。東西南の三方は、遠く海を望む。北に當りて、伊豫ヶ嶽、山骨を露はして、大鵬の將に飛ばむとするが如し。低きを觀音山といふ。觀音堂あり。全山の中たゞこゝのみに、少しばかり木立あり、井戸さへありて、人住めり。この山、高さわづかに千餘尺なるも、房總の間にては、高山のうち也。館山灣より北にあたりて、眼に見ゆる群山の中にて、最も高く、頂上のとがりて見ゆるは、即ち、この富山なり。
犬掛、瀧田、北條、館山を經て、沼村の宿にかへりしは、夜の十一時なりき。
六 人力車との競爭
余等は、今房州を去らむとする也。
瀬戸、生駒二氏は、汽船にて、直ちに東京にかへらむとす。他の八人は、木更津まで陸行し、鋸山に一泊し、鹿野山にも、亦一泊せむとする也。その八人の中にても、車にのるもの二人、盟主の佐々木高美氏と中村久弘氏と也。あとの六人は徒歩す。徒歩するものも、亦二組にわかる。佐々木高志氏、伊藤正弘氏、千頭直雄氏、中村岩馬氏は、先づ發す。藤井久萬三氏と余とは、人力車と同時に發す。余等二人は、ひそかに脚力の強きを恃める也。
午前六時半、四人の徒歩組は先づ發しぬ。九時に至りて、人力、徒歩の混成隊も發しぬ。二人の汽船組は、やがて後より發する也。
路を那古に取り、木根峠を越え、勝山、保田を經て、鋸山に上らむとす。われら二人、時には人車に先んじ、時にはおくる。菅笠を戴き、絲楯を負ふ。學生とは見えぬ風體也。車夫、佐々木氏にさゝやきて曰く、『旦那樣のおつれは、東京の人が東京にかへるにはあらで、田舍の人が東京へ上るやうなり』と。
午後四時頃、鋸山の入口に達し、こゝにて、佐々木氏も、中村氏も、人力車より下りて徒歩す。上ること八町にして、日本寺に達す。これ前日余等三人の來り宿せし所也。
七 鹿野山
あくる朝、寺を辭して山を下り、旅店について朝食し、一同つれだちて歩みぬ。路は海に沿ふ。金谷を過ぎて、竹岡に至るまでの間、浪最もあらし、その巖に碎けて散るさま、甚だ壯觀也。
湊川をわたり、湊村より右折し、和合地を經て、鬼涙山を攀ぢ、終に鹿野山に達す。この山、高さ千五百尺、これが房總第一の高山也。品川より海をへだてて、總房の方を見わたすに、山最も大にして高く見ゆるは、即ちこの鹿野山也。丸屋といふに投宿す。
日くるゝには、まだ程あれば、出でて散歩す。山頂は二段になりて平かに、東西に長し。宿屋は上の段に集まれり。こゝを上町と稱す。東にゆけば、上町の盡きむとする處に、宏壯なる寺あり。神野寺といふ。傳ふこれ聖徳太子の草創にして、元仁年間見眞大師も錫をこゝに留めしことありて、自作の肖像を殘せりと。老杉しげりて、古色一層掬すべし。
一段下れば農樵の家あり。こゝを下町と稱す。こゝを過ぎて、なほ東に行き、高峯を左に見て、右に入れば芝生あり。其端に立ちて望めば、群山遠く重なりあひて、其のつくる處を知らず。清澄山も、その中にあるべし。こゝを九十九谷と稱するは、見わたさるゝ谷の多きをさす也。一大壯觀也。
高峯には、三百級の石磴ありて通じ、全體に老杉しげる。上に白鳥神社あり。日本武尊を祀る。品川灣より鹿野山を望むに、連亙せる山上に、ぴよこんと、獨りつき出でて、尖りて最も高く見ゆるは、即ちこの白鳥神社のある處也。
宿の座敷よりの眺望太だ好し。東京灣、近く一大明鏡をひらき、關八州の野、遠く蒼茫たり。富士も見ゆ。關八州の山々は、すべて、雙眸に入る。眞に天下の壯觀也。
旅の宿は、今日限り、明日は都門に入らむとす。名殘りに、飮めや歌へや騷げやとて、興に乘じて夜のふくるを知らざりき。
山の低きにもよれど、山上に村ありて、旅館まで多きは、他に其比稀れ也。眺望の雄大なるは、筑波山と相竝びて、關東の雙璧と云ふべし。(明治四十二年)
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1粒にレモン1個分のビタミンCと、13種類のハーブエキスを配合しました
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今春、思いがけない大雪が降って、都下全体交通ストップ、自動車などは一夜に皆エンコして一歩も前進できない因果な時、拙作陶の展示会を催すことになった。この大雪では誰一人見る人はなかろうと悲観していたが、意外! 数百人の目で拙作は静かに見おろされた。
私の作品は例の如く勝手気儘で、どんどん移りゆく現実の世界に解されていこうなどとは、てんで望んではいない。私が切望しているのは、どうか自分の柄にあったことを一途にしていきたいというだけなのである。だから現代のグループには干与しない。恰もスネ者のように独歩している。気に入らない過去を見ては創り直すことに少しもひるむ者ではない。伝統に打たれることも多々あるが、伝統と乳兄弟になっても双子になりたくない。さりとてケンカ別れもしたくない。生活に合法と言われる西洋建築の美の如きはコーヒー茶碗ぐらいにしか私は認めない。それより生活に不合理と言われている空間だらけ、ムダだらけの床の間を持つ古典日本建築に生甲斐を感じる、有数の抹茶碗の持ち味に近い超道美をである。しかもこれだけで満足せず、これを如何に創り直すかが今後の仕事ではないかと考えている。この考えはどうやら及第であるらしい。
私は直接干与しないが、国立博物館か文部省かは知らないが、私の作品を諸方の持主から集めてフランス・パリにて催された日本陶器展に仲間入りされたとのこと。ところが私の作品が人気の中心であった如く評判されている。ピカソのいる陶器村でも志野八寸の如きは場中第一との賞賛を受けたといわれる。
私からすればフランスの目も甘いものだと思っているが、イタリアでも感動しているらしい。イサムノグチが語るところも、私の作品がニューヨーク、ワシントンなどで評判だとある。現につい先日東京でのダイジェスト日本陶器展で私のやや大作長方鉢をリッジウェイ大将夫人が目にとめて持ち帰られたという。これでみると、日本陶器に於ても勝手気儘の挙措に出た人間の自由思想が世界的に感動を受けるものであることを物語っているかである。即ち芸術の力こそ人種を超え、国籍を問題にせず、相抱いて楽しみを共にし、共に生きる道を発見するものなのであることを今更の如く感ずる。各自個性に生きることだ。
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美味い湯豆腐を食べようとするには、なんといっても豆腐のいいのを選ぶことが一番大切である。いかに薬味、醤油を吟味してかかっても、豆腐が不味ければ問題にならない。
そんなら、美味い豆腐はどこで求めたらいいか? ズバリ、京都である。
京都は古来水明で名高いところだけに、良水が豊富なため、いい豆腐ができる。また、京都人は精進料理など、金のかからぬ美食を求めることにおいて第一流である。そういうせいで、京都の豆腐は美味い。
一方、東京では、昔、笹乃雪などという名物の豆腐があった。これもよい井戸水のために、いい豆腐ができたのだが、今は場所も変わって、わずかに盛時の面影を偲ぶばかりだ。
東京は水の悪いことが原因してか、古来、豆腐の優れた製法が研究されていない。そんなわけで、昔も今も東京で美味い豆腐を食べることはまず不可能だ。それに、よい豆腐を美味く食うための第一条件であるいい昆布が、東京では素人の手に入りにくいから、なおさらむずかしい。
それなら、京都の豆腐は今なおどこでも美味いかというと、どっこい、そうはいかない。今日では水明の都でも、水道の水と変わり、豆をすることは電動化して、製品はすべて機械的になってしまったのみならず、経済的に粗悪な豆(満州大豆)を使うようになったりなどして、京都だからとて、美味い豆腐は食べられなくなってしまった。
ところが、わずかに一軒、京都の花街、縄手四条上ルところに、昔ながらの方法を遵奉して、よい豆腐をつくっている家があった。その家の豆腐のつくり方は秘法になっていて、うかがわんとしても、うかがえないことになっていた。ところが、私は運よくその家の主人の了解を得て、家伝の秘法を授けられることになった。おかげで、本家本元の豆腐に優るとも劣らぬ豆腐ができるようになった。それも一に、私の家に豆腐に適するすばらしい良水が湧出したためであった。
いかに京都で秘法を授かって来ても、良水を欠いたら、いい豆腐はできなかったであろう。残念ながら、縄手のこの店も、今はなくなってしまった。
良水に恵まれ、原料としての大豆を選択して、製法は飽くまでも機械にたよらず、人力で努力することによって、私もすばらしい豆腐をつくれるようになった。豆腐そのものがよいから、生の豆腐にいきなり生じょうゆをかけて食べても、実に美味い。あえて煮るまでもない。焼き豆腐はいうに及ばず、揚げ豆腐に拵えても、飛竜頭に拵えても、これが豆腐かと疑われるばかりに美味かった。湯豆腐に舌鼓を打って楽しまんとする人は、こんな豆腐を選ばなくてはならない。
嵯峨の釈迦堂付近、知恩院古門前、南禅寺あたりの豆腐も有名だが、いずれも要は良水と豆に恵まれたせいだろう。
湯豆腐をつくるには、次のような用意がいる。
一、土鍋 土鍋があれば一番よいが、なければ銀鍋、鉄鍋の類でもいい。その用意もなければ瀬戸引き、ニュームなどで我慢するほかはない。が、これらは感じも悪いし、煮え方がいらいらしておもしろくない。こんろか火鉢にかけてやる。
一、杉箸 湯豆腐を食べる箸は、塗箸や象牙箸のようなものでは豆腐をつまみ上げることができないから、杉箸にかぎる。すべらないので、豆腐が引き上げやすい。銀の網匙などがあれば充分である。
一、だし昆布 水の豊かに入った鍋の底に一、二枚敷いて、その上に豆腐を入れて煮る。昆布の長さ五、六寸。昆布は鍋に入れた場合、煮立ってくると湯玉で豆腐ののった昆布が持ち上げられる恐れがあるので、切れ目を入れておくようにする。
一、薬味 ねぎのみじん切り、ふきのとう、うど、ひねしょうがのおろしたもの、七味とうがらし、みょうがの花、ゆずの皮、山椒の粉など、こんな薬味がいろいろあるほうが風情があっていい。この中で欠くことのできないのはねぎだ。他のものは、そのときの都合と好みに任せていい。それからよく切れる鉋で、薄く削ったかつおぶし適量。食事する前に削るのが味もよく、香りもよい。
一、しょうゆ 上等品に越したことはない。しょうゆに豆腐をつける前に、先に述べたかつおぶしだの薬味を入れていい。豆腐には、敷いた昆布の味がついているから、おのずから味の調節がつく。なるべく化学調味料は加えないほうがいい。
一、豆腐(前記の通り)
なお、もともと東京人は美食知らずであるから、仔細に食を楽しむという人は極めて少ない。地方にだって、美食に恵まれた都市もあれば、町、村もある。志のある人は、諸地方の美食を参考にして、仔細に楽しまれるとよい。
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2つの質問をしてもよいですか。
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私は今湘南小田原の海岸近くに住んでゐるが、予期した通りの暖かさで、先日の大雪の日も、東京で無理をして品川からやつと電車を拾ひ、日が暮れて小田原の駅を降りると、驚いたことに、うつすらとしか雪の降つた形跡がない。
梅の花も熱海や湯河原より少しおくれるだけで、二月にはいるともう見頃はとうに過ぎて、城跡の公園は朝から霜どけの道に悩まされるくらゐである。
散歩の途中、住宅街の裏通りなどで、植込みのなかに夏蜜柑の黄に色づいたのを見かけると、土地に馴れない私は、つい、季節の錯覚に陥る。
この調子だと、今年は冬を知らずにしまひさうだ。贅沢な文句を言ふやうだが、その代り、たまに東京へ出ると、寒さが身に沁みて、なるほど、これが冬といふものかと、今更らしく感心してゐる。
医者の忠告で、去年の冬から寒い間だけ暖地を転々と歩いてゐるわけだが、かういふ生活にも少々飽きて来た。小田原は仮住居の不自由――例へば必要な書物を手許に揃へておけないこと――を除けば、たいへん住み心地がいゝ。気心の知れた人出入りも楽しみのひとつになつた。
はじめ私が小田原に眼をつけた因縁は、かつて詩人三好達治君がこの地に居を構へ、時をり自然の美しさ、穏やかさを私に漏らしたことがあつたからで、それを覚えてゐて、私が突然、小田原で家を探してくれる人はないかと、相談をもちかけたのである。三好君は困つたに違ひないが、早速、土地ッ子の歌人鈴木貫介君を私に紹介してくれた。
この鈴木君は大きな蜜柑山の主で、なかなかしつかりした歌は詠むが、借家のことには一向不案内であることがわかり、私は二重に悪いことをしたと思つた。
しかし、もう今では、そんな詫びを繰り返す必要もないほど親しい間柄になり、この間は、同君を生れてはじめての芝居見物に誘つた。
芝居といへば、この小田原には、北条秀司氏も数年間居たことがあるさうで、同氏の指導と庇護を受けたアマチュア劇団の人たちから懐旧談を聞かされることがある。言ひ漏らしてはならぬが、私の現在の住居は庭を隔てて西側に缶詰工場があり、その騒音と臭気が困りものだといへば困りものだが、会社側は工場長はじめ、たいへん礼儀正しく物わかりがよく、結局、こちらが我慢をするか、ほかへ移るかしなければ解決がつくまいと思はれる形勢である。かうなると、人権擁護といふこともなかなかむつかしい問題になる。
さて、私の健康もほゞ恢復したらしいので、ぼつぼつ仕事を始めるつもりでゐるが、まづ手始めに、文学座三月公演のゴーリキイ作「どん底」の演出を引受けることにした。かねて興味をもつてゐた「『どん底』の『明るさ』」といふテーマと、今取つ組んでゐる最中である。それにつけても、ゴーリキイがこの舞台のために撰んだ季節は早春である。この小田原などでは想像もつかぬ長い長い暗黒に閉された冬からの解放の季節である。私は、どうしても日本なら、私の大好きな山国の初春を想ひ出さずにはゐられない。
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二日酔いになっていませんかとスタッフがみんな心配しました
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世間、書を説く者は多いが、それは必ず技巧的にのみ観察したものであり、かつ、外見にのみ凝視することに殆ど決定的に偏している。すなわち、書家の書がそれである。ゆえに遠い昔はいざ知らず、近代では書家の書にうまい書があった例は皆無といってよい。全く書を専門に教える習字の先生から尊ぶべき書が生まれた試しはない。この一事実の現われは誰にとっても、うかうかと書家の教えを蒙る訳にはゆかない。
書家の書というのは、なぜそんなに価値がないか。書家の習字法は、なぜそんなに偏するか。それを一言にしていうならば、書家に芸術がないからという他はないのである。ついでながら美術もないからである。近い例としては市河米庵、巻菱湖、貫名海屋、長三洲、日下部鳴鶴、巌谷一六、吉田晩稼、金井金洞、村田海石、小野鵞堂、中林梧竹、永坂石埭等……みな芸術を解するところがないばかりでなく、美術を識らなかった。ために書道を誤認していた。従って後に遺るべき尊き書は生まれることがなかった。その中、辛うじて貫名海屋ひとりが若干実を識るのみであって、他はいずれも俗流で一時を鳴らしたに過ぎない。
習字の要訣というのは、俗書に陥らざる理解と用心が肝要である。
書に限らないが、書はすなわち、身につく所にまで進まなければならない。手につく所までは誰しも行くが、身につく所には大概至らないで終るものである。身につくというのは、稽古離れする時の出来栄えである。稽古離れということは、その先入主ともなるべき最初の心掛けが重き役目を勤める。(昭和九年)
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一
上等兵小野清作は、陸軍病院の手厚い治療で、腕の傷口もすっかりなおれば、このごろは義手を用いてなに不自由なく仕事ができるようになりました。ちょうどそのころ、兵免令が降ったので、彼はひとまず知り合いの家におちついて、いよいよ故郷へ帰ることにしたのであります。
胸の右につけられた、燦然として輝く戦傷徽章は、その戦功と名誉をあらわすものであると同時に、これを見る健全の人々は、この国家のために傷ついた勇士をいたわれという、温かい心のこもる貴いものでありました。どこへいくときにも、身につけよと、上官からいわれたのであるが、何事にも内気で、遠慮勝ちな清作さんは、同じ軍隊におって朝晩辛苦をともにした仲間で、死んだものもあれば、また、いまも前線にあって戦いつつある戦友のことを考えると、自分は武運つたなくして帰還しながら、なんで、これしきの戦傷を名誉として人に誇ることができようか、しかも戦争はなおつづけられているのだ。自分には、すこしもそんな気持ちがなくても、この徽章をつけていれば、あるいは人々にそうとられはしないかというとりこし苦労から、なるたけ外へ出るときにもこれをつけぬようにしていました。
しかし、今日は、故郷へ帰ることを申しあげに、靖国神社へお詣りをするのであります。清作上等兵は、軍服の威儀をただして、金色の徽章を胸につけ、堂々として宿を出かけたのでありました。
こうして見る清作さんは、じつにりっぱな軍人でした。だから町を通ると、男も女も振り向いて、その雄々しい姿をながめたのです。けれど中には、ぽかんとして、無表情な顔つきで見送るような、子供を背負った女もいました。
「世間の人たちは、勲章とでも思っているのかな。」
清作さんは、顔に微笑をうかべました。なぜ彼はそんなことを思ったでしょう。それは、この人たちの顔に、戦傷徽章に対しても、なんのかなしみの影が見えなかったからです。
このときあちらから、紳士ふうの若い男と、頭髪をカールして、美装した女の人がきかかり、やがて彼とすれちがったが、その人たちは、まんざら学問のない人とは思われなかったのに、やはり徽章には気のつかぬようなようすでいきすぎてしまいました。
「私は、いままであまり思いすぎていたようだ。」と、清作さんは、つぶやきました。なぜなら、世間は、戦争にたいして無関心なのか、それとも軍人が戦争にいって負傷をするのをあたりまえとでも思っているのか、どちらかのようにしか考えられなかったからでした。けれど人間であるうえは、同胞がこんな姿となったのを見て、なんとも心に感じないはずがあろうかと考えると、むらむらと義憤に燃えるのをどうすることもできませんでした。
「なに、いつの時代にもくさった人間というものはいるものだ。」
青々とした空をあおいで、深い呼吸をつづけました。
靖国神社の神殿の前へひざまずいて、清作さんは、低く頭をたれたときには、すでに討死して護国の英霊となった、戦友の気高い面影がありありと眼前にうかんできて、熱い涙が玉砂利の上にあふれ落ちるのを禁じえませんでした。この瞬間こそ、心が悲しみもなく、憤りもなく、自分の体じゅうが明るく、とうとく感ぜられて、このまま神の世界へのぼっていくのではないかとさえ思われたのであります。
お詣りをすますと、後に心をひかれながら、九段の坂を下りました。そして、町の停留場へきて電車をまっていました。身の周囲を見ても知らぬ人ばかりであったが、突然口ひげの生えた角顔の男の人が、彼の前へやってきて、ていねいに頭を下げました。
清作さんは、あまりだしぬけだったのと、その人の顔を見て、覚えがなかったので、びっくりしながら、たぶん人違いであろうと思いました。すると、その人は、
「ご苦労さまでした。どこをおけがなされましたか。」と、静かな調子で、たずねました。
「ああ、私の傷ですか、こちらの腕をやられました。」と、清作さんは左の腕を指しました。そして、よく戦傷徽章に目をつけて、たずねてくれたと、深く心に感謝しながら、じっとその人を見たのであります。
「おお、それは、この寒気に、傷口がお痛みになりはしませんか? 私は、若い時分シベリア戦役にいったものです。いまでも死んだ戦友のことや、負傷した友だちのことを片時もわすれることがありません。」
その老人の目はかがやき、言葉は熱をおびて、顔かたちにしみじみと真情があらわれていました。これをきくと、清作さんは、はじめて見るこの人にたいして、かぎりなき懐かしさと敬意を表せずにいられません。しぜんとその人の前に頭が下がるのを感じました。
ほどなく、電車がきたので乗ったけれど、停留場で見送る、老人の顔が、いつまでも頭に残りました。おりあしく、その電車は満員でした。彼は、右手でしっかりと釣り革にぶら下がっていたが、あちらへおされ、こちらへおされしなければなりませんでした。そして、こんなばあいに、これらの人たちが、彼の徽章に注意すると考えるこそ、まちがっていたのでありましょう。彼が、顔を赤くしてたおれまいとしたとき、
「兵隊さん、ここへおかけなさい。」という子供の声が、きこえました。見ると混雑した人をわけて立ち上がったのは、八、九歳ばかりのランドセルを負った二人の小学生でありました。
「やあ、ありがとうございます。」と、清作さんは、救われたような気がして、そこへ腰を下ろしました。そして、はじめて二人の子供を見ると、子供は、なにかいいたげに、清らかな瞳を人々の間から、こちらへむけているのでした。
「ああ、子供はいいな。」と、清作さんは、真に感動しました。
二
その晩のことでした。清作さんは、故郷へ帰る汽車の中にいたのであります。彼は、眠ろうとしても眠られず昼間のことなど思い出していました。
「そうだ。村の源吉さんもシベリア戦役にいって、片腕をもがれたのだった。あの時分、自分はまだ子供だったので、源吉さんが不具になって帰ってくると、おそろしがったものだ。自分ばかりでなく、ほかの子供たちも気味悪がってそばへいかなかったのだ。それにくらべると、このごろの子供は、なんというりこうで、やさしいことだろう。源吉さんは、みんなのため、戦争にいってきながら、寂しく、かわいそうだった。その後病気のため死んでしまったが、こんど帰ったら、お墓へお詣りをして、昔のおわびをしなければならぬ。」
夜中ごろ、汽車は山間にかかりました。山には雪がつもっていました。急に寒気がくわわって、忘れていた傷口がずきずきと痛み出しました。
「あの老人は、しんせつにも傷口が痛みはしませんかときいてくれたが……。」
清作さんは、自分よりは、もっと大きな負傷をしたり、また手術をうけたりした傷兵のことが、思い出されたのでした。あの人たちは、いまごろ、どこにどうして日を送っているだろうか。このごろの寒さに、傷口がひきつって、さぞ痛むことであろうと、案じられたのでありました。
清作さんが、村へ帰ると、さすがに村のものは、温かい心をもってむかえてくれました。そして、清作さんの喜びは、それだけではなかったのでした。みんなが今度の聖戦は、東洋永遠の平和のために、じゃまになるものは、いっさいをのぞくのであるから、簡単にいくわけがなく、戦線と銃後を問わず、心を一つにして、ともに苦しみ、相助け合い、最後の勝利を得るまでは、戦わなければならぬということを、よく知っているからでした。
自分の体でできることなら、清作さんは、どんな仕事でも喜んでする決心でありましたが、さいわいに、村の産業組合に適当な勤め口があって、採用されたので、いよいよこれから銃後にて、お国のために余生を捧げることにしたのです。
やがて、三月の季節となりました。春がこの村にも訪れてきたのであります。ある日、清作さんは、村の子供たちをつれて、帰ったら、かならずいこうと思っていた、源吉さんのお墓へお詣りをしました。そこは、小高い山でありました。
「さあ、これが話をした源吉さんのお墓だ。お国のためにつくした村の勇士だ。みんなよくお礼をいって拝みなさい。」
子供たちは、お墓の前にならんで、手を合わせて頭を下げました。南の方へゆるやかに傾斜して、陽のよく当たる丘のなかほどに、つばきの大きな木があって、赤い花が咲いていました。黄色な小鳥が、その枝にきて遊んでいたが、目を送ると、そのふもとの方には、わらぶきの家があって、三、四本の梅の木のつぼみが白くなりかけていました。
徐州、徐州と人馬は進む
徐州いよいか、住みよいか
と、子供らの中から、孝ちゃんが、ふいにうたい出した。清作さんは、これをきくと、きっと頭を上げて、思い出したように、
「そうだ。ちょうどもう二年前になるな。私はその徐州へ進軍する、列の中へ入っていたのだ。みんなここへおすわり。そのときのことを話してあげよう。」
「おじさん。戦争の話、どんな話?」
「いろいろ話があるが、思い出したから、まずその軍馬からだ。」
「軍馬?」
孝ちゃんと三ちゃんと、勇ちゃんと、武ちゃんは、清作さんを取り巻くようにして、枯れ草の上へすわりました。
「徐州へ進軍のときは、大雨の後だったので、たぶん僕たちの前に出発した馬だろう。足をすべらしたんだな、がけ下のどろ田の中へ落ちて、体を半分埋ずめながら、そこを列が通ると上を向いて鳴いていた。助けてやろうにも、ちょっと助けようがないのだ。それに先を急いでいるのでな。いっしょにここまできた友だちで、かわいそうに思ったが、頭を下げて、そこを通り過ぎてしまったよ。」
「かわいそうに、その馬どうなったろうか。」
「くにを出てから幾月ぞ、ともに死ぬ気でこの馬と、攻めて進んだ山や河……。ほんとうに、そうだった。みんなが馬を見返り、見返り、泣きながらいったよ。」
「僕たち、こんど慰問袋の中へ、お馬にやるものも入れて送らない?」と、孝ちゃんが、いうと、
「お馬には、図画や、つづりかたはわからないね。」と、小さな勇ちゃんがいったので、みんなが大笑いをしました。どこか遠くの方で鳴く鶏の声が、のどかにきこえてきました。
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ある人が、こんなことを言っていました。
先日文壇の大家の某氏にあったとき、談たまたま作品のことに及んだ折り、私はその作家の十五、六年前に問題になった小説のことを話題にして、
「こういう時局に、あの小説をお考え直しになると、あなたの作品中から抹殺したいお気持ちになりませんか」
ときいたところ、その大家は、
「とんでもない。あの作品は私の全作品中どれよりもすぐれた作で、今でもあれを書いたことを誇りとしていますよ」
と、こうぜんと言い放たれたそうです。
その作品というのは、当時、自由華やかな時代の作風で、とても今の時局には読み難いものなのでした。
しかし、その大家は、過去の作品だからと言って、自分の作を軽々には取り扱わず、却って、
「あれこそ、自分のもっとも会心の作」
であると言い切ったところに、この大家の偉さがあるのではないでしょうか。
ともすれば時局におもねって、
「あれはどうも……何しろ昔の作品ですからネ……」
などと空うそぶいている便乗作家の多い現代の中にあって、右の作家の態度こそ、
「さすがは、一時代の大家となる人」
と思わせるものがあります。
でも、ずっと以前の作が箱書に廻り、それが拙い絵であったりすると、
「これはどうも……何しろ若描きも若描き、まだ世の中へ出ないときの作ですから」
と言って箱書をしない人があるときいています。
さきの文壇の某大家の言と較べて、これほど自らを冒涜する言葉はないと思います。
画家――大家となっている人でも、その昔は拙い絵をかいていたのに違いありません。
素晴しい、大成の域に達した絵をかくには、それ相当の苦労は必要であり、幾春秋の撓まない精進が要る訳です。
生まれながらにして、完成された芸術を生むということはあり得ません。
してみれば、現在大家でも、そのむかし拙いもののあるのは当然のことで、少しも卑下するところはありません。
むしろ、その時代の幼稚な絵を大切にしてくれて箱書をもとめる人の気持ちを有難く受けとらねばなりますまい。
下手な時代は下手な時代なりに、一生懸命の努力をしている筈で、それはそれでいい筈です。
ことによると、大家となった現在よりも、火花を散らして描いたものかも知れないのです。
小松中納言として有名でした、のちの加賀百万石の大守前田利常公が、ある日近習の者の話をきいていられました。
近習のひとりの某が言いました。
「何々殿の息子の某はなかなかの才物で、年が若いに似ず四十歳くらいの才覚をもっている。あれは将来恐るべき仁になるに違いない」
すると利常公が、
「その者は今年いくつか」
と、きかれた。十八歳にございますと件の近習が答えると、利常公は、
「さてもさてもうつけな話かな。人はその年その年の分別才覚があってこそよきものを、十八歳にして四十歳の分別あるとは、予のとらざるところである。十八歳にして十三歳の分別しかなければ問題にしてもよきなるに、十八歳が四十歳の分別とは、さてさて困ったものじゃ」
利常公はそう言って、人間には、その時代その時代の年齢にあった力量こそ正しくもあり、人間として一番尊いものであることを近習にさとし――その十八歳の息子の取立てを断わられたという。
私はときどきそのことを憶って、
「さすがに加賀公はうまいことを申されたものである」
と、ひそかに感心するのでありました。
若い時の作品は、その年齢に適した絵であれば、それで十分に尊いものであるのです。
十五歳にして七十歳の老大家のような枯れた絵をかいたら、それこそおかしいし、そのような絵は、無価値であると言っていいのです。
私のところへも、ときどき若い頃の画の箱書が廻って参ります。
私は、そのころの時代をなつかしみながら、
「これはこれでええのや」
心の中でつぶやきながら、だまって箱に文字をかきつけています。
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標題のやうな意味の感想をもとめられた。私は文学にたづさはるものゝ一人として、むろん、多少の感想はないことはないが、それを今、なんのために、誰に向つて云ふべきであらう。元来、文学芸術の畑では、かゝる問題をかれこれ論議するものがないやうな状態が望ましく、少くとも個人としてこの種のことに必要以上の興味をもつなどは甚だ不可解だとさへ、私は信じてゐるのである。要するに、国家の恩典について専ら考慮をめぐらすべき地位にあるのは、ひとり政治家のみであつてほしいと、真面目な民衆は心に念じてゐるであらう。
しかしながら、現代の事情は、皮肉にも、この劃期的な新制度の運用について、民衆自身を安堵せしめない一面をもつてゐるのである。率直にいへば、今日まで、新国家建設の責任を負つて廟堂に立つたわが国の政治家たちが、他の部門はいざ知らず、文芸の領域だけを見ると、殆んどなんらのインテレストを示してゐなかつたことは明瞭であり、従つて、たとへ幾人にもせよ、現代日本を代表すべき詩人、作家、評論家にして、所謂、「文化発達に関して勲績卓絶なるもの」を選び、確信をもつてこれが叙勲を奏請しうるかどうか甚だ疑はしいのである。
もとより、その銓衡は、それぞれ専門的な評議機関を経ることになるのであらうが、その機関とはどういふものであるか、われ〳〵は先づそれを知りたいと思ふ。なぜなら、この制度が若しもいくらかは西欧諸国の例にならつたものだとすれば、既に私の知る限り、フランスなどでは、今や甚だ香しからぬ結果を示してゐるからである。
なるほど、林首相の「謹話」なるものゝ趣旨を察すると、これは、必ずしも、フランスのレジヨン・ド・ヌウルや、パルム・アカデミツクと類似のものではないやうであり、寧ろその点で、わが国独特の性質を帯びるに相違ないが、それならそれだけに、せめて教養ある国民の「良識」を基礎として、苟も、社会的栄誉の戯画化に陥らないことを予め注意してかゝる必要がある。
といふのは、文学者が一国の文化に貢献するといふ意味は、非常に複雑且つ微妙だからである。往々官憲の忌諱に触れたやうな作品が却て、民衆の貴い心の糧となり、且つ、国民全体の矜りとなるものであることが後世一般に認められるといふやうな例がいくらもあるのである。
また、何処の国でも、民衆は「御用学者」とか「御用作家」とかいふ失礼な名称で、ある種の「国家的名士」を呼んでゐることも考へねばならぬ。
科学文学芸術の領域では、官吏や実業家と違ひ、直接、国家へのサーヴイスの程度で、その仕事の「文化的価値」を判断するのは間違ひだといふことは、古今東西の歴史を通じて明かな点であるが、その間違ひが絶えず何処でも繰返されてゐるところをみると、日本だけは、なまじつか半可通を振りまはさない政治家によつて事が運ばれることに、十分期待がかけられないこともない。
そこで、まだなんら具体的な発表をみないうちに、われわれとして、これ以上希望に類することを陳べる余地はないが、たゞもうひとつ、是非、この機会に当局の方針を質したいと思ふのは、林首相の「謹話」中、日本古来の精神歴史を特に尊重するやうな意味が含まれてゐるが、それは単に、広い意味の民族的伝統と解するなら差支ないが、若仮に、過去の文化的遺産乃至旧時代の社会的、道徳的規範制度風習に従つた文学芸術の意に取るべきだとすると、一方で「進歩」といふ言葉が極めて消極的となり、或は全く矛盾することになるが、これはどうかといふことである。
甚だ愚問だとは思ふが、事、文学芸術に関する限り、現代日本の国家権力が、或は、日本的なものと鎖国的封建的なものとを混同し、西洋的なもの、影響、又は、その思想技法材料の採択による新文化運動を、一概に非民族的なものとして軽視し、若くは無視する意図があるのではないか、これをはつきり知つておきたいと思ふ。
例へば、長唄や浄瑠璃は「日本精神」による音楽であり、歌舞伎劇は「新劇」より文化的に高級であり、裸体を描いた日本人の油絵より西洋人が富士山を描いた墨絵の方が一層日本のためになるといふやうな偏見がありはしないだらうか?
こんなことをどうして今云はなければならないかといふと、政治家やお役人のうちには往々にしてそれに近い考へをもつてゐるか、或は、さういふ風を装つてゐるものが、かなりあることをわれ〳〵は気づいてゐるから、万一、今度のやうな勲章が、少数の人々に授けられる場合、さういふ標準で人選が行はれたら、民衆の大部分は失望し、或は、創造の何物であるかを見失ひ、悪くすると因襲的趣味に囚はれて「日本文化」を逆転させる恐れがないとは云へないのである。大袈裟な物云ひをするわけではない。国家が伝統を重んじ、輿論の定まつたものに価値を与へる賢明な途を撰ぶのは当然であらう。たゞ、懼れるところは、日本国民を甘やかす側の仕事に重点がおかれはせぬかといふことである。
これが仮に、フランスの文学者が胸につけてゐるレジヨン・ド・ヌウルの赤いリボンの如きものなら、誰が持つてゐるといふことはもう問題でなく、誰がまだ貰はないといふことだけ、世間は注意するのであるから、当人よりも細君が一生懸命になり、友人知己を介して文部大臣にまだかまだかと責めたてる始末である。ところが、そんな運動をしないでゐると、つい当局は忘れてゐることがあるらしい。しかも、作家生活十年以上に及んで、相当文名があがる頃になると、もう勲章をもつてゐないことが一向目立たなくなるのだからよくできたものである。つまり、当然もつてゐることだとみんなが思ひ込んでしまふ。
そのうちに、たまたま、新聞に誰それは今度勲三等になつたとか、勲一等を貰つたとかいふ所謂昇叙の報道がでる。あ、さうかと思ふだけである。
最近私の眼にふれたのは、たしか、ポオル・ブウルジエといふ老大家が勲一等になり、スゴン・ヴエヴエル夫人といふ若くない女優が勲一等になつた時がある。劇評家のエドモン・セエがもう勲三等で十数年前は未だぴいぴいの新進だつたと記憶する。これはなるほど出世の早さうな温厚篤実な劇評家であつたと私はちよつと愉快であつた。
たゞこのレジヨン・ド・ヌウルは日本の金鵄勲章にも旭日章にも瑞宝章にも宝冠章にも、更にまた文化勲章にも相当するものであつて、職業を問はず、官民の区別なく、国家は平等にその国民としての社会的功績を表彰する形式をとつてゐることは、これまた国民性の然らしむるところであらうか。
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□もう私が雑誌を譲り受けまして丁度一年になります。どうかしたい〳〵と思ひながら微力で思つた十分の一も実現することがなく無為に一年を過しました。今月号も新年号の事とてどうにかしたいと思つてゐましたが何しろ、私が帰京しましたのが十二月五日か六日だつたのにそれから一週間ばかりの間は咽喉をはらして食事をすることも話をすることも困難になつて何にも出来ませんでした為めに、大変手ちがひになつて今度もまたおはづかしいものをお目に懸けます。けれども私も身軽になつてかへつて来ましたからこれからは少し懸命に働きたいと思つてゐます。だん〳〵に少しづゝでも努力のあとが現はれるやうにしたいとおもつてゐます。何卒皆様にも一層御尽力を願つて共に育てゝゆきたいと思ひます。
□何時かも申ましたやうに、自分たちの勉強の為めにも何かの問題をとらへて皆で研究すると云ふのはいゝ事だと思ひます。それで次号から私は自分の書きたいものゝ外に何か思想上の実際的な問題をさがしてそれについて書かうと思ひます。そしてそれを皆様の仰言つた事と一緒に批評して頂きたいのです。一句でも一章でもいゝのです。そして出来るだけ発表する為に次号で六号欄を別に設けて其処で発表するやうにしたいのです。何卒お互ひに勉強のたしになる事ですから賛成して頂きたいと思ひます。それには実際読者諸姉の現在考へ悩んでゐらつしやるやうな事をさうして大勢の最も進んだ意見をお聞きになつてお考へになるのもいゝ一つの方法だと思ひます。さう云ふ方面での材料をお持ちになる方は私迄おしらせ下されば大変にいゝと思ひます。勿論決してお名前を出すやうな事はしませんし、私も知らなくてもいゝのです。
□平塚さんは九日にお嬢さんをお産みになりました。お産は少し重かつたやうですが、その後の経過は大変いゝやうです。哥津ちやんも一日ちがひに男のお子さんをお産みになつたさうです、まだ会ひません。
□平塚さんのお産をなすつた翌日位に何でも新聞記者が訪ねて行つたのを附添の人が知らずに上げました処、「御感想は?」と聞いたさうです。私はあんまりの事に本当に怒りました。何と云ふ無作法な記者だらうとまだお見舞の人も遠慮して得ゆかないお産室に、一面識もない者が新聞の材料をとりにゆくつて、何と云ふ人を侮辱した仕方でせう。私は頭が熱くなる程、腹が立ちました。平塚さんは洗面台の上にのせた花の鉢を指さして、「この花と私の感想を交換するつもりで来たのですよ、私は苦しいと云ふより他何の感想もありませんつて云つてやりました。」と話されました。私はさうした侮辱も黙つて許してお聞きになる平塚さんの気持を考へてゐると涙がにじんで来ます。何卒皆さんが幸福であるやうにと祈るより他はありません。
□私は「雑音」と云ふ題でかねてから書きたいと思つてゐました長篇を書きはじめました。青鞜に載せるのが私の望みでしたけれども種々な事情から大阪毎日に連載することにしました。それは私の見た青鞜社の人々について私の知るかぎり事実をかくのです。私はそれによつて幾分誤解された社の人々の本当の生活ぶりが本当に分るやうになるだらうと思ひます。そのつもりで書くのです。併し何と云つても私自身の過ぎた日の記録を書くと云ふ心持が主であるのは云ふ迄もありません。それでいろ〳〵なものを見、考へてゐますと、私の入社当時から今日までにも本当に、おどろくべき変化が何彼につけて来てゐます。あんなにさはぎまはつてゐた紅吉さん今は御良人と静かな大和に、子供を抱いてしとやかな日を送るやうになつたのですもの、あの文祥堂の二階で皆してふざけたり歌つたり、平塚さんのマントの中に入れて貰つて甘へたりした私が二人の母親に、他の皆も母になつたりした事を考へますと僅かの間にと、本当におどろいて仕舞ます。おどろくと云ふよりは不思議な気がします。
□今月、平塚さんも哥津ちやんもお産で書いて頂けず、野上さんからも頂けませんでした。本当に残念ですけれど。来月は皆さんに少しづゝでも書いて頂かうと思つてゐます。
□雑誌や書物の批評紹介をしばらく怠けました、来月からは正しくやりたいとおもひます。これも、どなたでもおよみになつたものの事でおきづきになつた事をお書き下さいまし。
□それから、これはとうから申上げたいと思つてゐましたが補助団の事なのです。あのままになつてゐる事が心苦しくてたまりませんから、小さな本でも何かいゝものを撰んで翻訳してパンフレツトでもつぎ〳〵に出してゆかうと思つてゐますのですが今日迄はひまがなくてどうしてもかゝれませんでした、それに払ひ込んで頂いた金はもう私が引きつぐずつと以前から今日迄引きつづいて雑誌の方の借金なんかにつぎ込んでいくらも残つてゐませんので実は大阪毎日に書きかけのものをまとめてその稿料ででも――小さなパンフレツトならそれで足りますから――出版しやうかと思つてゐるのです。おそくも四月か五月には是非一集を出すつもりです。金さへ都合が出来ますなら、若しかしましたら私の感想集を自分で出して、それをも配付したいと思つてゐます。何しろ、私自身に、どうかして働き出すより他に資力がありませんので誠に諸氏に対しては申訳けがありませんがあしからずお許し下さい。それから補助団の会員と申ましても今では十人あるかなし位ですからさうしてパンフレツトでも何でも出せるやうな風にすればもう少し加入の意志のある方には這入つて頂きたいと思つてゐます。それから留守の間集金を出すことを怠つてゐましたから一月に這入りましたら集金を出しますから何卒お払い込み下さいますやうお願ひいたします。
□私はこの雑誌の諸君の間にでも立派な考へをもつてゐらして黙つてお出になる方が沢山あるやうな気がして仕方がありません。そんな方はもういゝ加減筆をお持ち下すつてもいゝと思ひます。岡田八千代様、長谷川時雨様のやうな立派な方が何と云つてもまだ未成品の私共と一緒に筆をとつて下さることを本当にうれしく感謝いたします。今年こそは実のある仕事をしたいものだとおもひます。働ける丈け働きたいとおもひます。
[『青鞜』第六巻第一号、一九一六年一月号]
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日本の神道に、最重大な意味をもつてゐる呪法の鎮魂法が芸能化した第一歩が神楽だと思ひますから、どうしても、日本の芸能史に於ては此を第一に挙げるべきでせう。その点であんたが此の問題に第一指を触れられたのは見識があつたと思ひます。
あんた自身もさうでせう、一緒にやつて来た私もつく〴〵感ずることですが、すべての芸能に対してもさうだつたやうに、殊に神楽では、我々の考へが幾度変つたか訣りません。其中でも神楽の起源については、実に豹変に豹変を重ねて来たわけで、何処まで自分の前説を取り消さなければならないかと考へる位です。さうして此頃やつと暫定式な結論だけは得たと思ひますが、併し、さうしてみると、昔の人の言つてをつたのと大して違はない所におちて来たやうな気がするのです。どうせあんたの今度の本にも出て来るでせうから、あんたの書いてゐる部分をまう一度繰り返すやうな形になるかもしれませんが、一言だけ付け添へることに致しませう。
私共が最初、内侍所の御神楽だけについて議論してゐた時、あんたから注意を与へられて、清暑堂の御神楽の方も考へなければならぬといふことが訣つたのですが、今になつてみると、結局清暑堂の御神楽の方が、内侍所の御神楽よりは古いものだつた。さうして、神楽の歴史については、まう一つ重要な暗示を含んでゐるものだ、といふことがだん〳〵訣つて来ました。平安朝中期以後の神楽の形を考へるのに、まづ、そのうちに清暑堂の御神楽の要素を強く認めなければならない。その外に、薗韓神まつりの神遊び、之を加へたゞけで大体伝つてゐる神楽の形はできると思ひます。その外に色々な地方の大社、或は国々の特殊な神遊びが宮廷に摂り入れられて、それが合体したものだ、と言へば、それで足りるのだと思ひますが、さうすれば清暑堂の御神楽といふものが、どうして起つたかといふことが問題になります。これは恐らく大嘗祭に接続して、豊楽殿の後房、即、清暑堂で行はれた御遊が、大嘗祭の意味に於て毎年繰り返される新嘗祭にも行はれたといふところから、毎年行はれる御神楽となつたことは、まづ間違ひないことだと思ひます。それならば、御神楽が何故大嘗祭に行はれ、十一月に行はれないか、といふことになりますが、これは簡単に説明出来ると思ひます。つまり、同じやうな神遊びをもつてゐる鎮魂祭が、新嘗祭に近く行はれるからです。それならば、鎮魂祭の時にどういふものが行はれるかといふと、神遊び、倭舞、此の二つといふことになつてゐます。その倭舞のかはりに薗韓神の神遊びが這入つたものが、とりもなほさず御神楽だといふことになるのです。同時に宮廷が大和においでになつた時代と、山城京にお遷りになつてからとの相違を見せてゐる訣なのです。
あんたには説明するまでもないことですが、この本を読まれる人たちの為に薗韓神を我々の考へてゐる形で説明しますと、韓神は山城京の定つたその場所の地主神、薗神は大和時代で言へば御県の神、謂はゞ宮廷の御屋敷をとりまいて散在してゐる宮廷の御料の食物其他を生産する土地の神ですから、結局、この二神は御県の神と三輪或は大和の神にあたる訣です。だから御神楽といふものが、山城京になつてまとまつたものだといふことは、その一事でも説明出来ます。だが、世間の人にはまだ認められないことかもしれないが、我々仲間では定説にならうとしてゐる神楽のいま一つの大きな起源が、その上に加はつてゐることは疑はれません。つまりそれが、この本の中にも見えてゐる石清水系統の神遊びです。
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神楽の宮廷で行はれた、ごく自由な様子はよく訣らないのですが、御遊抄を見ますと、後一条院の長和五年の条に「他の宰相等相共に豊楽殿の東廂より建春門に到り歌曲を唱へ舞袖飄す」とあるのが、他の清暑堂の琴歌神宴の記述と違つて、神宴御遊果てゝ退出の時の様子を書いただけに過ぎませんが、凡、その時に行はれた神楽のもどき或はやつしと謂ふべき形が窺はれるのですから、従来考へてをつたやうな極めて狭い範囲のお庭のうちにかしこまつて行つてをつただけではなかつたやうに察せられます。さうして、この御遊抄から更に察せられますことは、所謂管絃の御遊に関しての記述ばかりで、舞ひを奉仕したことは、今挙げた例、或はそれより前の天慶九年村上天皇御宇の記述くらゐのものです。そこには「御神楽御遊内舎人十人、弾琴歌人二人」とあります。だから、全く舞ひが加はらなかつた訣ではなく、恐らく御遊と併行してそれが行はれてゐて、謂はゞ殿上と砌の下の舞ひとを、同時に行はれる別々のことに見てゐたやうに思はれます。これが一つになつて所謂琴歌神宴或は清暑堂御遊といふやうな名称を失うて、御神楽と称せられ、更にそれを庭上の神事といふ風に形を変へさせ、時期もくり下げて十二月に行ふやうになつたものと思はれます。さうして後に宮廷の御神、内侍所の神いさめに奉る風も生じて来たのだと思ひます。同じ宮廷にある御神でも神祇官にいらつしやる御神の為には既に鎮魂祭の神遊びがあるのですから、これが内侍所に止まつた理由も察せられます。さすれば、庭の神事或は庭の芸能になる道筋を言ふ必要はありませう。
神々は音楽がお好きであり、又和やかな噪音が神慮に叶ふものであり、殊に末座の神々はさうした欲望が非常に深いものと古人は考へてゐたのですから、清暑堂に御遊がある節には、宮廷の地主神並びにその周囲の神々が垣間見をし、更にもの見高く内庭にまで這入つて来られる様子が考へられます。其故、その頃殊に新しい勢力を持つて都近くまで近寄つて来てをられた石清水の神が這入つて来られ、大体石清水風に庭の芸能を統一せられたものと思ひます。勿論それ以外にも、諸国の神々が宮内或は内庭に集つて来られ、それ〴〵の神遊びを宮廷に寄与せられた様子は残つてゐます。
○
さつきの話ですが、人長の成立に関する想像を述べて見れば、大体神楽の疑問になる点が訣りさうですから述べてみませう。
京都辺の大社――賀茂・平野・梅宮・石清水、これ等の社の祭りにはそれ〴〵山人が参加してゐます。江家次第の平野祭に拠ると、山人は左右の衛士だといふ風にあります。其が而も、この祭りには二十人も出ます。これに対して梅宮では僅か二人です。どの社も山人が榊を持つて来て、これを斎庭に立てることになつてゐるやうですし、その上これが臨場する時に、祭りに関係した男女が出迎へることになつてゐるやうです。だから尠くとも、最古い祭りには真の山人が来たものとみてをつたに違ひありません。それが、段々仮装した山人になつた訣です。さうしてこの山人は、同時に薪を立て、庭燎を焚き、倭舞を舞うたことが梅宮に関する江家次第などの記述を中心として考へると訣ります。だから、山人は宮廷が大和においでになつたときからのものだといふことが推察出来るし、旁この本にも出てゐるであらう「穴師の山の山人と」の歌などが傍証を示してゐます。これで神楽における庭燎の意味も相当に訣るし、同時に、人長その他の成立も知れるといふものです。楽家録に拠りますと、人長が手に持つ榊は、御神楽の日に、吉田山・賀茂山などから衛士が伐り出したのを、内侍所の女官に渡して置き、刻限に及んで内侍所の南階の下で、人長が女官から請ひ受ける。その時「人長の榊、人長の榊」と呼ぶやうにあります。女官が人長に授ける榊は、長さ四尺許りに切つてあつて、枝は上の方二尺ばかりにとゞめて、下はゝらつて柄として持てるやうになつてゐるさうです。これは、主客が顛倒したやうに見えますが、同時に人長が榊に関係の深い事、それから山人の為事から出て来た役だといふことも察せられるやうです。さうして人長が歌人・楽人等の才を試すのは、つまり山人の主だつたものが、その仲間の中のものを一々指摘してその才を演じさせるといふことになる訣です。而もそれが後には、衛府の宮人の役になり、才男とまた別に歌人・楽人があるやうに想はれて来たのでせう。
神楽で最目のつくものは、殆、人長ばかりが舞つてゐるやうに見えることですが、他の人々には各、それ〴〵の才があるので、その才を特殊なものにして来た結果、人長の一人舞といふ形を生じたのでせう。だから、譬へば、前張を勤めるものゝあることを韓神の後に述べて、自分の座にかへります。そこで前張が始つて、それがしまふと朝倉になります。かういふところから、また歌が分化して、外国音楽の呂律に合つた催馬楽が出て来ることになつたのでせう。清暑堂の御遊には、堂上方の歌ふものが呂と律とに分れてをつて、それが特殊なものゝ外、譬へば安楽塩・鳥の破の如きものゝ外は、所謂催馬楽なのです。堂上方の御遊と庭上の芸能とは、別々に並行してゐる筈なのが、何時か堂上のを庭上に移すやうなことにもなつて来たのです。この芸能のはじめ〳〵に勧盃が行はれます。これが恐らく、今も東北地方の神楽系統のものに含まれてゐる剣舞といふ風に理会され易いけんばいの名のもとなのでせう。つまり酒を飲んで芸廻しをするといつた意味と思はれます。
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勿論、皆さういふ(才を試される男と才男とは同じ語)つもりで記録は書いてゐると思ひますし、或は語はそこから出てゐるかも知れません。しかし、語原は、別に考へられることは、あんたもさうだつたし、私も今まで言つて来たところで説明は尽きてゐるのですが、逆にかうした順序をとつて出て来た語と言へないこともないのです。しかしさうすると、宮廷以外の人形をもつてする才男の説明が、全部宮廷の才男を原として説かなければならないことになるのです。たゞ、どちらでも宜しいが、人形を前にする方が如何にも才男の説明には都合がよかつたのですが、さういふことが若し言へるとすれば、語だけは宮廷の才男が原であつても、人形は人形で自ら他の社或は国に於て発達し、宮廷の才男は又別に発達して来て而もその才男の中から、地方の人形のする態と最近い芸能を行ふものだけの名称を才男といふことになつたとも説明出来ませう。しかしこれは、宮廷側の記録の才男の説明が、或予断があつて出来てゐるものと思はれますから、今のところはまだ〳〵そちらへは決められません。
○
どうも、人長の持つ輪といふものは、楽家録には鏡に見立てたものだとあつたり、曲玉に見立てたのだといふ風にもありますけれども、それはたゞ、さう考へただけのことで、輪そのものゝ形は、到底榊の枝に下げられるやうなものではないのです。即、輪の製法は「小円木を以て作る、径八寸」とありますから相当に長い枝を折り曲げたものです。それと共に「柄有り、長さ一尺八寸」とありますから、謂はゞ靫猿の踊りに見ることの出来るやうな、又、どうかすれば普通の猿廻しも持つてをつた環鞭のやうなものなのです。さうして「白粉を以て之を塗り、白糸を以て輪を柄に結び附く」とあります。而もこの輪が、登比加介留又は釣招といふ名であつて、「庭燎諸歌の時、人長のとびかけるときこれを投げ掛く」とあるのは、誰に投げ掛けるのか訣りませんが、「人長輪を冠にかけて之を引き止む」とありますから、人にかけることは確かです。輪をとびかけらして人を捉へたところからこの名が出来たものと思はれますが、今ではその目的が訣りません。しかし、かういふ為方で他をつりまねくことは、恐らく同等の人間にすることではなかつたでせう。そこに、神楽の人数の中には異常なものが混つてゐることを示したことが訣ります。即、たゞの宮人たちが神楽を勤めるのではなく、人以外の者が来て祝福の芸能を演じたことを意味してゐるのではないでせうか。
それから、あんたの言はれた軾を蹴るといふことですが、これ亦人長のする特殊なことで、楽家録には、軾を蹴るやうに見えるだけだといふ風な説明もしてをります。「人長庭燎に立つて本末に行く時、軾を蹴る事、之を故実となす、然れどもこれ不解の説か、今案ずるに人長軾の前に立つて三つ拍子を踏み、東方に行き立ち、又軾の前を経て東方に行き立ち、その度毎に腰をめぐらし裾をよせる形をなす、事を好むもの誤つてその躰を見てこの説をなすものか」とあつて、寛永の内侍所の御神楽の時に、四辻大納言が多備前守盛忠を呼んで、軾を蹴らないやうに下知せしめた云々とありますが、是等は証拠になりません。たゞ、三拍子を踏むのも事実だつたのでせう。それをすることが即、軾を蹴ることにあたるのだつたら、別にかうした説は意味のあるものとは思はれません。人長が左右左と足踏みするのは、三拍子の法を書いた条を見ても訣る如く、これは反閇の単純なものらしいのです。たゞ軾が常に用ゐられるのは円座と同じ用途なのですから、それを蹴るといふことに或不調和を感じてかうした説を立てたのでせうが、我々が畳莚は座る為に用ゐてゐながら、又、反閇の範囲を模型式に示すことがあるのを思へば訣る筈です。つまり軾が、畳莚の代りに踏まれる、大地を意味してゐるものと見るのがほんたうなのでせう。祝福に来臨したものが、その庭を踏み鎮めることはあるべき筈で、舞踊と目的を一つにしてゐて、而も、もつと明らかにその目的を示してゐるものでせう。譬へば、猿楽能における翁・三番叟の踏むことゝ、他の五番能に於いて舞ふのと両立してゐるやうなものです。たゞ、あまりにこの神楽なる芸能が発生の時を去ること遠く、宮廷に這入つても、早く部分々々の意義を忘れてしまつてゐた為に、後世から思へば、とんでもないことが行はれてゐた訣なのでせう。それはあんたのこの御本に詳しく説明されてゐることですけれども、日本民族の間に、神楽以後に発達した芸能が、何等かの形に於て他の芸能を出来るだけとり込んで来たやうに、既にさうした日本芸能の宿命風な方向を、この最古い最神聖な芸能が暗示してゐたと申されるでせう。
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XをビタミンAとビタミンEが防ぎます
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書かれている事件が人を驚かすのでない。そのことは、ちょうど私達が活動写真を見るようなものであります。奇怪な事件が重なり合っているような場合であっても見ている時は成程、其れによって、いろ〳〵なことを想像したりまた感興を惹かれたりしても、一たび外に出て冷やかな空気に触れゝば、つい、今しがた見たことが夢のように、もっと其れよりは淡い印象しか頭に残らないのであります。
ドストイフスキイの作品は、雑な人生の事件が取扱われていることを否まないけれど、私達に感銘を深からしむるのは、そのためでない。
このときに於て事件というものは、そんなに役立っていない。たゞこういうようなことが人生にあるかと考えさせるより、多くを語るものでないと感ぜられます。そして、いかに、そうした事実の前に人々が動いたかという、真実を他にしては、芸術というものがないように考えられます。活動写真は、たゞ眼先をいろ〳〵に換えて其の間に、驚異と人情とを印象させるようにするけれど、もとより稀薄たるを免れない。しばらくは忘れることの出来ぬようなものであってもやがては忘れてしまうのです。凡そその程度のものであるから、もとより享楽すべきものであって、これによって、旧文化の根底を改めて新文化をば建設しようなどゝ考えるのは、あまりに安価な考え方であると思われます。
独りドストイフスキイの作品ばかりでなく他の有名なる名作は、事件そのことが異常なものがあるのは事実であるけれど、そのソロが深刻な感銘を与えるものでないことはやはり同じであります。たゞ其の中に含まれた真実を他にしては、芸術の力というものは他にないように考えられます。
それは、美に対して、正義に対して、その作家が真剣であるという一事であります。私達は、体験を経ないような事柄に対してはそう愛も感じなければ、またそう憎みをも感ずることが出来ない。もとより同感することも出来ないのであります。
親子の関係、夫妻の関係、友人の関係、また男女恋愛の関係、及び正義に対して抱く感情、美に対して抱く感激というようなものは何人にも経験のあることであって従って作中の人物に対して同感しまた其れに対して、好悪をも感ずるのであります。
芸術家として偉大なる所以は、是等の人間性の強さと深さとの問題であります。言い換えれば人間愛に対してどれ程までに其の作家が誠実であり、美に対してどれ程までに敏感であり、正義に対してどれ程までに勇敢に戦うかということにある。
事件の異常なる場合に際して、私達のそれに出遇った時の感情や、意志がまた著しく働くということも事実であるが其人の人格は、またいかなる小事に対しても発揮されるでありましょう。たとえば旅行をして遠くへ行かなくとも永久の自然は其の町に、其の村に常に眼の前にあります。もし其人が敏感であって、美に対して感激を有していたなら、たとえ其処に転がっている一個の林檎に対しても主観の輝きが見られる訳です。区役所に行って役人に遇ったゞけでも、また巡査に道を聞いただけでも、荷車を引いている労働者を見たゞけでも、また乳呑児を抱いて露店に坐っている女を見たゞけでも、そして其他各階級の人々に出遇い、或は遊び、或は働いている有様を見たゞけでも、私達はこの人生を感ずることが出来るのであります。
すべてが、芸術家その人が、いかに人生を見、感ずるかに帰着します。真にある事を感ずる者は同時にある事を信ずる人々でなければならない筈です。芸術家の貴い信念はこゝに萌芽します。彼等のすべてが人道主義者として、また殉教的な敬虔な心の持主として、人生のために戦うに至るのもこれあるがためです。
こゝに於て、芸術は畢竟享楽のためでなくして、一個の目的を有さなければならぬことを知ることが出来ます。
私は、この美に向上を感じ、愛のために戦わんとする精神は、理知そのものでもなければ、また主義そのものでもない。全く、詩的感激に他ならないと思うのです。
すべて、散文の裡に、若し、この詩的感激を見出さない記録があったなら、決してそれは芸術であり得ない。またこの革新的気分と、人生的の感激を有しないセンチメンタリズムが詩を綴っていたら詩の精神を有しないばかりでなく、常に、新生活創始に先駆たるべき文化の精神を、誤るものだということを憚らないのであります。
詩の誤解されていることも久しいけれど、また芸術が詩から離れて無感激な状態にいることも既に長い間であると言わなければなりません。そして、其れを救うものは、真に新しく、其の人の出るのを待つにあるばかりです。そしてかゝる芸術家は、眼前の社会に対して、最も真実であり、人間的愛を感ずる人道主義の高唱者に他ならないと私は感ずるものであります。
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一 姓名の由來と順位
わが輩はかつて『國語尊重』と題して、わが國固有の言語殊に固有名の尊重せらるべきゆゑんをのべた。今またこれに關聯して、わが國民の姓名の書き方について一言したいと思ふ。
わが國の姓名の發生發達の歴史はこゝに述べないが、要するに今日吾人の姓と稱するものは實は苗字といふべきもので、苗字と姓と氏とはその出處を異にするものである。
姓は元來身分の分類で、例へば臣、連、宿禰、朝臣などの類であり、氏は家系の分類で、例へば藤原、源、平、菅原、紀などの類である。
苗字は個人の家の名で、多くは土地の名を取つたものである。例へば那須の與一、熊谷の直實、秩父の重忠、鎌倉の權五郎、三浦の大介、佐野の源左衛門といふの類である。
昔は苗字は武士階級以上に限られたが、維新以來百姓町人總て苗字を許されたので、種々雜多な苗字が出現し、苗字を氏とも姓とも呼ぶ事になつて今日にいたつたのである。
わが國固有の風俗として家名を尊重する關係上、當然苗字を先にし名を後にし、苗字と名とを連合して一つの固有名を形づくり、これを以て個人の名稱としたので、苗字を先にするといふことに、歴史的意味の深長なるものがあることを考へねばならぬ。
東洋民族は概して苗字を先にし名を後にするの風習である。支那人はその適例である。
ヨーロツパでもハンガリーなどでは即ちマギアール族で東洋民族であるから、苗字を先にし、名を後にする。
西洋では家よりも個人を尊重するの風習から出たのか否かよく知らぬが、概して姓を後にし名を先にする。
ジヨージ・ワシントン。ジヨン・ラスキン。ジエームス・ワツト。ペーテル・ペーレンス。バウル・ゴーガンなどの類で、前名は即ち個人のキリスト教名後名は即ち家族名である。
印度は地理上東洋に屬するが、民族がアールヤ系であるから、矢張り名を先にし姓を後にする。ラビンドラナート・タゴールといへば、前名は即ち個人名で、後名のタゴールは家名である。
二 歐風模倣の惡例
現今日本では、歐文で通信や著作や、その他各種の文を書く場合に、その署名に歐米風にローマ字で名を先に姓を後に書くことにしてゐるが、これは由々しい誤謬である。小さい問題のやうで實は重大なる問題である。
わが輩の名は伊東忠太であつて、忠太伊東ではない。苗字と名とを連接した伊東忠太といふ一つの固有名を二つに切斷して、これを逆列するといふ無法なことはない筈である。
個人の固有名は神聖なもので、それ〴〵深い因縁を有する。みだりにこれをいぢくり廻すべきものでない。
然るに今日一般にこの轉倒逆列を用ゐて怪しまぬのは、畢竟歐米文明渡來の際、何事も歐米の風習に模倣することを理想とした時代に、何人かゞ斯かる惡例を作つたのが遂に一つの慣例となつたのであらう。
今更これを改めて苗字を先にし名を後にするにも及ばない。餘計な事であるといふ人もあるが、わが輩はさうは思はない。過ちて改むるに憚るなかれとは先哲の名訓である。
况んや若しも歐米流に姓名を轉倒するときは、こゝに覿面に起る難問がある。それは過去の歴史的人物を呼ぶ時に如何にするかといふ事である。
徳川家康と書かずして家康徳川といい、楠正成と書かずして正成楠といひ、紀貫之と書かずして貫之紀といふべきか。これは餘程變なものであらう。
過去の人は姓名を順位にならべ、現在の人は逆轉してならべるといふが如きは勿論不合理であるばかりでなく、實際においてその取扱ひ方に窮することになる。
この點において支那はさすがに徹底してゐる。如何なる場合にも姓名を轉倒するやうな愚を演じない。
張作霖は如何なる場合にも作霖張とは名乘るまい。李鴻章は世界の何國の人にも鴻章李と呼ばれ、または書かれたことがない。
世界の何國の人も支那では姓を先にし、名を後にすることを知つてをり、支那の風習に從つてゐる。世界の何國の人も日本では姓を先にし、名を後にすることを知つてゐる筈であるが、日本人が率先して自ら姓名を轉倒するから、外人もこれに從ふのである。
三 彼我互に慣習を尊重せよ
或人は、日本人が自ら姓名を轉倒して書く事は國際的に有意義であり、歐米人のために便宜多きのみならず、吾人日本人に取つても都合がよいといふが、自分はさう思はぬ。
結局無識の歐米人をして、日本でも姓を後に名を前に呼ぶ風習であると誤解せしめ、有識の歐米人をして、日本人が固有の風習を捨てゝ外國の慣習にならうは如何にも外國に對して柔順過ぎるといふ怪訝の感を起さしむるに過ぎぬと思ふ。
それよりも、吾人は必ず常に姓前名後を徹底的に勵行し、世界に日本の國風を了解させたならば各國の人も日本の慣例を尊重してこれに從ふに相違ない。
餘談に亘るが總じて歐米の慣習と日本の慣習とが全く正反對である實例が甚だ多い。
例へば年紀を記すのに、日本では年、月、日と大より小に入り、歐米では、日、月、年と逆に小より大に入る。
所在を記すのに、日本では、國、府縣、市、町、番地と大より小に入るに、歐米では、番地、町、市、府縣、國と、逆に小より大に入る。
日本人が歐文を書く場合、この慣例を尊重して、小より大に入るのは差支ないが、その内の固有名は斷然いぢくられてはならぬ。
例へば地名の中にも姓名を具ふるらしいのがあるが、この場合姓名を轉倒するのは絶對に不可である。
東京市の「櫻田本郷町」を「本郷町、櫻田」としてはいけない。鐵道の驛名の「羽前向町」を「向町、羽前」としてはいけない。同じ理由で「伊東忠太」を「忠太伊東」としてはいけないのである。
日本人が歐文を飜譯するとき、年紀や所在地の書き方は、これを日本流に大より小への筆法に直すが、固有名は矢張り尊重して彼の筆法に從ふのである。
例へばジヨージ・ワシントンと名を先に姓を後にして、日本流にワシントン・ジヨージとは書かない。
然らば歐米人も日本の固有名は日本流に書くのが當然であり、日本人自らは、なほ更徹底的に日本固有の慣習に從ふのが、當然過ぎる程當然ではないか。
四 斷じて姓名を逆列するな
わが輩のこの所見に對して、或人はこれを學究の過敏なる迂論であると評し、齒牙にかくるに足らぬ些細な問題だといつたが、自分にはさう考へられぬ。
これは曾つてわが輩が「國語尊重」の題下でわが國の國號は日本であるのに、外人の訛傳に追從して自らジヤパンと名乘るのは國辱であると論じたのと同じ筆法で、姓名轉倒は矢張り一つの國辱であると思ふのである。
或人は又いつた、汝の所論は一理窟あるが實際的でない。汝は歐文に年紀を記すとき西暦を用ゐて神武紀元を用ゐないのは何故か、いはゆる自家撞着ではないかと。
わが輩はこれについて一言辯じて置きたい。年紀は時間を測る基準の問題である。これは國號、姓名などの固有名の問題とは全然意味が違ふ。
歐文で日本歴史を書くとき、便宜上日本年紀と共に西歴を註して彼我對照の便に資するは最適當な方法であり、歐文で歐洲歴史を書くとき、西歴に從ふは勿論である。
要するに世間は未だ固有名なるものゝ意味を了解してをらぬのであらう。固有名を普通名と同一程度に見てゐるのであらう。
普通名は至る所で稱呼を異にするが、固有名は絶對性のものであり、一あつて二なきものである。
即ち日本人の姓名は唯一不二である。姓と名と連續して一つの固有名を形づくる。
外人がこれを如何に取扱はうとも、それは外人の勝手である。たゞ吾人は斷じて外人の取扱ひに模倣し、姓と名とを切り離しこれを逆列してはならぬ。
それは丁度日本の國號を外人が何と呼び何と書かうとも、吾人は必ず常に日本と呼び日本と書かねばならぬのと同じ理窟である。(完)
(大正十五年二月「東京日日新聞」)
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お別れしてから、あの煙草屋の角のポストの処まで、無我夢中で私が走つたのを御存じですか。あれはあなたにお別れしたくない心が、一種の反動作用を、私の行為の上に現はしましたの。それから私、走りながらも夢中の夢のやうに考へましたことは私がもし一寸でもふりかへつたら私はまたあなたの方へ……いえつひにあなたへ走りかへつて、永遠にあなたから離れられない、あの月夜の、月の雫が太く一本下界に落ちて、そのまゝ停つたやうに真新らしく白く木肌をかゞやかした電柱の下にしよんぼりと私を見送つてたつてゐらつしやつたであらうあなたのおそばから。それから私は、夢中で走りながら、まだこゝろのなかで、はつきり意識したことがありましたの。それは、あなたが、私の走るうしろ姿を見送る眼に、これはまた、同じ月の雫でも、実に、それを濃まやかにあなたの眼に点附したやうなあなたのお涙が……それが、あなたの特長である、幅広の二重まぶたの所へあふれ出てしまはないうち、つまりそのお涙をたゝへたまゝのあなたのお眼によつて、昨夜のお別れの最後のなかからなくなる私の姿を完全にみまもつていたゞき度いといふ意慾を、あの夢中で走る私の胸にはつきりと私、意識してゐましたの。
そのくせどうでせう、私、息せき切つてポストまで辿りつき、赤ぬりの少しはげてかたむきかゝつたあの裏街の煙草屋の角の爺さんのやうなもうろくしたポストの頭をつかまへるやいなや、その手へ満身の重心を集めて身体をさゝへながら、直ぐにあなたの方を――月の雫が太く下界に直立したやうな――電柱の方を見返しました。そして、その時、完全にあなたは私の視界にゐらつしやらない。その時、失望と安心が同時に私にやつてまゐりましたのはなぜかといへば、それはあなたが、私を、あの昨夜の明煌々とした月光のなかを、或、単純のやうで複雑であり、そして、恋の皮肉な心理状態にもてあそばれた稚拙な行為を、ありのままに行ひ終つた私を、ポストの際まで見送るがいなや、それは私が、あなたを振りかへるとほとんど同時に、あの電柱から実に巧妙に、恋人との別れのシーンに進退することの機微を遺憾なくなし終せられたといふ感嘆に価する安心でありました。が、やつぱりあき足りないにはあき足りない。やつぱりあなたがいつまでもあの月の雫の直立である電柱の下で、いつまでもいつまでも、私が、ポストの角からとうに曲つてしまつたのちのいつまでも、あなたから走り去つた私の背後の帯の輪の揺れ、着物の裾がひるがへつて月光に、どんな反色を見せたかといふことまでがあなたに幻影とまでなつてしまつてからでも、あの電柱の下に立ちどまつて、私に名残を惜んで下さるあなたの存在を見たかつた。私の失望といふのはそれですの。
でも、何といつても昨夜はうれしい夜でした。黙つて、黙つてゐるために、かへつて、二人とも切ない歓喜の哀愁がふかく胸をとぢたので御座いますね。月の前では、まつたく人間界の饒舌などほしいまゝにしてはすまないやうな冷厳な感じにうたれますのね、まして恋する身には……
まだ以上、このラブレターの続きはあるのですが、もはや書き続ける根気もありません。なぜなら、このラブレターは筆者が自分の熱情をもつて恋人にでも送つたらうと思はれたら大変な違ひのものなのですから。これは、或る女が、ある男から恋愛を強ひられて拒絶した。するとその男性から、『せめてこの様なラブレターでも時折は書き送つて下さい。小生は目下あまりに寂しい境遇にゐる。』と強要せられた時、その同封のなかにこのラブレターの文範がいれてありました。いふまでもなく、それゆゑ以上のラブレター文範はその男性が御苦労様にも、そのある女に自分から書いて示したものであります。ユーモラスな哀感をかんじながら私がそれを読んでゐますと、傍からそれをもらつた女性が『じようだんではありませんわ、私にそんなひまがありますか。』とふくれてをりましたが、それでもやはりその女性にも、ふくれるそばから口辺につい現はる微笑がありました。昭和二・五
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日本でこそ、その昔は河原乞食とまで蔑まれ、大正の代にあつてすら、未だに芸人扱ひを受けてゐるわが俳優も、仏蘭西などでは、今も昔も、さぞ、威張つたものであらうと、かう思ふ人もあらうが、どうしてどうして、ルイ十四世大王の寵遇を一身に集めてゐた一代の果報者、モリエールさへ、一公爵が、その頭を抱いて撫でまわすに任せ、遂に釦の角で顔を擦りむいたほどである。
当時の学僧ボッスュエは、演劇の風教問題を論じ、俳優稼業の卑むべきを述べて、かう結んでゐる。
「世に母として、そは基督教信者たるを要せず、また如何に不真面目なる女にてもよし、その娘が、舞台に立たんよりは、寧ろ墓の下に眠らんことを望まざるものあらんや」と。
十八世紀は、自由感想の天下である。更に、クレエロン、ル・カアン、ファヴァール、アドリエンヌ・ルクウヴルウル等の名優を輩出した時代である。
ヴォルテエルは一生、役者の――殊に女優の――頼もしき味方であつた。
之に反して、ジャン・ジャック・ルソオは俳優なるものを眼の敵にした。曰く
「俳優の才能とは何だ。自己を偽る術ではないか。己れの人格を他人の人格で覆ふ術ではないか。自己を在るがまゝに見せない術ではないか。平然として激し、恬然として心にもなきことを語る術ではないか。他人の位置に己れを置かんとして、己れの位置を忘るゝ術ではないか」
「俳優の職分とは何か。金銭の為めに、自己の肉体を公衆に晒すことではないか。公衆は彼等より侮辱と罵詈の権利を買ひ受けるのである。彼等は、その人格を挙げて公に之を売らんとするものではないか。」
十九世紀に至つて、「虐げられたるものゝ反抗」が眼を覚ます。それと同時に、タルマ、ルメエトル、マルス、ジョルジュゴット、ラシエル……等の天才俳優が簇出する。「虐げられたるものゝ味方」として、ヴィクトオル・ユゴオが現はれる。雄弁なる俳優の庇護者である。
忘れてはならないことは、ユゴオも云つたやうに、「人は、自分を悦ばせるものを何とかして復讐したい」傾きのあることである。この点で、日本の新劇俳優諸君は、当分、誰からも軽蔑される心配はない。
今日、仏蘭西の俳優は、勲章も貰へば、――珍しくもなからうが(なかなかどうして)――元老院議員の晩餐会にも招かれる。――日本だって何とか公爵が招待したといふんでせう。違ひますよ、それは、招待のしかたが。わかるでせう。――君、もつと飲み給へ。――へえ、もう結構で。――これや、招待ぢやない。
ルュシヤン・ギイトリイなんていふ役者はなかなか威張つてるやうですね。その辺の流行作家連を小僧扱ひにして、文部大臣なんか屁とも思はず、ブウルジェやアナトオル・フランスの劇作は、殆ど自分が骨組をこしらへてやつたやうなものなのを、それが当つて、表向きの作者が鼻をうごめかしてゐると、それを見て、にやりと笑つて、「おい、サシヤ公(これは伜の名です)てめえ、一体、いくつになるんだい」てなことを嘯いてゐるんですからね。
仏蘭西といつても、巴里のことしか識らないが、巴里にある劇場といへる劇場五十あまりは、それぞれ若干専属俳優を有し、そのうち、国立劇場四つと、前衛(先駆)劇場二三を除いては、多くは何れも、毎興行一、二人の所謂「ヴデット」を招聘する制度になつてゐる。
此の「ヴデット」といふやつ、甚だ怪しからんもので、俳優に支払ふ給料の大部分を一人でせしめてしまふのである。
「ヴデット」とは、云はゞ、立役者で、看板役者で、花形で、之あつて、お芝居がお芝居になり、客足がつき、作者が泣き笑ひをし、幕が何度も上つたり下りたりするのである。
此の「ヴデット」の中に、なかなか名優がゐるから仕方がない。アカデミシヤンの中に稀代の天才が紛れ込み、代議士のなかに相当話せる人物が混つてゐたりするやうに。
それでも、一晩に一萬五千法(二千五百円)取るのは少しひどい。一晩千法のきめで、その外、全収入の一割といふのは珍らしくない。
俳優組合の規定では、一季節間の契約なら、一ヶ月最低給料六百五十法、一興業期間なら、一晩三十法といふことになつてゐる。但し「ユチリテ」と呼ばれる役、まあ端役だ――「奥さま、御食事の用意が出来ました」と云つて引込むやうな役――これは一晩十五法(二円五十銭)。
かういふ連中は、生活費が、少くとも収入の倍はかゝる。――少くとも「かけてゐる」。なに、若いうちだ、何んでもやるさ。
或る劇場の、一女優の化粧部屋――
「ちよいと、こら、あたしんとこへこんなに花環が……」
「へえ、」
「大成功ね、あんた、うれしくないの。いくつあると想つて……ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なゝ、やあ、この……九つ。」
「それでみんなか」
「まだ少いつて云ふの」
「……(独言)畜生、花屋のやつ、一つ誤魔化しやがつたな」
国立劇場は、俳優組合と関係なしで、俳優を虐待してゐる。最初の一年は月五百法。二年たつと六百五十、これがオデオン座の相場である。コメディー・フランセエズの方は、これより鼻糞ほど余計出してゐる。尤も幹部になると、相当の収入はある。ブウルヴァアルのヴデットほどではなくとも、コメディーの一流女優などになると、自働車ぐらゐはもつてゐる。
後援者、それは勿論あります。クレマンソオでせうね、「天下の美人」セシル・ソレル嬢に例の真珠の頸飾を買つてやつたのは。
ヴィユウ・コロンビエ座では、俳優に給料の差をつけない方針である。均一とまでは行かないが、月々の給料としては三百法から四百法までを限度としてゐる。滅法少いが、それでなければ劇場が立ち行かない。役者もそれで苦情を云はない。親がかり、共稼もある。みんな品行方正であるらしい。「どうもこればかりは仕方がありませんからね」さう云ひさうである。
わが敬愛するB夫人の如きは、タイピストにも劣る服装をして、平気で町を歩いてゐる。
ヴィユウ・コロンビエ座で面白いのは、夏季巡回興業の制度である。それは、同座の俳優を夫または妻とするものは、希望により手当を給して一座と共に旅行をさせることである。勿論、座員の資格を以てゞある。無言役として舞台にも立つといふ条件附である。
逓信省の一小官吏が、ヴィユウ・コロンビエ座附女優を妻としてゐるお蔭で、懐を痛めずに炎熱の巴里を遠く離れ、ウイスバアデンあたりの避暑地のホテルで、大にやに下ることが出来るなど、座主コポオ氏もなかなか苦労人ではないか。
こんなことは興味がないかも知れないが――殊に日本の俳優諸君には――でもまあ、一寸序だから――
仏蘭西の劇場は、俳優組合の協賛を経た上で、俳優の勤務怠慢に対する罰則を設けてゐる。即ち減俸である。
本興行中
開幕又は場面転換の時刻に遅れたものは月給の百分の一。
登場遅刻――百分の二。
指定の扮装を違へたるもの――百分の二。
台詞を違へ、動作位置を誤りたるもの――百分の二。
稽古中
登場遅刻又は忘却――千分の二十五。
十分間遅刻――千分の四十。
十五分遅刻――千分の五十。
二十分遅刻――千分の六十。
三十分遅刻――千分の七十五。
稽古全部欠席――百分の四。
――此の割合は、稽古の最後の四日間に限り三倍とす。
一寸、厳しいですね。
稽古は一日四時間以上はしない規定になつてゐる。そして午後一時半から八時までの間に於て行ふことになつてゐる。興行時間を最大限四時間(普通二時間半乃至三時間半)としてゞある。
但し、最後の二日に限り、一時間だけ延ばしてもいゝ、つまり五時間やれるわけである。
稽古中は、少くとも一日十法の割増手当が出る。
閉幕後、即ち夜の十二時以後に、次回興行の稽古をやる場合は、最初の一時間は十五分について、三法以上、次の一時間は、十五分について四法以上の割増がつくわけである。
細かくきめたものである。それくらゐにして置かないとね、なかなか……。
月二千法以下の収入しかない俳優には、舞台用の現代服も劇場から支給する。時代服、職業服、並に様式服は勿論のこと。
月千法以下のものには、舞台用の靴、靴下、シヤツまでも支給する。舞台用と限つてあるからには、それを着けて外へは出られない。少々不便である。
病気又は懐姙の場合は、之を理由として俳優を解雇することは出来ない。
懐姙の為め休業中は、一日十五法以上の手当を給料の代りに与へる。
病気は、十五日間を限り、これまた給料の代りに十法以上の手当を給する。
或る寄席(ミュジク・ホオル)で、一人の歌劇女優を傭入れた時、その契約書に、こんな文句を書き入れてあつた。
「×夫人は、閉幕後と雖も、午前二時まで劇場に在るものとす。
夫たる×氏は、閉幕と同時に、如何なる事情あるも劇場を退去すべきことを契約す」
乱暴ですね。言語同断ですね。
既婚の婦人は夫の認可なくして劇場に傭はれること、また劇場側から云へば、傭入れることは出来ない法規がある。
十三歳以下の子供は舞台に立つことを許されない。
俳優は、新作の上演に当つて、その稽古の程度不充分と思惟した場合には、劇場主に開演日の延期を要求する権利がある。
勿論、一人だけそんなことを云つても駄目である。
「役者といふものはえたいの知れない「けだもの」だ。奴等は実際手綱をつけて引張つてやる必要がある――その必要があるのに、それに、さうされたがらない。そこなんだ、奴等が荷鞍で自分の背中を擦りむくのは。」
これは、二百五十年前モリエールの発した嘆声である。
仏蘭西の俳優について語るからには、「芸術と活動」社の首脳、ララ夫人を紹介しなければならない。
モンマルトルの高台、ルピック街のさゝやかな建物を、狭い階段を伝つて昇りきると、そこに、「芸術と活動」社のスチュヂオがある。
ララ夫人は、もう六十に近いと思はれる半白の老婦人であるが、その輝く眼にも、引締つた口元にも、豊な頬と頤の線にも、殊に、心持ちわざとらしい笑顔の中にも、人を魅する力――男をとは云はない――を充分にもつてゐる。夫君は富裕な建築師である。夫人は、最近、国立劇場コメディー・フランセエズの幹部たる位置を弊履の如く捨てゝ、因襲と生気なき伝統の束縛を脱し、「止まりて安きを望まんより、進んで躓かん。躓かば勇を鼓して更に起たんのみ」と、自ら「新芸術の肯定と擁護」を標榜して、若き芸術家の群に投じたのである。
――泣いてやしませんよ。
そこで、美術展覧会、演奏会、詩の朗読会、脚本の試験等が度々催される。
筆者は、ララ夫人を主役とするポオル・クロオデルの「正午の分割線」を聴いた。そして感嘆之を久しうした。よかつたですよ。クロオデルは、ほんとうに偉いと思つた。これは失礼、ララ夫人はおそろしい芸術家だと思つた。役者も、かうなると、ほんとうにわれわれの仲間ですね。態度がね、意気がね。
うれしかつた。ほんとうにうれしかつた。――え、僕、泣いてやしませんよ。
ララ夫人は、「真の芸術的演劇は、室内劇である」と云ふ。
おや、こんなことをお話しするのではありませんでしたね。
「コポオさんにお会ひになりたいんですか、ヴィユウ・コロンビエの……。大使か文部大臣の紹介状を持つてゐらつしやい」
これには一寸面喰つた。
コポオは愛国者である。ララ夫人は左傾党である。
そのララ夫人が、亜米利加あたりから流れて来た日本声楽家の「剣の舞」といふものを観て悦んだ。一度、躓いたね。早く起き上つて下さい。
仏蘭西の役者は――仏蘭西人だからでもあるが――如何にも仏蘭西の役者らしい。
何を云つてるんだ。
然し、実際、さうなんだから仕方がない。
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ミルトンは情熱を以て大詩人の一要素としたり。深幽と清楚とを備へたるは少なからず、然れどもまことの情熱を具有するは大詩人にあらずんば期すべからず。サタイアをもユーモアをも適宜に備ふるものは多くあれど、情熱を欠くが故に真正の詩人たらざるもの挙て数ふべからず。情熱なきサタイアリストの筆は、諷刺の半面を完備すれども、人間の実相を刻むこと難し。ボルテーアとスウ※(小書き片仮名ヰ)フトの偉大なるは、その諷刺の偉大なるに非ずして、其情熱の熾烈なるものあればなり。ユーモリストに到りては自ら其趣を異にすれども、之とても亦た隠約の間に情熱を有するにあらざれば、戯言戯語の価直を越ゆること能はざるべし。
然はあれども尤も多く情熱の必要を認むるはトラゼヂーに於てあるべし。シユレーゲルも悲曲の要素は熱意なりと論じられぬ。熱意、情熱畢竟するに其素たるや一なり。情熱を欠きたる聖浄は自から講壇より起る乾燥の声の如く、美術のヱボルーシヨンには適ひ難し。情熱を欠きたる純潔は自から無邪気なる記載に止りて、将た又た詩的の変化を現じ難し。情熱を欠きたる深幽は自からアンニヒレーチーブにして、物に触れて響なく、深淵の泓澄たる妙趣はあれども、巨瀑空に懸つて岩石震動するの詩趣あらず。凡そ美術の壮快を極むるもの、荘厳を極むるもの、優美を極むるもの、必らず其の根底に於て情熱を具有せざるべからず。内に欝悖するところのものありて、而して外に異粉ある光線を放つべし、情熱はすべてこのものに奇異なる洗礼を施すものなり、特種の進化を与ふるものなり、「神聖」といふ語、「純潔」といふ語などに、無量の味ある所以のものは畢竟或度までは比較的のものにして、情熱と纏繋するに始まりて、情熱の最後の洗礼によりて、終に殆んど絶対的の奇観を呈す。
詩人は人類を無差別に批判するものなり、「神聖」も、「純潔」も或一定の尺度を以て測量すべきものにあらず、何処までも活きたる人間として観察すべきものなり、「時」と「塲所」とに涯られて、或る宗教の形に拘はり、或る道義の式に泥みて人生を批判するは、詩人の忌むべき事なり。人生の活相を観ずるには極めて平静なる活眼を以てせざるべからず。写実は到底、是認せざるべからず、唯だ写実の写実たるや、自から其の注目するところに異同あり、或は殊更に人間の醜悪なる部分のみを描画するに止まるもあり、或は特更に調子の狂ひたる心の解剖に従事するに意を籠むるもあり、是等は写実に偏りたる弊の漸重したるものにして、人生を利することも覚束なく、宇宙の進歩に益するところもあるなし。吾人は写実を厭ふものにあらず、然れども卑野なる目的に因つて立てる写実は、好美のものと言ふべからず。写実も到底情熱を根底に置かざれば、写実の為に写実をなすの弊を免れ難し。若し夫れ写実と理想と兼ね備へたるものに至りては、情熱なくして如何に其の妙趣に達するを得べけんや。
情熱は虗思の反対なり、情熱は執なり、放にあらず。凡そ情熱のあるところには必らず執るところあり、故に大なる詩人には必らず一種の信仰あり、必らず一種の宗教あり、必らず一種の神学あり、ホーマーに於て希臘古神の精を見る、シヱーキスピーアに於て英国中古の信仰を見る、西行に於て西行の宗教あり、芭蕉に於て芭蕉の宗教あり、唯だ俗眼を以て之を視ること能はざるは、凡ての儀式と凡ての形式とを離れて立てる宗教なればなり。彼等の宗教的観念は具躰的なるを得ざるも、之を以て宗教なしと言ふは、宗教の何物たるを知らざる論者の見なり。人類に対する濃厚なる同情は、以て宗教の一部分と名づく可からざるか。人類の為に沈痛なる批判を下して反省を促がすは、以て宗教の一部分と名く可からざるか。トラゼヂーも以て宗教たるを得べく、コメデーも以て宗教たるを得べし。然れども誤解すること勿れ、吾人は彼の無暗に宗教と文学を混同して、その具躰的の形式に箝めんとまでに意気込みたる主義に左袒するものにあらず。
宗教(余が謂ふ所の)は情熱を興すに就いて疑ひなく一大要素ならずんばあらず。是非と善悪とを弁別するに最大の力を持てる宗教なかつせば、寧ろブルータルなる情熱を得ることあるとも、優と聖と美とを備へたる情熱は之を期すべからず、宗教的本能は人心の最奥を貫きて、純乎たる高等進化をすべての観念に施すものなり。あはれむべき利己の精神によつて偸生する人間を覚醒して、物類相愛の妙理を観ぜしめ、人類相互の関係を悟らしむるもの、宗教の力にあらずして何ぞや。茲に宗教あり、而して後に高尚なる情熱あり、宗教的本能を離れざる情熱が美術の上に、異妙のヱボルーシヨンを与ふるの力、豈軽んずべけんや。
いかに深遠なる哲理を含めりとも、情熱なきの詩は活きたる美術を成し難し。いかに技の上に精巧を極むるものと雖、若し情熱を欠けるものあれば、丹青の妙趣を尽せるものと云ふべからず。美術に余情あるは、その作者に裡面の活気あればなり、余情は徒爾に得らるべきものならず、作者の情熱が自からに湛積するところに於て、余情の源泉を存す。単純なる摸倣者が人を動かすこと能はざるは、之を以てなり。大なる創作は大なる情熱に伴ふものなり、創作と摸倣、畢竟するに、情熱の有無を以て判ずべし、然り、丹青家が無意味なる造化の摸倣を以て事とし、只管に虚譫をのみ心とするは、抑も情熱を解せざるの過ちなり。
顧みて明治の作家を屈ふるに、真に情熱の趣を具ふるもの果して之を求め得べきや。露伴に於て多少は之を見る、然れども彼の情熱は彼の信仰(宗教?)によりて幾分か常に冷却せられつゝあるなり。彼は情熱を余りある程に持ちながら、一種の寂滅的思想を以て之を減毀しつゝあるなり。彼がトラゼヂーの大作を成さゞるは、他にも原因あるべけれど、主として此理あればなるべし。紅葉の情熱は宗教と共に歩まず、常に実際と相追随するものなり、故に彼は世相に対する濃厚なる同情を有すると雖、其の著作の何とやら技の妙に偏して、想の霊に及ばざるは寧ろ情熱の真ならざるに因するにあらずとせんや。美妙に於ては殆情熱と名くべきものあるを認めず。舒事家としては知らず、写実家としての彼の技倆は紅葉に及ぶべからず。湖処子を崇拝する人々にして荐りに彼の純潔を言ふ者あるは好し、然れども余は彼の純潔が情熱の洗礼を受けたるものにあらざるを信ずるが故に、美しき純潔なりと言ふを許さず。嵯峨のやにおもしろき情熱あるは実なり、然れども彼の情熱は寧ろ田舎法師の情熱にして、大詩人の情熱を離るゝこと遠しと言ふべし。頃日古藤庵の悲曲続出するや、読者孰れも何となく奇異の観をなすと覚ゆ、要するに古藤庵の情熱、自から従来の作者に異るところあればなるべし、悲曲としての価値は兎も角も、吾人は其の情熱を以て多く得難きものと認めざるを得ず。斎藤緑雨におもしろき情熱あるは彼の小説を一見しても看破し得るところなれど、憾むらくはその情熱の素たる自から卑野なるを免かれず、彼の如く諷刺の舌を有する作者にして、彼の如く野賤の情熱をもてるは惜しむべき至りなり、彼をして一年間も露伴の書斎に籠もらしめばやと外目には心配せらるゝなり。今日の作家が病はその情熱の欠乏に基づくところ多く、人間観に厳粛と真贄とを今日の作家に見る能はざるもの、職として之に因せずんばあらず。好愛すべきシンプリシチーと愛憐すべきデリケーシーとを見る能はざるも、職として之に因せずんばあらず。若し日本の固有の宗教を解剖して情熱と相関するところを発見するを得ば、文学史上に愉快なる研究なるべけれども、之れ余が今日の業にあらず、聊か記して識者に問ふのみ。
(明治二十六年九月)
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宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館
発信地 千葉県夷隅郡御宿 上野屋旅館
会ひたくない人に無理に会はなくてもよろしうございます。何卒御随意になさいまし。一生会はなくつたつて、まさか死にもしないでせうからねえ。そんな人に来て頂かなくても、私一人で結構です。何故あなたはそんな意地悪なのでせう。
今ここまで書いて、あなたの第二のお手紙が来ました。宮島(資夫)さんのハガキと一緒に。会ひたい会ひたい、と云ふ私の気持がなぜそんなにあなたに響かないでせう。今日は、朝から私は気が狂ひさうです。昨日も一日、焦れて焦れて暮しました。蓄音機をかけて見ても、三味線をひいて見ても、歌つて見ても、何の感興もおこつては来ません。だん〳〵にさびしくなつて来るばかりです。煩くなつて来るばかりです。あなたの事ばつかりしか考へられません。他の事はとても頭の中にぢつとしてはゐないのですもの。私だつて、あなたがたやすくゐらつしやれない事だつて知つてゐるんですけれども、それだからつて、だまつてはゐられないんですもの。それにあなたは、あんな意地悪を云つては私を泣かして、それでいいんですか。
さつき郵便局までゆきましたら、東京と通話が出来るんです。うれしいと思つてかけようと思ひましたら、他の人が今かけて出るのを待つてゐるんだと云ひますので、なか〳〵駄目らしいのでよしました。明後日の朝かけますからお宅にゐらして頂だいな。五分でも十分でも、こんなに離れてゐてお話が出来るんだと思ふとうれしいわ。それをたのしみにして、今日とあしたを待ちますわ。
神近さんは何んだかお気の毒な気がしますね。でも、それが彼の方の為めにいいと云ふのならお気の毒と云ふのは失礼かもしれませんのね。でも、本当にえらいのね。其処まで進んでゐらつしやれば、でも、もう大丈夫でせうね。あなたと神近さんの為めにお喜びを申しあげます。
さつき、あんまりいやな気持ですから、ウヰスキイを買はせて飲んでゐるんです。だん〳〵に変な気持になつて来ます。あさつてはあなたの声がきけるのね。何を話しませうね。でも、つまらないわね、声だけでは。ああ、かうやつてゐる時に、あなたがフイと来て下さつたらどんなに嬉しいだらうと思ひますと、ぢつとしてはゐられません。本当にはやくゐらしつて下さいね。
婆やは目が少しわるいので困りますが、他には申分ありません。子供(辻流二)を大事にしてくれますから。でも、あなたは子供の事を気にして下さるのね。いいおぢさんですこと。
書いてゐるのが大ぎになつて来ましたからやめます。さよなら。
あなたの手紙は二度とも六銭づつとられましたよ。でも、うれしいわ、沢山書いて頂けて。
[『大杉栄全集』第四巻、大杉栄全集刊行会、一九二六年九月]
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文化勲章の制定が公布せられたことは、私個人としていろいろ考へさせられる問題があると同時に、国民として、まことに慶賀すべきことだと思ふ。かねてから、民間、殊に文壇ヂヤアナリズムの上で、さういふ制度に関する論議があり、それについて私も若干意見を述べたこともあるが、いよいよそれが実現して見ると、やはり国家もさういふ処まで来てゐたのだと感慨うたゝ切なるものがある。
形式上のことはよくわからぬが、これは政府の仕事だとか、官僚の思ひつきだとか、強ひてさういふ風に解さない方がいゝ。林首相の謹話といふのを読むと、事理すこぶる明白で、かういふ制度が、これまで日本になかつたことをむしろ不思議に思ふくらゐであるが、たゞ、この種の表彰が、今日の政府の手で如何に正しく、公平に、且つ進歩的な意義をもつて行はれるかといふ疑問を先づ国民は抱くであらう。
「文化」といふ言葉自身に対する政治家乃至役人の観念を先づ質したいといふのが卒直なわれわれの感想であるが、さういふことは、国家が折角「文化」といふものに対して示さうとするインテレストを軽視することにはならないと思ふ。
特に「文化の発達に関し勲績卓絶なるもの」に与ふる勲章といふ例は、恐らく、世界に類例がないのではないかと、私は今ふと考へた。日本には、金鵄勲章といふ特別な武功章があるから、これに対して文功章が設けられる精神もわかりはするが、一般の勲章(旭日章、瑞宝章等)は、これで、科学者、芸術家には縁のないものとなるやうなことはないか。官民の国家待遇上の差別が、若しこの結果露骨になるとしたら、そのへんの考慮も当局としては是非払はねばなるまい。
最後に、科学者は別として、芸術家殊に文学者などのなかには、一種の「伝統的心境」から叙勲を辞退することをもつて礼節と考へるものがゐるかもしれないが、さういふ個人主義は、国家的見地からは問題とするに足りない。寧ろかゝる風潮を生む真の原因は、官民の間を流れる封建的感情にあるのである。
文化の装飾的意義が存在する期間においては、勲章も、またやむを得ぬ一個の「ビブロ」である。
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元来僕は何ごとにも執着の乏しい性質である。就中蒐集と云ふことには小学校に通つてゐた頃、昆虫の標本を集めた以外に未嘗熱中したことはない。従つてマツチの商標は勿論、油壺でも、看板でも、乃至古今の名家の書画でも必死に集めてゐる諸君子には敬意に近いものを感じてゐる。時には多少の嫌悪を交へた驚嘆に近いものを感じてゐる。
書籍も亦例外ではない。僕も亦商売がら多少の書籍をも蔵してゐる。が、それも集めたのではない。寧ろおのづから集まつたのである。もし集めた書籍であるとすれば、其処に何か全体に通ずる脈絡を具へてゐなければならぬ。しかし僕の架上の書籍は集まつた書籍である証拠に、頗る糅然紛然としてゐる。脈絡などと云ふものは薬にしたくもない。
では全然無茶苦茶かと云ふと、必しも亦さうではない。少くとも僕の架上の書籍は僕の好みを示してゐる。或はいろいろの時期に於ける好みの変遷を示してゐる。その点では――僕と云ふものを示してゐる点では僕の作品と選ぶ所はない。僕は以前架上の書籍を買ひ入れた年月の順に記し、その書籍の持ち主の一生の変化を暗示する小品を書いて見ようかと思つた。が、西洋人の書いたものに余り似寄りの話を見た為、とうとうそれなりになつてしまつた。それなりになつてしまつたのは勿論天下の為に幸福である。しかし架上の書籍なるものの鏡のやうに持ち主を映すことは兎に角何か懐しい、さもなければ何か気味の悪い事実であると云はなければならぬ。(この故に売り立てに「さしもの」をするのは他人の作品に筆を入れるのと同じ位道徳的に不都合である。)
蒐集家のみの知る喜びや悲しみはかう云ふ僕には恵まれてゐない。何しろ本屋をひやかしてゐたり、或はカタロオグを読んでゐたりする内に目にとまつたものを買ふのであるから、感激も頗る薄い訣である。大金は勿論出したことはない。
是でも本道楽の話になるかどうか、其辺は僕にも疑問である。
(大正十三年七月)
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文化政策といふ言葉は範囲のたいへん広い言葉である。あらゆる政策は殖民政策でも宗教政策でも、教育政策、科学政策、乃至は経済政策、生産力拡充政策でもそれが国民生活を向上せしめ、民族意慾を暢達せしめる文化的使命をもち、その目標に向つてゐるかぎりそれは文化政策であるといへるのである。
しかし、こゝで文化政策の展開とその方向として要求されてゐるのは、専ら一般に文化といふ言葉で指示されてゐる教育とか、宗教とか、科学とか、技術とか、医療設備とか、あるひは民衆娯楽だとかを意味し、それについて翼賛会の文化部がこれからどんな政策を樹てゝ、どんな活動をするかといふことを指してゐるのである。
この場合文化部のとるべき文化政策の内容がどんなものであり、どんな方向に向つて展開されなければならないかといふことを考へると、私は広狭二つの意味を区別して置くことが必要だと思ふ。広い意味のものは簡単にいへば国家百年の文化政策を樹立することである。
すなはち、我々の子孫の時代迄も考慮に入れて、日本民族が新東亜の指導民族であるといふ立場を深く自覚し、われわれの輝しい伝統を基底として高雅にして雄渾なる新広域文化を創造建設し、これを育成すべき政策を確立することである。このためには、先づいかなる他民族に対しても譲らざる矜持と襟度と、そして教養とをもつ大国民を育成することが第一の眼目でなければならぬ。
しかし、この国家百年の計を樹てることもとより重要な事業であるが、当面わが日本国家が直面してゐるこの非常時局を一億の国民が乗り切り、この難局をわが民族的飛躍の輝かしい契機とするためには、何を措いても先づ現行政治機構を速かに高度国防国家体制に推移せしめねばならぬ。それとともに、国民生活の文化的側面をもこの高度国防国家体制に即応させることが必要である。かくして文化政策当面の課題は次の三つの点に帰着する。
第一は、文化機構の再編成とその指導といふことである。これは民間のいろ〳〵な文化団体の実質的な仕事を、積極的に国家目的に統合するとともに、このために必要ならば諸団体の改組調整を行はせることである。この改組整理に当つては、それぞれの文化団体の自主的精神を十分に尊重することはいふまでもない。
更に、これをどう指導するかは、いままで色々な文化団体がそれぞれ自分の専門領域にばかり閉ぢ籠つてゐて、他の領域のことはさつぱり知らない、もつとひどいのは他を排斥するといふ一種の割拠主義に陥つてゐた。そのために文化の各領域、相互の間に有機的な連絡がないために文化が跛行的にしか発展しなかつたと思ふ。
この弊害を除くために、またこれ等の文化団体を有機的に結合させて、新しい国民文化を形成するための推進的役割を受け持つやうに導かねばならぬ。この割拠主義の一例としては、いはゆる「学閥争ひ」がどんなに日本の学問の進歩を阻害し且つ詰らぬ末梢的な感情的浪費に終始したかを見れば直ぐ分ることである。
また、この機構の運営方法は、速かに政府当局と協力して確固たる文化政策を樹立してその向ふべき方向を明示すると同時に、各部門の健全なる有機的発展を期さねばならぬ。これがために文化諸領域――思想、宗教、教育、科学、技術、文芸、出版、ヂアナリズム、体育、医療施設、娯楽等――における革進的な識者を総動員して建設的な企画を作ることが重要であり、これは目下着々進捗してゐる。
第二は、上述のやうに文化の各領域の根本問題に深い省察の眼を向けながら、これと並行して現在速かにその解決を要望されてゐる重要問題、すなはち国語問題、対外文化事業及び宣伝、児童文化の問題、婦人問題、学生問題等の諸問題については、一方所管官庁の当事者と緊密な連絡を執りながら、同時に他方民間の良心的な識者の意見を十分に徹してこれを綜合統一して可及的にその解決の方向を指示する考へである。
さて、最後に最も緊急な焦眉の大問題は、いま、我々日本民族が直面してゐる非常時局、この偉大な試練期における国民士気昂揚の問題である。この問題の要点は「民衆心理の動向を適確に把握する」といふことである。今までの政治はこの点を軽視し、あるひは全然看過してゐたために、いはゆる政治といふものと国民の心理とがあまりにもかけ離れたものとなつてゐたと思はれる。
国民心理に細心の注意を配つて、その望むところ、その惧れるところ、その感情の起伏消長を適確に捉へて、これを有効に導くことが現在の政治において何よりも大切なことである。事変は国民の物質生活に可成りの貧困をもたらしてゐる。これは国民のいかなる個人も快く忍ぶところである。しかし、それがために国民の精神生活までも貧しくする理由は少しもない。寧ろこんな時にこそ豊かな精神を失はぬものが真の大国民といはれるものである。
文化部は全国の国民生活の隅々にまで亘つて、その生活内部に輝かしい希望と温かい慰安とを与へて、その個々の生活力に不羈な積極性と堅忍不抜な持続精神とを注ぎ込むやうに、文化各領域の献身的な協力を慫慂するものである。
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Hard
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| 0.526
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土曜日は学校に行きません。
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Easy
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| 0.278667
| 0.216741
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彼がミズナラ、ブナの森を抜ける
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Easy
| 0.064
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そっくりさんが多い
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Easy
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| 9
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上
私はかつて記紀万葉などにある七世紀前の大和言葉が今なお琉球諸島に遺っているという事を例に引いて、九州の東南岸にいた海人部の一氏族が、紀元前に奄美大島を経て沖縄島に来たという事を言語学上から証明したことがある。また七世紀の頃、南島人が始めて大和の朝廷に来貢した時分訳語を設けて相互の意を通じたということが国史に見えているから、分離後六、七百年も経ったために、大和言葉と沖縄言葉との間にはよほどの差異が生じたのであろうと言ったこともある。その後、沖縄の古語や諸方言を研究するに及んで、その中に『東鑑』にあるような鎌倉以前の言葉の多く這入っているのに気が付き、もしや日本本土と沖縄との交通が鎌倉時代に至って一入頻繁になっていたのではなかろうかと思って首をひねって見たが、これぞという証拠が見つからなかった。ある日『おもろさうし』の十の巻「ありきゑとのおもろさうし」(旅行の歌の双紙の義)を繙いていると、ふと「ねいしまいしがふし」というオモロが目についた。
いしけした、よう、がほう
よせつける、とまり
かねし、かね、どのよ
いしへつは、こので
かなへつは、こので
いしけ、より、なおちへ
なだら、より、なおちへ
くすぬきは、こので
やまと、ふね、こので
やまと、たび、のぼて
やしろ、たび、のぼて
かはら、かいに、のぼて
てもち、かいに、のぼて
おもいぐわのためす
わりがねが、ためす 〔十―二八〕
その意味は「伊敷下は豊年を招く港ぞ、兼次の貴き君よ、君がいさほにて、石槌を造り、金槌を造りて、伊敷を修理し、ナタラを築港しぬ、かくて楠船を造り、大和船を造りて、大和の旅に上り、山城の旅に上りぬ、瓦を買はんとて、品物を買はんとて、愛児のためにこそ、わりがねがためにこそ」ということである。これで研究の端緒は開けたような気がした。島尻の真壁村の伊敷の城主が大和へ瓦その他の品物を買いにやったとあるから、古くは沖縄では瓦を買うために遥々日本本土まで出かけたということがわかった。もし何処かでこの瓦の遺物が見つかったら、恐らくあの疑問は解けることと早合点をして、それから時々古城址などを跋渉して内地風の瓦を探して見たが、無益であった。昨年の夏、東恩納〔寛惇〕君が帰省したので、二人で琉球語の金石文を読みに浦添の古城址を訪ずれたが、思いがけずも灰色の瓦の破片が其処此処にころがっているのを見た。取り上げて見ると、ちょっとした模様がついて、外に「癸酉年高麗瓦匠造」と書いてある。この時、私はあのオモロを思い出さずにはおれなかった。そこでその事を東恩納君に打明けて、品のよい瓦片を一つ二つ持って帰った。しかしその道の人でなければもとより鑑定が出来るはずはない。ただ東恩納君が上京したら、専門家に鑑定してもらうより外に道がないと思った。今年の夏、東恩納君が大学を卒業して帰った日、早速あの瓦の事を尋ねると、専門家の鑑定によれば、疑もなく鎌倉時代のものであるとのこと。私は飛立つように喜んだ。アア浦添城址の瓦は口なくして能く七百年前の歴史を語った。私の想像はいよいよ事実となった。あのオモロの文句は生き出した。(その後の『考古学雑誌』に出ている高橋健自先生の古瓦の研究〔『考古学雑誌』五巻十二号「古瓦に現れたる文字」〕を見ると、この瓦は銘文式型押の瓦で、鎌倉時代より一時代古く王朝時代の瓦になってしまう。その後、同じ瓦が首里城でも発見され、つい近頃、勝連城址でも発見された。)これで見ると、王朝時代から鎌倉時代にかけて、日琉貿易がかなり盛んであったことがわかったと同時に、琉球語に鎌倉時代の言葉の混じている理由もわかった。オモロに鄙も都もということを京鎌倉といったり、勝連城を日本の鎌倉に譬えたりした所などを見ると、当時京都と鎌倉との関係が琉球の都鄙に知れ渡っていたことが知れる。その他、琉球語で病気のことを咳気といい、変な物を異風な物といい、保存するということを格護するというのは、正しく鎌倉時代の言葉の遺物である。島津氏に征服された後、琉球人が日本本土へいくことをノボル(上国)といったのを当然な事とばかり思っていたが、鎌倉時代以前にもやはりそういっていたという事がわかって驚かずにはおれなかった。鎌倉時代が終りを告げると日本本土では吉野時代の戦乱が始まり、琉球でも三山の分争が起ったので、日本本土と琉球との交通は一、二百年も断絶して、この辺の消息は全く暗くなっていたが、この土塊のお蔭でこれが漸く明るくなったような気がする。これはた琉球経済史の好資料ではあるまいか。(昭和十七年三月発行『書斎』掲載拙稿「母の言葉と父の言葉」参照。)
「かはら」が「がはら」で、曲玉のことであることには、間もなく気が付いたが、久しく訂正する機会がなかった。これに就いては、今度「あまみや考」中にくわしく述べておいたから参照して頂きたい。それは「がはら」即ち曲玉を求めて、大和旅に上ったいきさつを歌ったのが、山原の神詛に数首出ているのと照し合わせて、いわゆる「やまと旅」の目的の、ただに物質的要求のみならず、宗教的要求あるいは余り物質的でない要求の顕著であったことを述べ、しかも最初の一動機の呪法的あるいは宗教的威力をもつと考えられた「がはら」を得ることによって、「がはらいのち」を得るにあったことを推測したものである。序に、例の神歌と発掘された古瓦との間には、何の関係もないことになったが、でもこれによって古く日本の瓦を輸入した事実は否定出来ないということを、一言断っておく。
下
笹森儀助氏の『南島探験』によると、八重山島や与那国島にある大和墓や八島墓は、七百年前の平家の落武者の墓であるということになっているが、幣原〔坦〕博士の『南島沿革史論』にも同様のことが見えている。そして今では琉球を探険する人で、大和墓、八島墓のことを筆にしないものはいない位である。大和墓、八島墓の名は、なるほど平家の末路を聯想せしめる。昨年の三月私も世の探険家のまねをして、八重山探険と出かけた。ある日、二人の八重山青年に案内されて、平川の有病地に行き、いわゆる大和墓に詣でて、平民の霊を弔うたが、歴史的懐古の念はようやく考古学的好奇心に変じて、私はいつしか白骨や遺物をいじり始めた。その間に一人の青年は、この十四人の骨は、以前には其処此処にちらばっていたのを、西常央島司が一纏めにして、この通り碑を建てたという事や、昔甲冑を着けた騎馬武者がこの辺に上陸したことや、その中の一人が土人が頭に物を載せて山から下って来るのを食人人種と思って、驚いて自殺したことなどを熱心に物語った。私は一種の感に打たれながら、いわゆる平氏の遺物を少しばかり取り出して見たが、長さ一尺二、三寸縦横四寸位の杉の箱数箇と、枕数箇の外には何物も見出せなかった。いささか失望して、この骨を一纏めにしなかった以前の有様が見たかったと言うと、例の青年はこれから二、三町ほど行くと洞穴がある。その中には西さんが気が付かなかったのが二つそのまま遺っていると言った。大急ぎで行って見ると、なるほど此処のは半ば棺の中に這入っていて、おまけに前の所で見たような枕と箱までが一緒になっている。これが七百年前のものとはどうしても受取れない。二人の青年にひょっとすると、これは二百年位前のものかも知れないよというと、二人は腑に落ちぬという面持をしていた。この刹那に箱の蓋をあけると、案の通り土で造った円筒状の煙管の雁首が一箇出た。箱の蓋を能く見ると、煙草を刻んだ跡もある。私は鬼の首でも取ったように大発見! と叫んで、二人の青年にこれで平家の落武者の墓でないことが能く分ったというと、二人の青年は不平らしく、何故ですと問い返えした。私はこの連中は煙草を吸っていたからと答えた。例の青年はまだ解せぬらしかった。そこで私は煙草が始めて欧洲人に知られたのは、今から四百年前(西暦一四九二年)で、メキシコのユカタン州のタバコ地方で発見された。そしてその日本に輸入されたのは、永禄年間であるから、これが七百年前の平氏の遺骨でないことは、火を観るよりも明かであるといった。二人はなるほどと、うなずいたが、いくらか失望の体であった。私は言葉をつづけた。今の証拠物件では、大和墓だけが平家の落武者の墓でないということになるので、平家の落武者が八重山に来たということはまだ否定されない。平家落のことはただに八重山や与那国の口碑にあるのみならず、二百年前に出来た『遺老説伝』にもあるから、よほど古くからあった口碑と思われる。まだ信ずる余地がある。特に八重山の人が古来自殺する時に腹を切って死ぬところなどは、ヨリ大なる証拠である。これは八重山の人が能く父祖の習慣を遺伝している事を語っていると思う。八重山の人が平家の子孫だとすれば、彼らは系図の上から沖縄本島の人よりも、一入日本民族に近い親類否純粋なる大和民族という事になる。こう語りおわった時、二人の青年は始めて安心したという有様であった。それはとにかく私はせっかく、平家の落武者を弔いに行って、煙管の雁首を得て帰った。
(明治四十一年九月『琉球新報』所載・昭和十七年七月改稿)
日本勢の運天港上陸を歌ったオモロ
せりかくの のろの
あけしの のろの
あまぐれ おろちへ
よるいぬらちへ
うむて〔ん〕 つけて
こみなと つけて
かつお〔う〕 だけ さがる
あまぐれ おろちへ
よろい ぬらちへ
やまとの いくさ
やしろの いくさ 〔十四―四六〕
これは、勢理客の祝女が、あけしの祝女が、祷りをささげて、雨雲を呼び下し、武士の鎧を濡らした、武士は運天の小港に着いたばかりであるのに、祝女は嘉津宇嶽にかかった雨雲を呼び下して、その鎧を濡らした、この人々は大和勢である、山城勢である、というほどの意である。(これについては、「あまみや考」にくわしく説明しておいた。なお『沖縄考』中の「運天の古形を辿る」も参照して頂きたい。)
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Xを全員がしっかり認識すべきだ
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一 鹿野山二十咏
大正二年の夏、上總の鹿野山に遊びて、鹿野山二十詠を作る。これ歌に非ず、三十一文字の案内記也。
一 八尾八作八峯八つ塚大杉の森の中なる大伽藍哉
二 上總にて第一と聞く大寺の由來は古し聖徳太子
三 本堂の後ろの箱にとぐろ卷く大蛇は左甚五郎の作
四 山頂の平地ぞ世には類ひなき西は上町ひがし下町
五 山頂の東の端ぞ珍らしき九十九谷の日の出月の出
六 山頂の西の端なる鳥居崎十三州は脚下にして
七 富士筑波箱根日光關東の名山すべて一目にぞ見る
八 大海の彼方に見ゆる烟突の烟ぞ花の都なりける
九 欄干にもたれて見るも面白や東京灣の出船入船
一〇 白鳥の社に落つる涙かな日本武尊の昔おもへば
一一 その昔暴威ふるひし阿久留王首は討たれて殘る胴坂
一二 神野寺を南に下る十餘町山腹ゆすり落つる大瀧
一三 幾千代の昔は波も寄せにけむ鹿野の山の崖の貝殼
一四 西春日東白鳥中藥師これぞ鹿野の山の三つ峯
一五 西佐貫東市宿北草牛南湊は山の入口
一六 臺ノ畑高く聳ゆる招魂碑面する方は皇城にして
一七 清澄も鋸山も富山も總房の山みな見ゆるなり
一八 鬼どもが敗れて泣きし跡と聞く鹿野つゞきの鬼涙山哉
一九 盂蘭盆の夜ぞ面白き少女子がサンチヨコ節を歌ひ囃して
二〇 神木に棲みぬる烏數百羽打連れ歸る入相の鐘
二 神野寺
聞く、深山の平地は、禪を修するに適すとて、弘法大師は高野山を開けりとかや。天下に山は多けれども、山頂に平地あるは、關西にては、ひとり高野山あるのみ。關東にては、ひとり鹿野山あるのみ。品川灣頭に出でて見よ。海の彼方に見ゆる山の中にて最も大いに、最も高きが、即ち鹿野山也。直徑十三里もあるべし。鹿野山上より東京の方を望むに、深川の諸烟突より出づる數十百條の烟うす黒く見ゆ。其中に唯〻一つ一抹の白烟の帝都の空に搖曳せるあり。雲か、雲に非ず。波か、波に非ず。之を土地の人に問ふに、皆知らず。一學生あり。曰く、これ淺野セメント會社の烟突より出づる石灰抹の飛散せるなり。東京に居りては見えざれど、羽田にゆけば見ゆるなりと。
神野寺を中心として、五六十の人家東西に連なりて、小市街を爲す。東を下町、一に閼伽井町と稱し、西を上町、一に箕輪と稱す。箕輪町に四五軒の旅館あり。眺望開く。下町は眺望開けず。砂地にして、兩側に茅屋竝ぶ。海邊の村落かとばかり思はれて、山上に在る心地はせざる也。神野寺は聖徳太子の草創と稱す。今眞言宗新義派の智山派に屬す。上總第一の大伽藍也。十間四方の本堂、仁王門をひかへ、觀音堂をひかへ、一切經藏をひかへ、鐘樓をひかへて、老杉の森の中に、燦然として光る。左甚五郎の作と稱する門を入れば、客殿宏壯にして、青苔地に滿つ。客殿の後ろに方丈あり。築山をひかへ老杉に圍まれて、瀟洒にして間寂、別天地中の別天地也。寺の執事楠純隆氏、文を善くす。余を遇すること厚し。われ方丈に起臥して日を經るまゝに、末の子の四郎の五歳になれるが、余を慕ひて、母と共に山に登り來たる。大正の石童丸は、母と共に父に逢へるなりと一笑す。
三 演説會
鹿野山小學校の校長鴇田鹿鳴に要せられて、校舍に演説す。その晩、共に大塚屋の樓上に飮む。われ一絶を作つて曰く、
天風一陣氣如秋。人在峯頭百尺樓。笑把巨杯澆磊塊。酒香吹散十三州。
鹿鳴次韻して曰く、
占得人間以外秋。胸襟披盡醉高樓。風流今夜凌千古。笑見十三州又州。
鹿野山の東北麓なる小絲村の青年會より請はれて、往いて演説す。戯れに俗謠を作つて曰く、
小絲言はれて斷られうか
儂の思ひも鹿野山
鎌田善一郎、松崎長治の二氏來り請ひ、當日は二氏の外、副會長の石川光次氏も來り迎へ、翌日は會長谷中國樹氏、石川光次氏、久保十三郎氏來り謝す。會長は小絲村の字大井戸にして、歡迎會を開きしは、字福岡なりければ、狂歌を作つて曰く、
聽衆が思つたよりも大井戸に
調子に乘つて法螺を福岡
飯野村の青年會員六十餘名、會長鈴木正作氏に率ゐられて登山し、演説を請ふ。里程は四里内外、その熱心喜ぶべし。神野寺の客殿にて演説す。狂歌を作つて曰く、
辯舌が飯野惡いの言はれても
僕は諸君の來るを大町
湊町の石井滿氏來りて、湊町小學校校友會に演説せよと請ふまゝに、妻子をつれてゆく。途中、鬼涙山の山腹に櫻井といふ山村あり。下り果つれば、湊川溶々として流る。櫻井と湊川と相接せるに、處は變れど、誰か當年の楠公父子を懷ひ起さざるを得むや。
櫻井の村を過ぐれば湊川
正成おもふ津の國ならねど
石井氏に迎へられて、其家に午食す。石井氏曰く、時なほ早し。理髮店、直ぐ前に在り。理髮せられずやと。鹿野山上、理髮店なきまゝに、われ理髮せざること久し。石井氏は見かねしなるべし。さらばとて行く。店頭の時計、一時間も進めり。あまりに進み過ぎて居るに非ずやと云へば、然り、わざと進めたるなり。今日は早く店を休みて、御演説を拜聽せむとす。仕事は今日に限りたるに非ず。先生の御演説は、今日を除きて、また拜聽するの時あらむやといふ。口先ばかりのお世辭では無きやう也。石井氏の老大人、一代にて身上を起し、鉅萬の財を積みけるが、慈善心に富みて、能く散じ、村人之を仰ぐこと神の如しなど物語るに、われ圖らずも、石井氏の由來を知り、いとゞ感激に堪へざりき。
四 山中の一軒家
この夜、石井氏の家に宿し、翌日佐貫を經て歸らむとすれば、石井滿氏、小學校長谷中市太郎氏と共に送り來りて、湊河口の濱邊に逍遙し、終に旗亭に淺酌して相別る。佐貫にて自動車を下りて徒歩す。暑さ甚だし。四郎おくれがちにて、ぐず〳〵いふ。背に負へば忽ち元氣になる。昨夜の歡迎會に、五分演説を爲したる者もあり、土地の俗謠を歌ひたるものもあり。その俗謠を思ひ出して、
鬼涙山から飛んで來た烏
と云へば、背中の上にて、『鬼涙山から飛んで來た烏』、
錢のないのにかはう〳〵と
『錢のないのにかはう〳〵と』と和す。この俗謠の調子をもじくりて、
湊町から上つて來る四郎
背中の上にて、同じく、『湊町から上つて來る四郎』、
足のあるのにおんぶ〴〵
と云へば、イヤ〳〵とて、身體をゆすりて泣聲を出す。そんなら歩けとて、背中よりおろす。又ぐづつく。又負ふ。『鬼涙山から』を歌ひ、順次、『足のあるのに』に至りて、またおろす。寶龍寺の部落を離るれば、山と山と相迫りて、唯〻一條の血染川と細逕とを餘すのみなり。一軒の茅屋あり、短籬の外、溪水ちよろ〳〵流る。紫なる紫陽花、紅なる華魁草、水邊に相映發して、いと風趣あるに、水に汗を洗ひ、花に對して休息す。腰のまがりかけたる一老人下り來り、お茶でも飮んで行かれよといふは、この家の主人と見えたり。年を問へば、七十二歳なりといふ。山中の一軒家、さぞ寂しからむと云へば、この春、妻死して、今は獨棲の身、雨の降る夜などは、寂しさに堪へざることあり。もとこの山に牛を放養せし時、番人に雇はれて來り住みたるものなるが、牧牛の事は止まりたれど、ひま〳〵に開きし畑、一人食ふには餘りあり。息子ども頻りに家に歸れといひ越せど、畑が惜しさに、寂しさを怺へて、住み居るなり。あれ見られよ、あの水楊は、始めてこゝに來りし時、杖にせるものをさしたるが、あの通りに生長せりとて、指ざす方を見れば、ほゞ一抱へもありて、青々として屋を蔽へり。狹長なる畑、山崖と溪流との間にあり。この山の一木一草、すべてこの翁の一代記を語るとばかり思はれて、ゆかしくもあり、あはれにもあり。老人は話相手ほしき顏付なれど、日暮れぬ程にとて、又上りゆく。二里の路に、五時間もかかりけるが、山上近くなれば、四郎俄に元氣になり、待て〳〵といふをも聽かず、兩親より二三町も先きになりて宿につきたり。
五 九十九谷
神野寺より東すれば、六町にして九十九谷に至り、西すれば、十二町にして鳥居崎に至る。神野寺に詣で、九十九谷と鳥居崎とに行けば、鹿野山の遊覽は、一と通り終れりと云ふべし。九十九谷は公園となりて、芝生ひろし。掛茶屋あり。仰げば、石磴三百級、岌々として天に朝す。其上に白鳥神社を安置す。この祠、日本武尊を祀る。鹿野山は日本武尊が兇賊を討滅し給ひたる故跡なりと云ひ傳ふ。祠に詣づる者、誰か思ひを二千年の昔に馳せざるを得むや。鳥居を後にし、芝生の中を數十間も行けば、懸崖忽ち直下す。鹿野山は、どの方面も傾斜緩漫なるが、こゝのみは峭壁となる。されど、巖にはあらずして、草をさへ帶びたれば、物凄き感は起らず。小絲川の流域は近く露れ、小櫃川の流域は、山の彼方にあり。立ち昇る朝霧に、それと知らる。眼界は百八十度にひろまり、六七里の外に達す。千山奇を爭ひ、萬壑怪を競ふ。近く尖り立てるは高宕山なり。天邊に桃の割れたるが如きは大福山なり。清澄山は烏帽子の如く、富山は二峯に分れ、一峯は草、一峯は樹林を帶びて、恰も獅子の臥するが如し。處々に村落あり、田あり、畑あり。初夏の頃は躑躅の觀、美を極むと聞く。一種パノラマ的風景として、天下にその類ひ稀なるが、われ此處に日の出を見て、其美觀に驚きぬ。月の出を見て、又其美觀に驚きぬ。秋になれば、朝霧一面に大海を現出し、數百の峯尖、島嶼となりて浮ぶの奇觀を呈すとかや。
六 鳥居崎
鳥居崎にも、老杉の下に掛茶店あり。九十九谷にては見えざりし鋸山、こゝに來れば、近く屹立せるを見る。東京灣脚底に展開し、相模灘遠く天に接す。富津の三砲臺は、恰も巨船の如し。富士を盟主として、十三州の名山、悉く寸眸に收まる。安房、上總、下總、相模、武藏、上野、下野、常陸が所謂關八州也。天城山にて伊豆を見、富士山にて駿河甲斐を見、淺間山にて信濃を見、三國山にて越後を見る。眼界の及ぶ所都合十三州也。横須賀は近く瓦鱗にあらはれ、東京は遠く烟突の煙にあらはる。白帆坐し、汽船走る。伊豆の大島は、海上に長鯨の如く横はる。斜陽、夏は富士の右に入り、冬は富士の左に入る。九十九谷を奇觀とすれば、鳥居崎は壯觀也。九十九谷と鳥居崎とを并せ得て、鹿野山の眺望は天下の絶景也。上町に於ける旅館の眺望も、鳥居崎に彷彿たるものあり。世に眺望の佳なる山は少なからざれども、多くは足を停むべき設備なし。適〻之あるも、掛茶屋ぐらゐのもの也。旅館の樓上、杯を含んで十三州を見渡すの快觀は、鹿野山の外、幾んど其類を見ざる也。
七 神木の烏
鹿野山は砂の山也。どの方面を上下しても、一巖をも見る能はず。大瀧を見に行きしに、高さ三四丈もあり。懸崖峭立して幽邃なるが、こゝとても砂の巖也。夏は山百合一面に咲きて、山を白了す。千振と稱する藥草も多し。鹽手といふ草、この山と日光山とのみにありて、春はその芽を食ふべしと聞く。氣候は東京に比すれば、十度以上の差あるべし。神野寺の老杉、雲を呼びて、夏あるを知らず。八月最中、鶯は時鳥と相和して啼く。神野寺の神木に棲める烏、その幾百羽なるを知らず。聞く、烏は百五十歳の壽を保つと。一群の中には數十代の遠祖もあれば、數十代の遠孫もあるべし。朝は四方へ飛び去り、夕べは四方より集まり來たる。寺にては日に唯〻一度、入相の鐘を撞く。烏の歸り來るは、恰も其鐘の鳴る頃也。鹿野山上の一觀たらずんばあらず。
ゆふべ〳〵歸る烏にこと問はむ
下界にかはる事はなしやと
(大正二年)
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Medium
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電車を降りて××橋から、雨の中を私と彼とは銀座の方面に向つて歩るきだした、私と彼とは一本の洋傘の中にぴつたりと身を寄せて、黒い太い洋傘の柄を二つの掌で握り合つてゐる。
男同志の相合傘といふものは、女とのそれよりも涯かにもつと親密な感じがするものである、殊に私は彼とこんな機会でなければ、おたがひにかう激しく肩を打ちつけ合ふことはあるまいと考へた。
彼の肩は大きい、私の肩は瘠せて細い、彼の肩幅の広くて岩畳な傍に添つてゐるだけでも何かしら安心ができる気がする、また彼の額は深く禿げあがつて赤味を帯びて光つてゐる、彼がのしのしと歩るいてゐるのに、私は気忙しい足取りで、それに調和しようと努力する、彼の醜怪なほど逞しい赤い額は、暗い雨雲も押しのけてしまひさうな頑健さだ。
二人は雨の日に銀座の散歩に来たといふことを少しも後悔はして居ない。
「濡れるぞ、もつとこつちへ寄り給へ、情味は薄暮れの銀盤をゆくごとしだね」
私はかう言つて彼の方に余計に洋傘をさしかけながら、雨の路面を見た。
路面には少しの塵芥もなかつた、連日の降雨に奇麗に洗ひ流されたのだらう、数枚の広告ビラらしい小さな紙片が散らばつてゐたが。
その紙片は実に雨にも流されないほどに執念深く、鋭どい爪をもつた羽のやうに舗石にへばりついてゐた。
もし塵芥めいたものを、洗ひ流された路面に求めるならば、彼と私との惨めに歪んだ靴であらう、二人の靴は大きな黒い塵芥の凝固のやうにも見えたからである。
私はその靴の先で、降雨の中の広告ビラの一枚を蹴つて見た。するとこの青味がかつた濡れた紙は、カマキリか小さな蜥蜴かなにかのやうに、カッと口を開いて、赤い舌をさへ見せて不意に私の靴先に噛みつく、
「なんて悪意に満ちた奴だ」
私は舌打をして、憎々しくビラを微塵になれと強く踏みつける、私は同時にその紙片を二重に憎悪した、それは建物も低く少ない、田舎の街での出来事であつた。
秋の風が街を幾度も吹きすぎる、私はその激しい風に向つてなんの持ち物もなく、行軍かなにかのやうに一生懸命になつて歩るいてゐる、砂塵がバラバラ頬を散弾のやうに打つ、私は何度も立ち止まつて休息し、風の凪ぎ間を見てまた歩るき出す、すると不意に私の眼と口とをふさいだ大きな掌があつたのだ。
私はこの寂しい街で露西亜の強盗にでも逢つたやうに驚ろき慌てて、その巨大な掌をはらいのけた、私を窒息させようとした掌は、風に飛んできた活動写真のビラであつた。
その時私は広告ビラを心から憎んだ、そしてまた人間の顔を掩ふほどの馬鹿気て大きなビラの注文主を憎み、風の日のそのビラの撒布者をも憎んだことがあつた、いままた都会の舗石道で、同じやうなビラで靴を噛まれたのであつた。
憎悪すべきものや、親愛なものは、こんな愚にもつかない紙片にもある、私はかう感じた、すると憂鬱な気持がどこからともなく襲つてきて、彼と洋傘の柄を握り合つてゐるといふことがとても堪へられない事に思はれだした。
私はじつと頭上の傘に雨の降つてゐるのを仰ぎ見た、それから彼の横顔を盗み見た、その時、私は二つの感情が一本の洋傘の柄を中にして、微細に働き合つてゐることに気がついた。
二人は柄を押し合ひ、へし合ひしてゐるのであつた、一本の傘は絶えず一方の肩を濡らさなければ、一人が完全に雨を避けることができない程小さなものだ、そこで彼も私もおたがひに譲歩し合ひ、自分の体が雨にすこしも当らぬときは、必らず相手の肩を濡らしてゐることを考へなければならなかつた。
その仕事はなかなか苦痛であつた、洋傘の柄を二人で握り合ふことの容易でないことを思つた、それに私は彼を自分よりも多く雨に濡らしてゐるのだ、その上に私は激しい欲望が湧いてきて、これらの非常に円満な謙譲や、生温かい友愛や、を憎みだし軽蔑しだした、動物的な本能は、彼からその傘を奪ひ去るか、彼にまつたく傘を与へて自分はズブ濡れで歩るくか、どつちかに決めなければ気が済まなかつた、私はジリジリと柄を手元に引き寄せる、あつけない程柔順にその柄は引き寄せられる、然しあるところまで来ると彼はその柄をピッタリと押へる、それから彼の利己心は、次第に私の手元から傘を引戻さうとするその彼の感情は醜いものではなくて、常識的すぎるほど世間なみなものだ。彼はそして私の傘の柄をもつことにさへも、このやうに激烈な気持をもたなければ気が済まない性格を不思議に思ひ、笑つてでもゐるかのやうであつた。
雨の日の電車線路は、鈍重な刃物をおもはせた、ここの十字路を踏み切るときには、洋傘を彼に手渡し、私は彼にはお構へなしにどんどん駈けて向ふ側に渡り、商店の雨覆の中に入りこんで彼のやつて来るのを待つた。雨の日の轢死、私はそんな恐怖にとらはれてゐた、雨の日の轢死は私の血を跡形もなく流し去る、そして体は散々になつて、その附属物のかならず一品を失はふ、例へば舌とか足の親指とか、甚しい時には頭が夜更けの車庫まで運び込まれて、検車係りの安全燈に照しだされたりする、私はそんな目に逢ふのは嫌だと思つた、往来する電車は何時も見る電車よりも、少しく大型に脹れて見えた、乗客もみな鳥の翼のやうに、だらりと袖をさげてゐた。
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Hard
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15日の朝、小雨がまだ降る
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こう暑くなっては、科学者もしぶしぶと実験室から匍い出さずにはいられない。気温が華氏八十度を越えると脳細胞中の電子の運動がすこし変態性を帯びて来るそうだ。そんなときにうっかり忘我的研究をつづけていると、電子はその変態性をどんどん悪化させ、遂には或る臨界点を過ぎてしまった。再び頭脳は常態に復帰しないそうだ。そうなると病院の檻の中に実験室をうつさなければならないので、さてこそしぶしぶと実験室を匍い出たわけである。
ムンムンする蒸し暑い夜だった。実験をやることも書物を読むことも許されないと、一層暑さが身にこたえるようだ。家へ帰っても今から寝るわけにも行かないが、一先ず帰宅をしようと思って十日ぶりに我家(とは名ばかりの郊外の下宿の一室)へ首をたてなおした。
彼の下宿は、中央線の中野駅を降りてから十五分も歩かなければ到達しないほど辺鄙なところに在る。その道を歩きながら、夜の人通りに物珍らしさを感じたのであった。歩いて行くに従って路の上に含有される人間の密度が多くなって来たが、それは益々増える一方で、軈てのこと科学者は人間の群から圧迫せられてどうにも動けなくなった時、彼自身が縁日の夜店の真唯中に在ることを発見した。
首をもちあげて、あたりをキョロキョロ眺めてみると馬鹿に明るい――というよりか大変な眩しさであった。恐らくは明るさの密度の点では銀座街もこれには及ぶまいと思われた。縁日の商人は、陰影のない照明をやるのに照明学に従って間接照明法を用いず電球を裸にむき出した儘の直接照明法で、これに成功しているのであった。その代り電柱の上のポール、トランスは今や過負荷のために鉄心はウンウン呻り、油はジュウジュウとあぶくを湧き立てて対流をはじめ、捲線の被覆は早くも黄色い臭いをあげて焦げつつあった。尤もこの勇敢なる裸電球の照明法は行人の瞳孔を極度に縮少させ、商人が売っている品物のあらを発見し得るほど充分永く、行人の注視を許さないという商人の商略から来ていることだった。
科学者はこの人波をわけて通るために生ずる恐ろしい人間抵抗を思ってウンザリした。そして彼の実験室にあるコロイドの一分子が、高熱せられたるビーカーの中にあって、如何にもがきつつ同様の圧迫と恐怖に苦しんでいるかを思いやることが出来た。
科学者は溜息をついて、側を見ると、そこにはファラデーの暗界の如き夜店が眼にうつった。というのは眩しい軒並の夜店が、そこのところだけ二間ばかりも切れていて、そこだけ歯の抜けたように薄暗らかった。彼は学生時代に亡ったD博士とファラデーの暗界の研究にアッシスタントをつとめていた昔を思い浮かべて、なつかしげに眼の前のダーク・スペースの方を見ると、其処に汚い着物を着た一人の男が、バケツをかかえるようにして、しゃがんでいた。
その男は下を向いて何かブツブツと独言を言っていた。多分、電球が切断してこんなに真っ暗になっているので実験――イヤ商売が出来ないで悲観しているのであろうと、彼科学者は思ったので、その男の傍へ近づいて、さて言った。
「君、実験が出来ないで弱っているのかい」
「実験はやっています」
とその男は平然と答えてバケツの中を指した。それは不思議な黒ずんだ色を持った液体であった。はじめは液面は平かに静止していたがややあって、すこし表面波の小さいのが現れたと思うとポッカリと真黒い二糎立方位の物が浮かび出でた。よくみると、それは小さい鵜烏であった。全身は真黒で、嘴だけが朱色に輝いていた。その烏は科学者の方をジロジロと見廻しているようであったが、呀ッという間もなく液体のなかにもぐってしまった。すると又ヒョクリと浮かび上がって来るのであった。その男の言うところによると、これは生きている烏ではなく、鵜烏の模型なのだそうである。ただ或る仕掛けによって斯くは不思議な運動をするのだそうである。科学者はその仕掛けについて質問したがその男は、それを話しては商売にならぬから、説明書を金十銭で買えと薦めた。しかし科学者は、科学者たるの名誉を以てそれを拒絶すると同時に、バケツの前にしゃがみこんで考えた。
或る物体が液面に浮かび出、又沈むというのは明かに浮力の作用である。見たところ液体は一定の密度を持っているらしいから浮力の計算式は、非常に簡単になる。浮いているものが沈むためには、どうしても外力が働かねばならない。外力は普通の場合、重力と気圧とに限られている。気圧が増大すると空気が圧縮せられて浮体自身の浮力が減少し、沈降を始めるわけだが、これは開放されたる大気中に在るのだから、そんなに気圧が変動する筈はない。それに鵜烏は浮かんでいるかと思うと、忽ちサッと姿を没するほど運動は急激に行われるから、そのためには気圧は一瞬間に何十粍という急角度の変動を必要とする。それは常識で考えても、又気象報告を調べても有り得べきことではない。
重力の方の変動も、あまりに数値が大きいので勿論あり得べからざることだ。するとこの問題はいよいよ特殊の場合について研究することを要する。それには先ず液体について、疑問の矢を向けるべきであろう。何か特殊な溶液であるかも知れない、と考えたので科学者はいきなりバケツの中へ手をつきこんでみた。
「困るなア、旦那」とその薄ぎたない男が顰めッ面をして叫んだ。科学者はその間、早くもこの溶液が常温にあることと、多少の酸に似た臭気のある事を発見した。で彼は更に進んで聞いた。
「この液体はなんですか?」
「エエ……」
「この液体はナンであるですかッ?」
「これかネ――これは泥水でさア」
「アノ泥水――土の粒子を飽和した水……だと言うのかネ」
科学者は眼をパチクリとしたが、その瞬間に彼の推理はプロペラの如く廻転をはじめた。――泥とは水を飽和したる土である。土というのは大地の微粒子である。大地は良い電導体であるし、水も電導体である。酸に似た臭気のあったところから、酸が混入したあったとすれば益々電導体の液体であると言わなければならない。而も液体の容器は錫鍍鉄板で出来ているバケツではないか。おお、この液面は大地電位に在る。この液面は接地されていたではないか、と科学者は意外な発見に興奮して来るのをヤッと冷静に抑えつけることが出来た。
鵜烏は不電導体である。これを載せたる液面は良電導体である。若しこれがアベコベだったら鵜烏に小さい鉄片をつけて置いて、液中に電磁石をしのばせれば、電磁石の吸引力で鵜烏を水中に引っ張り込むことが出来るのだが、如何にせんそれとは全く逆であるのだから駄目だ。
だが全く逆であること、つまりある条件がネガティヴ的に満足されているということは、一寸面白い問題ではあるまいか。若し液が帯電状態にあるものとし、これが普通の状態として非帯電状態に在る鵜烏を見れば、これは明かにネガティヴの電気的歪力がかかっているとも考えられるわけである。所謂、相対性理論をつかえば立派に証明のできることではあるまいか。すると、この薄汚い男は、早くも其の結論をつかむことが出来て、今や夜店に出でて商品を売り研究費の回収と、製品の寿命試験をやっているのではあるまいか。科学者は、正しく素晴らしい研究問題にぶつかったのを感じた。更に更に偉大なる研究のフィールドがこれを緒としてひらけて来るであろうと思った。こうなれば冑を脱いで彼の男の結論の前に礼拝するのが得策であると感じたので、科学者は十円札を出して叫んだ。
「君、説明書を売ってくれ給え」
「十円ですか、おつりがありませんよ」
「おつりはいらんです。君の持っている説明書をみな下さい」
科学者は説明書の束と、セルロイド製の鵜烏の入ったボール箱とを小脇にかかえると猛然として夜店の人波をつき崩し、真しぐらに下宿の自室へとび込んだ。そして机の前に座るや、あらゆる公式と数値とを書いたハンドブックや、計算尺の揃っているのを見極めた上で、説明書を開いた。
「偉大なる結論というものは、大約短いものだ」
と早くも彼は嘆息した。そして両眼のピントを合わせてその結論を声高らかによみあげた。
「鵜烏の尻に穴をあけ糸を結び、他の一端を泥鰌の首に結びつくるべし。水は底が見えぬよう濁り水とすべし」
科学者には、何のことだか薩張りわからなかったが、数回反読する事によって、液体の沈降に及ぼす外力が泥鰌であることを了解し過ぎるほど了解した。それから次の説明書をよんでみたが、どれもこれも同じことばかりが書いてあった。科学者は彼の予想のはずれたことを悲しんでしばらくは死んだようになっていた。
しかし兎も角も実験だけはして見ようと思って泥鰌を一匹買って来て、説明書の通りにセルロイドの鵜烏に糸を以て接続し、澄明なる水をたたえた大きいビーカーの中で実験をして見たところ、泥鰌は底に安定して居ず、いつも水中を上へ上ったり宙返りをして下りてきたりする不思議な運動をくりかえすことを発見した。そこへ梯子段をミシミシいわせて上って来た下宿の女将が頓狂な声を張りあげた。
「先生は、鵜烏の水くぐりを夜店でお売りになるのですか」
「ソ、そうじゃない。之を御覧、不思議な総合現象だ。全く新しい実験だ」
「いやですよ、先生。こんなものは、もう三年も前からありますよ、先生」
「……」
女将がズシリズシリと階下へ降りて行ってしまうと、科学者は深い歎息をして、独り言を言った。
「物理や化学をやっている科学者には、生物学なんてニガテだな」
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Hard
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ある日たけおは、おとなりのおじさんと、釣りにいきました。おじさんは、釣りの名人でした。いつも、どこかの川でたくさん魚を釣ってこられました。
たけおは、こんどぜひいっしょにつれていってくださいとおねがいしたところ、ついに、そののぞみをたっしたのでした。
電車をおりて、すこし歩くと、さびしいいなか町に出ました。
それを通りぬけてから、道は、田んぼの方へとまがるのです。この角のところに、小さな店がありました。
「ちょっとまってて。」と、いっておじさんは、その家へはいり、たばこをお買いになりました。またそこには、いろいろと釣りの道具も売っていたので、おじさんは針や浮きなどを見ていらっしゃいました。
たけおは、ぼんやりと前に立って、あちらの高い木の若葉が、大空にけむっているのを、心から、美しいと思って、ながめていました。
そのうち、ふと気づくと、店のちょっとしたかざりまどのところへ、二つならんだお人形が、目にはいりました。かわいらしい女の子と、ぼうしをかぶった男の子で、女の子は、花かごをもち、男の子は、たいこをたたいているのでした。日本の子どもらしくない、西洋の子どものふうをしていました。
「船できた、お人形かしらん。」と、考えていると、ちょうど、おじさんが出ていらしって、「おまちどおさま。」と、たばこをくわえて、にこにこしながらおっしゃいました。そして、先に立ってお歩きになったので、たけおもあとについて、かげろうのあがる田んぼ道をいきました。そこここに、つみ草をする人たちがありました。
やっと川のそばへ出ると、なみなみとした水が、ゆったりとうごいて、日の光をみなぎらせていました。
そして、わすれていたなつかしいにおいを、記憶によみがえらせました。
それから二人が、草の上へこしをおろしました。じっと、川のおもてをみつめていると、青い水の上へ、緑色の空がうつりました。
いつしかたけおは、まだ自分の知らない、遠い外国のことなど空想しました。すると、さっきのかわいらしい人形のような子どもが、そこであそんでいるのが、目にうかびました。また自分がいけば、いつでもお友だちになってくれるような気がしました。たけおは、そう思うだけで、うれしさとはずかしさで、顔があつくなるのでした。
パチパチと水のはねる音がして、銀色の魚がさおの先でおどって空想は、やぶられました。このときおじさんが大きなふなを釣られたのでした。
この日おじさんは、釣られた魚を、みんなたけおのびくに入れてくださいました。たけおは、自分は釣れなかったけれど、大漁なので、大よろこびでした。
帰りにもう一度あの人形を見られると思ったのが、道がちがって、ほかの場所から電車にのったので、ついに、人形のある店の前を通らなかったのです。
電車にのってからおじさんに、たばこを買った店で、舶来の人形を見たことを話すと、
「なあにあれは、ざらにある安物だ。」と、おじさんは、気にもとめられませんでした。
物知りのおじさんのことばだけに、たけおは、じきあの人形を、ほしいと思うのをあきらめてしまったが、どこか遠い花のさく野原を、花かごをもった美しい少女と、たいこをたたく男の子が、いまでも歩いているような気がして、そう思うだけでも、なんとなく自分は、たのしかったのであります。
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講堂で、罹災民慰問会の開かれる日の午後。一年の丙組(当日はここを、僕ら――卒業生と在校生との事務所にした)の教室をはいると、もう上原君と岩佐君とが、部屋のまん中へ机をすえて、何かせっせと書いていた。うつむいた上原君の顔が、窓からさす日の光で赤く見える。入口に近い机の上では、七条君や下村君やその他僕が名を知らない卒業生諸君が、寄附の浴衣やら手ぬぐいやら晒布やら浅草紙やらを、罹災民に分配する準備に忙しい。紺飛白が二人でせっせと晒布をたたんでは手ぬぐいの大きさに截っている。それを、茶の小倉の袴が、せっせと折目をつけては、行儀よく積み上げている。向こうのすみでは、原君や小野君が机の上に塩せんべいの袋をひろげてせっせと数を勘定している。
依田君もそのかたわらで、大きな餡パンの袋をあけてせっせと「ええ五つ、十う、二十」をやっているのが見える。なにしろ、塩せんべいと餡パンとを合わせると、四円ばかりになるんだから、三人とも少々、勘定には辟易しているらしい。
教壇の方を見ると、繩でくくった浅草紙や、手ぬぐいの截らないのが、雑然として取乱された中で、平塚君や国富君や清水君が、黒板へ、罹災民の数やら塩せんべいの数やらを書いてせっせと引いたり割ったりしている。急いで書くせいか、数字までせっせと忙しそうなかっこうをしているから、おかしい。そうすると広瀬先生がおいでになる。ちょっと、二言三言話して、すぐまたせっせと出ていらっしゃる。そのうちにパンが足りなくなって、せっせと買い足しにやる。せっせと先生の所へ通信部を開く交渉に行く。開成社へ電話をかけてせっせとはがきを取寄せる。誰でも皆せっせとやる。何をやるのでもせっせとやる。その代わり埓のあくことおびただしい。窓から外を見ると運動場は、処々に水のひいた跡の、じくじくした赤土を残して、まだ、壁土を溶かしたような色をした水が、八月の青空を映しながら、とろりと動かずにたたえている。その水の中を、やせた毛の長い黒犬が、鼻を鳴らしながら、ぐしょぬれになって、かけてゆく。犬まで、生意気にせっせと忙しそうな気がする。
慰問会が開かれたのは三時ごろである。
鼠色の壁と、不景気なガラス窓とに囲まれた、伽藍のような講堂には、何百人かの罹災民諸君が、雑然として、憔悴した顔を並べていた。垢じみた浴衣で、肌っこに白雲のある男の児をおぶった、おかみさんもあった。よごれた、薄い縕袍に手ぬぐいの帯をしめた、目のただれた、おばあさんもあった。白いメリヤスのシャツと下ばきばかりの若い男もあった。大きなかぎ裂きのある印半纏に、三尺をぐるぐるまきつけた、若い女もあった。色のさめた赤毛布を腰のまわりにまいた、鼻の赤いおじいさんもあった。そうしてこれらの人々が皆、黄ばんだ、弾力のない顔を教壇の方へ向けていた。教壇の上では蓄音機が、鼻くたのような声を出してかっぽれか何かやっていた。
蓄音機がすむと、伊津野氏の開会の辞があった。なんでも、かなり長いものであったが、おきのどくなことには今はすっかり忘れてしまった。そのあとで、また蓄音機が一くさりすむと、貞水の講談「かちかち甚兵衛」がはじまった。にぎやかな笑い顔が、そこここに起る。こんな笑い声もこれらの人々には幾日ぶりかで、口に上ったのであろう。学校の慰問会をひらいたのも、この笑い声を聞くためではなかろうか。ガラス窓から長方形の青空をながめながら、この笑い声を聞いていると、ものとなく悲しい感じが胸に迫る。
講談がおわるとほどなく、会が閉じられた。そうして罹災民諸君は狭い入口から、各の室へ帰って行く。その途中の廊下に待っていて、僕たちは、おとなの諸君には、ビスケットの袋を、少年少女の諸君には、塩せんべいと餡パンとを、呈上した。区役所の吏員や、白服の若い巡査が「お礼を言って、お礼を言って」と注意するので、罹災民諸君はいちいちていねいに頭をさげられる。中でも十一、二の赤い帯をしめた、小さな女の子が、「お礼を言って」と言われるとぴったり床の上に膝をついて、僕たちのくつであるく、あの砂だらけの床板に額をつけて、「ありがとう」と言われた時には、思わず、ほろりとさせられてしまった。
慰問会がおわるとすぐに、事務室で通信部を開始する。手紙を書けない人々のために書いてあげる設備である。原君と小野君と僕とが同じ机で書く。あの事務室の廊下に面した、ガラス障子をはずして、中へ図書室の細長い机と、講堂にあるベンチとを持ちこんで、それに三人で尻をすえたのである。外の壁へは、高田先生に書いていただいた、「ただで、手紙を書いてあげます」という貼紙をしたので、直ちに多くの人々がこの窓の外に群がった。いよいよはがきに鉛筆を走らせるまでには、どうにか文句ができるだろうくらいな、おうちゃくな根性ですましていたが、こうなってみると、いくら「候間」や「候段」や「乍憚御休神下され度」でこじつけていっても、どうにもこうにも、いかなくなってきた。二、三人目に僕の所へ来たおじいさんだったが、聞いてみると、なんでも小松川のなんとか病院の会計の叔父の妹の娘が、そのおじいさんの姉の倅の嫁の里の分家の次男にかたづいていて、小松川の水が出たから、そのおじいさんの姉の倅の嫁の里の分家の次男の里でも、昔から世話になった主人の倅が持っている水車小屋へ、どうとかしたところが、その病院の会計の叔父の妹がどうとかしたから、見合わせてそのじいの倅の友だちの叔父の神田の猿楽町に錠前なおしの家へどうとかしたとか、なんとか言うので、何度聞き直しても、八幡の藪でも歩いているように、さっぱり要領が得られないので弱っちまった。いまだに、あの時のことを考えると、はがきへどんなことを書いたんだか、いっこう判然しない。これは原君の所へ来た、おばあさんだが、原君が「宛名は」ときくと、平五郎さんだとかなんとか言う。「苗字はなんというんです」と押返して尋ねると、苗字は知らないが平五郎さんで、平五郎さんていえば近所じゅうどこでも知ってるから、苗字なんかなくっても、とどくのに違いないと保証する。さすがの原君も、「ただ平五郎さんじゃあ、とどきますまい」って、恐縮していたが、とうとうさじを投げて、なんとか町なんとか番地平五郎殿と書いてしまった。あれでうまく、平五郎さんの家へとどいたら、いくら平五郎さんでも、よくとどいたもんだと感心するにちがいない。
ことにこっけいなのは、誰の所へ来たんだか忘れたが、宛名に「しようせんじ、のだやすつてん」というやつがあって、誰も漢字に翻訳することができなかった。それでも結局「修善寺野田屋支店」だろうということになったが、こんな和文漢訳の問題が出ればどこの学校の受験者だって落第するにきまっている。
通信部は、日暮れ近くなって閉じた。あのいつもの銀行員が来て月謝を取扱う小さな窓のほうでも、上原君や岩佐君やその他の卒業生諸君が、執筆の労をとってくださった。そうしてこっちも、かれこれ同じ時刻に窓を閉じた。僕たちの帰った時には、あたりがもう薄暗かった。二階の窓からは、淡い火影がさして、白楊の枝から枝にかけてあった洗たく物も、もうすっかり取りこまれていた。
通信部はそれからも、つづいて開いた。前記の諸君を除いて、平塚君、国富君、砂岡君、清水君、依田君、七条君、下村君、その他今は僕が忘れてしまって、ここに表彰する光栄を失したのを悲しむ。幾多の諸君が、熱心に執筆の労をとってくださったのは、特に付記して、前後六百枚のはがきの、このために費されたのが、けっして偶然でないということを表したいと思う。
その翌々日の午後、義捐金の一部をさいてあがなった、四百余の猿股を罹災民諸君に寄贈することになった。皆で、猿股の一ダースを入れた箱を一つずつ持って、部屋部屋を回って歩く。ジプシーのような、脊の低い区役所の吏員が、帳面と引合わせて、一人一人罹災民諸君を呼び出すのを、僕たちが一枚一枚、猿股を渡すという手はずであった。残念なことに、どの部屋で、どんな人がどんなことをしていたか忘れてしまったがただ一つ覚えているのは、五年の丙組の教室へはいった時だったと思う。薄暗いすみっこに、色のさめた、黒い太い縞のある、青毛布が丸くなっていた。始めは、ただ毛布が丸めてあるんだと思ったが、例のジプシーが名まえを呼びはじめると、その毛布がむくむくと動いて、中から灰色の長い髯が出た。それから、眼の濁った赭ら面の老人が出た。そうして最後に、灰色の長く伸びた髪の毛が出た。しばらく僕たちを見ていたがまた眼をつぶった。かたわらへよると酒の香がする。なんとなく、あの毛布の下に、ウォッカの罎でも隠してありそうな気がした。
二階の部屋をまわった平塚君の話では、五年の甲組の教室に狂女がいて、じっとバケツの水を見つめていたそうだ。あの雨じみのある鼠色の壁によりかかって、結び髪の女が、すりきれた毛繻子の帯の間に手を入れながら、うつむいてバケツの水を見ている姿を想像したら、やはり小説めいた感じがした。
猿股を配ってしまった時、前田侯から大きな梅鉢の紋のある長持へ入れた寄付品がたくさん来た。落雁かと思ったら、シャツと腹巻なのだそうである。前田侯だけに、やることが大きいなあと思う。
罹災民諸君が何日ぶりかで、諸君の家へ帰られる日の午前に、僕たちは、僕たちの集めた義捐金の残額を投じて、諸君のために福引を行うことにした。
景品はその前夜に註文した。当日の朝、僕が学校の事務室へ行った時には、もう僕たちの連中が、大ぜい集って、盛んに籤をこしらえていた。うまく紙撚をよれる人が少いので、広瀬先生や正木先生が、手伝ってくださる。僕たちの中では、砂岡君がうまく撚る。僕は「へえ、器用だね」と、感心して見ていた。もちろん僕には撚れない。
事務室の中には、いろんな品物がうずたかく積んであった。前の晩、これを買う時に小野君が、口をきわめて、その効用を保証した亀の子だわしもある。味噌漉の代理が勤まるというなんとか笊もある。羊羹のミイラのような洗たくせっけんもある。草ぼうきもあれば杓子もある。下駄もあれば庖刀もある。赤いべべを着たお人形さんや、ロッペン島のあざらしのような顔をした土細工の犬やいろんなおもちゃもあったが、その中に、五、六本、ブリキの銀笛があったのは蓋し、原君の推奨によって買ったものらしい。景品の説明は、いいかげんにしてやめるが、もう一つ書きたいのは、黄色い、能代塗の箸である。それが何百膳だかこてこてある。あとで何膳ずつかに分ける段になると、その漆臭いにおいが、いつまでも手に残ったので閉口した。ちょっと嗅いでも胸が悪くなる。福引の景品に、能代塗の箸は、孫子の代まで禁物だと、しみじみ悟ったのはこの時である。
籤ができあがると、原君と依田君とが、各室をまわる労をとった。少したつと、もう大ぜい籤を持った人々がやってくる。事務室の向かって右の入口から入れて、ふだんはしめ切ってある、右のとびらをあけて出すことにした。景品はほうきと目笊とせっけんで一組、たわしと何とか笊と杓子で一組、下駄に箸が一膳で一組という割合で、いちばん割の悪いのは、能代塗の臭い箸が一膳で一組である。こいつだけは、僕なら、いくら籤に当っても、ご免をこうむろうと思う。
砂岡君と国富君とが、読み役で、籤を受取っては、いちいち大きな声で読み上げる。中には一家族五人ことごとく、下駄に当った人があった。一家族十人ばかり、ことごとく能代塗の臭い箸に当ったら、こっけいだろうと思ってたが、不幸にして、そういう人はなかったように記憶する。
一回、福引を済ましたあとでも、景品はだいぶん残った。そこで、残った景品のすべてに、空籤を加えて、ふたたび福引を行った。そうしてそれをおわったのはちょうど正午であった。避難民諸君は、もうそろそろ帰りはじめる。中にはていねいにお礼を言いに来る人さえあった。
多大の満足と多少の疲労とを持って、僕たちが何日かを忙しい中に暮らした事務室を去った時、窓から首を出して見たら、泥まみれの砂利の上には、素枯れかかった檜や、たけの低い白楊が、あざやかな短い影を落して、真昼の日が赤々とした鼠色の校舎の羽目には、亜鉛板やほうきがよせかけてあるのが見えた。おおかた明日から、あとそうじが始まるのだろう。
(明治四十三年、東京府立第三中学校学友会雑誌)
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Hard
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一月
山嶺の雪なほ深けれども、其の白妙に紅の日や、美しきかな玉の春。松籟時として波に吟ずるのみ、撞いて驚かす鐘もなし。萬歳の鼓遙かに、鞠唄は近く梅ヶ香と相聞こえ、突羽根の袂は松に友染を飜す。をかし、此のあたりに住ふなる橙の長者、吉例よろ昆布の狩衣に、小殿原の太刀を佩反らし、七草の里に若菜摘むとて、讓葉に乘つたるが、郎等勝栗を呼んで曰く、あれに袖形の浦の渚に、紫の女性は誰そ。……蜆御前にて候。
二月
西日に乾く井戸端の目笊に、殘ンの寒さよ。鐘いまだ氷る夜の、北の辻の鍋燒饂飩、幽に池の石に響きて、南の枝に月凄し。一つ半鉦の遠あかり、其も夢に消えて、曉の霜に置きかさぬる灰色の雲、新しき障子を壓す。ひとり南天の實に色鳥の音信を、窓晴るゝよ、と見れば、ちら〳〵と薄雪、淡雪。降るも積るも風情かな、未開紅の梅の姿。其の莟の雪を拂はむと、置炬燵より素足にして、化粧たる柴垣に、庭下駄の褄を捌く。
三月
いたいけなる幼兒に、優しき姉の言ひけるは、緋の氈の奧深く、雪洞の影幽なれば、雛の瞬き給ふとよ。いかで見むとて寢もやらず、美しき懷より、かしこくも密と見參らすれば、其の上に尚ほ女夫雛の微笑み給へる。それも夢か、胡蝶の翼を櫂にして、桃と花菜の乘合船。うつゝに漕げば、うつゝに聞こえて、柳の土手に、とんと當るや鼓の調、鼓草の、鼓の調。
四月
春の粧の濃き淡き、朝夕の霞の色は、消ゆるにあらず、晴るゝにあらず、桃の露、花の香に、且つ解け且つ結びて、水にも地にも靡くにこそ、或は海棠の雨となり、或は松の朧となる。山吹の背戸、柳の軒、白鵝遊び、鸚鵡唄ふや、瀬を行く筏は燕の如く、燕は筏にも似たるかな。銀鞍の少年、玉駕の佳姫、ともに恍惚として陽の闌なる時、陽炎の帳靜なる裡に、木蓮の花一つ一つ皆乳房の如き戀を含む。
五月
藤の花の紫は、眞晝の色香朧にして、白日、夢に見ゆる麗人の面影あり。憧憬れつゝも仰ぐものに、其の君の通ふらむ、高樓を渡す廻廊は、燃立つ躑躅の空に架りて、宛然虹の醉へるが如し。海も緑の酒なるかな。且つ見る後苑の牡丹花、赫耀として然も靜なるに、唯一つ繞り飛ぶ蜂の羽音よ、一杵二杵ブン〳〵と、小さき黄金の鐘が鳴る。疑ふらくは、これ、龍宮の正に午の時か。
六月
照り曇り雨もものかは。辻々の祭の太鼓、わつしよい〳〵の諸勢、山車は宛然藥玉の纒を振る。棧敷の欄干連るや、咲掛る凌霄の紅は、瀧夜叉姫の襦袢を欺き、紫陽花の淺葱は光圀の襟に擬ふ。人の往來も躍るが如し。酒はさざんざ松の風。緑いよ〳〵濃かにして、夏木立深き處、山幽に里靜に、然も今を盛の女、白百合の花、其の膚の蜜を洗へば、清水に髮の丈長く、眞珠の流雫して、小鮎の簪、宵月の影を走る。
七月
灼熱の天、塵紅し、巷に印度更紗の影を敷く。赫耀たる草や木や、孔雀の尾を宇宙に翳し、羅に尚ほ玉蟲の光を鏤むれば、松葉牡丹に青蜥蜴の潛むも、刺繍の帶にして、驕れる貴女の裝を見る。盛なる哉、炎暑の色。蜘蛛の圍の幻は、却て鄙下る蚊帳を凌ぎ、青簾の裡なる黒猫も、兒女が掌中のものならず、髯に蚊柱を號令して、夕立の雲を呼ばむとす。さもあらばあれ、夕顏の薄化粧、筧の水に玉を含むで、露臺の星に、雪の面を映す、姿また爰にあり、姿また爰にあり。
八月
向日葵、向日葵、百日紅の昨日も今日も、暑さは蟻の數を算へて、麻野、萱原、青薄、刈萱の芽に秋の近きにも、草いきれ尚ほ曇るまで、立蔽ふ旱雲恐しく、一里塚に鬼はあらずや、並木の小笠如何ならむ。否、炎天、情あり。常夏、花咲けり。優しさよ、松蔭の清水、柳の井、音に雫に聲ありて、旅人に露を分てば、細瀧の心太、忽ち酢に浮かれて、饂飩、蒟蒻を嘲ける時、冷奴豆腐の蓼はじめて涼しく、爪紅なる蟹の群、納涼の水を打つて出づ。やがてさら〳〵と渡る山風や、月の影に瓜が踊る。踊子は何々ぞ。南瓜、冬瓜、青瓢、白瓜、淺瓜、眞桑瓜。
九月
殘の暑さ幾日ぞ、又幾日ぞ。然も刈萱の蓑いつしかに露繁く、芭蕉に灌ぐ夜半の雨、やがて晴れて雲白く、芙蓉に晝の蛬鳴く時、散るとしもあらず柳の葉、斜に簾を驚かせば、夏痩せに尚ほ美しきが、轉寢の夢より覺めて、裳を曳く濡縁に、瑠璃の空か、二三輪、朝顏の小く淡く、其の色白き人の脇明を覗きて、帶に新涼の藍を描く。ゆるき扱帶も身に入むや、遠き山、近き水。待人來れ、初雁の渡るなり。
十月
雲往き雲來り、やがて水の如く晴れぬ。白雲の行衞に紛ふ、蘆間に船あり。粟、蕎麥の色紙畠、小田、棚田、案山子も遠く夕越えて、宵暗きに舷白し。白銀の柄もて汲めりてふ、月の光を湛ふるかと見れば、冷き露の流るゝ也。凝つては薄き霜とならむ。見よ、朝凪の浦の渚、潔き素絹を敷きて、山姫の來り描くを待つ處――枝すきたる柳の中より、松の蔦の梢より、染め出す秀嶽の第一峯。其の山颪里に來れば、色鳥群れて瀧を渡る。うつくしきかな、羽、翼、霧を拂つて錦葉に似たり。
十一月
青碧澄明の天、雲端に古城あり、天守聳立てり。濠の水、菱黒く、石垣に蔦、紅を流す。木の葉落ち落ちて森寂に、風留むで肅殺の氣の充つる處、枝は朱槍を横へ、薄は白劍を伏せ、徑は漆弓を潛め、霜は鏃を研ぐ。峻峰皆將軍、磊嚴盡く貔貅たり。然りとは雖も、雁金の可懷を射ず、牡鹿の可哀を刺さず。兜は愛憐を籠め、鎧は情懷を抱く。明星と、太白星と、すなはち其の意氣を照らす時、何事ぞ、徒に銃聲あり。拙き哉、驕奢の獵、一鳥高く逸して、谺笑ふこと三度。
十二月
大根の時雨、干菜の風、鳶も烏も忙しき空を、行く雲のまゝに見つゝ行けば、霜林一寺を抱きて峯靜に立てるあり。鐘あれども撞かず、經あれども僧なく、柴あれども人を見ず、師走の市へ走りけむ。聲あるはひとり筧にして、巖を刻み、石を削りて、冷き枝の影に光る。誰がための白き珊瑚ぞ。あの山越えて、谷越えて、春の來る階なるべし。されば水筋の緩むあたり、水仙の葉寒く、花暖に薫りしか。刈あとの粟畑に山鳥の姿あらはに、引棄てし豆の殼さら〳〵と鳴るを見れば、一抹の紅塵、手鞠に似て、輕く巷の上に飛べり。
大正九年一月―十二月
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戦線は無限に広いこと
武漢が落ち、広東が陥ち、わが軍の作戦区域が著るしく拡大されたことは云ふまでもないが、私の今度の中支従軍を通じて、現実にこれは大変だと感じたことは、普通第一線と呼ばれてゐる作戦軍の正面以外に、鉄道の沿線と揚子江流域の重要な都市を囲む殆ど中支一帯の地域に残敵の有力な部隊が蟠居して、わが占領地区を脅かしてゐることである。これらの敵は、勿論、種々雑多な素質と編成によるもので、必ずしも恐るゝには足らぬが、なかには相当の訓練と装備を有する正規軍も交つてゐることであるし、中央の指令もなかなかよく行き亙り、住民と腹を合せていざといふ決心さへつけば、わが警備の手薄に乗じ兼ねないのである。
この意味で、上海より武漢に亙る後方勤務の各部隊は、一地に駐屯するものと、絶えず移動するものとを問はず、ひとしく対敵行動の姿勢を瞬時も崩すことのできぬ特別な事情にある。
この度の事変は、政治的にもある例外的な宣言を必要とした。同時に、戦略的にも、戦術的にも、これを一般の前例に当てはめることはできない、まつたく、風変りな戦である。われわれは、日本軍の奇略縦横、疾風迅雷のファインプレイに拍手を送るものであるが、敵の執拗なゲリラ戦術とやらには業を煮やさざるを得ぬ。
私は、武漢攻略の華々しい肉薄戦にも増して、孤立無援の小警備隊が、前後左右に数倍の敵を控へ、日夜緊張し、秘策を練り、虚に乗じて進み、厳として与へられた地域を守る、目立たない苛烈な任務にひとしほ心惹かれたものである。
しかも、この警備隊は、事変の最後目的たる平和建設の困難な工作に直接参与すべき使命をもつてゐるのである。少くとも、かの匪賊化した抗日分子と、営々、安居楽業を欲する「良民」とを截然と区別して、日本の理想を大陸に行はんとする基礎を示さなければならぬ重大な役割を負ふてゐるのである。
私は、なによりもそのへんのところをよく観ておかねばならぬと気づき、いろいろ研究の結果、先づ、江都県楊州の警備隊本部を訪れた。こゝで十日間、ぢつくりと腰をおろして、警備、討伐、宣撫、その他あらゆる方面で、現に、日本軍が何をなしつゝあり、支那民衆が何を求めつゝあるかといふ点を観察した。
丁度私の着いた翌日、やゝ大規模な討伐が行はれ、小川隊長の計らひで、私も、本部の一員に加はつた。当面の敵は、楊州北東数キロの陣地に拠る正規軍で、兵力はもちろんわれに数倍するものであつた。この戦闘の情況はこゝでは略すが、楊州地域を窺ふ敵は、この外、西北に陳文の率ゐる雑軍、西に例の大刀会匪なる私兵があつて、これらを合すればその兵力は優に数万と称せられてゐる。
楊州の地区本部を中心としてそれぞれ更に小守備隊が前方に出てゐる。若い小隊長の率ゐる数十名の一隊が、敵の迫撃砲を浴びながら、一寒村に起臥してゐる有様を想像してみるといゝ。住民の向背は、神のみぞ知るである。毎日のやうに強行偵察が行はれる。機を見て敵の背後を衝く冒険が演ぜられる。密偵が潜入する。本部との連絡が必要である。眠る暇がよくあると思ふ。
住民は何時の間にか日本軍を信じ、これに頼つてゐるのである。たゞ、恐れるのは、何時か日本軍が引上げて行き、再び此処へ支那軍が来ることである。
戦線はかくの如く無限に広いことを国民はとくと知つてゐなければならぬ。
建設工作への国民的協力を
警備隊と協力し、警備隊の「武装せる日本」と並んで、地方組織の確乎たる樹立とその建設事業を指導援助し、「武装せざる日本」の知能と活力とを示すものに、かの特務部の地区班がある。これは最近まで宣撫班といふ名称で呼ばれてゐた軍の一機関で、班長以下、それぞれ愛国の熱情を以て、時には身を危険に暴しつゝ東奔西走してゐるのである。このことは恐らく一般に知られてゐることゝ思ふが、なにしろ、これは実際を見ないと、その仕事の範囲が如何に広く、複雑で、かつデリケートであるかといふことはちよつと考へただけではわかるまいと思ふ。
あまり深く立入つたことは喋れないが、事変後の支那、殊に北支などゝはやゝ趣を異にする中支の健全な発展は、たとへ如何なる中央機関ができたところで、これら現地で直接民衆に接触する人々の双肩にその全責任がかゝつてゐることは、私の信じて疑はないところである。
勿論、当局においては、最も適当な人材を選び、十分の統制の下に、この事業の遂行を期してゐることゝは思ふが、一方、更に、各地区の復興と、新たな「日本認識」のために、選ばれたる国民の自発的進出によつて、その任務をより一層完全に、速かに、かつ円滑に進め得るといふ着眼を、僭越ながら、私は当局に求めると同時に、国民、殊に、文化的教養と進取の精神に富む青年諸君に促したいと思ふ。
私が、特に自発的進出と云ふのは、必ずしも、これらの機関の中で働くといふ意味ではなく、寧ろ、全く民間の一篤志家として、個人の資格でもよし、団体の名においてゞもよし、ともかく、中支那の各地方々々で、文化国日本の矜持にふさはしい「生き方」をしてみせ、支那民衆の、就中知識層の日本認識の上に望ましい一転機を与へ得るやうな、事実的根拠を与へよと云ふのである。
この意見が、抽象的すぎるとすれば、もつと具体的に述べよう。
軍隊は志気旺盛、軍紀厳正、勇猛果敢なることによつて、支那民衆を感服せしめてゐる。特務機関は、政治・経済・思想の各面において、日本の立場を闡明し、彼等をしてわれに依らしめんとしてゐる。政治的には、維新政府を枢軸とする地方の各組織が徐々に結成され、経済的には、日本資本の注入も約束され、産業開発、税収増加も期待し得る状態にある。
が、その方面のことは私の知識は不十分で何等専門的な発言はできないのであるが、例へば、文化部門に於ける、教育とか、宣伝とか、救済とか、娯楽施設とかいふ方面においては、今日まで、現地機関の手が十分廻りかねてゐる実情を無理からぬことゝ考へた次第であつて、これこそ、国民一般が、その精神的能力を総動員する立前から、是非とも必要の度において、それぞれの技術と信念と努力とを進んで提供すべき場所だと私は痛感したのである。
更に細かい点にふれゝば、占領地各都市町村には、少くとも一つ以上の邦人経営の支那人のための小学校、中等学校が必要である。また、何れの学校にも日本人の語学教師がゐなくてはならぬ。これは一日も忽せにすべからざる問題である。
現に、楊州地区では、私個人にではあるが、日本語教授のための青年を十人選定して欲しいといふ依頼があつた。実際は、その必要が感ぜられてゐながら、それを国民一般が知らずにゐるといふ法はないのである。道がついてゐなければ、その道をわれわれの手で拓かなければならないと思ふ。楊州ばかりではないと思ふが、他に本職のある兵隊さんや特務部の班員諸君が、忙しい時間をさいて、熱心に日本語の講習をしてゐるところをみると、われわれはなにをしてゐたのだと思ふ。
中支に張られた欧米の根
私は中支の各地方で、出来る限り所謂欧米の権益なるものを調べてみた。かういふ調査は、軍部や外務省あたりでは既にちやんとできてゐると思ふが、われわれには、経済的な既得権、乃至は、不動産の類といふ風にしか理解できなかつた。
ところが、私の見聞によれば、それもむろん相当なものに違ひないが、さういふ数字的な領域よりも、寧ろ、支那及び支那人を本質的にキヤッチし、本国の国旗のもとに於てゞはあるが、日常的には宗教の名に於て、その優越せる近代文化面の誇示と利用によつて、彼等を悦服、信頼させ、人間愛と社会的良心との巧まざる発露を感じさせることに成功し、その礼拝堂に跪く善男善女の数よりも、その学校に通ひ、その病院に集まり、その孤児院を訪ひ、その慈善市に寄附するものゝ数がはるかに多いといふ事実に重点をおきたいのである。
支那の知識層は固より、市井の目に文字なきものさへ、欧米人の下に使はれることを得意とし、彼等の言語動作は、他の如何なる支那人よりも朗かであり、卑屈の風が見えないといふところまで張つた自然の根を見落してはならぬ。
欧米依存の理由は多々挙げることができるであらう。フランスの一宣教師で、在支五十年といふ人物に会つた時、彼は、私に語つた。
「自分が今日までを支那で過した経験からいへば、嘗て、日露戦争後の一つ時、支那の上下をあげて日本贔屓であらうとした。日本でなければ夜が明けぬといふ状態になりはせぬかと思つた。その頃、誰が今日あることを想像し得よう。欧米人が日本人と異ることを若し支那において行つたとすれば、それはかうだ。欧米人は金を少し余計に出した。しかも、それは、資本を支那人の手に委ねて、その利益の幾分を要求するといふ仕方であつた。日本人は、金を出し惜んだ。しかも、君達は、自分で儲けて、その分前を彼等に与へようといふのだ。彼等は前者を選んだのだ」
私は、この意見が正しいかどうかは知らぬ。もしそれに誤りがないとすれば、心理的に、結果は明かな筈である。支那人ぐらゐ心理の複雑な民族はないと私は思ふ。欧米人は、かの解剖癖によつてそこをつかんだといひ得ないであらうか?
日本人の単純の美徳が、支那において容れられないとすれば、なんとか手を考へるべきである。
私はかういふいひ方を好まぬが、欧米との対立が今や云々されてゐる時、欧米が支那に対して従来如何なることをなしたかといふ研究がもつと行はれてもよさゝうに思ふ。国民は、それについて何を知つてゐるかと云へば、欧米は悪鬼の如く支那人の血を吸つたと云ふことだけである。恐らくそれは事実であらう。しかし、それだけが欧米依存の理由にはならぬ。これまで支那を旅行した人々は、地方の小都市に於てすらマリヤのやうな白色の尼僧が、貧民の娘たちに見事な刺繍を教へてゐる姿を見かけなかつたであらうか?
日本は外務省の手で同仁会病院を経営し、上海には自然科学研究所といふ堂々たる学術の殿堂を築いたといふかも知れぬが、これを宣伝の側からみれば、例によつて露骨すぎるのである。そして、何故に、日本人は「日本のために」といふ看板が外せないのであらうか?
われわれ同胞は、男女を通じて、欧米人の彼地においてなしつゝある程度のことを、なし得ない道理は断じてないのである。宗教はある人々にとつてこそ現実の補足であり、信念の拍車であるかも知れぬが、わが日本人は、それなくしては何もできぬといふ国民のうちにははひらぬ。それなら、何がそれを妨げてゐるか? はつきり云へば、わが国の最近の歴史は、かゝる能力あるものゝ手足を縛る不可思議な「思想」に支配されてゐたからである。
外に伸びる力を内に養へ
しかしながら、もう今となつては、看板のことなどは問題でない。このまゝ押して行くより仕方がないのである。たゞ、実際の仕事の上で、支那人の面目を尊重してやればよからう。ところで、私は、彼地に於て日本人がどうあらねばならぬといふ前に、それが既に国内に於て、さうあることの必要を力説したいと思ふ。
戦場の到るところで、われわれは、日本人の日本人らしさに出会ふ。戦場なるが故に、特に平生の日本人でなくなつてゐるといふ事実には一度もぶつからなかつた。これから支那で建設的な事業にたづさはる日本人が、国を離れたから急に日本人ばなれがするといふ風には考へられない。国家としても、国民の上に及ぼす力以外の力を、外国なるが故にその民衆の上に及ぼし得るといふ理由は成り立たないのである。
日本及び日本人の幾多の美点にも拘はらず、文化といふものに対する考への狭さ、固苦しさ、国家の発展といふ問題に対する希望の不透明、一種のファナチズムは、なんとかならないものかと思ふ。日本文化の宣伝に日本の自然や単なる特殊性を持ち出す非常識が繰り返され、西洋は物質文化、東洋は精神文化などゝいふ無意味なスローガンを生んだりする幼稚さを脱しられぬものだらうか。
特に近頃目立つ「思想」に対する指導階級の浅薄な潔癖は、国家将来のための由々しい問題である。思想の統制、もとより可なりである。それは「思想」を思想し得るものゝ手によつてはじめて可能だといふことを深く自戒してほしい。実は、忌憚なく云へば、今度の事変に関係してゞも、わが当局が、支那の農民や苦力をつかまへて、「防共、防共」と叫んでゐる宣伝方法は、適当かどうか。
周知の如く、現在、わが思想対策の面に、旧左翼系統の人物が多く登場してゐるやうである。戦地に於ても、特務部のブレントラストの一部はこれらの人々によつて占められてゐる有様である。
それもよからう。結局、性格と気質が、先づかやうな雰囲気に適してゐるとみていゝからである。ところで、わが日本の思想的チャンピオンは、もともと中正にして転向を必要としなかつた人々のなかにもある筈である。
それらの多くが、自由主義者の名を以て葬り去られる原因は、彼等が少しばかり拗ねてゐるからに外ならぬと私はにらんでゐる。それは必ずしも時局の風に顔をそむけてゐるのではなく、寧ろわが指導階級の「教養」に対する軽侮に酬ゆるためであることを私は彼等のために弁ずるものである。
日本は今、知識階級の奮起によつて、事変第二段の事業を達成すべき時期にはひつてゐる。彼等の総力は何人の手によつて動員されるか、それを思ふと私の心は暗くならざるを得ぬ。
内に正しい文化を推進する力なくして、外にこれを伸ばさうとしても、それは労して効なきわざである。
希くは、われらと憂ひを共にする若い官吏諸君は、この機会に、職を賭して上司の蒙を啓くことに努力されたい。ジャアナリズムは、その全能をあげて知識層と一般大衆の結合を企図して欲しい。
軍民協力の実がこれほど挙つてゐるのに、なほ、社会のそれぞれの部門が、背を向け合ひ、時として反撥し、功を競ひ、他を傷つけ、「日本の理想」が何処にあるかを疑はしめるやうな現象が国内に存在することは、かへすがへすも遺憾である。
直ちになし得ること二三
そこで、国内改革の急務を察しなければならぬが、その完成は短時日に俟つわけにはいかぬ。われわれは、今日直ちに、支那をどうかしたいのである。支那の民衆と手を握りたいのである。彼地に於て、日本の信頼すべき姿を――少くともその真意において示したいのである。
私の観た範囲に於て、現在のわれわれの力の程度に於て、せめてこれだけのことはしなければならぬと思つたことを思ひつくまゝに列挙してみる。
一、大学専門学校男女卒業生中、優秀な希望者を日本語教師として支那各地の中・小学校に配属せしめること。そのために、教授法の講習を若干行ふこと。少くとも十年以上の契約を結ぶべきこと。
一、支那人のための日本語教科書を速かに編纂発行すること。
一、直接日本政府の名によらない私立の小・中学校を各地方の治安の程度によつて徐々に設立すること。これがために、その経営、スタフ等を半官半民の機関によつて統一的に研究指導すること。
一、各地方に日支民間の協力による刊行物の普及を計ること。勿論、飽くまでも日本当局の許可と支持を必要とするものであるけれども、この形式は、事変の性質からみて、国策遂行上、最も効果的だと信じる。これら刊行物は最初は漢字版のみによるのであるが、将来、日支両文の記事を同時に掲載することになるであらう。
一、ある地区では、相当の都会に(人口十万ぐらゐの)医者と云へるやうな医者が二人しかをらず、他に医者の看板をかけてゐながら、実際は患者の脈もとれないやうなものが八十人もゐるといふところがある。事変前の事情も調べなければならぬが、かういふ状態が永続するとすれば、日本の開業医の進出といふことも考へられる。医療方面に限らず、現地に於けるかういふ点の調査が、内地のひとつの機関を通じて国民の各層に漏れなく伝へられるといふ方法を講じること。
一、各地の文化施設は、当局の配慮によつて、可なり保護されてゐるが、一歩進んで、その管理活用の準備が既に行はれてゐてもいゝと思ふところがある。かういふ方面で、それぞれ専門家が、もつと広く動員されることが望ましい。
例へば、南京の図書館の整理がやつと緒についたといふ報道は、極めて内外に対する好ましい宣伝であつたが、荒廃した名所旧跡の修復とまでは行かなくても、若干の手入れぐらゐは、われわれの手で一日も早くやつてやるぐらゐの余裕がほしいものである。
こんな問題を拾つていけばきりはないが、少くとも、今後、「武装せざる日本」の真面目を、世界環視のうちに、百パーセント発揮せしめなければならないといふことを、われわれは、国民自らの責任として深く心に期するところがなくてはならぬ。
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池袋の女
江戸の代表的怪談といえば、まず第一に池袋の女というものを挙げなければなりません。
今日の池袋の人からは抗議が出るかもしれませんが、どういうものか、この池袋の女を女中などに使いますと、きっと何か異変があると言い伝えられて、武家屋敷などでは絶対に池袋の女を使わないことにしていたということです。また、町家などでも池袋の女を使うことを嫌がりましたので、池袋の女の方でも池袋ということを隠して、大抵は板橋とか雑司ヶ谷とかいって奉公に出ていたのだそうです。
それも、女が無事におとなしく勤めている分には別になんの仔細もなかったのですが、もし男と関係でもしようものなら、忽ち怪異が頻々として起こるというのです。
これは、池袋の女が七面様の氏子なので、その祟だといわれていましたが、それならば不埓を働いた当人、即ち池袋の女に祟ればよさそうなものですが、本人にはなんの祟もなくて、必ずその女の使われている家へ祟るのだそうです。まったく理窟では判断がつきませんが、まず家が揺れたり、自然に襖が開いたり、障子の紙が破れたり、行灯が天井に吸い付いたり、そこらにある物が躍ったり、いろいろの不思議があるといいます。
こういうことがあると、まず第一に池袋の女を詮議することになっていましたが、果してその蔭には必ず池袋の女が忍んでいたということです。
これは私の父なども親しく見たということですが、麻布の龍土町(いまの港区六本木七丁目六~八番)に内藤紀伊守の下屋敷がありました。この下屋敷というところは、多く女子供などが住んでいるのです。
ある夜のことでした。何処からとなく沢山の蛙が出て来てぴょこぴょこと闇に動いていましたが、いつとはなしに女たちの寝ている蚊帳の上にあがって、じっとつくばっていたということです。それを見た女たちの騒ぎは、どんなであったでしょう。
すると、こんどは家がぐらぐらとぐらつき出したので、騒ぎはますます大きくなって、上屋敷からも武士が出張するし、また他藩の武士の見物に行った者などが交じって、そこらを調べて見ましたが、さっぱり訳が判りません。そこで狐狸の仕業ということになって屋敷中を狩り立てましたが、狐や狸はさておき、かわうそ一疋も出なかったということです。で、その夜は十畳ばかりの屋敷に十四、五人の武士が不寝番をすることになりました。
ところが、夜もだんだん更けゆくにつれ、行灯の火影も薄暗くなって、自然と首が下がるような心持になると、どこからとなく、ぱたりぱたりと石が落ちてくるのです。皆の者がしゃんとしている間は何事もないのですが、つい知らずに首が下がるにつれて、ぱたりぱたりと石が落ちてくるので、「これはどうしても狐狸の仕業に相違ない。ためしに空鉄砲を放してみよう」といって、井上某が鉄砲を取りに立とうとすると、ぽかりと切石が眉間に当たって倒れました。
こんどは他の者が代わって立とうとすると、また、その者の横鬢のところに切石が当たったので、もう誰も鉄砲を取りに行こうという者もありません。互いに顔を見合わせているばかりでしたが、ある一人が「石の落ちてくるところは、どうも天井らしい」と、いい終わるか終わらぬうちに、ぱっと畳の間から火を吹き出したそうです。
こういうような怪異のことが、約三月くらい続いているうちに、ふとかの地袋の女ということに気がついて、下屋敷の女たちを厳重に取調べたところが、果して池袋から来ている女中があって、それが出入りの者と密通していたということが知れました。
で、この女中を追い出してしまいますと、まるで嘘のように不思議なことが止んだということです。
これも塚原渋柿園の直話ですが、牛込の江戸川橋のそばに矢柄何某という槍の先生がありました。この家に板橋在の者だといって住み込んだ女中がありましたが、どうも池袋の女らしいので、そのことを細君から主人に告げて、今のうちに暇を出してしまいたいといいますと、さすがは槍の先生だけあって、「実は池袋の女の不思議を見たいと思っていたのだが、ちょうど幸いである。そのままにしておけ」ということで、細君も仕方なしに知らぬ振りをしていましたが、別になんのこともなかったそうです。
ところがある日、主人公が食事をしている時でした。給仕をしている細君があわてて飯櫃を押さえていますので、どうしたのかと聞くと、飯櫃がぐるぐる廻り出したというのです。
矢柄先生はそれを非常に面白がられて、ぐるぐると廻っている飯櫃をじっと見ていましたが、やがて庭の方の障子を開けますと、飯櫃はころころと庭に転げ落ちて、だんだん往来の方へ転げて行きます。で、稽古に来ている門弟たちを呼んでそのあとをつけさせますと、飯櫃は中の橋の真ん中に止まって、逆様に伏せって動かなくなったので、それを取ってみますとすっかり飯が減っていたということです。
これを調べて見ると、その池袋の女中が近所の若い者といたずらをしていたということが判りました。女中も驚いて自分から暇を取ろうとしましたが、先生は面白がってどうしても暇をやらなかったので、とうとういたたまらなくなって、女も無断で逃げていってしまったということです。この種の怪談が江戸時代にも沢山ありました。
天狗や狐憑き、河童など
天狗に攫われるということも、随分沢山あったそうです。もちろんこれには嘘もあり、本当もあり、一概にはいえないのですが、とにかくに天狗に攫われるような者は、いつもぼんやりして意識の明瞭を欠いていた者が多かったそうです。従って、「あいつは天狗に攫われそうな奴だ」というような言葉があったくらいです。これは十日くらいの間、行方不明になっていて、どこからかふらりと戻って来るのです。
これらは科学的に説明すれば、いろいろの解釈がつくのですが、江戸時代ではまず怪談の一つとして数えていました。
狐憑、これもなかなか多かったようですが、一種の神経衰弱者だったのでしょう。この時代には「狐憑」もあれば、「狐使い」もありました。狐を使う者は飯綱の行者だと言い伝えられていました。そのほかに管狐を使う者もありました。
管狐というのは、わざわざ伏見の稲荷へ行って管の中へ狐を入れて来るので、管の中へ入れられた狐は管から出してくれといって、途中で泣き騒いでいたということですが、もう箱根を越すと静かになるそうです。
昔は狐使いなどといって、他に嫌がられながらも一方にはまた恐れられ、種々の祈祷料などをもらっていたのですが、今日では狐を使う行者などは跡を絶ちました。
この狐憑は、狐が落ちさえすればけろりと治ってしまいますが、治らずに死ぬ者もありました。
河童は筑後の柳川が本場だとか聞いていますが、江戸でも盛んにその名を拡めています。これはかわうそと亀とを合併して河童といっていたらしく、川の中で足などに搦みつくのは大抵は亀だそうです。
この河童というものが、江戸付近の川筋にはよく出たものです。どういう訳か、葛西の源兵衛(源兵衛堀―いまの北十間川のこと)が名所になっています。
徳川の家来に福島何某という武士がありました。ある雨の夜でしたが、虎の門の濠端を歩いていました。この濠のところを俗にどんどんといって、溜池の水がどんどんと濠に落ちる落口になっていたのです。
その前を一人の小僧が傘もささずに、びしょびしょと雨に濡れながら裾を引き摺って歩いているので、つい見かねて「おい、尻を端折ったらどうだ」といってやりましたが、小僧は振り向きもしないので、こんどは命令的に「おい、尻を端折れ」といいましたが、小僧は相変わらず知らぬ顔をしています。で、つかつかと寄って、後ろから着物の裾をまくると、ぴかっと尻が光ったので、「おのれ」といいざま襟に手をかけて、どんどんの中へ投げ込みました。
が、あとで、もしそれが本当の小僧であっては可哀相だと思って、翌日そこへ行って見ましたが、それらしき死骸も浮いていなければ、そんな噂もなかったので、まったくかわうそだったのだろうと、他に語ったそうです。
芝の愛宕山の下〔桜川の大溝〕などでも、よくかわうそが出たということです。
それは多く雨の夜なのですが、差している傘の上にかわうそが取りつくので、非常に持ち重りがするということです。そうして顔などを引っ掻かれることなどがあったそうですが、武士などになると、そっと傘を手許に下げておよその見当をつけ、小柄を抜いて傘越しにかわうそを刺し殺してしまったということです。
中村座の役者で、市川ちょび助という宙返りの名人がありました。やはり雨の降る晩でしたが、芝居がはねて本所の宅へ帰る途中で遭ったそうです。差している傘が石のように重くなって、ひと足も歩くことができなくなったので、持前の芸を出して、傘を差したまま宙返りをすると、かわうそが大地に叩きつけられて死んでいた、ということです。
日比谷の亀も有名でした。桜田見附から日比谷へ行く濠の底に大きい亀が棲んでいたということで、この亀が浮き出すと濠一杯になったと言い伝えられています。亀が浮くと、龍の口の火消屋敷の太鼓を打つことになっていました。その太鼓の音に驚いて、大亀は沈んでしまうといいます。しかし、その亀を見た者はないようです。
蝦蟇や朝顔屋敷など
麻布の蝦蟇池(港区元麻布二丁目一〇番)、この池は山崎主税之助という旗本の屋敷の中にありましたが、ある夏の夕暮でした。ここへ来客があって、池に向かった縁側のところで、茶を飲みながら話をしていましたが、そこへ置いてある菓子器の菓子が、夕闇の中をふいふいと池の方へ飛んでゆきます。二人は不思議に思って、菓子の飛んでゆく方へ眼をつけますと、池の中に大きな蝦蟇がいて、その蝦蟇が菓子を吸っているのでした。主人主税之助はひどく立腹して「翌日は池を替え、乾かしてしまう」と言いました。
するとその夜、主税之助が寝ているところへ池の蝦蟇がやって来まして、「どうか助けてくれ」と頼みました。そうして、「もし火事などのある場合には、水を吹いて火事を防ぐから」というようなことをいいました。
しかし、主税之助は、「ただ火事の時に水を吹いて火を消すというだけではいけない。それは俺の一家の利益に過ぎない。なにか広い世間のためになることをするというならば許してやろう」といいますと、蝦蟇は、「では、火傷の呪を教えましょう」といって、火傷の呪を教えてくれたそうで、その伝授に基いて、山崎家から「上の字」のお守を出していました。それが不思議に利くそうです。
お守りは熨斗形の小さいもので、表面に「上」という字を書いてその下に印を押してあります。その印のところで火傷を撫でるのですが、なんでも印のところに秘方の薬がつけてあるということです。
錦袋円の娘、池の端(いまの台東区池之端一丁目一番、同上野二丁目一一・一二番)に錦袋円という有名な薬屋がありました。ここの娘は弁天様の申し子であったそうですが、ちょうど十八の時に不忍の池に入って池の主の大蛇になったと言い伝えられています。それが明治の初め頃まで不忍の池に棲んでいたそうですが、明治になってから印旛沼の方へ移ってしまったといいます。
化物屋敷、これはとても数えきれません。一町内に一軒くらいずつはあったようです。まずその一例を挙げると、こんなものです。
朝顔屋敷、牛込の中山という旗本の屋敷ですが、ここでは絶対に朝顔を忌んでいました。朝顔の花はもちろん、朝顔の模様、または朝顔類似のものでも、決して屋敷の中へは入れなかったということです。
それがために庭掃除をする仲間が三人いて、夏になると毎日、庭の草を抜き捨てるのに忙しかったそうです。それは屋敷の中に朝顔の生えるのを恐れるからで、これほどに朝顔を忌む理由というのは、なんでも祖先のある人が妾を切った時に、妾の着ていた着物の模様に朝顔がついていたそうで、その後、この屋敷の中で朝顔を見ると、火事に遭うとか、病人がでるとか、お役御免になるとかで、きっと不祥のことが続いたということです。
百物語、これは槍、剣術の先生の宅などでよく催されましたが、一種の胆だめしです。これは御承知の通り、まず集まった人の数だけの灯心を行灯に入れて、順々に怪談を一席ずつ話して、一人の話が終わるごとに灯心を一本ずつ消してゆくのです。そして庭の淋しそうなところに、矢などを立てておいて、それを取りに行くそうですが、最後の灯心を消すと、なにか化物が出ると言い伝えられていました。
こんなのを一々数えていたら際限がありませんから、まずこのくらいのところにしておきましょう。
(大正十一年二月、贅六堂刊『風俗江戸物語』所収)
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今後、欧州で23日の発売を予定している
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ある田舎に、同じような床屋が二軒ありました。たがいに、お客を自分のほうへたくさん取ろうと思っていました。一軒が、店さきをきれいにすれば、一軒もそれに負けまいと思って、大工を呼んできてきれいにしました。
一軒で、お客に、お茶を出せば、また一軒でも、それを見習って、お客にお茶を出したのであります。そして、各々の床屋の主人は、すこしでもていねいに、客の頭を刈って、また、ていねいに顔を剃ったのでした。
「あすこの家は、しんせつで、それに仕事がていねいだから、あすこの家へゆくことにしよう。」と、客にいってもらえれば、このうえのないしあわせでありましたからです。
だから、お客は、どちらの家へいったら、いいものだろうと迷いました。なかには、あちらの家へ一度いったら、そのつぎには、こちらの家へゆくことに、心のうちできめたものもありました。
こうして、この村に、床屋が二軒でありましたうちは、まだ無事ですみましたけれど、ふいに、もう一軒、新しい、同じような床屋が増えたのであります。
「やあ、床屋が三軒になったぞ。」と、子供たちは目をまるくして、新しくできた床屋の前を通りました。
そうなると、三軒の競争ははげしくなりました。お茶を出したり、店さきをきれいにしたり、またいろいろな額などを掛けたくらいでは、自分のほうへお客を引く、たしにはなりませんでした。
いままで、その村の床屋では、子供の頭を刈るのに、拾銭でありました。三軒が、同じく拾銭であればこそ、こういうように競争が起こるのだけれど、その中の一軒が安くすれば、お客は、しぜん安いほうへくるにちがいないと、一軒の主人は考えたのです。そこで、その店は、子供の頭を八銭に値下げしました。すると、はたして、主人が考えたように、お客は、みんなその安い店へやってきました。
他の二軒は、これを見て、これではしかたがないと思いました。その二軒の主人は、この問題について、相談したのです。
「あなたは、どうなさいますか。」と、一軒の主人はいいました。
「私は考えますのに、三軒が、同じく八銭にすれば、やはり同じことです。私は、いままでどおり拾銭にして、仕事をていねいにして、油や香水の上等を使います。あなたは、別にいいお考えをなさったがいいと思います。」と答えました。
「なるほど、そんなら、私は、思いきって、安くしましょう。その代わり、仕事のほうは、すこしぞんざいになるかもしれないが……。」
こういって、二人は別れました。
安くするといった主人は、家へ帰るとさっそく紙札を店さきに張りました。それには、
「五銭の頭あり」と書いてありました。
こんど、子供たちは、みんな、この安いほうの店へやってきました。主人は、五銭に値下げをしたかわり、ろくろく石鹸もつけなければ、香水などは、まったくつけませんでした。
子供たちが、八銭の店へやってきて、
「五銭の頭ありますか?」といって、聞くことがあると、
「そんな安い頭はない!」と、主人は怒り声でいって、子供たちをにらみつけたのでした。
ある日、学校へゆく途中で、子供たちは、一人、一人、たがいに頭を嗅ぎ合っては、
「君の頭は五銭だね。ちっとも香いがしないから……。」
「ちっとするから、君のは八銭の頭だ。」
「僕の頭は、拾銭の頭だ。刈ってから、もう四、五日たったのだけれど、いちばんいい香いがするだろう……。」と、いって話したり、笑ったりしていました。このとき、これを、木の技で見ていたからすが、アホー、アホー、といって鳴いたのであります。
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講演会なんかといいますと、学校の仕事みたいでなんだかけちくさくおもしろくありませんから、講演会なんかといわないで、膝つき合わせて皆様もわたしも語るという会にいたしましょう。
まず、それについても、料理というものの概念がないと、とにかくあてずっぽうで、でたらめの仕事に陥りますし、しかも、楽しんで食べるということにもなりませんから、根本的概念を作りましょう。それには実習と説明を同時にやると、いちばん効果的でありますが、最初一通り概念を話して、その後に皆様とごいっしょに、心安く雑談をして、基礎を作りましょう。
わたしは、この会について、はじめ二十人か三十人でないといけないと思いましたが、心安いお方が多く、ぜひわたしも入れてくれとのことで、仕方がなく、ともかく一応そうした方にも来ていただくことになりました。
かかる多人数を前にして、いかにして皆様にご満足を与えたらよかろうかと考えました結果、それには、皆様の実習を分類して、きゅうりをいかに切り盛りするとか、なすをいかに煮るとか、貰ったあゆをいかに処理するとか、仕事を区別し場所を別々にして、皆様のご相談相手を致したいと思うのであります。そして若い方には、切り盛りの仕方からお教えしたいと思います。中には上手な方もおありだろうと思いますから、そうした方はわたしの助手としてお手伝いくだすって、ごいっしょに相談し合ってやりたいと存じます。
それでは、おもしろくないから止そうというひとがあるかもしれないし、また、それでもよいと思って留まる方もあるだろうと思います。
わたしどもが料理を致しますのは、うまい料理、体裁のよい料理をして、立派な腕前をひとに見せたいとかいう、そうした理性的な考えでなく、料理が趣味で好きで好きでしないではおられないという非常な楽しみごととしてやっております。
皆様もご承知の明治の元勲井上侯爵は、晩年まで自分で台所に出られ、七輪をあおいで料理をやられました。鈴木馨六というお婿さんなんかは、七輪を、あおがせられるので悲鳴をあげたそうです。井上さんは、料理を料理人に任せてはおられない、自分でしないと気がすまない方でありました。それがために、どうも料理人のしたことでは満足出来ないと見えまして、自分自身で台所をやられたそうです。そのため、井上侯を今日より考えてみると、まったく余人に求められない人間味があるように思えます。そこに人間としてのおもしろさが閃めいているように思えて、なにかいい感じがし、親しみを感じます。
その点で料理を心がけるようなひとは、どうしても料理を好きにならなければならない。第一好きでないと長つづきしない。好きでなければ面倒くさくなり、おもしろくなくなって結局仕事が付焼刃になります。要するにうまい料理は出来ないことになります。
それには料理上の概念を修めないと、先刻申したように、うかうかでたらめばかりすることになって、見るひとが見ると、なにかインチキになり、つまらないものになります。
それについても実習の必要があります。まず、実習は思わぬ興味をそそって概念も出来る。つまり、実習と概念知識の両方が伴わなければならぬということになる。
根本になるというのは、理論が勝つのでありますが、現実的にはいうまでもなく、原料をよく知らないと料理がうまくゆかないものです。
原料の大事とは、原料の持ち味や特質をよく知ることです。天質の持ち味を大切に取り扱うことです。魚にしても、だし昆布とかまたはかつおぶしとかにしても、それらの所有するすべての味は、人造では絶対に出来ませんところの尊いものを持っているのですから、おのおの持ち味を殺さないようにするのが、もっとも肝要な点かと存じます。同じだいこんでも、今しも畑から抜いて来たものは新鮮を失わないように、古くてしなびているものは、それはそれとしてしかるべく処理しなければなりません。この新古材料を、両方同じように処理してはいけないのであります。原料を生かすのも殺すのも、そこにあるのです。
それにつけても、まず、品物の鑑定が必要であります。すべて品物は素直に見てから買わねばなりません。同じものでも実物を見てから選択しますと、同じ値段で幾層倍もいいものを買うことが出来ます。
調味料もまた鑑定の必要があります。ただかつおぶし何匁とか、昆布何枚とかいうのではわかりません。どうしたかつおぶしで、どうした昆布で、どうしたところに用うるかということにならないと、うまくはなれないのであります。
わたしどもの知っているかぎりにおいての家庭では、かつおぶしを削る鉋のよいのを持っているひとはまずありません。刃の切れないのや、はなはだしいのになっては小刀等で削っているのがあります。それで理想的なだしの出ようがありません。しかも、不経済で一円のかつおぶしで五十銭くらいにしか働かないことになります。
なにはともあれ、かつおぶしの削り方も、昆布だしのとり方も知らないようでは、通のような顔をしていても通にはなりません。
それから料理をすることになりますと、料理は皆様が着ていらっしゃる衣服のようによそ行きの料理とふだん着の料理とがあります。またその中でも同じよそ行きがお客様の種類によって違うことになります。よそ行きにもいろいろあるが、ふだん着にもいろいろあります。趣味を持っているふだん着もあれば、味のない実用だけのふだん着もあります。よそ行きもまたそうであります。持ち味で行こうとするのと、ただの形式的のと二通りあるということを、いつも心得ていて、しかも、その上、春夏秋冬と異なるのでありますから、それもまた考えねばならぬことであります。だいこんおろし一つするにも、それはいろいろと違うのであります。
つまり、料理は機宜の処置が大切であります。あくせくして疲れて腹をへらして帰って来たひと、そんな場合、いかなる料理にしても長い時間を待たせておくということは感心出来ません。取りあえずすぐ作って出すことがご馳走になります。そのひとびとによって、腹加減を見ることが必要なのです。百姓や労働するひとびとには大量を、贅沢なひとには少量をというように、その相手によって、しかも、時と場合を考えて作る必要があります。
料理は相手次第、相手によって、どうにでも出来るという機知がなくてはいけません。
すべて材料はなんでも新鮮がいい、ということになっておりますが、しかし、魚類等の種類によっては、いろいろと違うので、だいたい大魚はある程度まで時間を経過させると、獲りたてよりもよりよい人間の考慮したうまさになります。また、小魚は出来るだけ新鮮がよいので一日も二日もおいたのでは決してうまくありません。鳥類でも、雁、鴨というふうに大きいのは時間をおいた方がよく、小鳥等はやはり獲りたてに近い新鮮な方がよいのです。しかし、ことに野菜は、大概は採りたてがよいので、時間を経過したものは、決してうまくはありません。そらまめでも畑からとってすぐゆでますと、町で買う普通のそらまめのようではないように思われます。東京の市場もののように、まる一日も経過しますと非常に変質してうまくなくなります。だいこんおろし等も、畑からすぐ採ってしますと、たまらなくおいしく、かつおぶしなどはいりません。かえって邪魔になります。それが半日もおくと、なんとか味の添え物をつけないと、とてもまずくて食べられません。実に野菜ばかりは、どうしても早く処置してもらいたいものです。そして新鮮なものは、新鮮なもののように、さっと煮て、他に少し濃く塩気をつけて、中はだしを浸まさないでそのものの持ち味と香気とが充分に出されるようでなければいけません。野菜から香気を失うということは、料理ではまったく価値がないので、新鮮なものは、火が中まで通っていればいいので煮過ぎは禁物であります。
古いものになりますと、中まで味をつけて、単にそれそのものの触覚だけで我慢する。例えば芝居の弁当に見るたけのこのようなものです。結局、適当に頭をはたらかせることが必要です。
わたしなどから見ますと、料理屋の料理は、形式的にはまずととのっておりますが、どうしても商売として繁盛せねばならない条件があるのでお客の意見を聞き、それに迎合するという意味のみになって、料理から個性というものが失くなり、ただ上っすべりした万人向きの無意義な薄っぺらなことにして、お茶を濁しているように思われます。上っすべりした迎合の料理というものは、決していいものではありません。しかし、なにも知らんひとから見ますと、その料理屋のやっているつまらないことを立派なことのように思い、家庭でもやってみようというひともあり、それで料理屋も立っていくのでしょうが、料理屋のすべてを真似ることは見識ではありません。
そこでどんな料理が、日本料理としていちばんよいのかといいますと、それは、お茶の料理がいちばんよいのです。昔の人が真心を入れて作った献立、その気持が大切であって、今のひとはなんでもいい加減にやっておりますが、昔のひとのは、ひとの迷惑しない、しかも主人が自慢をしない程度の料理であって、調和ということも充分合理的に考え、嘘がなく、ほんとうに自分の真心で、しかも誇らないで、ひとに迷惑のかからないものでありますから実にいいのであります。つまり、余計なことや、識者から見て滑稽でない、合法的なものが昔の茶人の献立であります。
料理も大切でありますが、また食器の選び方も大切であります。食器を見るには、そのひとの審美眼で選ぶのであります。すべて当を得た食器を用いないと、引き立ちません。楽しみになりません。どういう食器がよいのか、該当するか、感じがよいか、それらは実習によってご説明いたしましょう。
食器の次には盛り方が大切です。盛り方というものは、ひとの目に非常に影響するもので、せっかくのおいしいものも、盛り方の悪いために、その割でなくなりますから、盛り方と量のことも、充分考えねばなりません。
料理とは、理を料るという意味で、割烹とは違います。割烹というのは食事の方のみに用うる言葉でありますけれども、料理の方は政治にも人間にも用いられる語で、それは食べ物が、合法的でなくてはいけないというために食べ物の方に用いられ、料理という文字が、割烹の代名詞となったのでしょう。
料理をする根本は親切でなくてはいけません。魂の入った真剣なものでなければいけません。そうでないと、自分がまるで機械になってしまって、自分自身楽しいことにもなりません。自分がやっていて、楽しく趣味に生きるには、正直に得心のいくように、良心に従うことが肝要であります。
結局料理も、悟りが大切なのであります。なるほどというのがつまり悟りであります。悟りがなくてはいけません。これが料理の概念なのであります。今日は概念についてだけにしておいて、この次から実習について語ります。
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Hard
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かなり雨の確率が高い
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山椒魚は手に入れるのが困難だが、反対にいくらでも手に入るもので、しかも、滅多に人の食わないもの、それでいて、相当の珍味を有するものと言えば、日本の蝦蟇だろう。
ひと頃、食用蛙というものが流行して、非常に美味いもののように言われたが、食用蛙などよりは蝦蟇の方が、よほど美味い。しかし、このことを知っている者は、案外少ないようである。
私がはじめて蝦蟇を食ったのは上海であった。ある料理屋に入ってみると、蛙の料理が特別に大きく書いて貼り出してあった。大田鶏と大書して貼り出してあったところをみると、中国でも蛙の料理は珍しい料理か、少なくとも呼びもの料理であったに違いない。さすが中国だけに面白い字を使う。田の中の鶏とはうまい表現である。
これは珍しいと思ったので、早速注文した。すると大丼に一杯持って来た。煮たもので薄葛がとろりとかけてあった。一体中国料理というやつは、いずれも大袈裟で量の多いものであるが、このときも御多分に洩れなかった。いくら美味くても、こんなには食えまいと思ったが、いざ食ってみると、非常に美味いので、とうとうみな平げてしまった。
それから、どんな蛙だろうと思って、みせてもらったが、日本の蝦蟇をやや小振りにしたくらいの大きさで、色は赤味がかっていた。いわゆるアカヒキという種類である。シュンは冬眠の時期であろう。私が食ったのは、五月で産卵後であったかと思うが、それでも非常に美味かった。
ところが、美味も美食も、意のない者には縁がないもので、中国に十年も住んでいるとか、またはたびたび中国を訪問したりしているが、いわゆる中国通にかぎって蛙を食わしていることを全く知らないものが多い。蛙が美味いと私が話をすると、そういう連中が知らないものだから、びっくりして、「ほんとうか」などと不審がる。初めて上海へ行った新参者の私が、そういう古強者の中国通たちを案内して、蛙料理を食わしてやると、いずれの面々もその美味に驚嘆した。
そんなわけで、私は日本の蝦蟇も相当美味いだろうと思っていた。いつか機会があったら食ってやろうと考えていたのである。しかし、なんと言っても、蝦蟇の皮膚は見るからに気持が悪いから、ちょっと手を下す気になれなかった。習慣の力というものは恐ろしいもので、こういうものは、やはり、なにかのきっかけがなければ食えないものである。
ある時、瀬戸から来た陶工が、瀬戸あたりでは蝦蟇などはほとんど常食のように食っている、誰でもそこらへ行って捕えて来ては食っている、という話をした。亀などもよく捕えて食うということだった。なるほど、あのあたりで土いじりをしている職人というものは、百姓みたいなものであるから、さもありなんと、私はこの話を心に留めていた。
それから瀬戸の赤津へ行った時、この話を持ち出して、
「この辺ではみなよく蝦蟇を食うと聞いたが、ほんとうか」
と、たずねてみた。すると、職人たちは、
「そんな話は聞いたことがない」
という答えで、どうも符節が合わない。狐につままれたような具合であった。しかし、案外、蝦蟇を食うなどと言うことを恥ずかしがってでもいるのではないかと思われたので、あの辺では相当の物持であり、且つまた陶工の親分でもある加藤作助君に会って質してみた。だが、この加藤君も、
「そんな話もないことはないが、ほんとうに食いはしない」
と言う。結局、真偽のほどが分らないので、蝦蟇を食う機会を得なかった。
一度こうと思ったものをウヤムヤにするということは、なんとなく気にかかってならぬものである。そこで京都伏見のある陶器工場へ行った時、ちょうどこの話の御本尊が来ていたので、また、その話を蒸し返してみた。
「君はみな食っていると言うが、聞いてみたら、誰も知らないと言ってたぜ」
と言うと、
「いや、そんなことはない。蝦蟇は美味いし、第一ただだし、みな捕って食っている」
と、相変らず蝦蟇常食論を主張して止まない。どうも要領を得ないことおびただしい。
すると、その話を聞いていた宮永という陶器職人が、
「なんのかのと言うが、蝦蟇は京都にだっている。伏見稲荷の池に行けば、確かにいるに決っている。どこの蝦蟇だって食えるんだから、それを捕って来たらどうです」
と、動議を出した。なるほど、そう言われれば、そうに違いない。そこで、
「捕って来た者には、一匹一円で五匹まで買おう。どうだ、誰か捕ってくるものはないか」
ということになった。この一円は、今の百円ぐらいの価値のある時代である。
「一匹一円なら、昼の休みに捕ろうじゃないか」
と衆議一決して、みなでわあわあ言いながら、伏見稲荷の池へ出かけて行った。寒い日だった。私もついて行ってみたが、冬のことで、池の水がぐんと減っている。蝦蟇はこの池のふちの斜面に横穴を掘って、その奥に冬眠しているということであったが、みると、なるほど、減水した水面と池の縁とのちょうど中間のところに点々と穴がある。
確か中国の『随園食単』かなにかに、洞窟の蟾は美味であるとあったと思うが、私はこの穴を見て、
「ハハア、これだな」
と、思った。これまで洞窟という文字から、何か大きな岩穴のようなところにでもいる蝦蟇のことかと考えていたが、そうではなくて、やはり、冬眠中の穴にいる蝦蟇を指したものに違いない。
それはさておき、この穴がなかなか深く、蝦蟇はちょうど肩の辺まで腕を入れねば届かないような奥に眠っている。だから、池の縁の方からかがんで手を入れても、蝦蟇のところまでは届かない。どうしても、池の中に入ってやるほかはない。
そうなると、初めは元気なことを言って出掛けて来た職人たちも、
「一円か二円か知らんが、いややなあ」
などと弱音を吐く者が出て来た。中には手を入れて、ぐにゃっとしたものに触れると、「ワッ」と声を挙げて、手を引っ込めてしまう者などもあって、大騒ぎだ。蝦蟇は眠っているとは言え、死んでいるわけではないから、ぐにゃぐにゃしているに違いない。蝦蟇に違いないと誰もが信じているのだが、しかし、いよいよ引き出してみるまでは、果して蝦蟇なのやら、あるいは蛇なのやら分らない。それだけに気味が悪いとみえて、みななんとか言いながら、ウジウジしている。そのうち、遂に誰か勇を鼓して、そのぐにゃりとしたものを引き出した。見ると、果して蝦蟇であった。それに勢いを得て、次々と引き出し、結局、予定通り五匹の蝦蟇を捕えることができた。
それから蝦蟇の常食論者に皮を剥いでもらい、身だけになったものを、ふつうのさかなのすき焼きでもやるように刻んで、ねぎといっしょに煮て、薄葛をかけた。これは、上海式をそのままやってみただけのことである。こうして晩餐に食ってみると、やはり美味い。肉はキメが細かく、シャキシャキしていて、かしわの抱き身などより美味い。ただし、どういうものか、少し苦味がある。
「この苦いのはどうも少しおかしいが……」
と言って、例の常食論者に聞いてみたが、
「知らない」
と言う。ともかく、苦いものに毒はないから、そのまま食ってしまった。その翌日も食って、二日ばかりで五匹食ってしまった。
その後も幾度か食ったが、やはり苦味があった。人の話では(うそかほんとかわからないが)、
「調理する時、皮を剥いだ手で肉をいじると苦くなる。苦味は皮にあるので、皮から出る汁を肉に移さなければよいので、水の中で剥いだらいいでしょう」
ということであった。苦いというのは一種のアクであろうと思うが、しかし、今度やるときには、それを注意して試みてみよう。
京橋の日本橋寄りのところに、震災後、蛇や蛙を専門に食わせる店ができたことがある。ずいぶんと妙なものばかり食わしたものだが、私もほかでは食えないから、ここで蛇やなにか変ったものをいろいろ食ってみた。大体調子は同じだが、中国の大田鶏に較べて、日本の蝦蟇のほうが美味い。食用蛙はやわらかいが、なにか繊維のないような感じで、味に含みがない。もちろん、味の軽いもので、鳥なら抱き身、さかななら肉のやわらかいものに較べられる。
中国で見たのは、アカヒキと言うのであろうが、日本では見たことがない。日本にもアカヒキと称するものは、いるそうである。自分は見たことはないが、手に入れば試食してみたいと思っている。さしずめ赤色田鶏とでも名付けたらよかろう。
(昭和十年)
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Medium
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その頃、防空壕は各戸に一つか二つ位づつ掘られてゐたが、防火貯水池もだんだん必要となつて来たので、至急に用意をするやうその筋の命令が出た。山王一丁目二丁目新井宿一丁目から七丁目まで一町ごとに一つの貯水池はぜひ必要で、神社の境内か町内の空地にそれぞれ掘る支度をしたのだが、さて新井宿三丁目は郵便局や銀行もあり一ばん賑やかな通りで空地は一つもなかつた。神社は熊野神社を祭つてあるが、これは高い石段をのぼつて松や杉の茂つた上の方まで行くのだから、むろん貯水池なんぞ掘れない。町会の人たちは大いに考へて、一ばん住む人のすくない一ばん庭のひろい一軒の住宅に目ぼしをつけたのが、不幸なことにそこは私の家であつた。
町会と区役所の人たちが頼みに来るまで私はそんな事を夢にも考へなかつた。個人の家の庭に町会の貯水池が掘られるといふことは、誰だつて考へない事なのだけれど、ぎりぎりに押しせまつた必要と、もう一つは、町会の人みんながひどくのぼせて愛国の気持になつてゐたから、何の働きもできない私のやうな女までも、何か好い仕事をさせてやらうといふ真面目な気持も交つてゐたらしく、最後に町会長が来て懇願した。お国のために、こちらのお庭に貯水池を掘らなければ、三丁目には他に適当な場所が一つもないと言つて、それを私が断れば、お国が困るのだといふやうな意味の話をした。では、私の家のほかにも個人の庭で貯水池をお掘りになつたところがございますかと訊くと「あります。山王二丁目のK伯爵邸の、御門から玄関にゆく中途のところに。もうこれは出来ました。今のところではK伯爵邸のほかは神社の空地ばかりです。これは一つ御承知を願つて、その代り私どものできる事で御便宜を計らうと思ひますが」ともう私が承知したやうに話しかけた。今の斜陽階級といふやうなさびしい言葉はまだ生れなかつたその頃の伯爵邸は町のほこりであつたから、町会長はたとへ貯水池一つでも私の家がその伯爵家や神社と軒並にとり扱かはれることを私のためにも非常な光栄だと思ひ込んでくれたのだつた。「平和になつた時に、その穴はどうなるのでせうか?」と、あはれな私は敗戦国にならないで日本に平和が来る日もあると思つて、訊いてみた。「それはむろん区役所の方で人夫をよこして元どほりに埋めるさうですから、後日の事は御心配なく」と言つた。かういふ話を私ひとりでがんばつて受けつけないでゐれば、一億一心といふマトーにはづれるのだから、町会から少しぐらゐ意地わるの事をされても仕方がなかつた、もうすぐそこに一つ別の問題が起りかけてゐた。それはだんだん家々が焼けて住宅がなくなつて来れば、焼け出された人たちをどこの空間にでも収容することになつてゐて、一畳半の場所に一人づつ、つまり十畳には七人位、八畳には六人、四畳半には三人入れるきまりださうで、私の家もその時にお役に立たせられるかもしれないと、一週間も前から聞かされてゐた。かういふ時に庭の方を役立てて、家のなかには触れずに置いて貰ふ方がいいだらうとも言はれてゐた。火事で焼けて家も家財も一瞬に失くしてしまつた人たちの苦しさはよく分つてゐるつもりでも、今まで若い女中とたつた二人で静かすぎるやうに暮してゐた家に急に二十人も三十人もの人が来て、あわただしい共同の生活に変ることは、私にとつては怖いほどの一大事と思はれた。国も人もほろびつつあるその国難もまだほんとうには認識できないでゐる時の私だから、何事も一寸のばしにすることにして、それでは、庭を使つていただいて、家の方の徴用はゆるして頂けるのでせうねと念を押して、貯水池はついに引受けてしまつた。庭のまん中よりやや西に、いちばん平らな好い場所に十二坪の長方形の池がコンクリで造られるのだつた。
コンクリ屋のやうな専門家が来る前に先づそれだけの穴を掘らなければならない。三丁目町会の隣組の人たちが各家庭から一人づつ出て穴掘りに奉仕することになつて、男の人たちは昼間の勤めがあるから全部が主婦とわかい娘さんたちだつた。二月の節分が過ぎて間もない頃で朝の霜はひどかつたが、午前九時に始まり午後五時で終るのだつた。私の方の隣組は、穴掘りの仕事は人手も多いから、みんながお茶の係りになつて、そつちこつちの樹の下に七輪を据えて一日じう驚くほど沢山の湯をわかした。初めの日は三百八十人位の人数で、次の日は人数が少し減り、三日目は午後二時ごろで終了し、延人数九百何十人といふことだつた。女ばかりの奉仕隊がみんな黒の防空服で大きなシヤベルを持ち、土を掘つたり運んだりする姿はまことに勇ましく、映画にもこんな光景はないだらうと思つて私はそつと障子の中からながめてゐた。(御主人は今日は出ないで下さいと言はれて、私は正直に家の中に隠れるやうにしてゐた。)
同じ隣組の植木屋の親方がその朝はやく相談に来て、お庭のまん中にむやみに穴を掘られては困りますから、向うの植込の樹のしげみを「山」と見たてて「山水」の型に池を掘りませうと言つてくれた。植木屋の親方は一日中指揮者となつて程よく土を運ばせ丘の姿がだんだん出来上がつてゆくのを「専門家だなあ」と私は感心して見てゐたが、ほんとうに、それは「山水」と見えた。一丈の深さの池は第一日で三分の二ぐらゐ掘り下げられた。
初めの日、三時のお茶時間すこし前だつた、都の事務官なにがしがこのたびの事でお礼の御挨拶に伺ひましたと、区役所の人をお供にして見えた。椽側に出て挨拶すると、事務官は名刺を出して公式のお辞儀をした。風采のすぐれた人だつた。「みんなが非常に感謝してをります。あとあとは決して御迷惑をかけない積りでをりますが、御用の時はどうぞ御遠慮なく区役所の方におつしやつて、また私も、伺ふことにいたします」と言つてもう一度お辞儀をした。
「どうぞお上がり下すつて、お茶を召上がつて……」と私は言つたけれど、事務官は庭でスピーチをしなければならないのだつた。植木屋の設計した「山水」の丘の上に立つて彼は奉仕隊の婦人たちにスピーチをした。ねぎらつて、はげまして、感謝する言葉で、大勢の女ばかりの黒衣の労働者の中に彼はスマートな姿で立つてゐた。
掘るのは三日で終つたが、コンクリの仕事が長くかかり、それがすつかり出来ると、消防署の自動車が水を運びお池が出来あがつた。都と区役所の人と町会長が検分に来て椽側でお茶を飲んだ。「お庭のながめが一しほで、じつに気持が好い、夏は緋鯉をお放しになるとよいです」と彼等は平和な話をして帰つて行つた。門内の樹のあひだを自動車が出入りすることはむづかしいので、西側の道路に面した生垣を二間ほどきり取つて、ふだんは人目につかないやうに塞いでおくことにした。
この池をほんとうに使用する時が来ない内に、私は急に大森の土地を離れて杉並区の方に移つたから、その後のことは知らない。翌年の春、この辺の土地全体が大幅に池上の丘の下まで強制疎開になつたので、たぶんこの池は一度も使はれずに終つたのだらうと思ふ。偶然の事ながら、三月末に伜が急に亡くなつたのと新井宿の家の毀されるのと殆ど同時であつた。馬込の彼の家に泊つてゐて、二七日が過ぎてから私は毀された家を見に行つた。庭には瓦の山が積まれてその辺いちめんに土ほこりが黄いろい靄のやうに流れ、二三人の人夫が瓦の山の上をみしみし歩いて行つた。私もその瓦の上を歩いてゐるとあのお池の水が夕日に光つて見えた。近所の子供の遊びか、小さい筏が流されてそばの楓の樹に細引でつないであつた。そこだけは古風な眺めで、松に交る樹々が少しづつ芽ぶき赤らんでゐる姿は私のためにふるさとの感じもした。その時、樹の中で鶯が鳴いた。
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一友に誘はれて久しぶりに向島を散歩したのは、まだ花には少しはやい三月なかばのことであつた。震災と戰災で昔の面影をきれいに失つたが、それでもわれわれ明治の子にとつて、墨東は忘れがたい地である。あの道この横丁には、まだまだ幼時の記憶をよびさますものが少くない。
枕橋畔の料亭八百善、牛島神社の舊社地、弘福寺裏の富田木歩の家、淡島寒月の梵雲庵、饗庭篁村の家、幸田露伴の蝸牛庵、百花園の御成屋敷。 それらは地上から永遠に消え去つたが、竹屋の渡しのあたりの常夜燈や夥しい社寺の碑碣など、いまだにもとの場所に殘存してゐる。苞に入つた入金の業平蜆はとうになくなつたが、まだ言問團子や、長命寺の櫻もち、地藏坂の草だんごは、それぞれ名代の看板を掲げてゐる。姿かたちは變つても、それらの文字を眼にすれば自づと、大正初期の墨堤を瞼に描くこともできるのである。
私の向島の思ひ出は、長命寺内芭蕉堂の懷石料理にはじまる。その日、小學一年生の私は父に伴はれて茶事に列したのである。もちろん招かれざる客であつた。會者七八人、日頃の惡童には、まことに退屈きはまる數時間であつた。主人は宗偏流家元の堂主中村宗知翁、すでに八十歳をすぎてをられたが、なほ钁鑠たるものがあつたと、子供ごころにも覺えてゐる。
翁は累世田安藩の臣、大坪流直傳の騎射指南役として重きをなした。維新後は同藩の親友清水蟠山の推擧で新政府に出仕したが、まもなく致仕して言問團子の植佐の離れに退隱した。これは「言問團子」の命名が先考花城翁による縁故からで、のち長命寺内に芭蕉舊跡の一宇を再興、そこに自ら移り住んだのである。
清水幡山は兵法家として有名な清水赤城の孫である。赤城には四男一女があり、長男は礫州、次男が一方、三男が大橋訥菴である。清水基吉氏の文によれば
礫州の末子の隆正が、静岡縣知事關口隆吉の養子にはいつた。關口泰を生んだ。關口隆吉はまた關口壮吉、新村出、關口鯉吉を生んだ。壮吉に一男三女がある。男は文部省役人の關口隆克である。長女が諸井三郎に嫁つた。三女が佐藤正彰に行つた。清水赤城の本家は、礫州、蟠山の三代で絶えた。分家の清水一方は、酒のみの、貧乏の、古書好きの、劍道の先生。この一方の家から出た女が大審院判事加藤祖一の妻になつて、三男八女を生んだ、女の梅子が關口壮吉に嫁つた。妹の八重が幼くしてに清水の家はいつた。これが僕の母である。云々 (寺歩記)
といふわけであるが、なほ一二を補足すれば、歴史畫家、故實家として知られた日本畫家邨田丹陵は清水礫州の子であり、寺崎廣業夫人菅子は丹陵の實姉であつて、共に時を同じくして向島に居を卜してゐたのである。
私事にわたつて恐縮であるが、御一新の時、私の祖父は幼い父を伴ひ徳川慶喜について駿府に行つた御家人で、遠州金谷ヶ原で刀とる手に鋤鍬をもち、さんざん苦勞をしたあげく靜岡の深草といふところで町道場を開いた。その地で祖父は山岡鐵舟を介し同じ劍客の關口艮輔を識り、艮輔がのちに三瀦縣權參事となつたとき、父は詩文の交はりのあつた艮輔の養子の隆正のすゝめに從ひ、道場の看板をおろして經世學舍といふ漢學塾をはじめた。時に十六歳。やがて艮輔が官を辭し東京向島に退隱するに當つて、父も隆正といつしよに東京へ出て來たといふ。その時にはもう祖父母とも死んでゐたので、墓は身分不相應に立派なやつを作つてきたよ、とは親父の自慢話の一つになつてゐた。私もはじめてその自然石の墓に接した時には、威風堂々あたりをはらふ偉容におどろいたものだ。墓標の裏に「孝子建之」と彫つてある。
關口隆正と親父の交遊は、畫家の寺崎廣業、邨田丹陵、詩人の滑川蟾如、茶人の中村宗知等と共に、明治中期の向島文人史の幾ページかを占める。艮輔はのちの元老院議官關口隆吉であり、新村出先生の家大人にあたる。
出といふ名は、隆吉が山口縣令のときにでき、山形縣知事のときに産れたからだと、これは老先生から親しく伺つた。重山と號する所以である。隆正は兵法の名家清水礫洲の子で夢界と號し、清水基吉さんの伯父君にあたり、この四月急逝した憲法學の關口泰さんは隆正の子であるから、泰さんと基吉さんとは從兄弟の間柄である。
宗知翁は大正五年、八十九歳の高齡で易簀された。その門流は數百人に及ぶといふ。また翁は茶道、騎乘ばかりでなく、書畫、篆刻、詩歌、國學等のあらゆる風流韻事に長じ、俳號を花咲爺といひ正風を傳へた。
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櫻の莟も固く、川風もまだ頬につめたかつた。瓦礫のまま荒れ果てた寺内に、なかば埋沒した名井長命水や芭蕉雪見の句碑、名犬六助塚、柳北の碑などを探り、お互ひに寂しい氣持を抱いて土手にでた二人は、澁茶をすするべく門前の櫻餅屋のガラス戸を引いた。
洋風に改裝された、殺風景な店構へにはいささか失望したが、それでも長押に並んだ千社札や、赤い毛氈をしいた床几の上の今戸燒の煙草盆が、うれしかつた。やがて、お神さんが蒸籠形の四角な器を運んできた。「長命寺門前山本や」の燒印をおした白木の蓋をあける。ぷんとくる櫻の葉の香り、ふつくらした糝粉皮の蒸し工合。さすがに駄餅屋の味とはちがふ。その時、葉ざくらの頃にもう一度、拓本をとりに來ようと一友と私は話し合つたが、その約もいまは空しくなつた。といふのは、それから一ヶ月ほどして私は舊陸軍病院のベットに、痩躯を横へる身となつたからである。暮から春にかけての過勞と、連夜の惡酒のたたりといふ。おそらく秋風の立つころでないと、立上れないだらう。
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鈴子は、ひとり、帳場に坐って、ぼんやり表通りを眺めていた。晩春の午後の温かさが、まるで湯の中にでも浸っているように体の存在意識を忘却させて魂だけが宙に浮いているように頼り無く感じさせた。その頼り無さの感じが段々強くなると鈴子の胸を気持ち悪く圧え付けて来るので、彼女はわれ知らずふらふらと立ち上って裏の堀の縁へ降りて行った。
材木堀が家を南横から東後へと取巻いて、東北地方や樺太あたりから運ばれて来た木材をぎっしり浮べている。鈴子は、しゃがんで堀の縁と木材との間に在る隙間を見付けて、堀の底をじっと覗くのであった。
彼女は、七八歳の子供の頃、店の小僧に手伝って貰って、たもを持ってよく金魚や鮒をすくって楽しんだ往時を想い廻した。その後、すっかり、振り向きもしなくなったこの堀が、女学校を卒業して暫くするとまた、急に懐しくなって堀の縁へ游いで来る魚を見るだけではあったが、一日に一度、閑を見て必ず覗きに来た。そんな癖のついた自分を子供っぽいと思ったり、哀なものだと考えたりする。
今日もまた、堀の水が半濁りに濁って、表面には薄く機械油が膜を張り、そこに午後の陽の光線が七彩の色を明滅させている。それに視線を奪われまいと、彼女はしきりに瞬きをしながら堀の底を透かして見ようとする。
ただ一匹、たとえ小鮒でも見られさえすれば彼女は不思議と気持が納まり、胸の苦しさも消えるのだったが……鈴子が必死になって魚を見たがるのと反対に、此頃では堀の水は濁り勝ちで、それに製板所で使う機械油が絶えず流れ込むので魚の姿は仲々現われなかった。
魚を見付けられぬ日は鈴子は淋しかった。落ち付けなかった。胸のわだかまりが彼女を夜ふけまで眠らせなかった。魚と、鈴子の胸のわだかまりに何の関係があるのかさえ彼女は識別しようともしなかったが……鈴子は二十歳を三つ過ぎてもまだ嫁入るべき適当な相手が見付からなかった。山の手に家の在る女学校時代の友達から、卒業と共に比較的智識階級の男と次ぎ次ぎに縁組みして行く知らせを受けて、鈴子は下町の而も、辺鄙な深川の材木堀の間に浮島のように存在する自分の家を呪った。彼女は、自分の内気な引込み思案の性質を顧みるより先に、此の住居の位置が自分を現代的交際場裡へ押し出させないのだと不満に思う。その呪いとか不満が彼女のひそかな情熱とからみ合って一種の苦しみになっていた。
うっとりとした晩春の空気を驚かして西隣に在る製板所の丸鋸が、けたたましい音を立てて材木を噛じり始めた。その音が自分の頭から体を真二つに引き裂くように感じて鈴子は思わず顔が赤くなり、幾分ゆるめていた体を引き締め、開きめの両膝をぴったりと付ける、とたんにもくもくと眼近くの堀の底から濁りが起ってボラのような泥色の魚がすっと通り過ぎた。鈴子は息を呑んで、今一度、その魚の現われて来るのを待ち構えた。
「鈴ちゃん、また堀を覗いている。そんなに魚が見度かったら、水族館へでも行けば好いじゃないか。順ちゃんがね、また喘息を起したからお医者へ連れて行ってお呉れ」
忙がしく母親が呼ぶ声を聞いて鈴子は「あ、またか」と思った。六歳になる一人の弟の順一が昨年の春、百日咳にかかって以来、喘息持ちになって、何時発作を起すか判らないので誰か必ず附いていなければならない。
このお守りさんの為めにも鈴子は姉として母親代りに面倒を見なければならなかった。女学校を出て既に三四年もたち、自分の体を早くどうにか片付けなければならない大事な時期だというのに、弟のお守りなんかに日を送っていることはつらかった。
「誰も、私の気持ちなんか、本当に考えていて呉れない」
鈴子はそう心に呟き乍らまだ堀へ眼を向けている。
「鈴ちゃん、順ちゃんが苦しんでいるって言っているのに判らないかい」
母親の嘆くような声が再び聞えると鈴子はしぶしぶ立ち上って「私だって苦しいんだわ」とやけに思った。しかし、いつまでしぶってもいられなかった。彼女は、急にしゃがんで小石を拾うと先刻ボラのような魚の現われた辺を目がけて投げ込んだ。すると、変な可笑しさがこみ上げて来た。鈴子は少し青ざめて、くくと笑い乍ら弟の様子を見に家へは入って行った。
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新劇団「心」座が来る廿八日、廿九両日、邦楽座に於て、ルノルマンの、「落伍者の群」を上場するさうだ。「落伍者の群」原名は「Les Ratés」――即ち「失意の人々」である。愛と芸術の悩みを悩むものは、均しく彼等の声に耳をかたむくべきである。
こゝで此の作が如何に感動に満ちたものであるかを云々する事はわざと差控へる。たゞわが国に於ける翻訳劇上演の記録から見て、仏蘭西近代劇が甚だしく偏頗な待遇を受けてゐると云ふ事実を知るものは、「心」座の今度の企てに対して、当に十分の注意を払ふべきであることを特記したい。
仏蘭西劇の紹介と云ふことは、今日の日本では、どつちかと云へば、わりの悪い仕事のやうである。といふのは、劇といふもの、殊に近代劇といふものに対する日本劇壇の観念が、仏蘭西劇の伝統と相容れない点が多いからである。
しかしながら、その仏蘭西劇の伝統を、特質を、完全に紹介し得たならば、日本の鑑識ある好劇家は、決してその魅力に鈍感な筈はないのである。
この紹介は、実際、文字による翻訳だけでは不十分である。「語られる言葉」のあらゆる妙味は、相当の俳優――自分の表現を工夫し得る俳優――を俟つて始めて伝へ得るものである。
この点で、私も、翻訳者としての責任を飽くまで負ふつもりであるが、同時に、「心」座の若い芸術家諸君が、それだけの覚悟をもつて、此の脚本にのぞまれてゐる事を、心強く感ずる次第である。
云ふまでもなく、戯曲の本質は、人生を形づくるいくつかの魂の、最もリズミカルな響きの表現である。一音を誤れば、音楽の演奏は完全でない如く、一語を聞き漏らすことによつて、舞台のイメージは一つの空虚を残すのである。「落伍者の群」一篇は、光明と暗黒の間を縫ふ二ツの生命の流れ――その流れが奏でる悽愴な、そして微妙な心理的旋律である。その演奏が、翻訳者、舞台監督、俳優並に舞台装置者の努力によつてある程度まで成功したならば、それは恐らく、我が演劇界に於ける劃時代的舞台を展開するであらう。
私は若き「心」座のために、更にこゝでは不遇であつた仏蘭西劇のために、そして結局は日本の「明日の演劇」のために、「落伍者の群」を聴かうとする人々の一人でも多い事を祈るものである。さやう、それらの人々は、今迄は「芝居を観に行つた」代りに、今度こそは、寧ろ「芝居を聴きに行く」つもりで、当日、邦楽座の聴聞席に着席されたい。
それから、万一、例へば翻訳者の失敗によつて、「落伍者の群」に失望する人があつても、さう云ふ人は、第二、村山知義君作「孤児の処置」に於て、充分入場料金若干也の埋合せをつけ得るであらうことを保証して置きます。
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巴里で岡田君と別れてから、もう十二三年になる。彼はその後、南フランスのゴオドといふ海岸へ移り住み、まつたく土地の人になつてしまつてゐるらしい。
巴里時代には、お互に貧乏であつたが、時とすると彼はその貧乏振りで流石の僕を感嘆させたものである。青山熊治君にも、やつぱりさういふところがあつた。しかし、岡田君は何時でも紳士然としてゐて、放浪者の惨めさを何処にもみせない一種の意地をもつてゐた。
彼は、素朴で剛毅な魂をもつてゐる、国際的な生活に慣れ親しむ一方、日本人としての矜りを失つてゐない。彼くらゐ西洋人の前で堂々と振舞ふ人間は、日本人の中には少いと思ふ。それが無愛想でも傲慢でもなく、彼と話をして、ジヤンチイだと感じない西洋人はゐないくらゐだから、これこそ真に国粋的な人物としてわれわれは意を強うするに足るのである。
かういふ彼が、画家としてどんな仕事をしてゐるか、一度、故国の人々は是非観ておかなければならぬ。
一昨年、同じ画廊でさゝやかな個展をやつたが、世話役の私が不慣れで、宣伝も思はしくできなかつたに拘はらず、相当の成績を挙げ得たのは、素人の眼をも十分楽しませる率直な、健康な、本格的な美の要素を、彼の絵が備へてゐるからだと思ふ。
日本人の生活様式の中では、油絵が往々、その雰囲気になじまない憾みがあるのに、彼の絵は不思議に、茶の間や、床の間づきの座敷にしつくりと落ちつくところをみると、芸術品には、材料や技術を超越する精神のあることをしみじみ感じさせられるのである。
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古い頃の日本の数学
数学と云えば、今ではすべて西洋から輸入した算法が用いられ、それが一般に行われているのですが、日本にも昔の江戸時代には和算と称えられている数学がかなりに発達して、たくさんの和算学者が出たのでした。この和算がなぜ西洋の数学に変えられたかと云うことについては、いろいろの理由もあるのですが、大体には運算の方法がめんどうであったり、またごく特別な問題だけを主にしていましたので、それよりも広い西洋の数学で置き換えられることになったのでした。しかしそれにしても、かなりに古い頃にこのような和算が我が国で発達したということは、大いに注目されなくてはならない事がらでもあり、それについて誰しもが幾らかは知っておかなくてはならないのであるとも思われるのです。
和算の初まりは、もちろん支那の数学が我が国に伝えられたことにあるのですが、支那ではごく古い時からかなりにすぐれた数学者が出ているので、唐や宋の頃にはよほど進んで来て居り、その後の元の郭守敬という人の創めた天元術というのは、殊に名だかいものです。そういう支那の算法が我が国に伝わって来たのは、江戸時代の初期の頃でありますが、それから漸くこれを研究する学者が我が国にも出て来たので、万治、寛文年間に世に出た磯村吉徳の算法闕疑抄とか、佐藤正興の算法根源記とか、澤口一之の古今算法記とかは、その当時の算学書としていずれも名だかいものでありました。ところでその後に和算を大いに進めたのが、ここでお話ししようとする關孝和でありまして、その並々ならぬ努力によって關流の算法というものが出来あがり、この伝統が近く明治の初年までも続いて、その間にたくさんの名だかい数学者を輩出させたのでありました。明治以後になって、さきに述べましたように、これは西洋の数学に変えられることになったのですが、しかし和算がこれだけに進んだというのも、それは最初にその発展に努めた關孝和の大きな仕事のおかげであり、またそのなかには実際に同じ時代に西洋で見出だされたものに比べられるすばらしい発見などもあったことを想いますと、和算家としての關孝和の名は、我が国での大きな誇りの一つと見なくてはならないのでしょう。そこで關孝和がどんな仕事をのこしたかと云うことについて、ここでごく大略のお話をしてみることにします。
關孝和の生涯
關孝和は、通称を新助と云い、字は子豹で、自由亭と号しました。本姓は内山と云うので、内山七兵衞永明の二男であるということです。内山家の祖先は信州に住んでいたので、それから蘆田氏に属して上野国藤岡に移り、孝和は寛永十九年の三月にこの藤岡で生まれたと伝えられていますが、これは確かでないとも云われて居り、今ではそれがはっきりして居りません。父は蘆田氏の沒落後に幕府に仕え、駿河大納言附となったと云うことです。孝和は長じてから甲府の徳川綱重並びにその子綱豐に仕えたので、寳永元年に綱豐が将軍の世子となり、名も家宣と改めたときに、孝和もまたこの世子附として幕府の御家人となり、勘定吟味役から続いて御納戸組頭となりました。そして寳永三年に勤を辞してから、同五年の十月二十四日に歿しました。
寛永十九年に生まれたとすれば、この時六十七歳に当るわけですが、それは確かとは云われないのでしょう。江戸牛込七軒寺町の日蓮宗浄輪寺に葬られました。關氏と名のったのは、關五郎左衞門に養われたからだと云われていますが、それにもいくらかの疑いはあるとのことです。
さて孝和はこのような公けの勤めの間に、自分では数学を一生懸命に勉強し、遂に和算を大成させたと云うのですから、それをよく考えると、むしろ驚くべき事がらだと思われるのです。それももちろん数学が生来好きであったからには違いないのですが、彼の頭脳がいかにすぐれていたかと云うことを想わせるのであります。
数学を最初には高原吉種という人に学んだとも伝えられていますが、また一説にはすべて自分で勉強したのだとも云われているので、これもどちらが本当かわかりません。それにしても彼のその後の独創的な考え方がその頃として他に比べるものがなかったので、これはまことにすばらしいと云わなくてはならないのでしょう。
そのたくさんの仕事について、こまかい事までをここでお話しするわけにはゆきませんが、大体どんな成果を挙げたかということを、次にお話ししてみることにします。
關孝和の業績
關孝和が和算の上で成し遂げた仕事は非常にたくさんにあるのですが、なかでも最も目立っているのは、始めて筆算式の演算を考え出したということでありましょう。それまでの和算では、すべて支那からの伝統に従って算木というものを使って演算を行っていたのでしたが、それに代って筆算をはじめたということは、出来上った上では何でもないように思われても、最初にそれを考え出すということの苦心を想像すれば、やはり孝和のようなすぐれた考えをもっていなければなし得なかったことであると見られます。
孝和はまずそういう演算法をつかって、さきに記しました澤口一之の古今算法記や、磯村吉徳の算法闕疑抄に載せられてあって、まだ完全に解かれていなかった多くの問題をすっかり解決し、延寳二年に『発微算法』と題する一書にまとめて、それを公けにしました。この算法は演段術と名づけられて、その頃大いに評判となり、孝和の名声が一時に高まったということです。
これは今日の代数学に相当するものですが、後には更にこれから点竄術と称するものが出ました。なお門人建部賢弘の名で「発微算法演段諺解」並びに「研幾算法」と題する書物が出ていますが、これらも実は孝和の考えに出たものであろうと云われています。ともかくも、このようにして代数学の上に大きな進歩を来したことは、孝和の大きな功績の一つであります。
次に孝和の行った仕事として方程式に関するいろいろな事がらがあります。
まず方程式を解くのに巧みな省略計算をなしたり、また理論の上からその解法を整えて、適尽方級法と名づけるものを考え出し、これが方程式の吟味に大いに役立ったのでした。また支那の招差法や剰一術というのを取り入れてそれらを活用し、垜積即ち有限級数の総和を求めることができるようにしましたし、それを更に拡張して無限級数に対する公式をもつくり、そのほかに算木による二次方程式の解法を原則として、それから根を無限級数に展開する方法を考え出しました。この方法をだんだんに適用してゆくと、そこにいろいろの級数の比較ができ、その極限を求めることによって遂に円弧の公式をつくることができたのでした。これは円理の算法と云われ、和算の上では甚だ名だかいものなのですが、円弧の公式を実際につくり上げたのは、門人の建部賢弘であったと云うことです。
また円に関するいろいろの級数や、極大極小の問題や、整数論、三角法に関する事がらの研究もあります。その頃では螺線のことを円背と云っていましたが、その螺線や十字環に関する算法もいろいろしらべましたし、円弧の回転体の立積に関して中心周の問題というものをも取扱っています。また角術というのは正多角形の算法で、それをいろいろの場合に明らかにしたり、そのほかに行列式の論などもあります。
これらはいずれも数学の上でかなりにむずかしい事がらでありますから、このように名目をならべただけではまだ皆さんにはよくわかりかねるかも知れませんが、ここでは一々その内容を説明しているわけにもゆきませんので、それでも關孝和がいろいろの仕事を和算の上でなし遂げたということを明らかにするために記したのでした。
關孝和の時代は、今から顧みれば三百年近くも前の時代なので、西洋で云えばあの名だかいイギリスのニュートンなどとちょうど同じ頃なのですから、ずいぶん古い昔のことであり、その頃にこれだけのすばらしい仕事をなしたと云うことは、我国にとっても大きな誇りであると言わなければならないのでしょう。
ただ遺憾なことには、そういう古い時代のことなので、我が国のなかでは学問といえばむしろ聖賢の道を学ぶということが主にせられていて、数学などは一種の道楽のようにも見られていたのですから、もちろん關孝和の名声は和算家のなかには大いに聞こえてはいましたものの、一般の世のなかからはさほど重んぜられなかったのも止むを得ないことなのでした。それにつれて、和算にしてもそれ以後は弟子たちに秘伝として伝えられる有様となったので、この事も広く世間にひろがるのにはある妨げとなったのでした。それでも關流の算法というのはその後門弟に伝えられて、その間にはたくさんの名だかい和算家を出してはいたのでした。
前にも名をしるしました建部賢弘とか、またその外に荒木村英とか、それからその後の時代になって久留島義太、松永良弼、山路主住、安島直圓とか、藤田定資、會田安明、和田寧など、いずれも名だかい人々であります。しかし和算がただ秘伝として伝えられたことから、初めにも記しましたように、とかく問題もある方向に偏ったのは止むを得ないことでもあったのでした。
それと共に、もう一つには西洋でなされたように数学が実際上のいろいろの科学的な問題と密接に結びつかないで、単に一種の道楽のような形に残されていたことは、やはりそれの健全な発達を妨げたことにもなったのでした。もっともこの事は、江戸時代の我が国の有様から見て止むを得ないことにはちがいなかったのですが、それにしても既に古い時代に關孝和のようなすぐれた数学者を出したことから見て、それを大いに遺憾に感じないわけにはゆかないのです。
そしてこの点から考えても、いつも本当の学問というものを大いに重んずることの大切であるのがよくわかるでありましょう。
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Hard
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それがもう、いくつの峠を越えたんだろう
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役小角とか、行基菩薩などいう時代の、今から一千有余年の昔のことはともかく、近々三十年前位までは、大体に登山ということは、一種の冒険を意味していた。完全なテントがあるわけでなく、天気予報が聞けるでもなく、案内者という者も、土地の百姓か猟師の片手間に過ぎなかった。
で、登山の興味は、やれ気宇を豁大するとか、塵気を一掃するとか、いろいろ理屈を並べるものの、その実、誰もが恐がって果し得ない冒険を遂行する好奇心が主題であった。況や、金銭に恵まれない当時の書生生活では、無理とは知りつつ、二重三重に冒険味を加える登山プランしか立て得なかった。
天佑と我が健康な脚力を頼みにして。
無事に下山して来て、日に焼けた紫外線光背面を衆人稠坐の中にツン出し、オイどうだ! と得意な一喝を与えたものだ。
そういう卑近な我々の経験から割り出すと、役小角時代の冒険味は、どの方面から言っても、常に生命線を上下する危険そのものだったに違いない。自然雷を吸い雲に乗ると言った、人間を超越した仙人的修行を積まなければ、到底其の難行苦行には堪えなかった。いつでも木の芽を食らい、木の根を噛んで、其の健康を維持するだけの経験を積んでいた。言わば原始的、野獣的な行動であったのだ。吉野の大峯に残る修行場というような、奇岩怪石を背景にしての練膽法は、即ち役小角時代からの伝統の遺物とも見るべきだ。
現に四国の石鎚山では、七月一日の山開きの当日から、七日間断食して毎日頂上をかける――かける、とは山腹の社から頂上までを往復するをいう――というふうな特異な登山行者がある。其の行者のいう所によると、三日目頃が最も苦痛で、今にも倒れそうであるが、七日満願頃には、却って神身爽快、雲に乗るかの思いをするとの事だ。又山中高原に結廬し、笹の芽を食って、幾日か難苦の修業をする者もある。彼等の経験によると、本統に餓渇を訴えなければ、笹の芽など到底咽へは通らないと言う。
霞を吸い、雲に乗るという仙人観も、仮空な想像でなく、人間も苦難な経験を積めば、そこに到達し得る可能な実在であったのだ。
今日のように、登山文化が遺漏なく発達しては、最早や冒険味など殆ど解消し、納涼的享楽味化した観がある。オイ、一寸烏帽子岳まで、と浴衣がけで出かけるような気持など、それがいいわるいは別として、文化人の一種の矜りであるかも知れない。槍ヶ岳の坊主小屋あたりまで、人間の体臭、いや糞臭で一杯だというじゃありませんか。ロック・ウォーキング、垂直の岩壁を散歩するのでなければ、現代のアルピニストではないそうですね。
まあ前時代? と言っていいでしょう。我々時代の登山は、一歩役小角に近づき、仙人修業の一端に触れた、むしろ珍妙と言ってもいいステージの想い出、手ぐれば尽きない糸のように。
初めて白山登山を志した時、地理も余り究めず、ただ一番の捷径というので、前日其の山麓の尾添で一泊した。後できくと、それは白山の裏道で、尾添道という最も峻険な難路だった。ともかく、山にかかったとッつきの胸突き八丁、これは手強いの感を与えた。が、やっと眺望の開けた、約千米突も登った頃、そこらそこらに残雪も見え出した。早昼の結び飯を食って、茶のかわりに、雪を掻いて食ったりした。
あそこに黒百合がありますよ、で連れの一人が、そこらの二株三株を土と共に掘りあげ、いい土産が出来ました、と言っている間に、今まで風もなく晴れ上がっていた、今日一日を保証していた空が、一陣の腥い風と共に変に翳った。見る見るうちに、脚の迅い雲が、向うの谷からこの谷へ疾駆して来る。天候が変った。少し急ごう。いつの間にか我らも雲中の人になって、殆ど咫尺を弁ぜぬ濃霧だ。風が募って笠も胡蓙も吹き飛ばす。ザアーと大粒の力強い雨だ。
立山サラサラ越えの黒百合の伝説は、昔物語として一笑にしていたが、黒百合の怨霊、其の山荒れ、今覿面に、我らの頭上に降りかかって来たのだ。ただの山荒れでない恐怖も手伝って、前途は尚更ら暗澹戦慄。
何しろ着替一枚も持たない浴衣はビショ濡れ、雨の洗礼を全身に受けた聖者の姿、逃避しようにも見透しはきかず、寒くて寒くてじっとしては居れず、其の中ゴロゴロ雷は鳴る霰も交って矢のように打ちつける。正に天柱砕け地軸折るるかの轟音。えらい事になった、こんな時狼狽えるではない、と言っても別に心の落著けようもないのだ。私は、僅に脚もとだけ届く私の視野、そこには人の歩いた跡の自ら道になっている痕跡をたどって、一気に突進する外はなかった。ままよ、運を天に任して。いつか案内者にも、連れの男にもかけ離れてしまった。時々「オーイ」と呼んで見るが、それらしい返事もしない。
荒れ狂っている大自然と、孤軍奮闘する私であった。
この足跡が果して白山頂上への道なのか、それとも? 私は急に胸騒ぎをさえ感じながら、と言って、外に踏むべき道はないではないか?
若し其の道が、越中へ抜ける道であるとか、飛騨へ下る岐れであったとしたら、私は本統に、濡れ仏のコチコチな白堊のような聖者となって、二千米突附近の疾駆する雲の脚に蹴散らされていたであろう。そうして、其の聖者を発見した後人が、著替えも食糧も何一つ持たないで登山するなんて、無謀な馬鹿者もあったものだ、と冷笑の一瞥を手向けたであろう。
が、私の暴挙に類した突進は、幸いに頂上への道を誤ってはいなかった。それから二三時間の後、我々一行は室堂の焚火にあたりながら、九死に一生を得たような顔を突き合わせていたのだった。
黒部の主、吉澤庄作君、猫又のダムが出来た当時、ダムの堰きとめる水量は、黒部峡谷の半分にも足らない、ダムの一つや二つでビクともしませんや、と強いことを言っていた。が、鐘釣温泉から猿飛に溯るまでの巨岩怪石の、それが黒部の魄であった壮美の中心は、もう大半無くなっていますよ、と難癖をつけると、吉澤君、奥に大きな雪崩れか、山ぬけでもすりゃァ、あんな岩位、また流れて来まさァ、で洒々たるものだった。
が、楢平のダムが新たに築かれると、猿飛さえが水中に没してしまう新聞に、黒部保勝会が先ず初耳らしい慌てかた。鐘釣温泉主人の、温泉破壊の泣き言も、身に沁みて聴いてやらねばならぬ破目になった。どえらい山津浪でもして、一気にダムの一つや二つぶち壊してくれりゃァ、ねえ吉澤君、とも言いたい黒部の現状である。
ダムの事なんか夢にも想像しなかった、アノ頃の黒部は、想い出してもゾッとする程、雄渾で壮烈だった。小山のような岩が渓を埋めて、それに激突する水が怒号狂吼しているのだ。そうして、その岩の配置に、背景の削ぎ立った懸崖に連峯に、人を威圧しながらも、猶お言い知れぬ風致と雅趣に微笑んでいたのだ。其の頃、黒部から白馬を志して、細木原青起画伯と外に富山の同人数人を連れて鐘釣温泉を出発した。祖母谷を廻ると、とても一日では白馬の小屋に達しないというので、其の年出来た猫又谷の林道を行けば、ずっと近径になると教えた余計な案内者があった。まだ日のある中に、白馬の小屋に着いて、楽々と寝れるような夢を描きながら、別にテントも用意せず、携帯行糧は、一行七人の一宿分で沢山、と言った気軽な準備だった。
爪先上りの林道を歩いている間は、至極平凡無為であった。が、ここで林道が尽きたという処に小さな瀑がある。仕方なし、垂直な懸崖になった灌木林中にもぐり込んで、そこを横に渡らねばならない。まるで猿に退化した狂躁曲の乱戦乱舞を演じて、やっと瀑の上の磧に下りた。ものの二三丁の距離に一時間余を費して一行はもう腹が減った。
この磧をたどって猫又の頭に出る分には、もう大したことはない見込みの案内者の眼前に、又しても瀑の数丈が懸る。
これもえんやらやっと、横にかわして、再び滝の上に落著いた時は、予定どころか日は既に西に傾きかけた。もう白馬の小屋にたどりついている時分に、まだ猫又の頭さえが見つからない不安と焦燥。あれが猫の踊り場という平、こういう日あたりのいい日には、よく熊が昼寝しているから気をつけなさい、なんて呑気そうな話をする案内者の顔にも、一抹拭いきれない失敗の暗皺。
やっと猫又の頭によじて、遙かに祖母谷の白煙を瞰下した時は、暮色既に身辺に迫っていた。幸いとでもいうのか、久しい以前誰かが焚火した跡のそれらしい平を発見して、露天の露宿より外にもう手段も方法も無かった。
そこらの夜叉の木という生木を伐るのも、総て暗中の模索、何はともあれ、空腹を充たす味噌汁と米の炊き上った時は、ヤケな歓声も揚るのだった。
三四枚の毛布に五人がもぐり込んで寝ようとはしたが、さて今夜の星の多いこと! キラキラヒカルこと! 星がより合って、この憐れむべき一行を指ざしつつ笑ってるような。
お蔭で、始めて生木というものを、どうして火にするかの方法を覚えたなど、ゆとりのあるような口吻を洩らしていたものの、若し今夜天候が変って、暴風の山荒れとなったら、其の時の覚悟は?、今夜はまあ無風状態の天佑で過し得るにしても、一宿分の糧食しか持たない我々は、明日若し白馬の小屋に到着し得なかったら、一行は餓死の運命! 実際山の大きさと恐ろしさを知っている一行のリーダーとしての次の責任感は、絶えず胸に早鐘を撞いていたのだ。そうして若し私の予感が実現したとすれば、恐らく一行は皮肉の洗い晒された白骨となって、始めて捜査隊に発見されたのだ。
幸いにも翌日も無事晴天、青起画伯が腹痛を訴えたり、一時霧がかかって見透しのつかなかった小故障はあったが、白馬の三角点を見つける迄は、昼弁当は開かない約束の下に、総て予定通り進行。あの清水平あたりのお花畑の美しさは、恐らく日本第一と、今でも其の印象の焼きついた想い出を、さも楽しそうに話すことの出来る幸福を顧みねばならない。
それにしても、あの猫又の頭から、折節蒼然と暮色の襲う中に、アルプス連峯の鎬を削るピークを見はるかした時の、荘厳とも痛烈とも言いようのない脅威に充ちた凄惨な光景はどうだったか。白馬は見えなかったが、鹿島鎗から後立、針の木、不動、野口五郎、剣、立山、薬師、黒、槍、穂高、それらが二列或は三列の縦隊となって、さも遠征の首途に上る行動を起こしたように、無音の進軍喇叭を吹きつつあったのだ。殊に蒼白とも灰白とも、それぞれのピークを彩っている底蒼い色の強さは、山岳の決死を象徴するように、真に崇高なる精神そのものだった。私はまだあの時程、山岳の壮美に打たれたことはない。それもこの冒険の賜物であったとも言える。青起画伯は、帰来あの冒険の印象、偉大な自然の黙示に打たれて、それまでの美意識を抛擲せざるを得なくなった、と真心から語るのであった。
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来春まで1年間しばらくお休みを頂きます
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今はもう昔のこと、イエーツは一九二三年にノーベル文学賞をもらつた時の感想を書いてゐる――その時私の心にはここにゐない二人のことが考へられた。遠い故郷にただ一人で寂しく暮らしてゐる老婦人と、わかくて死んだもう一人の友と――。グレゴリイ夫人とシングとはイエーツと共にアイルランドの文芸運動を起した中心の人たちであるから、イエーツはいま自分が貰ふノーベル賞は三人が共に受けるべきものと思つたのであらう。その後グレゴリイ夫人も死に、イエーツも今度の戦争中に亡くなつてアイルランドの文芸復興運動も花が咲いて散るやうに遠い過去のペイジとなつた。あんなにシングのものを愛してゐた私一人の身に考へてみても、アイルランド物をよまないで長い月日が過ぎてゐた。
すばらしい展覧会を見てその会場を通りぬけたもののやうに長時間その文学の中に浸つてゐた私が、或るときその中を通り抜けたきりもう一度その中にはいらうとしなかつた。人間の心はきりなしに動いてゆくからきつと私は倦きてしまつたのであらう。それに怠けものでもあるから、学者が研究するやうに一つの事に没頭することも出来なくてアイルランド文学に対してはすまないことながらついに私は展覧会を出てゆく人のやうに出たきりになつたのである。
伝説の英雄たちが戦争したり、聖者が伝道したりした昔の若々しい時代を過ぎて、アイルランドは長いあひだ何の香ばしい事もなく、圧迫の政治下に終始して来たびんぼふな国である。ある時アイルランドがエールといふ名に変つたとしても、すこしの変りばえもなく、こんどの戦争を通りすぎて来たのである。世界の国々の興亡の前には一つの国の詩人や文学者の思ひ出もむろん消えぎえになつて、そのあひだにわが日本は大つなみに国ぜんたいを洗ひ流されてゐたのであつた。生き残つた人たちは荒涼たる空気の中におのおの何かしらの郷愁を感じて、その上に新しいものを作り出さうとしてゐるやうである。私は戦争中の苦しまぎれに詠んでゐた自分の短歌を整理してゐるうち、ふいと昔なじんだアイルランド文学のにほひを嗅いだ。自分の身に大事だつた殆ど全部の物を失くした今の私の郷愁がアイルランド文学の上に落ちて行くのを、吾ながらあはれにも感じるけれど、今の時節には何でもよい、食べる物のほかに考へることができるのは幸福だと思ふ。ケルト文学復興に燃えた彼等の夢と熱とがすこしでも私たちに与へられるならば、そしてみんなが各自に紙一枚ほどの仕事でもすることが出来たならばとおほけなくも思ふのである。
馬込の家で空襲中は土に埋めて置いた本の中に、むかし私が大切にしてゐたグレゴリイの伝説集も交つてゐた。先だつてその本を届けて貰つたので、アメリカの探偵小説位しかこの小さい家に持つて来なかつた私は、久しぶりに「ありし平和の日」の味を味はふやうにその二三の本をよみ返した。世の中が変り自分自身も、まるで変つたのであらう、その伝説を読んでも物の考へかたが昔とは違つて来た。
たとへば、ホーモル人の王、「毒眼のバロル」はアイルランドの海岸に近い島にガラスの塔を建ててその中にとぢこもり、その毒眼で海を行く船を物色して掠奪する。そんな話をむかし読んだ時には大西洋の波の中にみえ隠れするガラスの塔に朝日夕日が映るけしきを考へて、すばらしいものに思つたりした。今はまるで違ふ。はて、このガラスは何処の国から仕入れた物だらう。ホーモル人のつぎの住民ダナ民族のその次に来たゲール人の時代に英雄クウフリンが生れて、クウフリンがキリストとほぼ同時代といふのだから、どこの国からそんなに沢山のガラスを持つて来たのだらうといふやうに考へる。いま私の家のガラス戸が二枚砕けてゐて、それを板でふさいであるので、私には非常に尊いガラスなのである。そして又ガラスの塔の中ではバロル王も冬は寒かつたらうと思ふ。つまり私の家はまるきり雨戸がなく、ガラス戸だけの小家であるから、冬のむさし野の寒さをこの三年間身にしみて感じてゐるせゐもある。
また名高い勇士を見ぬ恋にこひ慕つて「わたつみの国」から青い眼の金髪の姫君が訪ねて来る話もある。彼等は湖水を見晴らす野原のはじに家を建てる。森の老木を伐つて丸木の柱にして、鳥の羽毛で屋根をふき、うらの広場には家畜が飼はれる。厩には何十頭かの馬がゐる、家の前にはたくましい番犬がゐる。五十人の貴族の姫たちがその「わたつみの国」の姫君の相手となつて毎日裁縫をして部下の武士たちの衣服をぬふ、料理を手伝つて五十人百人の客の殆ど毎日の食事も支度する。子が生れると、暫時は母の乳で育てるが、ぢきに育ての母をきめてその母にたのむ、少し生長すると、名高い武術者の家に送り勇士としての教育を受けさせる。病人があれば、外科も内科も広い家を持つてゐてそれぞれの病人を預かり、深い知識によつて木草の汁を集めた薬を与へ、助手や女の助手が大ぜいで看護する、まことに万事ぬけめなくその集団生活が続けられてゐるのである。その物語の金髪の姫の美しさよりも花むこの勇ましい姿よりも、原始人の集団のなごやかさが限りなく好ましく読者の心を捉へる。曾てわが国でも大和のある宗教の本部で原始のやうな集団生活を宗教の力でつづけてゐたやうであつたが、そこには信仰と服従と労働だけで、愉しさや豊かさはなかつたのであらうと思はれる。敗戦の国の現在では無数の老人老女がおのおの別々の小さいうば捨山に籠つてあぢきない暮しをしてゐる。彼等も古い伝説のやうな裕かな大きな生活の中に捲きこまれてゐたならば、静かに日光浴をしたり、木の実を拾つたり、めいめいの仕事を持ち自信を持つて余命を送り得たであらう、さういふのは愚痴であるが、とにかくどれだけ深くつよく物の尊とさが私たちの心に浸みこみ、空想や夢や休息が死にたえてしまつたのかと、自分ひとりの心にかへりみて悲しくなる。そこで伝説はいま読まないことにする。
長い間の私のアイルランド文学熱がさめて後も、何年となく私を楽しませてくれたレノツクス・ロビンスンの戯曲が一冊もこの家に持つて来てないのはどうしたことだらう。農民劇ではなくアメリカあたりに材をとつた彼の大衆向のものが好きなのである。たぶん小説家たちの物と一しよに馬込の家に残して来たものと思はれる。いま私の手もとにはごく少数の戯曲集それも後進の作家たちの本があるだけである。さういふ本の中に畑ちがひのジエームス・ジヨイスのたつた一つの戯曲「追放者」が交つてゐた。
ジヨイスほどの世界的の小説家もこの戯曲はたぶん私の家に並んでゐる農民劇の作家たちの中に交ぜておいても失礼ではないだらう。長篇「ユリシス」で暴風のやうに世界を吹きまくつた彼ではあるけれど、戯曲はあまり上手ではない。王朝時代の日本女性の日記に書かれたやうなもたもたした気分が一ぱいで主客の人物はことごとく追放されても惜しくないやうな人たちである。昔の日本の女性作家の日記にうごきがのろかつたやうに、「追放者」の中にも動きがすくない。メンタルには充分にうごいて舞台のそとの過去と未来をほのぼのにほはせてゐるのだが、舞台の人物が動かずにゐることは誠にはがゆい。アイルランドの劇作家たちがみんなイプセンに学ぶところがあつたやうに、ジヨイスの作にもすこしばかり北欧の影は見えるけれど、その青い光やつよい息吹は感じられず、ただ頼りない物思ひのジエスチユアがあるだけである。恐らく宮本武蔵も剣のほかの道には拙ないものがあつたのであらう。一九一八年に「追放者」が出版されて、一九一四年に出た短篇集「ダブリンの人たち」よりも後のものである。このえらい作家のあまり秀れてゐない作品をみることも興味深いものと思つて私はこの本を読みかへした。それは靄のある大きな海のような気分のものでもある。ただ一人でひそひそと暮らす人間の心はひそひそと曲りくねつてゐるのであらう、私はひそひそとこの本のことを考へて、一人でおもしろがつてゐる。
いま私が考へるのは、ジヨイスがその沢山の作品をまだ一つも書かず、古詩の訳など試みてゐた時分、シングがまだ一つの戯曲も書かず、アラン群島の一つの島に波をながめて暮してゐた時分、グレゴリイが自分の領内の農民の家々をたづねて古い民謡や英雄の伝説を拾ひあつめてゐた時分、先輩イエーツがやうやく「ウシインのさすらひ」の詩を出版した時分、つまりかれら天才作家たちの夢がほのぼのと熱して来たころの希望時代のことを考へる。世界大戦はまだをはらぬ二十世紀の朝わが国は大正の代の春豊かな時代であつた。世は裕かで、貴族でもない労働者でもない中流階級の私たちは、帝劇に梅蘭芳の芝居を見たり、街でコーヒーを飲んだりして、太平の世に桜をかざして生きてゐたのである。大きな時間のギヤツプを超えて今と昔を考へて、まとまらない自分の心を一首の歌に托してみる。
花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に
惜しむのは季節の花ばかりではない、人間の青春ばかりではない。この古歌の中にある「花の色」のすべてを悲しみなつかしむのである。むかしの貴婦人は何とかしこくも短かくも詠み得たのであらう。第三句四句五句のたつた十九字でその歎きを一ぱいに詠つてゐるのである。
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山間の寂しい村には、秋が早くきました。一時、木々の葉が紅葉して、さながら火の燃えついたように美しかったのもつかの間であって、身をきるようなあらしのたびに、山はやせ、やがて、その後にやってくる、長い沈黙の冬に移らんとしていたのです。そこにあった、みすぼらしい小学校へは、遠く隣村から通ってくる年老った先生がありました。日の長い夏のころは、さほどでもなかったが、じきに暮れかかるこのごろでは、帰りに峠を一つ越すと、もう暗くなってしまうのでした。
「先生、天気が変わりそうです。早くお帰りなさらないといけません。」
少年小使いの小田賢一は、いったのでした。子供たちは、すべて去ってしまって、学校の中は、空き家にも等しかったのです。教員室には、老先生が、ただ一人残って、机の上をかたづけていられました。
「小田くん、すこし、漢文を見てあげよう。用がすんだら、ここにきたまえ。」と、老先生は、いわれた。
「先生、しかし、あらしになりそうです。また暗くなって、お帰りにお困りですから。」と、小田は、遠慮したのでした。
彼は、この小学校を卒業したのだけれど、家が貧しくて、その上の学校へは、もとより上がることができなく、小使いに雇われたのでした。そして、夜は、この学校に泊まって、留守番をしていました。雪がたくさんに積もると、老先生も、冬の間だけ、学校に寄宿されることもありました。
先生は、小田が忠実であって、信用のおける人物であることは、とうから見ていられたので、彼に、学問をさしたら、ますます善い人間になると思われたから、このごろ、暇のあるときは、わざわざ残って「孝経」を教えていられたのです。
ぱらぱらといって、落ち葉が、風に飛ばされてきて、窓のガラス戸に当たる音がしていました。
「子曰夫孝天之経也。地之義也。民之行也。――この経は、サダマリというのだ。そして、義は、ここでは道理という意味であって、民は即ち人、行はこれをツトメというのだ。」と、老先生は、教えていられました。賢一は、頭を垂れて、書物の上を見つめて、先生のおっしゃることを、よく心に銘じてきいていました。
やがて、講義が終わると、先生は、眼鏡ごしに、小田を見ていられたが、
「時に小田くん、君はたしか三男であったな。」と、きかれた。
「はい、そうです。」
「べつに、農を助ける人でないようだな。それなら、東京へ出て働いてみないか。いや、みだりに都会へゆけとすすめるのでない。」と、先生は、おっしゃられた。
「先生、私はまだそんなことを考えたことがございません。」
「いや、それにちがいない。どこも就職難は同じい。ことに都会はなおさらだときいている。それを、こういうのも、じつは、昔、私の教えた子で、山本という感心な少年があった。父親は、怠け者で、その子の教育ができないために、行商にきた人にくれたのが、いま一人前の男となって、都会で相当な店を出している。このあいだから、だれか信用のおける小僧さんをさがしてくれと、私のところへ頼んできているのだが、どうだな、苦労もしてきた主人だから、ゆけばきっと、君のためになるとは思うが。」と、先生は、いわれたのでした。
「今夜、ひとつよく考えてみます。」と、賢一ははっきりと答えた。
先生は、帰る仕度をなされた。彼は、途中まで先生を送ったのです。
橋を渡ると、水がさらさらといって、岩に激して、白く砕けていました。ところどころにある、つたうるしが真っ赤になっていました。なんの鳥か、人の話し声と足音に驚いて、こちらの岸から、飛びたって、かなたの岸のしげみに隠れた。彼は、先生と別れてから、独り峠の上に立ちました。まだそこだけは明るく、あわただしく松林の頭を越えて、海の方へ雲の駆けてゆくのがながめられたのでした。
その夜、小使い室の障子の破れから、冷たい風が吹き込んできました。賢一は常のごとくまくらに頭をつけたけれど、ぐっすりとすぐに眠りに陥ることができなかった。
「都会が、いたずらに華美であり、浮薄であることを知らぬのでない。自分は、かつて都会をあこがれはしなかった。けれど、立身の機会は、つかまなければならぬ。世の中へ出るには、ただあせってもだめだ。けれど、また機会というものがある。藤本先生は、私に、機会を与えてくださったのだ。先生のお言葉に従って、ゆくことにしよう。」と、思ったのでした。
晩方から、変わりそうに見えた空は、夜中から、ついに、はげしいしぐれとなりました。彼は、朝早く起きて、学校の中のそうじをきれいにすましました。そして、囲炉裏に火を起こして、鉄瓶をかけて、先生たちがいらしたら、お茶をあげる用意をしました。そのうち、もう生徒たちがやってきました。やがて、いつものごとく授業が始まりました。
休みの時間に、彼は、老先生の前へいって、東京へ出る、決心をしたことを告げると、
「君がいってくれたら、山本くんも喜ぶだろう。ただ注意することは、第一に、なにごとも忍耐だ。つぎに、男子というものは、心に思ったことは、はきはきと返事をすることを忘れてはならぬ。これは、使われるものの心得おくべきことだ。」といわれたのでした。
賢一は、老先生のお言葉をありがたく思いました。そして、この温情深い先生の膝下から、遠く離れるのを、心のうちで、どんなにさびしく思ったかしれません。
こうして、彼は、ついに東京の人となりました。
きた当座は、自転車に乗るけいこを付近の空き地にいって、することにしました。また、電話をかけることを習いました。まだ田舎にいて、経験がなかったからです。山本薪炭商の主人は、先生からきいたごとく、さすがに苦労をしてきた人だけあって、はじめて田舎から出てきた賢一のめんどうをよくみてくれました。薪や炭や、石炭を生産地から直接輸入して、その卸や、小売りをしているので、あるときは、駅に到着した荷物の上げ下ろしを監督したり、またリヤカーに積んで、小売り先へ運ぶこともあれば、日に幾たびとなく自転車につけて、得意先に届けなければならぬこともありました。
彼は、自転車のけいこをしながら、いつか空き地に遊んでいる近所の子供たちと仲良しになりました。子供を好きな彼は、そこに田舎の子と都会の子と、なんら純情において、差別のあるのを見いださなかったのでした。
「お兄さん、上手に乗れるようになったのね。」と、女の子や、男の子らは、彼の周囲に集まってきていいました。
賢一は、こうした子供たちを見るにつけ、もはや、ときどきは、しぐれと混じって降るであろう故郷の村に、毎日学校へ集まってくる親しみ深い生徒らの姿を目に浮かべました。「こちらは、こんなにいい天気だのになあ。」と、同じ太陽でありながら、その地方によって、与える恵慈の相違を考えずにはいられなかったのです。彼は、藤本先生にも、
「こちらへきて、幸福の一つは、晴れわたった青い空を見られることですが、それにつけ、いっそう、あのさびしい山国で、働く人たちのことを思います。」と、書いたのでありました。
ある日、彼は、往来のはげしいにぎやかな道を自転車に乗って走っていました。このとき、横あいから前に出た老人があったが、ふいのことであり、彼は、この老人を傷つけまいとの一念から、とっさにハンドルをまわしたので、おりから疾走してきた自動車に触れて、はねとばされたのでした。
彼は、直ちに病院へかつぎ込まれました。傷は幸いに脚の挫折だけであって、ほかはたいしたことがなく、もとより生命に関するほどではなかったのです。主人はそれ以来、日に幾たびとなく、病院に彼をみまいました。
「今日は、気分はどんなだね。」と、たずねました。
賢一は、痛ましくも、頭から足先まで、白いほうたいをして、横になっていました。
「だいぶん、痛みがとれました。」と、彼は、答えた。
「まあ、たいしたけがでなくてよかった。なにしろ、東京では、日に幾人ということなく、自動車や、トラックの犠牲となっているから、この後も、よく気をつけなければならない。それに較べると、田舎は、安心して道が歩けるし、しぜん人の気持ちも、のんびりとしているのだね。」と、主人は、いいました。
「そうだと思います。しかし、私の不注意から、ご心配をかけましてすみません。」
「君は、おばあさんをかばおうとしたばかりに、自分がけがをしたという話だが、私は、君の誠実に感心するよ。」
「あのときは、ただ老人をひいてはたいへんだという心だけで、ほかのものが目に入らなかったのです。」
こういって、賢一は、まことに危険だった当時を追想しました。
「君がきてくれて、私は、いい協力者ができたと思っている。人は、たくさんあっても、信用のおける人というものは、存外少ないものだ。」と、いって、主人は賢一をはげましてくれました。賢一は、ただ、その厚情に感謝しました。彼は負傷したことを故郷の親にも、老先生にも知らさなかったのです。孝経の中に身体髪膚受之父母。不敢毀傷孝之始也。と、いってあった。
彼は、自分の未だ至らぬのを心の中で、悔いたのでありました。
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去る五月の中旬、大和の榛原町に行つた時、同町字足立といふ部落が、鬼筋だといふ説について、土地の人に尋ねて見たところが、昔こゝに安達ヶ原の鬼婆々が居つたといふ話があると教へてくれた。奧州安達ヶ原から、鬼婆々は同じ地名の縁故で、こゝまでも飛んで行つたのだ。武藏の足立郡にも、同じ話のあることが、古い地誌に見えて居る。豐前企救郡の足立村にも、同じ説があるといふ。
鬼婆々の話の元は、安達ヶ原の黒塚のあるじが鬼であつて、旅人を取つて喰つたといふのであるが、更に其話の火元は、かの平兼盛の歌の、「みちのくの、安達ヶ原の黒塚に、鬼こもれりといふは誠か」といふ歌だ。而も其の歌は、其の詞書きによると、みちの國名取の郡黒塚といふ所に、源重之の妾が大勢居るといふ噂を聞いて、其の妾を鬼に見立てゝ、からかつたに過ぎないので、安達ヶ原ではなかつたのだ。安達ヶ原は、鬼と言はんが爲の言葉の遊戯に外ならぬ。本當の黒塚は、今の仙臺在秋保温泉のあたりにあつた。大和物語に、「名取の御湯といふことを、常忠の君の女の讀みたると云ふなむ、これ黒塚のあるじなりける」とある。
それが本當の安達ヶ原の鬼の話になり、武藏までも、大和までも、更に豊前までも飛んで行く。恐ろしこ事だ。(喜)
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どんどんガソリンの値段が上がります
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あそこにもそんな奴が1人居た
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私がどんなに質屋の世話になつたかといふ事は、これまで、小説に、随筆に、既にしばしば書いたことである。だが、私だとても、あの暖簾を単独でくぐるやうになる迄には、余程の決心を要した。私が友人を介して質屋の世話になり始めてから、友人なしに私一人でそこの敷居をまたぐやうになつた迄には、少なくとも二年の月日がかかつた。
それは私が二十四歳の秋の末のことであつた。その秋の初の頃、私の出世を待ち兼ねて、私の母が長い間居候をしてゐた大和の知合の家に別れを告げて私を便つて上京して来たのであるが、当時私はただ一文の収入の方法も知らなかつたのであるが、仕様がないので、取敢ず本郷区西片町に小さな借家を見つけて、母と二人で暮しはじめた。さうして私は中学校の国語、漢文、英語等の教科書の註釈本の仕事をしてゐる人に頼んで、その下仕事をさしてもらふやうになつた事まではよかつたのであるが、幾ら私が精出しても、その人が報酬をくれないのである。いや、あの原稿は大分誤謬が多いので、私が今訂正中だとか、いや、本屋の主人が今旅行中で留守だとか、いや、昨日までの本屋は失敗して夜逃げしたとか、――それで、私は三ヶ月の間に、一度金十円もらつたことがある切りだつた。当時私の母は五十歳であつたが、五十年の間に彼女はその時私たちが陥つたやうな貧乏な境涯の経験は初めてであつたに違ひない。彼女は月末の言訳に困る時、少女の泣顔のやうな表情をした。が、私にして見ると、全然あてがない訳ではなかつたから、もう三日、もう五日と彼女に約束するのであるが、註釈本の親方が一向その約束を守らないので、しぜん母が勘定取に対する約束も間違つて来るのである。彼女は、「もう国の方から為替を出したといつて来たんですが、まだ参りませんので、もう今日にも届くだらうと思ひますから、」などといふ、私が教へた口実にも、直ぐに窮してしまつて、茶の間の隅で小鳥のやうに震へてゐた。実際、あの頃の、玄関の明くベルの音に対する恐怖は、その後長い間私の記憶に止まつて、どんなベルの音にも、私は聞く度にはツとしたものである。恐らく彼女もさうであつたに違ひない。
その頃には、私も彼女に、彼女が私の長い学校生活の間に送つてくれたもので、質屋に入れて失つてしまつたものがあることは、すつかり打明けてゐた。が、それ等はみな私自身の手ではなく友人を通じて質屋の世話になつたものであつた。――或る日、私は彼女と火鉢に差向ひに坐つてゐた。その頃は、私には彼女と二人で差向ひになることが非常な苦痛であり恐怖であつた。私たちはなるべく二人切りにならないやうに、二人になつてもなるべく口をきかないやうに、出来るだけ張り合つて、顔を見合したら睥み合ふやうにして暮してゐた。心の中で、私は彼女に、あなたがこんなに突然出て来るものだから、こんな貧乏な目を見なければならないのだ、然し、私だつて遊んでる訳ではない、あなたの見てゐる通りあんなに仕事をしたのに不都合なのは先方で金をくれないことなんです、私が悪いせゐぢやアない、と云ひたかつた。また彼女は私に、自分はこんなに長年の間苦労して待つてゐた甲斐もなく、お前は私に楽みを与へてくれるどころか、毎日の食べることにさへ、年とつてからこんなに苦労をかけられるとは! と云ひたかつた。――こんな風に、互に相手をなるべく悪く思つて、さう思つて気を張りつめることに依つて暮してゐた。私の方で、自分が不甲斐ない為めに、年取つたこの人に苦労をさせるとか、母の方で、この子も随分苦労をしてゐるらしいんだが、それがうまく行かないのだから、無理もない、まだ世間馴れないんだからとか、そんな風に同情し合つたら最後、私たちはわツと泣いてしまはねばならなかつたからだ。
が、或る日、どちらから云ひ出したともなく、母の着物を、例の註釈本の親方が金をくれる迄、一時質屋に入れて都合しようといふことになつた。年とつても、女が着物に愛着を感じる心持には変りはないと見える。それを現すまいと努めながら、彼女が押入を明けて、貧弱な柳行李の中からひろげた縞の風呂敷の上に、着物や羽織を一枚一枚と重ねてのせて行く姿を、私は見るに堪へられなかつた。が、最後にそれを調べる時、私は遠慮して「これは残しておきませう、これは入るでせう、」などと云ふと、「いえ、もうこんなものは入りやへん。その代り、この方は今度お金が出来たとき出してくれたらええ、」などと母らしい優しさでいふ。さうして、「お前、お前のやうな男が、そんなところへ行くのは何やから、私、私がそのお友達に連れて行つてもらつて、持つて行つて来ます、」と云つたところで、「いえ、かまひません、僕の方が矢張り都合がいいでせう、友達の手前も。それに、あなた、あなたはお耳も遠いんですから……」と云つて、私は手早く、風呂敷包を抱へて、大急ぎで玄関の方へ歩いて行きながら、泣けて困つた。
質屋が林町で、友人が千駄木町にゐた。私は、その朝の、縞の風呂敷包を抱へて、これで一時を逃れられるといふ安心と、たうとう母の着物を質屋に持つて行くといふ悲しさとで胸を一ぱいにふくらませながら、第一高等学校の横手を、今の電車通の裏町の筋を、とぼとぼと歩いて行つた私自身の姿を、第三者として見たやうに、今も尚思ひ出すことが出来るのである。その時、友人に連れられて林町の高山といふ質屋の暖簾をくぐつたのが、これから私がしようとする因縁話の始まりなのである。
私を紹介した友人の布施が、その質屋の番頭たちと、そんな風に交際し馴れてゐたためであらうか、私も行つた日から、その店に坐つてゐる三四人の、いづれも私と同年輩位の中番頭たちと、友達のやうな言葉づかひで応対した、「これや、これ以上奮発出来ないよ、」「駄目かね、もう一円位出せないかね、」「それや無理だよ、」などと。かと思ふと、私がその後一人でしばしばその店の暖簾をくぐるやうになつてからのこと、それ等の中番頭たちが「布施さんはどうしてる、この頃少し景気がいいのか、ちつとも顔を見せないよ、」などと云つた。「岩崎君は来ない、」と私が聞くと、「昨日来たよ。傘と下駄を持つて来たよ。岩崎さんもあの細君と一緒のうちは駄目だね、うだつが上らないね、」などと、彼等自身の友達の噂でもするやうに彼等は云つた。
考へて見ると、さういふ質屋の番頭などといふ、私自身とは境遇の違つた者たちのことであつたから、年ふけて見えたのであらうが、彼等は当時の私たちより四五歳も若く、二十歳前後に違ひなかつた。仕舞には、宗吉といふ十三四歳の小僧までが「やあ、大分来なかつたな、」などと、私に向つて対等に物云ひかけた。この宗吉は、又、毎月の二十五日頃になると、鼠色の封筒に、私の名を宛てた書状を配達して来た。いふまでもなく、それは質物の流れの期日を警告したもので、いやなら、来月三日までに利息を入れてくれ、と断り書きした書状である。私はしばしば彼を止めて、「君、これから布施君のところへも廻るだらう、」と私は云つた、「もし布施君のところへ行つて、会つたら、今夜暇なら遊びに来いと云つてくれないか、」と、彼は、「布施さんのとこには今度はないよ、」などと答へた。――
どういふ訳か、私はそれ等の番頭小僧たちに贔屓にされた。それは多分その中の誰かがそんなことを云ひ出して、みんながそれに雷同したものであらうか。というのは、彼等は、私にはどこか見どころがあると異口同音に云ふのである、今に私は出世するだらうといふのである。だから、主人が店にゐない時で、僅な値段が折合はない時など、「ぢやア、ね、斯うし給へ。これはこれで二円五十銭、それより駄目だよ。二円五十銭でも、きつと高いと親爺からお目玉を喰ふに極つてゐるんだから。それで、別に一円だけ僕が貸さう。その代り、一円の方はこの月末までに僕に内所で返してくれ給へ、利息は入らんから、」などといふやうな恩典に私はしばしば浴した。
だが、それ等の話は既に十年から四五年前にかけてのことである。四五年前には、私が初めてその家の暖簾をくぐつた頃にゐた中の何人かは、或る者は放蕩の為めにお払箱になつたり、また或る者は店を分けてもらつて余所で質屋を始めてゐたり、或ひは徴兵検査と共に国に帰つて、国で質屋を始めたりといふやうな次第で、大分馴染の顔が少なくなつてゐたが、どんな新来のものでも、その店では私にはみんな昔からの顔馴染の如く応対した。今でも、私は全然足を絶つた訳ではないが、此頃はほんの三ヶ月に一度か、半年に一度位その店に顔を出す事がある。今はすつかり昔の顔触れが見えなくなつて、その昔の小僧の宗吉が、その家の一番番頭にまで昇進してゐるのである。
私がここで語らうと思ふのは、その宗吉のことで、彼は此頃めつきり大人になつて、たまに私が行つても、昔の面影はなくなつて、「やア、どうも暫くでございました、」とか、「益々お盛んのやうでございますな、」などと、四角張つた挨拶をするのである。私は、それに対して、昔の調子を取戻すつもりで、わざと、「やア、宗どん、いつの間に毛を延ばしたんだい、こてこて光らしてるな。なる程、蜻蛉とはよくいつたものだな、」と云つても、「ヘヽヽヽ、恐れ入ります、」と答へ、「こいつはちよつと家に知らせられない物だから、利息の期日が来ても、例の鼠色の封筒で知らしてくれちやア困るよ。いい時分に僕が払ひに来るから、」などと云つても、「へえ、かしこまりました。先生、なかなかお安くありませんな、」といつたやうな調子で、少しも寛がないのである。
その宗吉が、最近突然私の家の玄関に現れて、取次に出た女中に一通の手紙を渡して行つたのである。それは鼠色の代りに、女学生の使ふやうな、水色の西洋封筒で、開いて見ると、「尊敬する宇野先生」と書き出してある。私は人違ひではないかと思つて、改めて封筒の差出人を調べて見たが、間違ひなく「高山内、金井宗吉」と認めてある。いふには、彼は、子供の頃から文学が好きで、自然、昔から私が好きであつた、自分はどうかして一生文学と別れたくないと思つてゐる、就いては一度先生にああいふ店先でなく、お目にかかつてお話を伺ひたいと思ふ、で、何度も何度も躊躇した末でやつと思ひ切つてこの手紙を書いたが、書いてからも、店の用で使に出る度に、これを私の家に届ける段になつて、これで三度目の決心の末であるといふのである。さうして最後に自分が近頃書いたものが少しばかりある。今度一度お目にかけるから、批評していただけないだらうか、と結んであつた。その用紙は、近頃よく町の文房具屋の店頭で見かける、草花などをその片隅に印刷した書簡筆で、丁寧な書体で書かれてあつた。多分、私が筆者宗吉の身分を知らなければ、世間一般の幼稚な文学青年の手紙の一つと見過ごしたであらう。が、それの出し手が宗吉であるだけに、私は甚だくすぐつたい思ひと共に、一種の感慨に打たれない訳に行かなかつた。
が、私はそれについ返事を出し後れたのであるが、それから一週間ほど後の或る日、突然宗吉の訪問を受けた。彼は店頭で見るよりも一層堅くなつてゐた。
「そんなに堅くなるなよ、」と私はわざと昔馴染の言ひ方でいつた、「いつ頃から文学をやつてるんだい!」
「ええ、いつつてこともありませんが、」と宗吉は恥かしさうに子供のやうな恰好をして云つた。まつたく一枚の質物の古着を前に置いて首を傾けてゐる時の彼と何といふ相違であらう。
「で、原稿持つて来たのかい?」
「ええ、」と宗吉は、今度はわりに躊躇しないで、懐中から大切さうに二三種の原稿らしいものを取り出した。そのうちの二つは謄写版刷りの同人雑誌に出てゐるものであつた。署名には「金井宗」とあつて「吉」の字を省いてあつた。三つとも短いものだつたから、私は彼の目の前で、多少の興味を以つて、読んで見た。が、それは私の予期の反対のものであつた。
いふのは、文章は有島武郎を下手に真似たやうな、四角張つたもので、その代り悪く整つてはゐるのだが、内容は或る大学生がその下宿してゐる娘との恋を書いたものとか或ひは新思想の女学生が駈落をしようと決心する心理を書いたものとか、等、甚だ無味な空虚なものであつた。
「これは、君、いかんよ、」と、私はつい大真面目になつて云つた。「こんな事を書く暇に、もつと正直に自分の見たものを、」と私は火鉢の中の煙草の吹殻を取上げて、「たとへば材料はどんなつまらないもの、――こんな煙草の吹殻でもいいんだ。それを自分が見て、自分が感じた通りに書くんだ。」
「はア、はア、」と宗吉は膝の上に手を置いて、かしこまつて聞いてゐた。彼のてかてか光らして分けた頭の具合や、然しどう見ても矢張り質屋の番頭らしい着物や体の様子が、変に堅くなつて学生のやうに坐つてゐるのが、私に何ともいへぬ気の毒さが感じられた。恐らく彼は今私に見せた彼の小説に書いてあるやうな生活に、却ち質屋の番頭などに甚だ縁の遠い生活に、憬れてゐるのに違ひなかつた。現に、彼のもう一つの小説には、中学生が毎日学校へ行く途で見る女学生に恋をして成功する筋が書いてあつた。
「たとへば、わざわざこんな君自身の暮しとは縁の遠いものを書かないで、」と私は妙にむきになつてつづけた。
「現に、君が毎日あの店の格子の中に坐つてゐる間に見たこととか、遭つたこととかを、そのまま飾らずに書いて見給へ。文章なども、こんな変な、滅多に使はないやうな言葉でなしに、なるべく君の不断使つてゐる言葉を工夫して書く方がいいんだよ。」
すると、その時宗吉は、忽ち彼が帳場格子の中に坐つてゐる時の態度を思ひ出させるやうな恰好で頭の後に片手を上げながら、「その、さういふ事を書いてあるのもあるにはあるんですが、」と云ひにくさうに、「そんなのはいけないと思ひまして……」
「どうしてそんなのがいけないと思つたんだ。今度ついでがあつたら、その方を見せ給へ。」
「ええ、」と彼は益々いひにくさうにして、「ですけど、先生、その方だと、先生や、広津先生やが出て来ますので……」
これは、この最後の落し話のやうな句を書く為めに書いたのでは勿論ない。唯、十年前の小僧の宗吉が文学青年になつて、十年前の最も低級な客であつた私のところへ原稿を持つて来るやうになつた顛末を、書いて見ようとしたまでのことである。さうして、これは今からまだ一週間ほど前のことであるから、宗吉の後日談に就いては、未だ書くべき材料を私は経験してゐないのである。
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月の光に送られて、一人、山の裾を、町はづれの大川の岸へ出た。
同じ其の光ながら、山の樹立と水の流れと、蒼く、白く、薄りと色が分れて、一ツを離れると、一ツが迎へる。影法師も露に濡れて――此の時は夏帽子も單衣の袖も、うつとりとした姿で、俯向いて、土手の草のすら〳〵と、瀬の音に搖れるやうな風情を視めながら、片側、山に沿ふ空屋の前を寂しく歩行いた。
以前は、此の邊の樣子もこんなでは無かつた。恁う涼風の立つ時分でも、團扇を片手に、手拭を提げなどして、派手な浴衣が、もつと川上あたりまで、岸をちらほら徜徉ついたものである。
秋にも成ると、山遊びをする町の男女が、ぞろ〳〵續いて、坂へ掛り口の、此處にあつた酒屋で、吹筒、瓢などに地酒の澄んだのを詰めたもので。……軒も門も傾いて、破廂を漏る月影に掛棄てた、杉の葉が、現に梟の巣のやうに、がさ〳〵と釣下つて、其の古びた状は、大津繪の奴が置忘れた大鳥毛のやうにも見える。
「狐狸の棲家と云ふのだ、相馬の古御所、いや〳〵、酒に縁のある處は酒顛童子の物置です、此は……」
渠は立停まつて、露は、しとゞ置きながら水の涸れた磧の如き、ごつ〳〵と石を並べたのが、引傾いで危なツかしい大屋根を、杉の葉越の峰の下にひとり視めて、
「店賃の言譯ばかり研究をして居ないで、一生に一度は自分の住む家を買へ。其も東京で出來なかつたら、故郷に住居を求めるやうに、是非恰好なのを心懸ける、と今朝も從姊が言ふから、いや、何う仕まして、とつい眞面目に云つて叩頭をしたつけ。人間然うした場合には、實際、謙遜の美徳を顯す。
其もお値段によりけり……川向うに二三軒ある空屋なぞは、一寸お紙幣が一束ぐらゐな處で手に入る、と云つて居た。家なんざ買ふものとも、買へるものとも、てんで分別に成らないのだから、空耳を走らかしたばかりだつたが、……成程。名所※(「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」)繪の家並を、ぼろ〳〵に蟲の蝕つたと云ふ形の此處なんです。
此れなら、一生涯に一度ぐらゐ買へまいとも限らない。其のかはり武者修行に退治られます。此を見懸けたのは難有い。子を見る事親に如かずだつて、其の兩親も何にもないから、私を見る事從姊に如かずだ。」
と苦笑をして又俯向いた……フと氣が付くと、川風に手尖の冷いばかり、ぐつしより濡らした新しい、白い手巾に――闇夜だと橋の向うからは、近頃聞えた寂しい處、卯辰山の麓を通る、陰火、人魂の類と見て驚かう。青い薄で引結んで、螢を包んで提げて居た。
渠は後を振向いた。
最う、角の其の酒屋に隔てられて、此處からは見えないが、山へ昇る坂下に、崖を絞る清水があつて、手桶に受けて、眞桑、西瓜などを冷す水茶屋が二軒ばかりあつた……其も十年一昔に成る。其の茶屋あとの空地を見ると、人の丈よりも高く八重葎して、末の白露、清水の流れに、螢は、網の目に眞蒼な浪を浴びせて、はら〳〵と崖の樹の下の、漆の如き蔭を飛ぶのであつた。
此から歸る從姊の内へ土産に、と思つて、つい、あの、二軒茶屋の跡で取つて來たんだが、待てよ……考へて見ると、是は此の土地では珍らしくも何ともない。
「出はじめなら知らず……最うこれ今頃は小兒でも玩弄にして澤山に成つた時分だ。東京に居て、京都の藝妓に、石山寺の螢を贈られて、其處等露草を探して歩行いて、朝晩井戸の水の霧を吹くと云ふ了簡だと違ふんです……矢張り故郷の事を忘れた所爲だ、なんぞと又厭味を言はれてははじまりません。放す事だ。」
と然う思つて、落すやうに、川べりに手巾の濡れたのを、はらりと解いた。
ふツくり蒼く、露が滲んだやうに、其の手巾の白いのを透して、土手の草が淺緑に美しく透いたと思ふと、三ツ五ツ、上﨟が額に描いた黛のやうな姿が映つて、すら〳〵と彼方此方光を曳いた。
颯と、吹添ふ蒼水の香の風に連れて、流の上へそれたのは、卯の花縅の鎧着た冥界の軍兵が、弗ツと射出す幻の矢が飛ぶやうで、川の半ばで、白く消える。
ずぶ濡の、一所に包んだ草の葉に、弱々と成つて、其のまゝ縋着いたのもあつたから、手巾は其なりに土手に棄てて身を起した。
が、丁度一本の古い槐の下で。
此の樹の蔭から、すらりと向うへ、隈なき白銀の夜に、雪のやうな橋が、瑠璃色の流の上を、恰も月を投掛けた長き玉章の風情に架る。
欄干の横木が、水の響きで、光に搖れて、袂に吹きかゝるやうに、薄黒く二ツ三ツ彳むのみ、四邊に人影は一ツもなかつた。
やがて、十二時に近からう。
耳に馴れた瀬の音が、一時ざツと高い。
「……螢だ、それ露蟲を捉へるわと、よく小兒の内、橋を渡つたつけ。此の槐が可恐かつた……」
時々梢から、(赤茶釜)と云ふのが出る。目も鼻も無い、赤剥げの、のつぺらぽう、三尺ばかりの長い顏で、敢て口と云ふも見えぬ癖に、何處かでゲラ〳〵と嘲笑ふ……正體は小兒ほどある大きな梟。あの嘴で丹念に、這奴我が胸、我が腹の毛を殘りなく毮り取つて、赤裸にした處を、いきみをくれて、ぬぺらと出して、葉隱れに……へたばる人間をぎろりと睨んで、噴飯す由。
形は大なる梟ながら、性は魔ものとしてある。
其の樹の下を通りがかりに、影は映しても光を漏らさず、枝は鬼のやうな腕を伸ばした、眞黒な其の梢を仰いだ。
「今も居るか、赤茶釜。」と思ふのが、つい聲に成つて口へ出た。
「ホウ。」
と唐突に茂の中から、宛然應答を期して居たものの如く、何か鳴いた。
思はず、肩から水を浴びたやうに慄然としたが、聲を續けて鳴出したのは梟であつた。
唯知れても、鳴くと云ふより、上から吠下ろして凄じい。
渠は身動きもしないで立窘んで、
「提灯か、あゝ。」
と呟いて一ツ溜息する。……橋詰から打向ふ眞直な前途は、土塀の續いた場末の屋敷町で、門の軒もまばらだけれども、其でも兩側は家續き……
で、町は便なく、すうと月夜に空へ浮く。上から覗いて、山の崖が處々で松の姿を楔に入れて、づツしりと壓へて居る。……然うでないと、あの梟が唱へる呪文を聞け、寢鎭つた恁うした町は、ふは〳〵と活きて動く、鮮麗な銀河に吸取られようも計られぬ。
其の町の、奧を透かす處に、誂へたやうな赤茶釜が、何處かの廂を覗いて、宙にぼツとして掛つた。
面の長さは三尺ばかり、頤の痩た眉間尺の大額、ぬつと出て、薄霧に包まれた不氣味なのは、よく見ると、軒に打つた秋祭の提灯で、一軒取込むのを忘れたのであらう、寂寞した侍町に唯一箇。
其が、消え殘つた。頓て盡きがたの蝋燭に、ひく〳〵と呼吸をする。
其處へ、魂を吹込んだか、凝と視るうち、老槐の梟は、はたと忘れたやうに鳴止んだのである。
「あゝ、毘沙門樣の祭禮だな。」
而して、其の提灯の顋に、凄まじい影の蠢くのは、葉やら、何やら、べた〳〵と赤く蒼く塗つた中に、眞黒にのたくらしたのは大きな蜈蚣で、此は、其の宮のおつかはしめだと云ふのを豫て聞いた。……
| 0.506
|
Medium
| 0.644
| 0.247
| 0.035
| 0.917
| 2,851
|
よく悪夢を見ます。
| 0.124222
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Easy
| 0.099378
| 0.1118
| 0.086956
| 0.074533
| 9
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人道主義者ロマン・ロオランはまた民衆劇運動の唱道者である。その著書『民衆劇論』はなかなか傾聴すべき議論であつて、当時一部の活動家を刺戟して、危くソフォクレスの時代を夢想せしめたことは事実である。
しかも彼れロオランは、例によつて、一理論家たるに甘んぜず、名著『ジャン・クリストフ』を編んだ如く、こゝにまた近代悲劇数篇を綴つて普ねく世に問うたのである。
此の『狼』はその一つ。
わが築地小劇場は、在来の貴族的乃至ブウルジュワ的芸術を排して「民衆の為めに、民衆によつて」創造せらるべき「芸術」を探究しようとしてゐるらしい。殊に、この新しき芸術は、必ずしも芸術と叫ばれなくてもいゝ。「芸術に代るもの」であつてもいゝとさへ同劇場の首脳は考へてゐるらしい(此の一項は僕一個の解釈である)。芸術と云ふ言葉は既にあまりに貴族的であり、ブウルジュワ的であると云ふのではなからうか。
此のプリンシプルから生れた築地小劇場の事業は、正に刮目に値するものである。何となれば、芸術としての演劇は、やがて、われわれの眼前に新しき表現を以て提示せられ、今日われわれの「夢みつゝある舞台」は、その傍に於ては、小さく、醜く、愚かなるものとなつて、識者の憫笑を買ふに過ぎないものとなり終るであらうから。
僕は、同劇場の第一回公演を観て、聊か卑見を述べて置いた(『新演芸』七月号)。その後、偶々小山内、土方両氏の弁明を聴く機会を得、その結果、僕は今後、築地小劇場とたゞ一点に於て、最も重大なる一点に於て異つた立場にあるべきことを気づいたのである。
なぜ、重大であるか。それは、演劇の本質問題に触れてゐるからである。
「戯曲の価値と演劇の価値とは全然別物である」――「従つて、演劇の価値を戯曲の価値によつて批判してはならない」――「戯曲は文学である。演劇は文学ではない」――かういふ議論が出た。
僕は答へる。――「戯曲の価値は演劇の価値を根本的に左右するものである」――「平凡な戯曲が演劇として、即ち、上演の結果、或る程度まで救はれることがある。然し戯曲の平凡さが演劇の効果を傷けることに於て少しも変りはない」――「演劇の価値を戯曲の価値のみによつて批判してはならない。それなら、何もいふことはない。然し、重ねて言ふ、演劇の価値は戯曲の価値によつて根本的に左右される――なぜなら、演出者が、純然たる芸術的立場より脚本を選択する以上、平凡な戯曲、愚劣なる脚本を敢て上演することは、上演者そのものゝ劇芸術に対する眼識を疑はしめるばかりでなく、かくの如き上演者が、真に優れた上演者であり得る筈はないからである」――「戯曲は文学の一部門である。それはわかつてゐる。しかし、戯曲であることをよそにして、戯曲の文学的価値を論ずるものがあつたら、それは批評家ではない。舞台的因襲に縛られた上演の効果問題は別である。現在の演出者では上演出来ないと思はれる戯曲にも、優れた戯曲があり得る。これこそ、「どうにかしなければならない戯曲」である。」――「演劇は文学ではない。勿論である。氷は水ではない。雲も水ではない。」――「詩や小説を批難する時にさへ、此の詩は、此の小説は、文学の臭ひがする、と云へないことはない。」――
此の二つの議論は、共に新しいものではなさゝうである。今日まで、欧羅巴に現はれた新劇運動の大勢に通じてゐる人は、はゝあ、それぞれやつてゐるなと思ふだらう。全くその通りである。こんなことでは駄目だ。机上の空論では駄目だ。その意味で築地小劇場が、一つのプリンシプルを土台として、華々しく旗挙げをした壮図に先づ敬意を表する。そして、僕は、そのプリンシプルをプリンシプルとして攻撃することを止め、着々進みつゝあるだらう処の計画の実現、一歩一歩理想に近づきつゝあるだらう処の努力の結果を見て、言ふべきことを言ふつもりである。
扨て、築地小劇場の第二回公演はどうか。前にも述べた通り、ロマン・ロオランの戯曲を此の劇場が選んだ理由は、略想像がつくのである(女優のいらない脚本として選んだといふことは、主要な理由にならない。また、したくない)。処が、その自然らしく思はれる選択方法のうちに、奇怪なる矛盾を含んでゐることを感じるものはないか。それはロマン・ロオランの戯曲が甚だ「文学」の域を脱しないものであることである。演劇から文学を排除する運動、云ひ方がわるければ、演劇をして文学より独立せしめる運動、更に言葉を換へて云へば、演劇をして最もそして純粋に、演劇たらしめる運動と目すべき築地小劇場が、戯曲と云ひ得るものゝうちで最も「文学臭味」の多い、最も「非戯曲的」な戯曲の一つを選んで上演したと言ふことである。
巧みな騎手は好んで悍馬を御する例しもあり、エキリブリストは大道を歩むより針金を渡ることを快とするかも知れない。然しながら、その心理を以て直ちに芸術家の――暫くかう呼ばして下さい――心理を計るのは無礼である。要するにロマン・ロオランの名を信じ過ぎた罪のない誤りではあるまいか。
僕の言ふ「非戯曲的」と云ふ意味は、築地小劇場のいふ「演劇」なるものゝ内容はた本質と更に関係の無いものであるかも知れない。かも知れないではない、きつとさうに違ひない。――どんなつまらない戯曲でも、一度、優れた演出者の手にかゝれば、立派な演劇になるわけである。――かう極端に論じつめなくつてもいゝ。実際、そんな筈はないのだから。――そして、実際、築地小劇場は、どの劇場にも増して、上演目録の選択に腐心してゐるのだから。――それなら、一体、どういふ戯曲があなた方の上演慾をそゝり、あなた方の目ざしてゐる「理想の演劇」に応へ得る戯曲ですか。――『海戦』のやうなものですか。『白鳥の歌』のやうなものですか。『休みの日』のやうなものですか。さては此の『狼』のやうなものですか。――その何れにも共通な、「或る本質的なもの」、さういふものを有つてゐる戯曲と答へられるでせう。――よろしい。それならば、『白鳥の歌』と『狼』とに、本質的に共通な点がありますか。戯曲としてゞすよ。
築地小劇場が、チェホフの一短篇を上演目録中に加へたことに同感ができる僕は、『狼』を加へたことに全然同感ができない。チェホフの戯曲の戯曲的価値を――所謂文学的価値ではない――認め得る人が、ロマン・ロオランの戯曲を買ふ筈はないと思ふのである。また反対に、ロマン・ロオランの戯曲に劇的価値ありと主張する人が、チェホフをその傍に並べることは頗る不合理である。これは、ロオランが好きか嫌ひかの問題ではない。
固より「新しき演劇」への第一歩である。築地小劇場が、その同人の数こそ多けれ、演劇に対する同一信条を抱いて結合してゐる以上、此の点にぬかりがあつてはならない。僕は、ひたすら、チェホフとロオランとの戯曲に、倶に含まれてゐるかも知れない「明日の演劇」の要素を、此の若い劇団の手によつて何時か示して貰ふことを期待してゐる。皮肉ではない。僕の現在もつてゐる演劇本質論は、「今日までの演劇」を基礎として、その進化の跡を辿り、消長の原因を尋ねて得た結論に過ぎないのである。
繰り返して言ふ。優れた演劇が「優れた戯曲」の「優れた演出」から生れることに異論はあるまい。然しながら、「優れた戯曲」は常に「優れた演出」を予想して書かれたものであることを忘れて欲しくない。従つて、「優れた戯曲」を選ぶことは「優れた演出」の根本要件であることを肝銘しなくてはならない。たゞこゝで、築地小劇場が、これから試みようとする「新しき演出」に、われわれのいふ「優れた戯曲」を要しないと云はれゝばそれまでゞある。それなら、その「新しき演出」の為めに必要な「優れた戯曲」とは如何なるものか、これが、問題である。興味のある問題である。
僕は、主として仏蘭西の芝居を通して、演劇の如何なるものかを学んだ。従つて、見聞は甚だ狭いわけである。然し、個人的趣味乃至民族的努力を別にして、演劇の本質的価値といふやうなものは、古今東西を通じて、それほど差異があらうとは思はれない。時代時代を劃する反動的運動の如きは、大局から見て第二義的の問題である。希臘劇の優れた劇的要素は、形と色に於てこそ別種のものであれ、シェクスピイヤの戯曲にも、ラシイヌの戯曲にも、ミュッセ、イプセン、ストリンドベリイの戯曲にも、チェホフの戯曲にも、それぞれ之を見出すことが出来ると思つてゐる。それは、優れた劇的作品のみが有する霊感の閃きである。主題と結構と文体との微妙な結合が、渾然として醸し出す雰囲気の流れである。生命のリズムである。感情の必然的飛躍である。顫慄の波である。
優れた演出とは、優れた戯曲の有する本質的価値を遺憾なく舞台上に表現することでなくて何んだ。新しき演出、結構である。たゞ、戯曲の本質的価値を無視した演出は全然「無くてもいゝもの」である。
アントワアヌ以後、欧洲の劇壇に新しき運動を齎した名ある舞台芸術家は、演劇の本質についてそれぞれ異りたる見解をもち、或るものは演伎上の写実主義に、或るものは舞台の絵画的表現に、或るものは俳優の人形化に、或るものは舞台と観覧席との障壁排除に、また或るものは舞台の様式化による観念的演出に、何れも演劇の要素を見出さうとした。而も、未だ嘗て戯曲そのものゝうちに、一切の劇的効果を求め、俳優をして、舞台装置家をして、「戯曲に奉仕する」観念を第一信条とせしめないで、真に優れた舞台芸術を創造したものがあることを聞かない。
築地小劇場の首脳は、言ふまでもなく、演劇の本質問題について一つの定見を有つてゐるに違ひない。その定見は、何等かの方法で、早晩われわれの前に提示されることであらう。それにしても、統一ある上演目録によつて先づ之を暗示しさうなものである。
かういふことは考へられないこともない。築地小劇場は民衆の為めの劇場である。故に民衆芸術の唱道者ロマン・ロオランの戯曲は、その劇的価値の優劣に拘はらず、民衆の糧となり得べき性質のものである、如何と。
万一さういふつもりなら、僕は築地小劇場に「さよなら」を言ふであらう。
いや、いや、そんな筈はない。
ロマン・ロオランの戯曲が、戯曲として本質的の欠陥を蔵し、一般のレベルから見ても平凡極まるものであることは、まあ先生の戯曲を原文で読んで見ればわかる。退屈しますよ。訳文になるとさうでもないとおつしやるのですか。それは何の証拠にもなりません。「悪いもの」ほど翻訳されると割が良いのですから。
『狼』は下らない戯曲だとする。それなら、演出はどうか。そのことについてお前はなんにも云はないな。演劇としてはどうか。それは戯曲『狼』の価値と関係はない。かう築地小劇場は云ふに相違ない。
人は何といふか知らないが、僕は一向感心しなかった。第一、それは必ずしも演出者の技倆を軽視することにならない。なぜなら、つまらない戯曲からは、つまらない演劇しか生れない道理であるから。それならば此の演出者は、どの程度まで戯曲『狼』のつまらなさを救つてゐるか。――救はうとした努力は見える。然しそれは徒労に終つてゐる。不快な比喩かも知れないが、騎手土方氏は悍馬『狼』の背に跨つてゐるといふだけである。然し、悍馬と思つた『狼』は、その実駑馬であつた。一歩進んでは止り、二歩進んでは止る。太い頸を垂れて道ばたの草を食ふ。鞭があたる。少しは痛いと見えて、尻尾をぴくんとさせる。動かない。
報告、説明、主張、咏嘆、教訓――それ以外になにもない戯曲こそ滅ぶべきである。さういふ演劇こそ「鬼に呉れてやる」べきである。
また苦情ばかり並べ立てた。云ふまでもなく、悪口の為めの悪口ではない。僕は築地小劇場の存在を心から感謝するものである。――実際、此の劇場が無かつたら、僕は、もう劇評などゝいふものをしたく無くなつてゐるだらう。
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良寛様のようなずばぬけた書を、我々如きが濫りに批評するなどは、僭越に過ぎるかも知れぬが、常々良寛様に親しみと尊敬とを持っている一人として、感ずるところを、一応述べさせて貰うことにする。
良寛様の書は質からいっても、外貌からいっても、実に稀にみるすばらしい良能の美書であって、珍しくも、正しい嘘のない姿である。いわゆる真善美を兼ね具えたものというべきであろう。かような良能の美書の生まれたのは、良寛様その人の人格が勝れて立派であったからである。書には必ず人格が反映しているもので、人格が反映していない人格以上の書の生まれ出ることなど、まずもってあり得ない。
良寛様の書は、良寛様のあの人となりにして、初めて生まれたものなのである。今一方仮りに、良寛様の人格を封じ込めておいて、単に技能的立場だけから見るとしても、良寛様の書技は大したもので、古法帖に伝わる幾多の能書に比較して更に遜色がないのみか、全く驚異に値する入神の技にまで立ち至っている。この点でも、私は深く感心させられているのである。
良寛様のには、また一点一画と雖も未熟な破綻というものがない。この点、また内容抜きで考えてみても、大天才であることを否む訳にはゆかない。誰しも、どこか一カ所や二カ所は、とかく筆の進行に破綻を来し易いものである。しかるに、良寛様の書には、隅々まで、くまなく検討してみても、それがないのみか、少しの疲れも、弱り目も見せている個所がないのである。
筆はいよいよ妙境のみを走り、人をして一々至妙、至妙と連呼させずにはおかないのである。賢さなどというものでは、とても至り得ない、実に動きのとれない至妙の境界に、その一点一画は確と打ち込まれ、不足のいいようのない組み立てが成立して、美観と構造の上に呈しているのである。ゆえに、よく有り勝ちな危な気というものがなく、安んじて鑑賞できるのである。なおまた、良寛様の書は、その時、その時の心境によって、書技のさばきがつき、自由に縦横に変化を表現し、かりそめにも膠着する処がない。
かつて皇后様の御父君であらせられる久邇宮邦彦王殿下に、用人某が殿下の数々の御墨蹟中、とりわけ法隆寺に御下賜のものがお出来栄え、一段にお見事であらせられる旨言上すると、殿下は言下に、「書はその時々で色々である」と明白に仰せられた。このお言葉は実に味わいの深い名言である。私もその座に侍し合わせて、親しくこれを承り、感激に堪えなかった次第であるが、実にすべての芸術、なんであろうとも、「その時々で色々である」ようでなければ、その作品は生きたものといわないと思うのである。技術も内容も膠着して、いつも判で捺したように、なんら変化のない死作の連続が生まれるのは、畢竟、何物に囚われて、日々新たなる心境を喪失してしまっている証拠で、芸術上の生命は根本的に奪われているといわねばならない。
これを良寛様の書に見るとき、殿下のお言葉の如く「その時々」の心境から生まれ出た気分が、素直になんの囚われもなく表現されていて、日々新たな停滞するところのない生活心情が窺われるのである。また、私の特に感心していることは、良寛様の書には、世間の坊さんのような坊さん臭さがないことである。坊さんの書というものは、とかく坊さん型にはまっているもので、大抵は一見坊さんの書であると判るのが常である。坊さんであっても坊さん型に囚われないというのは、余程の見識であると見てよいのではなかろうか。黄檗などはいうに及ばず、大徳寺の名僧たちでさえ、(春屋禅師などを除いては)殆どすべてがいわゆる僧侶型に縛られている。江月和尚の如きでさえ、大体は僧侶型を脱してはいないのである。書の善悪、美醜は別として、大宮人には大宮人型、儒者には儒者型、歌人には歌人型、俳人には俳人型というのがあって、俗にいう味噌の味噌臭さを免かれ得ないのが世間の通常である。つい、不知不識、その立場立場にかぶれるからなのであろう。すなわち、我田引水の生ずる源である。ここに引かれることなく、敢然立って芸術を理解し、大所高所より書道を見下すということは、その人の見識に、余程超邁なところがなくては出来ないことである。先ず湧泉の源を尋ね、そこに根柢を置き、自己の行く手を見出さんとする良寛の如き態度は、全く良能の革新者のみがもつ新思想のそれであって、良寛の芸術が常に蓄えている情熱のそれでもある。
この点で、西行法師の書も僧侶型ではなかった。芭蕉のも後に生まれる所の俳人型ではなかった。そういえば、秀吉の書も英雄型、武人型、将軍型などのいずれの型にもかぶれていなかった。私は良寛様が世間なみの僧侶型の跡を追う世の常の書家ではなかった見識に敬服すると同時に、良寛様が私の伯父であったら、親であったらと思うほど、深い思慕を感ずるものである。
さればといって、良寛様の書柄、すなわち形貌だけを、手先の器用で、内容をば、なに一つ持ち合わさない私が自己に移植してみたとて、結局は「声色づかい」に過ぎない、付焼刃に過ぎない。とは思うものの、良寛様の書を目前にしては、いつもその魅力に引きつけられ、殊に晩年作などを見ては、やはり「声色づかい」でも可也、真似てみたい気持で一ぱいになる。なんにしても、良寛様の書が僧侶型に囚われなかった点は、わがことのように嬉しいことである。
純真そのものである良寛様は、勢い世の常の型などに引っ掛かってはおられないで、まっしぐらに真実へ、真実へと馳せられたのであろう。しかし、良寛様とていわゆる僧侶型なるものにこそ拠られなかったにしても、好むところの書風というものがあったに相違なかろう。否、その習字に当って使用した手本があったはずである。しからば、どんな手本であったろうか。これは私の経験に徴して窺われるのであるが、良寛様の手本は相当気の利いた書と見るべきである。良寛様には唐大宗のような鋭さをもつ気の利き方もあるし、王羲之に見る非凡の形態、超俗の筆の動きなども充分認められる。すべて古法帖の検討が相当尽されているばかりでなく、見逃すべからざる長所のみに眼をつけ、それを自家薬籠中に収めて、折に触れては適宜塩梅して小売りしていられるかのようである。日本の書で、とりわけ心酔されたものに「秋萩帖」のあることは、一議に及ばぬところであろう。古い時代の高僧の書に眼を着けられていることも否み難いものがある。大徳寺の春屋禅師の書などに、ことさら興味をもたれたのではないかと思われるものがある。大雅の書なども、その真面目に書かれている「五君咏」の如き、「十便十宜」の如き、良寛様と充分に共通する点のあるところを見れば、また、その影響なしとはいい切れない。しかし、なんとしても良寛様と角力になるのは、大徳寺の春屋禅師であろう。美的価値を問う時において、殊にそう思われるのである。
更に、良寛様の書に注目されねばならぬことは、児童の稚拙なのにうかがわれる無心に等しい書の味であろう。一旦、上手になりきってしまわれた良寛様の書は、今更、子どもの稚拙な書に移ってゆくことは出来る訳のものではないが、上手の外皮に包まれている中身餡の味付けに、童心童技の盛られていることは、我々の心眼に映じて明白である。
元来、良寛様は圭角の有る人である。利かん気に充ちた人である。修養によって、もの柔らかに、穏健に、円熟にと進まれた人であろうかと思われる点が多々あるようである。それかあらぬか、時と場合では、相当権柄づくな調子を出されていることがしばしばである。対手が仏性だとこれに贈った書簡など、殆ど良寛様自身が仏になっていられるかと思われるばかりなのがある。
概して晩年の作は、もの柔らかで、温和静寂で、有難いまでにこなれ切ったものであるが、それでも時々途方もなく圭角の露われたものがあり、表面平穏の中に潜在する圭角の一端を発見して、私どもは、はっと思わされることさえある。かように、良寛様は質的に見て外柔内剛であるが、良き芸術は、大抵外柔内剛なもので、これに反しつまらない芸術は大抵また外剛内柔なものである。偶々強ければ、俗強であり、偶々健であれば俗健である。
蛇足ではあるが、今一つ私の感じ入っていることは、良寛様にはいわゆる匠気なるものがないということである。坊さんという職場など離れて、ただ、人間良寛としての身嗜みから、書道の研鑽が続けられているということである。
多くの坊さんが坊さん臭い字を書く所以は、とりもなおさず、職場を離れ得ないからである。大雅だって、芭蕉だって、江月だって、白隠だって、慈雲だって、職場を守るための書道研鑽が混合している。純粋に、人間としての身嗜みからではなさそうである。ここにおいて、俗臭は伴わざらんとしても得べからざるの結果を生み、芸術上の最高峰には達し得られないことになるのである。
良寛様とて人には聞かないまでも、ご自分の字のうまさまずさの自覚は持っていたろうから、技能的に種々工夫もされたに違いないと見られるべきであるが、身嗜みとしての心構えの存するために、いやらしい工人趣味にも陥らず、俗にいう学者臭いといわれる臭気にも染まらず、醇乎たる雅美生活に終始し得られたのである。
俗人とて、雅人とて、超人とて、大抵は同じことを同じようにするのであるが、心構えの相違から、結果においては大変な隔りが生じ、一は純美、一は俗美となって表われるのである。同じように書道を嗜みながら、前者は楽しみ、後者は苦しむのである。
人格と技能を兼ね具えた上に、特に美の含有量の多い良寛様の書は、私の知る限り徳川期の第一人者であることを大声疾呼して擱筆したい。(昭和二十七年)
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私は今度躯に腫物が出来たので、これは是非共、入院して切開をしなければ、いけないと云うから、致方なく、京都の某病院へ入りました。その時、現今医科大学生の私の弟が、よく見舞に来てくれて、その時は種々の談の末、弟から聴いた談です。
元来病院というものは、何となく陰気な処で、静かな夜に、隣室から、苦しそうな病人の呻吟が聞えてきたり、薄暗い廊下を白い棺桶が通って行ったりして、誠に気味の悪るいものだが、弟はその病院の二階にある解剖室で、或晩十時頃まで、色々人骨を弄くって、一人で熱心に解剖学の研究をしていたが、最早夜も更けたので、家へ帰ろうと思ってその室へ錠を下ろして、二階から下りて来ると、その下にある中庭の直ぐ傍の、薄暗い廊下を通って、小使部屋の前にくると内で蕭然と、小使が一人でさも退屈そうに居るから、弟も通りがかりに、「おい淋しいだろう」と談しかけて、とうとう部屋へ入って談込んでしまった。その時に、弟が小使に向って、「斯様な室に、一人で夜遅く寝ていたら、さぞ物凄い事もあるだろう」と訊ねると、彼は「今では、最早馴れましたが、此処へ来た当座は、実に身の毛も竦立つ様な恐ろしい事が、度々ありました」というので、弟は膝を進めて、「一躰、それは如何な事だった」と強いて訊ねたので、遂に小使が談したそうだが、それはこうであったというのだ。一躰、この小使部屋のあるところというのは、中庭を間に、一方が死体室で、その横には、解剖学の教室があるのだが、この小使が初めて来たのが、恰も冬のことで、夜一人で、その部屋に寝ていると、玻璃窓越しに、戸外の中庭に、木枯の風が、其処に落散っている、木の葉をサラサラ音をたてて吹くのが、如何にも四辺の淋しいのに、物凄く聞えるので、彼も中々落々として寝込まれない。ところが、この小使部屋へは、方々の室から、呼鈴の電線がつづいているので、その室で呼ぶと、此処で電鈴が鳴って、その室の番号のついてる札が、パタリと引繰返るという風になっているのだが、何しろ、彼も初めての事なので、薄気味悪るく、うとうとしていると、最早夜も大分更けて、例の木枯の音が、サラサラ相変らず、聞える時、突然に枕許の上の呼鈴が、けだだましく鳴出したので、おやおや今時分、何処の室から、呼ぶのだろう、面倒臭いことだなどと思いながら、思わず、ひょこり頭を擡げて、それを見上げると、こは如何に、その札の引繰返っているのは、正しく人も居ない死体室からなので、慄然としたが、無稽無稽しいと思って、恐々床へ入るとまたしきりそれが鳴り出して、パタリと死体室の札が返るのだ。彼も最早堪らず、震えながらにとうとう夜を明かしたとの事である。しかし今では奇妙なもので、「もうそれも平気になった」と彼は頗ぶる平然として語ったが、この際弟は、思わずそこの玻璃窓越しに見える死体室を見て、身震をしたと、談したのであった。
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人はこの語の意味する明瞭なる理念を知るものは稀であるが、屡宇宙という語を口にする。だが、宇宙に関する近代的理念は思ったよりも空漠である。この空漠性は最近の世紀に於ける包括的思索が欠けているからである。その原因は、統一された中世紀の文明崩壊に次いで、極度の個人主義が跋扈したからである。紀元後千三百年頃には、人は明に、また大に信じて、彼の宇宙に関する理念を語り得た。その後、知識は駸々乎として長大足の進歩を示し、宇宙に関する中世紀の理念は不完全となり、当時の包括的思索も終に信ぜられざるに至った。人は細密なる特殊事項を研究することに一変し、ヴェサリウス、ガリレオ及びギルバート等が、初めて近代的なる科学的方法を以て、特性的なる論文を発表しつつあった。そしてここ四百年間は、一般性から特殊性への一反動があった。
文明が長足の進歩を遂げ、社会の機構が急遽に変化しつつあるので、包括的なる宇宙の理念を考えることは、今困難である。近時の歴史はこの反動が極端となったことを示しているようである。今や到るところに於て、人は特殊性に没頭して、一般性を忘却ししかも、かかる態度を示すことを以て、賢明のしるしともしている。生物学の意見を述べる物理学者は小犯罪を犯すものと見られ、賢明に芸術を研究する実業家の商業的敏捷性もまた疑われつつある。人は人類の利益のために働くよりも寧ろ彼等みずからの、またその国家の利益を専門として考えているので、大戦争が頻々として起る。ここ四百年間の人の努力は専門化の一競争に狭められ、典型者は唯それ彼の仕事にのみ熱中して、間接に関係ある殆ど一切の他のものに無智である。四百年前には専門化という新観念は神聖であって、これに次いだ世紀の驚異的なる運動と企画とを発見したほどの輝しい光を発していた。そして包括性という旧観念は漸次に衰退して、専門化によって得られた並立しない知識の堆積中にうずもれている。科学も、産業も、スポーツも、いずれも燦然として光を放っているが、役には立たない。人は今宇宙を見んとする慣習を再学しなければならない。材料は中世紀と比較にならないほど豊富であって、驚くべき視覚を鼓吹するこの慣習が再来すれば、産業界及び政治界に於ける近代の乱雑なる情勢は忍ぶべからざる空虚なものとなり、人は科学的理論に於けるが如く、社会の機構に於て、優雅性を必要とするだろう。宇宙が明瞭に見られるならば、社会もまた明瞭に見られ、そしてその不健全性も明となって、排除されるだろう。
だから、科学的新聞という技術が必要である。かかる技術はまだ存在していないけれども、その性質の如何なるものなるかを知って置く必要がある。科学的新聞の機能は最近の科学的研究の雰囲気と事実とを民衆に知らしむるにある。就中その雰囲気を知らしむることが、重要なる役割である。事実の正確は願わしいものであるけれども、雰囲気の正確に比すれば、さほど重要なるものではない。現在の科学的新聞は主として彼等のポケットマネーを得んとする科学者によって、または研究に没頭するには余りに年取った科学者によって行われている。従って彼等の仕事は離ればなれであって、先ず彼等の動機にもとづくスタイルに欠点があり、次に、墓場に近づいているものを感動せしむる精神的なるデコンセントレーションがある。これらの典型的なる科学的新聞記者は彼等の仕事を娯楽と宗教との用語で考えているけれど、本来の技術としては、科学的新聞は社会的なるものである。それは産業に科学を応用することによって創造された文明の機構に必要なるささえである。
科学の雰囲気が一般的に理解されなければ、近代の社会は崩壊する。将来の社会は恐らくば科学の各分派に於ける雰囲気と、主要なる事実を簡単に示し、そして記者の意見に拘泥しない非個人的新聞を必要とするだろう。科学者に接触したものは、如何なる者でも、最近の科学的仕事の一般的説明が、如何に屡研究者の態度ではなくて、如何に事実を与うるにあることを知るだろう。例えば、今日の学理的物理学の指導者は、約三十歳の人であり、その思想は約五十歳またはもっと年取った人々によって拡張されたものであって、これらの広く読まれた説明は若い創造的思想家の心理を示していない。ハイゼンベルクとディラークとの革命的にして、困苦な、輝かしい報知は神秘主義を産まない。それは創造的なものが非創造的なものに対して刺戟を与えたための成長である。
神秘主義は理解し能わざる者の産物であり、理会の代用品であり、哲学のマルガリンである。科学的新聞記者の態度は創造的労作者のそれを学び、これらの労作者が考えまた行うところのものを報告しなければならない。彼は科学的権威者が彼等みずからの研究分派の事実については正しいことを仮定しなければならない。彼は活力論者が如何に有名なる経験的生物学者であっても、彼等が名誉をかち得た実験室内では、機械学者として厳重にこれを観察しなければならない。文明はこれを実行する者の全注意を要求する科学的新聞の確立を必要とする。本来の科学的新聞記者は全力を挙げてその技術を行わねばならない。然るとき社会は永続的なる非個人的説明から、現在の社会問題を解決する必要なる態度を学び、そのユーモアまたは精神を粉飾せんとした離ればなれの書を嘲笑するに至るだろう。
宇宙を語り、そしてこれを伝えるには、固よりかかる科学的新聞記者たることを必要とする。だが、世俗的なる普通の新聞記者も、将来に於ては、これと同様科学的であらねばならない。現在の枢軸国家及び民主主義的国家に於ける新聞を見るに、いずれもその民族または国家の特殊性に自己陶酔的なる、離ればなれの御託を述べているに過ぎず、世界的なる、また人類全体の安寧幸福に関する一般的の抱負をこれから聞くことを得ない。事実を事実として報告しないほどだから、文明の雰囲気を語らんとするものは、一人もいない。特に我国の新聞記者に至っては、科学的知識に全然無智であるためか、神秘主義に終始して、国難を救わんとしている。ハイゼンベルクやディラークの如き革命的にして、困苦な、輝かしい記者は一人もいない。唯非創造的なる政府及び民衆を刺戟した偽の成長を見て、これに満足せんとしている。
われらは固より日に新にして、日に日にまた新ならんとしつつある今日の社会に於て、素朴なる昔時の新聞記者たらんことを欲せず、またそれが許されないことを知る。だが、その「無冠の帝王」説を回顧するときは、記者自身大なる誇を感ぜざるを得ない。ヴィクトル・ユーゴの「剣筆を殺さずてば、筆剣を殺さん」と言った語に、若い血を躍らせる。かかる時代は再現しないだろうけれども、昔恋しさの感に堪えない。降って「社会の反射鏡」説に至り、新聞はここに一の技術となったけれども、この機能を保存すればわれらはなお新聞記者を尊重する。だが、この頃の新聞に至っては、徹底的でなければなるべく多く社会を反射せしめず、というよりも、全然社会を無視して、時の政府の反射鏡たらんとしている。輿論を代表せずして、政府の提灯を持っているだけである。そして彼等は矛盾極まる統制の名の下に、これを彼等の職域奉公と心得ている。
今日の新聞は全然その存在理由を失いつつある。従って人はこれを無くもがなのものとしているけれども、他に代ってその機能を果たすものなきが故に、彼等は已むを得ずなおこれを購読しつつある。偶H・G・ウェルズの如き、公民としてかかる新聞を購読するは義務に反するが故に、そのボイコットを示唆するものがあっても、他にこれに代わるものがなければ、不用の物も有用化されつつあるのが、今日のだらしない状態である。
将来の新聞は科学的でなくてはならない。現在に於て、全くその態度を一変しても、決して早くはあるまい。ローゼンベルヒの「二十世紀の神話」こうした空虚の思想に魅せられて、昭和の科学的時代を神秘化せんとするに至っては、沙汰の限である。神秘主義は理解し能わざる者の産物であり、理会の代用品であり哲学のマルガリンである。いずれにしても、本物ではなく贋物である。
将来の(現在でも決して早くはない)新聞記者は創造的作者であらねばならない。六十歳の、またこれよりも、もっと年取ったものの言に聴いて、神秘主義を尊奉するに至っては、その存在理由を失うのは明である。見よ、彼等は既にその存在理由を失わんとしつつある。試みに街頭に出て、民衆の言うところを聞け、彼等は殆んど挙げて今日の新聞紙を無用視しつつあるではないか。(昭和十六年九月)
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Hard
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しばらく野球の話が続きます
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今は良い友達だけど、最初はお互いに好きじゃなかったんだ。
| 0.199649
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Easy
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| 0.139754
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自来也も芝居や草双紙でおなじみの深いものである。わたしも「喜劇自来也」をかいた。自来也は我来也で、その話は宋の沈俶の「諧史」に載せてある。
京城に一人の兇賊が徘徊した。かれは人家で賊を働いて、その立去るときには必ず白粉を以て我来也の三字を門や壁に大きく書いてゆく。官でも厳重に捜索するが容易に捕われない。かれは相変らず我来也を大書して、そこらを暴してあるく。その噂がますます高くなって、賊といえば我来也の専売のようになってしまって、役人達も賊を捕えろとは云わず、唯だ我来也を捕えろと云って騒いでいるうちに、一人の賊が臨安で捕われた。捕えた者は彼こそ確かに我来也であると主張するのであるが、捕えられた本人はおぼえもない濡衣であると主張する。臨安の市尹は後に尚書となった趙という人で、名奉行のきこえ高い才子であったが、何分にも証拠がないので裁くことが出来ない。どこかに賍品を隠匿しているであろうと詮議したが、それも見あたらない。さりとて迂闊に放免するわけにも行かないので、そのまま獄屋につないで置くと、その囚人がある夜ひそかに獄卒にささやいた。
「わたくしは盗賊に相違ありませんが、まったく彼の我来也ではありません。しかしこうなったら何の道無事に助からないことは覚悟していますから、どうかまあ勦わって下さい。そのお礼としてお前さんに差上げるものがあります。あの宝叔塔の幾階目に白金が少しばかり隠してありますから、どうぞ取出して御勝手にお使いください。」
「それはありがたい。」
とは云ったが、獄卒は又かんがえた。かの塔の上には登る人が多いので、迂闊に取出しにゆくことは出来ない。第一あんなに人目の多いところに金をかくして置くと云うことが疑わしい。こいつそんなことを云って、おれに戯うのではないかと躊躇していると、かれはその肚のなかを見透かしたように又云った。
「旦那、疑うことはありません。寂しいところへ物を隠すなどは素人のすることで、なるたけ人目の多い賑かいところへ隠して置くのがわたくし共の秘伝です。まあ、だまされたと思って行って御覧なさい。あしたはあの寺に仏事があって、塔の上には夜通し灯火がついています。あなたも参詣の振りをして、そこらをうろうろしながら巧く取出しておいでなさい。」
教えられた通りに行ってみると、果して白金が獄卒の手に入ったので、かれは大いに喜んだ。そのうちの幾らかで酒と肉とを買って内所で囚人にも馳走してやると、それから五、六日経って、囚人は又ささやいた。
「もし、旦那。わたくしはまだ外にも隠したものがあります。それは甕に入れて、侍郎橋の水のなかに沈めてありますから、もう一度行ってお取りなさい。」
獄卒はもう彼の云うことを疑わなかったが、侍郎橋も朝から晩まで往来の多いところである。どうしてそれを探しにゆくかと思案していると、囚人は更に教えた。
「あすこは真昼間ゆくに限ります。あなたの家の人が竹籠へ洗濯物を入れて行って、橋の下で洗っている振りをしながら、窃とその甕を探し出して籠に入れる。そうして、その上に洗濯の着物をかぶせて抱えて帰る。そうすれば誰も気がつきますまい。」
「なるほど、お前は悪智慧があるな。」
獄卒は感心して、その云う通りに実行すると、今度も果して甕を見つけ出した。甕には沢山の金銀が這入っていた。獄卒は又よろこんで、しきりに囚人に御馳走をして遣っていると、ある夜更けに囚人が又云った。
「旦那、お願いがございます。今夜わたくしを鳥渡出してくれませんか。」
それは獄卒も承知しなかった。
「飛んでもない。そんなことが出来るものか。」
「いや、決して御心配には及びません。夜のあけるまでには屹と帰って来ます。あなたが何うしても承知してくれなければ、わたくしにも料簡があります。わたくしにも口がありますから、お白洲へ出て何をしゃべるか判りません。そう思っていてください。」
獄卒もこれには困った。飽までも不承知だといえば、這奴は白洲へ出て宝叔塔や侍郎橋の一件をべらべらしゃべるに相違ない。それが発覚したら我身の大事となるのは知れている。飛んでもない脅迫をうけて、獄卒も今さら途方にくれたが、結局よんどころなしに出してやると、かれは約束通りに戻って来て、再び手枷首枷をはめられて獄屋のなかにおとなしく這入っていた。
夜があけると、臨安の町に一つの事件が起っていることが発見された。ある家へ盗賊が忍び入って金銀をぬすみ、その壁に我来也と大きく書き残して立去ったと云うのである。その訴えに接して、名奉行の趙も思わず嘆息した。
「おれは今まで自分の裁判にあやまちは無いと信じていたが、今度ばかりは危く仕損じるところであった。我来也は外にいる。この獄屋につないであるのは全く人違いだ。多寡が狐鼠狐鼠どろぼうだから、杖罪で放逐してしまえ。」
彼の囚人は獄屋からひき出されて、背中を幾つか叩かれて放免された。これでこの方の埒があいて、獄卒は自分の家へ帰ると、その妻は待ち兼ねたように話した。
「ゆうべ夜なかに門をたたく者があるので、あなたが帰ったのかと思って門をあけると、誰だか知らない人が二つの布嚢をかついで来て、黙って投り込んで行きました。なんだろうと思って検めてみると、嚢のなかには金銀が一杯詰め込んでありました。」
獄卒は覚った。
「よし、よし、こんなことは誰にも云うなよ。」
それから間もなく、獄卒は病気を云い立てに辞職して、その金銀で一生を安楽に送った。我来也はそれから何うしたか判らない。獄卒のせがれは放蕩者で、両親のない後にその遺産をすっかり遣い果してしまった。
「おれの身代はもともと悪銭で出来たのだから、こうなるのが当りまえだ。」と、その伜が初めて昔の秘密を他人に明かした。
支那の我来也は先ずこういう筋である。日本でこの我来也を有名にしたのは、感和亭鬼武が最初であるらしい。鬼武は本名を前野曼助といい、以前は某藩侯の家来であったが、後に仕を辞して飯田町に住み、更に浅草の姥ヶ池のほとりに住んでいたという。かれの著作は沢山あるが、そのなかで第一の当り作は「自来也物語」十冊で、我来也を自来也に作りかえたのが非常の好評を博して、文化四年には大阪で歌舞伎狂言に仕組まれ、三代目市川団蔵の自来也がまた大当りであった。絵入りの読本を歌舞伎に仕組んだのはこれが始まりであると云うのをみても、いかに「自来也物語」が流行したかを想像することが出来る。そのほかに矢はり鬼武の作で「自雷也話説」という作があるというが、わたしはそれを読んだことがない。おそらく自来也が当ったので、又なにか書いたのであろう。そうして、自来也を更に自雷也と改めたらしい。
こういうわけで、支那の我来也が日本の自来也となり、更に自雷也となったのであるが、それがまた児雷也と変ったのは美図垣笑顔から始まったのである。笑顔は芝の涌泉堂という本屋の主人で、傍らに著作の筆を執っていたが、何か一つ当り物をこしらえようと考えた末に、かの鬼武の「自来也物語」から思いついて、蝦蟇の妖術、大蛇の怪異という角書をつけて「児雷也豪傑譚」という草双紙を芝神明前の和泉屋から出すと、これが果して大当りに当った。所詮は鬼武の「自来也物語」を焼き直したものであるが、主人公の盗賊児雷也を前茶筌の優姿にして、田舎源氏の光氏式に描かせた趣向がひどく人気に投じたらしい。画家は二代目豊国である。
「児雷也豪傑譚」の初編の出たのは天保十年で、作者も最初から全部の腹案が立っていた訳でもないらしく、それが大当りを取ったところから、図に乗って止度も無しに書きつづけているうちに、第十一編を名残として嘉永二年に作者は死んだ。しかも児雷也の流行は衰えないので、そのあとを柳下亭種員がつづけて書く。又そのあとを二代目の種員が書くというわけで、いよいよ止度が無くなって、幕末の慶応二年には第四十四編まで漕ぎ付けたのである。兎もかくも彼の「田舎源氏」や「しらぬい譚」や「釈迦八相」などと相列んで、江戸時代における草双紙中の大物と云わなければならない。
この作がそれほどに人気を得たのは、前に云った豊国の挿絵が時好に投じたのと、もう一つには人気俳優の八代目団十郎が児雷也を勤めたと云うことにも因るらしい。尤もこの作の評判がよいから、芝居の方でも上演したのであろうが、それに因ってこの作も、更に一層の人気を高め、女子供に愛読されたことも又争われない事実であろう。その上演は嘉永五年、河原崎座の七月興行で、原作の初編から十編までを脚色して、外題はやはり「児雷也豪傑譚話」――主なる役割は児雷也(団十郎)、妖婦越路、傾城あやめ、女巡礼綱手(岩井粂三郎)、高砂勇美之助、大蛇丸(嵐璃寛)などであった。
この脚色者は黙阿弥翁である。翁が後年、條野採菊翁に語ったところによると、河原崎座の座主河原崎権之助という人は新狂言が嫌いで、なんでも芝居は古いものに限ると主張しているので、黙阿弥翁が何か新狂言の腹案を提出しても一向に取合わない。これには黙阿弥翁も困り抜いていると、かの「児雷也」の草双紙の評判がよいので、流石の権之助も一つ遣ってみようかと云い出し、黙阿弥翁もここだと腕を揮って脚色すると、その狂言が大当りを取ったので、権之助もすこし考え直したとみえて、来年も何か草双紙を仕組んでくれと云い、今度は「しらぬい譚」を脚色すると、これが又当ったので、権之助もいよいよ兜をぬぎ、成程これからの芝居は新狂言でなければいけないと云い出した。黙阿弥翁もそれに勢いを得て、つづいて「小幡小平次」をかき、「忍ぶの惣太」を書き、ここに初めて狂言作者としての位地を確立したのであるという。
勿論、黙阿弥翁のことであるから、遅かれ早かれ世に出るには相違ないが、ここに「児雷也豪傑譚」という評判物の草双紙がなかったらば、或いはその出世が三年や五年はおくれたかも知れない。してみると、児雷也と黙阿弥翁、その間に一種の因縁がないでもないように思われる。
鬼武が最初に我来也を自来也にあらためたのは、我来也という発音が日本人の耳に好い響きをあたえない為であったらしい。それでも「我来」を「自来」に改めたのはまだ好い。更に「自雷」にあらためたのは何ういうわけか判らない。まして後の作者が「児雷」に改めたのは、いよいよ拙ない。しかもそれが最も広く伝わったので、児雷也というのが一般的の名になってしまった。
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私は一瞬怒りに我を忘れた
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何をしなければならないかは明らかです。
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森本薫君の作品を読むと非常に新しい美しさを感じるけれども、さてその森本君のほんたうの新しさといふものは何であるかよくわからないといふ批評があります。森本君の新しさは、今として、つまり、さういふぐあひに問題にされる性質のものと思ひます。今度偶然に、森本君の亡くなつた京都から『劇作』が再刊されることになりましたが、そのことは、何かしら『劇作』の新しい出発点に森本薫が今もなほゐるといふ気がしました。
舞台的リアリズムの追究は、大正初年に出た作家群、久保田、菊池、山本、久米といふやうな人達によつて、まづ最初ののろしがあげられ、演劇に於けるリアリズムの最初の根がそこに張られたとすれば、それがだんだん育つて今度は昭和十年前後、つまり『劇作』の運動が実を結んだ時代に、やうやく近代的な意味でのリアリズムが真の完成された形をとつて来た。さういふ意味で『劇作』の同人諸君が劇文学の上に築いた地歩は決して見逃せないのですが、その中で特に近代的な感覚を盛つたリアリズムといふ点では森本君がいちばん目立つた存在です。西洋では、舞台のリアリズムといへば一つの文学上の流派と結びついて発達したものと見られてゐますが、日本では新しいリアリズムを打ち建てることが演劇の近代化の一つであるといふ特別な意味を持つてゐると思ひます。さういふ点からいつて、大正初期の作家群と昭和十年前後の作家群と較べて見ると、面白い現象がすでに眼につくのです。つまり前者のリアリズムはまだ近代的リアリズムとは言へないものがあるが、後者のそれに至つてはじめてそれが言へると思ふわけです。換言すれば、大正初期の戯曲は技術的に古いといふよりも、むしろ文化的に近代味が稀薄であつたといふこと。最近必要があつて、両者を読み較べてそれをハッキリ感じるのですが、さういふ意味で『劇作』の作家群の中で、森本君のリアリズムが、最も近代的な感覚の領域に足を踏み込んでゐます。もう一つの彼の新しさは、彼の作品のなかに、知性を織り込んだ一種のダンディズムがあることだと思ひます。これが他の多くの作家よりも何か新しいものを感じさせる大きな理由でせう。日本でも昔からダンディズムなるものはあつたが、近代的なダンディズムは森本君に至るまでちよつと発見出来ないくらゐです。これはおそらく戯曲とは限らず小説をひつくるめて言へることです。ともかく森本君はフランスでいふアンファン・テリブル(恐るべき子供)の素質を持つてゐたのです。もし森本君がほかの方面へ行つたとしても、必ずアンファン・テリブルの特色を発揮した一人物だつたことでせう。
『華々しき一族』の系列の作品と、『怒濤』『女の一生』のやうな作品のちがひについて言はれますけれども、彼は一応矛盾する二つの素質を持つてゐたやうです。繊細なものと強靭なものとは両立し難いのですが、彼の作品は繊細でありながら、一方なかなか強靭なところがあります。後期のものが、やはり戯曲としての密度が粗くなつてゐるとは言へるが、それは出来るだけ芝居がしやすいやうにといふ意識的な仕事であつたからです。それは作品として、文学的にも演劇的にも価値が落ちることはもちろんですが、彼の場合、後の作品には前の作品にはなかつたものがあります。多少粗製だといふ気はしても、やはり作者にとつて、また、現在の日本演劇にとつて、それは必要なものであつたし、十分意義を認められていいものだと私は考へます。
作品の冷たさといふものは、いろいろの原因がそれぞれの作家にあるでせうが、森本君といふ人は感情の豊かな人ではなかつたやうです。むしろ感受性の人だつたと思ふ。彼の作品の魅力は、理智的なものと、鋭くて柔軟な感受性のアヤであつて、ほとんどといつてよいほど感情は湧き出してゐない。冷静といふのでは決してありません。いらいらしたもの、好奇心といふやうなものは、むしろ非常にある。感受性がいつもピクピク動いてゐる。いろいろの対象によつてその感受性が動揺してゐて、何時でも何かの反応を見せてゐるので、冷静とはいへないわけです。普通われわれが俗に使つてゐる言葉でいふと神経質、あるひは神経過敏といふものに近いものがあると思ふのです。
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Xが懐かしい
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彼が小学生の頃、地元のサッカーチームに所属していました
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歌舞伎劇を欧米の劇壇に紹介することは、たしかに有意義であり、その企てが案外容易に(実際はいろいろ困難もあつたらうが)果されたことは何よりよろこばしいが、露西亜の芸術家が、歌舞伎の実演から何を学び、何を感得したかを知る方法はないだらうか。一二新聞批評らしいものも伝へられはしたが、あんなものは当てにならない。
露西亜人は、他の欧米人に比べて、東洋芸術の真髄に触れ得る国民だとは思ふが、いきなり、あの舞台を観せられて、何がわかるだらう。
嘗て、仏蘭西の舞踊批評家が、一般日本人の怪しげな「剣の舞」なるものを見物して、少なからず感心した話を知つてゐるが、それと同時に、マダム・サダヤツコの芸を眉唾ものだと喝破した俳優もある。遠山満一座がチャツプリンに認められる時代に、左団次一行が露西亜で熱烈な喝采を受けたからとて、遽に知己を得たと悦ぶにも当るまい。
一般の西洋人が、特に日本の芸術に興味をもつてゐると自惚れるのは間違ひで、黒坊のお面や、子供の楽書を恭しく壁に飾つてゐる自称芸術愛好家は、近頃、巴里などにある。これはつまり、近代主義の一面であつて、新しいのを縦に求めるかはりに横に求めてゐるだけである。
僕は固より、日本の芸術を以て、世界に誇るに足るものだとは信じてゐるが、世界の方では、まだちつともさうは考へてゐないのみならず、やうやく浮世絵が珍重されてゐるとはいへ、それも骨董価値を外にして、どれだけ、芸術品としての取扱を受けてゐるか。
歌舞伎劇を紹介するのは結構だが、それだけの頭をもつて行かないと、骨折損だといふ気がする。
日本人には変な癖があつて、西洋人が歓びさうなものをわざわざ観せる――自分たちの観せたいものは外にあることを知らずにゐるのである。日本に西洋人がやつて来る。すぐ富士山の話をもちかける。桜の季節でなく残念だなんてお世辞を云ふ。ゲイシヤを見せようと云つて、「お茶の家」へ案内する。日光と京都と奈良と、鵜飼ひと茶摘み(?)と……あとは、座蒲団と箸と、下駄と人力車である。
この癖がいつまでも直らないと、日本は遂にその正体を西洋人に知られずにしまふかもしれない。
日本人が西洋に行く。必ず土産を持参する。曰く、浮世絵の翻刻、安物の扇子、輸出向の人形、曰く何、曰く何……。日本人は可愛いお土産を呉れる勇敢な国民なりといふ定義は到る処で通用してゐる。そのくせ、気まりが悪い時にはきつと膨れ面をするのである。
そこで僕は、西洋人が日本のどういふところに興味をもつてゐるかを知つた上で、さういふ興味のもち方を軽蔑してやるだけの度胸が必要だと思つてゐる。
某国の皇太子が、車夫のハツピを着て、梶棒を握つてゐる写真を新聞に出したまではいいが、それをいかにも平民的な行為であるかの如く感心してゐるに至つては、お人好しも極端である。そんなことをしたら、黙つて横を向いてゐるがいい。
日本人が、有色国民、殊に同種同文の隣邦民に対してすら、甚だ尊大であるのに、白色人種、殊に英米人の人も無げな振舞ひに対し、飽くまで幇間的態度を示すのは、誠に笑止千万である。
議論がやや脱線の気味であるが、要するに、歌舞伎なら歌舞伎劇を欧米に紹介するに当つて、かのお土産式態度をもつて臨むことは禁物であるのみならず、さういふ結果をしか招かぬ場合を顧慮してかかる必要がある。
僕は、意気昂然たる左団次の足跡を見たい。(一九二八・一〇)
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これは日本独特の慣習だ。
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ほとんどの島にこのような物が一つは有る
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全部売り切れです。
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