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真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか。さらに分売を許さず読者を繋縛して数十冊を強うるがごとき、はたしてその揚言する学芸解放のゆえんなりや。吾人は天下の名士の声に和してこれを推挙するに躊躇するものである。このときにあたって、岩波書店は自己の責務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十数年以前より志して来た計画を慎重審議この際断然実行することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。この文庫は予約出版の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする。この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たさしめることを期する。芸術を愛し知識を求むる士の自ら進んでこの挙に参加し、希望と忠言とを寄せられることは吾人の熱望するところである。その性質上経済的には最も困難多きこの事業にあえて当たらんとする吾人の志を諒として、その達成のため世の読書子とのうるわしき共同を期待する。
昭和二年七月
| 0.879
|
Hard
| 0.662
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| 0.315
| 0.96
| 953
|
ある雪上りの午前だった。保吉は物理の教官室の椅子にストオヴの火を眺めていた。ストオヴの火は息をするように、とろとろと黄色に燃え上ったり、どす黒い灰燼に沈んだりした。それは室内に漂う寒さと戦いつづけている証拠だった。保吉はふと地球の外の宇宙的寒冷を想像しながら、赤あかと熱した石炭に何か同情に近いものを感じた。
「堀川君。」
保吉はストオヴの前に立った宮本と云う理学士の顔を見上げた。近眼鏡をかけた宮本はズボンのポケットへ手を入れたまま、口髭の薄い唇に人の好い微笑を浮べていた。
「堀川君。君は女も物体だと云うことを知っているかい?」
「動物だと云うことは知っているが。」
「動物じゃない。物体だよ。――こいつは僕も苦心の結果、最近発見した真理なんだがね。」
「堀川さん、宮本さんの云うことなどを真面目に聞いてはいけませんよ。」
これはもう一人の物理の教官、――長谷川と云う理学士の言葉だった。保吉は彼をふり返った。長谷川は保吉の後ろの机に試験の答案を調べかけたなり、額の禿げ上った顔中に当惑そうな薄笑いを漲らせていた。
「こりゃ怪しからん。僕の発見は長谷川君を大いに幸福にしているはずじゃないか?――堀川君、君は伝熱作用の法則を知っているかい?」
「デンネツ? 電気の熱か何かかい?」
「困るなあ、文学者は。」
宮本はそう云う間にも、火の気の映ったストオヴの口へ一杯の石炭を浚いこんだ。
「温度の異なる二つの物体を互に接触せしめるとだね、熱は高温度の物体から低温度の物体へ、両者の温度の等しくなるまで、ずっと移動をつづけるんだ。」
「当り前じゃないか、そんなことは?」
「それを伝熱作用の法則と云うんだよ。さて女を物体とするね。好いかい? もし女を物体とすれば、男も勿論物体だろう。すると恋愛は熱に当る訣だね。今この男女を接触せしめると、恋愛の伝わるのも伝熱のように、より逆上した男からより逆上していない女へ、両者の恋愛の等しくなるまで、ずっと移動をつづけるはずだろう。長谷川君の場合などは正にそうだね。……」
「そおら、はじまった。」
長谷川はむしろ嬉しそうに、擽られる時に似た笑い声を出した。
「今Sなる面積を通し、T時間内に移る熱量をEとするね。すると――好いかい? Hは温度、Xは熱伝導の方面に計った距離、Kは物質により一定されたる熱伝導率だよ。すると長谷川君の場合はだね。……」
宮本は小さい黒板へ公式らしいものを書きはじめた。が、突然ふり返ると、さもがっかりしたように白墨の欠を抛り出した。
「どうも素人の堀川君を相手じゃ、せっかくの発見の自慢も出来ない。――とにかく長谷川君の許嫁なる人は公式通りにのぼせ出したようだ。」
「実際そう云う公式がありゃ、世の中はよっぽど楽になるんだが。」
保吉は長ながと足をのばし、ぼんやり窓の外の雪景色を眺めた。この物理の教官室は二階の隅に当っているため、体操器械のあるグラウンドや、グラウンドの向うの並松や、そのまた向うの赤煉瓦の建物を一目に見渡すのも容易だった。海も――海は建物と建物との間に薄暗い波を煙らせていた。
「その代りに文学者は上ったりだぜ。――どうだい、この間出した本の売れ口は?」
「不相変ちっとも売れないね。作者と読者との間には伝熱作用も起らないようだ。――時に長谷川君の結婚はまだなんですか?」
「ええ、もう一月ばかりになっているんですが、――その用もいろいろあるものですから、勉強の出来ないのに弱っています。」
「勉強も出来ないほど待ち遠しいかね。」
「宮本さんじゃあるまいし、第一家を持つとしても、借家のないのに弱っているんです。現にこの前の日曜などにはあらかた市中を歩いて見ました。けれどもたまに明いていたと思うと、ちゃんともう約定済みになっているんですからね。」
「僕の方じゃいけないですか? 毎日学校へ通うのに汽車へ乗るのさえかまわなければ。」
「あなたの方じゃ少し遠すぎるんです。あの辺は借家もあるそうですね、家内はあの辺を希望しているんですが――おや、堀川さん。靴が焦げやしませんか?」
保吉の靴はいつのまにかストオヴの胴に触れていたと見え、革の焦げる臭気と共にもやもや水蒸気を昇らせていた。
「それも君、やっぱり伝熱作用だよ。」
宮本は眼鏡を拭いながら、覚束ない近眼の額ごしににやりと保吉へ笑いかけた。
× × ×
それから四五日たった後、――ある霜曇りの朝だった。保吉は汽車を捉えるため、ある避暑地の町はずれを一生懸命に急いでいた。路の右は麦畑、左は汽車の線路のある二間ばかりの堤だった。人っ子一人いない麦畑はかすかな物音に充ち満ちていた。それは誰か麦の間を歩いている音としか思われなかった、しかし事実は打ち返された土の下にある霜柱のおのずから崩れる音らしかった。
その内に八時の上り列車は長い汽笛を鳴らしながら、余り速力を早めずに堤の上を通り越した。保吉の捉える下り列車はこれよりも半時間遅いはずだった。彼は時計を出して見た。しかし時計はどうしたのか、八時十五分になりかかっていた。彼はこの時刻の相違を時計の罪だと解釈した。「きょうは乗り遅れる心配はない。」――そんなことも勿論思ったりした。路に隣った麦畑はだんだん生垣に変り出した。保吉は「朝日」を一本つけ、前よりも気楽に歩いて行った。
石炭殻などを敷いた路は爪先上りに踏切りへ出る、――そこへ何気なしに来た時だった。保吉は踏切りの両側に人だかりのしているのを発見した。轢死だなとたちまち考えもした。幸い踏切りの柵の側に、荷をつけた自転車を止めているのは知り合いの肉屋の小僧だった。保吉は巻煙草を持った手に、後ろから小僧の肩を叩いた。
「おい、どうしたんだい?」
「轢かれたんです。今の上りに轢かれたんです。」
小僧は早口にこう云った。兎の皮の耳袋をした顔も妙に生き生きと赫いていた。
「誰が轢かれたんだい?」
「踏切り番です。学校の生徒の轢かれそうになったのを助けようと思って轢かれたんです。ほら、八幡前に永井って本屋があるでしょう? あすこの女の子が轢かれる所だったんです。」
「その子供は助かったんだね?」
「ええ、あすこに泣いているのがそうです。」
「あすこ」というのは踏切りの向う側にいる人だかりだった。なるほど、そこには女の子が一人、巡査に何か尋ねられていた。その側には助役らしい男も時々巡査と話したりしていた。踏切り番は――保吉は踏切り番の小屋の前に菰をかけた死骸を発見した。それは嫌悪を感じさせると同時に好奇心を感じさせるのも事実だった。菰の下からは遠目にも両足の靴だけ見えるらしかった。
「死骸はあの人たちが持って行ったんです。」
こちら側のシグナルの柱の下には鉄道工夫が二三人、小さい焚火を囲んでいた。黄いろい炎をあげた焚火は光も煙も放たなかった。それだけにいかにも寒そうだった。工夫の一人はその焚火に半ズボンの尻を炙っていた。
保吉は踏切りを通り越しにかかった。線路は停車場に近いため、何本も踏切りを横ぎっていた。彼はその線路を越える度に、踏切り番の轢かれたのはどの線路だったろうと思い思いした。が、どの線路だったかは直に彼の目にも明らかになった。血はまだ一条の線路の上に二三分前の悲劇を語っていた。彼はほとんど、反射的に踏切の向う側へ目を移した。しかしそれは無効だった。冷やかに光った鉄の面にどろりと赤いもののたまっている光景ははっと思う瞬間に、鮮かに心へ焼きついてしまった。のみならずその血は線路の上から薄うすと水蒸気さえ昇らせていた。……
十分の後、保吉は停車場のプラットフォオムに落着かない歩みをつづけていた。彼の頭は今しがた見た、気味の悪い光景に一ぱいだった。殊に血から立ち昇っている水蒸気ははっきり目についていた。彼はこの間話し合った伝熱作用のことを思い出した。血の中に宿っている生命の熱は宮本の教えた法則通り、一分一厘の狂いもなしに刻薄に線路へ伝わっている。そのまた生命は誰のでも好い、職に殉じた踏切り番でも重罪犯人でも同じようにやはり刻薄に伝わっている。――そういう考えの意味のないことは彼にも勿論わかっていた。孝子でも水には溺れなければならぬ、節婦でも火には焼かれるはずである。――彼はこう心の中に何度も彼自身を説得しようとした。しかし目のあたりに見た事実は容易にその論理を許さぬほど、重苦しい感銘を残していた。
けれどもプラットフォオムの人々は彼の気もちとは没交渉にいずれも、幸福らしい顔をしていた。保吉はそれにも苛立たしさを感じた。就中海軍の将校たちの大声に何か話しているのは肉体的に不快だった。彼は二本目の「朝日」に火をつけ、プラットフォオムの先へ歩いて行った。そこは線路の二三町先にあの踏切りの見える場所だった。踏切りの両側の人だかりもあらかた今は散じたらしかった。ただ、シグナルの柱の下には鉄道工夫の焚火が一点、黄いろい炎を動かしていた。
保吉はその遠い焚火に何か同情に似たものを感じた。が、踏切りの見えることはやはり不安には違いなかった。彼はそちらに背中を向けると、もう一度人ごみの中へ帰り出した。しかしまだ十歩と歩かないうちに、ふと赤革の手袋を一つ落していることを発見した。手袋は巻煙草に火をつける時、右の手ばかり脱いだのを持って歩いていたのだった。彼は後ろをふり返った。すると手袋はプラットフォオムの先に、手のひらを上に転がっていた。それはちょうど無言のまま、彼を呼びとめているようだった。
保吉は霜曇りの空の下に、たった一つ取り残された赤革の手袋の心を感じた。同時に薄ら寒い世界の中にも、いつか温い日の光のほそぼそとさして来ることを感じた。
(大正十三年四月)
| 0.414
|
Medium
| 0.627
| 0.208
| 0.037
| 0.346
| 4,025
|
Xから、物語が始まる
| 0.299222
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Easy
| 0.239378
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| 0.179533
| 10
|
ある国に美しいお姫さまがありました。いつも赤い着物をきて、黒い髪を長く垂れていましたから、人々は、「赤い姫君」といっていました。
あるときのこと、隣の国から、お姫さまをお嫁にほしいといってきました。お姫さまは、その皇子をまだごらんにならなかったばかりでなく、その国すら、どんな国であるか、お知りにならなかったのです。
「さあ、どうしたものだろうか。」と、お姫さまは、たいそうお考えになりました。それには、だれか人をやって、よくその皇子の身の上を探ってもらうにしくはないと考えられましたから、お伴の人をその国にやられました。
「よく、おまえはあちらにいって、人々のうわさや、また、どんなごようすの方だか見てきておくれ。」といわれました。
そのものは、さっそく皇子の国へ出かけていきました。すると、隣の国から、人が今度のご縁談について探りにきたといううわさが、すぐにその国の人々の口に上りましたから、さっそく御殿にも聞こえました。
「どうしても、あの、美しい姫を、自分の嫁にもらわなければならぬ。」と、皇子は望んでいられるやさきでありますから、ようすを探りにきたものを十分にもてなして帰されました。
やがて、そのものは、立ち帰りました。お待ちになっていたお姫さまは、どんなようすであったかと、すぐにおたずねになりました。
「それは、りこうな、りっぱな皇子であらせられます。御殿は金銀で飾られていますし、都は広く、にぎやかで、きれいでございます。」と、家来は答えました。
お姫さまは、うれしく思われました。しかし、なかなか注意深いお方でありましたから、ただ一人の家来のいったことだけでは、安心をいたされませんでした。ほかに、もう一人、家来をやって、よくようすを探らせようとお考えになったのです。
「こんどは、ひとつ姿をかえてやろう。それでないと、ほんとうのことはわからないかもしれぬ。」と思われましたので、お姫さまは、家来を乞食に仕立てて、おつかわしになりました。
いろいろの乞食が、東西、南北、その国の都をいつも往来していますので、その国の人も、これには気づきませんでした。
乞食に姿をかえたお姫さまの使いのものは、いろいろなうわさを聞くことを得ました。そして、そのものは、急いで帰りました。
お姫さまは、待っておられたので、そのものが帰るとすぐに自分の前にお召しなされて、聞いたことや見たことを、すっかり話すようにといわれました。
「私は、つい皇子を目のあたりに見られませんでした。しかし、たしかに聞いてまいりました。皇子は御殿から外に出られますときは、いつも黒い馬車に乗っていられます。そして、いつも皇子は、黒のシルクハットをかぶり、燕尾服を着ておいでになります。そして片目なので、黒の眼鏡をかけておいでになるということです。」と申しあげました。
お姫さまは、これを聞くと、前の家来の申したこととたいそう違っていますので、びっくりなさいました。すぐに縁談を断ってしまおうかとも思われましたが、もし、そうしたら、きっと皇子が復讐をしに攻めてくるだろうというような気がして、すぐには決しかねたのであります。
やさしい心のお姫さまは、片目であるという皇子の身の上をかわいそうにも思われました。そして、お嫁にいって、なぐさめてあげようかとも思われました。毎日のように、赤い姫君は、ぼんやりと遠くの空をながめて、物思いに沈んでいられました。すると、高い黒のシルクハットをかぶって、黒の燕尾服を着て、黒塗りの馬車に乗った皇子の幻が浮かんで、あちらの地平線を横切るのが、ありありと見えるのでありました。
雨の降る日も、この黒塗りの馬車は駆けていきました。風の吹く日も、黒のシルクハットをかぶって燕尾服を着た皇子を乗せた、この馬車の幻は走っていきました。
お姫さまは、もう、どうしたら、いちばんいいであろうかと迷っていられました。
「ああ、こうして、幻にうなされるというのも、わたしの運命であろう。」と、あるときは、思われました。
「わたしさえ、我慢をすれば、それでいいのだ。」と、あるときは考えられました。そのうちに、皇子のほうからは、たびたび催促があって、そのうえに、たくさんの金銀・宝石の類を車に積んで、お姫さまに贈られました。また、お姫さまは、二ひきの黒い、みごとな黒馬を皇子に貢ぎ物とせられたのです。
いよいよ、赤い姫君と黒い皇子とがご結婚をなされるといううわさがたちました。そのとき、一人のおばあさんの予言者が、姫君の前に現れて申しあげたのであります。このおばあさんは、これまでいろいろなことについて予言をしました。そして、みんなそれが当たったというので、この国の人々からおそれられ、よく知られていました。
「このご結婚は、赤と黒との結婚です。赤が、黒に見込まれている。お姫さま、あなたは、皇子に生き血を吸われることとなります。この結婚は不吉でございます。もし、ご結婚をなされば、この国に疫病が流行します。」と、おばあさんの予言者はいいました。
お姫さまは、これを聞いて、心配なされました。どうしたらいいだろうかと、それからというものは、毎日、赤い、長いそでを顔にあてては、泣いて悲しまれたのであります。
皇子とお姫さまの、約束の結婚の日が、いよいよ近づいてまいりました。お姫さまは、どうしたらいいだろうかと、お供の人々におたずねになりました。
このとき、黒いシルクハットをかぶって、燕尾服を着た皇子を乗せた、黒い馬車の幻が、ありありとお姫さまに見えたのであります。お姫さまはぞっとなされました。
「なんでも執念深い皇子だといいますから、お姫さまは、早くこの町から立ち去って、あちらの遠い島へお逃げになったほうが、よろしゅうございましょう。あちらの島は、気候もよく、いつでも美しい、薫りの高い花が咲いているということであります。」と、お供のものは申しました。
お姫さまは、だれも気のつかないうちに、あちらの島へ身を隠すことになさいました。ある日のこと三人の侍女とともに、たくさんの金銀を船に積まれました。そして、赤い着物をきたお姫さまは、その船におすわりになりました。
青い海を、静かに、船は港から離れて、沖の方へとこぎ出たのです。空は澄んでいました。そして、遠く、かなたには、島の影がほんのりと浮かんでいたのであります。
船には、たくさんの金銀が積み込んでありましたから、その重みでか、船は沖へ出てしまって、もう、陸の方がかすんで見られなくなった時分から、だんだんと沈みかけたのでした。どんなに、三人の侍女とお姫さまは驚かれたでありましょう。
「やはり、皇子が、わたしをやらないように引っ張っているのです。」
と、お姫さまは歎かれました。
「いいえ、お姫さま。これは、あまり金や銀をたくさん船に積み込んであるからであります。金や銀の重みを去れば、船は、軽くなって浮き上がるでありましょう。」と、侍女らはいいました。
「そんなら、みんな金や、銀を海の中に投り込んでおしまいなさい。」
と、お姫さまは、侍女たちに命ぜられました。
侍女たちは、金や、銀を手に取って、一つずつ海の中に投げ込みました。陸の方では、これを知っているわずかの人だけが、お姫さまの船を見送っていたのですが、このとき、海の上が光って、水の中に沈んでいくまばゆい光を、その人々はながめました。そして、お姫さまの赤い着物に、日が映って、海の上を染めるよう見えたのです。
しかし、不思議なことには、船はだんだんと水の中に深く沈んでいきました。侍女たちが手に手を取って投げる金銀の輝きと、お姫さまの赤い着物とが、さながら雲の舞うような、夕日に映る光景は、やはり陸の人々の目に見られたのです。
「お姫さまの船が、海の中に沈んでしまったのだろうか。」と、陸では、みんなが騒ぎはじめました。
赤い姫君と黒い皇子の結婚の日のことであります。皇子は、待てども待てども、姫君が見えないので、腹をたてて、ひとつには心配をして、幾人かの勇士を従えて、自らシルクハットをかぶり、燕尾服を着て、黒塗りの馬車に乗り、姫から贈られた黒馬にそれを引かせて、お姫さまの御殿のある城下を指して駆けてきたのです。
城下の人々は、今度のことから、なにか起こらなければいいがと心配していました。ちょうどそのとき、皇子がやってこられるといううわさを聞きましたので、みんなは家の中に入って、かかり合いにならぬように、戸を堅く閉めてしまいました。
はたして夜になると、家の前をカッポ、カッポと鳴らして通るひづめの音をみんなは聞きました。その後からつづいて、幾つかの乱れたひづめの音が、入り混じって聞こえてきました。みんなは、息を潜めて黙って、その音に耳を傾けたのです。すると、ひづめの音は、だんだんあちらに遠ざかっていきました。
しばらくすると、こんどは、あちらから、こちらへ、カッポ、カッポと鳴り近づくひづめの音が聞こえました。つづいて入り乱れた幾つもの音を聞いたのでありました。あちらにお姫さまがいないので、彼らはこちらにきて探すもののように思われました。
「お姫さまは、昨夜、海の中に沈んでしまわれたのだもの。いくら探したって見つかるはずがない。」と、人々は思っていました。
また、ひづめの音が聞こえました。こんどは、またこちらから、あちらへもどっていくのです。
「姫は、どこへいったのじゃ。」と、叫ぶ声が、闇の中でしました。
やがて、そのひづめの音が、聞こえなくなると、後には、夜風の空を渡る音がかすかにしました。しかしこうして、ひづめの音は、夜中、家々の前をいくたびも往来したのであります。そして、夜明けごろに、この一隊は、海の方を指して、走っていきました。人々は、その夜は眠らずに、耳を澄まして、このひづめの音を聞いていました。
夜が明けたときには、もうこの一隊は、この城下には、どこにも見えませんでした。前夜のうちに、皇子の馬車も、それについてきた騎馬の勇士らも、波の上へ、とっとと駆け込んで、海の中へ入ってしまったものと思われたのであります。
夕焼けのした晩方に、海の上を、電光がし、ゴロゴロと雷が鳴って、ちょうど馬車の駆けるように、黒雲がいくのが見られます。それを見ると、この町の人々は、
「赤い姫君を慕って、黒い皇子が追っていかれる。」と、いまでも、いっているのでありました。
| 0.4
|
Medium
| 0.591
| 0.179
| 0.093
| 0.543
| 4,284
|
彼がXに再び目を向けた
| 0.348519
|
Easy
| 0.278815
| 0.313667
| 0.243963
| 0.209111
| 11
|
土曜日に学校に行きません。
| 0.30963
|
Easy
| 0.247704
| 0.278667
| 0.216741
| 0.185778
| 13
|
私は小学校以来自分の卒業した学校の式以外に卒業式といふものには列席した経験がありません。自分の卒業式に感動するのは勿論でありますが、今日の卒業式から受けた感動は終生忘れ得られないものであります。私も文学者でありますから多少想像力を持つてをるつもりでありますが、私の想像する限りにおいて自分に直接関係のある兄弟や子供の式でもない卒業式に列席して、今日のやうな感銘を受けることはないと思はれるのであります。今日のこの卒業式に盛られてゐる精神、雰囲気は自由学園独特のものであると思ふのでありますが、私がかなり久しい以前から、学校とはかくあるべきものであると胸に描いてをりました姿に非常に近いものであつたのであります。新卒業生諸君の幾人かの方々の感想をうかゞひ、一番に打たれましたことは、個々の決意も立派でありましたが、その中に共通して感じられましたことは、一つの大きな美しい夢を皆さんがもつてをられるといふことであります。現在の日本は今大きな夢を目ざして進んでをり、国民もこれをはつきりと一人一人の心に描いてをらなくてはならないのでありますが、どうかすると言葉では表現してゐても、まだほんたうに頭や胸の中に描いてゐるものゝ少いことを思ふのであります。今日皆さんの表現されたことによつて、皆さんの夢をはつきりと知ることが出来ましたのは、非常な力強さでありました。現代の美しい夢を描いてゐる青年の中で、諸君がその大きな部分を示してをられるのではないかと思はれるのであります。夢を描くことができるといふことは、今日まで皆さんが受けられた教育の力によることゝ思ふのでありまして、その教育が今日まで行はれましたことに対してまた深い敬意をはらふものであ力ます。
然しながら夢をもつた人が即ちそれを実現出来る人であるとは申されません。夢を実現するのにはより大きな努力が必要であります。小さな夢なら持ち合せの力でできるかも知れませんが、皆さんの美しい大きな夢を実現されるには大きな努力が必要であります。夢を描くといふ点に於ては既に大きな成功をされてをると思ひますが、実現するといふ能力においては皆さんは未だ出発点にをられると思ふのであります。先程佐藤尚武先生が自信と自惚とは違ふといふ意味のことをおつしやいましたが、まさか諸君に自惚があるとは思はれませんが、夢を描けると思つて実現する能力が出来たと思はれたらそれは誤りであり、どうかその誤りを犯さないで頂きたい。私は大政翼賛会の仕事の上でさま〴〵の夢を描いてをりますが、いざとなるとそれを実現する力が自分に一つもないことを毎日痛感してをるものであります。しかし諸君が大いに励まれるならば、私どもの恐らく成し遂げ得ないことを成し遂げ得らるゝであらうことを信じます。どうか諸君の力によつてそれを打ち樹てゝ頂きたい。これが我々の世代から皆さんの新しい世代への唯一の最も痛切な願ひであります。
| 0.756
|
Hard
| 0.629
| 0.165
| 0.207
| 0.957
| 1,208
|
一 利根川
千住の名物、鮒の雀燒をさかなに、車中に微醉を買ふ。帝釋まうでは金町より人車鐵道に、成田まうでは我孫子より汽車に乘り換へしが、我が行く先きは奧州仙臺、小利根を過ぎ、また大利根を過ぐ。このあたりは、さまでの大小なし。風致もほゞ相似たり。されど余はむしろ小利根河畔の松戸よりも、大利根河畔の取手を取る。水に枕むの紅樓、醉を買ふに足るべし。古城址の丘、遙に富士を望む。極目蕭散にして快濶也。
二 筑波山
東京を出でてより石岡あたりまでは、幾んど絶えず左に筑波山を見る。土浦より凡そ五里、山麓まで車を通ず。山腹、筑波祠前に筑波町の市街あり。なにがし宿屋の二嬌、何人か銅雀臺にとざしたりけむ。左右二峯、女峯に奇岩多し。いつもながら辨慶の、引合ひに出さるゝこそ氣の毒なれ。戀ぞつもりて淵となりぬるみなの川は、男峯より出づ。
三 霞ヶ浦
土浦もしくは高濱より汽船に乘りて、霞ヶ浦を横斷するを得べし。浮島に風光を賞し、潮來出島にあやめを看、鹿島、香取、息栖の三祠に詣で、大利根川の下流に浮んで銚子に下る船中、富士迎へ、筑波送る。いかに心ゆく舟路ぞや。
四 水戸
義公を祀れる常磐祠は第一公園に、弘道館は第二公園に在り。二園共に梅多し。殊に第一園は、岡山の後樂園、金澤の兼六公園と共に、日本三公園と稱せらる。一帶の丘上、當年の好文亭なほ在り。梅樹千章、雪裡今に春を占む。千波湖の一半は田となりたれど、丘下は一大明鏡を開く。此地、前に義公あり、後に烈公、東湖ありて、大義を明かにしたるも、豪傑の士、黨爭に斃れて、折角の維新前後には、蕭條として人物なく、たゞ風光徒らに舊に依りて美也。
五 大洗
水戸に遊びたるついでに、請ふ君、水戸市の北端、杉山より川蒸氣に乘りて、水路三里、那珂川を下りて、大洗に遊べ。大洗祠前、海水浴旅館、波に俯す。子の日原の喬松、その數千株なるを知らず。磯節に『松が見えます』とあるものは即ち是れ也。欄によりて明月に酌めば、夜凉座に迸り、漁歌遙に相答ふ。場所柄の磯節聞かむとて、校書を聘すれば、都の落武者なるに、いと口惜し。
六 西山
請ふ君、なほ急がずば、水戸より太田鐵道に乘換へて、太田に着し、そこより人力車に乘り、桃源橋を過ぎて、西山の舊草盧を訪へ。四方の小丘、數百年來の老樹しげり、古き池には、蓮生ひたり。これ義公が老を養ひし處、義公の居間と侍臣の謁見する室との間に閾を設けざるは、義公の心の存する所を見るべし。その庵、天保年間に燒けたれども、規模用材等悉く舊によりて再築せりとかや。さすがは烈公也。
七 勿來關
關本にて汽車を下り、平潟市街を過ぎて、八幡山より平潟灣を見下せば、眺望亦佳なる哉。この地、十數の妓樓あれど、波に漂へる舟夫の輩が、舟よりはましなりと思ふにすぎざるべし。幾個の洞門を過ぎ盡して、磐城に出づ。海※(「さんずい+(从/巫))より七八町上りたる處、傅ふ、これ勿來關址なりと。馬上弓を横へて歌を吟ぜし八幡太郎、今何づれの處にかある。路もせに散りけむ山櫻も既に枯れつくしぬ。星霜こゝに八百年。將軍の昔を問へば、松籟むなしく謖々たり。
八 湯本温泉
濱街道唯一の温泉場、兼ねて唯一の温柔郷たる湯本温泉は、小山の間にある別天地也。汽車この地を過ぎ、石炭坑數箇處この附近に發見せられ、その機械場、常に煤煙を吐くに至りて、風致頓に俗了せり。されど、市街中に崛起せる觀音山にのぼれば、矚目頗る閑雅也。數十の温泉宿、悉く脚下にあり。東山逶迤として、恰も畫けるが如し。
『送りませうかよ、天王崎へ。それで足らずば、船尾まで』とは、都にゆく客を送るなるべし。妓樓市街の中にありて、宿屋より遙に立派なるもの多かりしが、福島縣下は妓樓の市街中にあるを禁じたるを以て、四軒まで減じ居りし妓樓はたゞ一軒となりて、市街の外に移りぬ。妓樓は變じて宿屋となりぬ。而して藝妓の數、娼妓に幾倍するに至れりとかや。
美人欄によりて一高樓を指して曰く、もとこれ妓館也。今もなほ記す。去年の春の暮、そこの妓館の一遊女、美にして利口なりしも、男に惚れてはのろき女性のならはし、男の心かはれるを見て、誓詞書かせんとて、紙とりゆきたるひまに、男逃げゆきぬ。あと追へど、及ばず。女終に熱湯のわき出づる槽中に入りて爛死せるこそいたましけれ。その湯槽は是れなりと指す。槽は蓋ありて、熱湯は見えず。盛んに立ちのぼる湯氣は、むかし李夫人のあらはれし反魂香もかくやと見ゆる夕べの空、湯氣の末に一痕の缺月かすか也。
九 湯ノ嶽
湯本温泉、一に三函の湯と稱す。湯ノ嶽の頂に、三個の石あり。函に似たり。温泉の根原なれば、これを取りて、かくは名づけたるなりとは受取りがたけれど、久しく書窓の下に鎖したる健脚を伸ばさむとて、導者一人やとひて立ち出づ。
湯ノ嶽の麓にいたれば、小野田炭坑あり。馬小屋の如き人家の立ちならべるは、坑夫の住居なるべし。山中に一區を造りて、物賣る家二三軒あり。飮料には一溪の水を分ち、上流に汚れたる衣を洗ふものあれば、下流には米とぐものあり。三四疊ばかりの小屋の中に、妻もこもれり、二三人子供もこもれり。住めばこゝも都なるべし。君と共に住めば手鍋さげてもと、青春の戀にうかるゝ都の若き男女に、かゝるさま見せてやりたし。
導者は、六十ばかりの老人也。自から稱す、汽車の通ぜざりし頃は、車夫を業とし、東京まで二日半にて走りつき、得たる賃錢を紅樓に一擲して豪遊せしも、すでに一炊の夢に歸しぬ。君よ、我に湯本の花柳界の事を問ひ給ふこと莫れ。老來絶えて芳ばしき夢を結ばず。湯本の驛外、半頃の地を求めて、暮耕朝耨、かくて我生涯は終らむとする也と。
二日半にて六十里の路を走りし男も、老いては、さまで健ならず。われは蕨を採り行くに、導者はなほ遲れがち也。頂上に到れば、一木なし。一面は海、三面は山、常磐の山海、指顧の中に在り。導者は一々山嶽の名を指さし教へむとすれど、暫らく休息せよ、さまで記するに足るべき名山もなしとて、岩に腰かけて、煙草を吹かしつゝ眺望すること多時。
歸路、頂上より七八町下りたる所、一羽の雉、地にすわりて、人を見れども動かず。げにや燒野のきゞす夜の鶴、子をかへすにやあらむと、横目に見て、過ぎ去らむとすれば、導者もまた早く之を認め、むざんや、棒を以て之をなぐる。雉驚いて空に上ること三四尺。力なく地に落ちて又飛ぶこと能はず。眼なほ瞑せずして、口に鮮血を吐く。そのすわりし跡を見れば、果して數個の卵ありき。ひどきことをするもの哉。親鳥はせむかたなし。せめて卵は鷄にでもかへさせむとて、導者に持たせて、山を下れり。谷底遙に雄雉の聲を聞く。雌を呼ぶにやとあはれ也。
一〇 松川浦
相馬の野を邊ぐるに、また當年の野馬を見ず。相馬氏の故城址は、中村驛外にあり。城門、城濠、石壁なほ存す。今宵は原釜の海水浴旅館に宿らむとて、中村停車場より車にのり、細田入江に至りて、車をすて、舟に上る。
余はこれより松川浦に浮ばむとする也。松川浦は松島に次ぐ東奧の奇勝と稱せらるゝ處、余は多年之を夢寐に見しが、今現にその地に來れり。うれしさ譬ふるに物なし。
されど、夕陽は用捨なく西に沈めり。暮色早や灣々を罩めつくせり。われ舟夫に向ひて、舟を原釜の方に進めよと云へば、日暮れたりとも、せめて松川村まで至りて、然る後に原釜に赴き給へといふ。いなとよ、名だゝる勝地、闇の中に見て過ぎむは、殘り多し。明朝を期して、重ねて來り見むと云へば、さらばとて、舟夫舟を蘆荻の間につなぎ、余を導いて一旅館に至り、明朝を約して歸り去れり。
時節はづれのこととて、女中はひとりも居らず。宿の妻は、中村の本店にありとて、主人自から食物を調理し、自から膳を運び來りて、杯酌に侍す。木訥仁に近き男也。なまじひの女中などより却つて興ある心地して、快く酒のみて寢につけり。
翌朝、朝飯を終れば、昨日の舟夫、既に來り居たり。荷物は宿屋に置きて、酒肴を持たせて、汀邊に赴けば、舟は昨夕つなぎしまゝに横はれり。舟夫は陸路家にかへり、また陸路より來れる也。
いと晴れわたりたる日也。舟は文字島さしてゆく。水淺くして、扁舟膠して動かざること屡〻也。舟夫遙に右方の老松數株生ひたる孤丘を指して曰く、これ十二景の一なる川添の森也。舟夫又一帶の長丘の中に蘭若の見ゆる處を指して曰く、これ紅葉の岡也。紅葉の岡の盡きたる處、水中に草木なき孤岩立つ。舟夫曰く、これ文字島。文字島と竝びて、稍〻大に、岩あり、樹木あるもの、曰く沖島也。舟、兩島の間の橋下をくゞりてゆけば、右の方遙に一帶の松洲を見る。曰く、松沼の濱也。その南に、梅川、鶴巣野の勝地あれど、遠くして見えず。舟左に轉じて、中洲に至る。洲上を散歩す。砂清く、松小にして奇也。對岸一帶の長洲長さ一里半、喬松生へつゞけり。曰く、長洲の磯也。また舟に上り、左の方松川村さしてゆく。この間、水中に四つ手小屋多し。漁期にあらぬにや、小屋には人なくして、四つ手網むなしく空に懸れり。また松川浦上の好風致也。漸くにして漁家のならべる岸に達す。曰く、これ松川浦也。曲折してひろがれる松川灣、ここより幅數間、長さ四五十間ばかりの川形をなして、海に接す。曰く、飛島の湊也。湊と云へど、わづかに小なる漁舟を通ずるばかりの處也。この灣口の北を扼せる一帶の岡を水莖山といひ、水莖山の最端を鵜の尾岬といふ。舟を下りて、陸に上れば、夕顏觀音あり。觀音堂後をめぐりて、鵜の尾岬にいたる。松川浦の全景、悉く眼前に在り。長汀曲浦の觀、つぶさに其の美をつくせり。屏風の如く立ちかこめる磐城の山々、或ひは遠く、或ひは近く、秀色を送りて、一層の趣を添ふ。島の奇なることは、松島にくらぶべくもあらねど、屏風の如き山々と、長汀曲浦の觀とは、或ひは勝るとも劣らざるを覺ゆ。
舟を回し、松川の漁村を右に見て、原釜の方に向へば、陸より少し離れて、文字島ばかりの大きさの島あり。曰く離崎也。離崎、鵜の尾岬、水莖山、松川浦、長洲の磯、鶴巣野、梅川、松沼濱、沖が島、文字島、紅葉の岡、川添の森、これ松川浦の十二景とする所なれども、さばかりの景致あるにあらず。
水淺き浦とて、貝を拾ふもの多し。玩具のくゝり猿の如き樣して、水に俯する母の背に負はれたる赤兒、泣いてやまざるも、母は之を懷くひまなし。乳ほしきものをとあはれ也。
浦を一周して、もと舟出せし處に來たる。松川浦の遊觀、こゝに終れり。余はこれより中村にかへらむとて、舟夫を宿にやりて、荷物をとり來らしむ。待つ間の退屈まぎれに、舟を棹さむとするに、まがり〳〵て、すゝまず。げに櫓三日、棹三年と云ひけむ、舟夫になるも、容易なる事にあらずと獨り笑ひき。(明治四十年)
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Medium
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僕は夜型なんだ。
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陶器だけで美はわからぬ。あらゆるものの美を知って、それを通して陶器の美もわかる。そして本当にわかるということは、本当にそのものに惚れることである。
本当に惚れることが出来るか、これが問題である。下手ものにでも自分が真剣に惚れるなら、そのものの持ち味だけはわかるだろう。多くは他動的である。他人の言葉に引きずりこまれることが多い。甚だしいのは美に見えなくて金に見える。また、半分美に見えて、半分金に見えるというのもある。
各自の眼には程度がある。各自の力の範囲だけしかわからぬ。従って、百人のうち一人の偉大な評価力をもったものがわかると、他の九十九人の人の見る美はムダになる。とかく世間にはでたらめが多い。自分ではそう感じなくてもでたらめである。
ものの美を見るのは、単に眼慰みか、それとも心の友だちとするのか。心の友だちとすることは魂と魂との交流がなくてはならぬ。そうなれば本物であり、極楽の世界である。ちょうど、この頃の絵慰みのように、客向きや展覧会をねらったもののなかには美はない。どうも心臓を剖られるというわけにはいかぬのが今の絵画だ。
作品が無心に作られたものであり、無我の境において作られたものであれば心打たれる。だがなかなか無我の境地にはなれない。それには修行が必要だ。多くは虚栄心に動かされて仕事をする。これではいいものが出来るわけがない。信仰の的となる仏画は、これ最初、無落款であった。のちに落款を入れるようになった。
こうなると信仰的崇高さは失われて玩具的になる。自分が口を極めて言うことは、とかく世間とは反対になる。美術界には掘り出しということがある。これも計らざる掘り出しをしてもらいたいものだ。掘り出しをやる人には、美が見えなくて金高が見えることが多い。それではいかぬ。
また、いいものばかりある店で、その中からいいものを求めることは容易である。安物の中から更に値切って求めるような行き方をする人の根性は、汚なくて、いいものは集まらない。
鍋島、柿右衛門には工芸美術的なよさはあるが、精神力には欠けている。そこへ行くと古九谷には道楽気があって、芸術味が含まれている。無我夢中になってやった仕事には魂が入っている。古九谷と鍋島には町人と武士の違いがある。町人の道楽には案外面白いところがある。
要するに魂を刳る美が欲しい、ということである。(昭和二十二年)
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Medium
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問題はいはゆる国民錬成の効果についてといふのであるが、私はこの錬成といふ意味を、特定の団体なり機関なりが、その企画として一定数の人員を集め、ある方式によつて一定期間錬成を施すといふ、そのことだけに限らず、時局そのものの必然的な圧力が、むしろ一種の指導的、推進的な作用となつて、国民全体の自覚と発奮を促し、そこに期せずして「錬成」の実を挙げてゐるといふ、そのことをも含めて考へてみたいのである。
錬成には、もとより精神的な面と、肉体的な面とがあり、この両者は、日本的な「行」といふやうな型で統一されねばならぬことは、すでに早くから気づかれてゐるが、一般に、その趣旨が、どの程度まで徹底してゐるか多少疑問である。
つまり、指導者と錬成を受けるものとの間に、果して共通の希望と確信とができてゐるかどうかといふことである。私の知つてゐる範囲では、どこでも、それが多少有耶無耶に終り、たゞ、なにか効果がありさうだといふぐらゐのところで、双方満足してゐるやうなのが多い。
それは錬成そのものの「方法」にあまり気をとられすぎて、なんのために、如何なる理想を目指して、それが行はれるのかといふ根本の問題を考へ、それを徹底させてゐるところがわりにないからである。
そこへ行くと、青少年、殊に学生生徒の近頃の変り方は相当に眼に立つて来た。時に中等学校の生徒は、例外もあるが、なかなか、しつかりして来たやうである。しかも、形の上のことだけれども、なにか彼等のうちに新しい光明が湧いて来たのではないかと思はせるやうな風貌に、ちよいちよい街で出会ふ。頼もしい限りである。
ところで、私は「日本人の錬成」といふことについて、国民一般が、たゞ単に時局の要請に応へて、といふやうな、必ずしも受動的とはいへまいが、多少歯を食ひしばるやうな「自分の鍛へ方」に満足せず、やはり、指導者たちもその気になつて、第一に、日本人たるの「矜り」をいよいよ高くもち、それにふさはしい「嗜み」を深く身につけ、日本人相互の間に親和と尊信の念を起させると同時に、それぞれの立場において、決して「不覚」をとらない、品位ある国民の一員となること、今や「錬成」の第一義として掲げなければならない時期だと思ふ。
これが国民一般の間によく理解され、十分の共鳴を呼び得たならば、家庭生活においても、また社会生活においても、一段の飛躍が期待せられるのではないかと思ふ。
それがためには、指導者の側において、是非とも「たしなみ」といふ言葉のもつ日本的な「美しさ」を活かした指導法を研究してほしい。この含蓄ある、鋭い、しかも極めて綜合性に富んだ言葉の内容は、いふまでもなく「苦しみ」と「好み」との渾一融合であつて「道にいそしむことによつて覚悟をつくる」日本人独得の直観力を示したものである。
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Hard
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久野の家を出た三人は、三丁目から切通しの方へ、ブラ〳〵歩いていた。五六年前、彼等が、一高にいたときは、この通を、もっと活溌な歩調でいくたび散歩したか分らなかった。
その時は、啓吉も久野も、今度久しぶりで、ヒョックリ上京して来た青木も、銘々それ〴〵に意気軒昂たるものであった。その中でも、青木が一番自信を持っていた。その天才的な態度や行動のために、みんなからも一番輝く未来を持つように思われていた。
啓吉や久野も、いつの間にか、青木には一目も二目も置いていた。が、運命は皆の期待した通りには、めぐらなかった。みんなから、一番嘱望されていた青木は、大学に入ったその年に、彼自身の不行跡から、学校にいられなくなり、啓吉や久野にも随分不義理な事をして、日の目を見ないような山陰の田舎に埋もれてしまった。田舎で英語の私塾を開いているといったような噂を、啓吉は誰からともなく聞いていた。その青木が何の前触もなく突然上京して、啓吉を訪ねて来たのである。
青木が、みんなの期待を裏切って、埋もれてしまったのと反対に、啓吉も久野も文壇的には自分達の予想以上の世の中に出ていた。
「文学に志したのだから、せめて翻訳でもして、文名を成したい。」
そんな謙虚な事を考えていた啓吉は今では、思いがけなくも新進作家として、相当な位置を占めている。久野などは啓吉よりも、更に一年も早く文壇に出てしまっている。
久野も啓吉も黙って歩いていた。五六年前には、何の相違もなかった三人の間に、今では社会的には、ハッキリとした区劃が付いている。
久野敏雄といえば、文学好きの青年は、大抵名前だけは知っている。が、青木好男といっても、誰が知っているだろう。五六年前は、同窓の間では、敬意と、かすかではあるが、驚異とを以て、呼ばれたその名前が、今では何人も知らない平凡な普通人の名前になってしまっている。
「僕ね。今度台湾の方へ行くようになったのだよ。総督府に調査部というのがあってね。そこへ行くことになったんだ。」
三人の沈黙を破るように、青木は昔ながらの、美しい沈んだ声でいった。
「そうか。それは結構だね。」と、久野も啓吉も同時にいった。が、二人ともそれについて、何の意味もなかった。思索家として、優れた芽を持っていそうに見えた青木が、調査部とか何とかいう雑務に従事するということが、久野や啓吉の心を暗くした。
三人は、また黙って歩いた。一高時代の回想談などは、今の三人の顔触れでは、どれもこれも皮肉になるので、啓吉も久野も話し出さなかった。
それよりも、啓吉は今もっと、話したいことは今度B社から出ることに定まった自分の第一の創作集のことだった。昨日話が定まって以来、自分だけの胸に、蔵って置くのには、あまりに嬉し過ぎることだった。第一の創作集が、世に出るときの嬉しさは、そうした経験のある人でなければ、分らないことであるが。
「僕の本ね。到頭定まったよ。B社から出すことにしちゃった。」
到頭啓吉は、小声で久野にいった。さっきから、話題に困っていたらしい久野は、解放されたように、それに応じた。
「うむ! B社から、それはいゝね。幾ら刷るのだ。」
「二千五百部。」
「そうだろう。僕のも同じだった。装幀はやっぱり右田茂かい。あっさりしていゝね。」
「校正は、自分でやらなきゃいけないのかね。」
「B社なら、初校さえ見て置けば、再校は向うで見て呉れるよ。」
B社からもう二三度、本を出したことのある久野は、先輩ぶっていった。
啓吉は、こうした話が、どんな結果を青木の心に与えているかということが、分り切っていながら、やっぱり止められなかった。青木が、台湾へ行くよりも、こうした話の方が、幾何啓吉達の興味を支配したか分らなかった。
三人は、またこだわりのある沈黙を続けながら、池の端へ出て、そこにあるカフェーへ立寄った。カフェーへでも立寄っている方が、時間が過し易かったからである。
話は、また暫くは高等学校時代へ帰った。どんなに、銘々食意地が張っていたか、カツレツ一皿を食うために、どんなに金の工面をしたか、教科書をまで売払って、食ったり飲んだりしてしまったか、そうした話題は、今の場合三人が、一番安易な心で、耽り得るものであった。が、久野も啓吉も、それ以来の長い都会生活で、だん〳〵趣味が、洗練されていつの間にか、こうしたカフェーの料理などには、満足されなくなっていた。
青木が、高等学校時代と同じような、熱心な態度で、コーヒーを飲んだり、料理を食ったりしていることが、啓吉の心を暗くした。
カフェーを出た三人は、又ずる〳〵べったりに本郷まで歩いて来た。まだ十時頃であった。が、三人でいる妙な心の緊張には、啓吉も久野も飽いていた。
が、三丁目で電車が来ても、青木はまだ乗りそうにしなかった。三人は、そこで十分ばかり、ぼんやり立っていた。幾年振りかに上京した青木には、いろ〳〵な感慨が、胸の中にこみ上げているのかも知れなかった。が、啓吉は青木を送った後で、久野と二人で、青木のことについて、話して見たいという要求が、かなり強く感じられた。が、青木は自分一人だけ、別れて帰りそうには見えなかった。
「君は、この電車に乗ったら、乗換がないのだろう。」
啓吉は、悪いと思ったが、つい〳〵口が滑ってしまった。青木はやっと帰るのを決心したように、
「そうだ! じゃ失敬しようかな。」と、いったまゝ、さすがに、しんみりと、
「もう会わないかも知れないよ。明日中に立つ筈だから。」と、いった。
その小柄な身体を、聳やかして、電車に乗る後姿を見ていると、啓吉の心にも、旧友に対する純な感情が、こみ上げて来るのだった。
青木を見送ってしまうと、久野も啓吉も、解放されたようにホッとした。久野は今迄とは別人のような軽い口調でいった。
「おい! ソーダ水でも飲もうじゃないか。」
「うむ飲もう。」
啓吉も、久野の気持が分った。二人とも青木についての感慨を話して見たかったのだ。
つい近くのカフェーの卓に向うと、久野はウェイトレスが持って来たソーダ水を、お役目のように、すゝりながらいった。
「青木の奴、ちっとも変っていないじゃないか。」
「僕も、それで駭いたのだ。昔とちっとも変っていないね。」と、啓吉も全く同感だった。
「でも、分らないものだね。青木だけが落伍するなんて。」
久野は、そういいながら、ソーダ水をグッと、飲み乾した。
そうだ! 高等学校の末年から、大学に移る頃には、久野も啓吉も、青木に劣らないような、乱暴な出鱈目な生活を続けたものだった。それだのに、危い橋を渡りながら、二人とも真面目に学校を勉強した同窓などよりも、社会的には出世しているといってもよかった。
「俺達は考えて見ると運がいゝんだよ。」
そういいながら、啓吉もソーダ水をグッと飲んだ。
それは、ソーダ水であった。が、二人とも無意識ではあったが、お互いの幸運を祝って、祝盃を挙げている訳だったのだ。
| 0.404
|
Medium
| 0.596
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| 2,886
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今は良い友達だが、初めはお互いに好きではなかった。
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Easy
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私が正月号の改造に発表した「宣言一つ」について、広津和郎氏が時事紙上に意見を発表された。それについて、お答えする。
広津氏は、芸術は超階級的超時代的な要素を持っているもので、よい芸術は、いかなる階級の人にも訴える力を持っている。それゆえ私が芸術家としての立場を、ブルジョア階級に定め、その作品はブルジョアに訴えるために書かれるものだと、宣言したに対して、あまりに窮屈な平面的な申し出であると言っていられる。芸術に超階級的超時代的の要素があるのは、広津氏を待たないでも知れきった事実である。その事実は芸術に限られたことでもない。政治の上にも、宗教の上にも、その他人間生活のすべての諸相の上にかかる普遍的な要素は、多いか少ないかの程度において存在している。それを私は無視しているものではない。それはあまりに明白な事実であるがゆえに、問題にしなかっただけのことだ。
私の考えるところによれば、おのずから芸術家と称するものをだいたい三つに分けることができる。第一の種類に属する人は、その人の生活全部が純粋な芸術境に没入している人で、その人の実生活は、周囲とどんな間隔があろうと、いっこうそれを気にしない。そうして自己独得の芸術的感興を表現することに全精力を傾倒するところの人だ。もし、現在の作家の中に、例を引いてみるならば、泉鏡花氏のごときがその人ではないだろうか。第二の人は、芸術と自分の実生活との間に、思いをさまよわせずにはいられないたちの人である。自分の芸術に没入することは、第一の人のようにあることはどうしてもできない。自分の実生活と周囲の実生活との間に或る合理的な関係をつくらなければ、その芸術すら生み出すことができないと感ずる種類の人である。第三の種類に属する人は、自分の芸術を実生活の便宜に用いようとする人である。その人の実生活は周囲の実生活と必ずしも合理的な関係にある必要はない。とにかく自分の現在の生活が都合よくはこびうるならば、ブルジョアのために、気焔も吐こうし、プロレタリアのために、提灯も持とうという種類の人である。そしてその人の芸術は、当代でいえば、その人をプティ・ブルジョアにでも仕上げてくれれば、それで目的をはたしたと言ってもいいような芸術である。芸術家というものの立場より言うならば第一の種類の人は最も敬うべき純粋な芸術家であり、第二の種類の人は、芸術家としては、いわゆる素人芸術家をもって目さるべきものであり、第三の種類の人は悪い意味の大道芸人とえらぶ所がない人である。
ところで、私自身は第一の種類に属する芸術家でありうるかというのに、不幸にしてそうではない。私は常に自分の実生活の状態についてくよくよしている。そして、その生活と芸術との間に、正しい関係を持ちきたしたいと苦慮している、これが私の心の実状である。こういう心事をもって、私はみずからを第一の種類の芸術家らしく装うことはできない。装うことができないとすれば、勢い「宣言一つ」で発表したようなことを言わねばならぬのは自然なことである。「宣言一つ」には、できるだけ平面的にものを言ったつもりだが、それでもわからない人にはわからないようだから、なおいっそう平面的に言うならば、第一、私は来たるべき文化がプロレタリアによって築き上げらるべきであり、また築き上げられるであろうと信ずるものである。ブルジョアジーの生活圏内に生活したものは、誰でも少し考えるならば、そこの生活が、自壊作用をひき起こしつつあることを、感じないものはなかろう。その自壊作用の後に、活力ある生活を将来するものは、もとよりアリストクラシーでもなければ、富豪階級でもありえぬ。これらの階級はブルジョアジー以前に勢力をたくましゅうした過去の所産であって、それが来たるべき生活の上に復帰しようとは、誰しも考えぬところであろう。文芸の上に階級意識がそう顕著に働くものではないという理窟は、概念的には成り立つけれども、実際の歴史的事実を観察するものは、事実として、階級意識がどれほど強く、文芸の上にも影響するかを驚かずにはいられまい。それを事実に意識したものが文芸にたずさわろうとする以上は、いかなる階級に自分が属しているかを厳密に考察せずにはいられなくなるはずだ。
しからば、来たるべき時代においてプロレタリアの中から新しい文化が勃興するだろうと信じている私は、なぜプロレタリアの芸術家として、プロレタリアに訴えるべき作品を産もうとしないのか。できるならば私はそれがしたい。しかしながら、私の生まれかつ育った境遇と、私の素養とは、それをさせないことを十分意識するがゆえに、私は、あえて越ゆべからざる埓を越えようは思わないのだ。私のこんな気持ちに対する反証として、よくロシアの啓蒙運動が例を引かれるようだ。ロシアの民衆が無智の惰眠をむさぼっていたころに、いわゆる、ブルジョアの知識階級の青年男女が、あらゆる困難を排して、民衆の蒙を啓くにつとめた。これが大事な胚子となって、あのすばらしい世界革命がひき起こされたのだ。この場合ブルジョアジーの人々が、どれだけ民衆のために貢献したかは、想像も及ばないものがある。悔い改めたブルジョアは、そのままプロレタリアの人になることができるのだ。そう、ある人は言うかもしれない。しかし、この場合における私の観察は多少一般世人と異なっている。ロシアの民衆はその国の事情が、そのまま進んでいったならば、いつかは革命を起こすに、ちがいなかったのだ。
インテリゲンチャの啓蒙運動はただいくらかそれを早めたにすぎない。そして、それを早めたことが、実際ロシアの民衆にとって、よいことであったか、悪いことであったかは、遽かに断定さるべきではないと私は思うものだ。もし、私の零細な知識が、私をいつわらぬならば、ロシアの最近の革命の結果からいうと、ロシアの啓蒙運動は、むしろ民衆の真の勃興にさまたげをなしていると言っても差し支えないようだ。始めは露国のプロレタリアのためにいかにも希望多く見えた革命も、現在までに収穫された結果から見るならば、大多数の民衆よりも、ブルジョア文化によって洗礼を受けた帰化的民衆によって収穫されている。そして大多数のプロレタリアは、帝政時代のそれと、あまり異ならぬ不自由な状態にある。もし、ブルジョアとプロレタリアとの間に、はじめから渡るべき橋が絶えていて、プロレタリア自身の内発的な力が、今度の革命をひき起こしていたのならば、その結果は、はるかに異なったものであることは、誰でも想像するに難くないだろう。
しかしこうはいったとて、実際の歴史上の事実として、ロシアには前述したような経路が起こり来たったのだから、私はその事実をも否定しようとするものではない。ブルジョアジーをなくするためには、この階級が自己防衛のために永年にわたって築き上げたあらゆる制度および機関(ことに政治機関)をプロレタリアの手中に収め、矛を逆にしてブルジョアジーを亡滅に導かねばならぬ。ブルジョアジーが亡滅すれば、その所産なるすべての制度および機関はおのずから亡滅して、新たなる制度および機関が発生するであろうとは、レニン自身が主張するところで、実際において、歴史的事実としては、かくのごとき経路が今行なわれつつあるようだ。無産者の独裁政治とは、おそらくかかるものを意味するのであろう。まことに一つの生活様式が他の生活様式に変遷する場合において、前代の生活様式が一時に跡を絶って、全く異なった生活様式が突発するという事実はない。三つの生活様式の中間色をなす、過渡期の生活が起滅する間に、新しい生活様式が甫めて成就されるであろう。歴史的に人類の生活を考察するとかくあることが至当なことである。
しかしながら思想的にかかる問題を取り扱う場合には必ずしもかくある必要はない。人間の思想はその一特色として飛躍的な傾向をもっている。事実の障礙を乗り越して或る要求を具体化しようとする。もし思想からこの特色を控除したら、おそらく思想の生命は半ば失われてしまうであろう。思想は事実を芸術化することである。歴史をその純粋な現われにまで還元することである。蛇行して達しうる人間の実際の方向を、直線によって描き直すことである。もし社会主義の思想が真理であったとしても、もし実行という視角からのみ論ずるならば、その思想の実現に先だって、多くの中間的施設が無数に行なわれねばならぬ。いわゆる社会政策と称せられる施設、温情主義、妥協主義の実施などはすべてそれである。これらの修正策が施された後に、社会主義的思想ははじめて実現されるわけになるのだ。それならば社会政策的の施設する未だ行なわれようとはしなかった時代に、何を苦しんで社会主義の思想は説かれねばならなかったか。私はそれに答えて、社会主義はその背景に思想的要素をたぶんに含んでいたからだといわねばならぬ。そしてこの思想がかくばかり早く唱えだされたということは、決して無益でも徒労でもないといいたい。なぜならば、かくばかり純粋な人の心の趨向がなかったならば、社会政策も温情主義も人間の心には起こりえなかったであろうから。
以上の立場からして私は思想的にいいたい。「来たるべき文化がプロレタリアによって築かれるものならば、それは純粋にプロレタリア自身が有する思想と活力とによって築かれねばならぬ。少なくともそういう覚悟をもってその文化を築こうという人は立ち上がらねばならぬ。同時に、その文化の出現を信ずる者にして、躬ずからがその文化と異なった生活をしていることを発見した者は、たといどれほど自分が拠ってもって生活した生活の利点に沐浴しているとしても、新しい文化の建立に対する指導者、教育者をもってみずから任ずべきではなく、自分の思想的立場を納得して、謹んでその立場にあることをもって満足しなければならない。もし誤って無思慮にも自分の埓を越えて、差し出たことをするならば、その人は純粋なるべき思想の世界を、不必要なる差し出口をもって混濁し、なんらかの意味において実際上の事の進捗をも阻礙するの結果になるだろう」と。この立場からして私は何といっても、自分がブルジョアジーの生活に浸潤しきった人間である以上、濫りに他の階級の人に訴えるような芸術を心がけることの危険を感じ、自分の立場を明らかにしておく必要を見るに至ったものだ。そう考えるのが窮屈だというなら、私は自分の態度の窮屈に甘んじようとする者だ。
私のいった第一の種類に属する芸術家は階級意識に超越しているから、私の提起した問題などはもとより念頭にあろうはずがない。その人たちにとっては、私の提議は半顧の価値もなかるべきはずのものだ。私はそれほどまでに真に純粋に芸術に没頭しうる芸術家を尊もう。私はある主義者たちのように、そういう人たちを頭から愚物視することはできない。かかる人はいかなる時代にも人間全体によっていたわられねばならぬ特種の人である。しかし第二の種類に属する芸術家である以上は、私のごとく考えるのは不当ではなく、傲慢なことでもなく、謙遜なことでもなく、爾かあるべきことだと私は信じている。広津氏は私の所言に対して容喙された。容喙された以上は私の所言に対して関心を持たれたに相違ない。関心を持たれる以上は、氏の評論家としての素質は私のいう第一の種類に属する芸術家のようであることはできないのだ。氏は明らかに私のいう第二か第三かの芸術家的素質のうちのいずれかに属することをみずから証明していられるのだ。しかもその所説は、私の見る所が誤っていないなら、第一の種類に属する芸術家でも主張しそうなことを主張していられる。もし第一の種類に属する芸術家がそれを主張するようなことを仮想したら、(その芸術家はそんなことを主張するはずはないけれども)あるいはそれは実感として私の頭に響くかもしれない。しかしながら広津氏の筆によって教えられることになると、私にはお座なりの概念論としてより響かなくなる。なぜならば、それは主張さるべからざる人によって主張された議論だからである。
さらに私の芸術家として作品を生かそうとする意味はどこにあるかということについては、「改造」誌上で一とおり申し出ておいたから、ここには再言しない。なにしろ私は私の実情から出発する。私がもし第一の芸術家にでもなりきりうる時節が来たならば、この縷説は鶏肋にも値せぬものとして屑籠にでも投じ終わろう。
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………僕は何でも雑木の生えた、寂しい崖の上を歩いて行った。崖の下はすぐに沼になっていた。その又沼の岸寄りには水鳥が二羽泳いでいた。どちらも薄い苔の生えた石の色に近い水鳥だった。僕は格別その水鳥に珍しい感じは持たなかった。が、余り翼などの鮮かに見えるのは無気味だった。――
――僕はこう言う夢の中からがたがた言う音に目をさました。それは書斎と鍵の手になった座敷の硝子戸の音らしかった。僕は新年号の仕事中、書斎に寝床をとらせていた。三軒の雑誌社に約束した仕事は三篇とも僕には不満足だった。しかし兎に角最後の仕事はきょうの夜明け前に片づいていた。
寝床の裾の障子には竹の影もちらちら映っていた。僕は思い切って起き上り、一まず後架へ小便をしに行った。近頃この位小便から水蒸気の盛んに立ったことはなかった。僕は便器に向いながら、今日はふだんよりも寒いぞと思った。
伯母や妻は座敷の縁側にせっせと硝子戸を磨いていた。がたがた言うのはこの音だった。袖無しの上へ襷をかけた伯母はバケツの雑巾を絞りながら、多少僕にからかうように「お前、もう十二時ですよ」と言った。成程十二時に違いなかった。廊下を抜けた茶の間にはいつか古い長火鉢の前に昼飯の支度も出来上っていた。のみならず母は次男の多加志に牛乳やトオストを養っていた。しかし僕は習慣上朝らしい気もちを持ったまま、人気のない台所へ顔を洗いに行った。
朝飯兼昼飯をすませた後、僕は書斎の置き炬燵へはいり、二三種の新聞を読みはじめた。新聞の記事は諸会社のボオナスや羽子板の売れ行きで持ち切っていた。けれども僕の心もちは少しも陽気にはならなかった。僕は仕事をすませる度に妙に弱るのを常としていた。それは房後の疲労のようにどうすることも出来ないものだった。………
K君の来たのは二時前だった。僕はK君を置き炬燵に請じ、差し当りの用談をすませることにした。縞の背広を着たK君はもとは奉天の特派員、――今は本社詰めの新聞記者だった。
「どうです? 暇ならば出ませんか?」
僕は用談をすませた頃、じっと家にとじこもっているのはやり切れない気もちになっていた。
「ええ、四時頃までならば。………どこかお出かけになる先はおきまりになっているんですか?」
K君は遠慮勝ちに問い返した。
「いいえ、どこでも好いんです。」
「お墓はきょうは駄目でしょうか?」
K君のお墓と言ったのは夏目先生のお墓だった。僕はもう半年ほど前に先生の愛読者のK君にお墓を教える約束をしていた。年の暮にお墓参りをする、――それは僕の心もちに必ずしもぴったりしないものではなかった。
「じゃお墓へ行きましょう。」
僕は早速外套をひっかけ、K君と一しょに家を出ることにした。
天気は寒いなりに晴れ上っていた。狭苦しい動坂の往来もふだんよりは人あしが多いらしかった。門に立てる松や竹も田端青年団詰め所とか言う板葺きの小屋の側に寄せかけてあった。僕はこう言う町を見た時、幾分か僕の少年時代に抱いた師走の心もちのよみ返るのを感じた。
僕等は少時待った後、護国寺前行の電車に乗った。電車は割り合いにこまなかった。K君は外套の襟を立てたまま、この頃先生の短尺を一枚やっと手に入れた話などをしていた。
すると富士前を通り越した頃、電車の中ほどの電球が一つ、偶然抜け落ちてこなごなになった。そこには顔も身なりも悪い二十四五の女が一人、片手に大きい包を持ち、片手に吊り革につかまっていた。電球は床へ落ちる途端に彼女の前髪をかすめたらしかった。彼女は妙な顔をしたなり、電車中の人々を眺めまわした。それは人々の同情を、――少くとも人々の注意だけは惹こうとする顔に違いなかった。が、誰も言い合せたように全然彼女には冷淡だった。僕はK君と話しながら、何か拍子抜けのした彼女の顔に可笑しさよりも寧ろはかなさを感じた。
僕等は終点で電車を下り、注連飾りの店など出来た町を雑司ヶ谷の墓地へ歩いて行った。
大銀杏の葉の落ち尽した墓地は不相変きょうもひっそりしていた。幅の広い中央の砂利道にも墓参りの人さえ見えなかった。僕はK君の先に立ったまま、右側の小みちへ曲って行った。小みちは要冬青の生け垣や赤鏽のふいた鉄柵の中に大小の墓を並べていた。が、いくら先へ行っても、先生のお墓は見当らなかった。
「もう一つ先の道じゃありませんか?」
「そうだったかも知れませんね。」
僕はその小みちを引き返しながら、毎年十二月九日には新年号の仕事に追われる為、滅多に先生のお墓参りをしなかったことを思い出した。しかし何度か来ないにしても、お墓の所在のわからないことは僕自身にも信じられなかった。
その次の稍広い小みちもお墓のないことは同じだった。僕等は今度は引き返す代りに生け垣の間を左へ曲った。けれどもお墓は見当らなかった。のみならず僕の見覚えていた幾つかの空き地さえ見当らなかった。
「聞いて見る人もなし、………困りましたね。」
僕はこう言うK君の言葉にはっきり冷笑に近いものを感じた。しかし教えると言った手前、腹を立てる訣にも行かなかった。
僕等はやむを得ず大銀杏を目当てにもう一度横みちへはいって行った。が、そこにもお墓はなかった。僕は勿論苛ら苛らして来た。しかしその底に潜んでいるのは妙に侘しい心もちだった。僕はいつか外套の下に僕自身の体温を感じながら、前にもこう言う心もちを知っていたことを思い出した。それは僕の少年時代に或餓鬼大将にいじめられ、しかも泣かずに我慢して家へ帰った時の心もちだった。
何度も同じ小みちに出入した後、僕は古樒を焚いていた墓地掃除の女に途を教わり、大きい先生のお墓の前へやっとK君をつれて行った。
お墓はこの前に見た時よりもずっと古びを加えていた。おまけにお墓のまわりの土もずっと霜に荒されていた。それは九日に手向けたらしい寒菊や南天の束の外に何か親しみの持てないものだった。K君はわざわざ外套を脱ぎ、丁寧にお墓へお時宜をした。しかし僕はどう考えても、今更恬然とK君と一しょにお時宜をする勇気は出悪かった。
「もう何年になりますかね?」
「丁度九年になる訣です。」
僕等はそんな話をしながら、護国寺前の終点へ引き返して行った。
僕はK君と一しょに電車に乗り、僕だけ一人富士前で下りた。それから東洋文庫にいる或友だちを尋ねた後、日の暮に動坂へ帰り着いた。
動坂の往来は時刻がらだけに前よりも一層混雑していた。が、庚申堂を通り過ぎると、人通りもだんだん減りはじめた。僕は受け身になりきったまま、爪先ばかり見るように風立った路を歩いて行った。
すると墓地裏の八幡坂の下に箱車を引いた男が一人、楫棒に手をかけて休んでいた。箱車はちょっと眺めた所、肉屋の車に近いものだった。が、側へ寄って見ると、横に広いあと口に東京胞衣会社と書いたものだった。僕は後から声をかけた後、ぐんぐんその車を押してやった。それは多少押してやるのに穢い気もしたのに違いなかった。しかし力を出すだけでも助かる気もしたのに違いなかった。
北風は長い坂の上から時々まっ直に吹き下ろして来た。墓地の樹木もその度にさあっと葉の落ちた梢を鳴らした。僕はこう言う薄暗がりの中に妙な興奮を感じながら、まるで僕自身と闘うように一心に箱車を押しつづけて行った。………
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或る大きな都会の娯楽街に屹立している映画殿堂では、夜の部がもうとっくに始まって、満員の観客の前に華やかなラヴ・シーンが映し出されていました。正面玄関の上り口では、やっと閑散の身になった案内係の少女達が他愛もないおしゃべりに夢中になっていました。
突然、駈け込んで来た女がありました。鬢はほつれ、眼は血走り、全身はわなわな顫えています。少女達は驚きながら訳を訊ねると、女はあわてて吃りながら言いました。
「私の夫が恋人と一緒に此処へ来ているのを知りました。家では子供が急病で苦しんでいます。その子供を、かかり付けのお医者様に頼んで置いて、私は夫をつれに飛んで来ました。どうか早く夫を呼び出して下さい」
少女達は同情して、その女や夫の名前を訊ねました。すると、流石に女は、自分の夫の恥を打ち明けた上で、名前まで知らせる事は躊躇しないではいられませんでした。思いまどった女は、
「名前だけは、私達の名誉の為め申されません。恋人を連れて此処へ来ている男ですよ。子供が苦しんでるのですから、早く呼び出して下さい」
と頻りに急き立てます。案内係りの少女達は、
「名前を告げなければ駄目です」
と言っても、その女は、
「それをどうにかして下さい」
と言ってききません。これには少女達も全く困ってしまいましたが、其のうち才はじけた一少女が、心得顔に筆を持って立札の上に、女の言葉をその儘そっくり書きしるして、舞台わきに持って行って立てました。
恋人を連れた男の方、あなたの本当の奥様が迎えにいらっしゃいました。お子様が急病だそうです、至急正面玄関へ。
俄然として座席は大騒ぎになりました。あちらからも、こちらからも立派な紳士が立ち上って正面玄関へ殺到しました。数十名の紳士達が殺到したのです。呆れてしまった少女達は、世の中の奥様達のことを考えて、実に気の毒と思いました。
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上司小劍は、明治七年十二月十五日に生まれ、昭和二十二年九月二日に死んだ、かぞへ年七十四歳であつた。
小劍は、親友の、徳田秋聲より三つ下であり、正宗白鳥より五つ上であつた。
小劍は奈良の生まれであり、小劍の父は攝津の多田神社の神主であつた。その父の名は延美といひ、その子の小劍の本名は延貴といふ。(それで、小劍の初期の作品のなかに神社と神主を題材にした小説が多いのである。)
小劍の處女作は、明治四十一年の八月に「新小説」に發表した『神主』である。明治四十一年といへば小劍の三十五歳の年であるから、それからずつと小説を書きつづけてゐれば、小劍は、もつとちやんとした作家になつてゐたかもしれない。
ところが、小劍は、その處女作を發表した年の十年ぐらゐ前から、讀賣新聞社にはひつて、社會部につとめながら、論説を擔當し、しかも、その論説は當時かなり好評を博してゐたので、そんな事でも氣をよくして、その十年ぐらゐの間、新聞記者を本職として、一所懸命に、つとめてゐたのであらう。それで、その間の小劍には、小説は、文字どほり、餘技であり、小遣ひ取りであつたかもしれない。
されば、小劍は、わりに評判のよかつた處女作を發表してからも、たいていの新作家のやうに、調子に乘るやうな樣子はほとんどなかつたけれど、それでも、矢つぎ早に小説を書いた。が、それらの小説は、特徴のやうなものはあつたけれど、氣の拔けたところがあるやうな作品ばかりであつた。そのかはり、小劍は、新聞記者としてはよく働いたらしく、明治四十三年には、文藝部長兼社會部長となり、大正四年には、編輯局長兼文藝部長兼婦人部長になつた。
その年(つまり、大正四年)の初夏、大學を出ると、すぐ、讀賣新聞社にはひつた。青野季吉が、ずつと後に、その時分の事を囘想して、「その前年『鱧の皮』で世評をかち得、さらに『父の婚禮』に集められた短篇集を發表し、長篇『お光壯吉』を世に問うてゐた小劍は、私の目には仰ぎ見たいやうな歴とした作家であつた。また文壇的にもほぼそれに近い存在となつてゐた。仕事の上役としての小劍は、ほとんど下役との接觸を避けるやうな、一種の遊離性を意識して保たうとしてゐたやうに見えた。今の私には、その氣持ちがかなりはつきり理解できるが、當時は、それを怜悧な保身術と解し、京阪の人間としての本性と結びつけて考へない譯にいかなかつた。さういふ小劍は、過去を語ることをひどく避けてゐたが、ただ一度、私に、半ば獨語的にかう云つたのを覺えてゐる。『相手の拔き身を素手で受けるぐらゐ、馬鹿な眞似はありませんからねえ。』おそらくこの言葉ぐらゐ、小劍を理解する上に、暗示にとんだ言葉はないと思ふ。小劍は、あらゆる意味において、『素手』でなかつた作家である」、と述べてゐる。
この青野の説は、小劍の、全面はあらはしてゐないが、半面ぐらゐは傳へてゐる。
ところで、私は、小劍の全盛期(といふものがあれば、それ)は大正三四年から十年ぐらゐまでである、と思ふ、つまり、その間の七八年か十年ほどが、小劍が、まづ「歴とした作家」として存在した時代であつて、それから後の小劍の作品は、嚴しくいへば、あらゆる作家がさうであるやうに、無理に書いたものが多いやうに思はれるからである。それは、小劍は、大正十一年から、ある新聞に、『東京』といふ四部作の長篇を書いてから、地方の新聞に通俗めいた小説を書いたことでもわかる。しぜん、私が讀んだ小劍の小説は、この大正のはじめの七八年か十年ぐらゐの間の作品である。
小劍の出世作は、たいていの人に知られてゐるやうに、大正三年の一月の「ホトトギス」に出た『鱧の皮』である。これは非常な好評を博した。しかし、『鱧の皮』は、あらゆる評判になつた作品がさうであるやうに、何人かの批評家が、最大級の言葉で、「これは傑作である」、と吹聽するやうに稱讚したために、多くの人が、云ひつたへ聞きつたへして、「あれは傑作だ」、「あれはおもしろい小説ださうだ」、と、附和雷同して、傑作にまつりあげたやうなところもある。
それはそれとして、前に述べたやうに、小劍は、この『鱧の皮』によつて、いはゆる文壇的地位を確立したのであつた。それで、小劍は、大正五年の一月から、新聞社には文藝部長といふ名目だけ殘して、創作に專心するやうになつた。
ところで、今、『鱧の皮』を讀みかへして見ると、この小説は、書き方は、そのころ流行してゐた自然主義の小説と共通した、寫實的ではあるが、さうして、趣向は古めかしくて通俗的なところさへあるけれど、全體に見れば、まづ渾然とした作品である。それから、この小説の特色は、作ちゆうの人物たちのつかふ大阪の言葉が實に巧みな事である、(大阪の庶民のつかふ大阪の言葉をもつとも巧みにこなしてゐるのは、私のせまい讀書の範圍で知るかぎりでは、織田作之助であつたけれど、そこに織田の好みがはひつてゐたのが疵であつたから、今のところでは、小劍の右に出づるものはない。)
さて、この集にをさめられてゐる小説は、たいてい、私のいふ小劍が脂の乘つてゐる時分に、書いたものであるが、ある批評家は、この頃の小劍を「情話作家の一人」と稱してゐる。小劍を『情話作家』ときめてしまふのは考へ物であるが、『父の婚禮』にも、『石川五右衞門の生立』にも、『兵隊の宿』にも、『ごりがん』や『太政官』のやうなものにも、その中に、それぞれ、形のかはつた色事が、かならず、書かれてある。『色事』とは、いふまでもなく、「男女間のみだらな行ひ」といふ程の意味である。さうして、小劍は、その色事の場面をあらはす時、殊更に興味をもち、時には舌なめづりをして書いてゐるかと思はれるやうな事さへある。さうして、時には變態的かとさへ思はれる事もある。(その一例は『太政官』である。)ところが、かと思ふと、齒がうくやうな戀愛を書くこともある。その前の例は、『太政官』のなかの、主人が、大幅の清少納言の後向きの姿の「繪姿の頸筋のあたり」を、舌の尖端でかるく䑛める、といふところであり、その後の例は、『兵隊の宿』のなかの、お光といふ女主人公が、をさな馴染の小池といふ畫家を、(その畫家が東京から大阪ゆきの汽車に乘つてゐる姿を、)夢みるやうに、空想する場面である。(この小池壯吉は、小劍その人を思はせる人物で、未完成の中篇小説『お光壯吉』の男主人公である。)(この小説について、後に、作者は、「二十世紀の心中物語」と述べてゐるが、小劍にもこのやうな好みもあつたのである。)
それから、『太政官』についても、小劍は、やはり、後に、「淺薄愚劣なる今の政治なるものと政治家なるものとを描くにふさはしい材料であると思ふ。私はこれからかうした方面にも、大いに筆をつけてみたいと思つてゐる。」と意氣ごんで述べてゐる。しかし、この小説は、作者が描いたつもりでゐる「政治なるものと政治家なるもの」などより、主人公の『太政官』の風がはりな性格と生活の方がをもしろさうに書かれてゐる。「風がはりの性格」といへば、『ごりがん』や『石川五右衞門の生立』の主人公もさうであるが、風がはりなところなど殆んどなささうに見えた小劍には、かへつて風がはりな人間に興味があつたのか。それもあつたかもしれないが、小劍には、おもしろをかしく書く、(書いてやらう、)といふ興味が多分にあり、しぜん、おもしろをかしく書く『腕』も十分にあつた。(ところが、役者があまり藝を鼻にかけてやりすぎると、あの役者の藝はクサイ、と云はれる事がある。つまり、一方に偏して否味になる事である。)それで、小劍のうまさは、(もしあれば、)ときどきクサクなる事である。
「……これは俺の柿や言うて、自分一人のもんと勝手にきめたかて、柿の方では、そんなこと知りよれへん。……これは俺の柿やときめるのは嘘や。誰の柿でもない、柿は柿の柿や、そやなかつたら、みんなの人の仲間持ちや。」
これは、『石川五右衞門の生立』のなかの、少年の文吾(五右衞門の幼名)が、母に、柿を取つてたべた事を、見やぶられ、詰られた時に、した辯明の言葉のなかの一節である。
「田賣らうにも、値が下がつてるし、第一けふ日は不景氣で買ひ手があろまい。」
「百姓は割に合はん仕事やちうことは、よう分かつてるが、そいでも地價がズン〳〵騰るさかい、知らん間に身代が三層倍にも五層倍にもなつたアるちうて、みな喜んではつたが、かう不景氣ではそれもあきまへんなア。」
これは、『太政官』のなかの、村役場の中の、助役と臨時雇の老人、その他の人の問答のなかの一節である。
小劍は、たしか、白柳秀湖などと一しよに、平民社(註――明治三十六年、幸徳秋水、堺枯川らが創立した、その頃の社會主義者たちの結社の一つ)に、いくらか關係した事があるので、いはゆる社會主義的な教養が相當にあり、それに、理論だけの無政府主義的な思想(あるひは、好み)もかなり持つてゐたやうである。それで、それが、小劍の多くの作品の中に、味をつけるために、しばしば、出てゐて、小説をおもしろくしてゐるところがある。さうして、それは、この集の中にをさめられてゐる小説の中にも、いたるところに、出てゐる。
それから、『それ』は、晩年まで、小劍の話の中にも、ちよいちよい、出た。いや、小劍に逢つて話をしてゐると、いつでも、かならず、話のなかに『それ』が出た。
ところで、私は、小劍が、かういふ、初期の作品のやうな、『それ』の出る、小説を、晩年まで、もし書きつづけてゐたならば、大げさに云へば、日本の大正昭和の文學に、小劍流の、誰にも書けないやうな、獨得の、小説が、殘つたであらう、と、殘念に思ふのである。
それから、この集にをさめられてゐる幾つかの小説の中にあるやうな、色事を書いたところなどは、よしあしは別として、(わたくし事ではあるが、私はあまり好まないけれど、)相當のものである。それは、ある種の作家たちが書くやうな、附燒刃でなく、作者の身についた物であるからである。(何と、近頃は、附燒刃の作品の多すぎることよ。)
さて、『父の婚禮』といふ小説のなかに、作者の父らしい人が、二尺五寸ぐらゐの長さの、おなじ太さの、炭を、二十本ほど、弦のついた鋸で、おなじ長さに、切るのに、半日つひやすところがあるが、かういふ、几帳面さ、凝り性、癇性、妙な贅澤さ、それが病的でさへあつたところは、小劍も、持つてゐたやうである。
いつ頃の作であつたか、小劍に『膳』といふ短篇があつた。主人公が、膳を買つて來て、それを、自分で、丁寧に拭いたり、疊の上において眺めたり、寢る時には枕もとに置いて、目をさます毎に眺めたり、する。うろおぼえであるが、それだけの話を、作者は、いかにも、樂しさうに、書いてゐるのである。
いつの頃事であつたか、(むろん、大正時代の事である、)小劍は、自分の家の玄關の沓脱のある『タタキ』を、毎朝、自分で、雜巾がけをする、そのかはり、そこからはいかなる人でも出はひりをさせない、といふやうな事を、私は、誰からとなく、聞いた。しかし、この話は、傳説(あるひは、風説)のやうなものであり、輪に輪をかけたやうなものであらう。けれども、その時分の小劍は、このやうな噂がたつても、本當に思はれるやうなところもあつた。
それから、小劍は、やはり、世界で有數の最高級の蓄音機を持つてゐる、それは千圓以上(今日の金でいへば、數十萬圓か、)である、といふ噂もたつた。しかし、これは、單なる噂ではなく、本當であるらしかつた。
本當といへば、小劍は、約束の時間におくれる人を、ふるい形容であるが、蛇蝎のごとくに、憎んだ。しかも、その後れる時間といふのが、一時間とか半時間とか、十分とか五分とか、いふのではなく、二分とか一分とか、時には何十秒とか、いふのである。さうして、これが本當である、といふのは、小劍は、たとへば、人を或る場所で待ちあはす時、自分の懷中時計を見ながら、何分あるひは何十秒、といふやうな計り方をしてゐる事や、ナニガシ君は、たしか、一分三十秒おくれただけであつた、と感心した事などを書いてゐるからである。さうして、私は、これを讀んだとき、小劍は、蓄音機とおなじやうに、時計も、世界で有數の最高級の時計を幾つか、持つてゐるのであらう、と、いささか羨ましい氣がしたことであつた。
ところで、小劍といふ人は、私の知るかぎり、たいてい、どんな會にも、出席し、誰にも、(私のやうな者にも、)愛想がよかつた。ところが、小劍とほとんど同時代の秋聲や白鳥などは、それほど愛想はよくなかつたのに、私は、したしみが持てたけれど、小劍には、どういふわけか、したしみが持てなかつた。
ところで、私の知るかぎり、作家といはれる人は、多少とも、どこかに、なにか、藝術家らしいところがあるが、小劍にはそれが殆んどなかつた。
しかし、くりかへし云ふが、さきに述べた、大正三四年から十年ぐらゐまでの七八年の間の小劍の幾つかの小説は、まつたく獨得のものであり、押しも押されもせぬ作品である。さうして、この集にをさめられてゐる小説は、もとより、缺點もあるけれど、その押しも押されもせぬ作品の中にはひるであらう。
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これは亡父の物語。頃は去る明治二十三年の春三月、父は拠ろなき所用あって信州軽井沢へ赴いて、凡そ半月ばかりも此の駅に逗留していた。東京では新暦の雛の節句、梅も大方は散尽くした頃であるが、名にし負う信濃路は二月の末から降つづく大雪で宿屋より外へは一歩も踏出されぬ位、日々炉を囲んで春の寒さに顫えていると、ある日の夕ぐれ、山の猟師が一匹、鹿の鮮血滴るのを担いで来て、何うか買って呉れという。ソコで其の片股だけ買う事に決めて、相当の価を払い、若も暇ならば遊びに来いと云うと、田舎漢の正直、其の夜再び出直して来た。此方も雪に降籠められて退屈の折柄、其の猟師と炉を囲んで四方山の談話に時を移すと、猟師曰く、私は何十年来この商売を為ていますが、この信州の山奥では時々に不思議な事があります、私共の仲間では此れを一口に『怪物』と云いまして、猿の所為とも云い、木霊とも云い、魔とも云い、その正体は何だか解りませんが、兎にかく怪しい魔物が住んでいるに相違ありません。と、冒頭を置いて語り出したのが、即ち次の物語だ。因に記す、右の猟師は年のころ五十前後で、いかにも朴訥で律儀らしく、決して嘘などを吐くような男でない。
昔からのお噺をすれば種々あるが、先ず近い所では現に三四年前、私が二人の仲間と一所に木曽の山奥へ鳥撃に出かけた事がある。そういう時には、一日は勿論、二日三日も山中を迷い歩く事があるから、用心の為に米または味噌、鍋釜の類まで担いで行く。で、日の暮れかかる頃、山奥の大樹の蔭に休んで、ここに釜を据え、有合う枯枝や落葉を拾って釜の下を焚付け、三人寄って夕飯の支度をしている中、一人が枯枝を拾う為に背後の木かげへ分入ると、ここに大きな池があって、三羽の鴨が岸の浅瀬に降りている。這奴、幸いの獲物、此方が三人に鳥が三羽、丁度お誂え向だと喜んで、忍び足で其の傍へ寄ると、鴨は人を見て飛ばず驚かず、徐かに二足ばかり歩いて又立止る、この畜生めと又追縋ると、鴨は又もや二足ばかり歩む、歩めば追い、追えば歩み、二三間ばかりも釣られて行く時、他の一人が此の体を見て、オイオイ止せよせ、例の怪物に相違ねえよと、声をかける。成程と心付いて其のまま引返して、私に其の噺をするから、ハテ不思議だと三人一所に、再び其の木かげへ往って見ると、エエ何の事だ、鴨は扨措いて、第一に其の池もない、扨はいよいよ怪物の所為だと、猶能くよく四辺を見ると、其の辺は一面の枯草に埋っていて、三間ばかり先は切ッ立の崖になっているので、三人は思わず悸然として、若もウカウカと鴨に釣られて往こうものなら、此の崖から逆落しに滑り落ちるに相違なく、仮え生命に別条ないとしても、屹と大怪我をする所だ、アア危いと顔を見合せて、旧の処へ引返すと、釜の下は炎々と燃上って、今にも噴飛しそうに釜の蓋がガタガタ跳っている。ヤア飯が焦げるぞと、私が慌てて其の釜の蓋を取ると、中から湯気が真白に噴上げる、其の煙の中に大きな真青な人間の顔がありありと現われたから、コリャ大変だいよいよ怪物だと、一生懸命に釜の蓋を上から押えて、畜生、畜生ッ、オイ早く鉄砲を撃てと怒鳴る。他の二人も心得て、何処を的ともなしにドンドン鉄砲を撃つこと二三発、それから再び釜を覗いて見るとモウ何物も見えない。
山又山の奥ふかく分入ると、斯ういう不思議が毎々あるので、忌々しいから何うかして其の正体を見とどけて、一番退治して遣ろうと、仲間の者とも平生申合せているけれども、今に其の怪物の姿を見現わした者がないのは残念です。モウ一つ不思議なのは、これも二三年前の事、私が木曽の山の麓路を通ると、商人らしい風俗の旦那と手代二人が、木かげに立って珍らしそうに山を見あげているから、モシモシ何を御覧なさると近寄って尋ねると、旦那らしい人が山の上を指さして、アレ御覧なさい、アノ坊さんの担いでいる毛鑷の大きい事、実に珍らしいと云う。ハテ可怪な事をいうと思いながら、指さす方を見あげたが、私の眼には何物も見えない。扨は例の怪物だナと悟ったから、この畜生めッと直ぐに鉄砲を向けると、其の人は慌てて私の手を捉え、アアモシ飛だ事を為さる、アノ坊さんに怪我でも為せては大変ですと、無理に抑留める。で、其の人の云うには、私は上田の鉄物商兼研職で、商売用の為め今日ここを通ると、アノ坊さんが大きな毛鑷を引担いで山路を登って行く、私も親の代から此の商売をしてるが、あんなに大きな毛鑷を見た事がないから、奉公人も私も肝を潰して見ている所だとの事。併しそんな事のあろう筈もなく、私の眼には一向見えないのが第一の証拠、あれは例の怪物に相違ないと、委しく云って聞かせると、其の人達も驚いた様子で、成程そう云えばモウ其の坊主の姿は見えなくなったと云う。何しろ憎い畜生め、今日こそは退治て呉れようと、鉄砲を小脇に其の山路を一散に駈あがり、其処かここかと詮議したけれども、別に怪しい物の姿も見えないからアア残念ナと再び麓へ降りて来ると、彼の商人はモウ立去ったと見えて、其処には誰も居ない。で、其の商人は本当の人間で、全く怪物に化されたものか、但しは其の商人が怪物で、私に無駄骨を折らせたものか、何方が何うとも今に分らぬけれども、何方にしても不思議な事で、私も流石に薄気味が悪くなって、その日は其のまま帰って了ったが、私ばかりでなく、仲間の者も折々に斯ういう目に遭いますから、山へ出る時には用心を為にゃあなりません、云云。 (麹生)
(「文芸倶楽部」明治三十五年七月号掲載「日本妖怪実譚」より)
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僕は元来活動写真といふものを、それほど研究的に観てはゐなかつた。巴里にゐる間近所に常設館があつたので、チヤツプリンの喜劇がかゝると観に行つたぐらゐのものである。たまたま、アントワアヌが新聞の「演劇時評」中で、アベル・ガンスの「車輪」を激賞してゐるのを読んで急にそれを観に行く気になつた。行つて見て、いゝことをした。いろいろのことを教へられた。活動写真の芸術的生命に可なり大きな期待をもつやうになつた。それから、「巴里の女」を観た。「ステラ・ダラス」を観た。「殴られるあいつ」を観た。そして考へた。将来は兎に角、今のうちなら、われわれ文学者が活動写真といふ仕事に参与し得る余地があると考へた。
なるほど、映画脚本なるものに、いろいろの様式、いろいろの段階があることは想像し得られる。しかし、演劇に於ける戯曲の地位は得られなくとも、謂ふ処の「文学的要素」が、もう少し自由に、豊富に、少くとも正しく取り入れられた映画があつてもいゝではないか。それが為めには、監督の「文学的教養」もさることながら、第一に、映画脚本を「筋」と「テクニツク」との案配に終始せしめず、映画の「効果」に一層の「詩」を盛らうとする努力が、当然一部の人々によつて脚本そのものゝ上に試みられなければならないと思つた。
かういふ考へは、固より「我田引水的」である。たゞし、僕は、我が田にのみ水を引かうとするものではない。演劇が当然文学から独立し、戯曲が舞台から駆逐せられてもいい如く、映画の生命は、文学的要素を離れて存在し得ることは、今日誰も疑ふものはないのである。たゞ、今日迄、僕は寡聞にして、全然「文学的要素」を排除して、立派に芸術的効果を挙げ得た映画といふものを知らない。むろん、今日まで「佳き映画」とされてゐるものゝ多くは、「文学的要素」と関係なく、その特質を発揮してゐるかも知れない。それは決して、「優れた文学的要素」を否定する理由にはならないのみならず、それらの映画が、その平凡な、又は低級な「文学的要素」の為めに、どれほど全体的価値を低めてゐるか、これは映画製作者の均しく考慮すべき問題であると思ふ。「巴里の女性」然り、「ステラ・ダラス」然り、「殴られる彼奴」然り。何れも、不必要に「文学」を軽蔑してゐる。「詩」を傷けてゐる。それが為めに、映画として、どれだけ「よりよく」なつてゐるか、それが聞きたいものである。
今度、衣笠貞之助君の監督で、川端康成君作の「狂つた一頁」といふ映画が出来た。これは、一見筋らしい「筋」はないやうに見える。あつても、それは珍らしいとか、面白いとか、いふやうな筋ではない。しかし、あの筋をあゝ取扱ふところに「文学的価値」がある。「不必要なものを加へない」といふことは素晴らしい「文学的手腕」である。
結局、映画の芸術的価値は、今の処、かなり脚本の文学的生命に左右されてゐる――演劇に於ける戯曲ほど根本的ではないが――と云へよう。文学を無視するのはよろしい。下らない文学に縛られないやうにしたいものである。下らない文学に縛られない為めには、優れた文学的要素を選べばいゝ。強いて、それを避けるには当らないのである。それほど文学を怖わがる必要はない。どうも、映画専門家のうちには、文学を眼の敵にしてゐる人があるらしい。だから、文学でないやうな顔をした「下らない文学」が、あなた方の味方面をするやうになるのである。
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私は今朝成田空港に着いた。
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五月
卯の花くだし新に霽れて、池の面の小濁り、尚ほ遲櫻の影を宿し、椿の紅を流す。日闌けて眠き合歡の花の、其の面影も澄み行けば、庭の石燈籠に苔やゝ青うして、野茨に白き宵の月、カタ〳〵と音信るゝ鼻唄の蛙もをかし。鄙はさて都はもとより、衣輕く戀は重く、褄淺く、袖輝き風薫つて、緑の中の涼傘の影、水にうつくしき翡翠の色かな。浮草、藻の花。雲の行方は山なりや、海なりや、曇るかとすれば又眩き太陽。
六月
遠近の山の影、森の色、軒に沈み、棟に浮きて、稚子の船小溝を飛ぶ時、海豚は群れて沖を渡る、凄きは鰻掻く灯ぞかし。降り暮す昨日今日、千騎の雨は襲ふが如く、伏屋も、館も、籠れる砦、圍まるゝ城に似たり。時鳥の矢信、さゝ蟹の緋縅こそ、血と紅の色には出づれ、世は只暗夜と侘しきに、烈日忽ち火の如く、窓を放ち襖を排ける夕、紫陽花の花の花片一枚づゝ、雲に星に映る折よ。うつくしき人の、葉柳の蓑着たる忍姿を、落人かと見れば、豈知らんや、熱き情思を隱顯と螢に涼む。君が影を迎ふるものは、たはれ男の獺か、あらず、大沼の鯉金鱗にして鰭の紫なる也。
七月
山に、浦に、かくれ家も、世の状の露呈なる、朝の戸を開くより、襖障子の遮るさへなく、包むは胸の羅のみ。消さじと圍ふ魂棚の可懷しき面影に、はら〳〵と小雨降添ふ袖のあはれも、やがて堪へ難き日盛や、人間は汗に成り、蒟蒻は砂に成り、蠅の音は礫と成る。二時さがりに松葉こぼれて、夢覺めて蜻蛉の羽の輝く時、心太賣る翁の聲は、市に名劍を鬻ぐに似て、打水に胡蝶驚く。行水の花の夕顏、納涼臺、縁臺の月見草。買はん哉、甘い〳〵甘酒の赤行燈、辻に消ゆれば、誰そ、青簾に氣勢あり。閨の紅麻艷にして、繪團扇の仲立に、蚊帳を厭ふ黒髮と、峻嶺の白雪と、人の思は孰ぞや。
八月
月のはじめに秋立てば、あさ朝顏の露はあれど、濡るゝともなき薄煙、軒を繞るも旱の影、炎の山黒く聳えて、頓て暑さに崩るゝにも、熱砂漲つて大路を走る。なやましき柳を吹く風さへ、赤き蟻の群る如し。あれ、聞け、雨乞の聲を消して、凄じく鳴く蝉の、油のみ汗に滴るや、ひとへに思ふ、河海と山岳と。峰と言ひ、水と呼ぶ、實に戀人の名なるかな。神ならず、仙ならずして、然も其の人、彼處に蝶鳥の遊ぶに似たり、岨がくれなる尾の姫百合、渚づたひの翼の常夏。
九月
宵々の稻妻は、火の雲の薄れ行く餘波にや、初汐の渡るなる、海の音は、夏の車の歸る波の、鼓の冴に秋は來て、松蟲鈴蟲の容も影も、刈萱に萩に歌を描く。野人に蟷螂あり、斧を上げて茄子の堅きを打つ、響は里の砧にこそ。朝夕の空澄み、水清く、霧は薄く胡粉を染め、露は濃く藍を溶く、白群青の絹の花野原に、小さき天女遊べり。纖きこと縷の如し玉蜻と言ふ。彼の女、幽に青き瓔珞を輝かして舞へば、山の端の薄を差覗きつゝ、やがて月明かに出づ。
十月
君知るや、夜寒の衾薄ければ、怨は深き後朝も、袖に包まば忍ぶべし。堪へやらぬまで身に沁むは、吹く風の荻、尾花、軒、廂を渡る其ならで、蘆の白き穗の、ちら〳〵と、あこがれ迷ふ夢に似て、枕に通ふ寢覺なり。よし其とても風情かな。折々の空の瑠璃色は、玲瓏たる影と成りて、玉章の手函の裡、櫛笥の奧、紅猪口の底にも宿る。龍膽の色爽ならん。黄菊、白菊咲出でぬ。可懷きは嫁菜の花の籬に細き姿ぞかし。山家、村里は薄紅の蕎麥の霧、粟の實の茂れる中に、鶉が鳴けば山鳩の谺する。掛稻の香暖かう、蕪に早き初霜溶けて、細流に又咲く杜若。晝の月を渡る雁は、また戀衣の縫目にこそ。
十一月
傳へ言ふ、昔越山の蜥蜴は水を吸つて雹を噴く。時、冬の初にして、槐の鵙は星に叫んで霰を召ぶ。雲暗し、雲暗し、曠野を徜徉ふ狩の公子が、獸を照す炬火は、末枯の尾花に落葉の紅の燃ゆるにこそ。行暮れて一夜の宿の嬉しさや、粟炊ぐ手さへ玉に似て、天井の煤は龍の如く、破衾も鳳凰の翼なるべし。夢覺めて絳欄碧軒なし。芭蕉の骨巖の如く、朝霜敷ける池の面に、鴛鴦の眠尚ほ濃なるのみ。戀々として、彽徊し、漸くにして里に下れば、屋根、廂、時雨の晴間を、ちら〳〵と晝灯す小き蟲あり、小橋の稚子等の唄ふを聞け。(おほわた)來い、來い、まゝ食はしよ。
十二月
それ、おほみそかは大薩摩の、もの凄くも又可恐しき、荒海の暗闇のあやかしより、山寺の額の魍魎に至るまで、霙を錬つて氷を鑄つゝ、年の瀬に楯を支くと雖も、巖間の水は囁きて、川端の辻占に、春衣の梅を告ぐるぞかし。水仙薫る浮世小路に、やけ酒の寸法は、鮟鱇の肝を解き、懷手の方寸は、輪柳の絲を結ぶ。結ぶも解くも女帶や、いつも鶯の初音に通ひて、春待月こそ面白けれ。
大正八年五月―十二月
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人が非暴力であると主張する時、彼は自分を傷けた人に對して腹を立てない筈だ。彼はその人が危害を受けることを望まない。彼はその人の幸福を願ふ。彼はその人を罵詈しない。彼はその人の肉體を傷けない。彼は惡を行ふ者の加ふるすべての害惡を耐忍ぶであらう。かくして非暴力は完全に無害である。完全な非暴力は、すべての生物に對して全然惡意を有たぬことだ。だから、それは人間以下の生物をも愛撫し、有害な蟲類や動物までも除外しない。それ等の生物は、吾々の破壞的性癖を滿足させるように作られてゐるのではない。若し吾々が造物主の心を知ることさへ出來たならば、吾々は造物主が彼等を創造した意義を發見するだらう。故に、非暴力はその積極的形式に於ては、すべての生物に對する善意である。それは純粹の愛である。私が印度經の諸聖典や、バイブルや、コーランの中に讀むところのそれだ。
非暴力は完全なる状態だ。それは全人類が自然に無意識に動いて行く目標である。人は無辜の人間となることが出來ても、神にはなれない。ただその場合彼は眞の人間になるだけだ。現在の状態では、吾々は半人半獸である、然るに、吾々は無智傲慢にも、人類の目的を完全に果してゐると誇稱し、暴力に答ふるに暴力を以てし、それがために必要な憤怒の度合を増大する。吾々は復讐が人類の法則であることを信ずるかのやうに裝うてゐるが、どの經典にも復讐が義務であるとは書いてゐない。ただそれは許容さるべきものだとなつてゐるだけだ。義務的なのは抑制である。復讐は念入りに調整する必要があるところの我儘である。抑制は人間の法則だ。何となれば最高の完成は、最高の抑制がなくては達せられないからだ。從つて、受難は人類の徽章である。
目標はいつでも吾々から逃げて行く。進歩が大きければ大きいほど、吾々の無價値の認識も深くなる。滿足は目的の達成にあるのではなく、努力の中にあるのだ。十分なる努力は十分なる勝利だ。
故に、私はこの際特に自分が目的から遠ざかつてゐることを認めてゐるけれども、私にとつて完全な愛の法則は、生存の法則である。私はやる度に失敗するが、その失敗によつて私の努力は一層決然たるものになるのだ。
しかし、私は國民議會やキラフアツトの組織を利用してこの最後の法則を説かうとしてゐるのではない。私は自分の限界を知り過ぎるほど知つてゐる。私はかかる企てが失敗の運命をもつてゐることを知つてゐる。男女の集團全體に同時にこの法則を遵守させようとするのは、その働きを知らないからだ。が、私は國民議會の演壇からこの法則の結論を説く。議會やキラフアツトの組織に採用されてゐるのは、この法則が包含するところのものの一斷片に過ぎない。眞正の運動者があれば、短時日の間に、人民の大多數に、その限られたる適用の方法を實施することが出來る。その小範圍の適用は、全體への試みと同樣に滿足なものでなければならぬ。一滴の水も、分析者にとつては、湖全體の水と同じ結果を與ふる筈である。私の兄弟に對する私の非暴力の性質は、宇宙に對する私の非暴力の性質と相違があつてはならぬ。私が自分の兄弟に對する愛を宇宙全體に擴げる時に、それは同じ滿足な試みでなければならぬ。
特別な實行は、その適用が時と場所に限られる時は、政略となる。だから、最高の政略は十分な實行である。政略としての正直は、それが續く間は、信條としての正直と變りがない。正直を政略として信じてゐる商人は、正直を信條として信じてゐる商人と同じ尺度と同じ品質の反物を賣るであらう。この二人の相違は、政略的商人は支拂ひを受けない時に正直を抛棄するが、信條としてゐる方は、たとひ彼がすべてを失ふとも、正直を續ける點にある。
非協同者の政治的非暴力も、多くの場合に於て、この試練に耐へ得ない。そこで爭鬪が永引くのだ。何人も強情な英國人の性質を非難せぬがよい。彼等の最も堅い筋力は、愛の火の中で熔解しなければならぬ。私はそれを知つてゐるから、自分の立場から驅逐されることは出來ない。英國人若くはその他の人々に反響がない場合は、火が若し幾らかあるにしても、それが十分強くないのだ。
吾々の非暴力は強くなければならぬ必要はないが、本當のものでなければならぬ。吾々が非暴力を主張する限りは、英國人や我同國人中の協同者に害を與へようと思つてはならぬ。ところが吾々の大多數は今まで加害の意志を有つてゐたのだ。そして吾々がその實行を抑制した理由は、吾々が弱かつたためか、若くは物質的な加害を單に抑制するといふことが、吾々の宣誓の成就にあたるといふ無智な信念からである。吾々の非暴力の宣誓は、將來の復讐の可能を排斥する。吾々の或る者は、不幸にも、單に復讐の日を延期してゐるかのやうに見える。
私を誤解してはいけない。私は、非暴力の政策が、その政策を抛棄する時にも、復讐の可能を排斥するとは云はない。けれども、それは爭鬪が首尾よく終結を告げた後では、將來の復讐の可能を最も強く排斥する。だから、吾々が非暴力の政策を追求してゐる間は、吾々は英國の行政者や彼等の協同者と積極的に親善を保つ義務がある。印度の或る地方では、英國人や有名な協同者は歩くのが危險であつたといふ話を聞いた時に、私は耻しく思つた。最近のマドラスの集會で起つた不名譽な光景は、非暴力の完全な否認であつた。議長が私を侮辱したと思つて、彼をその席から引下ろした人々は、自分自身とその政策を辱めたのだ。彼等は彼等の友人であり援助者であるアンドリユース氏の心を痛めたのである。彼等は自分たちの主義を傷けたのだ。若し議長が私を無頼漢だと信じたとすれば、彼はさう云ひ得る立派な權利があつたのだ。無智は憤怒を起させない。非協同者は最も眞面目な憤怒をも耐へ忍ぶやうに誓はせられてゐる。私が無頼漢らしく振舞ふならば、憤怒があるだらう。それはあらゆる非協同者を非暴力の誓ひから解放するに十分であるといふこと、又どの非協同者も私の生活が彼を誤つた方へ導きつつあるのだと考へても正しいだらうといふことを、私は承認する。
かかる制限された非暴力の養成すらも、多くの場合に不可能かも知れない。人民が何もしてゐないのに、自己の利益を無視してまで、敵に害を與へようと思はぬやうにと、彼等に期待してはならないのかも知れない。さうだとすれば、吾々は、吾々の爭鬪に關して、「非暴力」といふ言葉を正直にさつぱりと棄てなければならぬ。しかし、それだからと云つて、直ぐ暴力に頼つてはならない。それでは、人民は非暴力の訓練を受けたと云ふことが出來ないであらう。その場合、私のやうな人間はチヨーリ・チヨーラ事件の責任を負ふ義務を感じないであらう。限られた非暴力の流派は、尚ほ曖昧のうちに繁榮し、今日のやうな責任の恐しい重荷を負ふ者はなくなるであらう。
けれども、若し非暴力がその公正と人道の名のために國民の政策として持續されなければならぬとすれば、吾々は文字通りに、且つその精神を酌んで、それを實行する義務がある。
そして、若し吾々がそれを遂行しようと思ひ、且つそれを信ずるならば、吾々は、速かに英國人や協同者と和解しなければならぬ。吾々は、彼等が吾々の中にゐても絶對に安全を感じ、たとひ吾々が思想や政策の上で急進的な別の流派に屬してゐるとしても、彼等が吾々を友人と見做すことが出來るやうに、彼等の信任を得なければならぬ。吾々は吾々の政治的演壇へ榮譽ある賓客として彼等を歡迎せねばならぬ。吾々は彼等と中立的壇上に於て會見せねばならぬ。吾々は、かかる會合の方法を案出せねばならぬ。
吾々は他の人々と同じやうに、吾々の仕事によつて判斷を下さるべきである。スワラジの達成にとつての非暴力の綱領は、非暴力の方針によつて吾々の諸問題を取扱ふ能力を意味する。それは服從の精神を諄々と説くことを意味する。暴力の福音だけを理解するチヤーチル氏は、愛蘭問題は印度のそれと性質が違ふと云つたが、全くそれは本當である。彼の語の意味は、暴力によつて自治への道を鬪つて來た愛蘭は、それを維持するにも、必要によつては暴力をもつてこれを能くすることが出來ようと云ふのだ。一方印度は、若し實際に非暴力によつて自治を獲たとすれば、主として暴力的手段でそれを維持しなければならぬ。これは、印度がこの主義の明白な表示によつてそれを實證するのでなければ、チヤーチル氏はその可能を信ずることが出來ない。かかる表示は、非暴力が社會に浸潤して、團結的生活(政治上の)をなす人々が非暴力と感應するにあらずんば、換言すれば、現在の武官のやうに文官が優勢となるにあらずんば、不可能である。
故に、非暴力的手段によるスワラジは混沌や無政府の介在を意味しない。非暴力による自治は進歩的な平和革命で、限られた團體から人民の代表者への權力の推移が、恰度よく發育した樹木から十分に成熟した果實が落ちるやうに自然でなければならぬ。私は更に云ふが、かかる事はその達成が全く不可能であるかも知れない。しかし、私は非暴力の意味するところは、何ものにも優つてゐることを知つてゐる。そして若し、現在の運動者がかかる比較的な非暴力の雰圍氣を作ることに成功する可能を信じないならば、彼等はその非暴力の綱領を棄てて、性質の全然異つた他の綱領を立つべきである。若し吾々が、結局吾々は武力によつて英國から權力をもぎ取ることになるだらうといふ考を心に保留して吾々の綱領に近づくならば、吾々は非暴力の宣誓に不忠實である。
若し吾々が吾々の綱領を信ずるならば、吾々は英國人が確かに武力に從順であるやうに、愛情の力にも從順であることを信じなければならぬ。これを信ぜざる者にとつては、立法會議は數世紀に亙る彼等の重苦しい屈辱の要領を學ぶ學校、若くは、恐らく世界が未だ嘗つて目撃しなかつた急激な流血革命を學ぶ學校である。私はさういふ革命に加はらうとは思はない。私はそれを促進するための道具になりたくない。卑見によれば、當然の歸結として非協同を伴ふところの非暴力か、妥協的な協同――即ち障碍を伴ふ協同への復歸か、そのいづれか一つを選ぶべきであると思ふ。
(一九二二年三月九日「ヤング・インデイア」紙所載。)
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本誌の創刊に際して、余輩の常に使用するに慣れたる「日本民族」なる語が、本来何を意味するか、「日本民族」とは本来いかなるものなるかを説明して、あらかじめ読者諸賢の理会を請うは、余輩が本誌を利用してその研究を進める上に、最も必要なる事と信ずる。
「日本民族」なる語は、近時広く学者・政治家・教育家等の間に用いられて、暗黙の間にほぼその理会は出来ている事とは思われるが、しかもなお時に余輩とは違った意味に解し、「日本民族」即「天孫民族」と考えているものも、世間には少くない様である。
日本民族すなわち天孫民族であるとの思想は、実際上多数の帝国臣民の、斉しく抱懐するところである。そして余輩もまた、或る意味においてこれを信ずる一人である。我ら帝国臣民は、実にその古伝説の教うるところにしたがって、天孫の嫡統を継承し給える我が皇室を宗家と仰ぎ奉り、その天壌無窮の皇運の下に、協同一致して国家の発展を希い、国民の幸福を図っている民族に外ならぬのである。しかしながら、さらにその起原に遡りて研究を重ねて見ると、そこには種々雑多の異民族の、混淆共棲の事実を否定する事が出来ぬ。それはただに考古学者や、人類学者・土俗学者・社会学者等が、その専門学的見地よりこれを立証するのみならず、我が古伝説や歴史の示すところも、また正にこれを証明しているのである。考古学者は我が国土に存在する遺物・遺蹟を調査して、種々異りたる系統の民族の、かつて存在せし事実を認めている。土俗学者は我が国民の古今の風俗・習慣を調査して、種々異りたる系統の遺風の、今なお存在するの事実を認めている。人類学者・社会学者等、またそれぞれに、その研究の立場から、ただに種々系統を異にする民族の混淆共棲するものあるのみならず、時には地方的にも、しばしばその差異の存在が認められる事を立証しているのである。
これらの諸研究は、いずれも実地の上に立脚したもので、その立証する事実は、到底これを否定することの出来ない性質のものである。
ここにおいてか余輩は、歴史家としての立場から、これらの事実の由って起った経過を研究し、これに依って国民思想の根柢を固むるの資料を江湖に提供することを以て、目下における必要なる事業と思惟し、これを以て史家当然の責務の一つたることを自認するものである。余輩が微力を顧みず、本誌を発刊するに至った理由の一つの実にここにあることは、発刊趣意書によって、既に読者諸賢の諒解を得た事と信ずる。
我ら国民の大多数は、その家系について確かな伝えを有しておらぬ。その源平藤橘を自称する系図の如きも、史家の研究を経てその確実を証明しえるものは、極めて寥々の数であると謂ってよい。しかしながら我らは、多数の国民は我が記紀の古伝説の教うるところにしたがって、我が皇室の御先祖とともに、高天原なる祖国からこの島国に渡来したものの後裔、もしくはその皇室から分派し出でたものの後裔だと、自負しているものである。「我も亦高皇産霊の裔なれば、其の中程はとにもかくにも」の歌は、遺憾なく我ら国民の祖先に関する信念を語ったものである。そして我らは、諸賢と共に本誌によって、その「とにもかくにも」の「中程」の経歴を、調査してみたいと思う。
我ら現代の日本国民は、実際上考古学者・土俗学者・人類学者・社会学者などの謂う如く、一個の複合民族である事を疑わぬ。しかしながらその複合民族たるや、決して単なる寄合世帯の類ではない。我が大日本帝国の国家は、数千年来の経歴を同じゅうし、互いに錯綜したる血縁を有し、思想と信念とを一にせる一大民族が、数千年来の歴史によって互いに結び付き、相ともに宗家の家長と坐す天皇を、元首と奉戴しているものである。この意味において我ら国民は、ことごとく天孫民族である。余輩はかつてこれを比喩するに、柑橘栽培の例を以てした。今再びこれを繰り返したいと思う。その台木がよしや柚子であっても、橙であっても、枳殻であっても、それは深く問うところではない。斉しく温州蜜柑を以てこれに接木したならば、ことごとく温州蜜柑の甘美な果実を結ぶ。その培養の方法や、台木の性質や、気候の異同等によって、果実に多少の相違は免れぬとは云え、それが斉しく温州蜜柑である事は、何人もこれを否定せぬ。この意味において余輩は、我らが斉しく天孫民族であることを主張する。換言すれば我が日本臣民中には、甚だ多くの接木されたる天孫民族が混在しているのである。これを総称して余輩は、「日本民族」の語を用いたい。
我が天孫民族は、土壌を譲らざる泰山が、よくその高きをなし、細流をも択ばざる河海が、よくその広きをなしたと同じく、よく他の民族を同化融合せしめて、ことごとくこれを抱容し、相ともにその福利を増進せんとするの、寛大なる度量を有している。これは我が古伝説及び歴史の教うる過去の事歴が、立派に証明しているのである。
かけまくも畏こけれども、我が皇室の御先祖と坐す天孫瓊々杵尊が、この国に降臨し給いし際には、我が群島国は、決して無人の地ではなかった。そこには既に多くの先住民族が棲息していた。しかしそこには未だ統一されたる完全な国家がなく、彼らは各自相攻争して、甚だ憐むべき状態であったのである。そして我が天孫は、彼らを懐柔し、彼らを撫育し、この豊葦原の瑞穂の国を安国と平らけく治ろしめすべく、降臨し給うたものと信ぜられている。したがって我が天孫並びにこれに随従した諸神は、決してこれらの先住民族を虐待し、或いはこれを駆逐し、或いはこれを殺戮し、以てその国を奪い給うというが如き、さる残忍酷薄なる所業には出で給わなかったのである。そしてこれらの先住民族の首領と仰ぐものを、古史には「国津神」と称している。
天孫瓊々杵尊の日向に降臨し給うや、国津神たる事勝国勝長狭は、自ら進んで潔くその国土を天孫に奉った。同じく国津神たる大山祇神は、その女木花開耶姫を献じて、天孫の妃となし奉った。そして天孫の御子なる彦火火出見尊、その御孫なる鸕鷀草葺不合尊は、また共に同じく国津神たる海神の女を妃と遊ばされたと伝えられている。これすなわち、山海共に皇室の御稜威に服し、ここに既に同化融合の実を挙げ給うた事実を、語り伝えたものではあるまいか。皇祖・皇宗の御上において既に然りで、いわんや臣隷諸神の上において、さらにいわんや一般庶民の上において、民族の同化融合が続々として行われたるべき事は、容易に想像しえらるべきではなかろうか。かくの如きは、ただに諸外国における優秀民族が、他に植民した場合に多く起る諸現象の傍例を、社会学者によって提供してもらうまでもなく、我が古伝説が明らかにこれを語っているのである。
我が皇祖・皇宗が、先住土着の民族に対し給える大方針は、実際上決して残忍酷薄なるものではなかった。威を以て臨み、恩を以て誘い、ことごとくこれを優秀なる天孫民族に同化融合せしめて、彼らを幸福なる国民となし、自他ともにその慶に浴せしめ給うことが、万古不易の一大信条となっていたのである。さればその頑冥にして、到底教導し難きものは、時に或いは兵を加えて、これを征伐し給うのやむなき場合も少くはなかったが、それにしても決して殺戮をこれ能事となし、敵を滅ぼすを以て目的となし給うというが如きことは、古史の決して言わざるところである。景行天皇の襲国に熊襲梟帥を誅し給うや、「少く師を興さば則ち賊を滅ぼすに堪へず、多く兵を動かさば、是れ百姓の害なり、いかでか鋒刃の威を仮らずして、坐ながらに其の国を平げん」と仰せられて、謀計を以てその巨魁を誅戮し、以て多数の民衆を安んぜしめ給うたのであった。また同じ天皇の日本武尊を東夷鎮定に遣わし給うや、「願はくば深謀遠慮して、姦を探り、変を伺ひ、之に示すに威を以てし、之を懐くるに徳を以てし、兵甲を煩はさずして、自ら臣隷せしめよ」と命じ給うた。これ実に我が皇が、異俗に対する大方針を明示し給うたものである。されば古史の示すところ、敵に対するに多くは謀計を用い、正々堂々の陣を張って、兵刃を交えたという様な場合はまことに少い。これを後世の武士道より見れば、或いはいかがかと思われる様な事もないではないが、期するところは自他の幸福であって、敵を滅ぼして自ら快とするものとは、甚だしくその趣きを異にしていたのである。
かくの如くにして懐柔せられ、同化融合せられた先住の民族は、いつかはその民族としての存在を失い、ことごとく蹟を所謂「日本民族」中に没してしまったのである。我が「日本民族」は、実に天津神の後裔たる天孫民族と、これに同化融合した国津神の後裔とが、相倚り相結んで成立したのである。されば神武天皇の大和に土賊を平らげ給うや、天津神の教によりて天神・地祇を崇祭し給い、その位に橿原宮に即き給うや、また天神・地祇を宮中に祭り奉り、特に天津神の代表者と仰ぎ奉るべき天照大神と、大地主神なる倭大国魂神とを、ともに宮中に安置し、殿を同じゅうして崇敬怠り給うことがなかった。降って崇神天皇の御代に至り、そのかえって神威を涜し奉らんことを恐れ、宮外の適当な地を選んでこれを祭り奉り、各々皇女をして、これに仕えしめ奉ったのであった。のみならず天皇は、さらに天社・国社を定め、神地・神戸を奉りて、あまねく天津神・国津神をお祭りになった。爾来上は皇室を始め奉り、下は一般庶民に至るまで、その祖神として天神・地祇を崇祭すること、あえてその間に区別を置かない。近く明治・大正の御大典に際しても、大甞祭に悠紀・主基の二殿を設け、まず新穀を天神・地祇に奉るの例は廃しない。これ以て我が「日本民族」が、天津神と国津神とを祖神と仰ぐ両民族の、完全なる融合同化から出来た複合民族であることを、立証したものと謂わねばならぬ。
果して然らばその国津神と云い、先住土着の民族と呼ばれるものは、果していかなる系統に属するものであるか。そもそもはた我が天孫民族とは、いかなる由来を有するものであるか。そして我が「日本民族」は、いかなる経過によって成立したものであるか。余輩は考古学者・土俗学者・人類学者・社会学者、その他の専門諸学者の研究と相提携して、読者諸賢とともに、これを攻究してみたい。
先住土着の民族の綏撫同化の事蹟については、四道将軍の地方巡察、景行天皇の熊襲親征、日本武尊の西征東伐等、我が古史の伝うる所、またあえて尠少なりというではないが、しかもさらに最も明瞭に、遺憾なくこれを説述したものは、我が雄略天皇が宋の武帝に遣わされたと称せられる、宋書記載の国書の文である。
昔、祖禰より、躬づから甲冑を擐し、山川を跋渉して寧んじ居るに遑あらず、東、毛人を征する五十五国、西、衆夷を服する六十六国、渡りて海北を平ぐる九十五国、王道融泰、土を廊き畿を遐くす云々。
この国書なるものが、果して我が天皇の関知し給えるものなるか否かは、自ずから別問題なりとするも、当時の我が使者たりし帰化漢人等が、これを宋の天子に呈したものであることは、疑いを容れない。そしてその記するところは、我が日本朝廷開創以来、雄略天皇の御代に至るまでの間の、我が皇威発展の真相を明らかに説述したものと解せられる。もとよりこれは外国の君に示すべく、主として我が皇の武威隆盛の状態のみを述べたのであって、この以外において常に平和的に、我が天孫民族が絶えず異俗同化融合の実を挙げつつあった事は、特に言うまでもなかろう。
かくの如くにして、その平和的に融合しえたものは勿論、征伐を経た所謂毛人五十五国、衆夷六十六国の民衆も、皆ともに我が忠良なる帝国臣民となり、相倚り相結んで、この「日本民族」を構成するに至ったものである。
余輩はまた「日本民族」構成の事蹟を調査するに当って、漢韓その他、諸蕃帰化の諸民族をも、閑却してはならぬ。渡って海北九十五国を平らげ給うた結果は申すまでもない。我が東海の楽土を慕うて、大挙移民した蕃人の史上に見ゆる数だけでも、決して少いものではなかった。その以外史に逸し、もしくは有史以前に行われて、僅かに考古学・人類学・土俗学等の研究の結果により、これを髣髴するをえる類のものも、またすこぶる多かったに相違ない。
斎部広成の古語拾遺に、「秦・漢・百済内附の民、各々万を以て計ふ。褒賞すべきに足れり。皆其の祠あれども、未だ幣の例に預らず。」とある。彼らは、我が国に渡来して、我が荒地を拓き、我が工業を進め、我が文化の上に貢献するところがすこぶる多く、所謂「褒賞すべき」ものであった。その祠は広成の当時においては、未だ官国奉幣の例に預っていなかったけれども、既に延喜式には、所謂天神・地祇三千一百三十二座の中において、明らかに蕃神の社の、少からず録上せられているのを見る。
かくの如く我が「日本民族」は、我が天孫民族以外において、所謂毛人・衆夷なる、先住土着の諸民族を始めとし、秦・漢・百済等海外帰化の諸民族をも合せて、打って一団となした鞏固なる複合民族である。そしてこれらの諸民族は、互いに通婚を忌まなかった。ただに国津神の後裔のみならず、秦・漢・百済等海外諸蕃の裔を承けたもので、入って皇妃・夫人の列に加わったものさえも、史上その例に乏しくはない。いわんや一般臣隷庶民の上においては、血族混淆の事実の甚だ多かるべきは勿論の事で、よしやその家柄は何であっても、その血統においては互いに相錯綜し、例えば網の目の連結して別なきが如く、到底これを区別することが出来ない状態にある。たとい人類学者の調査が、地方的に骨相体質の特徴あることを云為するとも、そはただ複合民族構成の要素において、多少の濃淡の差違あることを語るのみで、到底同一の「日本民族」なることには疑いない。そして我ら「日本民族」は、相協同一致して、皇室を宗家と仰ぎ奉り、その家長と坐す天皇を元首と奉戴して、終始国利民福の増進を希望するの外、また他意あることを知らぬのである。あらゆる天神・地祇はもとより、我が国土に祭らるる秦・漢・百済等の諸蕃神も、ことごとく我ら「日本民族」共同の祖神として尊崇すべく、我が国史上に現われたる偉人傑士は、ことごとく我ら「日本民族」共同の尊親属として、相ともにその誇りとなすべく、相ともにこれを尊敬すべきものである。
余輩はかくの如き意味を以て「日本民族」を解し、かくの如き意味において、「日本民族」なる語を用いる。我らと古い歴史を共同に有せざる新附の諸民族といえども、その由来沿革を調査したならば、我ら共同の祖先のいずれかにおいて、その同族姻戚たりしことを発見しうべきものであると信ずる。よしや全く関係のなかったものがあったとしても、我らの祖先がかつて為したと同じ様に、決してこれを疎外虐待することなく、温情を以てこれを抱容し、これを同化融合せしむべきものと信ずる。
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一昨年の冬、香取秀真氏が手賀沼の鴨を御馳走した時、其処に居合せた天岡均一氏が、初対面の小杉未醒氏に、「小杉君、君の画は君に比べると、如何にも優しすぎるじゃないか」と、いきなり一拶を与えた事がある。僕はその時天岡の翁も、やはり小杉氏の外貌に欺かれているなと云う気がした。
成程小杉氏は一見した所、如何にも天狗倶楽部らしい、勇壮な面目を具えている。僕も実際初対面の時には、突兀たる氏の風采の中に、未醒山人と名乗るよりも、寧ろ未醒蛮民と号しそうな辺方瘴煙の気を感じたものである。が、その後氏に接して見ると、――接したと云う程接しもしないが、兎に角まあ接して見ると、肚の底は見かけよりも、遥に細い神経のある、優しい人のような気がして来た。勿論今後猶接して見たら、又この意見も変るかも知れない。が、差当り僕の見た小杉未醒氏は、気の弱い、思いやりに富んだ、時には毛嫌いも強そうな、我々と存外縁の近い感情家肌の人物である。
だから僕に云わせると、氏の人物と氏の画とは、天岡の翁の考えるように、ちぐはぐな所がある訳ではない。氏の画はやはり竹のように、本来の氏の面目から、まっすぐに育って来たものである。
小杉氏の画は洋画も南画も、同じように物柔かである。が、決して軽快ではない。何時も妙に寂しそうな、薄ら寒い影が纏わっている。僕は其処に僕等同様、近代の風に神経を吹かれた小杉氏の姿を見るような気がする。気取った形容を用いれば、梅花書屋の窓を覗いて見ても、氏の唐人は気楽そうに、林処士の詩なぞは謡っていない。しみじみと独り炉に向って、Rêvons……le feu s'allume とか何とか考えていそうに見えるのである。
序ながら書き加えるが、小杉氏は詩にも堪能である。が、何でも五言絶句ばかりが、総計十首か十五首しかない。その点は僕によく似ている。しかし出来映えを考えれば、或は僕の詩よりうまいかも知れない。勿論或はまずいかも知れない。
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八月の炎天の下、屋根普請に三四人の工人達が屋根を這ったり上ったり降りたりしていた。黒赭いろの背中、短いズボンで腰部をかくすほか、殆ど裸体であった。
ええぞ、ええぞ、
という節のはやり歌のはやるある夏の頃であった。
ええぞ、ええぞ、
とうたい乍ら、工人達は普請にいそしんでいた。
その黒赭いろの背をまろぶ汗の玉の大粒なこと――涼しい、涼しい、と感じながら、そのころころもまろぶ汗の玉を私は眺めていたのである。
酷烈な気もちに追いつめられて見ていたそのどんづまりから湧き出した涼感であったかも知れないのだが。
百合が狂人の眼のようにあかみ走って、しかも落ちついて咲いていた。
幾鉢も幾鉢も二三本の茎を延ばして、細いしなやかな尖端に、ずしりと重いような太い輪廓の花を咲かしていた。
花のあかみには、ごまのような、跳ねた粒子形のかたまりのような逞しい蝶が、花に打突かる獰猛さで飛んで来ては、また何処かへ行った。
そして、また来ては、花の上下前後を縫い、あたりを飛びまわった。
汗はしんしんと工人達の背にまろび、百合はあかく咲き極まって酷暑の午後の太陽の光のなかに昏むばかりの強い刺戟を眼に与える。
私は、痴呆の無感覚にだんだん隔って行く自分をうつらうつら無意識と意識の境いに置きながら佇っていた。
新吉が普請場の屋根から落ちたのである。新吉は、工人の中でも一番若い二十三歳の青年であった。
ええぞ、ええぞ、
と新吉も他の工人とうたっていたのであった。その新吉が何故、普請場の足場丸太から足を滑らせたのか――新吉は、幻覚という言葉は知らなかったが、それと同じ表現を新吉の持つだけの語彙を使って私が入院させた病院のベッドの上でせいぜい私に云ってみた。
――何か、素晴しく偉大なもの、有がたいもの、懐しいもの、恋しいもの、やり切れないもの、恐ろしいようなもの、黙ってじっとしていられない圧迫のようなもの、かっと怒り度いもの、身ぶるいをして泣き出し度いようなもの、打突かって破壊し度い。そして追いついて行って縋り付き度いようなもの――
新吉は、突然、真夏の午後の熾烈な日光のもとで地上幾十尺かの空中の仕事の最なかにその幻覚の質か量かの区別もつかぬ不思議な正体に襲われたのである。
その刹那、新吉は足場丸太から足を踏み外し、地上に落ちて右の腓骨を打ったのである。
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頂きます。
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自刻の木版画が一般の人に段々重く見られて来た。然し未だ沢山出来ると云ふ事と価値との関係が絶えてない、又自刻の木版をやる人が沢山出来て来た。然し今迄で自分の見た内で極少数の人の外は多くは、趣味の人の画であつた、寧ろ皆と云ひたい。
木版及び刀が持つて居る特殊な味ひ、如何にもしつくり心地のいゝ印刷、習慣、商業人にない特殊な技工、之等から可成自由に、自分の趣味を発揮した人もあつた。
然し多くは素人として、刀の無器用な、使方不十分が反つて自然なプリミティブの感じを表はすので自刻して居る人もある。
要するに皆趣味の人である。そして多くの人の物は、凡そ、画を少し描く器用な人には少し技工の練習をすれば誰れにでも出来得る物である。少数の前者はそれに依つて自分を慰め楽しんで行ける趣味の人である。
木版の持つ気分は自分も非常に好きである。然し画を自分には趣味の物ではない、趣味の人ではない。自分の画は自分にとつて絶対の価値である。
全然自分である。少しも他人を交へぬ自分の全人格である。一杯に自分を表すならば版画は必然自刻せねばならない。此の立場から他人に彫らせると云ふ事は如何な場合でも無意味である。自分の画に他人にない自分の生んだリズムがある、筆触がある、如何にいゝ彫刻師でも、如何程巧で忠実に彫つても自分とは縁の遠い物である。
自分以外に自分の画を自分程知つて居る者はない。其画に他人が入いれば全人格の自分の画ではない、技工も必然に生れるのである。木版特別な独殊な気分も、気持を表す印刷も要するに財料手段である、第一義の者ではない。而して自分は趣味の人間ではない、自分の画は版画にしろ、油絵にしろ、デツサンにしろ、自分の苦闘の戦利品である。自分の生な生活の其時々、セクシヨンブある、自分の悲壮な人間のライフの生長の証拠である。材料は異つても、画は同じである、然し自分は時々経世の為に、自分を職人にする、労働して居る、それで板を彫る事も自分には労働である。
其時々、表はすに最も都合のいゝ材料手段を取る、そして自分は木版が好きである。
自分は木版に殆ど下絵をしない。
ドローイングをやる時や、写生する時、よく版を全部黒く塗つて刀で彫つた所が白く出で行く方法を取る。又簡単な色刷もやるが。
皆出来る丈け単純化された者である、何かをシンボルしたものである。斯う云ふ物に一番よく木版を生かせる。今迄の多くの人、例へば山本鼎君の木版等、自分には下らないものだ。木版画から木版独特其自身の持つ気分の外には、貧弱な、拙い画がある許りで、其木版独特の気分は誰れでも木版をやつて居る人は共通に持つてゐる、独特の技工もない。
自分が初めに少数と云つたのは、ムンクやヴアロツトンの事である。少くとも今迄の日本人にはない。
自分は、自分とは道が異ふが、木版画に於ても、一番に肯定する。自分は今迄見た内でムンク程木版画を生かした者はないと思ふ。
――「現代の洋画」二十三号より
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からたちは普通に枳殻と書くが、大槻博士の『言海』によるとそれは誤りで、唐橘と書くべきだそうである。誰も知っている通り、トゲの多い一種の灌木で、生垣などに多く植えられている。別に風情もない植物で、あまり問題にもならないのであるが、春の末、夏の初めに五弁の白い花を着ける。暗緑色の葉のあいだにその白い花が夢の如くに開いて、夢の如くに散る。人に省みられない花だけに、なんとなく哀れにも眺められる。
市区改正や区劃整理で、からたちもだんだんに東京市内から影を隠して来たが、それでも場末の屋敷町や、新東京の住宅地などには、その生垣をしばしば見受ける。しかも文化式の新しい建物などで、からたちの垣を作っている家は殆どない。からたちの垣をめぐらしているのは、明治時代かあるいは大正時代の初期に作られたらしい旧式の建物に限るようである。さもなければ、寺である。寺も杉や柾木やからたちをめぐらしているのは新しい建築でない。
要するにからたちは古家や古寺にふさわしいような、一種の幽暗な気分を醸し成す植物であるらしい。からたちの生垣のつづいているような場所は、昼でも往来が少い。まして夕方になるといよいよ寂しい。その薄暗い中に、からたちの花が白くぼんやりと開いている。どう考えても、さびしい花である。
俳句にもからたちの花という題があるが、あまり沢山の作例もなく、名句もないようである。からたちは木振りといい、葉といい、花といい、総ての感じが現代的でない。大東京出現と共にだんだんに亡びゆく植物のように思われて、いよいよ哀れに、いよいよ寂しく眺められる。前にいった場末の屋敷町や、新東京の住宅地などを通行して、その緑の葉が埃を浴びたように白っぽくなっているのを見ると、わたしはなんだか暗いような心持になる。これらのからたちもやがては抜き去られてトタン塀や煉瓦塀に変るのであろう。からたちで有名なのは、本郷竜岡町の麟祥院である。かの春日局の寺で、大きい寺域の周囲が総てからたちの生垣で包まれているので、俗にからたち寺と呼ばれていた。江戸以来の遺物として、東京市内にこれだけの生垣を見るのは珍しいといわれていたのであるが、明治二十四年の市区改正のために、その生垣の大部分を取除かれ、その後もだんだんに削り去られて、今は殆ど跡方もないようになってしまった。
からたちや春日局の寺の咲く
わたしは昔、こんな句を作ったことがあるが、そのからたち寺も名のみとなった。
からたちや杉の生垣を作るのは、犬や盗賊の侵入を防ぐがためである。殊にからたちは茨のようなトゲを持っているので、それを掻き分けるのは困難であると見做されていた。しかも今日のような時代となっては、犬は格別、盗賊はからたちのトゲぐらいを恐れないであろうから、かたがた以てからたちの需用は薄くなったわけである。説教強盗も犬を飼えと教えたが、からたちの垣を作れとはいわなかった。
わたしは昨日、所用あって目黒の奥まで出かけると、そこにからたちの生垣を見出した。家は古い茅葺家根である。新東京の目黒区となった以上、この茅葺家根も早晩取払われなければなるまい。それと同時に、このからたちの運命もどうなるかと、立ちどまって暫らく眺めていた。
家へ帰ると、ある雑誌社から郵書が来ていて、なにか随筆様のものを書けという。そこで、直ぐにこんなことを書いたのである。
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Medium
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老人はベンチにかけている。
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女教員の縊死と題して大阪朝日に記されてゐた事柄は、大阪市内の某校の女教師が母と一緒に暮してゐてそのうち養子を迎へたがどうしても仲よくすることが出来ずに争ひがたえなかったが或日も午後の七時頃から買物に出かけて十時頃かへつたがあまり外出の時間が長いと小言を云はれてそれから大げんかをしたが翌日またそのつゞきがあつて結局女は二階にあがつて縊死を遂たと云ふのだが実に下だらない事に死んだものだとしか私には思はれない。始終そんなに争つてばかしゐたのなら何故に離縁でも何でもしないのだらう何にも死なゝくともよささうなものだと思はれる。たゞ記事丈けで見れば死んだのは良人と仲がわるくて大げんかをしたのが動機になつて前から覚悟をきめてゐたのを決行したと云ふ風にとれるがしかし真相はとても記事によつて丈けではわからない、もつと死なゝくてはならない他の人には分らない事情があつたのかもしれない。併しそれは到底わからないから記事だけに信をおいて見れば実につまらない理由で死んだとしか思へない。三面記事としてはつまらない記事だ。こんなつまらない記事を女教師の縊死だなどゝ大げさに書くことはあんまり気のきいたことでもない。読ませやうとする上からはかういふ好奇心を引くやうなみだしをつけることも必要なことかもしれないがよむ方ではみだしの割にはよんでしまつてから「なあんだ」と云う風につまらながつて仕舞つてだん〳〵に興味を引かなくなつて仕舞ひはしないかと思はれる。一体私は新聞紙の報道を信ずることがどうしても出来ない。三面の一寸した報道にもはやく報道すると云ふ方にばかりかたむいて、真実を報じやうと云ふ堅実な考へはまるでないやうに思はれる。甲の新聞と乙の新聞では大変に、同一の事件でもちがふし、丙の新聞を見ればまたちがつてゐると云ふ風に一つ〳〵がちがつてゐるのでどれを信じやうにもどれが真か偽かわからなくなつてしまふ。甚だしいのは事件の中心の人物の名前などがまるで、甲と丙ではちがつてゐたり何かする。事件の真相とか何とか云ふことは或る種のことに対しては書けないかもしれないしなか〳〵真相をさがすのには骨が折れるであらうし違ふことがあつてもさう責められはしないけれど人の名位はせめて本当に調べて貰ひたい。何の関係もない者には名前や何かはまちがつてゐやうと本当であらうとかまはないやうなものゝそれでも皆が皆殊に女の名前なんかまちがひやすいと見えてひどく一つ〳〵の新聞がまちがつてゐる。すると事件の内容を書いた処まで少しちがつてゐればどれが本当だか見当がつかなくなつてしまふやうな事になる。
彼の福岡県の讎打をしたと称する少年の話などもかなり種々な問題になつたやうだがこの頃の記事で見ると彼は自分がはじめからねらつてゐたのではなくて大人が八人も一緒になつて彼に助太刀をして殺したのだと云ふ。他人に智慧づけられ、助勢されて初めて殺す気になつたらしい。それも初めの報には姉の情人であつた、少年の殺した吾一と云ふ男が姉の嫁入先きをねらつたとかねらはないとか云つてゐるが実は徘徊するも覗ふも吾一はその日は少年の隣村の親類まで行つたかへりに一寸茶店に憩つてゐたのだと云ひ、少年の姉とそのとき挨拶したのを他の老人が見てゐて人々に告げて殺さしたのだと云ふ。まるで最初の記事とはちがつたものになつてゐる。後のは予審の内容だから信ずることが出来るがもしさうだとすれば少年こそは誠にきのどくと云はなければならない。悪くむべきは吾一ではなくて少年を手伝つた人々である。彼等は彼等の謬見のために二人の将来ある人を葬り去つたことになるのだ。彼等はさう云ふ自分たちの罪を自覚しないであらうか、或ひはまた、少年が彼等を憤るときが来ないであらうか、先きの報では彼等はたゞ暗に少年に父の横死を話して聞かせたりいろいろして智恵づけたのだと云ふ風に考へさゝれたが今度はまた白昼九人の人が一人をなぐり殺したと云ふにいたつてはたゞおどろかされるより他はない。人間一人の生命をあまりにかるく見すごしてゐる。おそらくは彼等の頭には、親の讎打と云ふ古い種々な伝説が美しく生きてゐたのであらう。さうとすれば無邪気と云はうか無智と云はうか実に笑ひを禁じ得ないと一緒にまた肌の粟立つ程恐ろしくも感ぜられる。実に珍らしい悲喜劇であると云はなければならない。しかしこれに似よつたいきさつは始終私たちの周囲に渦を巻いてゐるのだ。たゞそれが具体的に現はれない丈け気がつかずにゐると云ふまでなのである。
[『新公論』第三〇巻第七号、一九一五年七月号]
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七
日本語の研究をしてゐるポリテクニツクの学生を紹介された。採鉱や金の専攻らしい。青年の家庭には、父君が外国貿易商であるせゐか、いろ〳〵珍しい人物が出入してゐた。
お茶の会をするといふので、僕は出かけて行つた。ほんたうをいふと、僕はあまりかういふ場所を好まない。殊にパリへ流れ込んで来てゐる外国人が、容易に出入できるやうな家は、たゞ雑然たるエキゾチズムの刺激があるばかりだ。
凡パリへ行つて、文学芸術の修業を心がけ、アヴアン・ギヤルドの運動に眼をつけてゐたほどの人は、詩人A・Mの「面会日」を知つてゐるはずだ。これまた一寸類のない人種展覧会である。僕がそこで紹介された人だけでも、メキシコの詩人兼雑誌記者、ハンガリーの舞台監督、チエコ・スロヴアキアの文学青年、トルコの版画家、セルヴイヤの映画俳優、コルシカの女城主!
主人のA・Mは、当日、アパートメントの入口に立つて、一々来訪者に名簿を差だし、そのサインを需める。狭いサロンはたちまち満員、書斎、寝室、いづれも立すゐの余地なきまでに後から後からつめ込んでくるのであるが、もちろん大部分は立つてゐるのである。脚が疲れると人込みを分けて歩きまはる。その間に知つた顔を探すのである。ぼんやりしてゐるのがゐると、主人のA・Mが、その辺の、またぼんやりしてゐるのに引合はせるのである。ぼんやり同士は、まづ相手が何語を解するかを確めねばならぬ。一方が英語しか話せず、一方が仏語しかわからぬとなると、また、黙つて眼を反らすのである。眼を反らして壁を見ると、これはまた、世界土産展覧会である。一々数へ上るわけにもゆかぬが、デンマークの陶器皿と並んでスペイン風のたてがかけてあり、支那の仏像の下にチロルのパイプがぶら下つてゐるといふ工合である。そこには、残念ながら安価な好奇心と、相殺された情調の効果があるのみである。
ところで、ポリテクニシヤンの家庭の茶話会はどうか。意外なことには、この席に、安南のプリンスと、日本のテノールがちやんと納まつてゐる。もちろん初対面であるが、不思議な気がした。一座にけい秀画家がゐて、今度のサロンに、そのプリンスをモデルにした肖像を出品したといつてゐる。プリンスは、満足げにその盛上つた小鼻を一段とふくらまして、物好きな女共の鑑賞に身を任してゐる。
やがて、話が北上して日本に来た。
見ると、わがテノールは、ポケツトから二三枚の楽譜を取りだし、イスから起ち上つて、もぢもぢしてゐる。
――君、一寸、この歌の意味をみんなに説明してくれませんか。僕、これから歌ひますから。……。
僕は、困つたことになつたと思つた。だれも歌へとはいはなかつたはずだ。それとも音楽家の敏感な聴覚は、一同の眼付から、その希望を聴き取つたのか。
僕は仕方なく
――この方が、歌を唱はれるさうです。歌の意味はかうです。芭蕉といふ有名な詩人、詳しくいへば、ハイカイの天才が……。
僕は、息がつまりさうになつた。あとは何をいつたか覚えてゐない。僕の説明が、途中でつかへてゐると、耳のそばで割れ鐘のやうな声が響きだした。歌がはじまつたのだ。
僕は聴手の顔を見ないやうにしてゐた。さうかといつて窓の外を見てゐると、表へ飛びだしたくなるに極つてゐる。眼のやり場に困つて、歌ひ手の口を見つめてゐた。僕は、はツとして、眼を伏せた。その口の一端から、あわ立つた液体が楽譜の上へ半透明な糸を引いてゐた。
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「助けて」といふ声が聞えるのです。私は笑つてゐました。
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がんのリスクが高い
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ポットにはほとんどコーヒーは残っていない。
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四月号の諸雑誌の戯曲を二十五篇読んでその印象を朝日に書いたが、その後寄贈された雑誌の中にも戯曲が一二篇づゝ載つてゐるので、これも読まなければわるいやうな気がする。たゞ、もう戯曲には飽き飽きした。しばらくは顔を見るのもいやだといふ気がする。
×
月評といふ仕事は、せめて一年は続けて毎月やらなければ、纏つた仕事にはならないだらう。一と月だけポツンとやつたんではしかたがない。今月感心した作家でも、来月は感心しないかも知れない。その反対の場合もある。
勿論月評家の批評が、一人の作家の浮沈を決定するとは思はないが、公平を期する上から云へば、きまぐれに、若い作家などの作品を云々することは慎むべきだ。
×
しかし、「街」といふ同人雑誌に「トロイの木馬」一幕を書いてゐる坪田勝氏は、若い人だとは思ふが、有望な作家だ。戯曲といふものゝ本質をつかんでゐる点で、稀に見る劇的才能の所有者だ。それにしても、将来、「上手な台本作り」にならなければいゝが。
×
今後、断然、月評だけはしないつもりである。縁もゆかりもない人のことを、褒めたり貶したりするのは、よつぽど面白くでもなければ、苦労ばかり多くて、所詮引合つた仕事ではない。(以上岸田)
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彼は民放TVを殆ど見ません
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父の代に大久保百人町に越して来てから、私が、最近、西荻窪に自分の家を建てるまで、凡そ二十七八年間、私自身は殆ど年に一回平均居所を変へてゐる。
九州の連隊にはひつたり、本郷で下宿をしたり、西洋へ行つたりしたことは別として、父が死ぬまで住んでゐた中野新井の家を人手に渡し、下沼袋に母の隠居所を求めて、そこで最初の文筆生活にはひつてからこの方、私は、所謂中央線の沿線を「住みなれた土地」にしてしまつた。
以下おぼろげに記憶を辿つて、私の足跡をしるしてみよう。
野方町下沼袋
牛込区若松町(はじめて教師の職を得て)
神奈川県辻堂(病気の宣告を受け)
房州館山(旅先で倒れ)
杉並町阿佐ヶ谷(病癒えて)
同天沼
荏原郡松沢(新婚旅行の意味で)
杉並町阿佐ヶ谷
伊豆船原(家財道具を処理して全家ホテル住ひ)
信州千ヶ滝
杉並町阿佐ヶ谷
同天沼
群馬県北軽井沢(家財道具を纏めて田園生活の決心)
中野町栄町通(家を建てるつもりで一旦土地まで借りたが)
杉並区高井戸大宮前(松庵に土地をきめ普請の監督かたがた仮住居)
同松庵南町(さて自分の家ができ今度は何時引越せるか!)
かやうにして、私の引越は有名になつたのであるが、どうも、不思議に何処に行つてみても、中央線の古巣が恋しくなるとみえ、しばらくすると、別に用もないのに舞ひ戻つて来る。一度は方面を変へてと、例へば四谷、本郷、青山など、貸家探しをして歩いたこともあるが、とんと思はしい条件の家がなく、それも考へてみると、住居の標準が全然違つてゐることがわかり、すると、勝手を知つた阿佐ヶ谷附近ならといふことになつてしまふのである。
私は、家を借りる時は、どうせ何時でも引越せるのだと甚だ簡単にきめてしまふ習慣がある。はいつてみて、椽側に雨戸のないことに気づき、客が茶の間を通つて便所に行かねばならぬことを不都合に思ふ始末だ。そこで、家主の不親切借家住ひの味気なさを嘆じはじめる。
今度は、椽側の雨戸に気を配り、客間と便所との通路を研究してから引越しをする。近所に洗濯屋があつて、朝晩シヤボンの焦げる臭ひ(?)をかゞされ、次は、畑の真ん中へ引越さうと決心する。
その希望を実現させた。実に清々しい。季節の色は鮮かに遷り変つて、雑木林の上に富士の頂がのぞいてゐる。そして、何も云ふことはないのであるが、五月の半ばに蚊帳がなければ寝られぬ次第だ。子供を入れるつもりでゐた幼稚園を、よくよくのぞいてみるとそれは、薄ら冷い感化院だつた。
町内から寄附を集めに来た。非常時の思想善導熱に浮かされて、有志が神社の改築を思ひ立つたのである。
新開地の文化は、移住者の間を潜つて、歴史的逆転をなしつゝある。
誰かゞ、何かを云ひ出さないものか!
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メードがパンの上にトマトソースをたっぷりかける
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一 東京の櫻
吉野山去年のしをりの路かへて
まだ見ぬ方の花をたづねむ
心は花に浮き立つ陽春四月、路伴れもがなと思ふ矢先、『今日は』とにこ〳〵顏の夜光命。待つてましたと裸男もにこ〳〵。挨拶もそこ〳〵にして語り出づるやう、『やよ聞き給へ。花は櫻、櫻は日本、日本の中にても東京附近、げに〳〵花の都なる哉。さてその東京附近には、吉野櫻と稱するもの多きが、櫻の中の櫻とも云ふべき山櫻は、小金井の獨得なり。小平村小川水衞所より小金井村境橋まで一里半、櫻の數は千六百五十本、幾んどみな山櫻也。而も老木也。殊に玉川上水の清流を夾めり。そのまた境橋より下、和田堀水衞所まで約四里、八重櫻相連なりて、其數三千に及ぶ。これを新武藏野の櫻と稱す。新武藏野と小金井と上下相連なりて長さ五六里とは、何と見事なものに非ずや。次に荒川土手の櫻、江北村鹿濱より千住掃部宿に至るまで、二里ばかりの土手の上、櫻の連なること千九百三十本に及ぶ。上方の半分が八重櫻にして、下方の半分が吉野櫻也。さてまた千住掃部宿より綾瀬川を渡り、鐘ヶ淵を經て、枕橋に至るまで、一里半、櫻の連なること千七百六十本、之を向島の櫻と稱す。向島と荒川土手と上下相連なりて凡そ四里、これも亦見事ならずや。次に飛鳥山の櫻、八百五十本。次に上野公園の櫻、千二百五十本。東京の櫻を賞せむとするものは、是非とも以上の六箇所を見ざるべからず。なほ櫻多き處を列擧すれば、九段の櫻が五百四十本、江戸川の櫻が三百八十本、日比谷公園の櫻が二百五十本、英國大使館前の櫻が二百八十本、芝公園の櫻が五百二十本、清水谷公園の櫻が四百五十本、淺草公園の櫻が二百三十本、山王公園の櫻が二百三十本、植物園の櫻が二百三十本、以上櫻の名所十五箇所、櫻の總數は、凡そ一萬四千本也。
物知りの夜光命も、これには驚くかと思ひの外、『報知新聞の受賣か』と素破拔かれて、裸男大いに器量を下げたるが、『好し〳〵、さらば、世間に知れざる櫻の名所案内申さむ。いざ〳〵來給へ。』
二 市川の桃林
本所押上町までは、市内電車に乘る。それより京成電車に乘りて、市川新田に下り、千葉街道の裏手を行く。左右は桃園也。萎みて色褪せたれど、花なほ枝に在り。紅色多きが、をり〳〵白色もまじる。喬松とりかこみて、桃を擁護するに似たり。夜光命、裸男の肩を叩いて曰く、『櫻の新名所へと云ひつるに、これは音に聞く市川の桃林に非ずや。よめたり〳〵、君が櫻の名所といふは、さきに電車の中より、ちらと見たる小利根川畔一帶の櫻雲なるべし』と、氣が付かれては仕方なし。正直に白状して曰く、『然り、今の處、いはば捨鐘也。似而非風流人は、一概に凡桃俗李とけなせど、まんざら見限つたものに非ず。まあ〳〵進み給へ。』
疎籬をかこひて、人の入る能はざるやうにしたるが、時に口をあけ、茶店を設けて、客を迎ふる桃林もあり。一園の中に、二人の若紳士の酒酌みかはせるを見る。一美形之に侍す。一目直ちに藝者と見らる。夜光命ちらと見て、裸男に謂つて曰く、『桃の夭々たるものか。それにつけて思ひ出さるゝは、われ此頃京に遊びしに、途上相逢ふの女に美人らしきものなかりき。東京に歸り來れば、路上みな美人也。もとは、これがあべこべなりき。東京は金力を集中し、權力を集中し、從つて美人をも集中するに至れるか。水道の普及せるも、女の顏を美にする一因にあらずや』と云ふに、『水道の水は白粉とよく調和するかも知れず』と答へつゝ、客は二人なるに、藝者は一人のみなるかと、目を園の一方に移せば、居るは〳〵、桃花の奧に、蓮歩を運ぶ一美形、裊娜たる後姿のみ見えて、其の顏は見えざりき。
白旗神社の前を過ぎ、山王山不動堂の境内を通りて、八幡宮に至る。境内ひろく、木立しげる。祠畔に銀杏の大木あり、十數幹簇生して、一樹を成す。試みに抱へて見しに、七抱へありき。相傳ふ、この樹に蛇多く棲み、祭日には、必ず現はれ出づるとかや。老木は何の木にても、尊く仰がるゝ哉。實はこの老木を見たさに、わざ〳〵此に來りたる也。
三 小利根川の右岸
捨鐘はこれにて濟みたり。千葉街道に出で、引返して、市川橋を渡り、小利根川の右岸を上る。堤の兩側の櫻、若けれども、花を著けたり。春水溶々、白帆浮ぶ。國府臺水に接して、積翠を凝らし、葛西葛飾の水田、茫々盡くる所を知らず。栗市の渡をわたりて、國府臺に上り、一茶店に就いて酒を呼ぶ。櫻花數十株、喬松の間にまじる。一條の櫻雲、小利根川畔に遠く相連なる。東京の方を見れば、數百千の煙突煙を吐く。十二階殊に目立ちて見ゆ。皇城まで直徑三里もあるべし。號砲の音、さやかに聞ゆ。鄰席の一群の中に、早川純三郎氏あり。裸男を認めて、來り話す。思ひがけぬ人に逢ひて、酒も一層の味を添ふ。早川氏その一群と共に去りて後、凡そ二十分、われらも發足して、栗市の渡をもとへ戻り、川に沿うて上る。上るに從ひて、櫻の木漸く大也。とぎれ〳〵に遊客に逢ふ。柴又帝釋天の後方にて、また早川氏の一行の川より上り來たるに逢ふ。この一行は、栗市より舟にて上りたる也。逢うて話す間もなく、この一行は帝釋天さして去り、我等は花のトンネルを行く。別れて間もなく、その一行の中に、『御兩人〳〵』と連呼するものあり。われら兩人の事かとふりむけば、土手の傾斜面に、若き男女相竝びてすわる。男の顏は黒く、女の顏は白し。男冷かされて、少しうつむきたるが、女はずう〳〵しくも手招きしながら、『新馬鹿大將』と叫ぶ。『蛇喰ふと聞けば恐し雉子の聲』の句さへ思ひ出されて、いとあさまし。
奧州濱街道に出でて、金町に至り、電車待つ間に、葛西靈松と稱する老松を看る。田舍に置くは惜しきもの也。相對して厭くことを知らざるが、思ひの外早くも電車來りければ、心は後に殘りつゝも、之に乘りて歸路に就く。
小利根川一に江戸川と稱す。櫻なほ若し。譬ふれば、十五六の少女にや。この日、市川橋より上を見物したるが、下には櫻樹長く相連なれり。上下數里、直ちに小利根川に接し、白帆殊に趣を添ふ。平田の眺めもよし。空澄まば、富士、箱根、秩父、日光、筑波も見ゆべし。國府臺の鬱蒼たるあり。帝釋天の壯麗なるあり。酒樓には、川魚料理を以て有名なる川甚もあり。舟にて花を眺むるの便もあり。今の處、吉野、小金井、荒川が櫻の名所の三絶と云はるゝが、ゆく〳〵は小利根川、必ず之に加はるべし。(大正五年)
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「その父賢にして、その子の愚なるものは稀しからず。その母賢にして、その子の愚なる者にいたりては、けだし古来稀なり」
わたくしは、かつてのわたくしの作「孟母断機」の図を憶い出すごとに、一代の儒者、安井息軒先生の、右のお言葉を連想するを常としている。
嘉永六年アメリカの黒船が日本に来て以来、息軒先生は「海防私議」一巻を著わされ、軍艦の製造、海辺の築堡、糧食の保蓄などについて大いに論じられ――今日の大問題を遠く嘉永のむかしに叫ばれ、その他「管子纂話」「左伝輯釈」「論語集説」等のたくさんの著書を遺されたが、わたくしは、先生の数多くの著書よりも、右のお言葉に勝る大きな教訓はないと信じている。
まことに、子の教育者として、母親ほどそれに適したものはなく、それだけに、母親の責任の重大であることを痛感しないではいられない。
息軒先生のご名言のごとく、賢母の子に愚なものはひとりもないのである。
昔から名将の母、偉大なる政治家の母、衆にすぐれた偉人の母に、ひとりとして賢母でない方はないと言っても過言ではない。
孟子の母も、その例にもれず、すぐれた賢母であった。
孟子の母は、わが子孟子を立派にそだてることは、母として最高の義務であり、子を立派にそだてることは、それがすなわち国家へのご奉公であると考えた。
それで、その苦心はなみなみならぬものがあったのである。
孟子は子供の時分、母と一緒に住んでいた家が墓場に近かった。
孟子は友達と遊戯をするのに、よくお葬式の真似をした。
母は、その遊びを眺めながら、これは困ったことを覚えたものであると思った。明け暮れお葬式の真似をしていたのでは、三つ子の魂百までもの譬えで、将来に良い影響は及ぼさぬと考えた。
そう気づくと、母は孟子を連れて早速遠くへ引越してしまった。
ところが、そこは市場の近くであったので、孟子は間もなく商人の真似をし出した。近所の友達と、売ったとか買ったとかばかり言っている。
三度目に引越したところは、学校の近くであった。
すると果たして孟子は本を読む真似をしたり、字を書く遊びをしたり、礼儀作法の真似をしてたのしんだ。
孟子の母は、はじめて愁眉をひらいて、そこに永住する決意をしたのである。
世に謂う孟母三遷の有名な話であるが、孟母は、これほどにまでして育てた孟子も、成長したので思い切って他国へ学問にやってしまった。
しかし、年少の孟子は、国にのこした母が恋しくてならなかった。
ある日、母恋しさに、孟子はひょっこりと母のもとへ帰って来たのである。
ちょうどそのときは、孟母は機を織っていた。母は孟子の姿を見ると、一瞬はうれしそうであったが、すぐに容子を変えて、優しくこう訊ねた。
「孟子よ。学問はすっかり出来ましたか」
孟子は、母からそう問われると、ちょっとまごついた。
「はい、お母さま。やはり以前と同じところを学んでいますが、いくらやっても駄目なので、やめて帰りました」
この答えをきいた孟母は、いきなり傍の刃物をとりあげると、苦心の織物を途中で剪ってしまった。そして孟子を訓した。
「ごらんなさい、この布れを――お前が学問を中途にやめるのも、この織物を中途でやめるのも、結果は同じですよ」
孟子は、母が夜もろくろく寝ずに織った、この尊い織物が、まだ完成をみないうちに断られたことを、こよなく悔いた。母にすまない気持ちが、年少の孟子の心を激しくゆすぶったのである。
孟子は、その場で、自分の精神の弱さを詫びて、再び都へ学問に戻った。
数年ののち、天下第一の学者となった孟子に、もしあのときの母親のきびしい訓戒がなかったなら、果たして孟子は、あれだけの学者になれていたであろうか。
まことに、賢母こそ国の宝と申さねばなりますまい。
「孟母断機」の図を描いたのは、明治三十二年であった。
そのころ、わたくしは市村水香先生に就いて漢学を勉強してい、その御講義に、この話が出たので、いたく刺戟されて筆を執ったものであるが、これは「遊女亀遊」や「税所敦子孝養図」などと、一脈相通ずる、わたくしの教訓画として、今もって懐かしい作のひとつである。
「その父賢にして、その子の愚なるものは稀しからず、その母賢にして、その子の愚なる者にいたりては、けだし古来稀なり」
息軒安井仲平先生のお言葉こそ、決戦下の日本婦人の大いに味わわなくてはならぬ千古不滅の金言ではなかろうか。そして孟母の心構えをもって、次代の子女を教育してゆかねばならぬのではなかろうか。
――孟母断機の故事を憶うたびに、わたくしは、それをおもうのである。
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婦人に何ういふ書物を讀ませたらいゝかといふ事を話す前に、一體、婦人のみに讀ませるといふやうな書物があるかどうか、それを考へて見なければならない。
すると、先づ裁縫の本とか、料理の本とか、或は又育兒に關する本とかいふものがある。成る程これは、大抵の場合、婦人のみに用のある書物である。併し、婦人に何ういふ本を讀ませたらいゝかといふのは、料理とか裁縫とか育兒といふものよりも、もつと婦人の精神的要求を充たすべき書物を尋ねるのであらう。だから、この種の書物以外に、婦人向きの書物を考へて見る必要がある。
第二には、偉い婦人の傳記である。從來、婦人の讀物といへば、ジヤン・ダーク傳とか、ナイチンゲール傳とか、さういふものを推薦する人も少くない。併し、さういふ偉い婦人の傳記は、料理や裁縫と同じやうに、果たして婦人のみに役立つものであらうか、言ひ換へれば、その傳記の主人公が婦人だといふ事が、それ程讀者たる婦人の上に、重大な影響を持つであらうか。成る程婦人といふ限りでは、ジヤン・ダークも、ナイチンゲールも、良婦之友の愛讀者も、共通なのには違ひない。併し、性の上の共通といふ事が、果たして、思想や感情の共通といふ事よりも、重大な影響があるかどうか疑問である。僕は、ジヤン・ダークが如何に生きたかを知るよりも、少くとも現代の婦人にとつては、如何にトルストイが生きたかを知る方が、興味があるだらうと思ふ。
偉い婦人の傳記以外に、屡々婦人の讀物として推奬されるのは、婦人の書いた書物である。これも、偉い婦人の傳記の通り、著者も讀者も婦人だといふ事は、必ずしも、他の書物よりも推奬すべき理由にはなりさうもない。
つまり、料理とか裁縫とか、育兒とかといふ書物以外に――婦人が實生活の中に勤める役割に關した書物以外に、婦人にのみ用のある書物があるかどうかといふ事は疑問である。婦人も、婦人たるより先きに、人間なのだから、書物の選擇などに拘泥せず、何んな書物でも、よく讀んでみるがよい。又、實際、現代では、どんな書物でも、讀みつゝあるのだらうと思ふ。
どんな書物でもといふ事は、甚だボンヤリしてゐるやうであるが、實際、一體書物なり、書物の選擇といふものは、各人の自由に任せる外はない。どういふ本がいゝといつても、讀者が其處まで進んで居なければ、どんな傑作を讀んでも、役には立たない。
その證據には、婦人雜誌に出て居る女學校の校長の説などを讀むと、色々の本の名前を擧げてゐても、ことごとく尤もらしい出鱈目である。あゝいふ先生に教育されるのだと思ふと、いよいよ我々は、婦人のために、讀書の必要を思はざるを得ない。
併し、今も言つた通り、どういふ書物と云つたところが、誰でも夫れを讀みさへすれば、必ず爲めになるといふ書物は、出版書肆の廣告以外に存在する筈はないのだから、甚だ頼りのないものである。
既に萬人向きの書物がないとすれば、問題は、讀者自身の工夫に移らなければならぬ。僕は、如何なる本を讀むかといふ事よりも、寧ろ大事なのは、如何に本を讀むかといふ事では無いかと思ふ。
では、如何に讀んだらいゝかと言へば、これも、多少人に依つて違ふかも知れないが、兎に角、何者にも累らはされずに、正直な態度で讀むがいゝ。何者にもと云ふ意味は世評とか、先輩の説とか、女學校の校長の意見とか、さういふ他人の批判を云ふのである。
讀者自身、面白いと思へば面白い。詰まらないと思へば詰まらない。――さういふ態度を、無遠慮に、押し進めて行くのである。さうすると、その讀者の能力次第に、必ず進歩があると思ふ。
これは、獨り讀書の上ばかりではない。何んでも、自己に腰を据ゑて掛らなければ、男でも女でも、一生、精神上の奴隷となつて死んで行く他は無いのだ。
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Hard
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一
毎日のように、村の方から、町へ出ていく乞食がありました。女房もなければ、また子供もない、まったくひとりぽっちの、人間のように思われたのであります。
その男は、もういいかげんに年をとっていましたから、働こうとしても働けず、どうにもすることができなかった、果てのことと思われました。
町へいけば、そこにはたくさんの人間が住んでいるから、中には、自分の身の上に同情を寄せてくれる人もあろうと思って、男は、こうして、毎日のように、田舎道を歩いてやってきたのです。
しかし、だれも、その男が思っているように、歩いているのをとどまって、男の身の上話を聞いて、同情を寄せてくれるような人はありませんでした。なぜなら、みんなは自分たちのこと考えているので、頭の中がいっぱいだからでした。まれには、その男のようすを見て、気の毒に思って財布からお金を出して、ほんの志ばかりでもやっていく人がないことはなかったけれど、それすら、日によっては、まったくないこともありました。男は、空腹を抱えながら、町の中をさまよわなければなりませんでした。
美しい品物を、いっぱい並べた店の前や、おいしそうな匂いのする料理店の前を通ったときに、男は、どんなに世の中を味けなく感じたでしょう。彼はしかたなく、疲れた足を引きずって、田舎道を歩いて、さびしい、自分の小屋のある、村の方へ帰っていくのでした。
ここにその途中のところで、道ばたに一軒の家がありました。そう大きな家ではなかったが、さっぱりとして、多分役人かなにかの住んでいる家のように思われました。この道をいく人々は、ちょうど、その窓の下を通るようになっていたのであります。
ある日のこと、男は、その窓の下に立って、上を仰ぎながら、あわれみを乞うたのでありました。どうせ、家の内からは返答がないだろうと思いました。なぜなら、町では、あのように、顔を見合わせて、手を合わせて頼んでも、知らぬふうをしていき、また振り向こうともしないものを、窓の下から、しかも外の往来の上で頼んでも、なんの役にも立つものでないと考えられたからです。
「どうぞ、哀れなものですが、おねがいいたします。」と、男は、重ねていった。
ひっそりとして、人のいるけはいもしなかったのが、このとき、ふいに窓の障子が開きました。顔を出したのは、眼鏡をかけた色の白い、髪のちぢれた女の人でした。その人は、たいへんやさしそうな人に見えました。
男は、頭を下げて、
「どうか、なにかおめぐみください。」と願いました。
その女の人は、男が思ったように、ほんとうにやさしい、いい人でありました。じっと、男の顔を見ていましたが、
「そういうように、おなりなさるまでには、いろいろなことがおありでしたでしょうね。」といいました。
男は、はじめて、他人からそういうように、やさしい言葉で問いかけられたのでした。
「よくお聞きくださいましてありがとうぞんじます。妻には死に別れ、頼りとする子供も、また病気でなくなり、私は、中風の気味で、半身がよくきかなくなりましたので、働くにも働かれず、たとえ番人にさえも雇ってくれる人がありませんので、おはずかしいながら、こんな姿になってしまったのです。」と、涙ながらに答えました。女の人も、やはり、目をうるませていました。
「私の父が、ちょうどあなたの年ごろなんですよ。都合のために、遠くはなれてくらしていますが、あつさ・さむさにつけて、父のことを思い出します。だれでも、若いうちに働いてきたものは、年をとってからは、楽にくらしていけるのがほんとうだと思います。それが、この世の中では、思うようにならないんですのね。」と、女の人はいいました。
男は、だまって、うなだれて女の人のいうことを聞いていました。
女の人は、いくらか銭を哀れな男に与えました。男は、しわだらけな、色つやのよくない手をのばしてそれを受け取って、いただきました。その銭は、たとえすこしではありましたけれど、深いなさけがこもっていましたので、男には、たいへんにありがたかったのです。
男は、いくたびもお礼を述べて、そこを立ち去りました。そのうしろ姿を女の人は、気の毒そうに見送っていました。
その後、男は、町へいくたびに、この家の窓の下を通ったのでした。けれど、たびたびあわれみを乞うては悪い気がしました。よくよく困ったときででもなければ、願うまいと決心したのであります。
しかし、その長い間には、雨の降る日もあれば、また風の吹く日もありました。そして、一日町の中を歩いても、すこしも、もらわないような日もあったのであります。
彼はしかたなく、この家の窓の下に立って、
「どうぞお願いいたします。」と、上を仰いで、いわなければならなかった。
すると、障子が開いて、眼鏡をかけた、色の白い、髪のちぢれた女の人が、顔を出しました。そして、いやな顔もせずに、
「さあ、あげますよ。」といって、銭を男の手に渡したのでした。
乞食の男は、それをいただいて、
「ありがとうぞんじます。」と、いくたびも礼をいって立ち去りました。
風の吹く、さびしい村の方へ男は帰っていきました。たとえ、わずかばかりのお金であっても、空腹をしのぐことができたのであります。
この広い世の中に、だれ一人、自分のために思ってくれるもののないのに、こうして心から同情してもらうということは、頼りない男に、どれほど、明るい気持ちを与えたかしれません。男は、毎日、この家の窓の下を通るときに、この家の人々の身の上に幸福あれかしと祈らないことはなかったのです。
二
こうして、長い月日が過ぎました。ある日、男はいつものように村から、道を歩いてきますと、いつになく、その家の窓の雨戸が堅くしまっていました。どうしたことだろうと思いました。それから、子細に周囲をしらべてみますと、その家は、空き家になっていました。
あのやさしい、しんせつな、女の家の人たちは、どこへか越していったと思われました。
「どこへお越しになったのだろう……。」と、男は思った。
それから、近所の人々に、それとなしに聞いてみると、なんでも遠方へ越していかれたようです。相手が、きたならしい乞食であるので、だれもくわしく、しんせつにものをいって教えてくれるものがなかったのです。男は、ついに知ることができませんでした。
哀れな男は、またまったく世の中から、見捨てられた、さびしい人間となってしまいました。いつまで、同じところに、さまよっていてもしかたがなかったから、村から村へ、町から町へあてもなく、さすらいの旅をすることとなりました。その間に、また、長い月日は、しぜんにたっていきました。いろいろの土地を歩きましたが、乞食の男は、ふたたび、あのしんせつな女の人にめぐりあうことはなかったのです。
男は、どうかして、もう一度めぐりあいたいものだと思いました。しんせつにしてもらった恩を忘れなかったのであります。
ある年のこと、男は、街道を歩いていました。北の方の国であって、夏のはじめというのに、国境の山々には、まだ、ところどころ、白い雪が消えずに残っていたのでした。けれど、野原にはいろいろの花が咲いて、澄んだ空の下で、日の光にかがやき、また、どこともなく吹く風に、さびしそうに揺らいでいました。
男は、そんな景色を見ながら歩いているうちに、死んだ女房のことや、子供のことなどを思ったのでした。また、自分が子供の時分、友だちと竹馬に乗って、駆けっこをしたり、往来の上で輪をまわして、遊んだことなどを記憶から呼び起こしたのであります。しかし、それは、遠い昔のことであり、また、自分のうまれた国は、たいへんにここからは離れていたのでありました。
ちょうど、このとき、あちらの方に汽車の笛の音がしたのでした。やがて平原を、こちらに向かって走ってくる汽車の小さな影を認めたのでした。男は、しばらくなにもかも忘れて、子供のようになって、その汽車を見まもっていました。
静かな、うららかな天気の日であったのです。よく子供の時分に、迷信ともつかず、ただ、魔法を使うのだといって、口のうちで、おなじことを三べんくりかえしていうと、きっと思ったとおりになると信じたことがありましたが、男は、ふと子供の時分に、やったことを思い出して、
「とまれ、とまれ、とまれ!」と、汽車の走ってくるのをながめながら、ぜんぜん子供の気持ちになって、汽車に向かっていったのでした。
普通に考えてみても、そんなことをいったとて、汽車がとまる道理がありません。けれどこの年とった男は、いまにもとまりはしないかと空想に描きながら、汽車を見つめていました。
汽車は、だんだん近づいてきました。そして、見ていると、その速力がしだいにゆるくなってきて、彼が、あまりのふしぎに、胸をとどろかしながら見ていると、すぐ前にきたときに、まったく汽車はとまってしまったのでした。
男は、どうしたらいいだろうかとあわてて、すぐにも逃げ出そうかとしました。汽車に乗っている人々は、みんな窓から顔を出して、何事が起こったのだろうかと線路の上をながめていました。
運転手や、車掌や、汽車に乗っている係の人々は、汽車から降りて、機関車の下あたりをのぞいていました。
機械の力で動いている汽車が、機械に故障を生じた時分に止まるのは、なんのふしぎもないことでした。ただ、男が、そんなことを口の中でいったときに、偶然、機械に故障を生じたのがふしぎだったのであります。
男は、頭を上げて、汽車の窓からのぞいている人々の顔をながめていました。
「この人たちは、どこまでいくのだろう……。」と、そんなことを思ったのでした。
そのうちに、男は、はっとして、びっくりしました。金縁の眼鏡をかけて、色の白い、髪のちぢれた女の人が、やはり、汽車の窓から顔を出して、のぞいていたからです。その人は、数年前に、あの家の窓の下を通った時分に、しんせつに恵んでくれたその人そっくりでありました。
けれど、ただちがっていることは、いま、前に見る人は若く、あのときの人は、もっと年をとっていたことです。
「あの女の人の子供さんにしては、大きいし、この人は、あの人の妹さんであろう……。」と、男は思いました。
いつか、その女の人は、自分を見て、遠くはなれている父親のことを思うといったが、これは、またなんという奇妙なことであろうと、男は考えたのでした。そして、前に汽車の窓から、顔を出している若い女の人を、あの女の人の妹さんであると心に決めてしまいました。
若い女の人は、若いりっぱな服装をした紳士といっしょに乗っていたのでした。
男は、心から、その人たちの未来の幸福を祈ったのであります。
このとき、汽車の故障は直って、汽笛を鳴らすと、ふたたびうごき出しました。
男は、その汽車のゆくえをさびしそうに見送っていましたが、やがてとぼとぼと平野を一人であてなく歩いていったのであります。
――一九二六・五――
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一
リチヤアド・バアトン(Richard Burton)の訳した「一千一夜物語」――アラビヤン・ナイツは、今日まで出てゐる英訳中で先づ一番完全に近いものであるとせられてゐる。勿論、バアトン以前に出た訳本も数あつて、一々挙げる遑も無い程であるが、先づ「一千一夜物語」を欧羅巴に紹介した最初の訳本は一七〇四年に出たアントアン・ガラン(Antoine Galland)教授の仏訳本である。これは勿論完訳ではない。ただ甚だ愛誦するに足る抄訳本と云ふ位のものである。ガラン以後にも手近い所でフオスタア(Foster)だとかブツセイ(Bussey)だとかいろいろ訳本の無い訣ではない。併し何れも訳語や文体は仏蘭西臭味を漂はせた、まづ少年読物と云ふ水準を越えないものばかりである。
ガラン教授から一世紀の後――即ち一八〇〇年以後の主なる訳者を列挙して見ると、大体下の通りである。
1. Dr. Jonathan Scott. (1800)
2. Edward Wortley. (1811)
3. Henry Torrens. (1838)
4. Edward William Lane. (1839)
5. John Pane. (1885)
トレンズの訳本は、在来のもののやうに英仏臭味を帯びないもので、其の点では一歩を進めたものであるが、訳者が十分原語に通暁してゐなかつたし、殊に埃及やシリヤの方言などを全く知らなかつた為に、憾むらくは所期の点に達し得なかつた。而も十分の一位で中絶して居るのは、甚だ惜むべきことである。
レエンの訳本――日本へは最も広く流布してゐる。殊にボオン(Bohn)叢書の二巻ものは、本郷や神田の古本屋でよく見受けられる――は底本としたバラク(Bulak)版が元々省略の多いものであり、其の上に二百ある話の中から半分の百だけを訳出したもので、随つて残りの百話の中に却つて面白いものが有ると云ふやうな訣で、お上品に出来過ぎて了つて、応接間向きの趣向は好いとしても、慊らないこと夥しい。お負けに、レエンは一夜一夜を章別にした上に、或章は註の中に追入れて了つたり、詩を散文に訳出したり又は全然捨てて了つたりして居るし、児戯に類する誤訳も甚だ多いと云ふ次第。
次にペエン――フランソア・ヴイヨン(François Vilon)の詩を英訳した――の「一千一夜物語」の訳は、旧来のものに比べると格段に優れてゐる。話の数もガラン訳の四倍あり其の他のものの三倍はあるが、手の届かぬ所が無いでもない。しかし兎も角好訳であるが、私版を五百部刊行しただけで、遂に稀覯書の中に這入つて了つた。ただ一つ特記すべきことは、巻頭にバアトンへの献詞が附いてゐることである。
バアトンの訳本も、一千部の限定出版で、容易に手に入り難い。出版当時十ポンドであつたものが、今日では三十ポンド内外の市価を唱へられてゐるのは、「一千一夜物語」愛好者の為に聊か気の毒である。尤も此のバアトン訳の剽竊版(Pirate Edition)が亜米利加で幾つも出来てゐるが、中身は何うだらうか。
バアトンの訳本の表題は左の通り。
A PLAIN AND LITERAL TRANSLATION OF THE ARABIAN NIGHTS ENTERTAINMENTS, NOW ENTITLED THE BOOK OF THE THOUSAND NIGHTS AND A NIGHT WITH INTRODUCTION EXPLANATORY NOTES ON THE MANNERS AND CUSTOMS OF MOSLEM MEN AND A TERMINAL ESSAY UPON THE HISTORY OF THE NIGHTS BY RICHARD F. BURTON.
巻数は補遺共十八冊で、出版所はバアトン倶楽部、一八八五年から一八八八年へかけて刊行されてゐる。
訳者バアトン並びにバアトン訳本の次第は次々に話すことにしませう。
二
訳者バアトンは東方諸国を跋渉した英吉利の陸軍大尉であるが、本の方を中心にしてお話すると、バアトンの訳本の成立ちは、第一巻の「訳者の序言」と第十一巻の「一千一夜物語の伝記並に其の批評者の批評」とに収められて居る。
抑もバアトンが此の翻訳を思ひ立つたのは、アデン在留の医師ジヨン・スタインホイザアと一緒に、メヂヤ、メツカを旅行した時のことで、バアトンが第一巻を此のスタインホイザアに献じてゐるのを以て視ても、二人の道中話がどんなであつたかは分る。
其の旅行は一八五二年の冬のことで、其の途中で、バアトンはスタインホイザアと亜剌比亜のことをいろいろ話してゐる中に、おのづと話題が「一千一夜物語」に移つて行つて、とうとう二人の口から、「一千一夜物語」は子供の間に知れ渡つてゐるにも拘はらず本当の値打が僅かに亜剌比亜語学者にしか認められてゐないと云ふ感慨が洩れて出た。それから話が一歩進んで、何うしても完全な翻訳が出したいと云ふことに纏まり、スタインホイザアが散文を、バアトンが韻文を訳出する筈に決して、別れた。
それから両人は互に文通して、励まし合つてゐたが、幾も無くスタインホイザアが瑞西のベルンで卒中で斃れて了つた。スタインホイザアの稿本は散逸して、バアトンの手に入つたものは僅かであつた。
その後バアトンは、西部亜弗利加や南亜米利加に客寓中、独り稿を継いで行つた。其の間に於ける彼の胸中は、「他人目には何うか知らないけれども、自分では何よりの慰藉と満足との泉であつた」と云ふ彼自身の言葉が尽して居る。
斯くて稿を畢つて、一八七九年の春から清書に取掛つて行つたが、一八八二年の冬、或雑誌に、ジヨン・ペインの訳本が刊行されると云ふ予告が出た。バアトンが之を知つたのは、恰も西部亜弗利加の黄金海岸へ遠征しようと云ふ間際であつた。乃でペインに「小生も貴君と同様の事業を企て居り候へども、貴君の既に之を完成されたるは結構千万の儀にて、先鞭の功は小生よりお譲り可申云々」と云ふ手紙を送つた。その中にペインの訳本が出た。で、バアトンは一時中止した。
バアトンが又続けて言つて居る。「東部亜弗利加のゼイラに二箇月間滞在してゐた時にも、ソマリイを横断の陣中でも、此の「一千一夜」が何の位自分を慰めて呉れたか解らない」と。
然らば此のバアトンの訳本は、欧洲の天地を遠く離れて、而も瘴煙蛮雨の中で生れたもので、恰もタイチに赴いたゴオガンの絵と好対照である。
一八八四年に、バアトンはトリエストに滞在中、最初の二巻を脱稿した。
茲で問題は印刷部数である。或学者が曰ふ、「百五十部乃至二百五十部で宣しからう」と。其の学者と謂ふのは、本文を十六万部も刷つて、六シルリングの廉価本より五十ギニイの高価本まで売り尽した男である。又或出版業者は「五百部がよい」と云つた。ただ素人の一友人が「二千から三千がよい」と勧めた。バアトンも迷つた末、一千部に決めた。
バアトンはそれから知人未知人を問はず、買ふらしい人の表を作つて、広告を配つた。其の要綱は、全十冊、一冊一ギニイ、各冊とも代金は本と引換へのこと、廉価版は発行しない。一千部限り印行、十八箇月内に完結の予定、と云ふ規定であつた。広告配布数は二万四千で、その費用は百二十六ポンド掛つた。返事の来たのは八百通。
翌年バアトンは英国に帰つて着々と事を進めてゐると、八百の予約はとうとう二千に殖えた。中には「差当り第一巻を見本として送られ度、気に入り候はば引続いて願上候」といふ素見客もあつた。
之に送つたバアトンの返事は、「先づ十ギニイ送金有之度、その上にて一冊御申込になるとも全十冊御申込になるとも御勝手に候」と。其れから取次業者連中は、安く踏倒さうと思つて種々画策をやつた。又、本を受取つても金を払はない連中も廿人位あつた。
バアトンは最初から取次業者を眼中に置かず、危険を冒して自分で刊行しようと企てたのである。知名の文学者なり又文学団体の協賛を希望したけれども、誰れ一人応じなかつた。バアトンの計画を嘲笑した「印刷タイムス」の如きもあつた。「バ氏の此の事業に関係して居る筈の某々の氏名が訳本に載つて居らぬ。印刷者の手落ちならば正に罰金を課すべきである。又「一千一夜物語」の完訳は風俗上許し難い。縦令ひ私版であるとしても、公衆道徳を傷ける虞ある以上はバ氏に罰金を課するが至当だ」と云ふやうな調子であつた。バアトンは此の挑戦に応じて「出版者は著者自身である。斯かる類の書を出版業者の手に移すことは不快の至りで、著者自身の手に依つて、東洋語学者並びに考古学者の為に出版するのである」と発表した。
三
バアトンの「一千一夜物語」十七巻の中、七巻は補遺である。その第十巻の終りに Terminal Essay が附いてゐて、此の物語の起源、亜剌比亜の風俗、欧羅巴に於ける訳本等が精しく討究されてゐる。殊に亜剌比亜並びに東方諸国の風俗に関する論文は、学術上の貴い研究資料であると共に、専門家ならぬ者にも頗る興趣あるものである。
バアトンは本文を、一話一話に分けないで、原文通り一夜一夜に別けてゐる。又、韻文は散文とせずに韻文に訳出してゐる。之を以て観てもバアトンが如何に原文に忠実であつたかは推察出来ると思ふ。
例へば、亜剌比亜人の形容を其儘翻訳して居るのに非常に面白いものがある。男女の抱擁を「釦が釦の孔に嵌まるやうに一緒になつた」と叙してある如き其の一つである。又、バクダッドの宮室庭園を写した文章の如きは、微に入り細を穿つて居つて、光景見るが如きものがある。第三十六夜(第二巻)の話にある Harunal-Rashid の庭園の描写などは其の好例である。
バアトンは又基督教的道徳に煩はされずして、大胆率直に東洋的享楽主義を是認した人で、随つて其の訳本も在来の英訳「一千一夜物語」とは甚だ趣を異にしてゐる。例へば、第二百十五夜(第三巻)に Budur 女王の歌ふ詩に次の如きものがある。
The penis smooth and round was made with anus best to match it,
Had it been made for cunnus' sake it had been formed like hatchet!
併し概して言ふと、下がかつた事も、原文が無邪気に堂々と言ひ放つてゐるのを其儘訳出してあるから、近代の小説中に現はれる Love scene よりも婬褻の感を与へない。
脚註が亦頗る細密なるものである。而も其の註が尋常一様のものでなく、バアトン一流のものである。単に語句の上のみでなく、事実上の研究にも及んでゐる。例へば Shahriyar 王の妃が黒人の男を情夫にする条の註を見ると、亜剌比亜の女が好んで黒人の男子を迎へるのは他ではない。亜剌比亜人の penis は欧羅巴人のよりも短い。然るに黒人のは欧羅巴人のよりも更に長く、且つ黒人のは膨脹律が少なくて duration が長い。其の為めに亜剌比亜女が黒人を情夫に持つのであるといふ類である。現にバアトンが計測した黒人の penis は平均長さ何吋だ抔と註してある。(未完)
(大正十三年七月)
〔談話〕
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Hard
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犬養君の作品は大抵読んでいるつもりである。その又僕の読んだ作品は何れも手を抜いたところはない。どれも皆丹念に出来上っている。若し欠点を挙げるとすれば余り丹念すぎる為に暗示する力を欠き易い事であろう。
それから又犬養君の作品はどれも皆柔かに美しいものである。こう云う柔かい美しさは一寸他の作家達には発見出来ない。僕はそこに若々しい一本の柳に似た感じを受けている。
いつか僕は仕事をしかけた犬養君に会った事があった。その時僕の見た犬養君の顔は(若し失礼でないとすれば)女人と交った後のようだった。僕は犬養君を思い出す度にかならずこの顔を思い出している。同時に又犬養君の作品の如何にも丹念に出来上っているのも偶然ではないと思っている。
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Medium
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私の父が亡くなる少し前に(お前これから重要な問題となるものはどんな問題だと思ふ?)と一種の眞面目さを以て私に尋ねたことがある。それは父にとつて或種の謎であつた私の將來を、私の返答によつて察しようとしたものであつたらしい。その時私は父に答へて、勞働問題と婦人問題と小兒問題とが、最も重要な問題になるであらうと答へたのを記憶する。
勞働問題と婦人問題とは、前から既に問題となりつゝあつたけれども、小兒の問題はまだほんとうに問題として論議せられてゐないかに考へられる。しかしながら、この問題は前の二問題と同じ程の重さを以て考へられねばならぬ問題だと私は考へる。
私たちは成長するに從つて、子供の心から次第に遠ざかつてゆく。これは止むを得ないことである。しかしながら、今迄はこの止むを得ないといふことにすら、注意を拂はないで、そのまゝの心で子供に臨んでゐた。子供の世界が獨立した一つの世界であるとして考へられずに大人の世界の極小さな一部分として考へられてゐたが故に、我々が子供の世界の處理をする場合にも、全く大人の立場から天降り的に、その處理をしてゐたやうに見える。この誤つた方針は、子供の世界の隅々にまで行き渡つた。家庭の間に於ける親子の關係に於ても、學校に於ける師弟の關係に於ても、社會生活に於ける成員としての關係に於ても、この僻見は容赦なく採用された。すべてが大人の世界に都合がいゝ樣に仕向けられた。さうして子供たちはその異邦の中にあつて、不自然なぎごちない成長を遂げねばならなかつた。かくして子供は、自分より一代前の大人たちが抱いてゐる習慣や觀念や思想を、そのまゝ鵜呑みにさせられた。かくの如き不自然な生活の結果が、どうなつたかといふことは、ちよつと目立つて表れてはゐないやうにも見える。なぜならば、かくの如き子供虐待の歴史は、非常に長く續いたのであるから、人々はその結果に對して、殆ど無頓着になつてしまつてゐるのだ。
しかしながら、誰でも自分の幼年時代を囘顧するならば、そこに成長してまでも、消えずに殘つてゐるさま〴〵な忌まはしい記憶をとり出すことが出來るだらう。若しあの時代にあゝいふ事がなかつたならば、現在の自分は現在のやうな自分ではなく、もつと勝れた自分であり得たかも知れないといふやうな記憶がよみがへつて來るだらう。
もとより、この地上生活は、大體に於て、大人殊に成人した男子によつて導かれてゐるものだから、他の世界の人々が或る程度まで、それに適應して行くのは止むを得ない事ではある。しかしながら、從來の大人の專横は餘りに際限がなさすぎた。そのために、もつと姿を變へて進んで行くべきであつた人類の歴史は、思ひの外に停滯せねばならなかつた。一つの小さな例をとつて見ると、キリスト教會の日曜學校の教育の如きがそれである。子供の心には大人が感ずるやうな祷りの氣分は、まだ生れてはゐない。然るに學校の教師は、子供がそれを理解すると否とに拘らず、外面的に祷りの形式を教へ込む。子供は一種の苦痛を以て、機械的にそれに自分を適應させる。
しかも、教師は大人の立場からのみ見て、かくすることが、子供を彼等の持つやうな信仰に導くべき一番の近道だと心得たが、しかしその結果は、子供の本然性を根底的に覆へしてゐるのだ。ロバート・インガソールといふ人が、日曜學校に行つてゐた時のことを囘想して、毎日曜日に彼は教會の椅子に坐らされて、一時間餘りも教師から、自分には理解し得ない事柄を聞かされるのだつたが、その間大人にふさはしい椅子に腰掛けて居らねばならなかつたので、兩足は宙に浮いたまゝになつてゐてその苦しさは一通ではなかつた。しかも、神の惠みを説きまくつてゐる教師の心には、子供のこの苦痛は、聊かも通じてゐるやうには見えなかつた。その時、彼れは染々と、どういふ惡いことをしたお蔭で、日曜毎に自分はこんな苦しい苛責を受けねばならぬのかと情なく思つた。彼れのキリスト教に對する反感は、實にこの日曜學校の椅子から始まつたといつてゐる。日曜學校の椅子――これは小さなことに過ぎない。しかしながら、そこには大人が子供の生活に對して、どれほど倨傲な態度をとつてゐるかを、明かに語るものがある。かくの如き事實は、家庭の生活の中にも、學校の教育の間にも、日常見られるところのものではあるまいか。
子供は自らを訴へるために、大きな聲を用意してゐない。彼等は多くの場合に於て、大人に限りない信頼を捧げてゐる。然るに大人はその從順と無邪氣とを踏み躙らうとする。大人は抵抗力がないといふだけの理由で、勝手放題な仕向けを子供の世界に對して投げつける。かゝる暴虐はどうしても改められなければならない。大人は及ばずながらにも、子供の私語に同情ある耳を傾けなければならない。かくすることによつて、人間の生活には一轉機が畫せられるであらう。
私は、初めに、大人は小兒の心持ちから離れてしまふといつた。それはさうに違ひない。私たちは明かに子供と同じ考へ方感じ方をすることは出來ない。しかしながら、この事實を自覺すると否とは、子供の世界に臨む場合に於て、必ずや千里の差を生ずると信ずる。若し私たちがそれを自覺するならば、子供の世界に教訓を與へることが出來ないとしても、自由を與へることが出來る。また子供の本然的な發育を保護することが出來ると思ふ。良心的に子供をとり扱つた學校の教師は、恐らく子供の世界の中に驚くべき不思議を見出すだらう。大人の僻見によつて、穢されない彼等の頭腦と感覺の中から、かつて發見されなかつたやうな幾多の思想や感情が湧き出るのに遭遇するだらう。從來の立場にある人は、かくの如き場合に何時でも、彼等自身の思想と感情とを以て、無理強ひにそれを強制しようとする。このやうなことは許すべからざることだ。子供をして子供の求むるものを得せしめる、それはやがて大人の世界に或る新しいものを寄與するだらう。さうして、歴史は今まであつたよりも、もつと創造的な姿をとるに至るだらう。子供に子供自身の領土を許す上に、さま〴〵な方面から研究が遂げられねばならぬといふことは、私たちの眼の前に横はる大きな事業の一つだと信ずる。(完)
(『報知新聞』大正十一年五月)
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私には、どうも絵以外のことですと、どうせ余技にすぎないからという気がして、打ち込んで熱中する気になれない性分があるようです。三味線にしても長唄にしても、最初は謡曲にしても、皆そういう風にずぼらに考えていました。
が、近頃では、如何に余技にしても、どうせやるからには、何かひとつくらい懸命にやってみようという気になって来ています。
上手な人のを聴いていると、節廻しひとつにしても言うに言われない妙味があり、その抑揚の味のよさを聞いて感心するばかりでなく、難しいながらも自分でもやってみようという励みが出て来ます。
そうした励みの気持ちを考えてみますと、形式は違っていても、絵の上で苦心している気持ちと同じ味のものがあると思います。
謡曲をやっていながら、私は廻り廻ってそれが絵の上にも役に立っていると思うようになって来ました。
私は、以前は、余技は余技として下手でもいいと思いまして、凝りもせずにおりましたが、近頃はそれと反対に「余技の下手なものは本技も下手だ」というまるで逆な気持ちになって来ました。
よく考えてみると、優れた才能ある人は、やはり余技においても上手のようです。
余技といえば、九条武子夫人を憶い出します。
九条武子夫人は、松契という画号で、私の家にも訪ねて来られ、私もお伺いして絵の稽古をしていられました。
武子さんの、あの上品な気品の高い姿や顔形は、日本的な女らしさとでもいうような美の極致だと思います。
あんな綺麗な方はめったにないと思います。綺麗な人は得なもので、どんな髷に結っても、どのような衣裳をつけられても、皆が皆よう似合うのです。
いつでしたか、一度丸髷に結うていられたことがありました。たいていはハイカラで、髷を結うていなさることは滅多にないので、私は記念に、手早く写生させて貰いましたが、まことに水もしたたるような美しさでした。
「月蝕の宵」はその時の写生を参考にしたのです。もちろん全部武子夫人の写生を用いたという訳ではありませんが……
大いなるものゝ力にひかれゆく
わが足もとの覚つかなしや
武子夫人の無憂華の中の一首であるが、私は武子夫人を憶い出すごとに、この歌をおもい、あの方のありし日の優しいお姿を追想するのであります。
大いなるものゝ力にひかれゆく……まことに、私たち人間のあゆみゆく姿は、大いなる天地の神々、大慈大悲のみ仏から見られたならば、蟻のあるきゆく姿よりも哀れちいさなものなのに違いありません。
人事をつくして天命を待つ、とむかしの人が申したように、何事も、やれるところまで努めつくしてみた上で、さてそれ以上は、大いなる神や仏のお力に待つよりほかはありません。
芸術上のことでも、そうであります。自分の力の及ぶ限り、これ以上は自分の力ではどうにもならないという処まで工夫し、押しつめて行ってこそ、はじめて、大いなる神仏のお力がそこに降されるのであります。天の啓示とでも申しましょうか、人事の最後まで努力すれば、必ずそのうしろには神仏の啓示があって道は忽然と拓けてまいるものだと、わたくしは、画道五十年の経験から、しみじみとそう思わずにはいられません。
なせば成るなさねば成らぬ何事も、ならぬは人のなさぬなりけり……の歌は、このあたりのことをうたったものであろうと存じます。
人の力でどうにもならないことが――特に芸術の上で多くあるようです。考えの及ばないこと、どうしても、そこへ想い到らないことが度々ありました。そのようなときでも、諦めすてずに、一途にそれの打開策について想をねり、工夫をこらしてゆけば、そこに天の啓示があるのです。
なせばなる――の歌は、この最後の、もう一押し、一ふんばりを諦めすてることの弱い精神に鞭打つ言葉であろうと思います。
ならぬは人のなさぬなりけり――とは、人が最後の努力を惜しむから成らぬのであるということで、結局最後は天地の大いなる力がそこに働いて、その人を助けるのであります。
一途に、努力精進をしている人にのみ、天の啓示は降るのであります。
もっとも、天の啓示は、そうでない人にも降っているのかも知れません。が、哀しいことに、その人は一途なものを失っているので、その有難い天の啓示を掴みとることが出来ないのであります。
天の啓示は、いろいろの形で、いろいろの場所へ現われるものであります。
絵のほうにしましても、時には、朝焼雲、夕焼の空の色に、それを示して下さることもあります。
千切れ飛ぶ雲の形に、どうしても掴めなかったものの形を、示されることもあります。
荒壁の乾きぐあい、撒き水の飛沫の形をみて、はたと気づいて、
「ああ、あの形をとったら――」
と、そこから仕事がすらすらと運んだことも幾度あるか知れません。
要は不断の努力、精進をしておれば機会を掴むことが出来るのではないでしょうか。
天の啓示を受けるということは、機会を掴むということであります。
天の啓示とは機会ということであります。
機会ほど、うっかりしていると逃げてしまうものはありません。
機会を掴むのにも、不断の努力と精進が必要なのであります。
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本書は、僕がこれまでに作った科学小説らしいものを殆んど全部集めたものだ。科学小説らしい――といって、これを科学小説と云い切らぬわけは二つある。一つは僕が探偵小説として発表したものが一二混っていること、もう一つは僕の本当に企図しているところの科学小説としては、まだまだ物足らぬ感がするから、本当の科学小説はいよいよ今後に書くぞという作者の意気ごみを示したいことと、この二つの事由によっている。
元来わが国には、科学小説時代というものがまだやって来ていない。しかし強いて過去にこれを求めるなれば、押川春浪氏の『海底軍艦』などが若き読者の血を湧した時代、つまり明治四十年前後がそうであったようにも思われる。春浪氏の著作中には、早くも今日の潜水艦や軍用飛行機などを着想し、これを小説のなかに思う存分使用したのであった。しかし春浪氏の外には、これに匹敵するほどの科学小説家なく、また春浪氏の作品は、冒険小説なる名称をもって呼びならわされたのであって、その頃を科学小説時代と云うにはすこし適当ではないように思う。さりながら、その出所のいずくなるを暫く措くとするも、とにかく『海底軍艦』などの科学小説がその頃現れ、読者の血を湧したことは厳然たる事実であって、押川春浪氏の名をわが科学小説史の上に落とすことは出来ない。
それからこの方、誰が科学小説を書いたであろうか。僕の識る範囲では、野村胡堂氏、三津木春影氏、松山思水氏などが、少数の科学小説またはそれらしいものを書いた。しかしそれ等は、不幸にして読書界に多くの反響を呼びおこさなかったようである。一方ウェルズやベルヌの翻訳ものが出て、いささか淡い色をつけてくれたに過ぎない。
その奮わぬ科学小説時代は、遂に今日にまで及んでいるといって差支えない。過去に於て、科学小説の奮わなかったことは、肯けないことではない。一般読者階級には、科学小説に興味をもつ者も少く、科学を理解する者の頭から純然とひねりだされた科学小説もなく、そしてまた科学者たちは本来の科学研究を行うのに寧日なく、自己の科学趣味や科学報恩の意志を延長して科学小説にまで手を伸ばそうという人は皆無だった。
ところが今や世はあげて、科学隆興時代となり、生活は科学の恩恵によって目まぐるしいまでに便利なものとなり、科学によって生活程度は急激なる進歩をもたらし、科学に従事し、科学に趣味をもつ者はまた非常に多くなってきた。しかも国際関係はいよいよ尖鋭化し、その国の科学発達の程度如何によってその国の安全如何が直接露骨に判断されるという驚くべくまた恐るべき科学力時代を迎えるに至った。科学に縋らなければ、人類は一日たりとも安全を保証し得ない時代となった。従前の世界では、金力が物を云った。今日は、金力よりも科学力である。いくら金があったとしても、科学力に於て優越していないときは勝者たることは難い。世界列国はいまや国防科学の競争に必死であり、しかもその内容は絶対秘密に保たれてある。いよいよ戦争の蓋をあけてみると、いかに意外な新科学兵器が飛び出してくるか、実に恐ろしいことである。開戦と同時に、戦争当時国は手の裡にある新兵器をチラリと見せ合っただけで、瞬時に勝負の帰趨が明かとなり即時休戦状態となるのかもしれない。勝つのは誰しも愉快である。しかし若し負けだったら、そのときはどうなる。世界列国、いや全人類は目下科学の恩恵に浴しつつも同時にまた科学恐怖の夢に脅かされているのだ。
このように、恩恵と迫害との二つの面を持つのが当今の科学だ。神と悪魔との反対面を兼ね備えて持つ科学に、われ等は取り憑かれているのだ。斯くのごとき科学力時代に、科学小説がなくていいであろうか。否! 科学小説は今日の時代に必然的に存在の理由を持っている。それにも拘らず科学小説時代が来ないのはどうしたわけであろうか。その答は極めて月並である。すなわち今日の小説家に科学を取扱う力がないからである。
或る小説家や批評家は、科学小説を小説的価値のないものとして排撃している。しかし僕に云わせれば、彼等は識らざるが故に排撃しているのである。彼等には取扱い得ないが故に敬遠しているのである。それは排撃の理由にならぬ。如何に排撃しようと、科学小説時代の温床は十分に用意されているのだ。彼等はいまに、自分が時代に遅れたる作家であったことを悟るであろう。時代を認識できない者や不勉強な者は、ドンドン取り残されてゆく。
科学小説時代は、今や温床の上に発芽しようとしている。僕は最近某誌の懸賞に応募した科学小説の選をした。今度が第三回目であって、その前に二回応募があったので、いずれも僕が選をした。今度の選に於て、僕の非常に愕いたことは、その応募作品の質が前二回に比して躍進的向上を示したことである。僕は思わず独言をいったくらいだ。――やあ、いよいよ御到着が近づきましたネ、科学小説時代! ――と。僕はそのとき、たしかに科学小説時代の胎動を耳に捕えたのであった。
科学小説時代はいよいよ本舞台に入ろうとしている。それはどんな色の花を咲かせることになるのか、まだ分っていない。どんなものになるのかしらないが、とにかく科学小説時代が開ける。われ等の生活上の科学を、次の世界を夢想する科学を、われ等の生命を脅かす科学を、その他いろいろな科学を土台として、科学小説はいまや呱々の声をあげようとしている。どんないい子だか、鬼っ子だか、誰も知らないが……。
そういう時節に、僕がこの本を上梓することが出来たのは、たいへん意義のあることだと思う。この本は、良きにも悪しきにも、科学小説時代を迎えるまでの捨て石の一つになるであろう。ぜひそうなることを僕は心から祈る者である。僕は、近き将来に於て、卓越した科学小説家の著すところの数多くの勝れた科学小説を楽しく炉辺に読み耽る日の来ることを信じて疑わない。
次に、この本に収めた各篇について、簡単な解説を試み、一つは作者自身の楽しき追憶のよすがにし、また一つは大方の御参考にしたいと思う。
巻頭に置いた『崩れる鬼影』は昭和八年、博文館から創刊された少年科学雑誌「科学の日本」に書き下ろしたものである。極く単純な宇宙の神秘を小説にしたもので、他愛がないという外ない。
『盗まれた脳髄』は「雄弁」に載ったもの。このテーマはずいぶん古くから持っていたものであるが、それを小説にしようと、あまり永い間あれやこれやと筋をひねったものであるから、書くときになって、もっといい扱い方があると思いながらも遂に一歩も新しい扱い方ができなかった作品である。僕は今にこの小説のようなことが確かに出来るだろうと思っている。
『或る宇宙塵の秘密』は「ラヂオの日本」に書いた短いもの。将来の科学小説として、この種のものがまず読書界に打って出るのではあるまいかと思う。この辺のものであれば、小説作法を知らない科学者にも、そう苦しまないで書けることと思う。
『キド効果』は「新青年」に書いた。これは作者として相当自信を持って書いたものである。それも将来の科学小説の一つの型になるものだと思っている。これが載ったのは或る年の新年号だった。そのとき紙上に八篇ほどの小説が載り、そしてどの作品が一番よかったかというので、読者採点を募集した。その結果、この『キド効果』は断然一等になるかと思いの外、断然ビリに落ちた。これには尠からず悲観したが、僕は今も尚この作について自信を持っている。
『らんぷや御難』は「拓けゆく電気」に書いたもの。これは卑近な生活の中に、科学を織りこんだもので、これまた一つの型だと思っている。
『百年後の世界』はAKから「子供の時間」に全国中継で放送したものの原稿である。空想に終始したものであって、荒唐無稽であることはいうまでもないが、科学に趣味を持つ者にとって、このような表題について想を練ることは殊の外愉快なものである。これは「子供の時間」である。が早く「演芸放送」の時間に堂々と科学小説が打って出る日が来てもいいと思う。このときに、音響効果を適当にやれば、普通のドラマでは到底出せないような新しい感覚的な娯楽放送を聴取者のラウドスピーカーに送ることが出来ように思っている。
『流線間諜』は「つはもの」に連載されたスパイ小説である。この小説のテーマは、結局科学小説なのであるが、それをたいへん自慢にしていたところ、後から人の話では、これと同じことを実際ソ連の或る学者が計画しているというニュースが出ていたという話であって、僕は愕き且つ感心したことであった。
『放送された遺言』は、僕の書いた科学小説の第二作であって、昭和二年「無線電話」という雑誌に自ら主唱し、友人槙尾赤霧と早苗千秋とに協力を求めて、三人して「科学大衆文芸」というものを興したが、そのときに書いたものである。そのときは『遺言状放送』という題名であった。僕は翌昭和三年に、処女作の探偵小説『電気風呂の怪死事件』を書いたが、その作以前に、実は科学小説三篇を書き下ろしていたのである。本篇はその一つである。
右に続いて第三作『三角形の秘密』を書いた。これも勿論、同誌の科学大衆文芸欄に出たものである。三作中、これが一番マシであるように思う。この頃僕は、当時売出した江戸川乱歩氏の探偵小説を非常に愛読していた。作風のいくぶん似かよえるは、全く此の小説の影響である。
さて右の科学大衆文芸はどういう反響があったかというと、「そんな下らない小説にページを削くのだったら、もう雑誌の購読は止めちまうぞ」とか、「あんな小説欄は廃止して、その代りに受信機の作り方の記事を増して呉れ」などという投書ばかりであって、僕はまだ大いに頑張り、科学文芸をものにしたかったのであるが、他の二人の同人たちがいずれも云いあわせたように後の小説を書いてくれずになって、已むなく涙を嚥んで三ヶ月で科学大衆文芸運動の旗を捲くことにした。実に残念であった。前にもいったとおり昭和二年のことだった。
『壊れたバリコン』は昭和三年五月「無線と実験」に載ったものであるが、これこそは実に僕の科学小説の処女作である。実をいえば、これを書いたのは昭和二年のはじめであって、書いた動機は、その頃「科学画報」に科学小説の懸賞募集があったので、それに応じたというわけであった。そのときは『或る怪電波の秘密』といったような題であったが、これが見事に一等二等を踏みはずし、選外佳作となった。しかし何分にも選外にでも入るとは想像していなかったので、その発表の出たときは誌上にわが名を発見して非常に嬉しかったものである。小説を作る度胸は、このときに出来たといっても過言ではない。なおそのうえ僕を楽しませたものは、そこに書かれてあった数行の作品批評であった。詳しいことはもう忘れちまったが、何でも「思いつきは鳥渡面白いが、いろいろ幼稚で成っていない。もっと勉強しろ」というようなことが書いてあったように思う。これを読んで、よし大いに勉強してこの次は入選するぞと興奮したことであった。後年「無線と実験」で乞われるままに、これを誌上に送ったが、いくぶん手を入れ、また落選作と分っては極りがわるいので題名を『壊れたバリコン』と変えた次第であるが、今から考えるとまことに相済まぬことをしたと思う。
さて最後に据えてある『地球盗難』は、昭和十一年「ラヂオ科学」誌上に連載された科学小説であって、僕の書いたものでは最長篇であり、且つは最近の作である。それは宇宙の神秘を取扱ったり、妙な生物が他の遊星から飛来することなどは『崩れる鬼影』にちょっと似ているが、作者の覘ったところはその題名に示す『地球盗難』なる不可思議なる四文字に籠っているのであって、自分としても相当苦労をした作品であるが、尚、これを書き上げるについて、柴田寛氏の激励と、友人千田実画伯こと西山千君の卓越した科学小説挿絵と、原稿催促に千万の苦労を懸けた林誠君の辛抱強さとがなかりせば、到底完成しなかったであろう。本書上梓に当って篤くお礼を申上げたい。
さて、これから僕は、いよいよ腰を据えて科学小説を書くつもりである。ではどんなものを書くか。その答はここには書かないで、小説の形にした上で諸君に答えようと思う。
科学小説を大いに隆盛にしたい。僕一人の力だけでは到底どうなるわけのものではない。有力にして天分有る隠れたる作家が多数現われ、そこに科学小説壇というものを作り、お互いに研究し合い、刺戟し合いしてこそ、始めて意義あり且つ甚大なる発展が期待されるのである。僕はこの拙著を公にするに際して、この事を敢えて本格的科学者の一団に向い、声を大きくして叫びたく思う者である。
世田谷竹陵亭に於て
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憲政党が、伊藤さんに代つて、内閣を組織した当時、頻りに反対して騒ぎまはつた連中も、己れは知つて居るよ。だが随分見透しの付かない議論だと思つて、己れなどは、独りで笑つて居たのさ。御一新の際に、薩摩や、長州や、土州が政権を執れたとて、なに彼等の腕前で、迚も遣り切れるものかと、榎本や、大鳥などは、向きになつて怒つたり、冷やかしたりした連中だ。所がどうだ、暫くすると、自分から始めて薩長の伴食になつたではないか。何も大勢さ。併し今度の内閣も、最早そろ〳〵評判が悪くなつて来たが、あれでは、内輪もめがして到底永くは続くまいよ。全体、肝腎の御大将たる大隈と板垣との性質が丸で違つて居る。板垣はあんな御人よし、大隈は、あゝ云ふ抜目のない人だもの、とても始終仲よくして居られるものか、早晩必ず喧嘩するに極つて居るよ。大隈でも板垣でも、民間に居た頃には、人の遣つて居るのを冷評して、自分が出たらうまくやつてのけるなどゝと思つて居たであらうが、さあ引き渡されて見ると、存外さうは問屋が卸さないよ。所謂岡目八目で、他人の打つ手は批評が出来るが、さて自分で打つて見ると、なか〳〵傍で見て居た様には行かないものさ。
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編輯者 わたしの方の雑誌の来月号に何か書いて貰へないでせうか?
作家 駄目です。この頃のやうに病気ばかりしてゐては、到底何もかけません。
編輯者 其処を特に頼みたいのですが。
この間に書かば一巻の書をも成すべき押問答あり。
作家 ――と云ふやうな次第ですから、今度だけは不承して下さい。
編輯者 困りましたね。どんな物でも好いのですが、――二枚でも三枚でもかまひません。あなたの名さへあれば好いのです。
作家 そんな物を載せるのは愚ぢやありませんか? 読者に気の毒なのは勿論ですが、雑誌の為にも損になるでせう。羊頭を掲げて狗肉を売るとでも、悪口を云はれて御覧なさい。
編輯者 いや、損にはなりませんよ。無名の士の作品を載せる時には、善ければ善い、悪ければ悪いで、責任を負ふのは雑誌社ですが、有名な大家の作品になると、善悪とも責任を負ふものは、何時もその作家にきまつてゐますから。
作家 それぢやなほ更引き受けられないぢやありませんか?
編輯者 しかしもうあなた位の大家になれば、一作や二作悪いのを出しても、声名の下ると云ふ患もないでせう。
作家 それは五円や十円盗まれても、暮しに困らない人がある場合、盗んでも好いと云ふ論法ですよ。盗まれる方こそ好い面の皮です。
編輯者 盗まれると思へば不快ですが、義捐すると思へばかまはんでせう。
作家 冗談を云つては困ります。雑誌社が原稿を買ひに来るのは、商売に違ひないぢやありませんか? それは或主張を立ててゐるとか、或使命を持つてゐるとか、看板はいろいろあるでせう。が、損をしてまでも、その主張なり使命なりに忠ならんとする雑誌は少いでせう。売れる作家ならば原稿を買ふ、売れない作家ならば頼まれても買はない、――と云ふのが当り前です。して見れば作家も雑誌社には、作家自身の利益を中心に、断るとか引き受けるとかする筈ぢやありませんか?
編輯者 しかし十万の読者の希望も考へてやつて貰ひたいのですが。
作家 それは子供瞞しのロマンテイシズムですよ。そんな事を真に受けるものは、中学生の中にもゐないでせう。
編輯者 いや、わたしなどは誠心誠意、読者の希望に副ふつもりなのです。
作家 それはあなたはさうでせう。読者の希望に副ふ事は、同時に商売の繁昌する事ですから。
編輯者 さう考へて貰つては困ります。あなたは商売商売と仰有るが、あなたに原稿を書いて貰ひたいのも、商売気ばかりぢやありません。実際あなたの作品を好んでゐる為もあるのです。
作家 それはさうかも知れません。少くともわたしに書かせたいと云ふのは、何か好意も交つてゐるでせう。わたしのやうに甘い人間は、それだけの好意にも動かされ易い。書けない書けないと云つてゐても、書ければ書きたい気はあるのです。しかし安請合をしたが最期、碌な事はありません。わたしが不快な目に遇はなければ、必あなたが不快な目に遇ひます。
編輯者 人生意気に感ずと云ふぢやありませんか? 一つ意気に感じて下さい。
作家 出来合ひの意気ぢや感じませんね。
編輯者 そんなに理窟ばかり云つてゐずに、是非何か書いて下さい。わたしの顔を立てると思つて。
作家 困りましたね。ぢやあなたとの問答でも書きませう。
編輯者 やむを得なければそれでもよろしい。ぢや今月中に書いて貰ひます。
覆面の人、突然二人の間に立ち現る。
覆面の人 (作家に)貴様は情ない奴だな。偉らさうな事を云つてゐるかと思ふと、もう一時の責塞ぎに、出たらめでも何でも書かうとしやがる。おれは昔バルザツクが、一晩に素破らしい短篇を一つ、書き上げる所を見た事がある。あいつは頭に血が上ると、脚湯をしては又書くのだ。あの凄まじい精力を思へば、貴様なぞは死人も同様だぞ。たとひ一時の責塞ぎにもしろ、なぜあいつを学ばないのだ? (編輯者に)貴様も心がけはよろしくないぞ。見かけ倒しの原稿を載せるのは、亜米利加でも法律問題になりかかつてゐる。ちつとは目前の利害の外にも、高等な物のある事を考へろ。
編輯者も作家も声を出す事能はず、茫然と覆面の人を見守るのみ。
(大正十年頃カ)
〔未定稿〕
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彼がそのDVDを見た
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わが車は、とある村に入りぬ。
軒ごとに吊りほせるかけ菜の、あるかなきかの風にゆらめきて、鶏のこゑ、長閑にきこゆ。
轍におこる塵かろく舞ひ、藪ぎはの緋桃の花、ほろり〳〵散る。高安の春、いま闌なり。
いつしか、村をはなれつ。から〳〵と軋り行く輞の右左、みだれ咲く菜の花遠くつゞきて、蒸すばかり立ちのぼる花の香の中を、黄なる、白き、酔心地に蝶の飛びては憩ひ、いこひてはとぶ。いづこともなく、筬のおときこゆ。
見れば、わが行く手にあたりて、常緑樹の森あり。音は、其方より聞え来るなり。
此音を耳にして、われは、ゆくりなくも、旧き記憶をよびおこして、回想の忘れ路をたどりぬ。
恋の淵・峯の薬師・百済の千塚など、通ひなれては、そなたへ足むくるもうとましきに、折しも秋なかば、汗にじむまで晴れわたりたる日を、たゞ一人、小さき麦稈帽子うち傾けて、家を出でつ。
山鳩の、梢に羽ぶく音だに聞ゆる淋しき山路を、「あゝ正成よ」など、高らかにうたひつゝ登る。
この道は、平群の櫟本へ出づるなりとか。
もみぢにはまだしけれど、聞きおよぶ竜田へは二里をこえずと、よべ乳母の語れるに、いでさらばと志しゝなりき。
行けど〳〵山かさなりて、峠なほ遥かなるに、日はゝや大阪の海に傾きかゝり、大空は、いよゝ青ずみて、行きかふ雲だになし。
夕べの山路には、人かどふ神の出るものよと聞けりしかば、暮れはてぬ程にともと来し道をひたくだりに走せくだる。
山の尾をいくめぐり、谷にそひ、谷をわたり、森のかげ路のをぐらきには、落葉ふむ跫音にもおびえつゝ、やゝ里近くなりたる処に、山畠の陸稲の、方一反、波うちかへすが中に交りて、大きなる柿の木の枝もとをゝに実りたるが、折からの入日をうけて立ちたる。と見れば、その木の本に小家ありて、其内より機おり唄のきこえ来るならずや。
ひそ〳〵と忍びよりて障子の穴よりうかゞふに、さだすぎたる女の、頬にみだれかゝる髪かきもあげで、泣きてはうたひ、唄ひては泣き、何になくらむ、かなしげにうたへるなりき。
様は遠州浜名の橋よ、いまはとだえて音もせぬ。
さては此女、柿主なりなと思ひつゝ、手ごろの石拾ひあつめ、柿の木にむかひてうちつくるに、二つ三つ四つ、がさ〳〵と音して、叢にまろび落ちたるを、袂におしいれて、立ち上らむとする時、「たそ」と咎むる声して、障子さとうち開き、見いだしたるは、かの女なりき。
一目見るより、われは背戸のふし垣ふみこえて、走り出でぬ。
後につゞく音するに、顧れば、さをなる顔にほつれ毛うちみだし、細き目に涙たゝへたる柿主の女の追ひ来しなりき。
われは立ちすくみぬ。
女は近よりて、やにはにわが手をぐと把りぬ。われは恐れと羞恥とに、泣かむとせしも、辛うじて涙かくしぬ。
握られたる手には、女のはげしき呼吸にうち震ふ肩のをのゝきの、伝ふならずや。
若子、今うち落しゝ物、かへし給へ。
こはき顔して見入るに、われは噤みぬ。
かへし給はずや。
いな〳〵、われは柿はとらじを。
と云ふに、女の肩いよゝをのゝき、把られたるわが手、亦、いたくふるひぬ。
よし〳〵、かへし給はずば、明日にも若子が家人に告げん。
と云ふに、捕へられたる手うちはらひて遁れんとする袂より、紅の珠二つ三つ、ころ〳〵と転び出でぬ。
それ見給へ。
と女は冷かに笑みて、わが顔を覗きこみぬ。われはえ堪へず、声あげて泣きぬ。
頬を伝ふ涙はらふ〳〵、逃げ下りつ。
裾曲を流るゝ里の小川の板橋に立ちて、ふりかへりぬ。
見上ぐれば、靄こめたる山畠の小家には、早や灯きらめきぬ。
かすかにきこゆるは筬うつ音。
家にかへれば、乳母は、わがかへりおそきを案じわびて、門にたゝずみ居たりき。
ありし事は、小さき胸一つに秘めて、其夜は早く寝床にまろび入りぬ。
其夜の夢は、千塚の極尾の神のあらはれて、われに貸しおきつる斎瓮をかへせ、とせめしなりき。
夢さめて、われは、かの女は塚の神ならざりしかなど思ひて、暗き寝床の内に、ひたと乳母の身により添ひぬ。
明くる日、柿うりの女、入り来ぬ。
われも欲しければとて、門へ出でんとせしも、其女の声を聞きて、たちすくみぬ。
乳母は、幾度かわが名をよびつ。されど、われは、はなれ家にかくれて、いらへもせざりき。
やゝして柿売りのかへりし頃、母屋に来て、堆く、くづるゝばかりうみたる、赤く大いなるが盆に盛られたるを見し時、其は斎瓮の埴の赤珠にあらずや、とたづねて、
若子は、ねおびれたりや。
と嗤はれぬ。たとひ其時には、昨日の恐しかりしをも忘れて、貪り喰ひつれど。
されど、われは今もなほ、其斎瓮にあらざりしかを疑ふなり。
ふと心づけば、車は若江の邑の畷にかゝれり。
道のかたへなる石ぶみにぬかづきて、重成の霊に、十年ぶりの今日のあひをよろこぶ。
また車に上る。恩智川の堤は、見え初めぬ。かのかげろひ立てる堤をこゆれば、わがめざしたれつつ、十年の月日を過しゝ、里親の家も見ゆるなるべし。山畠の機おり女は、今も、まさきくありや。
前路遠くして、わが行く道、なほ遥々たり。
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――この涙の谷に呻き泣きて、御身に願いをかけ奉る。……御身の憐みの御眼をわれらに廻らせ給え。……深く御柔軟、深く御哀憐、すぐれて甘くまします「びるぜん、さんたまりや」様――
――和訳「けれんど」――
「どうです、これは。」
田代君はこう云いながら、一体の麻利耶観音を卓子の上へ載せて見せた。
麻利耶観音と称するのは、切支丹宗門禁制時代の天主教徒が、屡聖母麻利耶の代りに礼拝した、多くは白磁の観音像である。が、今田代君が見せてくれたのは、その麻利耶観音の中でも、博物館の陳列室や世間普通の蒐収家のキャビネットにあるようなものではない。第一これは顔を除いて、他はことごとく黒檀を刻んだ、一尺ばかりの立像である。のみならず頸のまわりへ懸けた十字架形の瓔珞も、金と青貝とを象嵌した、極めて精巧な細工らしい。その上顔は美しい牙彫で、しかも唇には珊瑚のような一点の朱まで加えてある。……
私は黙って腕を組んだまま、しばらくはこの黒衣聖母の美しい顔を眺めていた。が、眺めている内に、何か怪しい表情が、象牙の顔のどこだかに、漂っているような心もちがした。いや、怪しいと云ったのでは物足りない。私にはその顔全体が、ある悪意を帯びた嘲笑を漲らしているような気さえしたのである。
「どうです、これは。」
田代君はあらゆる蒐集家に共通な矜誇の微笑を浮べながら、卓子の上の麻利耶観音と私の顔とを見比べて、もう一度こう繰返した。
「これは珍品ですね。が、何だかこの顔は、無気味な所があるようじゃありませんか。」
「円満具足の相好とは行きませんかな。そう云えばこの麻利耶観音には、妙な伝説が附随しているのです。」
「妙な伝説?」
私は眼を麻利耶観音から、思わず田代君の顔に移した。田代君は存外真面目な表情を浮べながら、ちょいとその麻利耶観音を卓子の上から取り上げたが、すぐにまた元の位置に戻して、
「ええ、これは禍を転じて福とする代りに、福を転じて禍とする、縁起の悪い聖母だと云う事ですよ。」
「まさか。」
「ところが実際そう云う事実が、持ち主にあったと云うのです。」
田代君は椅子に腰を下すと、ほとんど物思わしげなとも形容すべき、陰鬱な眼つきになりながら、私にも卓子の向うの椅子へかけろと云う手真似をして見せた。
「ほんとうですか。」
私は椅子へかけると同時に、我知らず怪しい声を出した。田代君は私より一二年前に大学を卒業した、秀才の聞えの高い法学士である。且また私の知っている限り、所謂超自然的現象には寸毫の信用も置いていない、教養に富んだ新思想家である、その田代君がこんな事を云い出す以上、まさかその妙な伝説と云うのも、荒唐無稽な怪談ではあるまい。――
「ほんとうですか。」
私が再こう念を押すと、田代君は燐寸の火をおもむろにパイプへ移しながら、
「さあ、それはあなた自身の御判断に任せるよりほかはありますまい。が、ともかくもこの麻利耶観音には、気味の悪い因縁があるのだそうです。御退屈でなければ、御話しますが。――」
この麻利耶観音は、私の手にはいる以前、新潟県のある町の稲見と云う素封家にあったのです。勿論骨董としてあったのではなく、一家の繁栄を祈るべき宗門神としてあったのですが。
その稲見の当主と云うのは、ちょうど私と同期の法学士で、これが会社にも関係すれば、銀行にも手を出していると云う、まあ仲々の事業家なのです。そんな関係上、私も一二度稲見のために、ある便宜を計ってやった事がありました。その礼心だったのでしょう。稲見はある年上京した序に、この家重代の麻利耶観音を私にくれて行ったのです。
私の所謂妙な伝説と云うのも、その時稲見の口から聞いたのですが、彼自身は勿論そう云う不思議を信じている訳でも何でもありません。ただ、母親から聞かされた通り、この聖母の謂われ因縁をざっと説明しただけだったのです。
何でも稲見の母親が十か十一の秋だったそうです。年代にすると、黒船が浦賀の港を擾がせた嘉永の末年にでも当りますか――その母親の弟になる、茂作と云う八ツばかりの男の子が、重い痲疹に罹りました。稲見の母親はお栄と云って、二三年前の疫病に父母共世を去って以来、この茂作と姉弟二人、もう七十を越した祖母の手に育てられて来たのだそうです。ですから茂作が重病になると、稲見には曽祖母に当る、その切髪の隠居の心配と云うものは、一通りや二通りではありません。が、いくら医者が手を尽しても、茂作の病気は重くなるばかりで、ほとんど一週間と経たない内に、もう今日か明日かと云う容体になってしまいました。
するとある夜の事、お栄のよく寝入っている部屋へ、突然祖母がはいって来て、眠むがるのを無理に抱き起してから、人手も借りず甲斐甲斐しく、ちゃんと着物を着換えさせたそうです。お栄はまだ夢でも見ているような、ぼんやりした心もちでいましたが、祖母はすぐにその手を引いて、うす暗い雪洞に人気のない廊下を照らしながら、昼でも滅多にはいった事のない土蔵へお栄をつれて行きました。
土蔵の奥には昔から、火伏せの稲荷が祀ってあると云う、白木の御宮がありました。祖母は帯の間から鍵を出して、その御宮の扉を開けましたが、今雪洞の光に透かして見ると、古びた錦の御戸帳の後に、端然と立っている御神体は、ほかでもない、この麻利耶観音なのです。お栄はそれを見ると同時に、急に蛼の鳴く声さえしない真夜中の土蔵が怖くなって、思わず祖母の膝へ縋りついたまま、しくしく泣き出してしまいました。が、祖母はいつもと違って、お栄の泣くのにも頓着せず、その麻利耶観音の御宮の前に坐りながら、恭しく額に十字を切って、何かお栄にわからない御祈祷をあげ始めたそうです。
それがおよそ十分あまりも続いてから、祖母は静に孫娘を抱き起すと、怖がるのを頻りになだめなだめ、自分の隣に坐らせました。そうして今度はお栄にもわかるように、この黒檀の麻利耶観音へ、こんな願をかけ始めました。
「童貞聖麻利耶様、私が天にも地にも、杖柱と頼んで居りますのは、当年八歳の孫の茂作と、ここにつれて参りました姉のお栄ばかりでございます。お栄もまだ御覧の通り、婿をとるほどの年でもございません。もし唯今茂作の身に万一の事でもございましたら、稲見の家は明日が日にも世嗣ぎが絶えてしまうのでございます。そのような不祥がございませんように、どうか茂作の一命を御守りなすって下さいまし。それも私風情の信心には及ばない事でございましたら、せめては私の息のございます限り、茂作の命を御助け下さいまし。私もとる年でございますし、霊魂を天主に御捧げ申すのも、長い事ではございますまい。しかし、それまでには孫のお栄も、不慮の災難でもございませなんだら、大方年頃になるでございましょう。何卒私が目をつぶりますまででよろしゅうございますから、死の天使の御剣が茂作の体に触れませんよう、御慈悲を御垂れ下さいまし。」
祖母は切髪の頭を下げて、熱心にこう祈りました。するとその言葉が終った時、恐る恐る顔を擡げたお栄の眼には、気のせいか麻利耶観音が微笑したように見えたと云うのです。お栄は勿論小さな声をあげて、また祖母の膝に縋りつきました。が、祖母は反って満足そうに、孫娘の背をさすりながら、
「さあ、もうあちらへ行きましょう。麻利耶様は難有い事に、この御婆さんのお祈りを御聞き入れになって下すったからね。」
と、何度も繰り返して云ったそうです。
さて明くる日になって見ると、成程祖母の願がかなったか、茂作は昨日よりも熱が下って、今まではまるで夢中だったのが、次第に正気さえついて来ました。この容子を見た祖母の喜びは、仲々口には尽せません。何でも稲見の母親は、その時祖母が笑いながら、涙をこぼしていた顔が、未に忘れられないとか云っているそうです。その内に祖母は病気の孫がすやすや眠り出したのを見て、自分も連夜の看病疲れをしばらく休める心算だったのでしょう。病間の隣へ床をとらせて、珍らしくそこへ横になりました。
その時お栄は御弾きをしながら、祖母の枕もとに坐っていましたが、隠居は精根も尽きるほど、疲れ果てていたと見えて、まるで死んだ人のように、すぐに寝入ってしまったとか云う事です。ところがかれこれ一時間ばかりすると、茂作の介抱をしていた年輩の女中が、そっと次の間の襖を開けて、「御嬢様ちょいと御隠居様を御起し下さいまし。」と、慌てたような声で云いました。そこでお栄は子供の事ですから、早速祖母の側へ行って、「御婆さん、御婆さん。」と二三度掻巻きの袖を引いたそうです。が、どうしたのかふだんは眼慧い祖母が、今日に限っていくら呼んでも返事をする気色さえ見えません。その内に女中が不審そうに、病間からこちらへはいって来ましたが、これは祖母の顔を見ると、気でも違ったかと思うほど、いきなり隠居の掻巻きに縋りついて、「御隠居様、御隠居様。」と、必死の涙声を挙げ始めました。けれども祖母は眼のまわりにかすかな紫の色を止めたまま、やはり身動きもせずに眠っています。と間もなくもう一人の女中が、慌しく襖を開けたと思うとこれも、色を失った顔を見せて、「御隠居様、――坊ちゃんが――御隠居様。」と、震え声で呼び立てました。勿論この女中の「坊ちゃんが――」は、お栄の耳にも明かに、茂作の容態の変った事を知らせる力があったのです。が、祖母は依然として、今は枕もとに泣き伏した女中の声も聞えないように、じっと眼をつぶっているのでした。……
茂作もそれから十分ばかりの内に、とうとう息を引き取りました。麻利耶観音は約束通り、祖母の命のある間は、茂作を殺さずに置いたのです。
田代君はこう話し終ると、また陰鬱な眼を挙げて、じっと私の顔を眺めた。
「どうです。あなたにはこの伝説が、ほんとうにあったとは思われませんか。」
私はためらった。
「さあ――しかし――どうでしょう。」
田代君はしばらく黙っていた。が、やがて煙の消えたパイプへもう一度火を移すと、
「私はほんとうにあったかとも思うのです。ただ、それが稲見家の聖母のせいだったかどうかは、疑問ですが、――そう云えば、まだあなたはこの麻利耶観音の台座の銘をお読みにならなかったでしょう。御覧なさい。此処に刻んである横文字を。――DESINE FATA DEUM LECTI SPERARE PRECANDO……」
私はこの運命それ自身のような麻利耶観音へ、思わず無気味な眼を移した。聖母は黒檀の衣を纏ったまま、やはりその美しい象牙の顔に、ある悪意を帯びた嘲笑を、永久に冷然と湛えている。――
(大正九年四月)
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一
先ごろから、魚屋、八百屋、菓子屋などの店先き、多くの主婦たちが一列に並んで順の来るのを待つてゐる買物風景は、どこへ行つても見ないといふわけにはゆかない。
日本は、まだまだ食ふに困らないだけのものは持つてゐる。みんなが、ちよつと不自由を忍ぶならば、一時間も二時間も並んで待つまでもなく、日常に食ふだけのものは間に合ふ筈である。もちろん、思ふとほりのものが、思ふぞんぶんに食べられるといふことはない。しかし、すべての人が同じやうに不自由を忍んで行かうとすれば、けつして食ふに困るといふことはないはずである。
なるほど物資の不足は、相当われわれの生活を不自由にするほどになつてゐる。しかし、それはものがないのではなく、ただ、それが一時、国民のすべてに行渡らないといふやうなことで、部分的に相当不自由を感じてゐるのであつて、その点さへうまくゆけば、けつして忍べないほどの不自由ではない。
たゞ恐ろしいのは、あるものをないと思ひこむこと、ないのではないかと疑うことで、そういふ気持が働いて買物に列をつくることにもなるが、これが人心の不安となつて拡がつたならば、その結果はまことに憂ふべきものである。
買物に列をつくるのを止めようといつても、誰かゞひとより先によいものをとらうとしたり、誰かゞ、自分だけ不自由な思ひを少くしようとする気持があれば、列を作ることは止まない。列を作ることを止めるのには、物が円滑に行渡るといふことといつしよにみんなが、自分だけ少しでも不自由を避けやうとする、自分本位の考へ方を止めなければならない。それとともに、また一方には、列をつくらないでも間に合ふやうな、やり方を考へてゆくことが必要である。
二
ある小さな八百屋の経験によると、店に二十貫の品物がはいつた日には列をつくるといふことがないが、十九貫しかはいらない日には列をつくるといふ。その開きはほんの僅かであるが、その日の入荷が、そのほんの僅かでも多いといふ感じが、人の気持に与へるものは非常にちがふ。誰もが不自由を忍んでゐるときに、その忍んでゐる不自由の程度から、ほんの僅かでも余裕があると感じられることが、人々の心を安らかにし、列をつくるといふことがなくなるのであらうが、かういふ点はよく考慮する必要があると思ふ。買物行列も、こんなところのちよつとした加減で、なくなるのではないかと思ふ。即ちある制限されてゐる量の上に、ちよつと余裕を感じさせることが必要なのである。
ところが、いつも足らない、ものがないと感じるのは、そう感じる人の心のもち方にもよるが、実際にはあるものが、行き渡らないために無いといふ姿で現はれるからで、それには配給機構の不備や輸送力の不足も大きな原因となつてゐるであらう。
村に山ほど薯があつても、町の八百屋に薯がなければ、町の人にとつては現実に薯はないのである。物がないのではない、動かないのであることを国民が知り、その物が動くといふことについて国民が堅く信頼することができ、その信頼に応へて、着々と物が動くならば、買ひ物に列をつくるといふことも自然になくなるであらう。国民はそれだけの心構へはもつてゐるであらうし、またもたなければならない。
保証されない不自由は忍びがたいが、保証された不自由は忍べる。配給機構の不備を調整して、国民の忍び得る不自由に安らかさを与へることが先づ第一に必要である。
三
物がうまく行き渡つて、不自由の中にも人々の心が安らかであれば、列をつくらずにすむ、しかし、物を売る時間とやり方とで、どうしても列をつくるやうになる場合もあるから、これについては商店の側の熱心と親切な協力がなければならない。
品物の少いときであるから、一定の時間に処理を終つてしまふことは、商店としても面倒はないかも知れない。しかし、もうちよつとのところの面倒を我慢して、時間的にもつとゆとりのあるやり方を考へて、商店としても、列をつくることを止めるために、熱心に協力して欲しいと思ふ。
四
列をつくることを止めるには、単に物の動きが円滑に行くとか、売り手買ひ手の個人個人として心がけるといふ外に、さらに、列をつくらなくても済むやうな一つの仕組を考へる必要がある。たとへば町会では、町内の食生活は町内の手で解決するといふ意気ごみで、町内の智慧をあつめて、そういふ仕組を考へてみたらどうであらうか。
その一つの思ひつきとして、『町内食生活委員会』といふやうなものが考へられる。この委員会は、町会役員、町内の主婦代表者、関係小売業者、所轄警察等で組織される。その際、町内外の有識者の智慧を加へることも忘れてはならない。この委員会で、町内家庭に列をつくらないでも必需食料品が行き渡るやうに、実情に照らして、具体的な方法として、いろいろ細かいことがらが考へられるであらう。たとへば、
一、註文、買入れ等は隣組でまとめてする。隣組員が交替で代表者となり、註文、買入れなどに当る。
一、隣組によつては、隣組でまとめて買入れをしても、それを分けたり金額を計算したりすることを、手ぎわよくやれる人のゐない所もある。そういふ隣組は食料品の買入れについては、近くの適当な隣組に組合せる。
一、隣組の実情によつては、隣組で買入れを纏めることのできないものもあらう。そういふ隣組では個々に買入れる外はないが、また都合のよいものだけで組を作らせるとか、他の隣組に組合せるといふこともできよう。
一、現在、店に登録した順によつて販売してゐる魚屋などの場合、番号は世帯の順を飛びとびになつてゐるから、隣組でまとめて買入れるとすれば、その日に順番に当らない世帯がでてくる。そこで委員会できめて、番号を隣組で世帯順に揃ふやうに整理する。
一、魚屋で、たとへば一番から一〇〇番までを一時から五時まで売るといふ場合に、番号によつて時間を分けることも、隣組の買入れと相俟つて効果をあげると思ふ。もちろん、早い方の組にだけ、よいものが行つてしまはないやうに、その日の入荷を分けておくことは必要である。
一、列をつくるのは、一つには店で手が足りないために、計算や受渡しに時間がかかるためでもある。その日の買入れにきた隣組の代表者たちは、その順に従つて店の手伝ひをして早くかたづくやうにする。その手伝ひのわりあての仕方なども委員会で定める。
一、隣組で食料品をまとめて買入れることはよいが、それだけでは、品物の種類や大きさなどによつては、各家庭に分配する場合に不便を感ずることもあり、また、品物の種類について、各家庭から註文や不平がいろいろ出たりして、円滑に行きにくい場合もある。かういふ不都合は、共同炊事或は共同献立配給が行はれゝば容易に解決できるであらう。委員会は町内の食生活が合理的に行はれるやうに、共同炊事や、共同献立がたやすく実行できるやうな条件の揃つた隣組に対しては、便宜と指導とを与へて、これを促進することも必要である。
といふやうなことがらである。
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Hard
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もし、その作家が、真実であるならば、どんな小さなものでも、また、どんな力ないものでも、これを無視しようとは思わないでありましょう。
個人は、集団に属するのが本当だというようなことから、なんでも、集団的に、階級的に見ようとするのは、この人生は、常に、唯物的に闘争しつゝあるという見解のもとに、疑いを抱かない、肯定的な議論であります。社会科学としては、それも重きをなす学説にちがいありません。そして、それを信ずることは、その人の勝手です。しかし、芸術には、その他の場合があるばかりでなく、芸術本来の精神は、もっと自由なものであり、その自由の教化に於てこそ存在の理由があるのだと思います。
政治に於ては、党派によって、敵味方に分れていますが、芸術は、そんな不自由なものでない。自から不自由の中に軌範の立ち籠って、政治の前衛をもって任ずるものは、自から異いますが、なるべく、多くの異彩ある作家が輩出して、都会を、農村をいろ〳〵の眼で見、描写しなければならぬと思います。
作家は、何ものにも囚われてはなりません。もし、囚われた時は、自由人でありません。さなきだに、今の作家は容易に自由人たることを許されていない。芸術家が、精神の自由を得なかった時は、もう死んだも同じようなものです。
この故に、芸術家たり、作家たることは容易でありません。たとえ学説や主義に囚われなくとも、資本主義の重圧に堪えることは、より以上に困難な時代であるからです。
いまこゝでは、資本家等の経営する職業雑誌が、大衆向きというスローガンを掲げることの誤謬であり、また、この時代に追従しなければならぬ作家等が、資本家の意志を迎えて、いつしか真の芸術を忘れるに至ったことを指摘しようと思います。
先ず、芸術は、真の教化でなければならないことです。真実にものを見た作家の叫びでなければならないことです。実に、その芸術が、かゝる真実の表現であったら必ずや、その聞こうとするものがあるを当然とします。もし、芸術が真の発見であり、創意であり、作家の熱烈なる要求であることの代りに、通俗への合流に過ぎぬとしたら、何の教化ということもないでありましょう。
芸術は、凡俗生活に対する反抗からはじまったと見るべきが本当であります。今日の文化が、兎も角もこゝまで至ったのには、この向上生活のいたした集積ともいうべきです。政治に依る強権は、一夜にして、社会の組織を一新することができるでありましょう。しかし、一夜に人間を改造することはできない。人間を改造するものは、良心の陶冶に依るものです。芸術の使命が、宗教や、教育と、相俟ってこゝに目的を有するのは言うまでもないことです。
一人の心から、他の心へ、一人の良心から、他の良心へと波動を打って、民衆の中にはいって行くものが、真の芸術です。そこに、精神の自由の下に、人格の改善が行われます。彼等はそれによって、芸術的、社会革新の信念を得ようとします。同じ人類の理想、思想の下に結合しようとします。それが最初少数の信者であったにしても、その熱意の存するかぎり、永久に働きかけるものです。真の芸術の強味はこゝにあります。芸術戦線の戦士は、すべからくこの信念に生きなければならぬものです。
都会に、多くの作家があり、農村に多くの作家があるべき筈である。そして、彼等は、各の接触するところのものを真実に描かなければならぬ。そして、時に彼等の代弁となり、時に彼等の忠言者たらなければならぬものである。これを称して、私は、大衆作家と言い、或は民衆作家とも呼ぼうとします。
しかるに、今日は、『大衆に向くものを』という意図のもとに文芸が創作されつゝあります。
いったい誰に、それが売れないのであるか? 或は、そういう作品は、誰に読まれないというのか?
過去のいかなる時代に於ても、真の芸術は理解する人達にしか求められなかった。それは、むしろ自然であります。そう一人の作家が多くの読者を有するものでなく、また、そう真面目な芸術が多くの人々に容易に理解されるものでもないのは、不思議ではありません。言い換えれば、このためにこそ文化機関の必要があると言えるのです。
卑近の例を取って言えば、民衆を教育せんがために、多くの学校は建てられたのである。教育ということが、何よりも第一の目的たることは疑わない。しかるに、教化というものが第二であり、第一にそれ等の経営者が営利を目的とするとしたら何うでありましょうか。もはや、そこには、教育の精神も教化の精神も、死んでしまったと言わなければなりません。民衆教化の精神を失った芸術は、真の芸術ではない筈です。
自由競争時代の文化機関には、まだこの良心があったが故に、各の異彩ある作家は自己の作品を自由に発表することができたのであったが、今日は、『大衆に向くものを』という資本家の意志によって、全く職業的に作家は書く以外の自由を有しないのであります。
これは、一面に、読者層の中心がこれまで知識階級であり、その批判もまた知識階級によってなされたがためであるが、今日の批判は、多数の無知識階級であり、そのためには、彼等に分り易く書かなければならぬというのであります。
多くの大衆作家が、また、そう思っているらしい。そして、常識にまで、芸術を低下することを意としないらしい。むしろそれが時勢に適応することだと思っているらしい。
少し作家的反省と自負とがあるならば、これは、単に、資本家の意図にしかすぎないことを知るのである。真の大衆は、最も彼等の生活に親しみのある。いろ〳〵な真実の言葉を聞こうと欲するにちがいない。常識にまで低下して、何等の詩なく、感激なき作品が、たゞ面白いというだけで、また取りつき易いというだけでは、彼等と雖も、決して、これをいゝとは思っていないであろう。また、たとい、それに何が書かれていようと、すでに精神に於て、民衆を教化するとは言えなかろうと思います。
これまでの大衆文芸がそれであり、また、機械的に政治と合流せんとする大衆文芸も同じでありましょう。これ故に、今日以後、真の作家たらんとする者は、いずれよりも解放された新人でなければならない。特に、今日の資本主義に反抗して、芸術を本来の地位に帰す戦士でなければなりません。かゝる芸術の受難時代が、いつまでつゞくか分りませんが、考えようによって、アムビシャスな作家には、興味ある時代であります。
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Hard
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今バンドにはメンバーが4人いる
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Easy
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表口の柱へズウンズシリと力強く物のさわった音がする。
この出水をよい事にして近所の若者どもが、毎日いたずら半分に往来で筏を漕ぐ。人の迷惑を顧みない無遠慮なやつどもが、また筏を店の柱へ突き当てたのじゃなと、こう思いながら窓の格子内に立った。もとより相手になる手合いではないが、少ししかりつけてやろうと考えたのである。
格子から予がのぞくとたんに、板塀に取り付けてある郵便受け箱にカサリという音がした。予は早くも郵便を配達して来たのじゃなと気づく。
この二十六日以来三日間というもの、すべての交通一切杜絶で、郵便はもちろん新聞さえ見られなかった際じゃから、郵便配達と気づいて予はすこぶるうれしい。この水の深いのに感心なことと思いつつ、予は猶予なくその郵便をとりに降りる。郵便箱へ手を入れながら何の気なしに外を見る。前に表の柱へ響きをさしたのは、郵便配達の舟が触れた音でありしことがわかった。
郵便の小舟は今わが家を去って、予にその後背を見せつつ東に向かって漕いでいる。屈折した直線の赤筋をかいた小旗を舷に插んで、船頭らしい男と配達夫と二人、漁船やら田舟やらちょっとわからぬ古ぶねを漕いでいる。水はどろりとして薄黒く、浮き苔のヤリが流れる方向もなく点々と青みが散らばってちょうどたまり水のような濁り水の上を、元気なくゆらりゆらりと漕いでゆくのである。
いやに熱苦しい、南風がなお天候の不穏を示し、生赤い夕焼け雲の色もなんとなく物すごい。予は多くの郵便物を手にしながらしばらくこの気味わるい景色に心を奪われた。
高架鉄道の堤とそちこちの人家ばかりとが水の中に取り残され、そのすき間というすき間には蟻の穴ほどな余地もなくどっしりと濁り水が押し詰まっている。道路とはいえ心当てにそう思うばかり、立てば臍を没する水の深さに、日も暮れかかっては、人の子一人通るものもない。活動ののろい郵便小舟がなおゆらゆら漕ぎつつ突き当たりのところを右へまがった。薄黒い雲にささえられて光に力のない太陽が、この水につかって動きのとれない一群の人家をむなしく遠目にみておられる。一切の草木は病みしおれて衰滅の色を包まずいたずらに太陽を仰いでいても、今は太陽の光もこれを救うの力がない。予は身にしみて寂しみを感じた。
静かというは活動力の休息である。静かな景色には動くものがなくても感じはいきいきとしている。今日の景色には静かという趣は少しもない。活動力の凋衰から起こる寂しい心細いというような趣を絵に書いて見たらこんなであろうなどと考える。
毒々しい濁り水のために、人事のすべてを閉塞され、何一つすることもできずむなしく日を送っているは、手足も動かぬ病人がただ息の通うばかりという状態である。
家の中でも深さは股にとどくのである。それを得避くる事もできないで、巣を破られた蜂が、その巣跡にむなしくたむろしているごとくに、このあばら屋に水籠りしている予を他目に見たらば、どんなに寂しく見えるだろう。
しかしながらわれとわれを客観して見ればまた一種得難い興味もある。人間のからだでいえば病気じゃ、火難が家の死であらば水難は家の病気じゃなどと空想にふけりながら予は仮床へ帰った。仮床というは台所の隣間で、南へ面した一間の片端へ、桶やら箱やら相当に高さのあるものを並べ立てて、古柱や梯子の類をよろしく渡した上に戸板を載せ、それに畳を敷いたものである。畳もようやく四畳しか置けない。それに夫婦のものと児女三人下女一人、都合六人が住んでいる。手も足も動かせない生活じゃ。立てば頭が天井へつかえる。夜になれば蚊がいる。この四畳のお座敷へ蚊帳二つりという次第ではないか。動けないだけに仕事もない。着たままでねる、寝たままで起きている。食物は兄の家からすべてを届けてくれる。子供を水へ落とさないように注意するのが最も重要な事件くらいのものじゃ。赤ん坊は心配はないが木綿子のおぼつかなく立って歩くのが秒時も目を離せない。今日は木綿子がよく寝たから天井板をきれいに掃除したとは細君のことばである。今日は腰巻きを五へん換えましたとは下女の愚痴である。それもそのはずじゃ。湯を沸かして茶を一つ飲もうというには、火をこしらえる材料拾集のために担当者が腰巻き一つはどうしてもぬらさねばならない。それが三度はきまりでほかに一度や二度は水へ降りねばならぬ。で天気がよければよいが天気が悪ければ、とても茶を飲むなどいう奢りは許されない。今日くらいの天気ならばラクだとは異口同音のよろこびじゃ。追ッつけ夕飯を届けてくる時刻とて鉄瓶の湯が快活に沸き立っている。予は同人諸君からの見舞状を次ぎ次ぎと見る。かれこれして家の中は薄暗くなった。
「おとっさん水が少し引いたよ」
「ウンそうか」
「あの垣根の竹が今朝はまだ出なかったの……それが今はあんなに出てしまって五分ばかり下が透いたから、なんでも一寸五分くらいは引いたよ」
「なるほどそうだ、よいあんばいだ。天気にはなるし、少しずつでも水が引けば寝ても寝心がいい」
「さっきおとっさんおもしろかったよ。ネイおっかさん、ほんとにおかしかったわ、大きな鰻、惜しい事しちゃったの、ネイおっかさん……」
「お妙さん、鰻がどうした」
「鰻ネ、大きい鰻がね、おとっさん、あの垣根の杭のわきへ口を出してパクパク水を飲んでいるのさ。それからどうして捕ろうかって、みんなが相談してもしようがないの。それからおふじが米ざるを持ち出して出かけたら、おふじが降りるとすぐ鰻はひっこんでしまったの。ネイおふじ、網ならどうかして捕れたんだよ」
「そうか、そりゃ惜しいことをしたなア、蒲焼にしたら定めて五人でたべ切れない大きいものであったろう。おとっさんに早くそう言えばよかったハヽヽヽ」
「おとっさんうそでないよ、ネイおふじ、ほんとネイ、おっかさんも見ていたんだよ」
おふじは腰巻きのぬらし損をしてしまったけれど、そのついでに火を起こしたから、鉄瓶の湯が早く煮立った。それでは鰻が火を起こしたわけじゃないかと、予が笑えば、木綿子までが人まねに高笑いをする。住宅の病気も今日はやや良好という日じゃ。いやに熱苦しい南風が一日吹き通して、あまり心持ちのよい日ではなかったけれど、数日来雨は降る水は増すという、たまらぬ不快な籠居をやってきたのだから、今日はただもうぬれた着物を脱いだような気分であった。それに日の入りと共にいやな南風も西へ回って空の色がよくなった。明日も快晴であろうと思われる空の気色にいよいよ落ちついて熱のさめたあとのような心持ちでからだが軽くなったような気がする。金魚が軒下へ行列して来る。鰌が時々プクプク浮いて泡を吹く。鰻まで出て芝居をやって見せたというありさまだったから、まずまずこれまでにはない愉快な日であった。極端に自由を奪われた境涯にいて見ると、らちもない事にも深き興味を感ずるものである。
人間の家も飯を炊かぬものであると、朝にも晩にもすこぶる気楽にゆっくりしたものだ。
「もうランプをつけましょうか」
「まだよかろう」
「それでもよほど暗くなってきましたから」
「どうせ何ができるでなし、そんなに早く明かしをつける必要もないじゃないか」
こんならちもない押し問答をして時間を送っている。
表のガラス戸にがちゃんと突き当たったものがある。何かと思う間もなくしずしずとガラス戸を押しあけて人がはいる、バシャンバシャン水音をさして半四郎君が台所へ顔を出した。
「コリャ思ったより深い、随分ひどいなア」
「半四郎さん、どうも御苦労さま、とんだ御厄介でございます。そこらあぶのうございますからお気をつけなすって……」
「やア今日は君が来てくれたか、どうです随分深いでしょう。上げ縁は浮いてしまったし、ゆか板もところどころ抜けてるから、君うっかり歩くと落ちるよ、なかなかあぶないぜ」
「コリャ剣呑だ、なにもう大丈夫、表のガラス一枚破りましたよ、車へ載せて来ましたからつい梶棒をガラス戸へ突き当ててしまったんです」
「なアにようございますよ、ガラスの一枚ばかりあなた……」
「随分御困難ですなア」
「いやありがとう、まアこんな始末さ。それでもおかげさまで飢えと寒さとの憂いがないだけ、まず結構な方です。君、人間もこれだけ装飾をはがれるとよほど奇怪なものですぞ。この上に寒さに迫られ飢えに追われたら全く動物以下じゃな」
「そうですなア向島が一番ひどいそうです。綾瀬川の土手がきれたというんですからたまりませんや。今夜はまた少し増して来ましょう。明朝の引き潮にゃいよいよ水もほんとに引き始めるでしょう」
半四郎は飯櫃と重箱とほかに水道の水を大きな牛乳鑵二本に入れたのを次ぎ次ぎと運んでくれる。今夕の分と明朝の分と二回だけの兵糧を運んでくれたのである。まア話してゆきたまえというても腰をかける場所もない。半四郎君はあまり暗くならぬうちにというて帰ってゆく。ランプをつける。半四郎君の出てゆく水の音が闇に響いてカパンカパンと妙に寂しい音がする。濁り水の動く浪畔にランプの影がキラキラする。全くの夜となった。そして夜は目に映るものの少ないためか、目に見た日暮れの趣にくらべて今は寂しいというより静かな感じが強い。その静かさの強みに、五、六人の人の動きもその話し声もランプの光り鉄瓶の煮え音までが、静かに静かにと上から圧えつけられているようである。かえって少しの光や音や動きやは、その静かさの強みを一層強く思わせる。湿り気を含んだランプの光の下に浮藻的生活のわれわれは食事にかかる。佃煮と煮豆と漬菜という常式である。四畳の座敷に六人がいる格で一膳のお膳に七つ八つの椀茶碗が混雑をきわめて据えられた。他目とは雲泥の差ある愉快なる晩餐が始まる。一切の過去を忘れてただその現在を常と観ずれば、いかなる境地にも楽しみは漂うている。予はビールを抜かせる。
木綿子の挙動には畳四畳の念はない。行きたいようにゆき、動きたいように動いてる。父の顔を見母の顔を見姉の顔を見、煮豆佃煮のごちそうに満悦して、腹の底を傾けての笑い、ありたけの声を出しての叫び、この人のためにだれもかれも、すべての憂き事を忘れさせられる。天地の寂寞も水難の悲惨も木綿子の心をば一厘たりとも冒すことはできない。わが身の存在すら知らない絶対無我の幼児は、真に不思議な力がある。天を活かし地を活かし人をも活かすの力を持っている。他目に解せられない愉快な晩餐というも全く木綿子の力である。
あぶないてば木綿ちゃん、という呼び声はこの会食中にばかりも十度も繰り返された。あぶないとは何の事か木綿ちゃんの知った事ではない。木綿ちゃんの行動は天馬空を行くがごとくで、四畳であろうが、百畳であろうが、木綿ちゃんにそんな差別はない。人を活かす力を持てる木綿ちゃんは、また人を殺す力も持ってる。木綿ちゃんが寝ないうちはだれも寝られないのである。もしも木綿ちゃんがわれわれの不注意のために、この水に落ちて死ぬような事でもあったら、少なくも予一人は精神的に死するにきまっている。木綿子はその幼い手足を投げ出して、今は眠りについた。窓先で枝蛙が鳴く。壁の透き間でこおろぎが鳴く。彼らは何を感じて寂しい声を鳴くのか。空は晴れて膚寒く夜はようやくふけ渡ったようである。
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自分がまだ、男の人に慣れない
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日本の活動写真界の益々進歩隆盛に赴いて来るのは、私のような大の活動写真好きにとっては誠に喜ばしい事である。私は日本製のものは嫌いで見ないから一向知らないが、帝国館や電気館あるいはキネマ倶楽部などの外国物専門の館へは、大概欠かさず見に行く。しかして回を追って、筋の上にも撮影法の上にも、あらゆる点において進歩しつつあるのを見るにつけて、活動写真も茲十年ほどの間に急速の進歩をしたものだと感心せずにはおられない。
一番初め錦輝館で、そもそも活動写真というものを興行した事がある。その時は、海岸へ波が打上げる所だとか、犬が走る所だとかいったような、誠に単純なもののみのフィルムで、随って尺も短いから、同じものを繰り返し繰り返しして映写したのであった。しかしながら、それでさえその時代には物珍らしさに興を催したのであった。今日の連続物などと比較して考えて見たならば、実に隔世の感があるであろう。
ところで、かつて外人の評として、伊太利製のものはナポリだとかフローレンだとかローマとかを背景にするから、クラシカルなものには適当で、古代を味うには頗る興味があるが、新らしい即ち現代を舞台とする筋のものでは、やはり米国製のものであろうといっているけれども、米国製品にしばしば見るカウボーイなどを題材にしたものは、とかくに筋や見た眼が同一に陥りやすくて面白味がない。けれども探偵物となるとさすがに大仕掛で特色を持っている。しかしこれらの探偵物は、ただほんのその場限りの興味のもので、後で筋を考えては誠につまらないものである。
三、四年前位に、マックス、リンダーの映画が電気館あたりで映写されて当りをとった事がある。ちょっとパリジァンの意気な所があって、今日のチャプリンとはまた異った味いがあった。チャプリンはさすがに米国一流の思い切った演出法であるから、それが現代人の趣味に適ってあれだけの名声を博したのであろう。
それで近頃では数十巻連続ものなどが頗る流行しているが、これは新聞小説の続きもののように、後をひかせるやり方で面白いかも知れないが、やはり一回で最後まで見てしまう方がかえって興味があるように思われる。数十巻連続物などになると、自ずと筋の上にも場面の上にも同じようなものが出来て、その結局はどれもこれも芽出たし〳〵の大団円に終るようで、かえって興味がないようである。そこへ行くと、伊太利周遊だとか、東印度のスマトラを実写したものだとかいう写真は、一般にはどうか知らないが、真の活動通はいつも喜ぶものである。
よく端役という事をいうが、活動写真には端役というべきものはないように思われる。どれもこれも総てが何らかの意味で働いているように思われる。それから室の装飾の如き物は総てその場に出ているものに調和したものが、即ち趣味を以って置かれている。決してお義理一遍になげやりにただ舞台を飾るというだけに置かれてあるような事はない。総てにおいてその時代やその人物やその他に調和するよう誠実に舞台が造られているのである。この点においては正直にいえば西洋物だとても、どれもこれもいいとはいえないが、しかし日本物に較べたら、さすがに一進歩を示している。日本物もこういう舞台装置の点についても一考をわずらわしたいものである。しかしこういう事は、趣味性の発達如何に依ることであるから、茲暫くは西洋物のようになる事はむずかしいであろう。
近頃フィルムに現われる諸俳優について、一々の批評をして見た所で、その俳優に対する好き好きがあろうから無駄な事だが、私は過日帝国館で上場された改題「空蝉」の女主人公に扮したクララ・キンベル・ヤング嬢などは、その技芸において頗る秀でたものであると信じている。もっとも私は同嬢の技芸以外この「空蝉」全篇のプロットにも非常に感興を持って見たし、共鳴もしたのであった。そもそもこの「空蝉」というのは、原名をウイザウト・エ・ソールといい、精神的に滅んで物質的に生きたというのが主眼で、この点に私が感興を持ち共鳴を持って見たのであった。筋はクララ・ヤング嬢の扮するローラという娘の父なる博士は「死」を「生」に返すことを発明したのであった。その博士の娘は、誠に心掛けのやさしいもので、常に慈善事業などのために尽力していたが、或る日自動車に轢かれて死んでしまった。博士は自分の発明した術を以って、娘を生き返えらせたのであった。ところが人間という物質としては再びこの世に戻って来たが、かつての優しい心根は天に昇ってまた帰すすべもなかった。物質的に生き返って来た娘の精神もまた、物質的となって再生後の彼女は前と打って変った性格の女となって世にあらゆる害毒を流すのであった。その中ある医者から、あなたは激怒した場合に、必らず死ぬということをいわれた。彼女はこの事が気にかかって、或る時父なる博士に向って、もし私がまた死んだ場合には、前のように生き返らせてくれと頼んだけれども、父は前に懲りて拒絶したので、彼女は再三押問答の末終に激怒したのであった。その瞬間彼女の命は絶えた。博士はさすがに我が子のことであるから、再び生き返らせようとして、彼女の屍に手を掛けたが、またも世に出る彼女の前途を考えて、終に思い止まり、かつその発明をも捨ててしまったのであった。
要するに物質的の進歩が、精神的に何んの効果も齎らさないという宗教的の画面に写し出されたものであったが、私の見たのはそれ以外に何か暗示を与えられたように感じたのであった。後から後からといろいろな写真を見ていると、大方は印象を残さずに忘れてしまうのであるが、こういうトラヂエデーは、いつまでも覚えていて忘れないのである。しかしこういうものよりも、もっと必要と感ずるのは、帝国館などで紹介している「ユニバーサル週報」の如く、外国の最近の出来事を撮影紹介するものである。これらこそ最も活動写真を実益の方面に用いたものであって、世界的となった今日の我々のレッスンとして、必らず見ておかなければならないものであると思う。
先頃キネマ倶楽部で上場されたチェーラル・シンワーラーの「ジャンダーク」は大評判の大写真で、別けてもその火刑の場は凄惨を極めて、近来の傑作たる場面であった。こういう大仕掛な金を掛けたものは、米国でなければ出来ぬフィルムである。時折露西亜の写真も来るが、これは風俗として非常に趣味あるものであるが、とかくに不鮮明なのが遺憾である。それからかつて「キネマトスコープ」即ち蓄音機応用の活動写真が、米国のエヂソン会社に依って我が国へ輸入された事があった。これは蓄音機の関係から、総て短尺物で、「ドラマ」を主としていて、今日流行しているような長いものはなかったが、これが追々進歩発達したならば、頗る面白いと思っていた所、ついそのままで姿を隠してしまったのは残念である。しかし米国エヂソン社では、更らに研究して、更らに進歩させんとしているに相違ないと思うのである。
(大正六年十二月『趣味之友』第二十四号)
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春屋は大徳寺の名僧で、慶長十六年示寂している。
高僧の墨蹟には能書が多い。儒者の書には存外能書がない。これは仏教と儒教の影響する現象である。同じ高僧でも鎌倉以上に溯っては、いよいよ能書が多い。宗園春屋は慶長であるから、ぼつぼつ高僧の影を没する時期だ。春屋のような天真爛漫な、しかも見識のある書を書くものは、それ以後江月欠伸子、深草の元政、ずっとおくれて良寛があるくらいのものであろう。
僧侶の書は、宗教から悟りを得た産物ではあるが、それでも僧侶の臭さがあり、型がある。この臭さと型のあるものは、未だ悟り切らざるものといっていい。その中に、前記の名僧たちが悟った、いわゆる臭くない能書を遺していることは、充分注視しなければならない。
宜なる哉。已にそれらの能書は、多くある高僧墨蹟の中から特に喧ましい存在となっている。しかるにそれらの書が、今の書道界に果して喧ましい存在となっているであろうか。遺憾にも世上のいわゆる近代書家なる者は、これらの書に対しては殆ど認識不足であるようだ。いやいや彼等は認識しているつもりであるかも知れない。
“拙い書だ”と。
“どうしてこんな書が貴ばれているのだろう”と。
“世上の認識が誤っているのではないか”と。
“全く世上が筆者の高名に惑うて拙い書を、うまい書でもあるかの如く誤っているんだ”と。
いうところの書家なる人々は、以上のような見方をしてはいないだろうか。書家は書を拵えて旨い字を書いて能事終るとしている観がある。ところが僧には限らないが、およそ見識ある者は、技術上の能事のみには没頭していない。いわば、上手下手を手腕の外に超越している。自分の気格を以て、すべてを終始している。皮肉なことに、この下手を屈託しないほどの見識ある人間に限って、いつも能書を遺している。
それにひきかえ、下手を屈託して、上手の一途を欲する書家たちは、かえってなんの価値も遺すところがない。あるのはただ職工的価値のみ。これはとりもなおさず、書道観に悟りの眼が開いていないからだ。そこへ行くと俗僧たちは別として、僧侶は宗教によって芸術に悟るところがある。さればこそ、高僧の書は尊く、永く遺るのだ。
私はその意味において、鎌倉以前は暫く置き、慶長時代から以後において、春屋が最も好き、江月にいたく肝銘する。深草の元政にも頭を下げる。良寛和尚は固より敬慕して止まない。
私は書道に対して、以上のような見方をしている一人である。(昭和九年)
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秋という字の下に心をつけて、愁と読ませるのは、誰がそうしたのか、いみじくも考えたと思う。まことにもの想う人は、季節の移りかわりを敏感に感ずるなかにも、わけていわゆる秋のけはいの立ちそめるのを、ひと一倍しみじみと感ずることであろう。私もまた秋のけはいをひとより早く感ずる方である。といって、もの想う故にではない。じつは毎夜徹夜しているからである。
私の徹夜癖は十九歳にはじまり、その後十年間この癖がなおらず、ことに近年は仕事に追われる時など、殆んど一日も欠さず徹夜することがしばしばである。それ故、およそ一年中の夜明けという夜明けを知っていると言ってもよいくらいだが、夜明けの美しいのはやはり秋、ことに夏から秋へ移ろうとする頃の夜明けであろう。
五尺八寸、十三貫、すなわち痩せているせいで暑さに強い私は、裸で夜をすごすということは余りなく、どんなに暑くてもきちんと浴衣をきて、机の前に坐っているのだが、八月にはいって間もなくの夜明けには、もう浴衣では肌寒い。ひとびとが宵の寝苦しい暑さをそのまま、夢に結んでいるときに、私はひんやりした風を肌に感じている。風鈴の音もにわかに清い。蝉の声もいつかきこえず、部屋のなかに迷い込んで来た虫を、夏の虫かと思って、団扇ではたくと、ちりちりとあわれな鳴声のまま、息絶える。鈴虫らしい。八月八日、立秋と、暦を見るまでもなく、ああ、もう秋だな、と私は感ずるのである。ひと一倍早く……。
四、五年前まえの八月のはじめ、信濃追分へ行ったことがあった。
追分は軽井沢、沓掛とともに浅間根腰の三宿といわれ、いまは焼けてしまったが、ここの油屋は昔の宿場の本陣そのままの姿を残し、堀辰雄氏、室生犀星氏、佐藤春夫氏その他多くの作家が好んでこの油屋へ泊りに来て、ことに堀辰雄氏などは一年中の大半をここの大名部屋か小姓の部屋かですごしていたくらい、伊豆湯ヶ島の湯本館と同様、作家たちに好かれた旅館であった。
十時何分かの夜行で上野を発った。高崎あたりで眠りだしたが、急にぞっとする涼気に、眼をさました。碓氷峠にさしかかっている。白樺の林が月明かりに見えた。すすきの穂が車窓にすれすれに、そしてわれもこうの花も咲いていた。青味がちな月明りはまるで夜明けかと思うくらいであった。しかし、まだ夜が明けていなかった。
やがて軽井沢につき、沓掛をすぎ、そして追分についた。
薄暗い駅に降り立つと、駅員が、
「信濃追分! 信濃追分!」
振り動かすカンテラの火の尾をひくような、間のびした声で、駅の名を称んでいた。乗って来た汽車をやり過して、線路をこえると、追分宿への一本道が通じていた。浅間山が不気味な黒さで横たわり、その形がみるみるはっきりと泛びあがって来る。間もなく夜が明ける。
人影もないその淋しい一本道をすこし行くと、すぐ森の中だった。前方の白樺の木に裸電球がかかっている。にぶいその灯のまわりに、秋の夜明けの寂けさが、暈のように集っていた。しみじみと遠いながめだった。夜露にぬれた道ばたには、高原の秋の花が可憐な色に咲いていた。私はしみじみと秋を感じた。暦ではまだ夏だったが……。
かつて、極めて孤独な時期が私にもあった。ある夜、暗い道を自分の淋しい下駄の音をききながら、歩いていると、いきなり暗がりに木犀の匂いが閃いた。私はなんということもなしに胸を温めた。雨あがりの道だった。
二、三日してアパートの部屋に、金木犀の一枝を生けて置いた。その匂いが私の孤独をなぐさめた。私は匂いの逃げるのを恐れて、カーテンを閉めた。しかし、その隙間から、肌寒い風が忍び込んで来た。そして私のさびしい心の中をしずかに吹き渡った。それが私を悲しませた。
一週間すると、金木犀の匂いが消えた。黄色い花びらが床の間にぽつりぽつりと落ちた。私はショパンの「雨だれ」などを聴くのだった。そして煙草を吸うと、冷え冷えとした空気が煙といっしょに、口のなかにはいって行った。それがなぜともなしに物悲しかった。
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不意に後ろから声がかかった
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Xがベストだ
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一個人の百年は、ちやうど国家の一年位に当るものだ。それ故に、個人の短い了見を以て、余り国家の事を急ぎ立てるのはよくないよ。徳川幕府でも、もうとても駄目だと諦めてから、まだ十年も続いたではないか。
時に古今の差なく、国に東西の別はない、観じ来れば、人間は始終同じ事を繰り返して居るばかりだ。生麦、東禅寺、御殿山。これ等の事件は、皆維新前の蛮風だと云ふけれども、明治の代になつても、矢張り、湖南事件や、馬関騒動や、京城事変があつたではないか。今から古を見るのは、古から今を見るのと少しも変りはないサ。
此頃元勲とか何とか、自分でもえらがる人達に、かういふ歌を詠んで遣つたよ。
時ぞとて咲きいでそめしかへり咲
咲くと見しまにはやも散なん
あれ等に分るか知らん、自分で豪傑がるのは、実に見られないよ、おれ等はもう年が寄つた。
たをやめの玉手さしかへ一夜ねん
夢の中なる夢を見んとて
政治家も、理窟ばかり云ふやうになつては、いけない、徳川家康公は、理窟はいはなかつたが、それでも三百年続いたよ。それに、今の内閣は、僅か卅年の間に幾度代つたやら。
全体、今の大臣等は、維新の風雨に養成せられたなどと大きな事をいふけれども、実際剣光砲火の下を潜つて、死生の間に出入して、心胆を練り上げた人は少ない、だから一国の危機に処して惑はず、外交の難局に当つて恐れないといふほどの大人物がないのだ。先輩の尻馬に乗つて、そして先輩も及ばないほどの富貴栄華を極めて、独りで天狗になるとは恐れ入つた次第だ。先輩が命がけで成就した仕事を譲り受けて、やれ伯爵だとか、侯爵だとかいふ様な事では仕方がない。
世間の人には、もすこし大胆であつて貰ひたいものだ。政治家とか、何んとかいつても、実際骨のあるものは幾らもありはしない。大きく見積つても六百位のものサ。然るに、今の大臣などは、この六百人ばかりを相手にわい〳〵騒いで居るではないか。この弱虫のおれでさえ、昔は三百諸侯を相手に、角力を取つたこともある位だのにナ。
政治をするには、学問や智識は、二番めで、至誠奉公の精神が、一番肝腎だ。と云ふことは、屡〻話す通りであるが、旧幕時代でも、田沼といふ人は、世間では彼是いふけれども、矢張り人物サ。兎に角政治の方針が一定して居つたよ。この時分について、面白い話があるが、この頃、聖堂がひどく壊れて居たから、林大学頭から修理の事を申し出たが、その書面の中に、「文宣公の廟云々」といふことがあつた。すると右筆等は集まつて、文宣公とは、どんな神様であらうかと色々評議をしたけれども、時の智者を集めた右筆仲間で、文宣公を知つて居るものがなかつた。そこで、文宣公とは何処の神だ、と附箋をして書面を返却した。大学頭は直ぐに文宣公とは、唐土の仲尼の事だといつてやつたけれども、それでもまだ分らない。そこで大学頭もたまらず、仲尼とは、子曰はくの孔夫子の事だといつた。それで右筆もやうやく合点が行たといふことだ。
この話は旧平戸藩で明君と聞えた静山公が、儒者を集めて、種々の話をさせて、それを筆記した『甲子夜話』といふ随筆で見たが、なか〳〵面白い。全体その時分の真面目は正史よりも、却つてこんな飾り気のない随筆などで分るものだ。
この話は、実に面白いではないか、右筆といえば、今の秘書官だが、宰相の片腕ともなるべきこの右筆が、孔子の名さえ知らないといえば、その人の学問も大抵は知れる。之に較べると、今の秘書官などは、外国の語も二つや三つは読めるし、やれ法律とか、やれ経済とか、何一つとして知らないものはない。然るに、不思議のことは、孔子の名さえ知らない右筆を使つた時の政治より、万能膏の秘書官を使ふ時の政治が、格別優つても居ないといふ事だ。畢竟これも政治の根本たる、至誠奉公といふ精神の関係だらうよ。
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Xが私には良くあります
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一 先ず第一に現在の私がこの著述の訳者として適当なものであるかどうかを、私自身が疑っていることを申し上げます。時間が不規則になりやすい職業に従事しているので、この訳も朝夕僅かな暇を見ては、ちょいちょいやったのであり、殊に校正は多忙を極めている最中にやりました。もっと英語が出来、もっと翻訳が上手で、そして何よりも、もっと翻訳のみに費す時間を持つ人がいるに違いないと思うと、私は原著者と読者とに相済まぬような気がします。誤訳、誤植等、自分では気がつかなくても、定めし存在することでしょう。御叱正を乞います。
二 原著はマーガレット・ブルックス嬢へ、デディケートしてあります。まことに穏雅な、親切な、而もエフィシェントな老嬢で、老年のモース先生をこれ程よく理解していた人は、恐らく他に無かったでしょう。
三 Morse に最も近い仮名はモースであります。私自身はこの文中に於るが如く、モースといい、且つ書きますが、来朝当時はモールスとして知られており、今でもそう呼ぶ人がありますから、場合に応じて両方を使用しました。
四 人名、地名は出来るだけ調べましたが、どうしても判らぬ人名二、三には〔?〕としておきました。また当時の官職名は、別にさしつかえ無いと思うものは、当時の呼び名によらず、直訳しておきました。
五 翻訳中、( )は原著にある括弧、又はあまり長いセンテンスを判りやすくするためのもの。〔 〕は註釈用の括弧です。
六 揷絵は大体に於て原図より小さくなっています。従って実物大とか、二分の一とかしてあるのも、多少それより小さいことと御了解願い度いのです。
七 価格、ドル・セントは、日本に関する限り円・銭ですが、モース先生も断っておられますし、そのままドル・セントとしました。
八 下巻の巻尾にある索引、各頁の上の余白にある内容指示、上下両巻の巻頭にある色刷の口絵は省略しました。
九 先輩、友人に色々と教示を受けました。芳名は掲げませんが、厚く感謝しています。
一〇 原著は一九一七年十月、ホートン・ミフリンによって出版され、版権はモース先生自身のものになっています。先生御逝去後これは令嬢ラッセル・ロッブ夫人にうつりました。この翻訳はロッブ夫人の承諾を受けて行ったものです。私は先生自らが
Kin-ichi Ishikawa
With the affectionate regards of
Edw. S. Morse
Salem
June 3. 1921
と書いて贈って下さった本で、この翻訳をしました。自分自身が適当な訳者であるや否やを疑いつつ、敢てこの仕事を御引き受けしたのには、実にこのような、モース先生に対する思慕の念が一つの理由になっているのであります。
昭和四年 夏
訳者
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彼がイベントを今月の27日に企画します
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佐佐木君は剛才人、小島君は柔才人、兎に角どちらも才人です。僕はいつか佐佐木君と歩いていたら、佐佐木君が君に突き当った男へケンツクを食わせる勢を見、少からず驚嘆しました。実際その時の佐佐木君の勢は君と同姓の蒙古王の子孫かと思う位だったのです。小島君も江戸っ児ですから、啖呵を切ることはうまいようです。しかし小島君の喧嘩をする図などはどうも想像に浮びません。それから又どちらも勉強家です。佐佐木君は二三日前にこゝにいましたが、その間も何とか云うピランデロの芝居やサラア・ベルナアルのメモアの話などをし、大いに僕を啓発してくれました。小島君も和漢東西に通じた読書家です。これは小島君の小説よりも寧ろ小島君のお伽噺に看取出来ることゝ思います。最後にどちらも好い体で(これは僕が病中故、特にそう思うのかも知れず。)長命の相を具えています。いずれは御両人とも年をとると、佐佐木君は頤に髯をはやし、小島君は総入れ歯をし、「どうも当節の青年は」などと話し合うことだろうと思います。そんな事を考えると、不愉快に日を暮らしながらも、ちょっと明るい心もちになります。(湯河原にて)
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私は方言の専門的研究家ではないが、人一倍その魅力に惹きつけられる。十人十色といふ言葉は、人間の個性は個々に色別し得ることを指すに相違ないが、同一国語を使ふ同一国土の中で、地方々々に特有の言語的風貌といふものがあり、それぞれ、その地方に生れ、育ち、住む人々の気風を伝へることに於て、これくらゐ微妙で、正直なものはない。
人間といふものは、兎に角、面白いものだ。どんなに単純な性格だといつても、そこには、いろいろの影響が、二重三重に浸み込んでゐて、一見同じ型の気質のうちに、意外な陰翳の相違を発見し、またこれと逆に、どう見ても正反対だと思はれる人物の輪郭を通じて、どことなく共通の感じが迫つて来るやうな場合がある。
私は嘗て、さういふ見方から、紀州人といふ一文を書いたことがあるが、紀州に限らずあらゆる地方の方言が、性、年齢、教養、稟質、職業、身分等によつて調味されつつ、なほ厳然として、独特の「あるもの」を保ち、これが風土そのもののやうな印象によつて、人間固有の属性に、一抹の、しかも、甚だ鮮明な縁取りを加へてゐることは、なんと云つても見逃すことはできないのである。
例を世界の諸国、諸民族にとれば、なほ話が解り易いであらう。英語は英国民の、仏語は仏国民の、ロシア語はロシア人のと、それぞれ語られる言葉の色調が、直ちに、その民族の風尚気質を帯びてわれわれの耳に響いて来る。厳密に云へば、英国人の感情は、英語を通してでなければ表はし難く、仏国人の生活は、フランス語によらなければ描き出すことが困難なのである。
さう考へて来ると、ある地方の方言を耳にするといふことは、その地方の山水、料理、風習、女性美に接する如く、われわれの感覚と想像を刺激し、偶々その意味がわからなくても、なんとなく異国的な情趣と、一種素朴な雰囲気を楽しむことができる。
さて、私の方言讚は、比較の問題にはいらなければならぬが、それは略するとして、それなら、どういふ場合にでも、方言はかかる魅力を発揮するかといふ疑問について答へねばなるまい。
近頃東京では、殊に私の住む郊外の住宅地などでは、東京で生れたものなど数へるほどしかなく、自然、朝夕、附近の主婦たちが、声高に子供を叱り、ご用聞きに註文したりしてゐるのを聞くと、それは東京弁と凡そ隔りのある訛りとアクセントだ。が、さうかと云つて、それは私の知る限り、どこの方言でもないのである。どうかすると外国人ではないかと思ふほど、無味乾燥な日本語で、しかも本人は少しもそんなことは気にとめてゐない。標準語を話してゐるつもりなのであらう。ああ、悲しむべき標準語よと、私は、つくづく思ふことがある。この勢ひで進めば、われわれの周囲で、美しい日本語を聞くことはできなくなるとさへ断言し得る。
さうかと思ふと、また議会の壇上で、放送局のマイクロフォンを前にして、政治家、学者、官吏などが、やはり方言的抑揚をもつて、天下国家を、学問技芸を論じ、聴くものを危く失笑せしめることがある。子供などはほんとに笑ひころげるのである。さうかと思ふと、これは面白い例であるが、ある映画の説明者が東京で修業をして、郷里の常設館に職を得、嘗て使ひ慣れたその地方の方言を以て、思ひのまま熱弁を揮はうとしたところ、観客は一斉に笑ひこけ、馬鹿野郎の声さへそのうちに混つたといふ話を聞いた。この消息も私にはわからぬことはない。
結論を急げば、方言の魅力は、その地方に結びつく生活伝統、乃至個人の私的感情に裏づけられた談話的表現に於てのみ、その本来の面目を発揮し、事、公に亘る場合、わけても、「社会」一般に呼びかけるやうな問題の説述に当つては、その魅力が言葉の内容から遊離して、奇癖又は仮面の如く滑稽感を誘ふものである。これは、地方の方言のみがさうなのでなく、地方の人々が、標準語そのものと考へてゐる東京弁が、その方言性によつて、同様な結果を見せるのである。
文芸作品としては、阪中正夫君の『馬』だとか、私の『牛山ホテル』だとか、金子洋文君の『牝鶏』その他だとか、何れも、方言の魅力を様々な意味で利用したものであるが、井伏鱒二君に至つては、方言そのものの創作をさへ試みてゐると聞く。さう云へば、誠に文体の創造は、各作家の「個性的方言」の活用に外ならぬ。(一九三二・六)
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久々にラーメン屋でラーメンを食った
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Easy
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一
夜光命、十口坊、打揃ひて裸男を訪ひ、『鹽原温泉に遊ばずや』といふ。『鹽原は幾度も遊びたる處也。唯〻未だ鹽原の紅葉を見ず。紅葉の時節なら、否應は云はねど、今はその時節に非ず。又避暑の時節にも早し』と首打傾くれば、『我等兩人未だ鹽原を知らず。枉げて東道の主人となり給はずや』といふ。斯く押強く言ふ以上は、必ず懷が暖かなるべしとは思ひたれど、『例の軍用金』はと念を押せば、夜光命微笑して、『そは我れに成算あり』といふ。さらばとて、三人打揃うて、上野驛より汽車に乘る。裸男、二人に向ひ、『鹽原には七不思議あり。公等之を知れりや』と問へば、『知らず』といふ。曰く逆杉、曰く一夜竹、曰く冬蓼、曰く冬桃、曰く夫婦鳥、曰く片葉ノ蘆、曰く精進川、これ鹽原の所謂七不思議なり』と説明す。裸男更に語を改め、『この行にも七不思議が出來さう也。先づ夜光命が大金を懷にして、我等を旅に誘ふといふことは、これ迄に例の無きことにて、不思議に非ずや。これを新七不思議の第一と爲さむ』と云へば、二人笑つて頷く。
二
西那須野驛に下りて、大和屋に午食し、三里の那須野を輕便鐵道にて過ぐ。『前の左手に高きは高原山、鹽原はその右の方の山間に在り。右に高くして烟を吐けるは那須山、後ろに最も高きは八溝山、こゝは三島村、これは三島子爵の別邸、あれは三島神社、この櫻樹の多く連なるを見よ。當年の偉人三島通庸、那須野に新道を通じ、那須野を開墾し、其姓は村の名となり、神にさへ祀らる。あの岡が烏ヶ森、那須野を知らむとせば、是非とも烏ヶ森に上らざるべからず。烏ヶ森の彼方には、雲照律師を葬れる雲照寺あり。扨又あれは大山公の別莊、又あれは松方侯の別莊』と、裸男知つた振して、のべつに饒舌る。『乃木大將の別莊は何處ぞ』と、夜光命に問はれて、『それは知らず』と頭を掻く。
關谷にて輕便鐵道を下り、馬車や人力車を間却して、福渡戸まで凡そ二里の路を徒歩す。裸男相變らず、知つた振して説明す。『この脚下の清流が箒川、これが囘顧橋、この下方に大瀑あり。そら、こゝから囘顧して見給へ、大瀑見ゆ。囘顧して始めて見ゆる瀑なれば、囘顧橋と名づけたり。こゝは大網温泉なるが、紳士の湯治には適せず。この隧道は白雲洞。龍化瀑は、この右方の奧に在り。これは材木岩、あれは五色岩、この一と構へは御用邸、この一簇の人家が福渡戸温泉』と饒舌りながら歩きしに、和泉屋の人々出迎へ、『大和屋より電話かゝれり。いざこちらへ』とて、第一等の客室に請ず。蓬頭粗服の三人、旅に優待せられたる例しなきこととて、互に顏見合せて、これは〳〵と打驚く。『宮樣の止宿あらせらるゝ室なり』と、女中の説明を聞いて、益〻驚く。裸男二人に向ひ、『我等が宿屋に優待せらるゝといふことは、不思議に非ずや。これを新不思議の第二となさむ』と云へば、二人頷く。
三
一浴したるが、日暮るゝには、まだ程あり。出でて天狗巖の高きを賞め、蒲生氏郷が野立したりと傅ふる野立石の大なるを賞め、三島通庸の碑を見、高尾の碑を見、七ツ岩を見て、それより引返して杯を擧ぐ。十口坊、先日風呂屋にて卒倒したりとて、一滴も口にせず。矢張り人並に命が惜しきものと見えたり。裸男二人に向ひ、『十口坊が酒飮まぬといふことは、これまでに例の無きこと也。これを新七不思議の第三となさむ』と云へば、二人頷く。裸男口吟して曰く、
名にし負ふ箒川べにゆあみして
こゝろの塵も拂はれにけり
『箒の縁語にて、塵を拂ふと云ひたるは、氣が利きたるやうにて幼穉なり』と、夜光命冷かす。裸男さらばとて、
醉倚欄干意氣豪。奔流噴雪萬雷號。一聲杜宇不知處。天狗巖頭北斗高。
『調子古し。萬雷と云ひ、杜宇と云ひ、聲が多過ぎる』と、夜光命また冷かす。裸男、さらば又と氣張りしが、一句も浮かばずして、そのまゝ眠る。
四
明くれば、雨の降りさうな天氣也。雨具を用意して出で、箒川の左岸を上る。鹽釜を過ぎて、畑下戸温泉を路の左右に見る。『當年「金色夜叉」を草せし尾崎紅葉の宿りしは、こゝの温泉なり』と、裸男例の知つた風の事をいふ。門前温泉を通り蓬莱橋を渡りて箒川と別れ、古町温泉を經て、行くこと凡そ十町、左折して八幡宮に詣づ。祠前に偉大なる杉二本相接して立つ。一はやゝ大にして、一はやゝ小也。大なる方を測りしに、凡そ五抱へありき。『見よ、枝みな下垂す。依つて逆杉と稱す。即ち鹽原七不思議の一なり』と、裸男説明すれば、『これは別に何も不思議には非ず。我等の新七不思議の方が、ずつと不思議なり』と十口坊いふ。しばし休息して引返す。『おい〳〵十口坊、新七不思議とは云ふものの、まだやつと三つだけに非ずや』と云ふ折しも、十口坊は手に持ちたる蝙蝠傘をぱツと開きて、さしかざす。蝙蝠傘をさしたればとて、何も不思議は無けれど、色黒々と鬼を欺く十口坊、南海苦熱の濱に長じて、上京するまでは帽子を被りたることも無き荒男、平生蝙蝠傘などさしたることなし。さゝぬといふよりも、持たぬといふ方が當れるかも知れず。その平生を知れる我等より見れば、所持するといふことが、既に不思議也。さまで暑くもなきに、之をさすに至つては、益〻不思議ならずんばあらず。之を新七不思議の第四となさむ。
五
源三窟に立寄る。窟の案内を乞へば、白衣と著替へさせて後、導者蝋燭を點じて、先に立ちてゆく。地、呀然として口を開き、洞は横に通ず。入口は高さ一丈六尺、幅二丈八尺と稱するが、少し進めば、狹くして、竝行する能はず。直立することも出來ざる處あり。誤つて頭を天井に打付けて、痛や〳〵。のそり〳〵行くこと數十間、行きつまりて引返す。鐘乳石の洞にて、洞内の天井と左右とは、種々さま〴〵の奇形を成す。傳ふる所に據れば、源三位頼政の嫡孫、伊豆冠者有綱、逃れてこの地に來り、鹽原家忠に依りけるが、鎌倉勢に押寄せられ、敗れてこの窟に隱れて身を全うしたりとの事也。又傅ふる所に據れば、洞の長さ八町、最奧に有綱の祠あり、いろ〳〵の武具もありたるが、萬治年間、地震の爲に、洞の内崩れて、數十間よりさきは塞がれりとの事也。
午食は、鹽の湯温泉と定めて、門前に來たる。裸男左の方を指して夜光命に向ひ、『この奧に妙雲寺あり。平重盛の姨なる妙雲尼、この地に來り潜みて、この寺を開けり。其墓もあり。本尊釋迦如來は、西天竺毘首羯摩の作、本朝三釋迦の一、重盛の歸依せしものにて、妙雲のはる〴〵攜へ來れる所に係る。寺にはまた高尾の襠裲の殘片と稱するものをも藏す。如何にや、案内申さむか』と云へば、『腹減りたり。早く午食にありつきたし』といふ。考古癖の夜光命が妙雲寺を間却せるは、不思議に非ずや。之を新七不思議の第五となさむ。
六
鹽釜まで戻り、鹽涌橋を渡りて、鹿股川を遡る。この橋より鹽の湯までの新道を『お兼道』と稱す。お兼といふ女の開ける所也。お兼はこの土地の産にして、氏家の豪家に嫁せり。殖産の才ありて財産をふやし、慈悲の心に富みて、數百の婢僕を子の如くにいたはれり。名詮自性、お兼は殖産の才と慈悲の心とを兼ねたり。この點のみにても珍とすべきに、死に臨み、遺言して、金五千圓を投じて、この新道を開かしめたり。當年知事たりし三島通庸は、山形縣に、福島縣に、栃木縣に、到る處新道を開けり。鹽原の新道をも開けり。その功や大也。されど官の事業也。お兼の開きしは、ほんの十町内外の路なれども、一女子の私財を以てせり。五千圓は多額とせざれども、一私人の寄附とすれば、少額には非ず。道を開くことを遺言したるは、世にも尊き心根に非ずや。鹽原は名妓高尾を出したるを以て有名なるが、今お兼の出でて、鹽原に光彩を添へたり。お兼の碑出來て、鹽原に新しき名所を加へたる也。
鹽の湯に至り、明賀屋に投ずれば、『和泉屋より電話かゝり居れり』とて、こゝにても第一等の客室に通さる。長廊を下りて浴場に行く。湯槽直ちに溪流に接す。自然の巖穴がそのまゝ湯槽になれるものあり。兩岸の絶壁數百仭、溪流屈曲せるを以て、前後左右みな絶壁、樹木鬱蒼たり。仰げば唯〻數十間四方の天を見る。眞にこれ洞中の別天地也。浴し終りて、酒し、飯す。番頭氣を利かして枕を持ち來たる。裸男二人に向ひ、『君等は午睡し給へ。余は一寸雄飛瀑まで散歩して來む』と云へば、十口坊、『我も行かむ』といふ。夜光命も、『我も』とて出で立つ。
鹿股川は箒川の水量を二分す。溪深く、山幽に、雄飛瀑を始めとし、咆哮、霹靂、雷霆、素練、萬五郎等の諸瀑あり。鹽原の山中にて、最も深山幽谷の趣をきはむ。殊に雄飛瀑の瀧壺の雄偉なることは、鹽原の諸瀑に冠たりなど、裸男説明しつゝ行く。思ひしよりも遠きに、夜光命も十口坊も口をそろへて、『まだか〳〵』と問ふ。棧道落ちて一二間ばかり路なし。痩せたる裸男、懸崖にすがりて、つる〳〵と行く。夜光命も過ぐ。肥れる十口坊は躊躇せしが、さすがに日本男兒也。思ひ切つて、蝸牛の這ふやうにして、漸く過ぐ。それより四五町行きしが、裸男以爲へらく、『雄飛瀑まで行きては、歸路必ず日暮るべし。日暮れては、この路危險なり』とて引返す。二人覺えず喜聲を發す。裸男曰く、『われ旅行を始めてより、幾んど三十年、目ざしたる處に達せずして止みたることなし。今日中途にして歸るは、不思議に非ずや。之を新七不思議の第六と爲さむ。』
七
途にして和泉屋の番頭の來り迎ふるに逢ひ、一寸明賀屋に立寄りて、歸途に就く。鹽涌橋より二町ばかり手前にて、左折して親抱松を見る。枝曲りて幹を擁するを以て、この名あり。品川彌次郎の歌に曰く、
親抱の松に昔の忍ばれて
思はずしぼる旅衣かな
彌次郎のみならむや。夜光命も、裸男も、衣をしぼらざるを得ざる身也。十口坊は兩親在り。まだ〳〵衣をしぼる心もなかるべし。
和泉屋に二泊しぬ。裸男今日は東京に戻らざるべからず。夜光命は、金あるまゝに、悠然尻を据ゑ、『四五日湯浴せむ』といふ。十口坊も之と共にす。これ二人には、例のなきこと也。不思議にはあらねど、假りに之を新七不思議の第七となさむ。眞の不思議は、裸男去りたる後にてや起るらむ。
番頭を先に立てて、二人送り來たる。白雲洞を過ぎ、左折して龍化瀑を見る。日光の華嚴瀑を十分一も小にしたるやうな瀑なり。こゝにて番頭の攜へし麥酒を一同の口に分てり。なほ送り來り、共に大網の湯壺を見て、こゝに始めて手を分つ。囘顧橋のあたりにて、杜宇の一聲を聞く。夜光命も十口坊も杜宇を聞きたることなし。『一度は聞いて見たきものなり』と言ひ居りしことを思ひ出して、覺えず振向けば、また一聲鳴きぬ。(大正五年)
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其一
夢見まほしやと思ふ時、あやにくに夢の無き事あり、夢なかれと思ふ時、うとましき夢のもつれ入ることあり。寤むる時、亦た斯の如し、意はざらんと思ふに意ひ、意はんと思ふに意はず。左りとて意の如くならぬをば意の如くせまじと思ふにもあらず、静に傾き尽きなんとする月を見れば、よろづ意の儘にならぬものぞなき、徐ろに咲き出らん花を待つに、よろづ心に任せぬものぞなき。如意却つて不如意。不如意却つて如意。悲しむも何かせむ。歓ぶも何かせむ。「無心」を傭ひ来つて、悲みをも、歓びをも、同じ意界に放ちやりてこそ、まことの楽は来るなれ。
其二
早暁臥床を出でゝ、心は寤寐の間に醒め、意ひは意無意の際にある時、一鳥の弄声を聴けば、忽として我れ天涯に遊び、忽として我塵界に落るの感あり。我に返りて後其声を味へば、凡常の野雀のみ、然るも我が得たる幽趣は地に就けるものならず。爰に於て私に思ふは、感応は我を主として、他を主とせざるを。
其三
人間の心中に大文章あり、筆を把り机に対する時に於てよりも、静黙冥坐する時に於て、燦爛たる光妙ある事多し。心中の文章より心外の文章を綴るは善し、心外の文章を以て心中の文章を装はんとするは、文字の賊なるべし。古へより卓犖不覊の士、往々にして文章を事とするを喜ばず、文字の賊とならんより心中の文章に甘んじたればならむ。
其四
身心を放ちて冥然として天造に任ぜんか、身心を収めて凝然として寂定に帰せんか、或は猖狂、或は枯寂、猖狂は猖狂の苦味あり、枯寂は枯寂の悲蓼あり、魚躍り鳶舞ふを見れば聊か心を無心の境に駆ることを得、雨そぼち風吹きさそふにあひては、忽ち現身の心に還る、自然は我を弄するに似て弄せざるを感得すれば、虚も無く実もなし。
其五
世にありがたき至宝は涙なるべし。涙なくては情もなかるらむ。涙なくては誠もなかるらむ。狂ひに狂ひしバイロンには涙も細繩ほどの役にも立ざりしなるべけれど、世間おほかたのものを繋ぎ止むるはこの宝なるべし。遠く行く情人の足を蹈み止まらすもの、猛く勇む雄士の心を弱くするもの、情差ひ歓薄らぎたる間柄を緊め固うするもの、涙の外には求めがたし。人世涙あるは原頭に水あるが如し。世間もし涙を神聖に守るの技に長けたる人を挙げて主宰とすることあらば、甚く悲しきことは跡を絶つに幾からんか。
其六
「麤く斫られたる石にも神の定めたる運あり。」とは沙翁の悟道なり。静かに物象を観ずれば、物として定運なきにあらず。誰か恨むべき神を知りそめたる。誰か喞つべき仏を識りそめたる。心を物外に抽かんとするは未だし、物外、物内、何すれぞ悟達の別を画かむ。運命に黙従し、神意に一任して、始めて真悟の域に達せんか。
其七
孤雲野鶴を見て別天地に逍遙するは詩人の至快なり。然れども苦海塵境を脱離して一身を挺出せんとするは、人間の道にあらず。苦海塵境に清涼の気を輸び入るゝにあらざれば、詩人は一の天職を帯びざる放蕩漢にして終らんのみ。
其八
他を議せんとする時、尤も多く己れの非を悟る。頃者、激する所ありて、生来甚だ好まざる駁撃の文を草す。草し終りて静に内省するに、人を難ずるの筆は同じく己れを難ぜんとするに似たり。是非曲直軽しく判し難し。如かず、修練鍛磨して叨りに他人の非を測らざることをつとむるに。
其九
大なる「悔改」は、又た一個の大信仰なり。罪の罪たるを知らざるより大なる罪はなし、とはカーライルに聞くところなり、昨日の非を知りて明日の是を期するは、信仰に入るの要緘にして、罪人の必らず自殺すべしとせざるは之をもてなり。罪の重荷は忘れざるによつて忘るゝを得べし、忘れたる重荷はいつまでも重荷なり。悔改の生涯は即ち信仰の生涯なるか。
(明治二十六年二月)
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わが国に於ける新劇不振の原因が、俳優に未だその人を得ない所にあるといふ私の意見は、たまたま劇壇一部の批難を生んだやうであるが、これはたしかに、解釈の仕方によつては、不都合な言辞として受け取られるであらう。
しかし、その事実は、私の筆を以てどう曲げることもできない。
今日まで新劇のために力を尽して来た人々の功績は、無論世間と共にこれを認めるつもりであるが、新劇をして今日の情勢に立ち至らしめた罪――罪と云つて悪ければ、その責任は、やはり、それらの人々が負ふべきであり、新劇の舞台にこれといふ人材を送り出すことができなかつた一事はなんと云つても、どこかにその原因がひそんでゐるのである。
誰が悪いといふのではない。さうであることが悪いのである。
今日まで新劇に志した俳優のうちで、相当才能に富んだ人々があつたに違ひない。それらの人々は、何故に自分達の進むべき道をはつきり教へられなかつたか。何故にあるものは、新劇の舞台から遠ざかつたか。何故にあるものは、自分自身をごまかして来たか。それらの人々の熱意が足らないのか。それもあるだらう。しかし、第一に私は、彼等が「進歩」しなかつたからだと思ふ。なぜ進歩しないか。彼等はあまりに「人形」でありすぎたからである。彼等は、あまりに「舞台監督の傀儡」であり、「脚本の奴隷」であることに甘んじてゐたからである。そして、驚くべきことには、その上なほ「成功の鍵」を、あまりにも、「流行」脚本の中に求めすぎてゐたからである。一言にして云へば、彼等は、あまりに「他に頼り」すぎてゐたのである。
自ら恃むところがない俳優たちによつて、形造られてゐる舞台こそ惨めである。――新劇運動は、結局一歩進む前に二歩退いてゐたのである。
かういふ事実は、今日までの新劇俳優が最も恵まれない時代に生れた証拠であつて、自己の才能を伸ばすために必要な場所と機会とを得るのに、如何に困難であつたかを物語るものである。
度々述べる如く、俳優養成の事業は、優れた俳優のみがよくこれに当ることを得るものであるが、今日は既に、俳優自身が、自分の進むべき道を開拓し得る時代だと云つていい。なぜなら、これからの新劇は、やうやく、所謂、演劇学者らの手から脱却して、自由に、舞台的生命を創造する機運に向つてゐるから。即ち、理論の時代を過ぎて、実行の時代に遷りつつあるのである。そして、今日、新劇の指導者らは独断的なプリンシプルによつて俳優の演技を束縛することが不可能になつてをり、俳優養成に名を藉りて、偏狭なある一つの型を作り上げることを許されない筈である。少くとも、さういふ態度は、芸術的に失敗を意味するやうになつてゐる。
ここで、俳優養成の仕事は、同時に、舞台上の人材発見の仕事と結び付かなくてはならない。「伸び得るものを、その伸び得る方向に伸ばす」ことこそ、今日、新劇の指導者を以て任ずるものの取るべき態度であらう。この仕事は、恐らく、短期間にその成果を収め得られないかもわからない。しかし、さういふ仕事を絶えず続けて行くものがあつてもいい。
新劇協会は、興行的に如何なる失敗を重ねても、「ある俳優をして、その進むべき道を見出さしめる」機会を成るべく多く与へることで満足しなくてはならない。この意味で、新劇協会の舞台は、凡ゆる前途ある俳優の道場であり、展覧会であり、登竜門である。
新劇協会はまた、若干の俳優志望者に舞台的教育を授けつつあるのであるが、これまた所謂教育の効果を過信して、徒らに若き人々の前途を誤らせることはしないつもりである。故にこの制度は、寧ろ、人材発見の一手段と見る方が適切である。
俳優を志して修業の道に迷ひ、自己の素質に疑ひをもちながら、猶ほ且つ舞台的野心を捨てることのできない人々――さういふ人々は、適当な機会に、われわれの研究所を訪れて欲しい。諸君は、遅くも六ヶ月の後に、自分の進むべき道を見極めるか、然らずんば、進むべからざる道を知り得るだらう。われわれの諸君に与へ得る回答が、諸君の耳に如何に響くか、それは諸君の耳次第である。
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往生せいや!
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人から受けた印象と云うことに就いて先ず思い出すのは、幼い時分の軟らかな目に刻み付けられた様々な人々である。
年を取ってからはそれが少い。あってもそれは少年時代の憧れ易い目に、些っと見た何の関係もない姿が永久その記憶から離れないと云うような、単純なものではなく、忘れ得ない人々となるまでに、いろいろ複雑した動機なり、原因なりがある。
この点から見ると、私は少年時代の目を、純一無雑な、極く軟らかなものであると思う。どんな些っとした物を見ても、その印象が長く記憶に止まっている。大人となった人の目は、もう乾からびて、殻が出来ている。余程強い刺撃を持ったものでないと、記憶に止まらない。
私は、その幼い時分から、今でも忘れることの出来ない一人の女のことを話して見よう。
何処へ行く時であったか、それは知らない。私は、母に連れられて船に乗っていたことを覚えている。その時は何と云うものか知らなかった。今考えて見ると船だ。汽車ではない、確かに船であった。
それは、私の五つぐらいの時と思う。未だ母の柔らかな乳房を指で摘み摘みしていたように覚えている。幼い時の記憶だから、その外のことはハッキリしないけれども、何でも、秋の薄日の光りが、白く水の上にチラチラ動いていたように思う。
その水が、川であったか、海であったか、また、湖であったか、私は、今それをここでハッキリ云うことが出来ない。兎に角、水の上であった。
私の傍には沢山の人々が居た。その人々を相手に、母はさまざまのことを喋っていた。私は、母の膝に抱かれていたが、母の唇が動くのを、物珍らしそうに凝っと見ていた。その時、私は、母の乳房を右の指にて摘んで、ちょうど、子供が耳に珍らしい何事かを聞いた時、目に珍らしい何事かを見た時、今迄貪っていた母の乳房を離して、その澄んだ瞳を上げて、それが何物であるかを究めようとする時のような様子をしていたように思う。
その人々の中に、一人の年の若い美しい女の居たことを、私はその時偶と見出した。そして、珍らしいものを求める私の心は、その、自分の目に見慣れない女の姿を、照れたり、含恥んだりする心がなく、正直に見詰めた。
女は、その時は分らなかったけれども、今思ってみると、十七ぐらいであったと思う。如何にも色の白かったこと、眉が三日月形に細く整って、二重瞼の目が如何にも涼しい、面長な、鼻の高い、瓜実顔であったことを覚えている。
今、思い出して見ても、確かに美人であったと信ずる。
着物は派手な友禅縮緬を着ていた。その時の記憶では、十七ぐらいと覚えているが、十七にもなって、そんな着物を着もすまいから、或は十二三、せいぜい四五であったかも知れぬ。
兎に角、その縮緬の派手な友禅が、その時の私の目に何とも言えぬ美しい印象を与えた。秋の日の弱い光りが、その模様の上を陽炎のようにゆらゆら動いていたと思う。
美人ではあったが、その女は淋しい顔立ちであった。何所か沈んでいるように見えた。人々が賑やかに笑ったり、話したりしているのに、その女のみ一人除け者のようになって、隅の方に坐って、外の人の話に耳を傾けるでもなく、何を思っているのか、水の上を見たり、空を見たりしていた。
私は、その様を見ると、何とも言えず気の毒なような気がした。どうして外の人々はあの女ばかりを除け者にしているのか、それが分らなかった。誰かその女の話相手になって遣れば好いと思っていた。
私は、母の膝を下りると、その女の前に行って立った。そして、女が何とか云ってくれるだろうと待っていた。
けれども、女は何とも言わなかった。却ってその傍に居た婆さんが、私の頭を撫でたり、抱いたりしてくれた。私は、ひどくむずがって泣き出した。そして、直ぐに母の膝に帰った。
母の膝に帰っても、その女の方を気にしては、能く見返り見返りした。女は、相変らず、沈み切った顔をして、あてもなく目を動かしていた。しみじみ淋しい顔であった。
それから、私は眠って了ったのか、どうなったのか何の記憶もない。
私は、その記憶を長い間思い出すことが出来なかった。十二三の時分、同じような秋の夕暮、外口の所で、外の子供と一緒に遊んでいると、偶と遠い昔に見た夢のような、その時の記憶を喚び起した。
私は、その時、その光景や、女の姿など、ハッキリとした記憶をまざまざと目に浮べて見ながら、それが本当にあったことか、また、生れぬ先にでも見たことか、或は幼い時分に見た夢を、何かの拍子に偶と思い出したのか、どうにも判断が付かなかった。今でも矢張り分らない。或は夢かも知れぬ。けれども、私は実際に見たような気がしている。その場の光景でも、その女の姿でも、実際に見た記憶のように、ハッキリと今でも目に見えるから本当だと思っている。
夢に見たのか、生れぬ前に見たのか、或は本当に見たのか、若し、人間に前世の約束と云うようなことがあり、仏説などに云う深い因縁があるものなれば、私は、その女と切るに切り難い何等かの因縁の下に生れて来たような気がする。
それで、道を歩いていても、偶と私の記憶に残ったそう云う姿、そう云う顔立ちの女を見ると、若しや、と思って胸を躍らすことがある。
若し、その女を本当に私が見たものとすれば、私は十年後か、二十年後か、それは分らないけれども、兎に角その女にもう一度、何所かで会うような気がしている。確かに会えると信じている。
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Medium
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はやいもので、芥川比呂志との交友もそろそろ十五年になる。初めて逢つたのは慶應の豫科の頃だつたが、その頃彼は蒼白い顏をして詩を書いてゐた。中々いい詩で、今だに頭に殘つてゐるのもある。詩語の選擇が極めて綿密で、ヴィジオンも鮮かだつたし、何か非凡な洗練味があつた。アポリネェルやヴァレリィの詩の飜譯もうまいと思つた。それから間もなく紹介されて逢つた時、ペシミスチックな風貌をした痩身の彼が、演劇に對する抱負を語り、更に實踐の情熱を僕に訴へたのには少からず驚いた。實際、當時の彼には芝居の烈しい勞働などとても耐へられさうになかつたからである。さう言ふ弱々しい印象を受けた。當時、芝居の方では學生演劇などで僕の方が一足先に多少經驗濟みだつたが、遊び半分の英語劇などでは滿足出來ない程氣持だけは深入りしてゐたので、早速彼と一緒に小さなグループを作つて本腰に芝居の勉強を始めたわけである。
今でもさうだが、彼は何をするにも、綿密且つ愼重を極めた。さう言ふ態度にはその頃から僕は敬服してゐた。詩を書く場合なども、十數行の詩篇に一週間も二週間もかけて愼重に推敲する性質だつたから、芝居の演出にも異常な偏執を示し、ひとつの芝居に半年以上も專心したりした。芝居を始めて、彼は當然詩を書くことは止めてしまつた。まるで、人間が變つたやうになつた。風貌なども芝居をやるやうになつてから隨分變化して、初對面の頃の面影などまるでなくなつてしまつた。そのうちに、引込み思案の僕の方が彼にひつぱられるやうな形になつてしまつたことは言ふまでもない。
僕が芝居に誘はなかつたら、今頃は彼は一流の詩人になつてゐたかも知れない。そんなことを不圖考へると、僕は今でも時々彼に對して何か惡いことでもしたやうな氣持になることがある。それ程、彼は唯ひたすらに、餘りにも立ち初めた道に忠實なのである。
以來、現在に至るまで、僕も彼とは隨分深刻な仲違ひもしたが、この交友はどうも死ぬまで切れさうにない。戰後一年經つても全然消息不明だつた僕が、突然南海の僻地からひよつこり歸つて來た時、眞先に驅けつけて呉れた彼は僕の顏をみるなりぽろぽろ涙を流して、壁につつ伏して聲をあげて泣いた。今でも喧嘩をすると直ぐそれを思ひ出す。
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書相は、よくその人の価値を表現する。端的にいって、いかにしたら書相によって人の価値を見分けるか?
人品良き者は品良き書を、下品なる者は下等なる書を、強き個性を有する者は、強靭なる書を、個性軟弱なる者は、その線極めて脆弱にて、筆力剛健ではない。胆力備わった者は、自ずから天衣無縫といった大型の筆跡を残すことは、幾多の歴史的事実が示すところである。また、心小にして胆大なる者は、余すところなく用意周到、かつ、強靭な書相を示している。
世に俗物として遇せられ、俗悪なる趣味に生きる者がある。明治以降にその俗書を求める時、俗悪とはいわないまでも西郷隆盛の如きは、優雅なる書とは認め難い。ほぼ似たような筆跡ではあるが、山岡鉄舟の書は俗悪に数えられる。頭山満もスケールは堂々たるものであるが、俗悪の部類であって、その譏りは免れまい。
大人物なるが如くして、決して大人物にあらざることを書相に表わしおるものは、西園寺公であり、岩倉公である。西園寺は風流優雅を特色とするが、岩倉には優雅も風流も認められない。西園寺公は一先ず良書であり、能書であるが、スケールは小さい。大胆とか放胆とかいう偉なるものはない。この点、副島種臣に如く者は他に一人もない。徳川期にもその跡なしといい切れるであろう。芸術的であり、美術的であり、自ずからなる品位が備わっている。副島伯に学んだ如き者に中林梧竹があるが、これは単なる書家と称する職業人であって、偉大なる人物という内容を持たない一種の芸能人であって、共に論ずべきものではない。われわれが常々蔑視するものに、書能を職業とする書家というものがあって、それの仲間である。すなわち、内容に欠けているために、その価値は問題にならないのである。
昔は苟も政治を論ずるほどの者は、いずれも書道に関心をもち、その多数は書をよくし、書の拙劣をもって深く恥ずるところがあった。しかるに、現今は世の推移と共に、その趣きは全く地を払い、一流人と雖も書をもって名を成す者は、彼の中国に皆目観るを得ず、日本においても書道を等閑に付するの風潮があり、真に慨歎に堪えざるところ、たまたま元の総理吉田茂氏あって、聊か意を強くするものがある。近作としては緒方竹虎氏の墓の如きを良しとなす。現今何人といえども、これに匹敵する書を見ず。あるいは政治家中最後の一人たるやも知れず、現今の政治家で、かかる人の存するは吾人すこぶる意を強くする次第なり。
一流人物の書はともかく精彩があって生きている。二流人物となると、半死半生である。三流人物すべてに取る所はなく、最早問題にはならない。これをもってしても、書は人物次第であり、人物が出来ていなくては注目に価する書にはならない。
(昭和三十二年)
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文学に於ける大衆性といふ問題が云々される今日、私は私で、一つの意見をもつてゐないでもないが、直接その問題に対する興味からでなく、いはば現代に於けるわが演劇壇の危機に直面して、その道の人達が誰でも考へてゐる空漠とした打開策の上に、私一個の理論を打ち樹ててみようと思ふのである。
そこで先づ、「大衆性」といふ言葉の意味と、その価値について云つてみれば、この新らしい熟語は、既に両極端の相反する概念を生じてゐることがわかる。即ち政治的には、大衆万能時代のことであるから、十分、尊重の精神が含まれ、知識的には、表面は兎も角、一般教養の低さを示す意味で、まだまだ、幾分の軽蔑がまじつてゐる。ところで、さういふ大衆といふものの本体が、それを口にする人々の立場によつて、必ずしも一定しないといふ事実を見落してはならないので、例へば、社会的支配者の地位にあるものが、文化的にみれば、所謂大衆の末席に連つてゐるにすぎないことがある。
最近、フェレロといふ人が書いてゐる通り、一民族の支配者等は、「権力」を護ると同時に「影響」を与へるといふことが通例であるのに、今日の亜米利加は、支配者が逆に被支配者の影響を受けなければならぬ状態で、これが、現代亜米利加文明の弱点である。この事実は日本にもそのまま当嵌るので、教へるつもりの相手から逆に、教へられなければならぬといふやうな現象が、今日、到るところ、ざらに見られるのである。
演劇にしてもさうである。当事者の方では、近頃の見物は芝居がわからぬから、ちやんとしたものを観せても客が来ないのだと思つてゐると、豈計らんや、劇場に行かない人々のうちに、却つて、当事者よりも芝居のわかる人が沢山ゐて、そんなものをやつてゐるから見に行かないのだと、蔭で嗤つてゐるのである。
結局、大衆といふものは得体の知れぬものとして、さて、芸術の方面からいへば、大衆とは、結局、これを鑑賞する相手全体を指す以外に意味はなく、若し仮に、芸術の鑑賞能力といふ点で、その低きものを意味するのであつたら、これは、大衆でなく、俗衆であり、極端にいへば、芸術とは無縁の衆生である。
強ひて、芸術の「大衆性」なる言葉を翻訳すれば、これは、正しく、古来より使ひ慣らされた「普遍性」といふ一語に尽きるので、これならば、何も議論をする余地はなくなると思ふ。
「大衆性」といふ言葉に、「広さ」以外何か、「低さ」の感じをもたせることが、今日、演劇の前途を暗くしてゐるのである。その最も著るしい例は、「低く」さへあれば、「狭く」てもいいといふ認識不足が生れ、「狭い」ために多数の興味を惹かないことに気づかず、これでもまだ「高すぎる」のだと早合点をしてゐる向きがないでもない。
現在の劇場で、見物が黙つてゐても見に来るといふのは、恐らく、一二の例外を除いては、全く考へられないことであらう。その原因は、何よりも、「狭さ」と「低さ」とにあるのである。仮に、大衆なるものがあるとしても、それは、演劇に今日の「愚劣さ」を望んでゐるのではなく、ただ、より「自分に近いもの」を望んでゐるだけだ。
一方、新劇団と称する半職業団体は、さすがに、その伝統から、「低きもの」への限度をそれぞれに心得てゐるやうであるが、それでも、生活の必要に迫られて、「面白い」といふ別な云ひ廻しで、そろそろ、「大衆」に秋波を送りはじめてゐるが、これまた、「面白い」芝居とは、「調子をおろした」芝居だと勘違ひをし、或は賑やかな、或は凄まじい舞台を作り出すことにのみ汲々として、少しも「間口を拡げ」ることに気がつかない。依然として、「特殊な」人間の、「特殊な」興味にしか愬へないやうな色調を固執してゐる。
「狭い」といふのは、決して、「文学的」すぎることだけではない。脚本でいへば、描かれた世界についても云へるし、それを描く作者の態度にも、それに含まれる思想の偏向、それに用ひられてゐる文体の種類、それら、さまざまの要素についてである。また、演出の方法、即ち、演出家の独りよがり、気まぐれな試み、無意味な野心などは、演劇の「広さ」をわざわざ「狭く」するものである。俳優については、殊に、未熟、自信のなさ、鈍感さ、横着などは別として、そのマンネリズムが第一、芝居を「狭く」する。蓼食ふ虫もすきずきといふ域に達したら、本人はそれでも満足であらうが、決して、多くの人を悦ばす所以ではない。マンネリズムは、勿論、一種の臭味である。芸の臭味は、同時に、芝居の臭味である。さうなる頃には、その俳優は、もう、趣味の上にも、生活それ自身の上にも、知らず識らず、変な臭ひがついてゐて、これがまた、「大衆」の顔を背けさせるのである。
「誰にでも魅力のある俳優」とは、畢竟、俳優臭くない俳優で、最も人間的品位とあらゆる「美」に対する感受性を備へた俳優でなければならない。
かう考へて来ると、現在の演劇で、正しい意味の「普遍性」をもつた演劇といふものがどこにあるだらう。善きにしろ悪しきにしろ、何れも、「特殊演劇」ばかりである。これで、まだ、その「特殊さ」がまちまちででもあれば、「大衆」は、それぞれ好むところに従つて、その足を向けるだらうが、その「特殊さ」が、不思議に、大同小異である。
「エノケン」の人気は、或は一時的であるかもわからぬが、これは、必ずしも「大衆」の求めてゐたもののすべてではなくて、ただ、これまでの芝居と、「半同半異」の程度に、その「特殊さ」を独立させたことが原因である。どの部分が異なつてゐるかといへば、第一に、「型」のないこと、第二に、「現代の空気」らしきものを吹き込んだこと、第三に、「頓智」の要素を少々交へてゐること、などである。
従つて、それだけ「間口が広く」なつた。あの「与太つぷり」は、一見、この一座の武器のやうであるが、私はさうは思はない。俳優の芸が進歩すれば、あれは不必要になるだらう。あれだけの機智が芸の中に現はれれば、それで見物は満足するのである。但し、さうなれば、今日の客が半分減ることは確かだ。その代り、それを填め合せる同数の新しい客を吸収できることも保証しておかう。
半同半異と云つた、その「半同」とはどういふ意味か。それは、第一に、ほかの芝居と同様、まだ、「芝居でないもの」を芝居らしく見せかけてゐるところだ。第二に、だんだん「低い」ところばかりを狙ふ傾向があることだ。第三に、労働時間の多すぎることだ。第四に……まあ、これくらゐにしておかう。
要するに、「大衆性」といふものは、少くとも演劇に於いては、決して「卑俗性」と同一に見做すべきものでなく、「大衆」が演劇に求めるものは、常に、演劇の純粋性であつて、しかも、その純粋性が、彼等の口に合ふやうに調味されてゐればいいのである。
元来、演劇といふものは、それ自身、最も「普遍的」性質をもつた芸術であるから、いはば、誰にでも「わかる」ものなので、たまたま、「高踏的」と称せられるやうな脚本でも、俳優の演じ方次第では、ある種の魅力によつて、その「脚本」のわからないものにでも、相当、面白く見せられるといふやうな場合がある。勿論、善い脚本と悪い脚本、面白い戯曲と面白くない戯曲といふものはあるにはあるが、結局のところ、演劇全体の価値からいへば、それも、俳優を活かし得たか否かによつて決するものとみて差支へないのである。
そこで、文学としての戯曲の大衆性といふことが最後の問題として残るのであるが、これは、前にも述べた通り、取材の範囲、思想的内容とその盛り方、文体の難易等いろいろの条件があるとしても、もともと、戯曲は、小説などと比較して、観念の密度及び深さが興味の対象ではないから、一定の速度を以て推移し得るやう、作者が誘導的な叙述を用ひてゐる。解つた上で快感を味ふのは小説であるが、先づ快感を与へ、それに従つて解らせて行くといふ方法が用意されてゐる。且、戯曲はまた、小説と違ひ、常に、演説の如く、一個の群集に呼びかけ、若くは、詩の如く、無数の群集を動かすやうに書かれてある(アランの散文論による)。それゆゑ、総ての人によつて認められた原理(常識とまでは行かなくても)を先づ持ち出さなければならない。これだけでも、戯曲文学が、普遍的でなければならない証拠になるであらう。してみると、あとは、興味の持ち方、即ち、快感の種類といふ問題になるのだが、これは、戯曲を読むのと、それが舞台で演ぜられたのを観るのと余程わけが違ひ、才能の優れた俳優は、如何なる戯曲の感情をも、一般の人の、即ち「大衆」の感性に愬へ得る能力を示すものである。
結節を急げば、現在、各種の劇場に於いて上演せられつつある戯曲は、あらゆる意味に於て大衆の「要求」を満してはゐない。観劇の欲望と、余裕と、必要とをさへもつてゐる人々、娯楽と教養とのために演劇に親しまうとする最も健全なる大衆層、自発的に、人を誘つてでも、たまには少々の趣味的見栄にさへも劇場の切符を買はうとする頼もしい連中を、悉く拒避して、どこに大衆劇があるのであらう。
新しい演劇の行くべき道は、今、明らかに示されてゐる。一方、研究的な、先駆的な演劇運動と併行して、いや、それよりも先に、演劇の真の「大衆性」を自覚した劇場事業が、何人の手によつてか、早晩企てられなければならぬであらう。その時が来て、はじめて、われわれは、現在の演劇的貧困から救はれるのだ。(一九三三・五)
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ある婦人雑誌社の面会室。
主筆 でっぷり肥った四十前後の紳士。
堀川保吉 主筆の肥っているだけに痩せた上にも痩せて見える三十前後の、――ちょっと一口には形容出来ない。が、とにかく紳士と呼ぶのに躊躇することだけは事実である。
主筆 今度は一つうちの雑誌に小説を書いては頂けないでしょうか? どうもこの頃は読者も高級になっていますし、在来の恋愛小説には満足しないようになっていますから、……もっと深い人間性に根ざした、真面目な恋愛小説を書いて頂きたいのです。
保吉 それは書きますよ。実はこの頃婦人雑誌に書きたいと思っている小説があるのです。
主筆 そうですか? それは結構です。もし書いて頂ければ、大いに新聞に広告しますよ。「堀川氏の筆に成れる、哀婉極りなき恋愛小説」とか何とか広告しますよ。
保吉 「哀婉極りなき」? しかし僕の小説は「恋愛は至上なり」と云うのですよ。
主筆 すると恋愛の讃美ですね。それはいよいよ結構です。厨川博士の「近代恋愛論」以来、一般に青年男女の心は恋愛至上主義に傾いていますから。……勿論近代的恋愛でしょうね?
保吉 さあ、それは疑問ですね。近代的懐疑とか、近代的盗賊とか、近代的白髪染めとか――そう云うものは確かに存在するでしょう。しかしどうも恋愛だけはイザナギイザナミの昔以来余り変らないように思いますが。
主筆 それは理論の上だけですよ。たとえば三角関係などは近代的恋愛の一例ですからね。少くとも日本の現状では。
保吉 ああ、三角関係ですか? それは僕の小説にも三角関係は出て来るのです。……ざっと筋を話して見ましょうか?
主筆 そうして頂ければ好都合です。
保吉 女主人公は若い奥さんなのです。外交官の夫人なのです。勿論東京の山の手の邸宅に住んでいるのですね。背のすらりとした、ものごしの優しい、いつも髪は――一体読者の要求するのはどう云う髪に結った女主人公ですか?
主筆 耳隠しでしょう。
保吉 じゃ耳隠しにしましょう。いつも髪を耳隠しに結った、色の白い、目の冴え冴えしたちょっと唇に癖のある、――まあ活動写真にすれば栗島澄子の役所なのです。夫の外交官も新時代の法学士ですから、新派悲劇じみたわからずやじゃありません。学生時代にはベエスボールの選手だった、その上道楽に小説くらいは見る、色の浅黒い好男子なのです。新婚の二人は幸福に山の手の邸宅に暮している。一しょに音楽会へ出かけることもある。銀座通りを散歩することもある。………
主筆 勿論震災前でしょうね?
保吉 ええ、震災のずっと前です。……一しょに音楽会へ出かけることもある。銀座通りを散歩することもある。あるいはまた西洋間の電燈の下に無言の微笑ばかり交わすこともある。女主人公はこの西洋間を「わたしたちの巣」と名づけている。壁にはルノアルやセザンヌの複製などもかかっている。ピアノも黒い胴を光らせている。鉢植えの椰子も葉を垂らしている。――と云うと多少気が利いていますが、家賃は案外安いのですよ。
主筆 そう云う説明は入らないでしょう。少くとも小説の本文には。
保吉 いや、必要ですよ。若い外交官の月給などは高の知れたものですからね。
主筆 じゃ華族の息子におしなさい。もっとも華族ならば伯爵か子爵ですね。どう云うものか公爵や侯爵は余り小説には出て来ないようです。
保吉 それは伯爵の息子でもかまいません。とにかく西洋間さえあれば好いのです。その西洋間か、銀座通りか、音楽会かを第一回にするのですから。……しかし妙子は――これは女主人公の名前ですよ。――音楽家の達雄と懇意になった以後、次第にある不安を感じ出すのです。達雄は妙子を愛している、――そう女主人公は直覚するのですね。のみならずこの不安は一日ましにだんだん高まるばかりなのです。
主筆 達雄はどう云う男なのですか?
保吉 達雄は音楽の天才です。ロオランの書いたジャン・クリストフとワッセルマンの書いたダニエル・ノオトハフトとを一丸にしたような天才です。が、まだ貧乏だったり何かするために誰にも認められていないのですがね。これは僕の友人の音楽家をモデルにするつもりです。もっとも僕の友人は美男ですが、達雄は美男じゃありません。顔は一見ゴリラに似た、東北生れの野蛮人なのです。しかし目だけは天才らしい閃きを持っているのですよ。彼の目は一塊の炭火のように不断の熱を孕んでいる。――そう云う目をしているのですよ。
主筆 天才はきっと受けましょう。
保吉 しかし妙子は外交官の夫に不足のある訣ではないのです。いや、むしろ前よりも熱烈に夫を愛しているのです。夫もまた妙子を信じている。これは云うまでもないことでしょう。そのために妙子の苦しみは一層つのるばかりなのです。
主筆 つまりわたしの近代的と云うのはそう云う恋愛のことですよ。
保吉 達雄はまた毎日電燈さえつけば、必ず西洋間へ顔を出すのです。それも夫のいる時ならばまだしも苦労はないのですが、妙子のひとり留守をしている時にもやはり顔を出すのでしょう。妙子はやむを得ずそう云う時にはピアノばかり弾かせるのです。もっとも夫のいる時でも、達雄はたいていピアノの前へ坐らないことはないのですが。
主筆 そのうちに恋愛に陥るのですか?
保吉 いや、容易に陥らないのです。しかしある二月の晩、達雄は急にシュウベルトの「シルヴィアに寄する歌」を弾きはじめるのです。あの流れる炎のように情熱の籠った歌ですね。妙子は大きい椰子の葉の下にじっと耳を傾けている。そのうちにだんだん達雄に対する彼女の愛を感じはじめる。同時にまた目の前へ浮かび上った金色の誘惑を感じはじめる。もう五分、――いや、もう一分たちさえすれば、妙子は達雄の腕の中へ体を投げていたかも知れません。そこへ――ちょうどその曲の終りかかったところへ幸い主人が帰って来るのです。
主筆 それから?
保吉 それから一週間ばかりたった後、妙子はとうとう苦しさに堪え兼ね、自殺をしようと決心するのです。が、ちょうど妊娠しているために、それを断行する勇気がありません。そこで達雄に愛されていることをすっかり夫に打ち明けるのです。もっとも夫を苦しめないように、彼女も達雄を愛していることだけは告白せずにしまうのですが。
主筆 それから決闘にでもなるのですか?
保吉 いや、ただ夫は達雄の来た時に冷かに訪問を謝絶するのです。達雄は黙然と唇を噛んだまま、ピアノばかり見つめている。妙子は戸の外に佇んだなりじっと忍び泣きをこらえている。――その後二月とたたないうちに、突然官命を受けた夫は支那の漢口の領事館へ赴任することになるのです。
主筆 妙子も一しょに行くのですか?
保吉 勿論一しょに行くのです。しかし妙子は立つ前に達雄へ手紙をやるのです。「あなたの心には同情する。が、わたしにはどうすることも出来ない。お互に運命だとあきらめましょう。」――大体そう云う意味ですがね。それ以来妙子は今日までずっと達雄に会わないのです。
主筆 じゃ小説はそれぎりですね。
保吉 いや、もう少し残っているのです。妙子は漢口へ行った後も、時々達雄を思い出すのですね。のみならずしまいには夫よりも実は達雄を愛していたと考えるようになるのですね。好いですか? 妙子を囲んでいるのは寂しい漢口の風景ですよ。あの唐の崔顥の詩に「晴川歴歴漢陽樹 芳草萋萋鸚鵡洲」と歌われたことのある風景ですよ。妙子はとうとうもう一度、――一年ばかりたった後ですが、――達雄へ手紙をやるのです。「わたしはあなたを愛していた。今でもあなたを愛している。どうか自ら欺いていたわたしを可哀そうに思って下さい。」――そう云う意味の手紙をやるのです。その手紙を受けとった達雄は……
主筆 早速支那へ出かけるのでしょう。
保吉 とうていそんなことは出来ません。何しろ達雄は飯を食うために、浅草のある活動写真館のピアノを弾いているのですから。
主筆 それは少し殺風景ですね。
保吉 殺風景でも仕かたはありません。達雄は場末のカフェのテエブルに妙子の手紙の封を切るのです。窓の外の空は雨になっている。達雄は放心したようにじっと手紙を見つめている。何だかその行の間に妙子の西洋間が見えるような気がする。ピアノの蓋に電燈の映った「わたしたちの巣」が見えるような気がする。……
主筆 ちょっともの足りない気もしますが、とにかく近来の傑作ですよ。ぜひそれを書いて下さい。
保吉 実はもう少しあるのですが。
主筆 おや、まだおしまいじゃないのですか?
保吉 ええ、そのうちに達雄は笑い出すのです。と思うとまた忌いましそうに「畜生」などと怒鳴り出すのです。
主筆 ははあ、発狂したのですね。
保吉 何、莫迦莫迦しさに業を煮やしたのです。それは業を煮やすはずでしょう。元来達雄は妙子などを少しも愛したことはないのですから。……
主筆 しかしそれじゃ。……
保吉 達雄はただ妙子の家へピアノを弾きたさに行ったのですよ。云わばピアノを愛しただけなのですよ。何しろ貧しい達雄にはピアノを買う金などはないはずですからね。
主筆 ですがね、堀川さん。
保吉 しかし活動写真館のピアノでも弾いていられた頃はまだしも達雄には幸福だったのです。達雄はこの間の震災以来、巡査になっているのですよ。護憲運動のあった時などは善良なる東京市民のために袋叩きにされているのですよ。ただ山の手の巡回中、稀にピアノの音でもすると、その家の外に佇んだまま、はかない幸福を夢みているのですよ。
主筆 それじゃ折角の小説は……
保吉 まあ、お聞きなさい。妙子はその間も漢口の住いに不相変達雄を思っているのです。いや漢口ばかりじゃありません。外交官の夫の転任する度に、上海だの北京だの天津だのへ一時の住いを移しながら、不相変達雄を思っているのです。勿論もう震災の頃には大勢の子もちになっているのですよ。ええと、――年児に双児を生んだものですから、四人の子もちになっているのですよ。おまけにまた夫はいつのまにか大酒飲みになっているのですよ。それでも豚のように肥った妙子はほんとうに彼女と愛し合ったものは達雄だけだったと思っているのですね。恋愛は実際至上なりですね。さもなければとうてい妙子のように幸福になれるはずはありません。少くとも人生のぬかるみを憎まずにいることは出来ないでしょう。――どうです、こう云う小説は?
主筆 堀川さん。あなたは一体真面目なのですか?
保吉 ええ、勿論真面目です。世間の恋愛小説を御覧なさい。女主人公はマリアでなければクレオパトラじゃありませんか? しかし人生の女主人公は必ずしも貞女じゃないと同時に、必ずしもまた婬婦でもないのです。もし人の好い読者の中に、一人でもああ云う小説を真に受ける男女があって御覧なさい。もっとも恋愛の円満に成就した場合は別問題ですが、万一失恋でもした日には必ず莫迦莫迦しい自己犠牲をするか、さもなければもっと莫迦莫迦しい復讐的精神を発揮しますよ。しかもそれを当事者自身は何か英雄的行為のようにうぬ惚れ切ってするのですからね。けれどもわたしの恋愛小説には少しもそう云う悪影響を普及する傾向はありません。おまけに結末は女主人公の幸福を讃美しているのです。
主筆 常談でしょう。……とにかくうちの雑誌にはとうていそれは載せられません。
保吉 そうですか? じゃどこかほかへ載せて貰います。広い世の中には一つくらい、わたしの主張を容れてくれる婦人雑誌もあるはずですから。
保吉の予想の誤らなかった証拠はこの対話のここに載ったことである。
(大正十三年三月)
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心のおもむくままに、いつも美味いものを食って、心の底から楽しんでみたい。朝も昼も晩も。犬や猫のように、宛てがい扶持の食事に、その日その日をつづけることは、肉体は生きられるとしても、心の楽しみにはならない。心に楽しむ料理なんて考えても縁遠い。食って生きて行きさえすれば、それで結構なんだ。安価で栄養価値のあるもの、それで充分じゃないか、今の世の中はと。エネルギーのない多くの人々はこれを常識として、栄養不良というやくざ人間をつくり出している。これが当世らしい。心に楽しむ余裕を持っていないのだろう。持っていても、極めて消極的で、あさはかなものらしい。
カロリー、ビタミンを一々気にする料理は、実を言うと栄養薬であることに気がつかない。だから美味くない。美味くない食事から充分に栄養を摂らんとするのは不合理に考えられるが、そこまで考えている者は稀なようである。
このことは日本人は言うに及ばず、外国人も同様らしい。アメリカの都市を観て歩いても、実に薬品店の多いのに驚かされる。ヨーロッパもその通り、よろめき歩く死一歩手前の老人の多いのに驚かされた。弾力ある青年時代の無鉄砲の酬いと見て間違いはあるまい。栄養薬的食事も一応は隆々たる筋肉をつくってくれる時代があるようだが、弾力ある精神にまではおぼつかないのではないか。ヨボヨボ老人の多数が公園に憩う風景を先進国に見る事実は、とくと考えて見る必要があろう。私の言う栄養薬的料理、それは小児あるいは自由を拘束されているような人間だけにして、その他は各自の自由にまかせて勝手気儘に心の底から楽しめる食事を摂れば、カロリーがなにほど、ビタミンがどうのと考えなくても、おのずから健康はつくられると私は信じている。
しかし、美味いものを食いつづけようとするには、もちろん知識も要る。経験も要る。努力もしなければ発見ができない。しかし、この努力はまことに楽しい努力であって、苦労にはならない。
私は今なにを考えているかと言うと、能登に産するこのわたを手に入れようとし、その卵巣のくちこをなんとかして一刻も早く口にしたいものだと念願している。このわたは知多半島にもある。尾道にも名物はあるが、能登半島のは特別の風味をもって、私たちをよろこばせてくれる。くちこに至っては絶味と言っていい。北海における寒中が生むところの味覚の王者である。それを送ってくれる友人が、二、三あって、今からモーションをかけ、せっかく努力中で、その楽しみは、まさに寿命をのばしてくれるようだ。しかも、これは私が五十年前からつづけている年中行事なのだ。
寒中ともなれば、数知れずと言いたいまで美食がせまって来て、その楽事に忙殺される。中形のふぐを食うのも口福の大なるもの。京のたけのこ、冬眠のスッポン、江州瀬田の寒もろこもまことに楽しい美食である。能登ぶりの砂摺りの刺身などは、考えるだけでもたまらなく美味い。しびまぐろの上々にもまさる美味さである。ただし、南日本海で獲れるぶりはそうはいかない。ともかく、寒中に美食を求めてはかぎりがない。餅だって寒餅というのが一番美味い。
私は秋十月から春二月までを美食多産期として腹構えをし、次から次と食欲を満たしてくれる最好季節を無駄に過ごしたことはない。三、四、五月頃になると、明石だいが美味くなり、はもも上々の食い頃。
瀬戸内海は、大体どんなさかなでも関東方面と違って、なにからなにまで特に美味いのであるが、貝類、えび類が関東に劣っている。あなごも、てんぷら、すしだねには向かない。とにかく美味いものばかり食って人生を楽しむことは、心ひそかにほほえましいことである。しかも、世界中で一番美味い食品の数多くある日本に存在する生活のしあわせを考えては、たまらなくほほえましい。
(昭和二十九年)
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Medium
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〔すべて時代に従って発達する〕
学生諸君、もはや諸君に向って学校内部に於ける細かな訓示を致す必要はないと思うのである。ただ英発の気を以て満たされたところの諸君に向って時代の精神を述べることは決して無用に非ずと思うのである。早稲田大学がかつて東京専門学校と称えた以来ここに三十有七年、初めこの学校を起したところの学問の独立という主義は今日に至るも少しも変化はない。しかしながら学問は時代に従って漸次に発達する性質をもっている。学問のみならず人世社会の事すべて時代に従って進化する。時代に順応して発達する。学生もまた大いに発達したようである。諸君の顔色を見ると顔の色が頗る宜しいようである。初めは顔色蒼白な学生が多かったがこのたびはそういう学生は少ない。見渡す限り血気盛んなる顔色を表している。同時に体力も幾らか発達したようである。これは最も喜ばしいことである。
ここに学問が発達して専門学校が大学となり、時代要求の結果は相当の程度に達したところの大学には公私を区別せずして均しく大学の待遇を与えるということになったのである。我が早稲田大学も早晩……早晩というよりは当年中に全然大学令に依って大学となるに相違ないと信ずるのである。これは形であるが、しかし形もまた軽蔑することを得ない。形が一層学校の競争心を励ますのである。帝国大学その他の大学と競争するのである。競争は大切なものであって、学問のみならず人生の事は皆競争に依って発達する。すべて文化の進歩も競争に依って発達するのである。然らば競争は文化の母なり。今まで早稲田大学は帝都の僻隅にあって天下を睥睨して威張っておったけれども、社会からあれは私立大学だと言われて、価値のないものの如く俗人から誤解されておった。ところが形の上で公私の大学の区別が無くなってしまうのである。ある条件を備えて、ある程度までの設備をなすに於ては更に区別無しというのである。そうすると専門学校が大学になり、今度は帝国大学の仲間入りをするということになって来る。
然らばこの後はケンブリッジ、オックスフォード、その他仏蘭西の大学、独逸の大学、世界文化の進んでおるところの大学と競争する、こういうことになる。今まさにその準備をなしつつあるのである。諸君の今の境遇と早稲田大学の境遇とは同じである。諸君はまだ卒業していない。今まさに努力して競争しつつある。世界の優等の大学と競争するその初歩に在るのである。早稲田大学の境遇は諸君の境遇に能く似ているというべきである。
〔世界改造と自由独立の権利〕
這般世界に於ける大乱の結果、世界改造という事が起った。果してこの理想が実現されて将来の世界は全く改造されて、戦いを止めて平和の下に平和的競争に依って人生の幸福を捗らすことが出来るや否やということは疑問である。しかしながら疑いもなく世界は頗る小さくなって、而して平和に一歩足を投じたに相違ない。ここに於て愈々競争は何処へ向うかというと理智の競争、学術の競争である。そればかりではいかぬ。学術を応用する。即ち人間の実生活の上にこれを応用することについて各国が相競うのである。是に於て政治経済、法律、商科、理工科、学科が如何に違うとも、自己の境遇が如何に異るとも、日本国民として世界人類中優れたところの日本人として、世界的観察の眼を放ってみると、ここに吾人の常に為すべき根本の務めがある。この務めを名付けて権利という。
早稲田大学は学問を独立させようという主義の下に成立ったのである。即ち独立の権利、自己生存のためには侵すべからざる権利、奪うべからざる権利を得ようというのである。自己が怠けてはこの権利を得ることが出来ない。これを棄ててはならぬというので、大なる義務を自覚して、そうしてこの早稲田大学の独立が成立ったのである。この権利が中心である。而してこの侵すべからざる権利を十分に保って、而して自己自ら国内に於ても世界に於てもその義務を果すということが最も必要である。これを行うために次いで起るものは正義の観念、東洋の古代の思想でいえば仁義の観念である。これは如何に平和が成立とうとも、如何に思想が変化しようとも人類が世界に存在しておる以上は常に基礎となるものである。これを自由独立の権利という。而してこれを行うところには必ず義の観念がある。平たく言えば即ち正義の観念を基礎にしなくてはならぬ。これが社会の実生活の上に行われて、ここに初めて国民の幸福安全というものが起る。これは各方面に存するものである。産業にもあれば商工業にもある。
〔欧米の文明は誤れり〕
従来欧羅巴の文明は誤った。英国も亜米利加も仏蘭西も皆誤った。誤ったために今回の如き禍いが来ったのである。恐るべき教訓が来たのである。欧米の文明は誤れりという論文を我輩は大観に書いておいた。極端なる国家主義は独逸を亡ぼした。極端なる個人主義自由主義の仏蘭西なり英国なり亜米利加なり、その狼狽した有様は如何にも気の毒である。多分英国も仏蘭西もはた亜米利加も多少自覚したろうと思う。すべて物は極端になるといかぬ。中庸の徳というものは大切である。儒教に中庸の徳を説いておるが、プラトン、アリストートル〔アリストテレス〕もまた人間の道徳の中で中庸ということに特に重きを置いた。どうしても物が極端に走るといけない。自由独立、自由博愛あるいは自由平等、これが極端に行くと必ず誤る。このたびの露西亜に起ったところの過激派などは最も極端なものである。社会主義が極端に陥ると、どうなるかというと共産主義となる。共産主義の極端は無政府主義となる。そうなるとその社会は破壊されてその国は滅亡してしまう。今日欧米の文明はある境遇のために極端に走った。
今度これがどういうように調和されるか。およそ人類は社会的のものである。社会共同の生存のためにはあるいは独立も自由もまたは国家主義もある度合までは犠牲としなければならぬ。そういう訳でこれから吾人が努力するについては常に共同という精神を忘れてはならぬ。どうしても単独ではいかぬ、国際間に於ても国際連盟といって世界を束ねて平和を保とうという。如何なる強大な国も単独では平和を保つことは出来ない。これと同じく吾人も単独ではいかぬ。これが即ち社会共同の生存となる。これは別に新しい理窟ではないが、これが一つ誤ると極端な社会主義となって大なる不幸に陥る。どうしても共同ということを忘れてはいかぬ。この力が一国の繁栄を捗らすのみならず、社会に向って、世界に向って大いなる力を現すのである。これが国家の力となって世界に現れると、国民の膨張思想の発展となる。今度の正義人道に基づける平和会議でもリーグ・オブ・ネーションといって相共同して平和を保とうというのだが、人間の欲望は実に無限である。また各国の欲望はその国家の利害に依って違うから、正義人道というのもあるいは空念仏になりはしないかと恐れるのである。しかしながら既に端を開いたのである。是に於てこれから学ぶところの諸君は何処までも共同の精神をもってやらなければならぬ。
無論帝国臣民たる以上は万世一系の帝室を中心としなければならぬ。三千年来今日に至ったところの国家は如何に世が変化しようとも動かぬものである。しかしこの主義が極端に行くと、大いなる過ちに陥る。それで何処までも共同だ。而してこの共同の力が盛んになると国家は繁昌する。この力が欠けると利己主義に陥り国家を危うくする。国家の安危盛衰の岐れるところはこの道徳的に精神的にいわゆる人類の共同ということを忘れるや否やにある。
競争も武力に依らずして経済的に競争する、学術的の競争をする。そうすれば必ずこの競争の間に幸福も安全も捗らされるのである。一度共同の心が欠けると利己主義となる。世界の勢いはそういう有様になっている。この過ちを改めることはあるいは出来ぬかも知らん。もし欧羅巴人がその過ちを改むることが出来なければ、欧羅巴の文明はここに終りを告げて、欧羅巴は亡びる。こういうことを私は当月の大観の雑誌の末文に友誼的に宣言しておいた。これは決して悪口ではない。全く友誼的なる親切なる忠言である。如何となれば日本人が民族的差別を撤廃しようというと、利己的にこれを排斥する。これは共同の精神を失っているのである。しかしながらかくの如き誤れる僻見は一朝にして改めることは出来ない。そこで国民共同して努力して世界最高の文明と称し、世界最大の強国と唱えるところに向って競争する。競争といっても武力の競争ではない。精神的に道徳的に競争する。
此所には商科の人もいる。理工科の人もいる。この中から大発見家、大なる天才が起るかも知らぬ。起るかも知らぬではない。起らなければならぬ。必ず起るに相違ない。そうして平和的に文明的に競争をやる。そうすればこれまで宗教的民族的また歴史的に東洋人を軽蔑している心も一掃される。またそれが一掃されなければ調和は出来ない。調和が出来なければ衝突だ。衝突の次には争い。これほど恐るべきものはない。是に於て吾人が世界的に努力せんとすればまず身を修める。それには何処までも人格が基礎をなす。道徳が基礎をなすのである。こうして諸君の顔色を見ると大変顔色が宜い。体力も強いようだ。まだ少し身体が小さい、盛んに運動をすれば我輩位までは大きくなる。そうして精神を鍛えると決して老人にはならぬ。決して死なぬ。そうして精神的に道徳的に世界と競争して、傲慢にも日本人を軽蔑する人をしてついに日本を畏敬させるようにしよう。これが吾人の大なる使命、これが吾人の権利である。而してこれはこれ棄てんとしても棄てることの出来ない最大の義務である。
何処までも吾人は身を修めて努力しなければならぬ。富貴も淫する能わず、威武も屈する能わず、貧賤も移す能わず、これが真の大丈夫だ。これでなくてはいかぬ。陽明の良知説もこれから来ている。カントが絶対善を説いて而して自己を修めるというのと全く似ているようである。似るはずだ。人間というものは同じものだ。然るに欧羅巴人は一時この主義を棄てたのである。第十八世紀までは欧羅巴は盛んであったが、第十九世紀にこれを棄ててしまった。全く棄てもしなかったが、とにかくこれを軽んじたことが欧羅巴の過ちに陥ったゆえんである。我輩の論法を以ていえば、諸君が努力すれば世界の平和は手にある。日本が世界最大の強国となって世界に畏敬される国になることも決して難きに非ずと思う。そこまで行かなければ我輩は死なぬ。そこに行くまで生きておる。これが百二十五歳説の起るゆえんである。
〔大なる希望をもって目的を達したい〕
今日は諸君の英発の気に触れて、先刻学長のいわれた如く我輩老人も若くなったようで非常に愉快に思う。どうか諸君と共に大なる希望をもってこの目的を達したい。大いに学んでその学理を人間の実生活に応用して、そうして大いに働けば国は富む。欧米の富も恐れるに足らぬ。欧米の堅甲利兵も恐れるに足らぬ。働けば富も取って来る。力も養うことが出来る。それは諸君の努力に依って出来る事だ。しかし一人では出来ない。共同してやる。ここに於て我輩老いたりといえども諸君と共に共同して働く。
早稲田大学も大分発達しそうになって来たのである。発達する時には困難が来るもので、随分教師その他の御方も御困りになったろうと思う。如何となれば金がない。もっとも貧乏で学問が出来ぬということはない。昔から貧乏で働けぬということはない。貧乏者が成上がる。ぐずぐずすると金持が成下がる。将来に希望をもっておるものは、そんな気の弱いことではいけない。学長その他の御方が立派にこの大学の設備をなすに相違ない。予科は窮屈だけれども今大急ぎで家を造る。そうすると教場などもゆったりして今日のような窮屈ではないようになる。
諸君は実に宜い時に此所におって学ぶ。世界の有様の最も宜い時に学ぶ。然らば諸君の将来は大なる希望を以て充たされて、必ず自己及び国家社会に大いなる力を現すことは信じて疑わぬ。どうか十分に努力され、今少し身体を大きくし強くするように願いたい。そうすると自然に宜い知識も起るのである。
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彼の報告書に目を通しているところです。
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文学や美術とカフェーとの交渉の日本におけるいちばん古いところは、明治二十一年四月、東京下谷区上野西黒門町二番地、元御成道警察署南隣に可否茶館が初めてできたとき、硯友社のまだ若かった作家たちが出入りした話からである。この可否茶館が日本におけるカフェーの最初であるからこれより古いという交渉はない。江戸時代の水茶屋まで範囲に入れるとすれば司馬江漢の銅版画「両国橋」に両国河岸のよしず張りの水茶屋の情景、春信のにしき絵に笠森稲荷茶店の図、政信の墨刷りにしがらき茶店の図その他があり、春信の作品は後の邦枝完二の小説「おせん」や小村雲岱の版画の素材になっている。
しかし水茶屋の系統は別としよう。これに似たものはいまでもエジプトやトルコへゆくと、やはり道ばたの茶店のような構えで、柄のついたパイプ型真鍮製の小容器でコーヒーを濃く煮ている光景にぶつかるが、そういうコーヒーの飲みかたは日本に伝わらなかった。日本のコーヒー、コーヒー店も西欧系である。
硯友社の機関誌「我楽多文庫」の公刊第一号(明治二十一年五月)に「下谷西黒門町可否茶館告条」という石橋思案の一文が出ており、それに開業したばかりの可否茶館をさして「西洋御待合所」とうたってある。
この「我楽多文庫」が「文庫」と改題されてからの第十九号(明治二十二年四月)には川上眉山の「黄菊白菊」という小説の第五回が出ていて、そこに可否茶館の場をとらえた文章とその場を描いたさし絵がある。画中の文字は紅葉の筆跡である。
この文章と絵が日本の文芸・美術に日本のカフェーが登場した最初である。絵を見ると驚くことに和服の女学生が非常に長いはおりを着て、洋ぐつをはいている。男の長いはおりは江戸時代の天明年間に流行して、清長の絵に残っているが、外とうのように長い女のはおりというものは、茶ばおり流行のいまの日本人の記憶にはもうない。文章はこんな文体である。
「敬三は下谷の可否茶館に。そゞろあるきの足休めして。安楽椅子に腰の疲を慰め。一碗の珈琲に。お客様の役目をすまして。新聞雑誌気に向いた所ばかり読ちらして余念と苦労は露ほどもなかりし。隣のテーブルには束髪の娘二人」
石橋思案の「告条」には「茶ばかり飲むも至つて御愛嬌の薄き物と存じトランプ、クリケット、碁将棋、其外内外の新誌は手の届き候丈け相集め申置候」とか「文房室には筆硯小説等備へつけ、また化粧室と申す小意気な別室をもしつらへ置候へば其処にて沢山御めかし被下度候」とかある。クリケットという遊びは私の小学生時代、慶応義塾幼稚舎ではまだ行なわれていた。
可否茶館の開業にさいしては「可否茶館広告、附、世界茶館事情」というパンフレットが配布された。それによると、パリのカフェーの元祖はサンゼルマン街にアルメニア人パスカルの開業したもので、一七八五年版ジュラウルの「巴里名所記」にそのことが出ているよしである。
なお茶館という名称からもわかるとおり、中国茶館の系統も引いている。主人は長崎生まれの鄭永慶という人で、石橋思案も長崎生まれだったことから硯友社の面々が後援した。思案はこの可否茶館を会場にして東京金蘭会と称する男女交際会の会合をしばしば催した。その会では当時の帝大生たちが流行の清楽合奏などしたが、主宰者の思案もまだ二十歳代の学生だった。
可否茶館は二階建ての洋館で庭も二百坪ほどあった。二階の席料が一人一銭五厘、階下は広間で無料。コーヒーのねだんは牛乳を入れないのが一杯一銭五厘、入れたのが二銭、菓子付きで三銭。酒類はベルモット二銭五厘、ブランディー三銭、ぶどう酒二銭七厘、ビールがストックビール小びん十五銭。たばこは鹿印二十本二銭……。いまではこれらのねだんはすべて五千倍を越えている。
ただし可否茶館は客がきわめて少なく、いついってもすいていたよしで、まもなく廃業した。したがって初期カフェー文学は、文明開化思潮の中でハイカラ風俗小説を目ざしていた初期硯友社の作家たちによってもそれきり発展せずに終わった。
*
明治二十三年一月、森鴎外は有名な「舞姫」を発表。この中に主人公太田豊太郎がベルリンで、生活の資のために日本の新聞社の通信員となり、カフェーに新聞紙を読みにかよう個所がある。「余はキヨオニヒ街の間口せまく奥行のみいと長き休息所に赴き、あらゆる新聞を読み、鉛筆取り出でゝ彼此と材料を集む。」
キヨオニヒ街とはいま普通に書けば西ベルリン区域のケーニッヒ街二十二、四番地、間口がせまく奥行きが長い休息所というのはグンペルトといった古いカフェーで、わたしもしばしば訪れたことがあるが、ガラス天井の室の壁ぎわにはヨーロッパじゅうの新聞紙が掛けられてあった。
「舞姫」よりのちに発表されたが、執筆はそれにさきだち、鴎外の処女作だった「うたかたの記」にもドイツ・ミュンヘン市の美術学校前のカッフエ・ミネルワの場がある。それは実際の名で、鴎外はここの常連の芸術家仲間のうちに日本人画家原田直次郎を見出したのである。ほかにカッフエ・ロリアンなどという名も出てくる。
鴎外はミネルワの仲間という語を使ったが、十九世紀末から二十世紀はじめにかけては各種の芸術運動がパリやミュンヘンやベルリンで、カフェーでの集まりから出発した例が多い。
いまルーブルにあるルノアールのけんらんたる大作「ムーラン・ド・ギャレット」も、野天のダンス場の景だがカフェーの延長線だ。プッチーニ作曲の歌劇「ラ・ボエーム」第二幕のパリのカフェーのテラスの場も有名で、音楽も情景もかれんで写実的に美しい。
この歌劇が大正年間日本で初演されたときに、人もあろうに大田黒元雄が雪の降っている晩に戸外でストーブをたきコーヒーを飲んでいる光景は、歌劇の荒唐無稽さだが、と解説したことがある。荒唐無稽どころかパリへいってみればそれが写実なのであって、大正年間になっても、いかに日本でパリのカフェーの実際が知られていなかったかを示す例である。
明治末期から大正初期にかけて若き日の木下杢太郎、吉井勇、北原白秋、高村光太郎、木村荘八、長田秀雄、谷崎潤一郎たちパンの会の連中が、会場にカフェーらしい家を捜すのにどんなに難儀したか。
両国橋畔の第一やまと、永代橋ぎわの永代亭、大伝馬町の三州屋、鳥料理都川、小網町のメエゾン・コオノス。西洋料理屋といっても牛なべ屋にちかく、コオノスがいちばんフランスのカフェーの感じだった。
主人に画心があって鴻巣山人とサインした版画をわたしは持つ。五色の酒を作って客に出したのもここの主人だ。この線がやがて銀座のプランタンへいく。プランタンの主人は本職の洋画家だった。しかしパンの会の歴史は結局、フランス系のカフェーを捜して得られなかった歴史である。
なお鴎外のドイツ日記にはまだたくさんカフェーの名がある。中央骨喜堂、ウェル骨喜堂、大陸骨喜店、国民骨喜店、クレップス氏珈琲店、シルレル骨喜店、ヨスチイ骨喜店、骨喜店はカフェーのあて字。
明治十九年二月二十日の条には「伯林には青楼なし。故に珈琲店は娼婦の巣窟と為り、甚しきに至りては十字街頭客を招き色をひさげり」と書き、さらにクレップス氏珈琲店の個所には「美人多し。云ふ売笑婦なりと」ともある。
このクレップスはベルリンのノイエ・ウィルヘルム街にあってもっぱら日本人相手の店だった。鴎外は漢字に訳して蟹屋と書いたこともある。わたしが後年いったころにはこれに類する家はビクトリア・ルイゼ広場にあって比丘と略称されていた。もちろん尼さんスタイルでサービスしたわけではない。ゲイシャというカフェーもあった。
鴎外留学時代に始まるこの蟹屋、比丘、ゲイシャの線が大正期に盛った日本のカフェーの型の元である。だからそれは必ずしも大阪から東京への流れだけではない。この型の世界から荷風の「つゆのあとさき」のような傑作が生まれているのは、荷風がもう一つの意味でも鴎外のでしだったことを語る。それにしても、あれほどフランス好きでドイツと日本のことならなんでも悪口のタネにした荷風が、銀座のカフェーがドイツ流だったことに気がつかなかったのははなはだ愉快である。いまの洞窟喫茶、深夜喫茶もまたドイツ系である。
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飼い主がしっかりペットフードの知識を身につけましょう
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悲しき事の、さても世には多きものかな、われは今読者と共に、しばらく空想と虚栄の幻影を離れて、まことにありし一悲劇を語るを聞かむ。
語るものはわがこの夏霎時の仮の宿とたのみし家の隣に住みし按摩男なり。ありし事がらは、そがまうへなる禅寺の墓地にして、頃は去歳の初秋とか言へり。
二本榎に朝夕の烟も細き一かまどあり、主人は八百屋にして、かつぎうりを以て営とす、そが妻との間に三五ばかりなる娘ひとりと、六歳になりたる小児とあり、夫は実直なる性なれば家業に懈ることなく、妻も日頃謹慎の質にして物多く言はぬほど糸針の道には心掛ありしとのうはさなり。かゝればかまどの烟細しとは言ひながら、其日其日を送るに太き息吐く程にはあらず、折には小金貸し出す勢ひさへもありきと言ふものもありけり。
妻の何某はいつの頃よりか、何となく気欝の様子見え始めたれど、家内のものは更なり、近所合壁のやからも左したる事とは心付かず、唯だ年長けたる娘のみはさすが、母の気むづかしげなるを面白からず思ひしとぞ。世のありさま、三四年このかた金融の逼迫より、種々の転変を見しが、別して其日かせぎの商人の上には軽からぬ不幸を生ぜしも多かり。正直をもて商売するものに不正の損失を蒙らせ、真面目に道を歩むものに突当りて荷を損ずるやうの事、漸く多くなれりと覚ゆ。かの夫妻未だ左したる困厄には陥らねど、思はしからぬが苦情の元なれば、時として夫婦顔を赤めるなどの事もありしとぞ。裡家風情の例として、其日に得たる銭をもて明日の米を買ふ事なれば、米一粒の尊さは余人の能く知るところにあらず。或日の事とて妻は娘を家に残しつ、小児を携へて出で行きしが、米買ふ銭を算へつゝ、ふと其口を洩れたる言葉は「もしこの小児なかりせば、日々に二銭を省くことを得べきに」なりし。之を聞きたる小娘は左までに怪しみもせざりし。その容貌にも殊更に思はるゝところはあらざりしとなむ。
このあたりの名寺なる東禅寺は境広く、樹古く、陰欝として深山に入るの思あらしむ。この境内に一条の山径あり、高輪より二本榎に通ず、近きを択むもの、こゝを往還することゝなれり。累々たる墳墓の地、苔滑らかに草深し、もゝちの人の魂魄無明の夢に入るところ。わがかしこに棲みし時には、朝夕杖を携へて幽思を養ひしところ。又た無邪気の友と共に山いちごの実を拾ひて楽みしところなり。
家を出でゝ程久しきに、母も弟も還ること遅し、鴉は杜に急げども、帰らぬ人の影は破れし簷の夕陽の照光にうつらず。幾度か立出でゝ、出で行きし方を眺むれど、沈み勝なる母の面は更なり、此頃とんぼ追ひの仲間に入りて楽しく遊びはじめたる弟の形も見えず。日は全く暮れぬれども未だ帰らず。案じわびて待つうちに、雨戸の外に人の音しければ急ぎ戸を開くに、母ひとり忙然として立てり。その様子怪しげに見えはせしものゝ、いかに悲しき事のありけんとは思ひもよらず。弟は、と問へば、しばし黙然たりしが、何かは知らず太息と共に、あれは殺して来たよ、と答へぬ。
始めは戯れならむと思ひしが、その容貌の青ざめたるさへあるに、夜の事とて共に帰らぬ弟の身の不思議さに、何処にてと問ひければ、東禅寺裡にて、と答ふ。驚ろき呆れて、半ば疑ひながらも、母の言ひたるところに、走り行きて見れば、こはいかに、無残や一人の弟は倒まに、墓の門なる石桶にうち沈められてあり。其傍になまぐさき血の迸りかゝれる痕を見りと言へば、水にて殺せしにあらで、石に撃つけてのちに水に入たりと覚たり。気も絶え入んほどに愕き惑ひしが、走り還りて泣き叫びつゝ、近隣の人を呼ければ、漸く其筋の人も来りて死躰の始末は終りしが、殺せし人の継しき中にもあらぬ母の身にてありながら、鬼にもあらぬ鬼心をそしらぬものもなかりけり。
東禅寺寺内より高輪の町に出でんとする細径に覆ひかゝれる一老松あり。昼は近傍の頑童等こゝに来りて、松下の細流に小魚を網する事もあれど、夜に入りては蛙のみ雨を誘ひて鳴き騒げども、その濁れる音調を驚ろき休ます足音とては、稀に聞くのみなり。寺内に棲みける彼の按摩、その業の為にはかゝる寂寥にも慣れたれば、夜出でゝ夜帰るに、こはさといふもの未だ覚え知らず、五月雨の細々たる陰雨の中に一二度は彼燐火をも見たれど、左して怖るゝ心も起らじと言へり。
雨少しくそぼちて、桐の青葉の重げに垂るゝ一夜、暮すぎて未だ程もあらせず、例の如く家を出でゝ彼の老松の下に来掛りし時、突然片影より顕はれ出るものありと見る間に、わが身にひたとかじりつき、逃げんとするも逃げられず、胆潰れながらも、其人を見れば、髪は乱れて肩にからみ、色は夜目にも青白ろく、鬼にやあらむ人にやあらむ、と思ふばかり、身はわな〳〵とふるひて、振り離さん程の力もなくなれり。やうやく気を沈めて其人の態をつく〴〵打ち眺むれば、まがふ方なき狂女なり。さては鬼にもあらずと心稍々安堵したれば、何故にわれを留むるやと問ひしに、唯ださめ〴〵と泣くのみなり。再三再四問ひたる後に、答へて曰ふやう、妾は今宵この山のうしろまで行かねばならずと。何用あつて行くやと問ひければ、そこにて児を殺したる事あれば、こよひは我も共に死なむと思ひてなり。この言を聞きて、さては前日の児殺よなと心付きたれば、更に気味あしく、いかにもして振離して逃げんとすれど、狂女の力常の女の腕にあらず、しばしがほどは或は賺しつ或はなだめつ、得意客は待ちあぐみてあらむに、いかにせばやと案じわづらふばかりなり。いかに言ふとも一向に聞き入れず、死なねば済まずとのみ言ひ募りて、捕へし袖を挽きて、吾を彼の山中に連れ行んとす。もし愈々死なむとならば独り行きても宜からずやと言へば、ひとりにては寂しき路を通ひがたしと言ふ。幸にも、この時角燈の光微かにかなたに見えければ、声を挙げて巡行の査官を呼び、茲に始めて蘇生の思ひを為せり。
始は査官言を尽して説き諭しけれど、一向に聞入れねば、止むことを得ずして、他の査官を傭ひ来りつ、遂に警察署へ送り入れぬ。
彼女は是より精神病院に送られしが、数月の後に、病全く愈えて、その夫の家に帰りけれど、夫妻とも、元の家には住まず、いづれへか移りて、噂のみはこのあたりにのこりけるとぞ。以上は我が自から聞きしところなり。但し聞きたるは、この夏の事、筆にものして世の人の同情を請はんと思ひたちしは、今日土曜日の夜、秋雨紅葉を染むるの時なり。
殺さんと思ひたちしは偶然の狂乱よりなりし、されども、斯の如き悲劇の、斯くの如き徒爾の狂乱より成りし事を思へば、まがつびの魔力いかに迅且大ならずや。親として子を殺し、子として親を殺す、大逆不道此の上もあらず、然るに斯般の悪逆の往々にして世間に行はるゝを見ては、誰か悽惻として人間の運命のはかなきを思はざらむ。狂女心底より狂ならず、醒め来りて一夜悲悼に堪へず、児の血を濺ぎしところに行きて己れを殺さんとす、己れを殺す為に、その悲しき塲所に独り行くことを得ず、却つて路傍の人を連れ立てんことを請ふ、狂にして狂ならず、狂ならずして猶ほ狂なり、あわれや子を思ふ親の情の、狂乱の中に隠在すればなるらむ。その狂乱の原はいかに。渠が出でがけに曰ひし一言、深く社会の罪を刻めり。
昨夜は淵明が食を乞ふの詩を読みて、其清節の高きに服し、今夜は惨憺たる実聞をものして、思はず袖を湿らしけり。知らぬうちとて、黙思逍遙の好地と思ひしところ、この物語を聞きてよりは、自からに足をそのあたりに向けずなりにき。かの地に住みし時この文を作らず、却つて今の菴にうつりて之を書くは、わが悲悼の念のかしこにては余りに強かりければなり。思へば世には不思議なるほどに酸鼻のこともあるものかな。
(明治二十五年十一月)
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まず、やすりで爪の形を整える
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バス停はどこにありますか。
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さあ、僕はどういふ風に云はうか?
林君は熱情を見事に整理しつつ雄弁を振つてゐる。森山君は、縹渺たる感懐をリリカルな思考に托してゐる。何れも文学者らしい態度で堂々とこの課題を征服した。
僕は、率直に云ふ。林君にはまだついて行けないし、森山君には少し焦らされた。
かういふ問題は、といふよりも、「愛国心」といふやうな言葉に対しては、文学者共通の潔癖から、まづ一つのポオズを択んで物を云ふやうになる。そこが興味のあるところであらうが、出題者の意図はどこにあるにせよ、僕は、この問題を、まだ「文学者的」に取扱ふ用意ができてゐない。
憂国精神、愛国心、祖国愛、国民の真情、日本を愛する気持、母国を懐しむ心、と、かう字引のやうに書き並べてみて、その間に可なりのニユアンスがあることはもちろん、語感の上では、殆んど右と左のやうに違ひがあることを発見する。
殊に、最初の二つの言葉は、林君の使つてゐる意味を、正当に解釈させることが必要である。
僕も人並に、この「愛国心」といふ言葉には照れる方であるが、それは照れるのが間違ひなのだと思ふ。現代の日本語のうちで、文学者に毛嫌ひされてゐる言葉が可なり多く、それは、一般の日本人、殊に、無教養な政治家やジヤアナリストが、勝手に言葉のイメエジを決定し、不純な概念を附け加へることを平気でやり、これを是正する「機関」がないために、民衆の間にすぐこれが伝播してしまふからである。専門的用語でさへ、これを戯画的に使用することが流行し、いつの間にか、本来の意味が忘れられてしまふ。自然主義、享楽主義、自由主義等皆然りである。
文学者は、かういふ風にして、国語の使用権を狭められてゐるのみならず、言葉を毛嫌ひすることによつて、実体を疎んずる結果を招いてゐることさへある。
僕は三十歳を過ぎて初めて戯曲を書き、不用意に「夢」といふ言葉をふんだんに使つたら、当時、先輩たる某作家から注意を受けた。日本では、そんな風に「夢」といふ言葉を作家たるものは使はないといふ説明である。それは「臭い」のである。なるほど、少したつて、僕は活動写真の標題が「夢」といふ言葉を荒したのであらうと気がついた。この事実を皮肉に考へると、日本の作家は「夢」といふ言葉を用心して使ふ結果、「夢」を書くことまで用心するのであらう。
一
僕は日本人であることを恥ぢもしないし、矜りともしてゐない。つまり、これこそ、人間に生れたことと同様、実に運命的であり、偶然であり、誰の力でもどうすることもできないことである。だから、それについて、愚痴もこぼさないかはり、感謝もしてゐないといふ当り前な前提をしておいて――
二
日本は世界の他の国に比べて、善いところもあり、悪いところもある。しかし、われわれの祖先並にわれわれが、その善いところ悪いところの一部を生み出し、育ててゐることは争へない。それに対しては、真剣に考へなければならぬと思ふ。ただ、日本は世界の他の国に比べて優れてゐるから、その日本を愛するといふ考へ方には危険なものがある。小学校時代に、われわれは日本の風土気候について、さもそれが世界に類のない恵まれた国のやうに教へられた。ところが、事実は大違ひで、自然の脅威の下でこれほどすくみ上つてゐる国は少いのである。が、それゆゑに、日本に対する愛情がどうもなりはしない。寧ろ今日の僕は、かかる国土をしみじみ痛ましく思ひ、その国土に於いて、戦ひ、生き、しかも自然を愛して来た民族の相貌を懐しむ心が切である。なんでもないことを、優れてゐるやうに思ひ込み、または思ひ込ませ、それによつて自尊心を撫でまわしてゐるやり方は、笑止千万であり、愚劣の骨頂である。
それと同時に、日本の悪いところを、さも手柄顔に取りたてて、これだから日本は嫌ひだといふのも少し早すぎる。さういふ自分にも、その悪いところがあるのを忘れてゐさうだからである。それから、人間ならどこの国の人間でも有つてゐる弱点のやうなものと、日本人のみが特に、その長所と共に有つてゐる弱点とを区別して、その各々に対する批判と対策を誤らぬやうにせねばならぬと思ふ。しかし、日本を愛するといふ気持は、その美点と欠点とを併せた何物かに対する親しみの感情であるにもせよ、好きになつてはいかぬもの、好きでなくてはならぬものがだんだんはつきりして来ると、われわれの日本は、現在、甚だ魅力に乏しい国であるといふことに気がつき、自分は日本を愛するとは云ひきれぬやうな気がし、さて、こんなことでは困る、どうしたらいいのだと、うろたへるやうになる。
三
日本をより善くしたいといふ欲望が、祖国愛といふ名で呼ばれるなら、さう呼んでも差支ないではないか。この場合、他の国より善くしたいと希ふのは、人間の美しい弱点だ。それも、結局、「何を善いといふか」の問題になるが、例へば、警察網が完備し、粗製濫造品が世界の市場を脅やかし、外遊客がゲイシヤと人力車に感心するといふやうなことを指すのだとしたら、それはもう、美しい弱点とは云へなくなる。
四
その意味で、日本を善くするといふ、その「善く」といふ観念だけは、飽くまでも、世界共通のものにしなければならず、それならば、日本がいくら善くなつても、他の国々は少しも迷惑はしない、云ふところの国際主義と矛盾はしないのである。
理窟はまあさうだが、一つ困つた問題がある。それは他の国々も、さう理想的に行つてゐないといふこと、日本と略々同じやうな「醜い弱点」をもつてゐるといふことである。林君は魯迅の言葉を引いてゐるが、その気持は、日本人だつてあるのだ。あるけれども、なかなかああ云ひ切るものが、われわれの周囲にはゐなかつた。
他の国から征服されるといふこと、例へ文化の面だけでも、他国の優越的支配下に置かれるといふことは、ただに民族的自尊心を傷けるのみならず、そこからは、断じて新しい生活が芽を吹かないのである。過つて、敵に正義の名を奪はれても、戦争には負けてはならぬ。少くとも、国家の自由だけは存続させねばならぬ。ここのところ、政治的にはいろいろの方便があらうと思ふが、愈々戦争となつたら理窟はもう通らぬ。お互にお互の生命を守り合ふのが当然だ。そして、これは止むに止まれぬ「愛国的行為」である。
五
僕は、愛国心といふもののうちに、民族的自尊心が含まれてゐることを指摘したが、それは何れも、その現はれ方によつて弱点ともなり、強味ともなること、他の総ての性情的特質と同様である。殊に、愛国心といふ言葉は、今日に於いては、母性愛などといふ言葉と同じく、月並で、空元気で、卑俗な響きを伴ひ易く、従つて、無教養な権力階級並に、これに迎合せんとする大衆の便利な標語として役立ち得る語感に満ちてゐる。森山君が「最初この問題では気が進まなかつた」理由もここにあり、僕も亦、嘗て、「国を憂ふる」といふ言葉ほど気恥かしい言葉はない、と云つた所以であるが、いま、われわれは、周囲を見渡して、似而非愛国者と、無意識的「非国民」との数が圧倒的であることに慄然とし、未だ嘗て、いつの時代、どこの国にも、かくの如き現象はなかつたであらうといふ事実を、われわれ以外のものが誰も指摘しないことを歯痒く、遺憾に思ふだけである。
六
日本を愛する人々を愛国者と呼ぶになんの妨げがあらう。ただ、愛国者たる以上、その名に値する「愛国的行動」を為さねばならぬといふ考へ方はどんなものであらうか? 自ら「愛国者」と名乗ることすら、真の愛国者の資格とは関係のないことである。
僕は自分が真の愛国者ではないと、人から評されることを怖れはしない。しかし日本を愛するが故に、日本の現状が堪へ難きまでに憂鬱であることを、訴へる権利と義務があると信じるのである。その憂鬱はどこから来るかといへば、日本人がお互に軽蔑し合つてゐるといふところから、日本人がお互に信じ合つてゐないといふところから、日本人がてんでんばらばらに、勝手なことを考へてゐるといふところから、日本人が、日本はどうなつても自分さへなんとかなればと思つてゐるところから来るのだと思ふ。日本人は、日本人である前に、まづ人間として、共通の理想を有たなすぎるといふことを、なんとかして日本人全体に気づかせる方法はないものであらうか?
七
僕は、日本国民として、日本のどこが好きか? と問はれれば、ちよつと困ることを告白する。はつきり云へないといふよりも、そんなに好きなところはないやうな気がするのである。しかし、それは贅沢を云つてゐるのだといふこともよくわかる。例へば、日本の現代文化にしても、不消化のまま、歪んだまま、無選択のままである状態はいやだが、あるべきものは、ちやんとどこかにあるのである。それを伸び育たせる努力と計画が不足してゐることは、われわれの罪である。(実は政治家の罪だと思つてゐるのだが)
僕は文学者として、別に「愛国文学」を作り、又は提唱しようとは思はぬ。国民大衆の愛国心は、所謂「愛国主義者」のデモンストレエシヨンによつて、判断することもできず、官憲や教育当事者の日本精神鼓吹によつて、高め得るものでないのである。現にそれは憂ふべき逆効果を生みつつあることに、彼等は気づかぬのであらうか? フアツシヨの名を以て呼ばれる愛国主義が、いかに心ある民衆の希望を、祖国日本より引離しつつあるかを見ればわかる。(六字削除)徐々に感激を失ひつつある国民を誰が作つたか?
八
日本では、かういふ常識的な問題を思想家は軽蔑する風があり、これを取り上げてわいわい云ふのは、みな思想的には訓練のない人間ばかりであつた。いつまでたつても、常識が常識とならず、民衆は、常識下の思想に追随し、今日に於いてすら、殆ど健全なる社会感覚といふものをもたないのである。この上、政治家や官吏や教育家や歴史家やに、常識の問題を委しておいていいかどうか?
日本精神とか、東洋の平和とか、国語国字の問題とか、故ら社会的関心を示すつもりでなくても、文学それ自身のためにでも、先づ常識の上に立つ大意見を優れた文学者は発表して貰ひたいと僕は思ふ。その意味で、読売紙上に見る長谷川、三木両氏の一日一題は、頗る「愛国的」な文章である。
九
僕の愛国心は語る――
徳田秋声は、極めて民族的なことによつて、世界的に一流作家である。
日本の文学者は勲章を欲しがらぬ。欲しくないやうな顔をするものさへ例外である。
日本人は肉体的な美しさに於いて、西洋人に劣るといふ迷信に、われわれは陥つてゐる。これは迷信であつて欲しい。なぜなら、日本で僕が見る最も美しい男女は、西洋の最も美しいといはれる男女よりも優つてゐる。少くとも劣つてゐない。ただ、平均点がいかにも低いのは残念だ。しかも、その低さは、人権蹂躙の歴史が齎したものだと、僕はふと感じたことがある。日本人に、いかなる人間が美しいかを教へよ。それが徹底しないと、芝居も映画もよくならぬ。(これは少々脱線か?)
日本の自然は眺めるやうにできてゐる。西洋の自然はそのなかで遊ぶやうにできてゐる。どつちが美しいかわからぬ。そして、どつちが、より「自然」であるか、これは考へものである。
支那とは日清戦争後当然大使を交換すべきであるとは、十数年前から考へてゐた。支那人をもつと尊敬すべし。少くとも彼等に対し優越感を示すといふことは、まつたく国辱である。
西洋崇拝と、西洋のある部分に羨望を感じることとは、別ものであるといふこと。現代日本が住み難いと思ふことと、日本以外の国に住みたいと思ふのとは別ものである。なんでもひとつに片づけてしまはないこと。
仏蘭西人が仏蘭西を、英吉利人が英吉利を愛する愛し方のなかには、日本人にはないものがある。自惚れでなく、まつたく、惚れ込んでゐるところがある。伝統が生きた力になつてゐる強味である。が、そのために、当代の復古主義を歓迎する気は毫もない。そんな運動は、どこの国でも度々繰り返され、それ自身なんの役にも立つてをらぬ。要するに、文芸復興が早く来たお蔭である。日本には、やつと、今年来た。
最も心を寒くするものは、不真面目な大学生の氾濫である。不真面目は勉強をせぬとか、カフエエに入りびたるとかいふことばかりでない。なにはともあれ、秩序の何ものであるかを弁へぬことだ。学生生活でその訓練を怠るところから、日本国民の野蛮性が上下を風靡するのである。自由によつて秩序を生み出す能力は、大学に於いてのみ養はれることを一日も早く彼等に知らしめたい。
官尊民卑の思想についていろいろの人が云ひ出した。これはわが国の社会的弊風であつて、それを弊風と気づき、批難攻撃するもののうちに、なほ、官尊民卑的気質を反映してゐる場合が多いのはどうしたわけか。「官」のなすところ、悉くこれに反対するといふのは、もつと文化の一般水準が高まつた時にこそ、意義のある(或は威勢の好い)ことである。現在日本のやうに、芸術も科学も、更に文学でさへも、アカデミスムの恩恵によつて近代的洗礼を受けた事実を目の前にして、アカデミスムの否定に急なるは甚だ偏狭で、幼稚な考へ方である。現代日本の選ばれた人々は、もう暫く辛抱して「官」を利用し、誘導し、為すべきを為さしむべきである。アカデミスムに対する恐怖は、期待の大き過ぎるところから来るので、これこそ官尊民卑の思想である。アカデミスムはある時代の役割を果せばいいのである。アカデミスムの樹立以前に、アンデパンダンの発展を望むが如きは、文化の推移の法則を無視したものである。「官」は「民」のために、「民」によつて存在するといふ確乎たる事実を、官吏はつひ忘れたがるものであり、この職業的関節不随の症状を、さう絶望的に考へなくてもいい。なにをやり出すかわからんのは誠に困つたものだが、なんにもさせずにやるかやるかと待つてゐるより、まあなんでも註文をつけてやらせてみた方がいいのである。きつと悪いことをするだらうといふ猜疑心が、これも無理とは云はぬがちつと強すぎて、どうせさう思はれてゐるならと、不貞な夫のやうな考へを起させないでもない。官民互に相信じ合はないこと(或は信じ合へないこと)は前にも述べたやうに、日本国民にとつて、現代の憂鬱の一つである。
こんなことを書いてゐるときりがないからもうやめる。
武田君には至極平凡な、大へん長つたらしいものを読ませることになつて相済まぬが、どうか許して下さい。殊に最後の一項は君の顔が目の前に浮んでゐるので、つひこんなにくどく書いたらしい。君の「愛国心」が何を語るか、僕は、それを聴く前に、もうわかつてゐるやうな気がする。がしかし、その言ひ方がどんなであるか、大いに楽しみである。(一九三六・八)
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Hard
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一
太郎は長いあいだ、病気でふしていましたが、ようやく床からはなれて出られるようになりました。けれどまだ三月の末で、朝と晩には寒いことがありました。
だから、日のあたっているときには、外へ出てもさしつかえなかったけれど、晩がたになると早く家へはいるように、おかあさんからいいきかされていました。
まだ、さくらの花も、ももの花も咲くには早うございましたけれど、うめだけが、かきねのきわに咲いていました。そして、雪もたいてい消えてしまって、ただ大きな寺のうらや、畑のすみのところなどに、いくぶんか消えずにのこっているくらいのものでありました。
太郎は、外に出ましたけれど、往来にはちょうど、だれも友だちが遊んでいませんでした。みんな天気がよいので、遠くの方まで遊びに行ったものとみえます。もし、この近所であったら、自分も行ってみようと思って、耳をすましてみましたけれど、それらしい声などはきこえなかったのであります。
ひとりしょんぼりとして、太郎は家のまえに立っていましたが、畑には去年とりのこした野菜などが、新しくみどり色の芽をふきましたので、それを見ながら細い道を歩いていました。
すると、よい金の輪のふれあう音がして、ちょうどすずを鳴らすようにきこえてきました。
かなたを見ますと、往来の上をひとりの少年が、輪をまわしながら、走ってきました。そして、その輪は金色に光っていました。太郎は目を見はりました。かつてこんなに美しく光る輪を見なかったからであります。しかも、少年のまわしてくる金の輪は二つで、それがたがいにふれあって、よい音色をたてるのであります。太郎はかつてこんなに手ぎわよく輪をまわす少年を見たことがありません。いったいだれだろうと思って、かなたの往来を走って行く少年の顔をながめましたが、まったく見おぼえのない少年でありました。
この知らぬ少年は、その往来をすぎるときに、ちょっと太郎の方をむいて微笑しました。ちょうど知った友だちにむかってするように、なつかしげに見えました。
二
輪をまわして行く少年のすがたは、やがて白い道の方に消えてしまいました。けれど、太郎はいつまでも立って、そのゆくえを見まもっていました。
太郎は、「だれだろう。」と、その少年のことを考えました。いつこの村へこしてきたのだろう? それとも遠い町の方から、遊びにきたのだろうかと思いました。
あくる日の午後、太郎はまた畑の中に出てみました。すると、ちょうどきのうとおなじ時刻に輪の鳴る音がきこえてきました。太郎はかなたの往来を見ますと、少年が二つの輪をまわして、走ってきました。その輪は金色にかがやいて見えました。少年はその往来をすぎるときに、こちらをむいて、きのうよりもいっそうなつかしげに、ほおえんだのであります。そして、なにかいいたげなようすをして、ちょっとくびをかしげましたが、ついそのまま行ってしまいました。
太郎は畑の中に立って、しょんぼりとして、少年のゆくえを見おくりました。いつしかそのすがたは、白い道のかなたに消えてしまったのです。けれど、いつまでもその少年の白い顔と、微笑とが太郎の目にのこっていて、とれませんでした。
「いったい、だれだろう。」と、太郎はふしぎに思えてなりませんでした。今まで一ども見たことがない少年だけれど、なんとなくいちばんしたしい友だちのような気がしてならなかったのです。
あしたばかりは、ものをいってお友だちになろうと、いろいろ空想をえがきました。やがて、西の空が赤くなって、日暮れがたになりましたから、太郎は家の中にはいりました。
その晩、太郎は母親にむかって、二日もおなじ時刻に、金の輪をまわして走っている少年のことを語りました。母親は信じませんでした。
太郎は、少年と友だちになって、自分は少年から金の輪を一つわけてもらって、往来の上をふたりでどこまでも走って行く夢を見ました。そして、いつしかふたりは、赤い夕やけ空の中にはいってしまった夢をみました。
あくる日から、太郎はまた熱が出ました。そして、二三日めに七つでなくなりました。
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Medium
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益友と交わることの有益を説き聞かせた者は孔子である。誰しも生まれながらに、それを感付いていない者はなかろうが、孔子のような人から明瞭に言われてみると、また感を更たにすると言うもの。しかし、それは生存中の人間のことを指していると決められてはいないだろうか。益を受くる者固より生存者、益を与うる者固より現存者なるかのように世の多くは解釈している。しかし、益友を人間のみに限ることは、あまりにも当然すぎて莫迦正直すぎる。
私はかつて銀座のデパートに催された明治以後著名作家として知られた一流文人の家庭に於ける居室、書斎の実景を、遺留品の羅列によって見せられたことを記憶するが、それは驚くべく低調な備品からなる生活であって、書籍を除いては文豪の日常居室には美術系統、美的趣味などと言ったものには、一顧に価いするものも備えられていないというみじめさであった。
彼等は坐辺に声無き益友を持たないと言うことである。否声無き悪友に同席を許していたともなる。チト古い形容かも知れないが、森羅万象なんであろうと、美しき内容を持つ限り、受け方一つで益友たらざるものはない。また、過去の人間、即ち我々が先輩である人々が遺してくれた美術芸術の数々、これらを指して益友と言うが妥当か、師と仰ぐが正しいか、これは自己の見識できめてよいとして、いずれにしても故人遺すところの芸術は手も届かぬ高さに麗しく光るものが多く有り、驚嘆に価いする事業を見る。これに感動するところをもって望めば、育ての親ともなり、幾分なりとも自分を高きに導いてくれる神仏でもある。
自分は聊かこの点を心に掛けて来た者であるが、主として味覚道楽に浮身をやつし益友の限界を狭くした形であり、後悔せんでもないが、それでも益友を人間とのみ限らなかった点は、大なり小なり至楽の生活を益したかも知れない。
本誌(独歩)に毎号掲載せんとする「坐辺の師友」は、美に関する小品ばかりであり、且つ筍生活、あるいは盗難を免がれた密かに残存する貧困極まるものではあるが、私の作品なり、その他種々の動作に、なんらかを示唆してくれた先生である。種のない手品がないように、何人にも種本はあるものである。
近来、青年作陶人の活況を耳にするが、希くは精々良き師友と交わり、良き刺激を受け、人なき陶界への進展を期して貰いたい。ロクロばかり廻していたとて、名陶は生まれるものではない。
重ねて言うが、画家、彫刻家、作陶家等、そんな仕事に従わんとする者は、美術的良師と益友を得ることが先ず大切である。が、生存者中より一人二人を選ぶことは種々の障りがあるもので、また益友といってもなかなかあるものではない。よし、また見つかったとしても、一人二人の経験談では極めて得る所が小さい。昔のように印刷物や書画の複製などない時代には、師匠も必要であったかも知れぬが、今日ではもはやその要はない。このような理由から考えても、良師益友を古人から選ぶことは、最も得策である。
また、ある者は身近に優れた美術品を置くには、金なくてはと言うだろうが、これは金よりも自分が熱心でないから集まって来ないので、昔から物は好む所に集まるとさえ言われている。眼のある所に玉が寄るという諺もあるではないか。自分のことを例にとっては失礼かも知れぬが、私は二十歳頃より縁日その他で小さいものを少しずつ買い集めた。その後、間もなく東京に来てからは、下宿の二階はなにかしらごたごた散らかり、それがまた使うより見るのが好きで集めたものであるから、行李の底にしまうわけにはいかず、下宿のおばさんが掃除に手古摺ったものである。後年『古染付百品集』をこしらえたが、これもひとりでに集まったもので、当時はまだ陶器などに着目する人は稀で、あちこちにごろごろしていたのである。そして、当時の私の経済状態はと言えば、星岡時代のことなのだが、正月元旦に十円か十五円の小遣いしかなかったほどの貧乏だった。それがだんだん集まったというのも、まさしくこの「好き」の一字であったと思う。
今後作家たらんとする後進は、努めて身辺を古作の優れた雅品で、満たすべきである。かけらでも、傷物でも、そんなことは頓着することはない。殊に、自然美を身につけるのには、山も川も別に金はかからぬわけだ。山を眺め水を賞し、花を愛すればよいのである。私は以上の如き意味で、坐辺に師友を若干持っている。が、富豪の家に飾るものはかけらすらもない。(昭和二十七年)
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Hard
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今も恁う云ふのがある。
安政の頃本所南割下水に住んで、祿高千石を領した大御番役、服部式部の邸へ、同じ本所林町家主惣兵衞店、傳平の請人で、中間に住込んだ、上州瓜井戸うまれの千助と云ふ、年二十二三の兄で、色の生白いのがあつた。
小利口にきび〳〵と立𢌞る、朝は六つ前から起きて、氣輕身輕は足輕相應、くる〳〵とよく働く上、早く江戸の水に染みて早速に情婦を一つと云ふ了簡から、些と高い鼻柱から手足の爪まで、磨くこと洗ふこと、一日十度に及んだと云ふ。心状のほどは知らず、中間風情には可惜男振の、少いものが、身綺麗で、勞力を惜まず働くから、これは然もありさうな事で、上下擧つて通りがよく、千助、千助と大した評判。
分けて最初、其のめがねで召抱へた服部家の用人、關戸團右衞門の贔屓と、目の掛けやうは一通りでなかつた。
其の頼母しいのと、當人自慢の生白い處へ、先づ足駄をひつくりかへしたのは、門内、團右衞門とは隣合はせの當家の家老、山田宇兵衞召使ひの、葛西の飯炊。
續いて引掛つたのが、同じ家の子守兒で二人、三人目は、部屋頭何とか云ふ爺の女房であつた。
いや、勇んだの候の、瓜井戸の姊は、べたりだが、江戸ものはころりと來るわ、で、葛西に、栗橋、北千住の鰌鯰を、白魚の氣に成つて、頤を撫でた。當人、女にかけては其のつもりで居る日の下開山、木の下藤吉、一番鎗、一番乘、一番首の功名をして遣つた了簡。
此の勢に乘じて、立所に一國一城の主と志して狙をつけたのは、あらう事か、用人團右衞門の御新姐、おくみと云ふ年は漸う二十と聞く、如何にも、一國一城に較へつべき至つて美しいのであつた。
が、此はさすがに、井戸端で名のり懸けるわけには行かない。さりとて用人の若御新姐、さして深窓のと云ふではないから、隨分臺所口、庭前では、朝に、夕に、其の下がひの褄の、媚かしいのさへ、ちら〳〵見られる。
「千助や」
と優しい聲も時々聞くのであるし、手から手へ直接に、つかひの用の、うけ渡もするほどなので、御馳走は目の前に唯お預けだと、肝膽を絞つて悶えて居た。
其の年押詰つて師走の幾日かは、當邸の御前、服部式部どの誕生日で、邸中とり〴〵其の支度に急がしく、何となく祭が近づいたやうにさゞめき立つ。
其の一日前の暮方に、千助は、團右衞門方の切戸口から、庭前へ𢌞つた。座敷に御新姐が居る事を、豫め知つての上。
落葉掃く樣子をして、箒を持つて技折戸から。一寸言添へる事がある、此の節、千助は柔かな下帶などを心掛け、淺葱の襦袢をたしなんで薄化粧などをする。尤も今でこそあれ、其の時分中間が、顏に仙女香を塗らうとは誰も思ひがけないから、然うと知つたものはない。其の上、ぞつこん思ひこがれる御新姐お組が、優しい風流のあるのを窺つて、居𢌞りの夜店で表紙の破れた御存じの歌の本を漁つて來て、何となく人に見せるやうに捻くつて居たのであつた。
時に御新姐は日が短い時分の事、縁の端近へ出て、御前の誕生日には夫が着換へて出ようと云ふ、紋服を、又然うでもない、しつけの絲一筋も間違はぬやう、箪笥から出して、目を通して、更めて疊直して居た處。
「えゝ、御新姐樣、續きまして結構なお天氣にござります。」
「おや、千助かい、お精が出ます。今度は又格別お忙しからう、御苦勞だね。」
「何う仕りまして、數なりませぬものも陰ながらお喜び申して居ります。」
「あゝ、おめでたいね、お客さまが濟むと、毎年ね、お前がたも夜あかしで遊ぶんだよ。まあ、其を樂みにしてお働きよ。」
ともの優しく、柔かな言に附入つて、
「もし、其につきまして、」
と沓脱の傍へ蹲つて、揉手をしながら、圖々しい男で、ずツと顏を突出した。
「何とも恐多い事ではござりますが、御新姐樣に一つお願があつて罷出ましてござります、へい。外の事でもござりませんが、手前は當年はじめての御奉公にござりますが、承りますれば、大殿樣御誕生のお祝儀の晩、お客樣が御立歸りに成りますると、手前ども一統にも、お部屋で御酒を下さりまするとか。」
「あゝ、無禮講と申すのだよ。たんとお遊び、そしてお前、屹と何かおありだらう、隱藝でもお出しだと可いね。」
と云つて莞爾した。千助、頸許からぞく〳〵しながら、
「滅相な、隱藝など、へゝゝ、就きましてでござります。其の無禮講と申す事で、從前にも向後も、他なりません此のお邸、決して、然やうな事はござりますまいが、羽目をはづして醉ひますると、得て間違の起りやすいものでござります。其處を以ちまして、手前の了簡で、何と、今年は一つ、趣をかへて、お酒を頂戴しながら、各々國々の話、土地所の物語と云ふのをしめやかにしようではあるまいか。と、申出ました處、部屋頭が第一番。いづれも當御邸の御家風で、おとなしい、實體なものばかり、一人も異存はござりません。
處で發頭人の手前、出來ませぬまでも、皮切をいたしませぬと相成りませんので。
國許にござります、其の話につきまして、其を饒舌りますのに、實にこまりますことには、事柄の續の中に、歌が一つござります。
部屋がしらは風流人で、かむりづけ、ものはづくしなどと云ふのを遣ります。川柳に、(歌一つあつて話にけつまづき)と云ふのがあると、何時かも笑つて居りました、成程其の通りと感心しましたのが、今度は身の上で、歌があつて蹴躓きまして、部屋がしらに笑はれますのが、手前口惜しいと存じまして、へい。」
と然も〳〵若氣に思込んだやうな顏色をして云つた。川柳を口吟んで、かむりづけを樂む其の結構な部屋がしらの女房を怪しからぬ。
「少々ばかり小遣の中から恁やうなものを、」
と懷中から半分ばかり紺土佐の表紙の薄汚れたのを出して見せる。
「おや、歌の、お見せな。」
と云ふ瞳が、疊みかけた夫の禮服の紋を離れて、千助が懷中の本に移つた。
「否、お恥かしい、お目を掛けるやうなのではござりません、それに夜店で買ひましたので、御新姐樣、お手に觸れましては汚うござります。」
と引込ませる、と水のでばなと云ふのでも、お組はさすがに武家の女房、中間の膚に着いたものを無理に見ようとはしなかつた。
「然うかい。でも、お前、優しいお心掛だね。」
と云ふ、宗桂が歩のあしらひより、番太郎の桂馬の方が、豪さうに見える習で、お組は感心したらしかつた。然もさうずと千助が益々附入る。
「えゝ、さぐり讀みに搜しましても、どれが何だか分りません。其に、あゝ、何とかの端本か、と部屋頭が本の名を存じて居りますから、中の歌も、此から引出しましたのでは、先刻承知とやらでござりませう。其では種あかしの手品同樣、慰みになりません。お願と申しましたは爰の事。お新姐樣、一つ何うぞ何でもお教へなさつて遣はさりまし。」
お組が、ついうつかりと乘せられて、
「私にもよくは分らないけれど、あの、何う云ふ事を申すのだえ、歌の心はえ。」
「へい、話の次第でござりまして、其が其の戀でござります。」
と初心らしく故と俯向いて赤く成つた。お組も、ほんのりと、色を染めた、が、庭の木の葉の夕榮である。
「戀の心はどんなのだえ。思うて逢ふとか、逢はないとか、忍ぶ、待つ、いろ〳〵あるわねえ。」
「えゝ、申兼ねましたが、其が其の、些と道なりませぬ、目上のお方に、身も心もうちこんで迷ひました、と云ふのは、對手が庄屋どのの、其の、」と口早に云ひたした。
お組は何の氣も附かない樣子で、
「お待ち、」
と少々俯向いて、考へるやうに、歌袖を膝へ置いた姿は、亦類なく美しい。
「恁ういたしたら何うであらうね、
思ふこと關路の暗のむら雲を、
晴らしてしばしさせよ月影。
分つたかい、一寸いま思出せないから、然うしてお置きな、又氣が附いたら申さうから。」
千助は目を瞑つて、如何にも感に堪へたらしく、
「思ふこと關路の暗の、
むら雲を晴らしてしばしさせよ月影。
御新姐樣、此の上の御無理は、助けると思召しまして、其のお歌を一寸お認め下さいまし、お使の口上と違ひまして、つい馴れませぬ事は下根のものに忘れがちにござります、よく拜見して覺えますやうに。」
と、しをらしく言つたので、何心なく其の言に從つた。お組は、しかけた用の忙しい折から、冬の日は早や暮れかゝる、ついありあはせた躾の紅筆で、懷紙へ、圓髷の鬢艷やかに、もみぢを流す……うるはしかりし水莖のあと。
さて祝の夜、中間ども一座の酒宴。成程千助の仕組んだ通り、いづれも持寄りで、國々の話をはじめた。千助の順に杯が𢌞つて來た時、自分國許の事に擬へて、仔細あつて、世を忍ぶ若ものが庄屋の屋敷に奉公して、其の妻と不義をする段、手に取るやうに饒舌つて、
「實は、此は、御用人の御新姐樣に。」
と紅筆の戀歌、移香の芬とする懷紙を恭しく擴げて、人々へ思入十分に見せびらかした。
自分で許す色男が、思をかけて屆かぬ婦を、かうして人に誇る術は。
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昆布とろというのは、昆布とかつおぶしの煮だしだけでつくるとろろ汁である。夏の朝、食事の進まないようなとき、あるいはなにを食っても口が不味いとき、またはなにも口に運ぶ気が起こらないときなどに、これをこしらえて熱い御飯にかけて食うと、まずは大概美味い美味いで、日ごろの三杯飯は、知らず知らず五杯飯になること請合いである。
製法は極めて簡単だが、美味しく食うことの根本は、材料の選択の如何である。昆布のことは、京、大阪では心配はないが、東京となると、どこにでもあるというわけにはいかない。
由来、東京人は昆布の味を知らない。だから昆布だしの味というものを解しない。従って昆布を使わない。それゆえ、あまり方々で売ってないということになる。東京人の舌は、そう言ってはわるいが、すこぶる杜撰なものである。落着いた味、静かな味、淡い味を知るには、あまりにも荒っぽすぎる。だから東京好みは俗になりやすいのである。例えば、くどい味、油っ濃い味、粗野な味、手っ取り早い味、落着かないせかせかした味、甘ったるい味というところに嗜好が動く。
論より証拠、東京っ子は今もなおてんぷらが好きだ。しかも、甘ったるいだし汁を用いて。うなぎが好きだ。これも中串以上の大物が好まれる。しびまぐろが好きだ。しかも、油っ濃いトロというのを好む。このまぐろとか、てんぷらとか、うなぎとか言うものは、元来酒の肴として極めて調和のわるいものである。にもかかわらず、東京っ子はこれをもってよろこんで酒を飲む。次に牛肉のすき焼きが好きだ。いずれをみても手っ取り早い簡単な味ばかりであって、女でも子どもでも、書生でもというわけである。そして、これを自慢しいしい日常生活に堅く結びつけているのが大部分の江戸人であり、東京人である。それをとらえて、私が東京人の舌は杜撰であると言うのも、あながち無理ではあるまい。
しかし、昔から東京にも通人がいて、衣食住なんでござれ、並尋常では済まさぬという凝り方の、趣味性に富んでいる人もいるのであるが、これも雅びやかな風流人ではなく、よく江戸文学にあらわれるような一種の型のあるものであって、ちょっといなせなところがあり、気取ったところがあって、稚気があり、童心に満ち、愛すべきところのものであるが、やはり、これもまだ「若い」の一語に尽きるようで、軽い感じをまぬかれない。
昆布の選択がとんだところへ脱線してしまったが、事実、食通はかつおぶしの味ばかり知っただけですましているのでは問題にならない。是非とも昆布だしの味を知らねばならない。たいの眼玉で潮の吸いものをするのはよいが、かつおぶしのだしでは合点がいかない。たいの潮は、なんと言っても昆布だしにかぎるものである。さかなにさかなのだしでは魚味の重複でおもしろくない。これは理屈が言いたくて言うのではない。実際において、たいの味と海藻である植物の味との混合で潮の汁味は成立するようである。
ところで、この昆布だが、かつおぶしに上下の差異があるように、昆布だから一概によいだしが出るとは言い切れない――と言ってみても、良質の昆布は、東京ではそんじょそこいらに今なお売っていないようである。だから、私は京都の松前屋からわざわざ取り寄せる。産地の北海道みやげだからと安心するわけにもいかないようである。幅広で、白い粉が吹き、立派にみえるものだからと言って美味いとはかぎらない。東京で安心して買えるのは、今のところ、室町の山城屋だけしか私は知らない。
とにかく、美味い料理の根本は材料にあると考えねばならぬ。庖丁の力は四であり、購買の力は六であるというようなことを中国の随園という人が言っているくらいで、美食は裏表ともに食品材料の鑑識が必要であり、またその食品鑑定ができるようでなくては、料理はできないと言うことにもなるのである。
さて、長談義をこのくらいに止めて、いよいよ昆布とろの製法に取りかかろう。まず最初上等のだし昆布の砂を落とし、塵を払い、水を使わずに洗ったようにきれいにする。次に縦長に幅五分ぐらいに真田紐のように、鋏で切る。それをまた小口から細く長く五分の糸のように切る(昆布茶の出来合い品のように)。次にかつおぶしの煮だしをやや濃い目につくる。かつおぶし一合に醤油三勺ぐらい入れた味をつけ、微温程度に冷ます(ただし刻み昆布一合煮だし二合ぐらい)。以上で材料は調ったわけである。次は擂鉢に前に刻んだ昆布を五勺とか一合入れる。一合なら五人前ぐらいになる。刻み昆布の入った擂鉢の中へ前述の醤油加減しただしを、最初少しばかり入れて、それを杉箸五本くらいを片手に持って、かきまわすのである。擂粉木でするのもよい。それを十分間くらい根気よくかきまぜ、昆布よりねばりが出るようになるまでつづける。
こうして、以前のだしを少しずつ入れながら同じことを繰り返し、なるべくとろろのようにどろどろした液をつくるのが、昆布とろの眼目である。人手の多い家なら、替り合って精々かきまぜ、ねばねばしたものに仕立て上げるのである。
かくして、でき上がった汁を昆布は除き、炊きたての御飯に少量かけて、その上に浅草のりのもみ粉を少し振り掛けて食べる。ただこれだけであるが、万人向きに美味いものであって、食通をよろこばすに足る調子の高い料理である。
これを要約して言えば、昆布とかつおぶしの味の長所を合理的に利用した簡単な美食である。精進ならかつおぶしを用いないでやるのもよいだろう。
(昭和六年)
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筆者は一九〇一年から一九〇三年にかけてライプチヒ大学にまなび、ヴントの講義を聴いた。丁度いまから半世紀前のことである。したがってその記憶も最早ぼやけてしまっている。しかしこの思出を書くについて彼の自伝(Erebtes und Erkanntes 1920)をひもといて見ると、彼の思想その他について、これまで漠然と考えていたことがかなりはっきりしてきたように思う。が、ヴントのように、己が思想の展開に絶えず心掛け、それを修正し、純化するを忘れなかった学者の思想を、正しく把握するということは容易なことでないのはいうまでもない。
ヴントは一八三二年南独バーデンのネッカラウ村の一牧師の家に生れた。一八五一年から一八五六年までチュービンゲン・ハイデルベルヒおよびベルリン大学で医学をまなんだ。そして一八五六年ハイデルベルヒ大学においてハッセ教授の下で『炎症を起し変性を起した器官における神経の変化』(Die Veränderngen der Nerven in entzündeten und degenerierten Erganen)という論文を提出して学位をとり、ハッセの臨床助手として働いたのであるが、当時クリニークにいる患者の中に、皮膚および筋肉麻痺を病んでいる者のいくらかに感覚の局所指定の障害のあるのを見た。そこで、彼は、ハインリヒ・ヴェーバーの触感覚の解剖的基礎に疑いを起こし、心理学的に解すべきであるとなし『感官的知覚の理論への寄与』(Beiträge zur Theoric der Sinneswahrnehmung)を書いて、一八五八年から一八六二年にかけて合理的医学に掲載した。それが刺激となってヴントは心理学の研究にはいることになった。ところが、その当時心理学といえば、ロッチェ、フォルトラーゲ、フォルクマンの著書論文のようなものがその主なるものであったとのことである。とにかく、彼が心理学の実験的作業を始めたのはハイデルベルヒのクリニークにおいてであって、まだ哲学の根本的研究にははいっていなかった。
ヴントは一八五七年私講師として大学に就職することになり、生理学を担当した。一八六三年には『人間および動物の心の講義』(Vorlesungen über die Menschen und Tiersele)を公にした。この書は、その当時さかんに行われていた進化の思想を、心的生活の発達を感覚や知覚の単純な過程から、さらに一般的な、動物界を包括する研究へおしひろめる計画のもとに書かれたものであるが、動物心理の研究がまだ不十分であり、民族心理学的考察もその当をえないところがあるというので、一八九二年の第二版では書きかえられていくぶん通俗的な実験心理学書となっている。
一八七四年実験心理学最初の大著『生理学的心理原理』(Grundzüge der physiologischen Psychologie)二巻が公にされた。それは劃期的な実験的研究の集積であって、彼の業績中もっとも重きをなす。
彼は民族心理学を別に書くつもりで、民族心理に関する問題を大学の講義に取りあげ、ひさしい準備の後、一九〇〇年『民族心理学』(Völkerpsychologie)第一巻を公にし、一九一〇年になって最後の第十巻が公にされた。民族心理学の取扱っているのは、言語、芸術、神話および宗教、社会、法律および文化である。そして、それは、言語、神話および慣習なる民族心理学の三区分に関連する民族心理学的考察の中心問題をふくんでいる範囲である。
ヴントは一八八六年『倫理学』(Ethik)を公にした。初版は一巻であったが、後の版では二巻となり、三巻となり、道徳生活の事実、諸々の道徳的世界観、自己の道徳的世界観をのべている。彼の見解によると、どんな倫理学であっても、その規範をそれみずからの上におくかぎり、どうしても道徳的価値の個人的、したがって主観的にして官能的な評価にまかせるということにならざるをえない。たとえば、個人主義的功利論であれば、各人の功利、すなわち快楽という主観の感情の満足が道徳上の規範となってこなければならぬ。が、それでは道徳的なるものの真の内容を明らかならしめることはできない。したがって、どうしても、道徳法則の発達のよって生ずべき客観的に与えられたものを一つの予想としなければならないとなし、文化の促進を道徳的規範とした倫理学を立てるにいたった。
倫理学のほかに、一八八九年『哲学体系』(System der philosophie)をはじめ、いくたの著書を公にしているが、ヴントの思想はこれまであげてきた諸書の中で大体つくされているといっていい。
ヴントは一八七四年スウィスのチューリヒ大学にまねかれ、唯物論史の著者として知られていた新カント学派のフリードリヒ・アルバート・ランゲの後任として、正教授として帰納哲学を講ずることになったのであるが、彼は一八七五年夏の学期には論理学一週四時間と一週三時間の民族心理学とをはじめて講ずることになった。ハイデルベルヒでは、大抵一週一時間か二時間の講義をするだけであったので、今度はずいぶん骨が折れそうに思われた。ところがいよいよ講義を始めるというすこし前になって、久しく忘れていた部厚な二冊の講義ノートを発見した。それには二つの講義内容が逐語的に書きあげられていた、とみずから語っている。それをもって見ても、ヴントが論理学および民族心理学に対して、ずっと以前から準備していたことが分かる。彼は一八七五年秋ライプチヒ大学へ転任し、すぐつぎの冬の学期に言語の心理学一週一時間の講義をする時、そのノートを逐語的に書き改めたということであるが、そういうところに刻苦精励倦むことを知らないヴントの性格をうかがうことができる。
ヴントがチューリヒ大学帰納哲学正教授に就職して最初に論理学と民族心理学の講義を並行的に行ったということは、完成した彼の思想体系の上から考えると、意味あることのように思われもするが、彼の告白しているところによると、実はそうではなかった。というのは、その当時においては、まだ、論理学的研究の結果と民族心理学的研究のそれとの一致点および差異点をたがいに比較し、どこまで、心理学的見地が論理学の上に、また民族心理学の中で考察された複雑な精神機能の上に一定の影響を与えることができるかなどということには気がつかなかった、といっているからである。
筆者はライプチヒで四学期間ヴントの講義を聴いたが、そのあいだ、心理学一週四時間と哲学史一週二時間の講義があっただけで、それ以外なんの講義もなかった。それは、彼が心理実験場を主宰していたからかも知れぬ。講義は五百人もいれるに足るような大学でもっとも大きな階段教室であった。ヴントは半紙四つ折ぐらいの白紙四、五枚に覚書を書いてきて、すみずみまでもよくとおる力強い声で講義した。筆者の講義を聴いた時は彼はすでに七十才の高令に達していたが、元気旺盛老人らしいところはすこしもなかった。彼は講義中、ときに皮肉をまじえ苦笑することがあった。哲学史の講義の時であるが、哲学史家として聞こえた新カント学派のヴィンデルバンドの哲学史をあげ、その表題に文化との関連においてとあるのを捉えて、「それはただ表題にだけ」といって苦笑された時にはいかにも皮肉に聞こえて聴講者は一齊に足踏みをしたものである。ライプチヒには多数のわが留学生がおり、文科系統の者も常に三、四名はいた。が、ヴントの講義にかかさず出席するのは早稲田からきていた金子馬治君と筆者とくらいであった。どういう折であったか、心理実験場の話がでて、入れてもらおうではないかということになり、ヴントに申出ると、ヴントは、心理実験場の助手を兼ねていたヴイルト私講師を通じて、客員として入れてやろうということで、しばらく心理実験場へも通った。
すると、ほど経て、ヴントから招待状が舞込んだ。読んでみると、キュルペ教授が出てくるので一夕会をするから出て来いとあった。いってみると、来客は教授を主賓として、ほかはヴントの旧い弟子達と息子を合せて十人ほどのいたって家族的なあつまりであった。食後よもやまの話が出で、ヴントは息子を紹介し、目下古代言語学を勉強しているといっていた。それが後に『ギリシャ倫理学』という大著を書いたマクス・ヴントである。それから、言語の話が出て、ヴントは、仙台の某氏から日本語について通信を受けているといっていたが、その某氏というは、二高教授だったということである。この筆を執るにあたって、その名前を思い出そうとしても思い出すことができぬ。一九一一年に公にした『心理学入門』(Einfiihrung in die psychologie)という小冊子の統覚の章で、統覚的思想結合とただの連合との差異を説明するにあたって、前者の例として清少納言の枕草紙の巻頭にある「秋は夕暮、夕日はなやかにさして云々」の文章を挙げているが、それなどは某氏の通信からえたものかも知れぬ。
それから、ヴントが哲学史を久しく講義しつづけたということは、ちよっと異様に感ぜられよう。もとよりその思想体系の上からみると、発達の思想が重要な契機をなしている関係から哲学史のようなものもつづけて講義するようになったものと考えられもしよう。しかし、それには一つの機縁がある。というのは、ヴントが一八七五年チューリヒからライプチヒへ転任してきた時、哲学史家ハインツェが同じくライプチヒへまねかれてきた。ハインツェは哲学の言語学的歴史的方面を担当し、ヴントはその自然科学的方面を担当するはずであった。ところが、ハインツェは講義科目を厳密に限定するのは面白くないからその選定を自由にしようではないかと提言した。ヴントは喜んでそれに同意し、第三学期から哲学史を講ずることになり、ハインツェも時に心理学を講じた。そういう次第でヴントは哲学史も講義することになったのであるが、講義をつづけているうちにそれに興味をおぼえるようになり、ことに哲学の歴史をもって将来の思想の展開に光をなげるものと信じていたところからであろう。彼は哲学史の講義は、講義の中で一番好きなものとなったといっている。筆者の聴いた古代哲学史の講義のごとき、古代の自然科学や数学と哲学思想のつながりを明らかにした、きわめて興味深いものであった。
ヴントの思想体系はこれまであげてきた著書でもって完成されているわけであるが、ここにその略図を描くとするとつぎのようになるであろう。
ヴントは、心理学をもってあらゆる精神科学の基礎科学であるとするのであるから、精神科学はいずれも心理学の上に立たなければならぬ。しかし、その心理学なるものは、ただ、個人的意識に現われる過程だけを取扱うところの個人心理学だけに限ぎられているのではなく、人間の共同生活の上に現われる複雑な精神的過程を考察の対象とする民族心理学をもふくんでいるとする。それで、ヴントの思想体系の上では、個人心理学、すなわち実験心理学の上層建築をなすものは民族心理学であって、心理学はそれでもって完結するものである。
こういう根本的考え方に立っているので、人はよくヴントをもって、心理学者であって哲学者ではないとなした。それは必ずしも理由のないことではない。というのは、彼が一八八九年に公にした『哲学体系』(System der philosophie)を見ても、科学的哲学の問題や分類を説いたり、思惟、認識、悟性概念および超越的概念を論じ、自然哲学や精神哲学を説いているにとどまって形而上学的問題そのものに深く立入っていないからである。
さて、ヴントは一八九六年に公にし、一九二〇年に第十四版を出した『心理学綱要』(Grundriss der Psychologie)において心的事件の一般的法則として三つの原理をあげている。一、心的成果の原理。この原理は心的結合体なるものは、それを組立てている要素の総和ではなく、新らしい産物であるという、創造的綜合の原理である。二、心的関係の原理。それは合成的産物を組立てている要素相互に内的関係をなしていて、その関係から創造的性質が現われてくる。三、感情生活の多次元性の原理。ヴントは世間に行われている主知主義的心理学の採っている感情の性質を快、不快の二つとする理論に反対して、感情には快不快、緊張弛緩、興奮鎮静の対比した三つの方向があるとなした。この主張には各方面から反対が出てきているが、体験の示すところでは感情の性質はたしかに多い。が、なお検討の要あるのはいうまでもない。以上の原理は、ただ、個人の心的生活に効力を有するだけではなく、全体社会の精神生活においても効力を有するとする。
ヴントの思想体系では前述のように、心理学があらゆる精神科学の基礎科学であると考えるものであるから、論理学を取扱うにあたっても、それを、経験的現実の彼岸にある、先天的な学問だなどとは考えずして、一段高次な経験の科学と見、他の科学と同じように、文化にしたがって、経験の具象的性質にしばられているものとなし、科学としての西洋の論理学なるものはインドゲルマン文化と一部セミチック文化の創造になるものとなした。
倫理学であってもそうであって、それが漠然とした勝手な仮定の中に動くというようなものでないというには、生活の客観的精神的財の予想の上に立たなければならぬ。けだし、物質財なるものは、精神財の補助手段であり、その成立の前条件であることができるにとどまっていると。ここに、ヴントのイデアリズムを見ることができる。
ヴントは、研究へは、アルバート・ランゲによって励まされたといっているが、そうかも知れぬ。とにかく、一八五七年『感官的知覚の理論への寄与』を書いてから、一九一四年『感覚的および超感覚的世界』(Sinnliche und übersinnliche Welt)を公にするにいたる五十余年の長年月は、まったく自己の思想体系の展開にささげられた。彼の見解にはいくたの議すべき点があるにしても、心理学および精神科学の発達に寄与したその功績は永く忘れられないであろう。
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人影のない夕暮の砂浜を、たゞ一人、歩いてゐることが好きでした。
それは私の感傷癖と別に関係はないやうです。水と空とを包む神秘な光に心を躍らせる外、一向追憶めいた追憶にふけるわけでもなかつたのですから。まして、月が波の上に出るのを待つて、ロマンスの一節を口吟むほど甘美なリヽシズムをも持ち合せてゐない私なのですから。
が、然し、それは、私の空想癖とは密接な交渉があるらしく思はれます。なぜなら、あの岩角に当つて砕ける濤の姿から、常に一つの連想を呼び起し、渺茫たる水平線の彼方に、やゝもすれば奇怪な幻影を浮び出させるのがおきまりだつたからです。
憂愁を歌つた世界最初の詩人、シヤトオブリヤンの墓から汀つゞきに、「エメラルドの浜」と呼ばれるブルタアニユの北海岸、そこは河原撫子の乱れ咲くラ・ギモレエの岬なのです。
ホテルとは名ばかりの宿に、私一人が客でした。
「何しにこんな処へ来なすつた」主人は私の顔を見るたんびに、かう訊ねかけたものです。
それでも、麦の穂が黄ばむ頃になると、松林を背にした宏壮な別荘――「プリムロオズ」と名のついたその別荘の前庭で、ナポレオンの血を享けてゐるといふ男装の美女が、葉巻をくゆらせながら、多くの紳士淑女に交つて、ゴルフなどをしてゐるのが見えました。
或る月曜日の午後、一台の辻馬車が、私の泊つてゐるホテルの前に駐まりました。車を降りたのは、一目でパリからの客とわかりはしましたが、どつちかと云へば地味なつくりをした、二十二三の女でした。
女は一人でした。
さあ、話が面白くなりさうです。と云つて、あなた方の予想どほり、月並な小説的事件が起るわけではありません。
彼女は三度三度食堂へ出て来ました。私は蒸肉の一と切れを自分の皿に盛りながら、いくらかの好奇心も手伝つて、彼女の住居などを尋ねました。
三日たち、四日たち、風が一度吹き、雨が二度降りました。
五日目の日が暮れかゝらうとする頃です。私は、例によつて、一人で、雨上りの砂浜を歩いてゐました。波が少し立つてゐました。何時になく疲れが早く出て、私は、とある岩角に腰を下ろしました。
私の眼は、もう幻想を追つて、砂と水と空との間をさ迷つてゐました。そこには、見知らぬ男女の、さまざまな姿が浮び、それが代る代る珍らしい踊りを踊つてゐました。
ふと、私は、後ろから聞えて来る微かな跫音に耳を聳てたのです。
それは彼女でした。彼女はそつと私に忍び寄らうとしてゐるのです。
あゝ、かういふと、もうそんな眼附をなさる!
私は、わざと驚いた振りをして見せました。彼女は、大声に笑ひながら駈け出しました。
さうさう、彼女は、この土地へ着く早々、しきりに退屈を訴へました。そして、土曜日の晩を待ち遠しがつてゐました。土曜の晩には、パリから、一晩泊りで彼女の夫が来る筈になつてゐるのです。
余談ですが、パリなどでは、夏になると、細君や子供を避暑地にやつて置いて、夫は、土曜日の晩から日曜へかけてそこへ出掛けて行く風習があります。土曜の午後、パリの各停車場には、さういふ夫たちを運ぶ汽車が準備されてある。これを俗に「亭主列車」と呼んでゐます。
彼女は、その「亭主列車」を待つてゐる細君の一人なのです。尤も、それを待ち暮さないやうな女なら、こんな淋しい土地へ一人で来るわけがないぢやありませんか。
そこで彼女は、大声で笑ひながら駈け出しました。と、思ふと、五六間離れた砂山の蔭から、水着一つになつて飛び出しました。私の方は見ずに、そのまゝ、海へ――その姿を私は微笑みながら見送りました。
彼女のからだは、もう腰から下、水に漬かつてゐました。両手を水平に左右へ、それを肩から押し出すやうに振つて、深く深くと進んで行くのです。一度波を浴びたその乳色の肩先が、薄暮の光を受けて鱗のやうに輝いてゐました。
間もなく、彼女の首だけが、波の上に浮んで見えました。
此処に来て、それまでは一度も海にはいらうと思はなかつた私は、この時、何となく、着物が脱ぎたくなつた。何を躊躇してゐるのだ! 起ち上つて、私はまた別の岩角に腰を下ろしてしまひました。
彼女は、めつたに人と口をきゝませんでした。どうかすると、人に話をさせて、自分は何かほかのことを考へてゐる、さういふ風なことさへよくありました。
「本をお読みになれば、何かお貸しゝませうか」
「小説? あたし小説は嫌ひですの」
おゝ、ミュウズよ、彼女の冒涜を赦せ。彼女は、その代り彼女の夫を何ものよりも愛してゐるに違ひない。
彼女は自分の部室に閉ぢ籠つてゐることはありませんでした。
首から上の彼女は、こつちを向いてゐるらしかつた。抜き手が時々乱れた。頭が度々水の中にかくれました。
それが、今度は、激しく現はれたり消えたりしました。両手だけが同時に水の上に出ました。波が細かにゆれました。
「助けて…………」といふ声が聞えるのです。私は笑つてゐました。
また「助けて……」
私は笑はうとしました。が、今度は、無意識に上着を脱ぎ棄てました。
見ると、彼女の顔は、もうそこに見えるのです。空を仰いで、狂ほしく叫んでゐる。ほどけた髪の毛が、もれ上る波の頂に逆立つてゐます。
私は夢中で水の中に飛び込んだ。此の瞬間、自分の勇壮な風姿を想像して、一寸口をゆがめました。
水が膝まで来るところで、私は彼女の方に手を伸ばしました。彼女は、真蒼な頬に感動の色を泛べながら私の手に取り縋りました。
やがて、彼女のぐつたりしたからだが砂の上に運ばれました。
「お芝居でせう」かう云つて、私は苦笑しました。
その翌日、夕食の時刻に、私は彼女の夫に紹介されました。彼は幸福な男のあらゆる表情を漲らせながら、私の手を握りました。
彼女は、その日の朝、私が散歩に出ようとするのを呼び止めて、かう云ふのでした。
「昨日のこと、うちには黙つてゝ頂戴。叱られるから……。うちがあなたにお礼を云はなくつても悪く思はないで下さいね。その代り、あたしは一生この御恩は忘れませんわ」
私は黙つて、彼女の眼を見ました。
誘はれるまゝに、私は二人のお伴をして海岸に出ました。彼女は、昨日の事件を想ひ出させる場所に来ると、夫の蔭から私の方に笑ひかけました。
「此の方は随分御親切なのよ。昨日あたしが晩御飯に遅れたら、道を迷つたんぢやないかと思つて、わざわざ迎ひに来て下すつたの」
「さうか」夫はそれほど興味が無さゝうに答へました。
夫は、なぜだか、彼女が私について話すのを厭ふやうに見えました。実際、彼女は、私のことを話し過ぎるのでした。彼女は、それに気がついてか、「処で店の方はどう」などゝ問ひかけるのでした。そして、私には、時々例の微笑を送ることを忘れないのです。
私は、丁度一人で歩いてゞもゐるやうに、黙つて、自分だけの幻想を楽しみながら、静かに歩を運んでゐました。
彼女のぎごちない笑ひ声のみが、時々私の頭を掻き乱す外、海浜の暮色は、常の如く、私の心を超実在の世界へ導くのでした。
あの水の底に、もつと美しい、そしてもつと自由な女を見てゐるのです。その女は、私に救ひを求める代りに、私をさし招いてゐるやうに思はれるのでした。
何時の間にか、私は二人の姿を見失つてゐました。
海が、白い歯をむき出して嗤つてゐました。
翌朝、彼女は私の耳もとに口をよせて
「あたしたち、今晩パリへ帰りますの。あたしをこんな淋しい処へ一人で置いて置くわけに行かないつて云ふんですのよ。それやさうね」
夫婦は、その日の夕方、馬車に乗りました。真夏の夕日が、都に帰るといふ若い二人の背に、皮肉な明るさを投げかけてゐました。
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京の舞妓の面影は、他のものの変り方を思えば、さして著しくはありませんが、それでもやはり時代の波は伝統の世界にもひたひたと打ち寄せているようです。髪の結方とか、かんざしとか、服装の模様とかが、以前に比べると大分変って来ています。髪なんか、昔の純京風は後のつとを大きく出して、かたい油つけをつけたものですが、近ごろは、つとも小さくなり油つけもつけないでさばさばした感じのものになってしまいました。
かんざしも夏には銀製の薄のかんざしをさしたもので、見るからに涼しげな感じのものでした。今も銀の薄のをさしてはいますが、薄の形が変って来て、昔のように葉がつまっておらず、ばらばらになってきています。服装の模様なども昔は裾模様のようなものが多く、一面に友仙のそうあらくないのをしていましたが、近ごろは大変柄があらくなってきました。
私は、明治の初めから十五、六年ごろの風俗を細微にわたってはっきりと覚えていますが、今のうちにこの亡びゆく美しさを絵に残しておきたいと思います。自分で描いておかないと、後から生れた人は絵では見ていても実地に見てきたのではないから、もう一つというところが描けないでしょう。舞妓はやはり年の若い、出てちょっとしたくらいのういういしいのが舞妓らしくていいものです。小さくても姿勢の整ったのは、小さいなりにいいものです。舞妓を描く場合に一番大切なのは、何といっても中心になるあのだらりの帯です。カラコロ、カラコロと例のおこぼをひきずって、大きい振袖でしゃなりしゃなりと歩いているその度ごとに帯が可憐に揺れる、あの情趣が京舞妓の全生命なんです。
舞妓の衣装の形にもいろいろありますが、袖が長くて帯がそれよりもちょっとばかり短い目の方が概して形がいいようです。この間吉川さんとこで写したのは、松本お貞さんのもってる衣装を着せたのでしたが、その古典的な模様がひときわ光って見えました。
(昭和九年)
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未開な小さな村がありました。町へいくには、山のすそ野を通らなければなりませんでした。その間はかなり遠く三里もありまして、その間には、一軒の人家すらなかったのであります。
春から夏にかけては、まことに景色がようございましたけれども、秋の末から冬にかけては、まったくさびしゅうございました。けれど、その村の人は、町までいくには、どうしてもその高原を通らなければならなかったのです。
この辺には、おおかみがときどき出て、人間を食ったことがあります。また、きつねが出て、人をばかしたこともあります。冬になって雪が降ると、人々は、一人でこの路を通ることをおそれました。
村に猟人のおじいさんが住んでいました。このおじいさんは、長年猟人をしていまして、鉄砲を打つことの大名人でありました。どんな飛んでいる鳥も、走っているうさぎも、またくまや、おおかみのような猛獣も、たいてい的をつけたものは、そらさず一発で打ち止めるというほど上手でありました。
このおじいさんが日ごろいっていますのには、
「くまや、おおかみのような猛獣は、かえってやさしい情けがあるもんだ。昔から人間が谷に落ちてくまに助けられたり、また路に迷って、おおかみにつれてきてもらったりした話があるが、それはほんとうのことだ。」といっていました。
しかし、どのくまも、おおかみも、人間に害をしないというのではありません。そんな人を助けるというようなことは、じつにまれな話であります。山や、野や、谷に食べるものがなくなってしまうと、人間の村里を襲ってきます。そして、人間を食べたり、家畜を取ったりします。
この村の人々も、雪が積もると、おおかみや、くまに襲われることをおそれました。けれど、上手な猟人のおじいさんが住んでいるので、みなは、どれほど安心していたかしれません。ある年の冬には、三頭のくまが村を襲ってきましたのを、おじいさんは一人で打ち止めてしまったからでありました。
同じ村に、与助という才走った男が住んでいました。この男は、きわめて口先のうまい、他人の気をそらさぬので、みんなからりこう者の与助といわれていました。
ある冬の一日、与助は村の人たちと町へ出ました。そして、彼一人は、酒を飲んで帰りがおくれてしまいました。その日は、いつになくいい天気でありましたうえに、まだ日もまったく暮れないから、泊まらないで急いで村に帰ろうと思って、いい気持ちで雪路を帰っていきました。
彼は、高原を一人で通るのもそんなにさびしいとは思わなかったのです。真っ赤な夕日は、山に沈みかかって、ほんのりと余りの炎が雪の上を照らしていました。明日もまた天気とみえて雪の上はもはや幾分か堅くなって凍っています。その上を彼は、さくりさくりと朝きたときの路を歩いて、鼻唄をうたってきました。
西の方の山々は、幾重にも遠く連なっていて、そのとがった巓が、うす紅い雲一つない空にそびえていました。まったく、あたりはしんとして、なんの声もなかったのです。
与助は、だんだん酒の酔いもさめてまいりました。そして、一刻も早く村に帰ろうと思いました。このとき、かなたの森の方で、オーオというおおかみの鳴き声を聞きました。彼は、それを聞くと、ぞっとしました。
まだ村の火は見えないか、早く村に入りたいものだ、もしおおかみに見つかったら、食われてしまうだろうと思って、いっしょうけんめいに歩き出しました。そして、後方を振り返ってみますと、真っ黒な大きなものが、雪を砕いて、こっちにだんだんと迫ってくるのでありました。
与助は、足がすくんでしまいました。そして、もう一歩も動くことができなかったほど、おそれを覚えたのであります。彼は自分の命は助からないものだと思いました。なぜ、もっと早く帰らなかったろう。そう思うと酒を飲んだということを後悔しました。みなといっしょに家へ帰っていたら、いまごろは、安楽にいろりのそばで話をしていられるのだろうと思いました。けれど、いくら後悔しても、なんの役にもたちませんでした。おおかみは、だんだん彼に迫ってきました。
与助は、心の中で神さまや仏さまに、どうか命を助けてくださるようにと祈りはじめました。すると、おおかみは、もうすぐそこまで近づいて、雪の上を踏み砕く足音すら聞こえたのであります。
与助は、自分の命はないものだとあきらめました。そして、彼は振り向いて、迫ってきたおおかみに向かっていいました。
「私は死んでもいいが、家には、妻も子供もある。もしおまえが私の命を助けてくれたら、おまえの欲しいものはなんでもやる。家には、にわとりが五羽も六羽もいる。おまえが私を食べてしまわないなら、にわとりを三羽おまえにやるから、どうか私の命を助けてもらいたい。」と頼みました。
与助がこういいますと、おおかみは、ぴたりと雪の上に歩みを止めました。そして、しばらくじっとして動きませんでした。与助は、いつか猟人のおじいさんが話したことを思い出して、おおかみが情けを感じてくれたのではないかと考えました。
彼は、なんとなく後ろ髪を引かれるような気持ちがしましたが、おそるおそる前に向かって、歩き出しました。すると、おおかみは、まったく彼のいったことを聞きわけたものとみえて、害を加えるようすもなく、与助の後について歩いてくるのでありました。
与助は、たびたび後を振り向いてみるだけの勇気もありませんでした。おおかみは彼の後ろ一、二間も離れて、のそりのそりと、ともをするようについてきました。
「家へいったら、にわとりを三羽やるぞ。」と、与助は、ちょうど念仏を唱えるように、同じことを繰り返していいながら歩きました。
おおかみが彼に対して、まったくなにもしないということを悟ると、彼は、心でいろいろのことを考えはじめました。
「早く、村の灯火が見えてくれればいい。」と思ったり、また、
「にわとりを三羽やる約束をしたが、どのにわとりをやったらいいものだろう。」と思ったりしました。
しかし考えてみると、やるようなにわとりはなかったのです。いずれも去年の秋高い値を出して買ったので、いま、卵をよく産んでいるのでありました。それをおおかみにやってしまうのはまったく惜しいことでありました。けれど、彼は自分の命には換えられないからと思いました。そんなことを考えているうちに、はるかかなたに村の灯火が望まれたのであります。
「家へいったら、にわとりを三羽やるぞ。」と、与助は同じことを口では繰り返していっていましたが、だんだんにわとりが惜しいという心が前よりも募ってきました。
なにも自分は、おおかみににわとりをやらなければならぬという理由はないはずだ。おおかみが人間の命を取ろうとするのこそまちがっているが、自分がおおかみに、にわとりをやらなければならぬという理由はないであろう。これは、こうしておおかみをだましておいて、村に入ったら大きな声を出して叫べばいい。そうすればみんなが飛び出してきて、おおかみを殺してくれるからと思いました。
彼は、とうとう村に入りました。どの家も、日が暮れてしまって寒いので戸を閉めていました。与助は思いきって大きな声を出すことができませんでした。もしまちがったら、おおかみに食い殺されてしまうと思ったからであります。
「家へいったら、にわとりを三羽やるぞ。」と、与助は、やはりいいつづけて歩きました。そして、彼はついに自分の家の戸口に着いたのであります。そのとき、彼はちょっと振り返ってみますと、黒いおおかみは、すこし彼から離れたところにきて立ち止まっていました。
「どれ、家へ入ってから。」と、与助はいって、戸を開けて躍り込みますと、あわてて後ろ戸をピーンと閉めてしまいました。そして、堅く棒をかって、にわとり小舎の前にいって、内をのぞいてみますと、六羽のにわとりは、よくふとって、とまり木に止まって安らかに眠っていました。
「どうして、このいいにわとりを一羽だってやれるものか。毎日卵を産んでいるのに。」と、与助は独り言をしました。そして、いくらおおかみが暴れたって、あのじょうぶな戸を破って入ることはできない。もしそんなときは、鉄砲も刀もあると考えました。
彼は、それよりおおかみへの約束などはかまわずに家へ上がって、今日はまず無事でよかったと喜んで、夕飯の膳に向かって、酒を飲みはじめたのであります。
彼は、戸の外に立っているおおかみはどうしたろうと思いましたが、まさか開けてみるだけの勇気もありませんでした。彼がだいぶさかずきを重ねて、いい心持ちになったころ、ちょうど村はずれの方にあたって、ものすごいおおかみの鳴き声を聞いたのであります。彼はあまりいい気持ちはしませんせした。
「やはり畜生などというものは知恵のないものだ。とうてい、知恵のある人間には勝てるものでない。」といいました。彼は、明くる日昨日あった事柄を村の人々に語って、自分がうまくおおかみをだましてやったと誇りました。
「人間の命を取ろうなんていうのが、ふらちなんだから、おおかみの約束を破ったってさしつかえない。」と、与助はいっていました。
「どんなおおかみだったえ。」と、村の人々は聞きました。
「灰色の大きいおおかみだった。見たところでは年をとっているおおかみだった。」と、彼は答えました。
「おともをしてきたのだから、なにかやればよかったのだ。」と、中にはいったものもありました。
けれど、知恵自慢の与助は、得意そうに笑って、
「あのとき、鉄砲でズドンと一発打てば、それまでだったのだ。せめても、こっちが命を助けてやったのをありがたく思ったがいいのだ。」といいました。
この話を聞いて猟人のおじいさんは、頭をかしげて、
「そんなうそをいうもんじゃない。おおかみがあだを返さなければいいが。」といいました。
これを聞いた与助は、おおかみの出るのをおそれて、その後町へいくにも帰るにも、みんなといっしょでなければ歩けなかったのであります。みんなは、それをおもしろがって、わざと帰りには、与助を後に残して、さっさときかかりますと、与助は死にもの狂いになってみんなを呼び止めながら、後を追いかけてきました。そして、いつしか、だれいうとなく、りこう者の与助は、「臆病者の与助」と、みんなからあだ名されるようになってしまったのであります。
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