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|---|---|---|---|---|---|---|---|
一
兄と妹は、海岸の砂原の上で、いつも仲よく遊んでいました。
おじいさんは、このあたりでは、だれ一人、「海の王さま」といえば、知らぬものはないほど、船乗りの名人でありました。ほとんど一生を海の上で暮らして、おもしろいこと、つらいことのかずかずを身に味わってきましたが、いつしか年を取って、船乗りをやめてしまいました。
おじいさんに、一人のせがれがありました。やはり、おじいさんと同じように船乗りでした。ある日のこと、家に、おじいさんと、女房と二人の子供を残して、沖の方へと出かけてゆきました。
おり悪しく、その晩に、ひどいあらしが吹いて、海の中は、さながら渦巻きかえるように見られたのでした。家族のものは心配しました。そして、どうか無事に帰ってくれるようにと待っていましたけれど、ついに、海へ出ていったせがれは、それぎり帰ってきませんでした。おじいさんは、あのあらしのために、破船して死んでしまったのだろうと思いましたが、女房や、孫たちが、悲しむのをたまらなく思って、
「どこかへ避難しているかもしれない。もう二、三日待ってみよう。」といいました。
人間というものは、どんな不幸に出あっても、日数のたつうちには、だんだん忘れてしまうものであったからです。
二日たっても、三日たっても、せがれの乗った船はもどってきませんでした。ある日のこと、その船の破片が波に打ち寄せられて、浜辺に上がりました。それを見たときに、どんなにおじいさんは、悲しんだでありましょう。せがれの女房はあまりの悲しみから、ついに病気となり、それがもととなって死んでしまいました。
二人の子供は、父を失い、母に別れて、そのときから、おじいさんに育てられたのであります。海の上を吹いてくる風が、コトコトと窓の戸をたたく音を聞くと、おじいさんは、それでもせがれが生きていて帰ってきたのではないかと耳を傾けました。また、夜中に、波の音が、すすり泣くように、かすかに耳にひびくと、おじいさんは、せがれの女房のことを思い出しました。それにつけてもおじいさんは、二人の孫たちをかわいがったのであります。
月日は、いつのまにかたってしまいました。兄と妹の二人は、仲よく、海岸の砂原で、白に、黄に、いろいろの花をつんだりして遊んでいますうちに、大きくなりました。
二人は、両親がなかったけれど、おじいさんがかわいがってくだされたので、幸福でありました。
兄は、だんだん年を取ると、自分もどうか船乗りになりたいと思いました。おじいさんは、大事なせがれが海で死んでから、どうしても孫を船乗りにさせようとは思いませんでした。
「海の王さま」と、おじいさんが、みんなからいわれたということを聞くと、兄は、どうかして自分も船乗りの名人になりたいものだと考えたのです。
「僕は、どうしてもおじいさんにお願いして、船乗りにしてもらいたい。」と、兄は、妹に向かっていいました。
「兄さんが、海へいってしまわれたら、私はどんなに寂しいかしれない。」と、妹は、はや涙ぐんで答えました。
妹に対して、やさしかった兄は、なぐさめるように、
「あの遠い海のあちらには、不思議な島があって、そこへゆけば、いろいろの珍しいものがあるというから、それをお土産に持ってきてあげよう。」といいました。
妹は、おじいさんからも、その不思議な島の話を聞いていました。海の中にすんでいる獣の牙や、金色をした鳥の卵や、香水の取れる草や、夜になるといい声を出して、唄をうたう貝などがあるということを聞いていましたから、
「兄さん、私に、金色の鳥の卵と、夜になると唄を歌う貝を、お土産にかならず持ってきてください。」と頼みました。
金色の卵は、鶏にあたためさして、美しい鳥にかえさせようと思ったからです。
「じゃ、忘れずに持ってきてあげるから、おまえもおじいさんに、僕の望みをかなえてもらうように頼んでおくれ。」と、兄はいいました。
妹は、承知して、兄がおじいさんに頼んだときに、自分もいっしょになって願ったのであります。
おじいさんは、すぐにはうんとはいいませんでした。
「おじいさんを、みんなが海の王さまといっていたということを聞きました。どうか、僕を、第二の海の王さまにさしてください。」と、兄はいいました。
「おまえが、その決心をしてくれるのはうれしいが、またあらしにあって船がこわれたら、とりかえしのつかないことになってしまう。」と、おじいさんは、思案をしました。しかし、ついに、孫たちのいうことを許してやりました。
二
おじいさんは、孫がいよいよ船出をするというので、夜もおそくまで起きていて、船に張る帆を縫っていました。どんな強い風に当たっても裂けぬように、またどんなに雨や波にぬらされても、破れぬようにと、念に念をいれて造っていました。
妹は、兄さんといっしょになって、船出の許しをおじいさんに頼んだものの、兄の身の上が案じられてしかたがありませんでした。
「どうかして、兄さんが無事に、出ていって帰ってこられるように。」と、祈ったのであります。
その日も、妹は、兄のことを心配しながら道を歩いてくると、さびしいところに小川が流れていて、そこに、狭い橋がかかっており、一人のおばあさんが、その橋を渡ることができずにこまっていました。
だれも、人が通らなかったので、だいぶ長い間ここに、こうしておばあさんは立っているものと思われたのであります。
妹は、そのおばあさんを見ると気の毒になりました。自分がどうかして手でも引いて渡らせてあげようと、そばへいってみますと、おばあさんは盲目でありました。
妹は、びっくりしました。こんな盲目がどうして、このあたりまで一人でやってこられたろうかと思われました。
「どんなにか、おばあさん、お困りでしたでしょう。私が手を引いてあげます。」と、妹はいいました。
すると、盲目のおばあさんは、
「どうかおぶって、渡しておくれ。」と、それがあたりまえであるというような調子で答えたのです。
妹は、ずいぶん横着なおばあさんだと心に思いました。また自分がおぶっては、あぶなくて渡られないからでした。
「お手を引いてあげましょう。」
「いいえ、おぶってもらいましょう。」と、おばあさんは、頭を振っていいました。
妹はしかたなく、苦心をして、そのおばあさんをおぶって、ようよう橋を渡ることができました。すると、盲目のおばあさんは、もう白くなった髪の毛を探って、その中から一本の銀の針を取り出しました。
「この針は、不思議な、どんな願いごともかなう針だから、これをおまえさんにお礼としてあげる。けっして、みだりに他人にやったり、見せたりしてはならぬ。」といって、おばあさんは銀の針を妹にくれました。
妹は、喜んで家に帰りました。そして、その晩に、おじいさんが帆を縫うてつだいをして、おばあさんからもらった銀の針で、どうか兄さんが無事に帰ってきてくださるようにと祈りながら縫いました。細い銀の針では、厚い布がよく通りそうもないのに、よく通りました。不思議な針だから、きっとおじいさんの造ってくださった帆は、けっして、風にも、雨にも、破れないであろうと思いました。
三
真っ白な帆が、でき上がって、それが船に張られたのです。そして、ある朝、若者は、妹や、おじいさんに見送られて、この海岸から沖をさして船出したのであります。
だんだん沖へ、沖へ出ると、そこはものすごい景色でありました。白い波は、いままで自分たちばかりの遊び狂うところだと思っていたのに、真っ白な帆をかけた船が、中へ割り込んできたものだから、びっくりしました。
「この世界は、おれたちの世界だ。それだのに、おれたちよりもっと白い大きなものが、頭の上を平気で踏んでゆくとはけしからん。」といって、波は騒ぎたてました。
いくら波が騒いでも、昔、海の王さまといわれた、おじいさんの孫の乗っている船は平気でありました。波の上を越して、もっと沖へ、沖へとこいでゆきました。
「あちらの島に着いて、金色の卵、夜になるとおもしろい唄をうたう貝を拾ってきて、妹への土産にしよう。自分がこの航海を無事に終えたら、もうりっぱな船乗りだ。いつか、海の王さまの後継ぎだという評判がたつであろう。」と、若者は、そう思わずにいられなかったのです。
波は、いくら騒いでも、どうすることもできませんでした。そのとき、空を風が通りかかった。波は、日ごろはあまり仲はよくなかったけれど、こんなときは味方になってもらおうと思いましたから、風を呼び止めて、
「あんな小さい船のぶんざいで、私たちの世界をかってに乗りまわすなんて生意気じゃありませんか。沈めてしまおうと思うんですが、私たちの力ばかりではだめですから、ひとつ助けてください。」と頼みました。
風は、そういって頼まれると、いやだとはいえなかった。それに、自分がひとあばれしてみたいと思っていたやさきでありましたから、
「よろしい、大いにあばれてみましょう!」と、ただちに受け合うと、もう、高く怒り声をたて、白い帆を張った小船に向かってぶつかりました。小船は、木の葉のように波の上でほんろうされていました。
若者は、おじいさんもかつて、こうしためにあって、それに戦ってきたことを思いました。またお父さんは、やはりこんなめにあって、船がこわれて沈んでしまったのであろうと考えました。彼は、いまこそ自分の力を試すときだと思って、力いっぱい風と波とに戦ったのであります。
しかし、風の助けを得て、波はますます高くなりました。そして、白い帆の上を越すようになりました。
若者は、せっかくここまできながら、望みの島に着くこともできず、空しく海底のもくずになってしまうのかと残念がりました。また岩の上に降りていたたくさんの白い鳥は、波に足場をさらわれてしまって、あらしの叫ぶ空の中で、しきりに悲しんで鳴いていました。そのうちに、日が暮れてしまった。
夜になっても、風は、静まりませんでした。波は、はやく船を沈めてしまわなければならぬと、四方から打ち寄せてきました。若者は、おじいさんのことを思い、また妹のことを思い出しました。
おじいさんの造ってくださった帆は、この風にも裂けませんでした。若者は、どこへなりと風の吹く方向へ押し流されてゆこうと、運命に身を委せてしまったのです。
あたかも、暗い雲を破って月が照らしました。月は、海の上をくまなく、ほんのりと明るくしました。そのとき、白い帆の端で、異様な輝きを放ったものがあります。船の中で頭を抱えていた若者には、それがわからなかったけれど、目ざとい風はすぐにそれを見つけました。妹が、兄さんの無事を祈るために、盲目のおばあさんからもらった銀の針を、だれも気のつかないところに刺しておいた、それに月が映ったのであります。
風は、その光を見てびっくりしました。その光の中に、あの怖ろしい盲目のおばあさんが、じっとしてすわっていたからでした。
盲目で、白髪のおばあさんは、北極の氷の上にいるおばあさんです。波でも、風でも、おばあさんの住んでいる国へいったものは、おばあさんの機嫌しだいで、すぐにも息の音を止められたり、また凍らせられたりするのでした。
あらしは、おばあさんを見ると、ぴたりとやんで、こそこそとどこへか逃げてゆきました。波もまた静かになってしまいました。こうして、若者は無事に島を探検して帰ると、はたして、みんなから、第二の海の王さまと呼ばれたのでした。
| 0.4
|
Medium
| 0.593
| 0.176
| 0.042
| 0.596
| 4,752
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仕事の話を頂いた
| 0.129778
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Easy
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| 8
|
「福は内、鬼は外」と言うことを知って居ますか。此は節分の夜、豆を撒いて唱える語なのです。此日、村や町々の家々へ、鬼が入り込もうとするものと信じて居ました。それに対して、豆を打ちつけて追うのだと言います。今年はそれがちょうど、二月四日に当るのです。これは家々ですることですが、又社や寺でも、特別に人を選んで、豆撒き役を勤めさせます。
又豆を年の数だけとって喰うこともあります。地方によっては、一つだけ余計に喰べる処もあります。これはもと一つはからだを撫でたものなのです。つまりからだについた災いを其にうつすつもりだったのです。門には前もって、柊の小枝を挿して置き、それに鰯の頭――昔は鰡の子のいなの頭――をつき刺して出しておいたものです。
節分は冬が行き詰って、春が鼻の先まで来て居る夜と言うことなのです。だからこれらの事柄も、夜に行われる事が多いのです。
ちょうど、鬼打ち豆を撒いて居る頃、表の方を、「厄払いましょう厄払いましょう」と言いながら通る者があることも知っているでしょう。これは「厄払い」と言うものです。そうして、呼びかける家があると、その表口に立って、その一家が、今夜から将来幸福になる唱え言を唱えて、お礼の銭を貰っては、又先へ出掛けます。
春になる前夜の、賑やかで、そうして何処かにしんと静まった様子を想像して御覧なさい。暦を見ると、立春と言う日が、載ってありましょう。今年は、其が二月五日になります。冬が過ぎて春の来るのを迎えるについて、出来るだけ我々の生活にとってよくないものを却けて置いて、輝かしい幸福をとり入れようとするのです。昔から春と新しい年とが、同時に来るものと言う考えが、習慣の様に人々の頭にこびりついて居るので、立春が新しい春その前夜を意味する節分は、旧年の最後の夜という風に思われて居ました。だから、節分の事を「年越し」という地方も多いのです。年越しは、大晦日と同じ意味に用いる語です。
九鬼家と言う古い豪族の家では、節分の夜、不思議な事を行われると言う噂がありました。ある時、松浦伯爵の祖先の静山と謂った人が、九鬼和泉守隆国と言う人に、あなたのお家では、節分の夜には主人が暗闇の座敷に坐っていると、目に見えぬ鬼の客が出て来て、坐りこむ。小石を水に入れて吸い物として勤めると、其啜る音がすると言うではありませんかと問いますと、其は噂だけで、そんな事はありません。唯豆を打つ場合に、「鬼は内、福は内、富は内」と唱える。其上、普通にする柊と鰯とは、私の家ではしないと答えられたと言う事です。
此は言うまでもなく、家の名が九鬼である事から、それによって縁起を祝って、家の名に関係のあるものを逐い却ける様な事は一切しない事になったのでしょう。勿論、鬼は来るはずはありません。だが来た事もなかったとは言えません。来るのは勿論、鬼に仮装した人が出て来て、鬼となって逐われる様子をするのでした。
| 0.524
|
Medium
| 0.613
| 0.194
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| 1,213
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いよいよ時間がやってきた
| 0.30419
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Easy
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この集を過ぎ去りし頃の人々へおくる
序 二月・冬日
二月
子供が泣いてゐると思つたのが、眼がさめると鶏の声なのであつた。
とうに朝は過ぎて、しんとした太陽が青い空に出てゐた。少しばかりの風に檜葉がゆれてゐた。大きな猫が屋根のひさしを通つて行つた。
二度目に猫が通るとき私は寝ころんでゐた。
空気銃を持つた大人が垣のそとへ来て雀をうつたがあたらなかつた。
穴のあいた靴下をはいて、旗をもつて子供が外から帰つて来た。そして、部屋の中が暗いので私の顔を冷めたい手でなでた。
冬日
久しぶりで髪をつんだ。昼の空は晴れて青かつた。
炭屋が炭をもつて来た。雀が鳴いてゐた。便通がありさうになつた。
暗くなりかけて電灯が何処からか部屋に来てついた。
宵の中からさかんに鶏が啼いてゐる。足が冷めたい。風は夜になつて消えてしまつた、箪笥の上に置時計がのつてゐる。障子に穴があいてゐる。火鉢に炭をついで、その前に私は坐つてゐる。
千九百二十九年三月記
十一月の街
街が低くくぼんで夕陽が溜つてゐる
遠く西方に黒い富士山がある
花
街からの帰りに
花屋の店で私は花を買つてゐた
花屋は美しかつた
私は原の端を通つて手に赤い花を持つて家へ帰つた
雨になる朝
今朝は遠くまで曇つて
鶏と蟋蟀が鳴いてゐる
野砲隊のラツパと
鳥の鳴き声が空の同じところから聞えてくる
庭の隅の隣りの物干に女の着物がかゝつてゐる
坐つて見てゐる
青い空に白い雲が浮いてゐる
蝉が啼いてゐる
風が吹いてゐない
湯屋の屋根と煙突と蝶
葉のうすれた梅の木
あかくなつた畳
昼飯の佗しい匂ひ
豆腐屋を呼びとめたのはどこの家か
豆腐屋のラツパは黄色いか
生垣を出て行く若い女がある
落日
ぽつねんとテーブルにもたれて煙草をのんでゐる
部屋のすみに菊の黄色が浮んでゐる
昼寝が夢を置いていつた
原には昼顔が咲いてゐる
原には斜に陽ざしが落ちる
森の中に
目白が鳴いてゐた
私は
そこらを歩いて帰つた
小さな庭
もはや夕暮れ近い頃である
一日中雨が降つてゐた
泣いてゐる松の木であつた
初夏一週間(恋愛後記)
つよい風が吹いて一面に空が曇つてゐる
私はこんな日の海の色を知つてゐる
歯の痛みがこめかみの上まで這ふやうに疼いてゐる
私に死を誘ふのは活動写真の波を切つて進んでゐる汽船である
夕暮のやうな色である
×
昨日は窓の下に紫陽花を植ゑ 一日晴れてゐた
原の端の路
夕陽がさして
空が低く降りてゐた
枯草の原つぱに子供の群がゐた
見てゐると――
その中に一人鬼がゐる
十二月の昼
飛行船が低い
湯屋の煙突は動かない
親と子
太鼓は空をゴム鞠にする
でんでん と太鼓の音が路からあふれてきて眠つてゐた子をおこしてしまつた
飴売は
「今日はよい天気」とふれてゐる
私は
「あの飴はにがい」と子供におしへた
太鼓をたゝかれて
私は立つてゐられないほど心がはずむのであつたが
眼をさました子供が可哀いさうなので一緒に縁側に出て列らんだ
菊の枯れた庭に二月の空が光る
子供は私の袖につかまつてゐる
昼
太陽には魚のやうにまぶたがない
昼
昼の時計は明るい
夜 疲れてゐる晩春
啼いてゐる蛙に辞書のやうな重い本をのせやう
遅い月の出には墨を塗つてしまふ
そして
一晩中電灯をつけておかう
かなしめる五月
たんぽぽの夢に見とれてゐる
兵隊がラツパを吹いて通つた
兵隊もラツパもたんぽぽの花になつた
昼
床に顔をふせて眼をつむれば
いたづらに体が大きい
無聊な春
鶏が鳴いて昼になる
梅の実の青い昼である
何処からとなくうす陽がもれてゐる
×
食ひたりて私は昼飯の卓を離れた
日一日とはなんであるのか
どんなにうまく一日を暮し終へても
夜明けまで起きてゐても
パンと牛乳の朝飯で又一日やり通してゐる
彗星が出るといふので原まで出て行つてゐたら
「皆んなが空を見てゐるが何も落ちて来ない」と暗闇の中で言つてゐる男がゐた
その男と私と二人しか原にはゐなかつた
その男が帰つた後すぐ私も家へ入つた
郊外住居
街へ出て遅くなつた
帰り路 肉屋が万国旗をつるして路いつぱいに電灯をつけたまゝ
ひつそり寝静まつてゐた
私はその前を通つて全身を照らされた
家
私は菊を一株買つて庭へ植ゑた
人が来て
「つまらない……」と言ひさうなので
いそいで植ゑた
今日もしみじみ十一月が晴れてゐる
白に就て
松林の中には魚の骨が落ちてゐる
(私はそれを三度も見たことがある)
白(仮題)
あまり夜が更けると
私は電燈を消しそびれてしまふ
そして 机の上の水仙を見てゐることがある
雨日
午後になると毎日のやうに雨が降る
今日の昼もずいぶんながかつた
なんといふこともなく泣きたくさへなつてゐた
夕暮
雨の降る中にいくつも花火があがる
暮春
昼
私は路に添つた畑のすみにわづかばかり仕切られて葱の花の咲いてゐるのを見てゐた
花に蝶がとまると少女のやうになるのであつた
夕暮
まもなく落ちてしまふ月を見た
丘のすそを燈をつけたばかりの電車が通つてゐた
秋日
一日の終りに暗い夜が来る
私達は部屋に燈をともして
夜食をたべる
煙草に火をつける
私達は昼ほど快活ではなくなつてゐる
煙草に火をつけて暗い庭先を見てゐるのである
初冬の日
窓ガラスを透して空が光る
何処からか風の吹く日である
窓を開けると子供の泣声が聞えてくる
人通りのない露路に電柱が立つてゐる
恋愛後記
窓を開ければ何があるのであらう
くもりガラスに夕やけが映つてゐる
いつまでも寝ずにゐると朝になる
眠らずにゐても朝になつたのがうれしい
消えてしまつた電燈は傘ばかりになつて天井からさがつてゐる
初夏無題
夕方の庭へ鞠がころげた
見てゐると
ひつそり 女に化けた躑躅がしやがんでゐる
曇る
空一面に曇つてゐる
蝉が啼きゝれてゐる
いつもより近くに隣りの話声がする
夜の部屋
静かに炭をついでゐて淋しくなつた
夜が更けてゐた
眼が見えない
ま夜中よ
このま暗な部屋に眼をさましてゐて
蒲団の中で動かしてゐる足が私の何なのかがわからない
昼の街は大きすぎる
私は歩いてゐる自分の足の小さすぎるのに気がついた
電車位の大きさがなければ醜いのであつた
十一月の電話
十一月が鳥のやうな眼をしてゐる
十二月
炭をくべてゐるせと火鉢が蜜柑の匂ひがする
曇つて日が暮れて
庭に風がでてゐる
十二月
紅を染めた夕やけ
風と
雀
ガラスのよごれ
夜の向ふに広い海のある夢を見た
私は毎日一人で部屋の中にゐた
そして 一日づつ日を暮らした
秋は漸くふかく
私は電燈をつけたまゝでなければ眠れない日が多くなつた
夜
私は夜を暗い異様に大きな都会のやうなものではあるまいかと思つてゐる
そして
何処を探してももう夜には昼がない
窓の人
窓のところに肘をかけて
一面に広がつてゐる空を眼を細くして街の上あたりにせばめてゐる
お可しな春
たんぽぽが咲いた
あまり遠くないところから楽隊が聞えてくる
愚かなる秋
秋空が晴れて
縁側に寝そべつてゐる
眼を細くしてゐる
空は見えなくなるまで高くなつてしまへ
秋色
部屋に入つた蜻蛉が庇を出て行つた
明るい陽ざしであつた
幻影
秋は露路を通る自転車が風になる
うす陽がさして
ガラス窓の外に昼が眠つてゐる
落葉が散らばつている
雨の祭日
雨が降ると
街はセメントの匂ひが漂ふ
×
雨は
電車の足をすくはふとする
×
自動車が
雨を咲かせる
街は軒なみに旗を立てゝゐる
夜がさみしい
眠れないので夜が更ける
私は電燈をつけたまゝ仰向けになつて寝床に入つてゐる
電車の音が遠くから聞えてくると急に夜が糸のやうに細長くなつて
その端に電車がゆはへついてゐる
夢
眠つている私の胸に妻の手が置いてあつた
紙のやうに薄い手であつた
何故私は一人の少女を愛してゐるのであつたらう
雨が降る
夜の雨は音をたてゝ降つてゐる
外は暗いだらう
窓を開けても雨は止むまい
部屋の中は内から窓を閉ざしてゐる
後記
こゝに集めた詩篇は四五篇をのぞく他は一昨年の作品なので、今になつてみるとなんとなく古くさい。去年は二三篇しか詩作をしなかつた。大正十四年の末に詩集「色ガラスの街」を出してから四年経つてゐる。
この集は去年の春に出版される筈であつた。これらの詩篇は今はもう私の掌から失くなつてしまつてゐる。どつちかといふと、厭はしい思ひでこの詩集を出版する。私には他によい思案がない。で、この集をこと新らしく批評などをせずに、これはこのまゝそつと眠らして置いてほしい。
| 1
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Hard
| 0.612
| 0.204
| 0.094
| 1
| 3,733
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整形外科はヲンナの目を引き裂いてとてつもなく老ひぼれた曲芸象の目にしてしまつたのである。ヲンナは飽きる程笑つても果又笑はなくても笑ふのである。
ヲンナの目は北極に邂逅した。北極は初冬である。ヲンナの目には白夜が現はれた。ヲンナの目は膃肭臍の背なかの様に氷の上に滑り落ちてしまつたのである。
世界の寒流を生む風がヲンナの目に吹いた。ヲンナの目は荒れたけれどもヲンナの目は恐ろしい氷山に包まれてゐて波濤を起すことは不可能である。
ヲンナは思ひ切つて NU になつた。汗孔は汗孔だけの荊莿になつた。ヲンナは歌ふつもりで金切声でないた。北極は鐘の音に慄へたのである。
◇ ◇
辻音楽師は温い春をばら撒いた乞食見たいな天使。天使は雀の様に痩せた天使を連れて歩く。
天使の蛇の様な鞭で天使を擲つ。
天使は笑ふ、天使は風船玉の様に膨れる。
天使の興行は人目を惹く。
人々は天使の貞操の面影を留めると云はれる原色写真版のエハガキを買ふ。
天使は履物を落して逃走する。
天使は一度に十以上のワナを投げ出す。
◇ ◇
日暦はチヨコレエトを増す。
ヲンナはチヨコレエトで化粧するのである。
ヲンナはトランクの中に泥にまみれたヅウヲヅと一緒になき伏す。ヲンナはトランクを持ち運ぶ。
ヲンナのトランクは蓄音機である。
蓄音機は喇叭の様に赤い鬼青い鬼を呼び集めた。
赤い鬼青い鬼はペンギンである。サルマタしかきていないペンギンは水腫である。
ヲンナは象の目と頭蓋骨大程の水晶の目とを縦横に繰つて秋波を濫発した。
ヲンナは満月を小刻みに刻んで饗宴を張る。人々はそれを食べて豚の様に肥満するチヨコレエトの香りを放散するのである。
一九三一、八、一八
| 0.378
|
Medium
| 0.637
| 0.272
| 0.724
| 0.22
| 760
|
同志等よ 素晴らしい眺めではないか
君達の胸はぶるぶると打ちふるえないか
脚下の街に林立する煙突と空を蔽う煤煙と
るるるるっと打ちふるえている工場の建築物
おお そして其処で搾りぬかれた仲間等が吹き荒ぶ産業合理化の嵐の前に怯え 恐れ 資本への無意識的な憤懣の血をたぎらせているのだ
街は鬱積した憤懣で瓦斯タンクのようになっている
街は燐寸の一本で爆発へ導く事が出来るのだ
そして俺達は厳重なパイや工場の監守の目をかすめて山上に会合を持ち得たではないか
報告――討議――そして全協関東地協の確立へ
今憤懣の街へ点火する強力な燐寸が形づくられ口火は既に切られたのだ
街は間もなく爆発するだろう 飢餓と失業のどん底に労働者は番犬や守衛の暴圧をけ飛ばして逆襲するだろう いつも俺達を売り飛ばした社会民主主義者の策動を叩きつける要求を闘いとる迄頑張り通すだろう
おお同志等よ いつか赤旗を声高くうたっているものよ また爆発した日の街を思っているもの その日の戦術を思いめぐらせているものよ そして白テロと反動の重圧の下に血の出るような非合法活動をつづけて来た各産別の同志等よ
暮れ行く街の夕景に雄々しく踏み出した俺達の第一歩――関東地協の確立と俺達のオヤジ日本共産党万歳を高らかに叫ぼうではないか
(『ナップ』一九三一年十月号に今村桓夫名で発表『今野大力・今村恒夫詩集』改訂版を底本)
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Hard
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なかなか更新まで手が回りません
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今度明治大学の文科に文芸科といふのができ、一般文芸に関する教育、殊に、創作方面に於ける実際的指導をさへすることになり、私も亦、戯曲講座の一部を受持つことになつた。
自分の専門とはいひながら、「戯曲を書く」といふことについて、私自身、誰に習つた覚えもなく、従つて、その「コツ法」を人に伝へることなど、まつたく思ひもよらぬことなのだが、今仮に、「戯曲並に戯曲創作について、知り又は感ずることを述べよ」といふ註文なら、それはできなくはないと思ふ。
私は、この機会に、自分の戯曲論を整理し、系統づけ、なし得れば、予てはつきりさせてみたいと思つてゐた戯曲家の métier と art 即ち、技術と芸術の区別、更に、戯曲制作の過程を習慣づける作家の稟質とその法則、戯曲の伝統的分類と新しいジャンルの決定など、触れてみたい問題は沢山あるのである。
そして、次に、劇芸術家の素質又は天分の成長に欠くべからざる「劇的感覚の訓練」を、あらゆる方面からの試みをやつてみたいのである。これは主として、感受性の発展に重心をおき、観察と想像の両面から、現実への興味のもち方と、舞台的幻象の描き方を体得させるもので、戯曲の主題、結構、文体を通じて、この感覚の有無強弱が、決定的にその価値を支配するものだからである。
その試みは、具体案として、様々な方法が考へられるが、最も有効な一つは、いふまでもなく、名優の演技に接しるといふことである。これから新しい戯曲を書かうとする人々は、この意味で、日本に生れたことは不幸である。が、そんなことを云つてゐても仕方がないから、それに代る方法を選ばなくてはならない。私は、目下、それについて研究中である。
実際をいふと、人に戯曲の書き方を教へる暇に、自分でいいものを書く方がほんたうかもしれない。殊に、労多くして効すくなしといふ不安が、固よりなくはないが、今日の如く戯曲不振の時代に於て、一人でもそれに志すものがあれば、みんなでその芽を育てて行く義務があると思ふのである。(一九三二・五)
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オホナイの瀧
日高の海岸、樣似を進んで冬島を過ぎ、字山中のオホナイといふあたりに來ると、高い露骨な岩山が切迫してゐて、僅かに殘つた海岸よりほかに道がない。おほ岩を穿つたトンネルが多く、荷車、荷馬車などはとても通れない。人は僅かに岩と浪との間を行くのであつて、まごついてゐると、寄せ來る浪の爲めに乗馬の腹までも潮に濡れてしまふのだ。
或高い岩鼻をまはる時など、仰ぎ見ると、西日に當つて七色を映ずる虹の錦の樣なおほ瀧だ。その裾を、瀧に打たれながら、驅け拔けなければならなかつた。その次ぎのおほ瀧は高さ五十尺、幅七八尺、俗に白瀧といふ。そのもとに、ぽつねんと立つてゐる南部人の一軒家がある。夫婦子供四人の家族だ。板や雜草で組み立てた、して屋根には石ころをつみ重ねた家だ。
近年殆ど漁がなく、毎年、昆布百四五十圓から二百圓、フノリ並にギンナン草二三十圓、ナマコ三四十圓ぐらゐの收入を以つて、僅かにその生活を維持してゐる。十月初旬から雪がやつて來るが、それにとぢ籠められては、山へのぼつて、焚き木でも切るより仕かたがなくなるさうだ。
さう聽いて、頭上を仰ぐと、その山は直立した崖で、殆ど道もついてゐない。山に迫られ、冬と雪とに迫られるこの家族の寂しみを思ひやつても、ぞつとする。
そのあたりの潮が吹きかかる岩の間から、澤山のみそばへ並に岩れんげが生えてゐるのを二三株摘み取り、僕はそれを瀧と一軒家と自分の馬に瀧の水を飮ましたとのなつかしい記念にした。
猿留の難道
太平洋に突出する北海道の東南端、襟裳岬のもとを南海岸から東海岸に出るには、本道三難道の一なる猿留山道を踏まなければならない。
追ひ分坂を歌別から庶野に越え、殺々高くのぼつて行くのだが、この邊はよくおやぢ(乃ち・熊)の出沒するところだ。然し生き物のにほひがするのは僕等と馬子の愛奴のセカチ(男兒)と、それらが乗る馬と、ついて來た小馬としかなかつた。
如何にも寂しいからでもあらう、氣がせかれ、自然に馬をぼつ立てるので、馬子のセカチは僕等に注意して、さう馬の尻を打つなと云ふ。早くつかれさしては、いよ〳〵難道にさしかかれば、倒れてしまう恐れがあるからであつた。
難道は降りだ。俗に七曲りと云ふのは、その實、十三曲りも十四曲りもあつて、それがおの〳〵十間または二十間づつに曲り、何百丈の谷底に落ちて行くのだ。馬上から見あげ、見おろすと、ぞつとして、目も暗んでしまう。親の乳を追うて僕等の馬について來た小馬(三ヶ月)は、或る曲り角で石ころに乗つて倒れ、すんでのことで谷底へころげ込むところであつた。
そんなにしてまでも、ポニイと云ふものは、てく〳〵と、どこまでも、親馬について來るのだ。日高を旅行すると、大抵の乗馬には、女馬なら、小馬が必らずついて來る。當歳から三歳まではさうだ。それがなか〳〵面白いもので、どこを來てゐるか知らんと思つて、時々乗り手がふり返つて見る。すると、相變らずてく〳〵やつて來るのだ。
山上の萩の露
僕等が猿留村に着したのは午後二時頃であつたが、驛遞ではつぎ馬がない、且、あすも十一時頃でなければ用意が出來ないと云ふのだ。で、そこにとまるのも胸くそ惡くなり、勇氣を出して、もう一驛さきまで徒歩することにした。然し二里半だと聽いたのが、實際、四里あつたには閉口した。
一里ばかり海岸を行き、それから山道に這入ると、日高の國境を越えて、十勝になる。僕等は足は勞れて來るし、日暮れには近くなるし。薄暗い低林の間の、アイノが毒矢にぬるブシ(とりかぶと)が立ち並んだ道路に進み、屡々小川を渡る度毎に、おやぢが出はしまいかと心配した。
僕は樺太の山奧に入る時、熊よけに、汽船から借りて來た汽笛代用の喇叭を吹いたが、さういふ用意がないので、僕は下手な調子で銅羅聲を張りあげ、清元やら、長唄やら、常磐津から、新内やら、都々逸やらのお浚ひをして歩いた。その功徳によつてか、幸ひ、おやぢの黒い影も白い影も現はれなかつた。
然し猿留山道の七曲りに似た九折道を登る時などは、唄も盡き、聲もよわり、足も亦疲れ切つた。これを越えれば、もう直ぐだらうといふを力にして、やつとのことで山の背まで達し、それから勾配のゆるい下り坂になつたが、今度はまた非常に喉が渇き、からだ中びしよ濡れの汗が氣になる樣になつた。
然し道に澤山生えてゐる小萩が、葉毎〳〵に露を帶びてゐるのは、それを見るだけでも實に氣持ちがよかつた。僕等は國境を越える時鳥渡雨に會つたが、それがこちらでは非常な降りであつたらしい。その名殘りで、道もしぶ〳〵してゐるし、萩の葉毎には觸れてこぼれる白露が置いてゐたのだ。
その露を踏み分けて進むと、そのこぼれが靴を通して熱した足にひイやりと浸み込む。それが僕等にはコップで冷水をがぶつくよりもうまい味であつた。
中下方の農村
日高の中下方には、僕の子供の時に聽かされた記憶を呼び起す淡路團體の農村がある。
王政維新の頃、淡路に於て稻田騷動なるものがあつた。阿波藩の淡路城代稻田氏が藩から獨立しようとする逆心あると誤解し、阿波直參の士族どもが城代並にその家來を洲本の城に包圍した。
そんなことがあつたのが動機になつて、稻田氏並にその家來の一部は、明治四年と十八年との兩度に、北海道に移住してしまつた。渠等には、淡路をなつかしい故郷と思ふ樣な氣はなくなつた。といふのはかの騷動の時、渠等のうちには、その妻女は直參派の爲めに強姦されたり、妊婦はその局部を竹槍で刺し通されたといふ樣な目に會つてゐるものがあるからである。
この鬱忿並に主君と同住するといふことが、渠等の北海道開拓に對する熱心の一大原因であつたらうと思う。第一囘の移住者等が國を船出する時は三百戸ばかりであつたが、紀州の熊野沖で難船し、百五十戸分の溺死者を生じた爲め、半數だけ(それが現今では僅かに三十戸)が北海道開拓の祖である。中下方にあるのはそれだが、第二囘の五十戸は、今、同じ染退川添ひの碧蘂村にある。兩村とも實に北海道の模範農村になつてゐる。
一見して、耕耘に熱心なことや永久的設備をしてかかつたことなどが分る。石狩原野の如きは、札幌でも、岩見澤でも、矢鱈に無考へで樹木を切り倒したり、燒き棄てたりして、市街地や田園などに風致がなくなつたばかりでなく、防風林までも切り無くして、平原の風を吹くがままにしたところがある。然し淡路人の村には、大樹をところ〴〵切り殘して風致を保つてゐる上に、家屋も他の方面で見る樣な假小屋的でなく、永久的な建築をしてある。
然し染退川が年々五十町歩も百町歩も、渠等の集積土質の良田を缺壤して行く爲め、その度毎に村人の戸數が減じて行くのは殘念なことだ。
新冠の御料牧場
僕が新冠の御料牧場に行つて調べた時、馬の全數千七百餘頭――そのおもな種類はトロクー、ハクニー、サラブレド、クリブランドベー、トラケーネンなどが、競馬用にはサラブレドが最もよく、この種の第二スプーネー號と云ふのが園田實徳氏の一萬五千圓で買つた馬の父であつた。そのうちを馬舍から引き出して歩かして見せて呉れたが、それ〴〵特色があつた。背の高いのや、毛艷のいいのや、姿勢の正しいのや、足の運びの面白いのや――して、アラビヤ種のすべて目が鋭く、涼しいのが、最も深い印象を僕に殘した。
周圍二十里、面積三萬三千二百町歩、放牧區域七十二區、各區をめぐる牧柵の延長七十里に達する大牧場――高臺の放牧地は、天然のままだが、造つた樣に出來てゐて、恰も間伐したかの如く、樹木がいい加減に合ひを置いて生えてゐる地上には、牧草が青々育つて、實に氣持ちのいい景色だ。
僕等は、行きには、その間を驛遞の痩せ馬に乘つて得意げに走つたが、立派な馬を澤山見た歸りには、一種の恥辱を感じて、逃げる樣にして驅け出した。
火山灰地の状態
日高の門別村を東へ拔ける時、後ろを返り見ると、遙か西方に膽振の樽前山の噴火が見えた。眞ッ直ぐに白い烟が立つてゐるかと思へば、直ぐまたその柱が倒れ崩れて、雲と見分けが附かなくなつた。
あれほど活氣ある火力を根としながらも、空天につッ立つた烟柱は周圍の壓迫に負けて倒れるのであるが、僕はその時地腹に隱れた火力を想像して見た。
がうッと一聲、物凄い響が僕のあたまの中でしたかと思ふと、その火山の大爆發當時のありさまが瞑目のうちに浮んだ。その時、西風が吹いてゐたのであらう、日高の方面へ向つてその噴出した熔岩の灰が雲と發散して、御空も暗くなるほどに廣がつた。
その結果が今僕の目を開いて見る火山灰地である。數百年もしくは數千年以前に出來た地層がまざまざ殘つてゐて、膽振から日高の一半に渡つて、地下六七寸乃至一尺のところに、五寸乃至一尺の火山灰層となつて、その白い線が土地の高低を切り開いた道路の左右に、郵便列車の中腹の赤筋の如く、くッきりと通つてゐる。
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「全でお咄にならんサ。外債募集だの鉄道国有だのと一つの問題を五年も六年も担ぎ廻る先生の揃つてる経済界だもの。近ごろ君、経済書の売行が好いさうだが、何の事は無い、盗賊を見て縄を綯ふやうなもんだ。戦争以来実業が勃興したといふのが間違つてる。何が勃興してゐるもんか、更に進歩しないと云つても宜しい、畢竟空株の空相場が到る処に行はれたので一時に事業が起つたやうに見えたが、本と〳〵が空腹に酒を飲んだやうなものでグデン〳〵に騒ぎ立つた挙句が嘔吐を吐いて了うとヘタ〳〵に弱つて医者の厄介になると同様だ。我々の会社を見給へ、重役様がボーナスを少とでも余計握まうといふ外には何の考も無い。元来実業界の先輩と威張つてる奴らは昔からの素町人か、成上りの大山師か、濡手で粟の御用商人か、役人の古手の天下つたのか、斯ういふ連中のお揃ひだから真の文明流のビジ子スを知つてる者は無い。投機や株の売買も商売の一つだから行つても宜いが、最う些と道徳を重んじて呉れないと困る、昔から云つてる事つてすが日本人は公共思想が乏しくて商売をしても他を倒すことばかり考へて商売其物を発達せしめやうといふ考へは無い。同商売の者は成るべくトラスト流に合同して大資本を作つて大きな商売をして貰ひたいのだが、日本人同志の間では小な利慾心が邪魔をするから迚も相談が纏まらない。現に僕が関係してゐる会社では三四の同業者があるから合同して大きな工場を建てたら如何だといふ意見を持出した処が、此方の会社が十分優勢を占めてるのに以ての外だと排斥されて了つた。亜米利加では大資本家が小資本家を吸収して利益を壟断すると云つてトラストの幣を頻りに論じてるが日本では先づ当分トラストが行はれるほど進歩しない。一緒に大きく儲けやうとはしないで他人に儲けられまい儲けられまいとケチ〳〵してゐる。裏店根性だ……
「併し頭の禿げた連中は仕方が無いとして若い者は奈何かと云ふと、矢張駄目だ。血気盛んな奴が懐中手をして濡手で粟の工風ばかりする老人連の真似をしたがる。実業家といふと聞えが好いが近頃の奴は羽織ゴロの方に近い。立派な新教育を受けた若い連中までが斯様な怪しからない所為をしたがるから困る。例へば商業学校、あれが少しも役に立ちませんナ。元来ビジ子スは実地に経験を積んで然る後覚えられるもんで、学校の教場で教師の講義を聞いたつて解るもんぢやアない。銀行の取引実務とか手形交換の実習とか云ふものなら昔しの商法講習所位のものを置けば沢山だ。経済学や法律学なら大学で、教へてゐる、私立の専門学校もある。実際また商業学校で教へる位の片端を噛つたつて何の役に立つもんですか、無駄な事つた。此金の足りない中で、殊に経費少ない文部省が這般な無用の学校に銭を棄てるのは馬鹿げてる。第一貴処、困る事には此役に立たない商業学校の卒業生が学校を出れば一廉な商業家になつた気でゐる、高等商業学校を初めとして全国に商業学校が各府県に一つ宛ある、毎年卒業生が千人も出るでせう。百人に一人位真摯なものもあるかも知れないが、大抵は卒業すると直ぐ気障な扮装をして新聞受売の経済論や株屋の口吻をしたがる。先輩の対手にならないのは仕方が無いが後継者の若い者までが株屋や御用商人の真似をしたがるから困る。其証拠には貴下、斯ういふ学校出身者で細くとも自分で事業を初めた人がありますか。多い中には有るかも知れないが、先づ学校を出ると会社とか銀行とかへ入つて端多月給でも貰つて気楽に飯の喰へる工風をする。校長初め教師までが其方を奨励する。実業家達は小才の利く調法な男を廉く傭使へるのだから徳用向きの仕入物を買倒す気で居る。然るに高い学費を何年も費ひ込んだ商業学者先生達は会社か銀行の帳付にでもなると直ぐ実業家を気取つて、極愚劣な奴は安芸妓に陥り込んで無けなしの金を入上げる、些と生意気な奴は書卓附属の器械であるのを忘れて一知半解の金融論をする、少しばかりのボーナスを貰うと炭鉱とか日鉄とか直ぐ手を出したがる、事業其物に忠実なものは殆ど無い――
「カラキシ何も彼もお咄になりませんや。我々のやうに少と理窟でも捻らうといふ奴は継子扱ひされてテンで相手にされないのだから仕様が無いのサ。金を儲けるといふが何も難かしい事は無い。正実な道を踏んで立派に金儲けが出来る。何ツ――教へて呉れ? 教へてやらんでもない、正直に真面目に金の儲かる道はいくらもある。其内ユツクリ話して聞かせやう。今の実業家連中は情ない哉22が4といふ事を御存じない。22が6と算盤を弾き出すから景気が好さゝうに見えても実は初めから失敗しておるンだ。何だ――解らないと。矢張君も22が6の連中だらう――はツはツはツ」と故と磊落らしく笑ひながら口の裡にて、(実は自分にも解らない!)
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彼女からもう目が離せない
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もう一月ばかり前から、私の庭の、日当りのいい一隅で、雪割草がかれんな花を咲かせている。白いのも、赤いのも、みんな元気よく、あたたかい日の光を受けると頭をもたげ、雪なんぞ降るといかにもしょげたように、縮みあがる。この間、よつんばいになってかいでみたら、かすかな芳香を感じた。蝶もあぶもいないのに、こんな花を咲かせて、どうするつもりなのか、見当もつかぬが、あるいは神の摂理とかいうものが作用して、これでも完全に実を結ぶのかもしれぬ。
*
この花、本名は雪割草でないらしい。別所さんの「心のふるさと」には、
植木屋さんが雪割草というのは、スハマソウのことである。福寿草とともに、お正月の花のようにいわれるけれど、自然のままでは、東京の三月に咲く。
と書いてある。
*
去年の十一月、私はわずかな暇をぬすんで、信州へ遊びに行った。まったく黄色くなった落葉松の林、ヨブスマの赤い実、山で焼いた小鳥の味、澄んだ空気、それから、すっかり雪をいただいた鹿島槍の連峰……大阪に帰って来てからも、しばらくは仕事に手がつかなかった。万事万端、灰色で、きたなくて、わずらわしかった。これは山の好きな人なら、だれでも経験する気持ちであろう。
*
このような気持ちでいたある日、五時半ごろに勤めさきの会社を出ると、空はすっかり曇って、なんともいえぬ暗い、陰湿な風が吹いている。ますます変な気持ちになってしまった。そこで、偶然いっしょになった同僚のN君と、一軒の居酒屋へ入り、ここで酒を飲んだ。で、いささか元気がついて、梅田の方へ歩いて行くと、植木屋の店頭で見つけたのが「加賀の白山雪割草、定価十銭」
*
十銭といったところで、単位が書いてないから、一株十銭なのか、一たば十銭なのか、わからない。とにかく五十銭出すと、小僧さんが大分たくさんわけてくれた。新聞紙で根をつつみ、大切にして持って帰った。
*
あくる日は、うららかに晴れて風もなく、悠々と草や木を植えるには持ってこいであった。私は新聞紙をとき、更に根を結んであった麦わらを取り去って、数十本の雪割草を地面にならべた。見るとつぼみに著しい大小がある。今にも咲きそうなのが五、六本ある。
そこで私は、この、今にも咲きそうなのを鉢に植えて、部屋の中で育てようと思った。そうしたら、年内に咲くかもしれぬ。私の家は東南に面して建っているので、日さえ当たっていれば、温室のように暖かい部屋が二つあるのである。
*
私は去年朝顔が植えてあった鉢を持ち出して、まずていねいに外側を洗った。次にこの鉢を持って裏の畑へ行き、最も豊饒らしい土を一鉢分失敬した。だが、いくら豊饒でも、畑の土には石や枯れ葉がまざっている。それをいちいち取りのけて、さて植えるとなると、なかなかめんどうくさい。
雪割草を買った人は知っているだろうが、ちょっと見ると上に芽があり、下に長い根がついているらしいが、よく見ると下についているものの大部分は、根でなくて、葉を押しまげたものなのである。おそらく丈夫な葉が、スクスク延びているのを、そのままでは送りにくいので、無慙にも押っぺしょってくるくると縛りつけたのであろう。
私が第一に遭遇した問題は、この葉をいかに取り扱うべきかであった。取ってしまうと、根らしい部分がほとんどなくなる。さりとてそのままでは、バクバクして、いくら土を押えても、根がしまらない。二、三度入れたり出したりしたが、結局めんどうくさいのをがまんして、葉をつけたまま植えた。たっぷり水をやって、ガラス戸の内側に入れる。なんだか、大きな仕事をやりあげたような気がした。これだけで、大分ウンザリした。したがって、残り何十本は、庭のすみに、いい加減な穴を掘って、植えた。
*
それから、寒い日が続いた。一体、私の住んでいる所は寒いので有名だが、この冬はことに寒いような気がした。毎朝、窓ガラスに、室内の水蒸気が凍りついて、美しい模様を描き出した。
だが部屋の中は暖かかった。雪割草のつぼみは、目に見えてふくらんで行った。ただ、一向茎らしいものが出ない。きっと、福寿草のように、土にくっついて花が咲き、あとから茎がのびて葉を出すのだろう。それにしても、早く咲きそうだ。このぶんなら、お正月には確かに花を見ることが出来るだろう。と、私は大いによろこんでいた。
*
ところがある朝ふと気がつくと、一番大きなつぼみが見えない。チラリと赤い色を見せていたつぼみは、きれいにもぎ取られている。さてはねずみが食ったなとその晩から、夜はねずみの入らぬ部屋に置くことにした。
*
それにもかかわらず、つぼみはドンドン減って行く。もともと数えるぐらいしかなかったのだから、四、五日目には、一つか二つになってしまった。毎朝、私は雪割草の鉢を間にして、女房とけんかをした。
「おまえ、またゆうべ忘れたな」
「忘れやしません。ちゃんと入れときました」
「だって、また一つ減ってるぞ」
「でも、ゆうべだってしまいましたよ」
「ほんとうか」
「あなたは酔っぱらって寝てしまうから知らないんです」
「ばかなことをいえ」
「そんなら自分でおしまいなさい」
「やかましい!」
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ある朝、例の通り寝坊をして、目をこすりこすり起きた私は一年半になる私の長女が、雪割草の鉢の前にチョコンとすわって、口をモガモガさせているのを見た。わきへ行くと、くるりと横を向いて、いきなりチョロチョロ逃げ出した。二足三足で追いついて、
「陽ちゃん、なにを食べている?」
と聞くと、いつでも悪い物を口に入れて発見された時にするように、アーンと口をあいて見せた。みがき上げた米粒のような歯に、雪割草の赤い花片と黄色いしべとがくっついている。紛失事件の鍵はきわめて容易に見つかった。陽子が毎朝、おめざに一つずつ食っていたのである。
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私が夫婦げんかをしてまで大事にしていた鉢の雪割草は、この小さな野蛮人――美食家なのかもしれぬ――のために、ついに一つも咲かずにしまった。だが、こんな騒ぎをしているうちに庭に植えた分は皆、スクスクと健全な発育をとげて、毎日、次から次へと新しい花を咲かせている。
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芸術家は何よりも作品の完成を期せねばならぬ。さもなければ、芸術に奉仕する事が無意味になつてしまふだらう。たとひ人道的感激にしても、それだけを求めるなら、単に説教を聞く事からも得られる筈だ。芸術に奉仕する以上、僕等の作品の与へるものは、何よりもまづ芸術的感激でなければならぬ。それには唯僕等が作品の完成を期するより外に途はないのだ。
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芸術の為の芸術は、一歩を転ずれば芸術遊戯説に堕ちる。
人生の為の芸術は、一歩を転ずれば芸術功利説に堕ちる。
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完成とは読んでそつのない作品を拵へる事ではない。分化発達した芸術上の理想のそれぞれを完全に実現させる事だ。それがいつも出来なければ、その芸術家は恥ぢなければならぬ。従つて又偉大なる芸術家とは、この完成の領域が最も大規模な芸術家なのだ。一例を挙げればゲエテの如き。
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勿論人間は自然の与へた能力上の制限を越える事は出来ぬ。さうかと云つて怠けてゐれば、その制限の所在さへ知らずにしまふ。だから皆ゲエテになる気で、精進する事が必要なのだ。そんな事をきまり悪がつてゐては、何年たつてもゲエテの家の馭者にだつてなれはせぬ。尤もこれからゲエテになりますと吹聴して歩く必要はないが。
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僕等が芸術的完成の途へ向はうとする時、何か僕等の精進を妨げるものがある。偸安の念か。いや、そんなものではない。それはもつと不思議な性質のものだ。丁度山へ登る人が高く登るのに従つて、妙に雲の下にある麓が懐しくなるやうなものだ。かう云つて通じなければ――その人は遂に僕にとつて、縁無き衆生だと云ふ外はない。
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樹の枝にゐる一匹の毛虫は、気温、天候、鳥類等の敵の為に、絶えず生命の危険に迫られてゐる。芸術家もその生命を保つて行く為に、この毛虫の通りの危険を凌がなければならぬ。就中恐る可きものは停滞だ。いや、芸術の境に停滞と云ふ事はない。進歩しなければ必退歩するのだ。芸術家が退歩する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかり書く事だ。自動作用が始まつたら、それは芸術家としての死に瀕したものと思はなければならぬ。僕自身「龍」を書いた時は、明にこの種の死に瀕してゐた。
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より正しい芸術観を持つてゐるものが、必しもより善い作品を書くとは限つてゐない。さう考へる時、寂しい気がするものは、独り僕だけだらうか。僕だけでない事を祈る。
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内容が本で形式は末だ。――さう云ふ説が流行してゐる。が、それはほんたうらしい嘘だ。作品の内容とは、必然に形式と一つになつた内容だ。まづ内容があつて、形式は後から拵へるものだと思ふものがあつたら、それは創作の真諦に盲目なものの言なのだ。簡単な例をとつて見てもわかる。「幽霊」の中のオスワルドが「太陽が欲しい」と云ふ事は、誰でも大抵知つてゐるに違ひない。あの「太陽が欲しい」と云ふ言葉の内容は何だ。嘗て坪内博士が「幽霊」の解説の中に、あれを「暗い」と訳した事がある。勿論「太陽が欲しい」と「暗い」とは、理窟の上では同じかも知れぬ。が、その言葉の内容の上では、真に相隔つ事白雲万里だ。あの「太陽が欲しい」と云ふ荘厳な言葉の内容は、唯「太陽が欲しい」と云ふ形式より外に現せないのだ。その内容と形式との一つになつた全体を的確に捉へ得た所が、イブセンの偉い所なのだ。エチエガレイが「ドン・ホアンの子」の序文で、激賞してゐるのも不思議ではない。あの言葉の内容とあの言葉の中にある抽象的な意味とを混同すると、其処から誤つた内容偏重論が出て来るのだ。内容を手際よく拵へ上げたものが形式ではない。形式は内容の中にあるのだ。或はそのヴアイス・ヴアサだ。この微妙な関係をのみこまない人には、永久に芸術は閉された本に過ぎないだらう。
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芸術は表現に始つて表現に終る。画を描かない画家、詩を作らない詩人、などと云ふ言葉は、比喩として以外には何等の意味もない言葉だ。それは白くない白墨と云ふよりも、もつと愚な言葉と思はなければならぬ。
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しかし誤つた形式偏重論を奉ずるものも災だ。恐らくは誤つた内容偏重論を奉ずるものより、実際的には更に災に違ひあるまい。後者は少くも星の代りに隕石を与へる。前者は蛍を見ても星だと思ふだらう。素質、教育、その他の点から、僕が常に戒心するのは、この誤つた形式偏重論者の喝采などに浮かされない事だ。
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偉大なる芸術家の作品を心読出来た時、僕等は屡その偉大な力に圧倒されて、爾余の作家は悉有れども無きが如く見えてしまふ。丁度太陽を見てゐたものが、眼を外へ転ずると、周囲がうす暗く見えるやうなものだ。僕は始めて「戦争と平和」を読んだ時、どんなに外の露西亜の作家を軽蔑したかわからない。が、これは正しくない事だ。僕等は太陽の外に、月も星もある事を知らなければならぬ。ゲエテはミケル・アンジエロの「最後の審判」に嘆服した時も、ヴアテイカンのラフアエルを軽蔑するのに躊躇するだけの余裕があつた。
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芸術家は非凡な作品を作る為に、魂を悪魔へ売渡す事も、時と場合ではやり兼ねない。これは勿論僕もやり兼ねないと云ふ意味だ。僕より造作なくやりさうな人もゐるが。
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日本へ来たメフイストフエレスが云ふ。「どんな作品でも、悪口を云つて云へないと云ふ作品はない。賢明な批評家のなすべき事は、唯その悪口が一般に承認されさうな機会を捉へる事だ。さうしてその機会を利用して、その作家の前途まで巧に呪つてしまふ事だ。かう云ふ呪は二重に利き目がある。世間に対しても。その作家自身に対しても。」
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芸術が分る分らないは、言詮を絶した所にあるのだ。水の冷暖は飲んで自知する外はないと云ふ。芸術が分るのも之と違ひはない。美学の本さへ読めば批評家になれると思ふのは、旅行案内さへ読めば日本中どこへ行つても迷はないと思ふやうなものだ。それでも世間は瞞着されるかも知れぬ。が、芸術家は――いや恐らくは世間もサンタヤアナだけでは――。
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僕は芸術上のあらゆる反抗の精神に同情する。たとひそれが時として、僕自身に対するものであつても。
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芸術活動はどんな天才でも、意識的なものなのだ。と云ふ意味は、倪雲林が石上の松を描く時に、その松の枝を悉途方もなく一方へ伸したとする。その時その松の枝を伸した事が、どうして或効果を画面に与へるか、それは雲林も知つてゐたかどうか分らない。が、伸した為に或効果が生ずる事は、百も承知してゐたのだ。もし承知してゐなかつたとしたら、雲林は、天才でも何でもない。唯、一種の自働偶人なのだ。
×
無意識的芸術活動とは、燕の子安貝の異名に過ぎぬ。だからこそロダンはアンスピラシオンを軽蔑したのだ。
×
昔セザンヌは、ドラクロアが好い加減な所に花を描いたと云ふ批評を聞いて、むきになつて反対した事がある。セザンヌは唯、ドラクロアを語るつもりだつたかも知れぬ。が、その反対の中にはセザンヌ自身の面目が、明々白地に顕れてゐる。芸術的感激を齎すべき或必然の方則を捉へる為なら、白汗百回するのも辞せなかつた、あの恐るべきセザンヌの面目が。
×
この必然の方則を活用する事が、即謂ふ所の技巧なのだ。だから技巧を軽蔑するものは、始から芸術が分らないか、さもなければ技巧と云ふ言葉を悪い意味に使つてゐるか、この二者の外に出でぬと思ふ。悪い意味に使つて置いて、いかんいかんと威張つてゐるのは、菜食を吝嗇の別名だと思つて、天下の菜食論者を悉しみつたれ呼はりするのと同じ事だ。そんな軽蔑が何になる。凡て芸術家はいやが上にも技巧を磨くべきものだ。前の倪雲林の例で云へば、或効果を生ずる為に松の枝を一方に伸すと云ふこつをいやが上にも呑みこむべきものだ。霊魂で書く。生命で書く。――さう云ふ金箔ばかりけばけばしい言葉は、中学生にのみ向つて説教するが好い。
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単純さは尊い。が、芸術に於ける単純さと云ふものは、複雑さの極まつた単純さなのだ。〆木をかけた上にも〆木をかけて、絞りぬいた上の単純さなのだ。その単純さを得るまでには、どの位創作的苦労を積まなければならないか、この局所に気のつかないものは、六十劫の流転を閲しても、まだ子供のやうに喃々としやべり乍ら、デモステネス以上の雄弁だと己惚れるだらう。そんな手軽な単純さよりも、寧ろ複雑なものゝ方が、どの位ほんたうの単純さに近いか知れないのだ。
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危険なのは技巧ではない。技巧を駆使する小器用さなのだ。小器用さは真面目さの足りない所を胡麻化し易い。御恥しいが僕の悪作の中にはさう云ふ器用さだけの作品も交つてゐる。これは恐らく如何なる僕の敵と雖も、喜んで認める真理だらう。だが――
×
僕の安住したがる性質は、上品に納り返つてゐるとその儘僕を風流の魔子に堕落させる惧がある。この性質が吹き切らない限り、僕は人にも僕自身にも僕の信ずる所をはつきりさせて、自他に対する意地づくからも、殻の出来る事を禦がねばならぬ。僕がこんな饒舌を弄する気になつたのもその為だ。追々僕も一生懸命にならないと、浮ばれない時が近づくらしい。(八・十・八)
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私の家には、猫が10匹います
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私はこゝにひとつの思想を盛つた食餌を捧げるそれは悪いことかもしらないまた善いことかもしらない、たゞ私が信じてゐるだけのことである。
人々が寝静まつた真夜中にどこからともなく土の中から唄が聞えてくる、がや〴〵と大勢で話あつたり合唱したりそれは静かな賑やかな土の中の世界から洩れてくる陽気で華やかな馬賊の歌であつた。
歌は調子のよい賑やかなものであるが街の人々はふしぎにこの陽気な唄を地べたに聞くと悲しくなつて了ふのであつた。
『小父さん、草の根がガチャガチャ鳴らしてゐるやうな響きがするよ』
小さな裸の児供は土から生へてゐる一本の草にそつと耳を当て地の底の唄ひ声に聞き惚た。
『もちつと、そちらに行つて聞いてごらんなさい。
この辺の底のやうにも思はれますが』
『いや、そつちではない、この辺でござりませう』
『おや歯と歯が触れあふやうな音がした、こんどは太い濁つた男のいちだんと高い声が聞えます』
街の人々はあつちこつちの地面に耳をあてゝその唄を聴いたしかしたゞ街の地の底で聞えるといふだけで、どのへんで唄つてゐるのかわからなかつた。
土の中の馬賊の唄、この街の人々の伝説はかうなのです。
馬に乗つた馬賊の大将が従卒もつれずたつた一人で広々として野原を散歩した。
その夜はそれは美しく丸い月が出てゐた。
馬賊の大将は馬上でよい気分になつて月をながめながら、口笛をふいたり小声で歌をうたつたりしてだんだんと馬を進めてゐた。
手綱もだらりとさがつたきりになつてゐたので、この馬賊を乗せた白い馬も、のんきで風流な主人を乗せて、あちこちと自分の思つたところを、青草を喰べながら散歩することができた。
ふと馬賊が気がついてみますと自分は山塞からだいぶ離れた草つ原にきてゐた。
そして其処は切りたつた崖になつて眼下に街の赤い燈火がちらほらと見えてゐた。
『こんな月をみることは馬鹿らしい遊びだ、そんな風流な気持は俺達の世界には、塵つぱかりも不要な心だ』
急に馬賊の大将の風流の気持は風のやうにけし飛んでしまつた、いま街の灯をながめると急にもとの狼のやうな馬賊の気持ちになつてしまつた。
なにもかも憎らしくなつた殊に一番高いところに一番輝いてあらゆる地上の物をみくだしてゐるお月さまの、少しの角もないまんまるい横柄な顔が憎らしくなつた、そして少しの間でもこのお月さまに惚々としてこんなところまで散歩してきたことが馬鹿らしくなつた、馬賊は馬上で二三発空のお月さまに続けさまに鉄砲を撃ちこんでから嵐のやうにすばやく街にむかつて馳け出した。
街の人々は、いつもの馬賊の集団が襲つてきたと思ひ、あわてゝ戸を閉ぢ地下室の中に隠れて呼吸をこらしてゐた。
馬賊の大将は、いつもであれば沢山の家来を指揮して襲つてくるのが、その日はただ一人であるのであまり深入りをして失敗をしてはいけないと考へた。
でも大胆な馬賊はいちばん街端づれにちかい家を二三十軒も襲つて大きな三つの皮袋に、お金や貴金属類を集めこれを馬の鞍の両側にと自分の腰にしつかりと結びつけた。
一番後に押いつた家は、りつぱな酒場であつたが、家人は逃げてしまつて家の中はがらんとしてゐた、酒場の窓から青いお月さまの光りが室にいつぱい射しこんでゐた。
そして棚の上のさまざまの形ちの青や赤の酒瓶が眼についた、ぷんぷんとお美味い酒の匂ひを嗅ぐと馬賊の大将はたまらなくなつて鼻をくんくん鳴らした。
『あの月をながめて酒をのんだらお美味からな』
馬賊の大将はさつきさんざんお月さまを憎んだことも鉄砲をうちこんだことも忘れてしまつた。
白い馬を酒場の窓際にたゝせてをいてから酒の瓶をもちだしてちびりちびりと飲みだした馬を窓際につないでをいたのは、もし街の兵隊が捕まへにきたなら、ひらりと得意の馬術で窓から馬の背にとびのつて雲を霞と逃げ失せるつもりであつたのです。
それから暫らくして馬賊の大将がたつた一人で酒場にはいりこんだといふ知らせに、それ捕まへて了へと、二三十人もどつと酒場に押しよせてきた。
馬賊の大将は得意の馬術で逃げだすどころか、もうへべれけに酔つぱらつてしまひ、それはたあいもなく兵隊にしばられてしまつた。
そして首をちよん切られて、その首は原つぱの獄門にさらされた。
一方山塞の手下達はなにほど待つてゐても、大将が山に帰つて来ないので大騒ぎとなつた、それまで手下達は手分けをして一探しにでかけた。
一人の若い馬賊の手下がそつと街に忍びこんだ、丁度街端づれの広つぱにある刑場の獄門の下をなにごころなく通ると。
『おい〳〵』
と、上から呼びとめるものがある。
獄門の横木の上には探しあぐんだ大将の首は酒のよいきげんで手下を呼びとめた。
二日酔ひでれりつの廻らない舌で大将の首は。
『やい、やい、いま頃何をうろ〳〵歩き廻つてゐるのだ』
と、手下をどなりつけた、それで手下は大将が行方不明になつたので山では皆心配をして手分けをして探してゐたのだと答へた。
『これは親分、とんだ高いところに納まつて、だいぶ上機嫌でございますな』
『えへへへへ』
と、馬賊の手下は大将の上機嫌の首を見あげて、いかにも酒が飲みたさうにお追従笑ひをした。
『山に帰つてみなにさう言へ、なあたまにはこの俺さまを見習へつてな、人間らしい気分になつて一杯やりながら月でも眺める殊勝な心にもなつて見ろつてよ、人殺しの不風流者奴が、あはゝゝ』
大将の首は、たいへんな元気で手下を叱り飛ばした。
その翌日大将の首のすぐ隣りに新しいひとつの首が載つかつた。
『親分、お許しがでたもんで、まつさきに月見のお仲間いりに参つたやうな次第でえへへへ』
新しい首はまつ赤に酔つぱらつて、とろんこの眼をしながら大将の首に言つた、それは前日の馬賊の手下の首であつた。
『うむ、よく来た、まあ考へて見れよ、この俺もよく〳〵考へてみたさ、妙に世の中が小癪にさはつて憎らしくつて、物盗り人殺し渡世をこれまでやつてきたものゝ、一人でも人間の数をへらしたい、一銭でも多く世の中から金をへらしたいといふ心からの俺の仕事もけつくはみなくだらない仕事に終つてしまふ、酒でも飲んで、月でも眺めて、歌でも唄つてゐりやつみがない人間さまよアハヽ』
『親分、共鳴々々いくらしやちほこ立つて手足をばた〴〵やつたところで、人間は土の上で虫でさ、動かない塵ひとつ、髪の毛が風にふかれてゐるのと、けつくはをんなじでサ』
と、言葉をついで手下は。
『そこで親分、街の酒場で鱈腹酒をのんでから、さあ俺は馬賊だ斬るなり殺すなり勝手にしろ、と大あぐらを組んだところが、すこぶるかん単でさ、冷たいものがすうと首筋を撫でたと思つたら、首と胴とが泣き別れで獄門の上で寒風に晒されるといふわけですからな。だが小便がでないんでなか〳〵酔ひが醒めないといふ。
洒落がでるといふ次第ですな』
それから大将の首と手下の首とは陽気に流行歌の合唱をはじめた。
その翌日また新しい首が殖えたその翌日またひとつ首が殖えた、そしてものゝ十日も経たぬうちに五六十の首が獄門の横木の上にずらりとならんでしまつた。
それがみな馬賊の手下共の首であつた。
『さあ、みんな揃つたか、さあ陽気に始めた〳〵』
と、大将の首は一同の首を見渡して歌の音頭をとつた。
それから賑やかな合唱が始まつた。
街の人々は獄門の酔つぱらつた首が毎夜のように合唱を始めて寝つかれないので、なんとかして貰はなければ困ると刑場の兵士に苦情を持ちこんだ。
それに兵士も獄門にあまり沢山首がならんで、もうひとつの首のせ場所もなくなつてしまつたので、或日馬賊の首をひとまとめにして街端づれの広い草地に、大きな深い穴を掘つて、その墓穴の中に埋めてしまつた。
上から土をかけられてしまつたのでそれから後月をながめることはできなかつたが、それでも陽気に馬賊の首は歌をうたひ続けてゐた
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東京劇場の七月興行のよさは「合邦辻」のよさである。これに俊徳丸を菊五郎がつきあつたら、どんなに歌舞妓復興の気運を高めることだらう。「髪結新三」は、菊五郎式の解釈は、富永町の場で急に善良な人間になつてしまふ。これではお熊が、この無頼漢に恋を感じたといふ脚本が、も一つ書かれさうである。
「かつをは半分もらつてゆく」の軽くさらふ様な味が役者にすら感じられなくなつてゐる。私など場違ひの者には、年々勘にはづれてゆく様な気がする。当然さうした書き替へをしてもよい時になつたのである。もうあの道徳は――もしくは悖徳は、われ〳〵の胸にぴんと来なくなつてゐる。「鈴ヶ森」では、例のとほり上級と下級の両雲助群が出て、物もなげに漫歩する。それと、年と共に醜悪な扮装を物々しく凝らすやうになつた。綺麗事でもない芥を洗ひ棄てなくては、本流の煩ひになる。
「夏祭」では、型破りによく役を皆がとつてゐる。これでは多賀之丞の三婦女房のおつぎなどが、堂々として見えても致し方ない。吉之丞の義平次、することはよいが、身上の道化敵になるまいとの努力が、ちつとも愛嬌のない悪年寄にしてしまつた。「兄よ暑いなあ」の棄てぜりふめいた文句も、やつぱり仁にはまらなくては意味のないものだとわかつた。蛙見得が、蟹見得と改称しさうなのも、気の毒だつた。
三津五郎の古い持ち役一寸徳兵衛からして、代役のやうに見えるのは、こちらの目がわるいのだとつく〴〵反省した。今度は藤弥太を初めに、色々重要な役に回つてゐる。こゝで遅まきながら立て直して、新しく立役の店を出す気になつてほしい。
「江島生島」は、為出しのやうに見えて大切な海女たちなのだが、為出しのやうにしか見えないのは、何か構成の上に、誤算があるらしい。殊に可愛い子どもが二人、狐につまゝれたやうに出て来るのは、舞踊劇の夢幻味に対する放しでほかない。
拾ひ物をするかと思つた松緑の勝奴が、何ものも客に拾ひ得を感じさせなかつた。ひきかき廻して行くかと思つた鯉三郎の初かつを売りが、如何にも魚屋らしく、限度を弁へたよさを示してゐた。これは抜擢といふのと、逆効果を持つほめ詞になるかも知れない。だが、こんな役ばかりをさせて、教養々々と菊五郎などが、渋つたい顔で指導して行く間に、彼等も一年々々古くなつて行く。
「藤弥太物語」では、大きな拾ひ物をした。新羽左衛門の静御前である。まづ「こうせき」が吹き切れて来た。先々代家橘に似たかと思はれた含み声が、さらりと朗らかになつた。先羽左衛門なども、調子が直つてから役者がぐん〴〵上つて来たのだから、新羽左もさういふ時が来たのかも知れぬ。三味線の「たて」などは、さすがに持ちきれなかつたが、薙刀をかいこんだ花道の見得は、一夜の雨に伸び上つた芸立ちを思はして爽快だつた。
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私は京の四条通りの、今、万養軒という洋食屋になってるところにあった家で生まれた。今でこそあの辺は京の真中になって賑やかなものだが、ようやく物心ついた頃のあの辺を思い出すと、ほとんど見当もつかない程の変りようだ。
東洞院と高倉との間、今取引所のあるところ、あすこは薩摩屋敷と言ったが、御維新の鉄砲焼の後、表通りには家が建て詰っても裏手はまだその儘で、私の八つ九つ頃はあの辺は芒の生えた原ッぱだった。
万養軒の筋向うあたり、今八方堂という骨董屋さんのある家に、小町紅という紅屋さんがあった。今でも小町紅は残ってるが、その頃の小町紅は盛んなものだった。
その頃の紅は茶碗の内側に刷いて売ったもので、町の娘さん達はてんでに茶碗を持って刷いて貰いに行った。その紅を刷いてくれる人が、いつも美しい女の人だった。
むくつけな男がいかつい手つきで刷いたのでは、どうも紅を刷くという感じが出ない。小町紅ではお嫁さんや娘さんや、絶えず若い美しい女の人がいて、割れ葱に結って緋もみの裂で髷を包んだりして、それが帳場に坐っていて、お客さんが来ると器用な手つきで紅を茶碗に刷いていた。そうしたお客さんが又、大抵みな若い女の人達なので、小町紅というと何とも言えない懐かしい思い出がつきまとう気がする。
この頃の口紅というと、西洋から来たのだろうが棒になってるのだが、昔のは茶碗の内らに玉虫色に刷いてあるのを、小さな紅筆で溶いてつけたものだった。つけ方だって、この頃では上唇も下唇も一様に真ッ赤いけにつけてしまって、女だてらに生血でも啜ったようになってるのを喜んでる風があるが、あれなども西洋かぶれすぎると思う。
紅は矢ッ張り、上唇には薄紅く下唇を濃く玉虫色にしたところに何とも言えない床しい風情がある。そんな紅のつけ方など時たま舞妓などに見るくらいになってしまった。口許の美しさなど、この頃では京の女の人から消えてしまってると言いたい。
あの辺を奈良物町と言った。
丁度四条柳馬場の角に、金定という絹糸屋があって、そこにおらいさんというお嫁さんがいた。眉を落していたが、いつ見てもその剃り跡が青々していて、色の白い髪の濃い、襟足の長い、何とも言えない美しい人だった。
お菓子屋のお岸さんも美しい人だった。
面屋のやあさんも評判娘だった。面屋というのは人形屋のことで、お築という名だったが、近所ではやあさん、やあさんと言ってた。非常に舞の上手な娘さんで、殊に扇をつかうことがうまく、八枚扇をつかうその舞は役者でも真似が出来ないと言われたくらいで、なかなかの評判だった。
その頃の稽古物はみな大抵地唄だったが、やあさんのお母さんという人がやさしい女らしい人だったが三味線がうまくて、よく母娘で琴と三味線の合奏やら、お母さんの三味線に娘さんの舞やらで楽しんでいた。
夏など、店から奥が透いて見える頃になると、奥まった部屋でそうしたものが始まるのが、かどを通ると聞こえてくる。今のように電車や自動車などなく、ようやく人力車が通るくらいのことだから、町中も大変静かだったので、そんなものが始まると、あッ又やあさんがやったはる、というのでかど先には人が何人も何人も立停って立聞きするという有様だった。
この辺は立売町で、やあさんは立売町の小町娘だった。
その頃の町中はほんとに静かだった。よく人形芝居が町を歩き廻り、町角には浄瑠璃語りが人を集めてもいた。真似々々といって、その頃評判の伊丹屋や右団次の口跡を、芝居でやるその儘の感じを出して上手に真似る人がいた。ちょっと役者顔をした男だったが、私の母の話によると、元は市川市十郎と一緒に新京極の乞食芝居の仲間だった人だということで、それがいつの間にか零落して町芸人になってしまったということだった。
私なども娘時代には地唄の稽古をしたものだ。この頃では地唄など一向廃ってしまったけど、その頃の町での稽古物というとまず地唄だった。
四条通りから堺町に越した頃、私はもう絵を習いかけていたが、その頃よく宵の口に、時をきめてかどを地唄を流して来る六十余りのお爺さんがあった。それが大変うまく、緩急をつけて、なかなかちょっと誰にでもはやれない地唄の中の許し物を嗄れた渋い声で唄って来る。
アッ来やはった、と思うと、私は絵の稽古をやめて表の格子の内らまで駆け出しては、この流しに聞きとれたものだった。
その頃の祇園の夜桜は、今に較べるともっともっといい恰好だったが、桜の咲く頃など祇園さんの境内に茣蓙を敷いて、娘に胡弓を弾かせて自分の三味線と合わせてることもあったのを記憶してる。後ろにはお婆さんがいた。見れば人品も卑しくない。屹度元は由緒ある人の落ちぶれたものに相違ないとも思わせた。
こうしたしんみりした味なども、この頃の円山では味わえなくなってしまった。あの大声のラジオや蓄音機などというような唯騒々しいばかりのものなど素よりその頃はないので、こうした親子連れの町芸人の芸などもしんみり聞けたのだった。
夏の磧の容子にしても味があった。川幅がもっと広くて、浅い水がゆるゆると流れていた。四条の擬宝珠の橋の上から見下すと、その浅い川の上一面の雪洞の灯が入って、よく見ると雪洞は床几に一つずつ置いてあるのだが、幾組も幾組ものお客さんがさんざめいている。藤屋という大きな料理屋が橋の西詰にあって、そこから小さな橋伝いに床几に御馳走を搬んで行く、芸妓や仲居やの行き来する影絵のような眺めも又ないものではあった。
そうした床几の彼方此方には、魚釣りがあったり馬駆け場があったり、影絵、手妻師があったり、甘酒や善哉の店が出されていたり、兎に角磧一杯そうしたもので埋まってしまっていた。
橋の下や西石垣の河ッぷしにも、善哉やうきふの店が出ていて床几に掛けられるようになっていた。
祇園祭にしても、あの頃は如何にも屏風祭らしい気分が漂っていた。この頃のように鉄のボートなどの篏まった家などなく、純粋な京式な家ばかりだったので、お祭頃になると建具をとりはずしてしまって、奥の奥まで見透ける部屋々々に、簾が掛かっており雪洞が灯されてい、その光は今の電灯などに較べると何とも言えず床しくええものだった。
そうした町中や店先に見る女の風などにしても、その頃はまだどっちかと言えば徳川時代の面影を半ばは残して、一入懐かしいものがあった。
この間帝展に出品した「母子」は、その頃への私の思い出を描いたものだが、いわば私一人の胸の奥に残されてる懐かしい思い出なのだから、ああしたものも私だけが描くことを許された世界のような気がする。私はまだまだいろいろ沢山描きたいものを持ってるので、これから機会あるごとにああした思い出を描き残して置きたいと思う。年を追って順次新しい時代に及ぼしてみたいと思ってる。
この頃ではお嫁さんだか娘さんだか、髪形や帯着物などでは一向判断のつきかねる風俗になってしまってるが、その頃はお嫁さんはお嫁さん娘さんは娘さんと、ちゃんと区別がつき、女中は島田に黒襦子の帯を立子に結ぶ、という風にきちんときまったものだったし、同じお嫁さんの風にしても、花嫁中嫁とおんばちでは、髷にしても鹿の子の色にしても揷物にしても何段にも何段にも区別があった。
総じて京風というと襟足の美しさが一際目立つもので、生え際の長い、白い頸筋に黒々とした髪の風情は、特に美しい人のためにこそ引き立ちもし、生えさがりの短い人など却って晴れがましい程だ。
五つ六つくらいの子の、ようやく髪の伸びかけたのは先ず「お莨盆」に結う。ちょっと鹿の子を掛けたりすると可愛いものだ。
少し髪が伸び揃うと「鬘下地」か「福髷」かに結う。そうたっぷりと伸びていないので、鬢を小さく出す。それを雀鬢と言った。
地蔵盆などに小さい娘の子が、襟を二本足三本足にして貰って、玉虫色の口唇をしたりしたのなど、ええものだった。
「桃割」「割れ葱」「お染髷」「鴛鴦」「ふくら雀」「横兵庫」「はわせ」など皆若い娘さん達の髷だが、中年のお嫁さんなどは「裂き笄」「いびし」などというのを結った。
明治時代の京風芸者の結った「投島田」も粋な、なかなかいいものだった。
然し時代は移り変っても、どの時代にもすたらずに永く続けられてるものは島田と丸髷で、娘さんの文金高島田にお母さんの丸髷は、品があって奥床しい。
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人間が石にたよるやうになつて、もうよほど久しいことであるのに、まだ根気よくそれをやつてゐる。石にたより、石に縋り、石を崇め、石を拝む。この心から城壁も、祭壇も、神像も、殿堂も、石で作られた。いつまでもこの世に留めたいと思ふ物を作るために、東洋でも、西洋でも、あるひは何処の極でも、昔から人間が努めてゐる姿は目ざましい。人は死ぬ。そのまま地びたに棄てておいても、膿血や腐肉が流れつくした後に、骨だけは石に似て永く遺るべき素質であるのに、遺族友人と称へるものが集つて、火を点けて焼く。せつかくの骨までが粉々に砕けてしまふ。それを拾ひ集めて、底深く地中に埋めて、その上にいかつい四角な石を立てる。御参りをするといへば、まるでそれが故人であるやうに、その石を拝む。そして、その石が大きいほど貞女孝子と褒められる。貧乏ものは、こんな点でも孝行がむづかしい。
なるほど、像なり、建物なり、または墓なり何なり、凡そ人間の手わざで、遠い時代から遺つてゐるものはある。しかし遺つてゐるといつても、時代にもよるが、少し古いところは、作られた数に較べると、千に一つにも当らない。つまり、石といへども、千年の風霜に曝露されて、平気でゐるものではない。それに野火や山火事が崩壊を早めることもある。いかに立派な墓や石碑でも、その人の名を、まだ世間が忘れきらぬうちから、もう押し倒されて、倉の土台や石垣の下積みになることもある。追慕だ研究だといつて跡を絶たない人たちの、搨拓の手のために、磨滅を促すこともある。そこで漢の時代には、いづれの村里にも、あり余るほどあつた石碑が、今では支那全土で百基ほどしか遺つてゐない。国破れて山河ありといふが、国も山河もまだそのままであるのに、さしもに人間の思ひを籠めた記念物が、もう無くなつてゐることは、いくらもある。まことに寂しいことである。
むかし晋の世に、羊祜といふ人があつた。学識もあり、手腕もあり、情味の深い、立派な大官で、晋の政府のために、呉国の懐柔につくして功があつた。この人は平素山水の眺めが好きで、襄陽に在任の頃はいつもすぐ近い峴山といふのに登つて、酒を飲みながら、友人と詩などを作つて楽しんだものであるが、ある時、ふと同行の友人に向つて、一体この山は、宇宙開闢の初めからあるのだから、昔からずゐぶん偉い人たちも遊びにやつて来てゐるわけだ。それがみんな湮滅して何の云ひ伝へも無い。こんなことを考へると、ほんとに悲しくなる。もし百年の後にここへ来て、今の我々を思ひ出してくれる人があるなら、私の魂魄は必ずここへ登つて来る、と嘆いたものだ。そこでその友人が、いやあなたのやうに功績の大きな、感化の深い方は、その令聞は永くこの山とともに、いつまでも世間に伝はるにちがひありませんと、やうやくこのさびしい気持を慰めたといふことである。それから間もなくこの人が亡くなると、果して土地の人民どもは金を出し合つてこの山の上に碑を立てた。すると通りかかりにこの碑を見るものは、遺徳を想ひ出しては涙に暮れたものであつた。そのうちに堕涙の碑といふ名もついてしまつた。
同じ頃、晋の貴族に杜預といふ人があつた。年は羊祜よりも一つ下であつたが、これも多識な通人で、人の気受けもよろしかつた。襄陽へ出かけて来て、やはり呉の国を平げることに手柄があつた。堕涙の碑といふ名なども、実はこの人がつけたものらしい。羊祜とは少し考へ方が違つてゐたが、この人も、やはりひどく身後の名声を気にしてゐた。そこで自分の一生の業績を石碑に刻んで、二基同じものを作らせて、一つを同じ峴山の上に立て、今一つをば漢江の深い淵に沈めさせた。万世の後に、如何なる天変地異が起つて、よしんば山上の一碑が蒼海の底に隠れるやうになつても、その時には、たぶん谷底の方が現はれて来る。こんな期待をかけてゐたものと見える。
ところが後に唐の時代になつて、同じ襄陽から孟浩然といふ優れた詩人が出た。この人もある時弟子たちを連れて峴山の頂に登つた。そして先づ羊祜のことなどを思ひ出して、こんな詩を作つた。
人事代謝あり、
往来して古今を成す。
江山は勝迹を留め、
我輩また登臨す。
水落ちて魚梁浅く、
天寒うして夢沢深し。
羊公碑尚ほあり。
読み罷めて涙襟を沾す。
この一篇は、この人の集中でも傑作とされてゐるが、その気持は全く羊祜と同じものに打たれてゐるらしかつた。
この人よりも十二年遅れて生れた李白は、かつて若い頃この襄陽の地に来て作つた歌曲には、
峴山は漢江に臨み、
水は緑に、沙は雪のごとし。
上に堕涙の碑のあり、
青苔して久しく磨滅せり。
とか、また
君見ずや、晋朝の羊公一片の石、
亀頭剥落して莓苔を生ず。
涙またこれがために堕つ能はず、
心またこれがために哀しむ能はず。
とか、あるひはまた後に追懐の詩の中に
空しく思ふ羊叔子、
涙を堕す峴山のいただき。
と感慨を詠じたりしてゐる。
なるほど、さすがの羊公も、今は一片の石で、しかも剥落して青苔を蒙つてゐる。だから人生はやはり酒でも飲めと李白はいふのであらうが、ここに一つ大切なことがある。孟浩然や李白が涙を流して眺め入つた石碑は、羊公歿後に立てられたままでは無かつたらしい。といふのは、歿後わづか二百七十二年にして、破損が甚しかつたために、梁の大同十年といふ年に、原碑の残石を用ゐて文字を彫り直すことになつた。そして別にその裏面に、劉之※(二点しんにょう+隣のつくり)の属文を劉霊正が書いて彫らせた。二人が見たのは、まさしくそれであつたにちがひない。こんなわけで碑を背負つてゐる台石の亀も、一度修繕を経てゐる筈であるのに、それを李白などがまだ見ないうちに、もうまた剥落して一面にあをあをと苔蒸してゐたといふのである。そこのところが私にはほんとに面白い。
この堕涙の碑は、つひに有名になつたために、李商隠とか白居易とか、詩人たちの作で、これに触れてゐるものはもとより多い。しかし大中九年に李景遜といふものが、別にまた一基の堕涙の碑を営んで、羊祜のために峴山に立てたといはれてゐる。が、明の于奕正の編んだ碑目には、もはやその名が見えないところを見ると、もつと早く失はれたのであらう。そしてその碑目には、やはり梁の重修のものだけを挙げてゐるから、こちらはその頃にはまだあつたものと見えるが、今はそれも無くなつた。
羊祜は身後の名を気にしてゐたものの、自分のために人が立ててくれた石碑が、三代目さへ亡び果てた今日に至つても、「文選」や「晋書」や「隋書経籍志」のあらむかぎり、いつの世までも、何処かに彼の名を知る人は絶えぬことであらう。彼の魂魄は、もうこれに気づいてゐることであらう。またその友人、杜預が企画した石碑は、二基ともに亡びて、いまにして行くところを知るよしもないが、彼の著述として、やや得意のものであつたらしい「左氏経伝集解」は、今も尚ほ世に行はれて、往々日本の若い学生の手にもそれを見ることがある。だから、大昔から、人間の深い期待にもかかはらず、石は案外脆いもので寿命はかへつて紙墨にも及ばないから、人間はもつと確かなものに憑らなければならぬ、と云ふことが出来やう。杜預の魂魄も、かなり大きな見込み違ひをして、たぶん初めはどぎまぎしたものの、そこを通り越して、今ではもう安心を得てゐるのであらう。
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急におなかの調子が悪くなりました
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夏の昼過ぎでありました。三郎は友だちといっしょに往来の上で遊んでいました。するとそこへ、どこからやってきたものか、一人のじいさんのあめ売りが、天秤棒の両端に二つの箱を下げてチャルメラを吹いて通りかかりました。いままで遊びに気をとられていた子供らは、目を丸くしてそのじいさんの周囲に集まって、片方の箱の上に立てたいろいろの小旗や、不思議な人形などに見入ったのです。
なぜなら、それらは不思議な人形であって、いままでみなみなが見たことがないものばかりでした。人形は新しいものとは思われないほどに古びていましたけれど、額ぎわを斬られて血の流れたのや、また青い顔をして、口から赤い炎を吐いている女や、また、顔が六つもあるような人間の気味悪いものの外に、鳥やさるや、ねこなどの顔を造ったものが幾つもならんでいたからです。片方の中には、あめが入っていると思われました。みんなは、これまで村へたびたびやってきたあめ売りのじいさんを知っています。しかし、そのじいさんはどうしたか、このごろこなくなりました。そのじいさんの顔はよく覚えています。けれど、だれも今日この村にやってきたこのじいさんを知っているものはなかったのです。
じいさんはチャルメラを鳴らしながら、ずんずんと往来をあちらに歩いてゆきました。やがて村を出尽くすと野原になって、つぎの村へゆく道がついていました。
「なんだろうね、あの人形は? 口から血が出ていたよ。僕はあんなすごい人形を見たことがないよ。」と、三郎がいいました。
「僕だって見たことがないよ。あのあめ売りのじいさんは、はじめて見たのだよ。」と、友の一人がいいました。
「もっとそばへいってよく見ようか?」と、またほかの一人が、こわいもの見たさにいったのであります。
「ああ、いってみよう。」といって、三郎とその二人がじいさんの後を追いかけてゆきました。こわがってゆかずに往来に止まっていたものもあります。三人は、やがて野原の中をゆくじいさんに追いつきました。じいさんは赤い色の手ぬぐいでほおかむりをしていました。じいさんは知らぬ顔をしてさっさと歩いています。その後から三人は、ひそひそと話しながら、じいさんの前になっている箱の上をのぞいていますと、突然、
「このじいさんは人さらいだよ。」と、三人の後方から小声にいったものがありました。三人はびっくりして後ろの方を振り向くと、空色の着物をきた子供が、どこからかついてきました。みなはその子供をまったく知らなかったのです。
「このじいさんは、人さらいかもしれない。」と、その子供は同じことをいいました。これを聞くと三人は頭から水をかけられたように凄然として逃げ出しました。
三郎は野原の中を駈け出しました。ほかの二人ももときた道をもどりました。すると、だれやら、三郎の後を追っかけてきました。三郎は自分独り道のない、こんなさびしい野原の中へ逃げたのを後悔しながら、なおいっしょうけんめいになって逃げますと、
「君、もうだいじょうぶだよ。」と、後方から声をかけました。三郎は二度びっくりして振り返ってみますと、先刻の空色の着物をきた子供が、自分の後ろについてきたのであります。
「ああ君かい。僕は、またじいさんがおいかけてきたのかと思って、いっしょうけんめいに逃げたよ。」と、三郎ははじめて安心しました。けれど、三郎はかつて、こんなところへきたことがありませんでした。そして、二人の友だちがあちらへ逃げてしまって、自分独りでありましたから心細くなってきました。
「僕の家の方は、どっちかしらん。」と、四辺を見まわしますと、
「あの森が、君の家のあるところだよ。君はあの森を見て帰ればゆかれるよ。」と、空色の着物をきた少年は教えました。
三郎は、この少年をいままで一度も見たことがなかったから、
「君は、だれだい。」と聞きました。するとその少年は、ちょっと顔を赤らめて、
「僕は、君をとうから知っているんだよ。」と答えました。そして、
「君に、池を教えてあげよう。」といって、三郎をあちらにつれてゆきました。すると、そこに池がありました。三郎は、この野原の中にこんな池のあることをはじめて知りました。ちょうど日が暮れかかって夕焼けの赤い雲が静かな池の水の上に映っていました。池の周囲には美しい花が、白・黄・紫に咲いていました。
そのとき、少年は足もとにあった小石を拾って、水の上に映っていた夕焼けの紅い雲に向かって投げますと、静かな池の面にはたちまちさざなみが起こって、夕焼けの雲の影を乱しました。しかして、それが、静まったときに、その真っ青な水の面には、少年の白い顔がありありと映って、じっと三郎の顔を見つめて、音なく笑ったかと思うと、たちまち消えてしまいました。三郎は、怪しんで、四辺を見まわしましたけれど、空色の着物をきた少年の姿はどこにもなかったのです。三郎は、森影を目あてに、その日は家へ帰りました。
あくる日から、日暮れ方になって夕焼けが西の空を彩るころになると、三郎は野の方へと憧れて、友だちの群れから離れてゆきました。ある日のこと、彼はついに家へ帰ってきませんので、村じゅうのものが出て探しますと、三郎は野の中の池のすみに浮き上がって死んでいました。
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御成道のうさぎや主人、谷口喜作さんから「先生はいまタカちやんと君のことを書いてゐるさうですよ」と知らされたのは、まだ空襲もさう激しくならない、たしか昭和十八年の春頃だつたと覺えてゐる。
タカちやんといふのは、即ち永井荷風氏の近業「來訪者」の登場人物白井巍君のことで、當時房州保田に住んでゐたので、自ら房陽山人と號し、終戰後發表された先生の日記の中に、南總外史として現はれる人物である。
あの小説を讀めばわかるとほり、私達はつねに影身のやうに先生に從ひ、淺草の六區を中心に盛り場を歩いた。時にはオペラ館の稽古をみながら、客席に夜を明かしたこともある。白井は毎月きまつたやうに中頃には出京し、市川にあつた私の別莊可磨庵に逗留しながら東京へ通ひ、十日ぐらゐすると保田へ歸つていつた。二人が麻布の偏奇館を訪ねるのはたいてい一緒で、都合で白井が先に行くやうな時は電話で時間を打合せて私が後から伺ひ、三人揃つてお宅を出、道源寺坂を下り、今井町の通りから市電に乘つた。
先生はお一人なので晝は朝飯をかねてパンか何かで簡單にすませ、夕方は町へ出てかなりこくのある食事をとられるのが習慣であつたから、いきほひ私達は美食の御相伴にあづかることゝなつた。牛肉の好きな先生は主に新橋の今朝、小傳馬町の伊勢重、雷門の松喜などに誘はれ、たまに新橋裏にあつた金兵衞とか千成とか六區の小料理屋へ行つた。食事をすますとオペラ館を覗き、はねてから踊子たちを誘ひ森永へ行くのがきまりであつた。この時間割は先生一人のときも餘り變らないやうであつた。支那事變の末期で、歌劇「葛飾情話」上演以來、先生と六區とは切つても切れない間柄になつてゐた。
白井は市川にゐるときは一人であつたから、退屈まぎれに可磨庵にあつた先生の自筆原稿を寫しはじめた。それが餘りに出來榮えがよく、本物といつても人が容易に信じるところから、つひいたづらが過ぎて色紙や短册にまで手がのびた。それには利にさとい都下有數の古本屋なども絡まり、昭和の洒落本らしい揷話があるのだが「來訪者」には書かれてない。
その頃、淺草で落合つた連中の一人に井戸君といふのがゐた。まだ帝大の學生であつたが、いつも背廣を着てオペラ館の樂屋に出入してゐた。この人は後に熱海で旅館を經營し、私も二三度遊びにいつたことがあるが、今はどうしてゐるか。「來訪者」ではこの人が僞物をつかまされてることになつてゐるが、事實は井戸君ではない。しかも、僞物をさげて偏奇館へ箱書きをたのみに行つたのが、誰あらう筆者である白井自身なのだから振つてゐる。事實は小説よりも奇なりといふが、「來訪者」の事件をそのまゝ書けば、面白い話が澤山ある。しかし、あの小説の目的は他にあるのだから、それを書かぬといつて作者を責めるわけにはゆかない。
房陽山人は英文學專攻だけに飜譯は達者であつたが、そればかりでなく文に長じ、書を能くした。最近中央公論社から出る荷風全集の最初の篇輯の任に當つたのは彼で、そのために先生の三十年にわたる日記を筆寫したことも、たしかに彼の手をあげた。平安堂の白圭といふ細筆で、屼々として日録を書寫してゐた山人の姿が偲ばれる。
「來訪者」では白井は日本橋箱崎町の生れとなつてゐるが、實は下谷の産で少年時代に濱町にゐたことがあり、あの邊に幼友達が多かつた。家はたしか中の橋の近所で炭屋を商つてゐたと聞いた。洒落氣が多く、如才がなく、一見長髮で文學者然としてゐたが、根は氣の弱い町家の若旦那といつたタイプである。
戰爭中、私達は離れ離れであつたが幸ひにして徴用と兵役を免がれた。いま、白井は草深い信州の中學校で教鞭をとつてゐるといふが、「來訪者」を讀んで果してどんな感概に耽つたことであらう。
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ウンコ漏れそう。
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京都では、もう早咲きの桜が咲いている
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彼が100メートルほどの橋を渡る
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くだんの場所が近くにまだ有る
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僕に小説をかけと云ふのかね。書けるのなら、とうに書いてゐるさ。が、書けない。遺憾ながら、職業に逐はれてペンをとる暇がない。そこで、人に話す、その人が、それを小説に書く。僕が材料を提供した小説が、これで十や二十はあるだらう。勿論、有名なる作家の作品でね。唯、君に注意して置きたいのは、僕の提供する材料が、大部分は、僕の創作だと云ふ事だよ。勿論、これは、今まで、人に話した事はない。さう云ふと、誰も、僕の話を聞いて、小説にする奴がないからね。僕は、何時でも、小説らしい事実を想像でつくり上げて、それを僕の友だちの小説家に、ほんたうらしく話してやる。すると、それが旬日ならずして、小説になる。自分が小説を書くのも、同じ事さ。唯、技巧が、多くの場合、全然僕の気に入らないがね、それは、まあ仕方がないさ。
尤も、ほんたうらしく見せかけるのには、いろんな条件が必要だよ。僕自身、僕の小説の主人公になる事もある。或は、僕の友だちの夫婦関係を粉本に、ちよいと借用する事もある。が、決して、モデル問題は起らない。起らない筈さ。モデル自身は、実際、僕の提供する材料のやうな事をしてはゐないんだし、僕の友だちの小説家も、それが姦通とか、竊盗とか、シリアスな事になればなる程、徳義上、モデルの名は出さないからね。そこで、その小説が活字になる。作家は原稿料を貰ふ。どうかすると、僕をよんで、一杯やらうと云ふやうな事になる。実は、僕の方が、作家に礼をすべき筈なのだが、向ふで、嬉しがつて、するのだからさせて置くのさ。
所が、この間、弱つた事があつた。なに、Kの奴を、小説の主人公にして見たのさ。何しろ先生あの通り、トルストイヤンだから、あいつが、芸者に関係してゐる事にしたら、面白からうと思つて、さう云ふ情話を、創作してしまつたのだね。すると、その小説が出て、五六日すると、Kが僕の所へやつて来て、恨がましい事を並べてるぢやあないか。いくら、あれは君の事を書いたのではないと云つても、承知しない。始めから、僕の手から出た材料ではないと云つてしまへば、よかつたのだが、それをしなかつたのが、こつちの落度さ。が、僕がKの話をした小説家と云ふのは、気の小さい、大学を出たての男で、K君の名誉に関る事だから位、おどかして置けば、決して、モデルが誰だなぞと云ふ事を、吹聴する男ぢやあない。そこで、怪しいと思つたから、Kに、何故君がモデルだと云ふ事がわかつたと、追窮したら、驚いたね、実際Kの奴が、かくれて芸者遊びをしてゐたのだ。それも、箒なのだらうぢやあないか。仕方がないから、僕は、表面上、Kの私行を発いたと云ふ罪を甘受して、Kに謝罪したがね。まるで、寃罪に伏した事になるのだから、僕もいい迷惑さ。しかし、それ以来、僕の提供する材料が、嘘ではないと云ふ事が、僕の友だちの小説家仲間に、確証されたからね。満更、莫迦を見たわけでもないと云ふものさ。
だが、たまには、面白い事もあるよ。僕は、いつかMが、他人の細君に恋してゐると云ふ話を創作した。尤も一切の社会的覊絆を蹂躙して、その女と結婚する事が男らしい如く、自分の恋を打明けずにおくのも男らしいと云ふ信念から、依然として、童貞を守りながら、その女ときれいな交際をしてゐると云ふ筋なのだがね。すると、それを聞いた僕の友だちの小説家は、それ以来、大にMに推服してしまつたぢやあないか。実は、M位、誘惑に負け易い、男らしくない人間はないのだがね。それを見てゐると、いくら僕でも、笑はずにはゐられないよ。
君は、いやな顔をするね。僕を、罪な事をする男だとでも、思つてゐるのだらう。隠したつて、駄目だよ、商売がら、僕の診察に間違ひはない。医者と云ふものは、病状の診断を、患者の顔色からも、拵へるものだからね。それは、君のモラアルも、僕にはよくわかつてゐるさ。しかしだね、僕が、さう云ふ事をしたからと云つて、どれだけ他人に迷惑を与へるだらう。唯、甲が乙に対して持つてゐる考へを、少し変更するだけの事だ。善くか、悪くかは、場合場合でちがふがね。え、偽を真に代へる惧がある? 冗談云つちやあいけない。甲が乙に対して持つてゐる考へに、真偽の別なんぞ、あり得ないぢやあないか。自分を知つてゐる者は、自分だけさ。もう一つあれば、自分を造つた、自分の上の実在だけさ。
尤も、その為に、甲と乙との間に、不和でも起れば、僕の責任だが、そんな事は、絶対にないと云つても、まあいいね。それだけの注意は、僕でも、ちやんとしてゐるのだから。
第一僕のやうな真似をした人間は、昔から沢山ゐたらうと思ふね。それは、僕程、明白な自覚を以て、した奴はないかも知れないさ。が、ゐた事は、確にゐたよ。たとへばだね、僕が、実際、何か経験して、それを、僕の友だちに話したとする。君は、その時、厳密な意味で、僕が嘘をつかずに、ありのままを話せると思ふかね。よし、出来るにしても、むづかしい事には、ちがひなからう。さうすると、嘘の材料を提供すると云ふ事と、実際のそれを提供すると云ふ事との差が、一般に考へてゐるよりも、少なくなつてくる。それなら、昔から、出たらめを、小説家や詩人に話した奴が、沢山ゐたらうぢやあないか。出たらめと云ふと、人聞きが悪いがね。実は、立派な想像の産物さ。
まあ、そんなむづかしい顔をするのは、よし給へ。それよりその珈琲でものんで、一しよに出かけよう。さうして、あの電燈の下で、ベエトオフエンでも聞かう。ヘルデン・レエベンは、自動車の音に似てゐるから、好きだと云ふ男が、ジアン・クリストフの中に、出て来るぢやあないか。僕のベエトオフエンの聞き方も、あの男と同じかも知れない。事によると、人生と云ふものの観方もね。……
(大正五年八月十九日)
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(この話をした人は、べつに文章や、歌を作らないが、詩人でありました。)
支那人の出している小さい料理店へ、私は、たびたびいきました。そこの料理がうまかったためばかりでありません。また五目そばの量が多かったからでもありません。じつは、出してくれる支那茶の味が忘れられなかったからです。支那茶の味がいいってどんなによかったろうか。まず、その店で飲むよりほかに、私は、それと同じい茶を手に入れることができなかったのです。
その味は、ちょっと言葉には現されないのですが、味というよりも香いがよかったのです。なんというか、まだ、江南の春を知らないけれど、この茶をすするときに、夢のような風景を恍惚として想像するのでありました。
そして、頭の上の額には、支那の美人の絵が入っていましたが、美しい、なよやかな姿が、茶をすする瞬間には、さながらものをいうように、真紅な唇の動くのを覚えました。
「君、このお茶の中には、香いのする花が入っているようだが。」と、ある日、私は、この店の主人に向かって、ききました。
腰が低くて、愛想がよく、ここへ住むまでには、いろいろの経験を有したであろうと思われる主人は、笑って、
「このお茶には、蘭亭の白いらんの花が入っていますよ。」と、答えました。
「ははあ、らんの花が入っている。なるほど、それで、こんなに、やさしい、いい薫りがするのかな。」と、らんの花のもつ、不思議な香気に、まったく魂を酔わされたように感じたのでした。
偶然のことから、私は、らんに興味をもつようになりました。いままでは無関心にこれを見ていて、ただ普通の草の一種としか思われなかったのが、特別、高貴なもののように思いはじめたのです。そしてすこし注意すると、世間ではいつからか、らんが流行していて、玩賞されているのに気づきました。デパートにもその陳列会があれば、ときに公園にも開かれるというふうで、私は、いろいろの機会に出かけていって、らんを見ることを得ましたが、その種類の多いのにもまた驚かされたのです。たとえば南洋の蕃地に産する、華麗なちょうのような花をつけたもの、離れ島の波浪が寄せるがけの上に、ぶらさがっているという葉の短いもの、また台湾あたりの高山に自生するという糸のように葉の細いもの、もしくは、支那の奥地にあるという、きわめて葉の厚くて広いもの、そして、九州の辺りから、四国地方の山には、葉の長いものがありました。その中にも、変種があって、葉の色の美しい稀品があります。花もまたいろいろで、一本の茎に、一つしか花の咲かないもの、一茎に群がって花の咲くもの、香気の高いもの、まったく香気のしないもの、その色にしても、紫色のもの、淡紅色のもの、黄色のもの、それらの色の混じり合ったもの、いろいろでありました。しかし、まだ白い花を見なかったのであります。これらのらんには、いずれも高価の札がついていました。
私はこれを見ながら、
「このお茶には、蘭亭の白いらんの花が入っています。」といった、この料理店の主人の言葉を思い出しました。白い花は、もっと珍しいものにちがいない。そして、もっと高価なものにちがいない。
「白い花があったら、幾何するだろうか。」
こんなことも考えました。事実、金さえあれば、新高山の頂にあったというらんも、この手に入るのですが、ここで私の考えたことは、自然の美というものが、はたして、金で買えるものであるかということでした。
これは、商人の場合ですが、こんな話があります。
どちらかといえば、私は、深くわかりもしないくせに、多趣味のほうです。あるとき、街を歩いていて、骨董屋の前を通って、だれが描いたのか、静物の油絵がありました。立ち止まってそれを見ているうちに、
「ちょっといいなあ。」と、いう気が起こったのです。
もし高くなければ、買ってもいいというくらいの気持ちで、その店へ入りました。
「いらっしゃいまし。」と、老人が丁寧に頭を下げました。私はその油絵の前に近く寄って、じっと見ていました。
ちょうど、このとき、一人の男が、飛び込んできて、
「どれ、その根掛けというのは。」といって、老人に向かって、手を差し出しました。たがいに顔なじみの間柄である、商売仲間だとわかりました。
「これだね。」と、老人は、そばにあった小箱のひきだしから、布に包んだ、青い石の根掛けを出して、男に渡しました。男は、だまって熱心に見ていましたが、
「なるほど、いいひすいだなあ。」と、歎息をもらしました。
私は宝石の話だけに、油絵から目を放して、そのほうに気を取られていたのです。
「どうだい、その色合いは、たまらないだろうね。」と、老人は、さも喜ばしそうに笑いました。
「こんな、いい石があるものかなあ。」と、男が見とれていました。
「まったく、そうだ。」と、老人は、自慢らしく答えました。
「いくらなら手放すかな。」
「いや、これは、楽しみに、持っていようよ。」
「ふん、楽しみにか。」と、男は、冷笑うように、いいました。
「いいものは、どうも売り惜しみがしてね。」
「持っていて、どうなるもんでなし、もうかったら、手放すもんだよ。さいわい、私には見せる口があるのだ。」と、男は、なかなか老人に、渡そうとしませんでした。老人は、なんといっても笑っていて返事をしなかったので、男は、ついに、それを返して、
「じゃ、また出直してこようか。」と、いって、しまいました。
なんという深い青さでしょう。見ていると、玉の中から、雲がわいてきます。どの玉もみごとです。波濤の起こる、海が映ります。いったいこの美しい宝石をば、自分の髪の飾りとしたのは、どんな女かと空想されるのでした。
「いや、商売ですから、欲しいものでも金になれば手放しますが、生涯二度と手に入らないと思うものがありますよ。そんなときは損得をはなれて、別れがさびしいものです。なかなか金というものが憎らしくなりますよ。」と、老人は、初対面の客である、私にすら、つくづくと心境を物語ったのでした。この志があればこそ、骨董屋にもなったであろうが、この老人のいうごとく、美というものは、まったく金には関係のない存在であると思います。
話がすこし横道に入りました。また、らんにもどりますが、これは、らん屋で他の人が話をしているのを聞いたのでした。
大資産家なら知らず、そうでないものが、一万円のらんを求めるというのは、よほどの好者ですね。それも全財産をただの一鉢のらんに換えたというのですから、驚くじゃありませんか。その人は、時計屋さんですが、金網の箱を造って、その中に、らんを入れておいたというのです。白い葉に、白い花という、珍品ですから無理もありません。ところが、時計屋さんは、仕事も手につかず、毎日、らんの前にすわって、腕を組んで、「いいなあ、いいなあ。」といっては、考えていたというが、とうとう憂鬱病にかかって、なにを思ったか、らんを引き抜いて煎じて飲むと、自分で頸をくくって、死んでしまったそうです。
「いや、その気持ちがわかる。」と、一人がいいました。
私が、この話をきいているうちに、神さまにしかわからないものを人間が知ろうとして見つめていたら、だれでも気が狂うだろうと思いました。
だが、あの宝石のもつ美しい色や、花のもついい香いというものは、神さまにだけ支配されるものでしょうか? たしかに、人間の心を喜ばせるものにちがいありません。しかし、それを人間が所有することはできぬものでしょうか? なぜなら、人間が自然をすこしでも私しようとするときは、そこに、こうした思わぬ悲劇が生まれるからです。
ちょうど、春先のことでした。友人を訪ねると、
「これは、故郷から送ってきた、らんの花を漬けたのだが、飲んでみないか。」と、湯に入れて出してくれました。
「らんの花?」
私は、茶わんの中をのぞくと、白いらんの花がぱっと開いて、忘れがたい薫りがしたのです。これを見た、私の胸はとどろきました。
「君、これは、どこのらんかね。」
「故郷の山にあるらんだよ。そこは、南傾斜の深い谷になっていて、らんの花のたくさんあるところだ。嶮しいから、めったに人がいかないが、春いくと、じつにいい香いがするそうだ。」
友だちは、らんについて、無関心のもののごとくただ故郷の山の美しさを讃美して、きかせたのであります。
私がその山へ、友だちにも告けずに、らんを探しにいったのは、すぐ後のことです。じつをいえば、矛盾と恥じますが、花の美にあこがれるよりは、一万円に値するらんを探すためだったのです。
山には、まだところどころに雪が残っていました。しかし五月の半ばでしたから、木々のこずえは、生気がみなぎって光沢を帯び、明るい感じがしました。谷には、雪があって、わずかに底を流れる水の音がしたけれど、その音を聞くだけで、流れの姿は見えませんでした。そして雪の消えたがけには、ふきのとうが萌え、岩鏡の花が美しく咲いていました。
峠に立つと山の奥にも山が重なり返っていました。それらの山々は、まだ冬の眠りから醒めずにいます。この辺は終日人の影を見ないところでした。ただ、友を呼ぶ、うぐいすの声がしました。かわらひわが鳴いていました。まれに、やまばとの声がきこえてきます。
「ああ、いい薫りが……らんの香いだ!」
白い花の咲くらんのあるところへきたという喜びが、強く私を勇気づけました。しかしながら、このとき、白い雲が、谷を見下ろしながらいきました。
「花は、神さまに見せるために咲いているのだ。花を愛するなら、らんを取ってはいけない。」
私は、はっきりと雲の言葉を耳にきくことができました。けれど、私は、それに従わなかったのです。石から足を踏み外すと、谷底へ墜落して、左の手を折りました。この不具になった手をごらんください。そして、いまでも、思い出しますが、そのときの雲の姿がいかに神々しくて、光っていたか。人の思想も、なにかに原因するものか、以来、私は、地上の花よりは、大空をいく雲を愛するようになりました。
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Medium
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彼は私のいるのに気がついた。
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Easy
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「ときにAさん。」
「なんだいBさん。」
「十年経ったら、ラジオ界はどうなる?」
「しれたことサ。ラジオ界なんてえものは、無くなるにきまってる。」
「へえ、なくなるかい。――今は随分流行ってるようだがネ。無くなるとは、ヤレ可哀相に……。」
「お前は気が早い。くやみを言うにゃ、当らないよ。僕はラジオ界がなくなると言ったが、『ラジオ』までが無くなるとは、言いやしない。」
「ややっこしいネ、Aさん。そんなことが有り得るものかい。」
「勿論サ、Bさん。人間の生活に於ける水や火のように、これからの世の中は、ラジオがすべての方面の生活手段に、必需的なものとなってゆくのだ。『ラジオ界』などという小さい城壁にたてこもることが許されなくなる。一にもラジオ、二にもラジオで、結局、世界はラジオ漬けになるであろうよ。」
「ラジオ漬け――には、今から謝っとくよ。この懐しい世界が、あの化物のように正体の判らないラジオなんぞにつかってしまうと聞いては、生きているのが苦しい。僕はそんなことになる前に、自殺する方が、ましだ。」
「君には気の毒だがネBさん。自殺をしたって、ラジオは自殺者を追い駆ける。なにしろこの世と、死後のあの世とが、ラジオで連絡されるのだからネ。――たとえば此処にC子というトテシャンがあったとする。彼女は或る甚だ面目ないことを仕でかし、面目なさにシオらしく、ドボーンと投身自殺を果したとする。やがていよいよ死の国で、わがC子は正気づく。すると憩う遑もなく、忽ち娑婆から各新聞社が自殺原因をラジオで問い合わせて来る。親たちや、友人や、恋人もラジオで訊ねて来る。受持区域の交番からオマワリさんが調べに来る。冥土に於けるC子の姿は無線遠視に撮られて、直ちに中央放送局へ中継される。娑婆ではこれを、警察庁公示事項のニュースとしてC子の姿を放送する。それは、一ツには冥土への安着を報せ、二ツには娑婆に債権者でもあれば今の内に申し出て、何とか解決方法をとらせるためである……」
「一寸待ったAさん。君の話は面白いが、何だか落語か法螺大王の話をきいているような気がする。Aさん、怒っちゃいけないよ――君は本当に正気で言ってるのかい。」
「度し難いBさん。これは皆、専門の学術から割り出したもので、根拠のないことなど、僕は喋らない。唯、くだけて話すから、落語のように聴こえるのだ。」
「じゃ不審の点を質問するがネ。何故この世とあの世とがラジオで連絡ができるのだい。」
「早い話が『人間は死すとも霊魂は不滅である』という。これが今から十年経たないうちに物理的に証明されるのだ。霊魂はラジオ、即ち電波を発射する。霊魂がラジオを出すんじゃないか、とは今日でもある一部の学者が考えている。しかし電波ならば其の一番大切な性質であるところの波長が何メートルだか判っていないのだ。これが今から十年以内に発見される。電波長が判ればあとはラジオとして物理的に取り扱えるようになる。」
「フーン、そんなものかな。――それから、冥土に居るC子の姿が何故娑婆から見えるのだい。」
「それは無線遠視――つまり、『眼で見るラジオ』というのが完成して実用されるからだ。無線遠視は冥土に於いては夙に発達している。地獄の絵を見ると、お閻魔さまの前に大きな鏡がある。赤鬼青鬼にひったてられて亡者がこの鏡の前に立つと、亡者生前の罪悪が一遍の映画となって映り出す。この大魔鏡こそは航時機を併用して居る無線遠視器である。」
「脅すぜAさん。じゃ矢張りお閻魔さまの前に並んでいる『見る眼』や『嗅ぐ鼻』も、ラジオ的に理屈のあるものなのかい。」
「勿論さBさん。『嗅ぐ鼻』は無線方向探知器の発達したもの。『見る眼』は光電受信機の発達したるものなのサ。これ等も十年後には、君の前へ正体を明らかにするだろう。」
「じゃ、うっかり死ぬわけには行かないネ。無銭飲食をした揚句、自殺と出掛けても娑婆から借金取りが無線で押し寄せるなぞ、洒落にもならない。この世の悪事は、すべて自らが償わねばならなくなるわけだネ」
「だから、この世で悪事をするものが絶えてしまう。ラジオのお蔭で、この世ながらの神の国、仏の国となる。有難いじゃないか。」
「――そりゃいいが、この世からあの世へ伸すことができるというからには、あの世の亡者連中もこの世へ、のさばってくることになりゃしないかい。」
「それは大有りさ。幽霊なんかゾロゾロ現れるだろうな。そりゃどうも仕方がないサ。君を思いつめ、君の奥さんを呪って死んだD子の亡霊なんぞ、早速ドロドロとやってくるぜ。」
「ウワーッ。僕は明日から、参禅生活を始める決心をした!」
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じゅんさいというものは、古池に生ずる一種の藻草の新芽である。その新芽がちょうど蓮の巻葉のように細く巻かれた、ようよう長さ五分くらいのものを賞玩するのである。その針のように細く巻かれた萌芽を擁護しているものが、無色透明の、弾力のある、ところてんのような、玉子の白味のような付着物である。
それはその芽の生長をば小魚などに突っつかれて傷つかないように護る一種の被衣である。
これを水中で見ると、そのかわいい芽が水色の胞衣に包まれている。それは造化の神の教えによって分泌する粘液体である。このぬめぬめの粘液体が厚くじゅんさいの新芽に付着しているために、じゅんさいは美食としての価値がある。この粘液体がなかったら、じゅんさいは別段に美味いものではない。だから、この価値は粘液体の量の多少によって決まる。ところが池沼によって、このところてん袋が非常に多く付着するものと少ないものとある。
中国の西湖のじゅんさいの如きは、やかましい湖の名とともに名物となっているが、実際は決して佳品ではなく、葉も大きくて、ところてん袋がほとんどゼロで、到底日本の良品に比すべくもない駄品である。
しかし、日本にも良種ばかりでない。概して西湖産に似たものが多く、よく食料品屋などに壜詰になっているのを見ると、壜の中には、半ば拡がった葉が一杯になっている。それはあたかも茶殻を詰めたようなものだ。
そこで、どこのじゅんさいが一番よいかと言うと、京の洛北深泥池の産が飛切りである。これは特別な優品で、他に類例を見ないくらい無色透明なところてん袋が多く付着している。この深泥池のものを壜に詰めて見ると、玉露のような針状態の細い葉が、その軸の元に小さな蕾をつけて、点々と水にまざって浮いているように見える。
眺めるものは正味のじゅんさいが少なくて、水中に浮遊しているようではあるが、壜中、水に見えるものが、すなわち粘液体であって、出して見ると海月の幼児の群れのようにぬめるが、水分はほとんどないと言ってよいくらいである。そういうものでなくては、ほんとうに美味いものではない。自分の知っているかぎり、深泥池に産するようなものは余所にはないようだ。
この池は、なんでもよほど古い池で、深泥池にある植物には、世界のどこにもないというような珍草がたくさんあるとのことである。天然記念物として大学で保護しているようだ。かかる池だから、じゅんさいもまた余所の池沼などとは全然質を異にしているらしい。
これを採取するのは、四月からだが、木を二本梯子のようにして、その上に二個の盥をくびって筏のようにつくり、盥には人が乗って棒先で採るのである。ちょっと面白い風習だ。彼の池大雅が捨てられたのは、この池の辺端である。
(昭和七年)
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私達は兄弟も同然だ。
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彼がXをしっかり身に付けた
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一
近頃は、家庭問題と云うことが、至る所に盛んなようだ。どういう訳で、かく家庭問題が八釜敷なって来たのであろうか。其の原因に就いて考えて見たらば、又種々な理由があって、随分と面白くない原因などを発見するであろうと思われる。乍併、此の家庭問題を、色々と討究して、八釜しくいうて居る現象は、決して悪い事でない、寧ろ悦ぶべき状態に相違ないのであろう。只其の家庭問題を、彼是云うて居る夫子其の人の家庭が、果して能く整うて居るのであろうか、平生円満な家庭にある人などは、却って家庭問題の何物たるかをも知らぬと云うような事実がありはせまいか、是れは少しく考うべき事であると思う。予は現に、人の妻と姦通して、遂に其の妻を奪った人が、家庭の読物を、発刊しようかなどと云って居るのを、聞いたことがある。猶予自身の如きは、幸に家庭の不快など経験したことがないので、家庭の問題などは、主人の心持一つで、無造作に解決せらるるものと信じて居った。殊更に家庭の円満とか家庭の趣味とか、八釜しく云うことが、却っておかしく思われて居った。
それは、今日世上に、家庭問題を論究しつつある人々の内にも、必しも不円満な家庭中の人許りは居るまい、人の模範となるべき家庭を保って居る人も、多いであろうけれども、実行の伴わない論者も、決して少くはあるまいと思う。円満な家庭中の人が、却って不円満な家庭の人から講釈いわるるような、奇態の事実がありはせまいか。云うまでもなく、家庭問題は、学術上の問題ではない事実の問題であるから、実験に基づかぬ話は、何程才学ある人の云うことでも、容易に価値を認めることの出来ないが普通である。世の学者教育家などの、無造作に家庭問題を云々するは、少しく片腹痛き感がある。世に家庭の事を云々する人には、如何なる程度の家庭を標準として説くのであろうか、予は常に疑うのである。家庭という問題に就いて、一つの標準を立て得るであろうか、其の標準が立たないとした時には、何を目安に家庭問題を説くか、頗る取り留めなき事と云わねばならぬ。元来、家庭と云うものは、其の人次第の家庭が成立つものであって、他から模型を示して、家庭というものは、是々にすべきものなどと、教え得べきものでないと思う。
人々に依り、家々に依り、年齢に依り、階級に依り、土地により、悉く家庭の趣味は変って居る。今少しく精細に云って見るならば、役人の家庭、職人の家庭、芸人の家庭、学者の家庭、新聞記者、政治家、農家、商家、其の外に貧富の差がある、智識の差がある、夫婦諸稼の家庭もある、旦那様奥様の家庭もある、女の多い家、男の多い家、斯く数えて来たらば際限がない。一個人に就いても決して一定して居ない、妻のない時、妻のある時、親というものになっての家庭、子に妻なり婿なりの出来てからの家庭、此の如き調子に家庭の趣というものは、千差万別、少しも一定して居るものでない、標準などいうものの立ち様のないのが、家庭本来の性質である。されば世の家庭談とか云うものは、実は其の人々の思々を云うたものに過ぎない訳で、それを以て、他を律することも出来ず他を導くことも出来ない筈のものである。家庭教育、家庭小説、家庭料理、家庭何々、種々な名目もあって、家庭に対する事業も沢山あるようだが、実際家庭を益するような作物があるか否かは疑問である。飛んだ間違った方向へ応用されると、却て家庭を害するような結果がないとは云えぬ。何れ商売上手の手合の仕事とすれば、害のない位をモッケの幸とせねばならぬが、真面目に家庭談を為すものや、本気に家庭作物を読む人々は、先ず此の家庭の意義を、十分に解して居って貰い度いものである。
予の考は、家庭の意義を根本的に云うならば、其の人の性格智識道徳等から、自然に湧くべき産物である。高くも低くも、其の人だけの家庭を作るより外に、道はないのであろう。甲の家庭を乙が模し、丙の家庭を丁が模すると云うような事は、迚ても出来ないことじゃと信ずる。其の人を解かずして其の家庭を解くは、火を見ないで湯を論ずるようなものである。湯の湧く湧かぬは、釜の下の火次第である、火のない釜に、湯の湧きようはない。家庭の趣味如何を問う前に、主人其の人の趣味如何を見よ、趣味なき人に趣味ある家庭を説くは、火のない釜に、湯の沸くを待つようなものだ、こう云うて了えば、家庭問題と云うものは、全く無意義に帰して終う訳だ。然り教導的に家庭を説くは、全く無意義なもので、家庭を益することは少く、害する方が多いに極って居る。
乍併、家庭は尊いものだ、趣味の多いものだ、楽しみ極りないものだ。人間の性命は、殆ど家庭に依って居ると云ってもよい位だ。されば、人各家庭の事実を説くは、甚だ趣味ある事で、勿論他の参考にもなることである。只自身家庭趣味の経験に乏しく、或は陋劣なる家庭にありながら、徒らに口の先、筆の先にて空想的家庭を説くは、射利の用に供せらるる以外には、何等の意義なしと云ってよかろう。
家庭趣味の事実を談ずることは、談者自ら興味多く、聴く人にも多くの趣味を感じ、且つ参考になることが多い。故に家庭の事は、人々盛に談ずべしだ、面白い事も、悲しいことも、人に談ずれば面白いことは更に面白さを加え、悲しいことは依って悲しみを減ずる。家庭の円満を得ない人は勿論、家庭円満の趣味に浴しつつある人でも、能く談ずれば其の興味を解することが益深くなってくる。今迄はうかと経過した些事にも、強烈な趣味を感ずる様になってくる。何事によらず面白味を知らずに其の中にあるより、面白味を知って其の中にあれば、楽しみが一層深いものである。山中の人山中の趣になれて、却て其の趣味を解せざるが如く、家庭趣味に浴しつつある人も、其の趣味を談ぜざれば、折角身幸福の中にありながら、其の幸福を、十分に自覚しないで過ぎ去る訳である。
他が為に家庭趣味を説くは陋しい、人の各自に其の家庭趣味を談じて、大いに其の趣味を味うというは、人世の最大なる楽事であるまいか。
吾が新仏教の同人諸君、願わくは大いに諸君の家庭を語れ、予先ず諸君に先じて、吾がボロ家庭を語って見よう。
「新仏教」明38・1
二
今一くさり理窟を云って置かねばならぬ。予は先に、今の家庭説は、家庭を害する方が多いと云った、何故に家庭を害するか、それを少しく云うて置かねばならぬ。
世人多くは、家庭問題は、今日に始まったものの如く思って居るらしいが、決してそうではない。吾々が幼時教育を受けた儒教などは、第一に家庭を説いたものである。彼灑掃応対進退の節と説き、寡妻に法り、兄弟に及ぶと云い、国を治むるのもとは、家を治むるにありと云い、家整うて国則整うと云い、其の家庭の問題を如何に重大視したか、詩経などの詩を見ても、家庭を謳うたものが多いのである。則ち家庭問題は、実に人世至高の問題として居ったことが判る。只古のは、根本的精神的であって、今のは物質的の末節を云うが多いのである。人格問題、修養問題を抜きにした、手芸的話説が多いのである。根を説かずしてまず末を説く、予が家庭を害すること多いと云うは、此の顛倒の弊害を指したのに過ぎぬのである。
能く家を整えて、一家をして、より多くの和楽幸福を得しむると云うことは、人間の事業中に在って、最も至聖なるものである。大きく云えば国家の基礎、社会の根柢を為すのである。至大至高の問題と云わねばならぬ。何等の修養なき、何等の経験なき青年文士や、偏学究などに依って説かるる家庭問題、予は有害無益なるを云うに憚らぬ。家庭の主人公なるが如く心得、家庭の事は、男子の片手間の事業かの如く考えて居るのが、今日家庭を説くものの理想らしいが、これが大間違の考と云わねばならぬ。
大なり小なり、一定の所信確立して、人格相当の家庭を作れる場合に至って、物質的家庭趣味の選択に取りかかるべきが順序である。己一身の所信覚悟も定まって居らず、如何にして家族を指導し、一家を整え得べき。精神的に一家が整わぬ所へ、やれ家庭小説じゃ、家庭料理じゃ、家庭科学じゃ、家庭の娯楽じゃと、騒ぎ立てることが、如何に覚束なきものなるか、予は危険を感ぜざるを得ないのである。
既に、今日の教育と云うものが、学問的に偏し、技芸的に偏し、人格的精神的の教育が欠如して居るかと思ふ。是等の教育に依って、産出する所の今日の多くの青年を見よ、如何に軽佻浮華にして、人格的に精神的に価値なきかを。如此青年が順次家を成し、所謂家庭を作るに当って、今日の如き家庭説、半驕奢趣味の家庭談を注入したる結果が、如何なる家庭を現じ来るべきか。
座して衣食に究せず、其の日其の日を愉快に経過するを以て、能事とせる家庭ならば、或は今日の家庭説を以て多くの支障を見ぬのであろう。然れども、如此種族の家庭が、社会に幾許かあるべき。多くは一定の職業を有して、日々其の業務と家事とに時間を刻みつつあるのである。家庭料理などと、洒落れて居られる家は少いのじゃ。既に処世上、何等確信なき社会の多くが、流行に駆られて今の世にあっては、斯くせねばならぬかの如くに誤解し、日常の要務をば次にして、やれ家庭の趣味じゃ、家庭の娯楽じゃと騒ぎ散らす様であったならば、今の家庭説は徒らに社会に驕奢を勧めたるの結果に陥るのである。
今日の事は、何事によらず、根本が抜けて居って、うわべ許りで騒いでいる様じゃ。宗教界などを見ても、自己の修養をば丸で後廻しとして、社会を救うの、人を教うるのと、頗る熱心にやって居る輩もあるようなれど、自分に人格がなく修養がなくて、どうして社会を教うることが出来るであろうか、己が社会の厄介者でありながら、社会を指導するもないものだ。見渡した所、社会の厄介にならぬ宗教家ならば、まず結構じゃと云いたい位だ。文学者とか云う側を見てもそうである、文芸を売物に生活して居るものは、「ホーカイ」「チョボクレ」と別つ所がないのは云うまでもないが、偉らそうにも、詩は神聖じゃ、恋は神聖じゃなどと騒ぎ居るのである。匹夫野人も屑しとしないような醜行陋体を、世間憚らず実現しつつ、詩は神聖恋は神聖を歌って居るところの汚醜劣等の卑人が、趣味がどうの、美がどうのと云うてるのに、社会の一部が耳をかしてるとは、情ないじゃないか。
今の家庭を云々するものも、どうか厄介宗教家や、汚醜詩人のそれの如くならで、まず何より先に、自己の家庭を整えて貰いたい。今の家庭問題に注意する人々に告ぐ、自分は自分だけの家庭を作れ、決して家庭読物などの談に心を奪わるる勿れ。今の家庭説とて、皆悪いことばかりを書いてあると云うのではない、本末を顛倒し、選択を誤るの害を恐れるのである。真の宗教、真の詩、真の家庭、却て天真なる諸君の精神に存するということを忘れてはならぬ。
「新仏教」明38・2
三
調子に乗って大きな事を云い散らしてしまった。心づいて自らかえり見ると俄にきまりが悪くなった。埒もなき家庭談を試みようとの考であったのに、如何にも仰山な前提を書き飛ばした。既に書いてしまったものを今更悔いても仕方がないが、一度慚愧の念に襲われては、何事にも無頓着なる予と雖も、さすがに躊躇するのである。
乍併茲で止めて了うては余りに無責任のようにも思われる。諸君も語れ予先ず語らんなど云える前言に対しても何分此の儘止められぬ、ままよ書過しは書過しとして兎に角今少し後を続けて見ようと決心した。遠き慮りなき時は、近き憂ありとは、能くも云うたものじゃと我から自分を嘲ったのである。
予の家庭は寧ろ平和の坦道を通過して来たのであるが、予は自らの家庭を毫も幸福なりしとは信じない、悲惨と云う程の事もなかった代り、尋常以上の快楽もなかった。云わば極めて平凡下劣の家庭に安じたのである、或一種の考から其の下劣平凡の家庭を却て得意とした時代もあった。
予は十八歳の春、豊かならぬ父母に僅少の学資を哀求し、始めて東京に来って法律学などを修めた。政界の人たらんとの希望からである。予が今に理窟を云うの癖があるは此の時代の遺習かと、独りで窃におかしく思っとる。学問の上に最も不幸なりし予は、遂に六箇月を出でざるに早く廃学せねばならぬ境遇に陥った。何時の間にか、眼が悪くなって府下の有名な眼科医三四人に診察を乞うて見ると、云うことが皆同じである、曰く進行近視眼、曰く眼底充血、最後に当時最も雷名ありし、井上達也氏に見て貰うと、卒直なる同氏はいう、君の眼は瀬戸物にひびが入った様なものじゃ。大事に使えば生涯使えぬこともないが、ぞんざいに使えば直ぐにこわれる、治療したって駄目じゃ只眼を大事して居ればよい。そうさ学問などは迚ても駄目だなあ。こんな調子で無造作に不具者の宣告を与えられてしまった。
最早予は人間として正則の進行を計る資格が無くなった。人間もここに至って処世上変則の方法を採らねばならぬは自然である。国へ帰って百姓になるより外に道はないかなと考えた時の悲しさ、今猶昨日の如き感じがする。学資に不自由なく身体の健全な学生程、世の中に羨しいものはなかった、本郷の第一高等学校の脇を通ると多くの生徒が盛に打毬をやって居る、其の愉快げな風がつくづく羨しくて暫く立って眺めた時の心持、何とも形容の詞がない。世の中と云うものは実に不公平なものである、人間ほど幸不幸の甚しきものはあるまい、相当の時機に学問する事の出来なくなった人間は、未だ世の中に出でない前に、運を争うの資格を奪われたのである、思う存分に働いて失敗したのは運が悪いとして諦めもしようが、働く資格を与えぬとは随分非度い不公平である、いまいましい。それでも運好く成功した人間共は、其の幸福と云うことは一向顧みないで、始めから自分達が優者である如く威張り散らすのである。予は茲で一寸天下の学生諸君に告げて置きたい。学資に不自由なく身体健全なる学生諸君、諸君の資格は実に尊い資格である、諸君は決して其の尊い資格を疎かにしてはならぬ。
何程愚痴を云うても返ることではない、予は国へ帰った。両親は左程には思われぬ、眼を病めば盲人になる人もある、近眼位なら結構じゃ、百姓の子が百姓するに不思議はない、大望を抱いて居ても運がたすけねば成就はせぬもの、よしよしもう思い返して百姓するさ。一農民の資格に安じて居る両親は頗る平気なものである。結句これからは落着いて手許に居るだろう、よい塩梅だ位に思っているらしい風が見える、何もかも慈愛の泉から湧いた情と思えば不平も云えない。
父は六十三母は五十九余は其の末子である。慈愛深ければこそ、白髪をかかえて吾児を旅に手離して寂しさを守って居るのである。今修学の望が絶えて帰国したとすればこれから手許に居れという老父母の希望に寸毫の無理はないのだ。勿論其の当時にあっては予も総べての希望を諦め老親の膝下に稼穡を事とする外なしと思ったが、末子たる予は手許に居るというても、近くに分家でもすれば兎に角、さもなければ他家に養子にゆくのであるから、老親の希望を遺憾なく満足させるは、少しく覚束ない事情がある。
学問を止めたかとて百姓にならねばならぬと云うことはない、学問がなくとも出来ることが幾らもある、近眼の為に兵役免除となったを幸に、予は再び上京した。勿論老父母の得心でない、暫く父母に背くの余儀なきを信じて出走したのである。併し再度出京の目的は自己の私心を満足させんとの希望ではない、衣食を求むるため生活の道を得んがため、老親の短き生先を自分の手にて奉養せんとの希望のためであった。予が半生の家庭が常に変則の軌道を歩したと云うも、一は眼病で廃学した故と生先短き親を持った故とである、殊に予の母は後妻として父の家に嫁がれ予の外に兄一人あるのみで、然かも最もおそき子であるから吾等兄弟が物覚のついた時分には老母の髪は半分白かった。如此事情のもとに生長した予は子供の時より母の生先を安ずるというのが一身の目的の如くに思って居ったのである。眼病を得て処世上正則の進行を妨げらるるに及びては、愈私心的自己の希望を絶対に捨てねばならぬ事になった。
老母の寿命がよし八十迄あるとするも、此の先二十年しかない。況や予が生活を得るまでには猶少くも三四年は間があって、母の命八十を必し難しとすれば、予は自分の功名心や、遠い先の幸福などに望を掛けて、大きな考を起す暇がないのである、年少気鋭の時代は何人にもある、予と雖も又其の内の一人であれば、外国へ飛び出さんとの念を起せるも一二度ではなかった。只予の性質として人の子とあるものが只自己一身の功業にのみ腐心するは不都合である、両親を見送っての後ならば、如何なることを為すとも自己の一身は自己の随意に任せてよいが、父母猶存する間は父母と自分との関係を忘れてはならぬ。よし遂に大業を遂げたりとするも、其の業の成れる時既に父母は世に存せざるならば、父母に幸福を与えずして自己の幸福を貯えた事になる。人の子として私心的態度と云わねばならぬ。世の功名家なるものに人情に背けるの行為多きは、其の私心熾なるが故に外ならぬ。
常に以上の如き考を抱いて居った予は、遠大な望などは少しもない。極めて凡人極めて愚人たるに甘ぜんとしていた。予は一切の私心的希望を捨てて、老母の生先十数年の奉養を尽さんが為に、凡人となり愚人となるに甘ぜんと心を定めた時に不思議と歓喜愉快の念が内心に湧いたのである。他人の為に自己の或る点を犠牲にして一種の愉快を得るは人間の天性であるらしいが、予が老いたる父母の生先の為に自己の欲望を捨てたのであるから、何となく愉快の念が強い。之に依って見ると人間の幸不幸という事は、人々精神の置きどころ一つにあるのであるまいかと思った。令名を当世に挙げ富貴の生活を為すは人世の最も愉快なるものに相違ないが、予の如き凡人的愉快も又云うべからざる趣味がある。神は必しも富貴なる人にのみ愉快を与えぬのである、予一人の愉快のみでない、老いたる父母が予の決心を知って又深く愉快を感じたは疑を要せぬ。
僅に二円金を携えて出京した予は、一日も猶予して居られぬ、直に労働者となった。所謂奉公人仲間の群に投じた。或は東京に或は横浜に流浪三年半二十七歳と云う春、漸く現住所に独立生活の端緒を開き得た。固より資本と称する程の貯あるにあらず、人の好意と精神と勉強との三者をたよりの事業である。予は殆ど毎日十八時間労働した、されば予は忽ち同業者間第一の勤勉家と云う評を得た。勤勉家と云えば立派であるが当時の状況はそれほど働かねば業が成立せぬのだ。此の時に予の深く感じて忘れられぬは人の好意である。世人は一般に都人の情薄きを云えど、予は決してそうは思わぬ。殆ど空手業を始めた困苦は一通りでない。取引先々の好意がなくて到底やりとおせられるものでない。予に金を貸した一人の如きは、君がそれほど勉強して失敗したら、縦令君に損を掛けられても恨はないとまで云うた。東京の商人というもの表面より一見すると、如何にも解らずや許りの様なれど、一歩進めた交際をして見ると、田舎の人などよりは遥かに頼もしい人が多い。堅実な精神的商人が却て都会の中央に多いは争われぬ事実じゃ(少しく方角違いなれば別に云うべし)。
「新仏教」明38・4
| 0.759
|
Hard
| 0.662
| 0.187
| 0.387
| 0.962
| 7,884
|
トムは歯磨きをしている。
| 0.004
|
Easy
| 0.0032
| 0.0036
| 0.0028
| 0.0024
| 12
|
茶の名に知られたる狹山、東京の西七八里にありて、入間、北多摩二郡に跨る。高さは、わづかに百米突内外なれども、愛宕山、飛鳥山、道灌山の如き、臺地の端とは異なり、ともかくも、山の形を成して、武藏野の中に崛起し、群峯相竝び、また相連なりて、東西三里、南北一里に及ぶ。武藏野の單調をやぶりて、山らしく、且つ眺望あるは、唯〻こゝのみ也。
明治四十年六月二十五日、降りさうにて、降らず。腦の心地惡し。午後二時頃急に思ひたち、田中桃葉を伴ひて、狹山へとて、家を出でぬ。
甲武線を取り、大久保より中野までは、電車に乘る。向側に腰かけたる一老人、田舍の人と見ゆれど、靴をはけば、農夫とも思はれず。洋傘は右脚に接して立てかけたり。煙糞を掌にうけつつ頻に煙草ふかす。忽ちアレ〳〵と、隣の人が注意するに、老人はじめて氣がつきて、洋傘をもみ消す。煙糞の火のうつれものにて、はや八分四方ぐらゐに擴がり居りたり。二三回も禮は云ひたるが、傘の方は、一向にふりむきもせず。慾も徳も無き善人か、さなくば意氣を尚ぶ男かなるべしと、しばし見入りたり。
中野より汽車に乘り、國分寺にて乘りかへて、東村山に下る。將軍塚さして行くに、路傍に徳藏寺あり。一寸見れば、農家とまがふばかりの荒寺也。門も無し。入口の左の方に、元弘戰死碑あり。この土地の豪族なりしなるべし、飽間三郎、同孫七、同孫三郎の三人、元弘三年、新田義貞の軍に從ひて討死せる由を記せり。碑の上部は缺けたれど、文字はなほ明か也。扁阿彌陀佛といふ筆者の名も見ゆ。元人の骨法を得たりとて、風流好古の士、こゝに來りて賞玩するもの多かりしことは、江戸名所圖會にも見えたり。とにかくも、五百年前の古碑也。而して、事は忠勇義烈に關す、益〻珍重すべき也。
寺を出でて、間もなく、狹山の最東端にとりつく。測量の三角臺ある處は、即ち將軍塚也。塚といへども、まことの塚にはあらず。元弘三年、新田義貞が軍勢を揃ふる爲に、こゝに旗を立てたるを以て、將軍塚といふとの事也。旗を立つると云ひ、三角點を設くると云ひ、遠望のきく處をえらぶは、古も今も、同一轍也。
田を一つ越えて、峯にとりつけば、麓に寺あり。上に八幡祠あり。其傍に、水天宮あり。八幡宮より遙に小なれども、繪馬堂もありて、奉納の繪馬多きは、御利益あればなるべし。源氏の故國とて、關東は到る處に八幡宮あれども、御利益なければ、いづれも、さまで繁昌はせざるやう也。
峯背を西に七八町ゆき、北折して三四町ゆけば、狹山の上には珍らしき平坦の地あり。一方に、明けはなしの堂宇あるは、淺間神社なるべし。一方に、圓錐丘高く、草生ひしげり、樹木も、ところ〴〵に立てり。路、斗折して通ず。合目毎に石立てり。折々手を刺すは、薊也。花を帶びたり。さつきも咲き殘る。十合目にいたれば、即ち頂上也。小なる石龕あり。狛、相竝ぶ。聞く、この人造の富士山は、この村の富士講の連中言ひあはせ、ひま〳〵に、一畚づゝ土を運び、十年もかゝりて、數年前に、こしらへ上げたりとの事也。東京市内外へかけて、人造の富士多けれども、かばかり大なるは、他にその比を見ず。村民の辛苦、思ふべき也。然し、大なりと云ふも、人造と云ふことを忘るべからず。偉大なりといふも、他の人造富士に比較しての事也。
地は、入間都荒幡村に屬す。荒幡の新富士とて、このあたりにては有名なれど、未だ都人に知られ居らざるは、惜しきこと也。われ曾て、東京及び其附近にて、眺望のすぐれたる處を選びて、六個處を得たり。一、芝の愛宕山、二、品川の品川神社、三、市川の國府臺、四、立川の普濟寺、五、百草の百草園、六、この荒幡の新富士、これ也。其中にて、四方とも眺望あるは、この新富士のみ也。脚下に、一帶の狹山を見下し、遠く關東の平野を見渡す。西に富士、東に筑波。日光の山や、秩父の山や、甲相の山や、すべて寸眸の中に收まる。都人こゝに來りて、はじめて眺望の美をとくべし。感謝す、村民の賜物、亦大なる哉。
八州の空に一つの雲雀哉
八州の我に朝する青葉哉
如何に桃葉、大なる句にあらずやと云へば、われも、それにまけぬ句を得たりとて。
八州の空を横切る杜鵑哉桃葉
時鳥が啼きたるかと問へば、あの聲が聞えぬかといふ。わが左耳は、幾んど聾す。右耳も、人なみほどには聞えず。啼いたといふは、桃葉の耳に眞理也。啼かぬかといふは、余の耳に眞理也。古來賢哲のわかりし所、凡人はわからず。凡人の心を以て、賢哲の心を推す。正邪顛倒し、善惡處をかふるも、亦己むを得ざる也。
數日前、桃葉は、『時鳥なくや都の片ほとり』の句を得たり。われ佳と稱す。桃葉得意になりて、この日、家を出でし時、都をはなれぬほどに啼けかし、さらば先生の紀行の中に入らむと云ひけるが、あいにくに時鳥は啼かず。終に、片ほとりとは云へぬこの地に來りて、はじめて其の啼くを聞きたるが、折角の取置きの句は應用するに由なかりき。
眺望に時をうつして、富士を下り、別路を取りて歸る。山間の田、稻已に植ゑられたるに、二三人のしやがめるは、草とるなるべし。
小山田に一番草を取る日哉
歌ふ聲も聞ゆ。
草取の小歌に暮れし山田哉桃葉
山つきて、村落見ゆ。田中の路をゆきしに、路は、小川にさへぎられたり。
行詰る野路の小川や茨咲く桃葉
跳び越さむには、少しひろし。靴ぬぎて徒渉せむも、面倒なれば、ひきかへし、別路を取りて、漸く橋を得たり。田つきて、樹林村家の間を過ぐ。このあたりの屋稜には、多く一八といふ草を植ゑたり。風をふせぐため也。一婦人ぶら〴〵來たる。農家の女にしては、其顏氣高し。咫八するに及んで、余に禮を爲す。余も、無意味に禮をかへす。村路に兒童ならびて禮をなすことは、平生旅行して、たび〴〵出逢ひたることなるが、これは、ちと、へん也。
晝顏や知らぬ兒童の禮をなす
東村山の停車場に近づけば、シグナルさがれり。早く〳〵と桃葉をうながして、停車場へ駈けつけ、切符を買ふより早く、プラツトホームに出づれば、恰も好し上り汽車來たる。今二三分もおそからば、間にあはざりしなり。ほつと、胸なでおろす。日も暮れたり。
汽車の窓にたそがるゝ野や麥の花(明治四十年)
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日本は、美しく清らかな郷土芸能の国である。これは事実であつて、誇張でも虚構でもない。其を相共目前に展観して、我々の民族性に対して、自ら信頼を持つやうにしたい。さう思つて我々は、戦争に先つ十数年の間、春毎秋毎の「郷土舞踊民謡の会」を催して来た。
口幅ひろく感じられるかも知れぬが、日本人らしい晴れやかな生活の実現が望ましかつたのである。その結果は単に予期にそふ成績をあげえたと言ふだけでなく、実は、期待しなかつた方面に、色々な発見があり、効果を自得したのであつた。
日本芸能の起原や、それぞれの芸としての価値、又は多様なる変化において、更め見直して驚く所が極めて多かつた。我々の相当に用意してかゝつた為事が、十分酬いられたことに、深く感謝を覚えた。
多くの芸能種目の中、殆芸能の出発点からあつた姿を残してゐるものを見ては、日本の芸の歴史の深さに驚く。中世近代の濃厚な宗教信仰を印象したものや、又それが、農・山・漁村の実生活に吸収せられて、それぞれ滋味を漂し或は日本独特の清潔な色気を含んで、我々の心をよくするものがある。又その村々における古風な労働や、饗宴の印象をとゞめてゐるものは、今日我々が見ても聞いても、祖先自らの身振り・声音を目のあたりにするやうな気がする。更にもつと突つこんで芸能化したものに到つては、古代・中世・近代をこの国土に生きた人々の芸術的素質が、どうしてもそこまでつきつめずには居られなくなつて生れた、と言ふ類すら往々ある。単なる郷土芸能の境涯を越えて、普遍な芸術の領域に入つたものと言はれる。
われ〳〵は今一度、日本人が過去から現在に伝へ来た執拗なと言つてよい程激しく、鋭い芸術的感覚を、互に省みて、唯昔と今の我々を知るばかりでなく、其素質に沿うてどう進んで行つたらよいか、さう言ふ後来の反省を深める機会にもなれかしと思ふ。
しみ〴〵としたあなた方の心が、芸と民族との本然の関係を思つて下さる誘ひにもなれゝば、我々の期待は達せられるのである。
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〔日本と東西両洋の文明〕
従来、我が日本国には立派な哲学者が無かった。しかし外国から伝わった哲学書などは有ったが、一般国民はこの思想に触れずして、この日本という孤島の楽土に逸居し、世界の生存競争の衝に立たず、静かに太平を楽しんでおったからして、深遠なる人生観、世界観が出来なかったのである。
然るに東西両洋文明の接触は、我が日本をしてこの楽土に桃源の夢を続けしめずして、非常なる大変化を政治、道徳、宗教、文学、美術、教育の上に来たし、随って輓近の如く驚くべき国民的大活動を生じ、その結果として新日本の文明、即ち世界の大問題たる東西両文明の統一を得たのである。依って我輩は東西両洋文明の大勢を踪索して、延いて現下の世界の大勢に及ぼし、以て今後に於ける我が国民の覚悟を促そうと思う。
〔文明の発祥と東漸・西向〕
抑々世界に於ける文明の淵源発祥の地は、一なるかはた二なるか、これを歴史に、人類学に、社会学に、言語学に、地理学に拠って考うるに、その発祥地は実に一であって、今の亜細亜の西部であるようである。勿論、その発祥の当時、今日の如く亜細亜、欧羅巴、阿弗利加などの区別は無い。これは後世の区別であるが、亜細亜、欧羅巴、阿弗利加三陸結合点の付近、今の亜細亜西部のある地方である。而して文明の発祥地は、また勿論人類繁殖の最も盛んな地であるからして、これが気候地勢等の関係からして、一は東に、他は西に向って移動したのであって、西に向ったのは欧羅巴文明、即ち西洋文明の根原をなし、東に漸んだのは亜細亜文明、即ち東洋文明の種子であった。而して西向文明は希臘を経て欧羅巴の西北部に波及したのである。
ことに宗教の如きは明らかにその発祥地を亜細亜に有する。仏教、基督教、回々教等が亜細亜に発したことは歴史上明白な事実であるが、ただに宗教のみならず、すべての学芸、美術はやはりその源を亜細亜に発して、世界に波及したのである。なおまた更に根本なる人類について観察しても、歴史、人類学、言語学、地理学上の研究を辿れば、またその発源地の唯一であることを発見するであろう。今日学術上の研究では、人類の発源地また文明の発祥地と帰一して、亜細亜西部の地とするの大勢である。
この人種、文明、宗教等はその発源地を一とするけれども、東西に拡散し永く年代を経過する間に、気候、食物、風土等の差違からして次第次第にその発達を異にし、今日に至っては、全く別物なるかの如き外観を呈するのである。
これを以て希臘人は東西両文明は調和せずと信じておった。羅馬人は如何に考えたかというに、羅馬時代に至って欧羅巴の文明も益々盛んになって来、且つ基督教も亜細亜から入り来って羅馬化したのではあるが、東西両文明の隔たりは愈々甚だしくなったからして、またそう信じたのであって、西向文明はその宗教、哲学、美術等に希臘的要素を交えて発展し、更に羅馬的要素を加えたからして、東漸した文明とは年所を経るごとに益々その色彩を異にし来るのである。
然らば東漸文明は如何にというに、まず印度で非常に発達進歩し、それより支那に来って支那的要素を混和して、いわゆる中華の文明を成形し、哲学、科学、文学、美術、宗教上に於て高度に達した一の支那文明を成したのである。それより韓国を経て日本に来り、ここにまた我が国の文明を生じた。
かくて西向の文明は欧羅巴の西端、西班牙、葡萄牙より英吉利に達し、東漸の文明は我が日本にまで到達して、年所と共に発展の要素材料に殊異なるものを加え、ほとんど一致調和の望みは無い様の観を生じ、人種は西は白人、東は有色、西向文明は希臘の学術を生じ、基督教と混和していわゆる西洋文明を成し、東漸文明は印度に仏教を生じ、支那に来って仏教、儒教、道教と為り、日本に於て儒仏両教と我が祖先崇拝心と融合したのである。かく発生の根原は異ならぬけれども、一見全く別種の人類、別種の両文明の如き差異を生じて、人をして到底調和の道が無いかの如く感ぜしめるに至ったのである。
かくて西向文明の発達は羅馬後、一時非常なる頓挫を来したのであったが、ルネーサンス期から、宗教、学術の勃興と学理の自由研究と共に、この三、四百年再び生気を発して、ことに非常なる長足の進歩を遂げたが、東漸文明は依然旧態を保持しておったからして、東西文明の隔たりは益々甚だしく、世界の文明とは即ち欧羅巴に発展した文明のみ、また欧羅巴人のみ独立の人類であって、他は一段下れる人類、欧羅巴人に支配せらるべき人類なるかの如く成り来ったのである。これは実に十九世紀後半までの大勢であって、宗教の如きも基督教以外に真宗教無しとし、他の宗教者を目するに異宗徒を以てした。この異宗徒とは旧日本の穢多という言葉の如く、極端に人を卑しむ言葉である。随って独立なる人類の守るべき道徳は、異宗徒間には無いものとし、欧州人は世界至る所に跋扈し、白皙人の世界、白皙人の宗教道徳のみという観の有ったのは十九世紀の半ばまでの大勢であって、回顧すれば、これは誠に東西に分派した文明が、互いに相隔離せる極点に達した時であった。
〔日本開国による東西文明の邂逅〕
然るに今より約五十年以前、日本が初めて外交を開いた。これは外国の圧迫に依って欧米諸国と交通する様になったのであるが、これが実に東西両文明の結合する曙光であって、極端の西は即ち極端の東で、欧羅巴から亜米利加に西向し、更に太平洋を越えて西向した文明は、東漸の極、太平洋に遮られて、亜細亜文明の精華を含蓄し、久しく我が国に止まっておった文明と、分派以来幾千万年、ここに初めて相邂逅したのである。
およそ文明は新境遇を得れば活動し、活動すれば発達進歩するものであるが、境遇が依然たれば停滞し、停滞すれば衰滅するものである。かの西向文明は大西洋に遮られて、ここに中世期の暗黒時代を生じたが、地球の円形なること、西に日本という新世界の有ることを知り、これに向って向進しようとしたのは、文明の自然的傾向であって、これが進路開拓の使命を負うたものはコロンブスである。彼はマルコポロの紀行文を読んで、支那の東に黄金国が有ることを知り、西向してこれに達せんと謀ったのである。而してマルコポロは支那人より伝聞したのであって、支那では秦皇漢武以来日本を蓬莱島とし、来って仙を求めたものである。元の忽必烈が数度の使節を派遣し、これに次ぐに数十万の軍兵を以てしたのは、強ち彼の功名心から出たのでなく、また蓬莱を求めて神仙に会せんと望んだのであろう。とにかくコロンブスはこの楽土を望んで、未開の波濤を破って新航路を造らんと企てたのであって、この時欧羅巴の科学は益々進み、文明西向の勢力は愈々激して、ついに王后の助力を得て解纜したのであったが、偶然にも亜米利加の新天地を発見し、その新大陸に於て亜米利加の新文明が発達したのであった。而して文明西向の勢いは更に増長し、提督ペルリに依って五十年以前我が国に到着したのであった。即ち我が日本に於ては、文明は従来西から来たけれども、これより文明が東から来ることになった。然かもこの西の方、印度、支那、朝鮮から来たものと、東の方、欧羅巴、亜米利加から来たものとは、その発達の外形様式こそ異なりたれ、その発祥の地を一にし、その根本精神の同一なる文明、即ち同胞兄弟の文明なりとは、識者を待って而して知る事である。
開国以来の我が日本国は、東西両大系統の文明触接の境地となって、世界に於ける一切の文明の要素が雑然として一所に集合したからして、我が国の思想、制度、文物は大混乱、大衝突、大競争を生じたのであったが、驚くべし、世界の識者が全く調和の途無しと断念したこの東西両文明は、開国以来僅かに五十年間で充分なる調和を得たのである。即ち真正の意義に於て、世界的文明は我が国にて初めて成立したのである。しかのみならず更にまた西に向って発展したのである。
東漸文明、即ち印度、支那を経て我が国に来り、太平洋に隔てられて暫らくここに停滞した文明は、活動力を減殺しておって、亜米利加の新天地で新勢力を得て来た西向文明は、それに比すれば遥かに活動力の大なるため、我が国に於て大成した世界の文明は、まず西に向って活動力を発作し、支那の偏東文明に対する我が新日本の文明、即ち世界的文明の触接は、かの二十七、八年の日清戦争であって、ここに世界的文明は偏局的文明に対して、かの如き完全なる勝利を獲、次の西進は日露戦争となったのであるが、露国は欧羅巴に在っても最も亜細亜に接近しておる。随って欧羅巴、亜細亜両種の文明的要素を有しておるからしてその勢力も強くして、他の欧羅巴列国に懼れられておったが、土地が偏在しておるからして、欧州近世文明の活動がその力を及ぼすこと少なく、また亜細亜に接近しておっても、印度、支那の如き文明国でなくて韃靼種族の如き野蛮民族であったからして、露国の文明は中古の欧州文明と亜細亜の野蛮的文物との混和である。ザーは至上の教権と政権とを一身に具有し、極端なる圧制政治を行うのである。これに対して完全なる文明の要素を具備し、最も鮮活なる活動力を保持する新日本文明が、三十七、八年にこれと衝突した。それは即ち日露戦争であって、ここにも世界的文明は陸に海に、またかの如く完全なる勝利を獲たのであるが、陸戦に於ける勝利の要素は独仏の軍事組織あるいは戦略戦術を採用し、海軍に於ては世界海王の称の有った英国海軍の軍事組織、戦略戦術等を採用したに由るのである。
〔日本における新文明〕
我が日本が五十年間に成就したる文明上の大功績は、外に向っては純東偏文明の支那を警省せしめて、清国今日の大趨勢たる、変法自彊の志望を生ぜしめ、また露国をして中古的欧羅巴文明と亜細亜蛮民の精神との混合的文明を革めて、立憲政治、信教自由の国論を生ぜしむるに至ったのであるが、翻って内自ら省みれば更に偉大なる事業を成しつつあるのである。
元来、我が日本は東洋に在って、東洋文明の精華を包含しておるのであったが、更に希臘、羅馬より今世の欧羅巴、亜米利加二大陸に於て、充分発達進歩した西向文明の精神、即ち自由の思想を摂取して、これを東洋文明の精神、即ち統一の精神と円満に調和したことが、即ち新日本の文明の根本至要点であって、これを以て七百年来の封建政治をば、平和に解散して王政復古、立憲政治の大業を成し、以て国家の基礎を建て、また最も円滑に信教の自由を確立して、人間思想界の根底を形成したのである。
然るにこの二大事業は、欧羅巴に於てはいずれにも二、三世紀の年月を費やし、幾多の血を流し、仏国革命あるいは三十年戦争の如き、史上無比の惨劇を演じて、僅かにその曙光を認め得たに過ぎない。然るに我が日本に於ては、一滴の血液をも見ずして、円満なる信教自由を得、随って道徳、政治上に偉大なる幸福を得つつある。これに反して欧羅巴の現状では、信教自由を得ざる西班牙、葡萄牙は漸次衰頽し、露西亜は内乱蜂起して目下これが鎮静に苦しんでおり、英国の如き高度の文明に達した国家に於ても、教育法案中のリベラルな思想が、上院に修正せられて、政府は大騒ぎをやっておる。仏国も政教分離のため羅馬法王との平和は破れ、羅馬法王の駐仏大使を国外に放逐し、今や大国乱の徴を現しつつある。自由思想に於ては先進たる欧州諸国すら、かくの如き現況を呈しておるに反し、後進の我が国では政治は全く宗教より独立し、その基礎を心理学、倫理学、社会学等の研究に採り、以て人類普通の正義公道に立脚し、而して宗教に於ては仏教も、基督教も、無信教者も、完全に思想の自由を得ておるのである。およそかくの如きは世界経綸家の等しく望むところではあるが、各国国史の堕勢はこれを許さずして、独り日本及び亜米利加合衆国のみがこの自由境に到達したのである。而してこの平和の間に成立した自由は、欧米諸国、ことにアングロサクソン民族の間に発達した自由思想と、我が日本国の発達、即ち万世一系の皇室に対しては純忠、外国の圧迫に対しては世界を相手にして競争せんとする愛国の精神とが、充分に調和して発生した新文明である。
而してこの新文明は支那の守旧心を打破し、続いて露西亜の軍隊を撃破して、ロマノフ家の教権政権の専有を破壊し、以て立憲政治と信教の自由とを宣言せしめて、ここに西向文明と東漸文明とは、全く開通融合し、循環周流して、活動発展息むことなき文明のリングを生じたのである。実に世界の大問題たる東西両系の文明は調和統一し得るや如何の難問は、我が日本国民に依って充分なる解決を得たのである。
〔文明の調和統一〕
およそ文明は唯一であるべきであって、一人の善は世界共通の善である。人類に具有する権利及び責任は如何なる人種も、如何なる国家も、決してこれを奪うこと能わざるものである。このインアリエネブルライトは、支那のいわゆる「己私することを得ず、また人に与うることを得ず」というものである。世界上の人類が皆等しく人類なる以上、この権利及び責任は、決して私することを得ず、また他より奪うこと能わざるものである。この正義公道は二十世紀に至って慥かに明確に解釈せられつつあって、かの桑港に於ける頑民の挙動の如きは、ただ十九世紀上半の迷夢が米国の一部に残留しておったもので、今日の世界一致の文明はかの如き妄執の存在を許容しないのである。而してもしかの地の人民にしてその悪夢から覚醒しなければ、彼はただ衰滅に陥るの一途が有るのみである。しかしながら純粋の亜米利加精神、ピューリタンの信仰は、決してかの如き頑悪なる思想の発現を認許しない。それは公明正大なる大統領ローズベルトの教書が、この旨義を宣言して遺憾無きものである。およそ事物は発生当時は渾沌として唯一である。然れどもそれが進化すれば、年所を経ると共に分化するということは、物質でも思想でも同様である。即ち陰陽五行より、二元論、多元論、化学上の六十四元素等に分れるけれども、進化の度が高まるに及んでは、哲学上には一元論が採用せられ、人類はその本質の一種なることを発見せられ、各国各時代に分立した文明は豊富なる内容を以て、完美なる世界的統一を得るのであって、実にこれは天地の大原理である。
次に新日本の文明の一成功は、完全なる教育の独立を確定したことである。従来世界の各文明国では宗教を以て教化の根源としたのであって、宗教には各々その本尊が有る。基督教のゴッド、仏教の仏の如き本尊が有る。各宗教に各異の本尊が有れば人心の帰向を異にするからして、文明の統一は信教自由ではほとんど得られない。これ各国に国教の制度が有る理由である。しかしながら信教の自由は文明の通義であるからして、この通義に背かぬように、然かも文明の統一を失わぬがためには、宗教以外にあるものを要するは明白な道理である。而してそのあるものとは、人道を措いて他に無い。人の人たる道は唯一無二であって、その証明は心理学の唯一なることである。但し民族心理学は、民族によってその心理に多少の相違あることを説くけれども、これは唯一の人心が異なれる風土、異なれる物質、異なれる生活に適合せんがための変化であって、決して人心の唯一なることの反証にはならぬ。世界の各所に発達した文明が一所に集合せられ比較せられて、真は真、善は善と確実に決定し、従来の狭隘なる見地よりの判断、もしくは感情的独断は排斥せられて、ここに公明正大なる人道が発揮せられ、而して新日本の教育はこの公明正大なる人道を根底として、宗教より独立して発達したのである。
更にまた忘るべからざるは、今世に於ては物質的、精神的両文明は、互いに相扶導輔翼してその困難を済い、その誤謬を匡し、各々その本性を発揮しつつあることも、文明の統一、人道の活躍、教育の独立に偉大なる効果の有ることである。
而して我が日本国に於て東西両文明が触接し、日本国民の大能力によりてこれが調和統一を得たるは前述の通りであるが、そはただ大体根本についていったまでであって、これを人性多種の方面に発達せしめて、内に於ては政治、学術、産業、文学、美術となし、更にまたこの真文明を以て外世界の各民族に宣伝し、これを教化誘導するは、実に我が日本民族の天職である。而してこの内外二重の尊重なる任務を果たすには、一に公明正大なる人道を根底とせる独立自由の教育が、充分にその効果を現すことに頼るのである。思うてここに至れば我が国教育の任や、実に至重至大なりというべしである。
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Xが小さな田舎に2つ存在する
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社会の各層に民主化の動きが活溌になつてくると同時に、映画界もようやく長夜の眠りから覚めて――というとまだ体裁がよいが、実はいやおうなしにたたき起された形で、まだ眠そうな眼をぼんやりと見開きながらあくびばかりくりかえしている状態である。
しかし、いつまでもそんなことではしようがない。早く顔でも洗つてはつきり眼を覚ましてもらいたいものだ。
さて、眼が覚めたら諸君の周囲にうずたかく積まれたままになつている無数の問題を手当り次第に一つ一つ片づけて行つてもらわねばならぬ。中でも早速取り上げてもらわねばならぬ重要な問題の一つに著作権に関する懸案がある。ここでは、この問題に対する私見を述べてみたいと思う。
従来の日本の法律がはなはだ非民主的であつたことは、我々の国体が支配階級の利益のみを唯一の目的として形成し、維持されてきたことの当然の結果であるが、その中でも、社会救済政策、および文化保護政策の貧困なることは、これを欧米の三、四流国に比較してもなおかつ全然けたちがいでお話しにならない程度である。
法律によつて著作権を保護し、文化人の生活を擁護することは文化政策の重要なる根幹をなすものであるが、我国の著作権法は極めて不完全なものであり、しかもその不完全なる保証さえ、実際においてはしばしば蹂躙されてきた。しかし、既成芸術の場合は不完全ながらも一応著作権法というものを持つているからまだしもであるが、映画芸術に関するかぎり日本には著作権法もなければ、したがつて著作権もないのである。もつとも役人や法律家にいわせれば、映画の場合も既存の著作権法に準じて判定すればいいというかもしれないが、それは映画というものの本質や形態を無視した空論にすぎない。なぜならば現存の著作権法は新しい文化部門としての映画が登場する以前に制定されたものであり、したがつて、立法者はその当時においてかかる新様式の芸術の出現を予想する能力もなく、したがつて、いかなる意味でも、この芸術の新品種は勘定にはいつていなかつたのである。
次に、既存の著作権法は主としてもつぱら在来の印刷、出版の機能を対象として立案されたことは明白であるが、このような基礎に立つ法令が、はたして映画のごとき異種の文化にまで適用ができるものかどうか、それは一々こまかい例をあげて説明するまでもなく、ただ漠然と出版事業と映画事業との差異を考えてみただけでもおよその見当はつくはずである。そればかりではない。映画が芸術らしい結構をそなえて以来今日に至るまで、我々映画芸術家の保有すべき当然の権利は毎日々々絶え間なく侵犯されつづけてきたし、現にきのうもきようも、(そしておそらくはあすもあさつても)、我々の享受すべき利益が奪われつづけているのは、我々の権利を認め、かつこれを保護してくれる法律もなく、また暫定的に適用すべき条文すらもないからにほかならないのである。
したがつて、我々映画芸術の創造にあずかるものが、真に自分たちの正当なる権利を擁護せんとするならば、何をおいてもまず映画関係の著作権法を一日もすみやかに制定しなければならぬ。しかして、映画芸術家の正当なる権利を擁護して、その生活を保護し、その生活内容を豊富にすることは映画芸術そのものを向上せしめるための、最も手近な、最も有効な方法であることを忘れてはならぬ。
さて、次にその実現方法であるが、これには二つの条件が必要である。すなわち、まず先決問題としては立法の基礎となるべき草案をあらかじめ我々の手によつて練り上げておくことであり、第二の段階としては、従業員組合の組織をつうじて、あらゆる機会に政府あるいは政党に働きかけて草案の立法化促進運動を果敢に展開することである。
右のうち、草案の内容については、私一個人としては相当具体的な腹案を持つているが、しかし、それを発表することは本稿の目的でもなく、また、それには別に適当な機会があると思うから、ここではくわしいことは一切省略しておく。
ただ、参考のため、私の意見の根底となつている、最も重要な原則だけをかいつまんで申し述べるならば、私は自分の不動の信念として、人間の文化活動のうち、特に創作、創造、発明、発見の仕事に最高の栄誉と価値を認めるものである。(未完)
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陶晴賢が主君大内義隆を殺した遠因は、義隆が相良遠江守武任を寵遇したからである。相良は筑前の人間で義隆に仕えたが、才智人に越え、其の信任、大内譜代の老臣陶、杉、内藤等に越えたので、陶は不快に感じて遂に義隆に反して、天文十九年義隆を殺したのだ。
此の事変の時の毛利元就の態度は頗る暖昧であった。陶の方からも義隆の方からも元就のところへ援助を求めて来ている。元就は其の子隆元、元春、隆景などを集めて相談したが、其の時家臣の熊谷伊豆守の、「兎に角今度の戦は陶が勝つのに相違ないから、兎に角陶の方へ味方をしておいて、後、時節を窺って陶を滅した方がよい」という意見が通って、陶に味方をしているのである。
厳島合戦は、毛利元就が主君の為めに、陶晴賢を誅した事になっているが、秀吉の山崎合戦のように大義名分的なものではないのである。兎に角元就は、一度は陶に味方をしてその悪業を見遁しているのである。
尤も元就は、大内義隆の被官ではあるが必ずしも家来ではない。だから晴賢討伐の勅命まで受けているが、それも政略的な意味で、必ずしも主君の仇に報ゆるという素志に、燃えていたわけではないのである。
只晴賢と戦争するについて、主君の為に晴賢の無道を討つという看板を掲げ、名分を正したに過ぎない。尤も勅命を受けたことも、正史にはない。
毛利が陶と不和になった原因は、寧ろ他にあるようだ。晴賢が、義隆を殺した以後二三年間は無事に交際していたのだが、元就が攻略した尼子方の備後国江田の旗返城を陶が毛利に預けないで、江良丹後守に預けた。これ等が元就が陶に不快を感じた原因である。
そして機を見るに敏なる元就は、陶が石州の吉見正頼を攻めに行った機に乗じて、安芸の桜尾、銀山等の城を落してしまった。
その上、吉見正頼の三本松の城へ加勢を遣した。この加勢の大将は城より出で、陶方に対して高声に言うには、「毛利右馬頭元就、正頼と一味し、当城へも加勢を入れ候。加勢の大将は某なり、元就自身は、芸州神領表へ討出で、桜尾、銀山の古城を尽く攻落して、やがて山口へ攻入るべきの状、御用心これあるべし」と叫んだ。
陶はさぞ吃驚しただろう。芸州神領表というのは、その辺一帯厳島の神領であったのである。
兎に角元就は、雄志大略の武将であった。幼年時代厳島に詣で、家臣が「君を中国の主になさしめ給え」と祈ったというのを笑って「何故、日本の主にならせ給えとは祈らぬぞ」と云った程の男だから、主君の仇を討つということなどよりも、陶を滅して、我取って代らんという雄志大略の方が強かったのである。
北条早雲が、横合からとび出して行って、茶々丸を殺して伊豆をとったやり方などよりは、よっぽど、理窟があるが、結局陶晴賢との勢力戦であったのであろう。
元来元就は、戦国時代の屈指の名将である。徳川家康と北条早雲とを一緒につきまぜて、二つに割った様な大将である。寛厚慈悲家康に過ぐるものがある。其の謀略を用いる点に於ては家康よりはずっと辛辣である。厳島合戦の時、恰度五十二歳の分別盛りである。長子隆元三十二歳、次子吉川元春二十三歳、三子隆景二十二歳。吉川元春は、時人梅雪と称した。
熊谷伊豆守の娘が醜婦で、誰も結婚する人が無いと聞き、其の父の武勇にめでて、「其の娘の為めにさぞや歎くらん。我婚を求むれば、熊谷、毛利の為めに粉骨の勇を励むらん」と言って結婚した男である。
乃木将軍式スパルタ式の猛将である。三男の隆景は時の人これを楊柳とよんで容姿端麗な武士であった。其の才略抜群で後秀吉が天下経営の相談相手となり、秀吉から「日本の蓋でも勤まる」と言われたが、而も武勇抜群で、朝鮮の役には碧蹄館に於て、十万の明軍を相手に、決戦した勇将である。だから元就は「子までよく生みたる果報めでたき大将である」と言われた。
だが此時毛利は芸州吉田を領し、其所領は、芸州半国にも足らず、其の軍勢は三千五、六百の小勢であった。これに対して、陶晴賢は、防、長、豊、筑四州より集めた二万余の大軍である。
だから平場の戦いでは、毛利は到底、陶の敵ではない。そこで元就が考えたのは、厳島に築城する事だ。
元就は、厳島に築城して、ここが毛利にとって大切な場所であるように見せかけ、ここへ陶の大軍を誘き寄せて、狭隘の地に於て、無二の一戦を試みようとしたのである。
元就が厳島へ築城を初めると、元就の隠謀を知らない家臣はみんな反対した。「あんな所へ城を築いて若しこれが陶に取られると、安芸はその胴腹に匕首を擬せられるようなものである」と。
元就はそういう家臣の反対を押切って、今の要害鼻に城を築いた。現在連絡船で厳島へ渡ると、その船着場の後の小高い山がこの城址である。城は弘治元年六月頃に完成した。
すると元就は家来達に対して、「お前達の諫を聞かないで厳島に城を築いて見たが、よく考えてみると、ひどい失策をしたもんだ。敵に取られる為に城を築いたようなもんだ。あすこを取られては味方の一大事である」と言った。
戦国の世は、日本同士の戦争であるから、スパイは、敵にも味方にも沢山入り混っていたわけだから、元就のこういう後悔はすぐ敵方へ知れるわけである。其上、其の頃一人の座頭が、吉田の城下へ来ていた。『平家』などを語って、いつか元就の城へも出入している。元就は、之を敵の間者と知って、わざと膝下へ近づけていた。ある日、元就、老臣共を集め座頭の聞くか聞かないか分らぬ位の所で、わざと小声で軍議を廻らし、「厳島の城を攻められては味方の難儀であるが、敵方の岩国の域主、弘中三河守は、こちらへ内通しているから、陶の大軍が厳島へ向わぬよう取計らってくれるであろう」と囁いていた。
座頭は鬼の首でもとったように、此事を陶方へ注進したのは勿論である。
弘治元年九月陶晴賢(隆房と云ったが、後晴賢と改む)二万七千余騎を引率し、山口をうち立ち、岩国永興寺に陣じ、戦評定をする。晴賢は飽く迄スパイの言を信じ、厳島へ渡って、宮尾城を攻滅し、そして毛利の死命を制せんという考である。
岩国の城主弘中三河守隆兼は、陶方第一の名将である。元就の策略を看破して諫めて、「元就が厳島に城を築いている事を後悔しているのならば、それを口にして言うわけはない。元就の真意は、厳島へ我が大軍をひきつけ、安否の合戦して雌雄を決せんとの謀なるべし。厳島渡海を止め、草津、二十日市を攻落し、吉田へ押寄せなば元就を打滅さんこと、時日を廻らすべからず」と言った。
だが頭のいい元就は、弘中三河守の諫言を封じる為に、座頭を使って、陶に一服盛ってあるのだから叶わない。晴賢は三河守の良策を蹴って、大軍を率いて七百余艘の軍船で厳島へ渡ってしまった。三河守も是非なく、陶から二日遅れて、厳島へ渡った。信長は桶狭間という狭隘の土地で今川義元を短兵急に襲って、首級をあげたが、併しそのやり方はいくらか、やまかんで僥倖だ。それに比べると、元就は、計りに計って敵を死地に誘き寄せている。同じ出世戦争でも、其の内容は、比べものにならないと思う。
厳島の宮尾城は、遂此の頃陶に叛いて、元就に降参した己斐豊後守、新里宮内少輔二人を大将にして守らせていた。陶から考えれば、肉をくらっても飽足らない連中である。
而も此の二人に陶を馬鹿にするような手紙を書かしているのである。つまり此の二人を囮に使い、その囮を鳴かしているようなわけである。厳島に渡った陶晴賢は、厳島神社の東方、塔の岡に陣した。柵を結んで陣を堅め、唐菱の旗を翻し、宮尾城を眼下に見下しているわけである。
陶が島に渡ったと聞くと、元就は、要害鼻の対岸、地御前の火立岩に陣を進めた。ここは厳島とは目と鼻の地で、海をへだててはいるが、呼ばば答えん程に近い。だが敵は二万数千余、兵船は海岸一帯を警備して、容易に毛利軍の渡海を許さない。而も毛利の兵船は僅か数十艘に過ぎない。だから元就はかねてから、伊予の村上、来島、能島等の水軍の援助を頼んでおいた。
この連中は所謂海賊衆で、当時の海軍である。
元就はこの連中に兵船を借りるとき、たった一日でいいから船を貸してくれと言った。所詮は戦に勝てば船は不用であるからと言った。水軍の連中思い切ったる元就の言分かな、所詮戦は毛利の勝なるべしと言って二百余艘の軍船が毛利方へ漕ぎ寄せた。
陶の方からも勿論来援を希望してあったので、この二百艘の船が厳島へ漕ぎ寄するかと見る間に、二十日市(毛利方の水軍の根拠地)の沖へ寄せたので、毛利方は喜び、陶方は失望した。
宛もよし、九月晦日は、俄かに暴風雨が起って、風波が高く、湖のような宮島瀬戸も白浪が立騒いだ。
此の夜は流石の敵も、油断をするだろうから、襲撃の機会到れりというので、元就は長男隆元、吉川元春など精鋭をすぐって、毛利家の兵船に分乗し、島の東北岸鼓の浦へ廻航した。其の時の軍令の一端は次の如しだ。
一、差物の儀無益にて候。
一、侍は縄しめ襷、足軽は常の縄襷仕るべく候事。
一、惣人数共に常に申聞候、白布にて鉢捲仕るべく候。
一、朝食、焼飯にて仕り候て、梅干相添申、先づ梅干を先へ給候て、後に焼飯給申すべく候。
一、山坂にて候条、水入腰に付申候事。
一、一切高声仕り候者これあらば、きつと成敗仕るべく候。
一、合言葉、勝つかとかけるべく候、勝々と答へ申す可く候。
とても縁起のよい合言葉である。勝つかと言えば勝々と答えるわけである。水軍へ対する軍令の一条に、
一、一夜陣の儀に候条、乗衆の兵糧つみ申すまじく候事。
とある。この厳島合戦は、元就の一夜陣として有名である。が、一夜の中に毛利一家の興廃を賭けたわけであるが、併し元就の心中には勝利に対する信念の勃々たるものがあったのではないかと思われる。
元就は鼓の浦へ着く前、今迄船中に伴って来た例の間者の座頭を捕え、「陶への内通大儀なり、汝が蔭にて入道の頭を見ること一日の中にあり、先へ行きて入道を待て」と云って、海に投じて血祭にした。鼓の浦へ着くと、元就「この浦は鼓の浦、上の山は博奕尾か、さては戦には勝ったぞ」と言った。隆元、元春、御意の通りだと言う。つまり鼓も博奕も共に打つものであるから、敵を討つということに縁起をかついだものである。博奕尾は、塔の岡から数町の所で、その博奕尾から進めば、塔の岡の背面に進めるわけである。
小早川隆景の当夜の行動には二説ある。隆景は之より先、漁船に身を隠して、宮尾城の急を救う為、宮尾城へ入ったと書いてあるが、これは恐らく俗説で、当夜熊谷信直の部下を従え、厳島神社の大鳥居の方面から敵の兵船の間を乗り入れて、敵が咎めると、「お味方に参った九州の兵だ」と言って易々と上陸し、塔の岡の坂下に陣して、本軍の鬨の声のあがるのを待っていた。
即ち毛利の第一軍は、地御前より厳島を迂廻し、東北岸鼓の浦に上陸し、博奕尾の険を越え、塔の岡の陶本陣の背面を攻撃し、第二軍は、宮尾城の城兵と協力し、元就軍の本軍が鬨の声を発するを機とし、正面より陶の本陣を攻撃するもので、小早川隆景これを率いた。
第三軍は、村上、来島等の海軍を以て組織し、厳島の対岸を警備し、場合に依ては、陶の水軍と合戦を試みんとするものだ。
元就が鼓の浦へ上陸しようとする時、雨が頻りに降ったので、輸送指揮官の児玉就忠が、元就に唐傘をさしかけようとしたので、元就は拳を以て之を払除けた。
陶の方は、塔の岡を本陣としたが、諸軍勢は、厳島の神社附近の地に散在し、其の間に何等の統制が無かったらしい。之より先弘中三河守は陶に早く宮尾城を攻略すべき事を進言したけれども、陶用いず、城攻めは、十月朔日に定まっていた。その朔日の早暁に、元就が殺到したわけである。
元就は鼓の浦へ着くと、乗っていた兵船を尽く二十日市へ漕ぎ帰らしめた。正に生還を期せぬ背水の陣である。吉川元春は先陣となって、えいえい声を掛けて坂を上るに、其声自ら鬨の声になって、陶の本陣塔の岡へ殺到した。
陶方も毛利軍の夜襲と知って、諸方より本陣へ馳せ集って防戦に努めたが、俄かに馳せ集った大軍であるから、配備は滅茶苦茶で、兵は多く土地は狭く、駈引自由ならざるところに、元就の諸将、揉みに揉んで攻めつけたから、陶軍早くも浮足たった。
かねて打合せてあった小早川隆景の軍隊は、本軍の鬨の声を聞くと、これも亦大喊声をあげて前面から攻撃した。大和伊豆、三浦越中、弘中三河守等の勇将は、敵は少し、恐るるに足らず、返せ返せと叫んで奮戦したが、一度浮足たった大軍は、どっと崩れるままに、我先に船に乗らんと海岸を目指して逃出した。晴賢は、自身采配を以て身を揉んで下知したが、一度崩れ立った大軍は、如何ともし難く、瞬く中に塔の岡の本陣は、毛利軍に蹂躙されてしまった。
敗兵が船に乗ったので、陶の水軍が、俄かに狼狽て出したところを、毛利の第三軍たる村上、来島等の水軍が攻めかかったので、陶の水軍は忽ち撃破されて、多くの兵船は、防州の矢代島を目指して逃げてしまった。
塔の岡の本陣を攻落された陶軍は、厳島神社の背面を西へ西へと逃走した。勇将弘中三河守は同中務と共に主君晴賢の退却を援護せんが為に、厳島神社の西方、滝小路(現在の滝町)を後に当て、五百騎ばかりにて吉川元春の追撃を迎え撃った。弘中父子必死に防戦したから、流石の吉川勢も斬立てられ、十四、五間ばかり退却した。元春自身槍をとって、奮戦していると、弘中軍の武将青景波多野等、滝町の横町、柳小路から吉川勢を横撃した。
此の時吉川勢殆んど危かったのを、熊谷伊豆守信直等馳合せて、其の急を救ったので、弘中衆寡敵せず、滝小路の民家に火を放って、弥山道の大聖院に引あげた。吉川勢は、其の火が厳島神社にうつる事を恐れて、消火に努めている間に、晴賢は勇将三浦等に守られて、大元浦に落ちのびた。大元浦は、厳島神社から西北二、三町のところである。そこへ吉川勢に代った小早川隆景が精鋭を率いて追撃して来た。
陶が此処にて討死しようとするのを三浦諫め、「一先ず山口へ引とり重ねて勢を催され候え。越中殿して討死つかまつらん」と晴賢を落し、斯くて、三浦越中守、羽仁越中守、同将監、大和伊豆守等骨を砕いて戦った。三浦は、隆景を討たんとし、隆景の郎党、草井、山県、南、井上等又隆景を救わんとして、尽く枕を並べて討死をした。殊に草井は、三浦に突伏せられながら、尚三浦の足にからみついたので、三浦、首を斬って捨てた。
三浦の奮戦察すべきである。
隆景の苦戦を知って、元春の軍、後援の為馳付けた。
三浦は随兵悉く討死し、只一人になって、山道に休んでいるところへ、二宮杢之介馳付けると、三浦偽って「味方で候ぞ」という。味方でのでの字の発音山口の音なるに依って、二宮敵なるを知って、合じるしを示さんことを迫る。三浦立上って奮戦したが、遠矢に射すくめられ二宮の為に討たれた。
大和伊豆守は、毛利方の香川光景と戦う。香川は大和と知合いの間柄だった。大和は、文武の達者で、和歌の名人であったから、元就かねて生擒にしまほしきと言っていたのを光景思出し、大和守に其意を伝えて、之を生擒にした。
陶入道は、尚西方に遁れたが、味方の兵船は影だになく、遂に大江浦にて小川伝いに山中に入り、其辺りにて自害したと言われている。
伊加賀民部、山崎勘解由等これに殉じた。晴賢の辞世は、
なにを惜しみなにをうらみむもとよりも
此の有様の定まれる身に
この時同じく殉死した垣並佐渡守の辞世は、
莫論勝敗跡
人我暫時情
一物不生地
山寒海水清
家臣は、晴賢の首を紫の袖に包み、谷の奥に隠しておいたが、晴賢の草履取り乙若というのがつかまった為、其在所が分った。
弘中三河守は、大聖院へひき上げたが、大元方面へ退いた味方の軍の形勢を見て、折あらば敵を横撃せんと、機会を覘っていたが、大元竜ヶ馬場方面も脆く敗退した為、大元と大聖院との間の竜ヶ馬場と称する山上へ登り、此処を最後の戦場として父子主従たった三人になる迄吉川軍と決戦して遂に倒れてしまった。
此の人こそ、厳島合戦に於ける悲劇的英雄である。
これで厳島合戦も毛利軍の大勝に帰したわけであるが、晴賢自殺の場所については、厳島の南岸の青海苔浦(青法ともかく)という説もあるが、晴賢は肥満していて歩行に困難であったと言うから、中央の山脈を越して南岸に出るわけは無いのである。
元就は合戦がすむと、古来此の島には、決して死人を埋葬しないことになっているので、戦死者の死骸は尽く対岸の大野に送らせ、潮水で社殿を洗い、元就は三子を伴って斎戒して、社前に詣で、此の大勝を得たことを奉謝している。
元就は斯くて十月五日に二十日市の桜尾城に於て凱旋式を挙行しているが、彼は敵将晴賢の首級に対してもこれを白布にて掩い、首実検の時も、僅かに其白布の右端を取っただけで、敵将をみだりに恥かしめぬだけの雅量を示している。其の後首級は、二十日市の東北にある洞雲寺という禅寺に葬らせた。
厳島合戦は戦国時代の多くの戦争の中で圧倒的な大勝であるが、其間に僥倖の部分は非常に少く、元就の善謀と麾下の団結と、武力との当然の成果と云って宜い位である。元就は分別盛りであるし、元春、隆景は働き盛りである。晴賢はうまうまとひっかけられて猛撃を喰い、忽ちノックダウンされたのも仕方がなかったと言うべきである。陶軍から言わしたら垣並の辞世にある通り、勝敗の跡を論ずる莫れであったに違いない。
| 0.59
|
Hard
| 0.672
| 0.216
| 0.411
| 0.875
| 7,174
|
それに全く興味が無かった
| 0.30419
|
Easy
| 0.243352
| 0.273771
| 0.212933
| 0.182514
| 12
|
桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!
これは信じていいことなんだよ。何故つて、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢやないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だつた。しかしいま、やつとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる。これは信じていいことだ。
どうして俺が毎晩家へ帰つて来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、選りに選つてちつぽけな薄つぺらいもの、安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のやうに思ひ浮んで来るのか――お前はそれがわからないと云つたが――そして俺にもやはりそれがわからないのだが――それもこれもやつぱり同じやうなことにちがひない。
一体どんな樹の花でも、所謂真つ盛りといふ状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻つた独楽が完全な静止に澄むやうに、また、音楽の上手な演奏がきまつてなにかの幻覚を伴ふやうに、灼熱した生殖の幻覚させる後光のやうなものだ。それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。
しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺にはその美しさがなにか信じられないもののやうな気がした。俺は反対に不安になり、憂欝になり、空虚な気持になつた。しかし、俺はいまやつとわかつた。
お前、この爛漫と咲き乱れてゐる桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まつてゐると想像して見るがいい。何が俺をそんなに不安にしてゐたかがお前には納得が行くだらう。
馬のやうな屍体、犬猫のやうな屍体、そして人間のやうな屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでゐて水晶のやうな液をたらたらとたらしてゐる。桜の根は貪婪な蛸のやうに、それを抱きかかへ、いそぎんちやくの食糸のやうな毛根を聚めて、その液体を吸つてゐる。
何があんな花弁を作り、何があんな蕋を作つてゐるのか、俺は毛根の吸ひあげる水晶のやうな液が、静かな行列を作つて、維管束のなかを夢のやうにあがつてゆくのが見えるやうだ。
――お前は何をさう苦しさうな顔をしてゐるのだ。美しい透視術ぢやないか。俺はいまやうやく瞳を据ゑて桜の花が見られるやうになつたのだ。昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になつたのだ。
二三日前、俺は、ここの渓へ下りて、石の上を伝ひ歩きしてゐた。水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげらふがアフロデイツトのやうに生れて来て、渓の空をめがけて舞ひ上つてゆくのが見えた。お前も知つてゐるとほり、彼等はそこで美しい結婚をするのだ。暫らく歩いてゐると、俺は変なものに出喰はした。それは渓の水が乾いた磧へ、小さい水溜を残してゐる、その水のなかだつた。思ひがけない石油を流したやうな光彩が、一面に浮いてゐるのだ。お前はそれを何だつたと思ふ。それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげらふの屍体だつたのだ。隙間なく水の面を被つてゐる、彼等のかさなりあつた翅が、光にちぢれて油のやうな光彩を流してゐるのだ。そこが、産卵を終つた彼等の墓場だつたのだ。
俺はそれを見たとき、胸が衝かれるやうな気がした。墓場を発いて屍体を嗜む変質者のやうな惨忍なよろこびを俺は味はつた。
この渓間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯や四十雀も、白い日光をさ青に煙らせてゐる木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があつて、はじめて俺の心象は明確になつて来る。俺の心は悪鬼のやうに憂欝に渇いてゐる。俺の心に憂欝が完成するときにばかり、俺の心は和んで来る。
――お前は腋の下を拭いてゐるね。冷汗が出るのか。それは俺も同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のやうだと思つてごらん。それで俺達の憂欝は完成するのだ。
ああ、桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!
一体どこから浮んで来た空想かさつぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになつて、どんなに頭を振つても離れてゆかうとはしない。
今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいてゐる村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めさうな気がする。
(昭和三年十二月)
| 0.473
|
Medium
| 0.614
| 0.201
| 0
| 0.537
| 1,754
|
私には何もお礼が出来ません
| 0.325939
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Easy
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| 13
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彼はかつて、ボランティアで日本に4年住んでいました
| 0.232667
|
Easy
| 0.186133
| 0.2094
| 0.162867
| 0.1396
| 25
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序文
人及び詩人としての薄田泣菫氏を論じたものは予の著述を以て嚆矢とするであらう。只不幸にも「サンデイ毎日」の紙面の制限を受ける為に多少の省略を加へたのは頗る遺――序文以下省略。
第一部 人としての薄田泣菫氏
一 薄田泣菫氏の伝記
「泣菫詩集」の巻末の「詩集の後に」の示してゐる通り、薄田泣菫氏は備中の国の人である。試みに備中の国の地図を開いて見れば――一以下省略。
二 薄田泣菫氏の性行
薄田泣菫氏の「茶話」は如何に薄田氏の諧謔に富み、皮肉に長じてゐるかを語つてゐる。この天成の諷刺家に一篇の諷刺詩もなかつたのは殆ど奇蹟と言は――二以下省略。
三 薄田泣菫氏の風采
薄田泣菫氏は希臘の神々のやうに常に若い顔をしてゐる。けれども若い顔をして一代の詩人になつてゐることは勿論不似合と言はなければならぬ。「泣菫詩集」の巻頭に著者の肖像の掲げてないのは明らかに薄田氏自身も亦この欠点を知つてゐるからであらう。しかしその薄田氏の罪でないことは苟くも――三以下省略。
第二部 詩人としての薄田泣菫氏
一 叙事詩人としての薄田泣菫氏
叙事詩人としての薄田泣菫氏は処女詩集たる「暮笛集」に既にその鋒芒を露はしてゐる。しかしその完成したのは「二十五絃」以後と云はなければならぬ。予は今度「葛城の神」「天馳使の歌」「雷神の賦」等を読み往年の感歎を新にした。試みに誰でもそれ等の中の一篇――たとへば「天馳使の歌」を読んで見るが好い。天地開闢の昔に遡つたミルトン風の幻想は如何にも雄大に描かれてゐる。日本の詩壇は薄田氏以来一篇の叙事詩をも生んでゐない。少くとも薄田氏に比するに足るほど、芸術的に完成した一篇の叙事詩をも生んでゐない。この一事を以てしても、詩人としての薄田氏の大は何ぴとにも容易に首肯出来るであらう。予は少時「葛城の神」を読み、予も亦いつかかう言ふ叙事詩の詩人になることを夢みてゐた。のみならずいつか「葛城の神」の詩人に教へを受けることを夢みてゐた。第二の夢は幸にも今日では既に事実になつてゐる。しかし第一の夢だけは――一以下省略。
二 抒情詩人としての薄田泣菫氏
昨年の或夜、予の或友人、――実は久保田万太郎氏は何人かの友人と話してゐる時に「ああ大和にしあらましかば」を暗誦し、数行の後に胴忘れをした。すると或年下の友人は恰もそれを待つてゐたかのやうに、忽ちその先を暗誦したさうである。抒情詩人としての薄田泣菫氏の如何に一代を風靡したかはかう言ふ逸話にも明かであらう。しかし薄田氏の抒情詩は「ああ大和にしあらましかば」「望郷の歌」に至る前に夙に詩壇を動かしてゐる。予は「ゆく春」の世に出た時――二以下省略。
三 先覚者としての薄田泣菫氏
薄田泣菫氏を古典主義者としたのは勿論詩壇の喜劇である。成程薄田氏は余人よりも古語を用ひたのに違ひない。しかし古語を用ひた為に薄田氏を古典主義者と呼ぶならば、「海潮音」の訳者上田敏をもやはり古典主義者と呼ばなければならぬ。薄田氏の古語を用ひたのは必ずしも柿本人麿以来の古典的情緒を歌つたからではない。それよりも寧ろ予等の祖国に珍しい情緒を歌つたからである。詩壇はかう言ふ薄田氏に古典主義者の名を与へながら、しかも恬然と薄田氏の拓いた一条の大道に従つて行つた。この大道はまつ直にラフアエル前派の峰を登り、象徴主義の原野へ通じてゐる。薄田氏は予言者モオゼのやうにその原野の土を踏まなかつたかも知れない。けれども確に眼底には「夕くれなゐの明らみに黄金の岸」を見てゐたのである。予は今度「白羊宮」を読み、更にこの感を――三以下省略。
附録一 著作年表
(イ)人――薄田泣菫氏の明治三十年以来詩人、小説家、戯曲家等を作れるは枚挙すべからず。その主なるものは下の如し。(但しアイウエオ順)芥川龍之介。――(イ)以下省略。
(ロ)詩並びに散文。――明治二十九年或は三十年に雑誌「新著月刊」に「花密蔵難見」を発表す。明治三――(ロ)以下省略。
附録二 著者年譜
(但し逆編年順)大正十四年二月、「泣菫詩集」を上梓す。発行所大阪毎日新聞社。――附録二以下省略。
| 0.503
|
Medium
| 0.656
| 0.245
| 0.14
| 0.535
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少年は、海をながめていました。青黒い水平線は、うねりうねっていました。それはちょうど、一連の遠い山脈を見るように思われたのです。そして、いまにもなにか不思議な、珍しいものが、その小山のいただきのあたりに跳り上がらないかと、はかない空想を抱きながら待っていたのでした。
「もう、この海にも、じきにお別れしなければならない。」
こう思うと、彼の胸は、迫ってくるのでした。それほど、この自然に親しんだばかりでなく、この村の子供たちとも仲よくなったのでした。
「なに、見ているの?」
短い着物をきて、頭の髪をぐるぐる巻きにした十三、四の女の子が、少年がだまって、砂の上に腰をおろして、じっと沖の方を見ているそばへ寄ってきました。そして、それがなんであるか、自分も見ようと思って、黒い瞳をば波の上へ馳せたのです。海は、生きているもののように動いていました。かすかにうなり声をたて、波があちらへ引いたかと思うと、つぎには、もっと大きな怒り声に変わって、勢いよく襲ってきたのです。しかも、同じことを根気よくくりかえしていました。おそらく幾千万年の昔から、そのことに、変わりはなかったでありましょう。
「わたしには、なんにも見えはしないわ。」
彼女は、こういいました。海の上の空は、雲切れがして、青いところは、そこにも海があるように、まったく海の色と同じかったのであります。
「あちらを見ていてごらん、いまになにか見えるから……。」と、少年は、いいました。
「もうすこしたつと、新潟の方から、汽船がくるわ。まだ、黒い煙も見えやしないわ。」
彼女は、風に吹かれながら立っていましたが、やがて、自分もまた砂の上へすわったのです。そして、やはり海の方を見ていました。
「僕は、なにかの雑誌で見たんだよ。黒い海坊主が、にょっきりと波の上から、頭を出したのを……。いんまに、海坊主が、あちらの沖へ見えるかもしれない。」と、少年は、いいました。
彼女は、少年の顔をなつかしげに見あげて、
「その雑誌見たいけど、いま持っているの……。」
「持っていない。」
「泊まっている家にあるの?」
「東京に……。」
少年は、東京という言葉を口にすると、帰る日が迫ったということにすぐ気がつきました。ここへきてからあまり思い出さなかった、にぎやかな景色が、ありありと目に浮かんだのであります。自動車や、電車の通っている広い通りは、まだ暑そうに、日がてらしている、人間の姿が小さなありのように、その間に動いている有り様などが想像されたのでした。しかし、しばらくそこを離れていると、なんとなく都へ帰るのがうれしかった。東京にも、たくさんなお友だちがあって、なかには、自分の帰るのを待っていてくれるものもあると思ったからです。
しかし、彼は、ここにいる少女をはじめ、ここへきてお友だちとなった村の子供たちと別れるのが、なにより悲しかったのでした。
「いつ、坊ちゃん帰るんか……。」
「もうじき、帰るの。」
彼女は、このとき、急に、両手を顔にあてて泣き出しました。
「なぜ、泣くの?」と、少年は、少女の顔をのぞきこんだ。けれど、彼女は、だまっていました。泣く声は、だんだん小さくなりました。しまいにはむせぴ声となり、いつしか、それは、波の音に消されてしまいました。
「ねえ、僕帰ったら、手紙をおくれよ。僕もあげるから。」と、少年は、彼女が、やっと顔をあげたときに、いったのでした。
「わたし、字を知らないのだもの……。」
彼女は、はずかしそうに、こういって、また下を向いたのです。
「学校へいかなかったのかい?」
少年は、こう問うと、少女は、顔を赤くしながら、うなずきました。
彼は、東京へ帰ったら、ここへきて、いちばん先にお友だちとなったこの少女へ、手紙を出そうと思ったのも、むなしくなったのを残念に思いました。けれど、文字を知らないということが、なんで、彼女をばかにする理由となろう?
「東京は、広い?」
「いくら、広くても、電車や、自動車に乗れば、端から端まで、ぞうさなくいけるのだよ。」
「なんにも乗らんけりゃ、みんな歩くのに、幾日かかるか?」
「そんなこと、僕にもわかるもんか。」
二人は、こんなことを話していました。そのうちに、日は、海のかなたへ沈んでゆきました。波の上は、美しく彩られたのです。それは、ちょうど花びらを空へふりまいたように見られたのでした。
少年が、いよいよ帰る日に、少女は、海岸を歩いて、ほんとうに、美しい、めずらしいいろいろの形の、また色をした貝がらを拾い集めてきて、東京への土産にするようにくれました。貝の種類のいたって少ない北海には、こんな貝がらは、珍しいものかしれないけれど、波の穏やかな南の海岸には、もっときれいな貝がらが少なくなかったのでした。しかし、この貧しい、哀れな少女の志は、どんな貴い真珠も、さんごもおよばなかったでありましょう。少年は、厚く礼をいって、喜んで持って帰ることにいたしました。
半年は、過ぎ、一年は、たちました。また来年こそは、もう一度北の海岸へゆこうなどと思ったのも、そのときになると家庭に用事ができたり、もしくは、ほかへゆくようなことになって、少年は、ただはるかに、北海の夏の夕暮れの景色などを思い出して、いろいろ空想したにすぎなかった。そして、いつしか秋となり、早くも木枯らしが吹くころになると、まもなく吹雪にみまわれなければならぬ、この北の風の叫ぶ森や、砂浜などを目にさびしく描いたのでした。
「いまごろ、あのあたりはどんなだろう?」
それこそ、ものすごい水平線の上を、黒い海坊主が、大またに歩いているかもしれぬと思われたのです。
しかし、それも、いつしか過去の夢とうすれ、消えてゆく日がありました。
ある夏の日の午後のことでありました。小さな弟が、玄関に立って、なにか売りにきたものを断っていました。
「いらない……、いらない……、いらない!」
けれど、売りにきたものは、なかなか帰ろうとしないようすでした。小さな弟は、耳のあたりを赤くして、外の方をじっと見つめています。
このようすを見たとき、彼は、なんだろうと、弟のそばへいって、外をのぞいたのでありました。怪しげなふうをした、田舎娘が、短い着物に、かさをかぶって、かごのようなものをかついでいましたが、そのときは、女はこちらを見ずに、子細ありげに庭さきの垣根の下を見つめて立っていました。
「兄さん、あの女は、なかなか帰っていかないのだよ。」と、弟は、兄をふり向いていいました。
彼は、その女がなにをしているのだろう? と、だまって見ていると、そのうちに女は、かごをかついだまま、門から往来の方へ出てゆきました。
二人は、奥へはいって、このことを家の人たちに話しますと、
「庭の木戸は、しめておくのですよ。」と、姉さんが注意されたのです。
少年は、庭へ出て、先刻女が、じっと目を落としていた垣根のあたりを見ると、そこには、水盤が置いてあって、いつか北の方の海岸へいったとき、あの少女が拾ってくれた貝がらや、石が中にはいっていて、いまも美しく見えたのでした。
彼は、思わず、はっとしました。
「いまの女は、どちらへいったろう?」
こう叫ぶと、門の外へ走り出ました。けれど、だいぶ時がたっていたから、わかろうはずがありません。むなしく、水盤の前へもどると、彼は、もしや彼女ではなかったかと、いい知れぬ悲しさにおそわれたのでありました。
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□編輯室も随分賑やかでしたけれ共とう〳〵私一人にされてしまひました。ひとりでコツコツ校正をやるつまらなさはあの文祥堂の二階の時分を思ひ出させます。
□大正三年はもう暮れましたがかなり青鞜にとつてはいろ〳〵な変化のあつた年でした。来年はいゝ年であつて欲しいと思ひます。
□私が青鞜を引き受けたについて大分あぶながつてゐて下さる方があるとのことですが併し私はどうかして引き受けた以上はやつて行くつもりです。私は何時でも私の年が若いと云ふことの為めに私の力を蔑視されるのが一番口惜しい気がします。私にこの雑誌を続けて行ける力があるものかないものか見てゐて欲しいと思ひます。私は私の呼吸のつゞく限り青鞜を手放さうとは思ひません。
□今年のお正月は屹度さびしいお正月でせう。平塚さんは七草頃でなければ帰らないと云ふことですし、哥津ちやんも平塚で年を迎へるさうですし集まることも出来ません。
□平塚さんは十二月号の安田皐月さんの『生きることゝ貞操と』を読んで考へついたことがあるし生田花世さんについて何時も考へてゐたこともあるから、二月号に『貞操に就いて』お書き下さる筈です。尚花世さんはあの返事を「私と私の良人の為めに真剣に」反響新年号に書いたと云つてまゐりました。
□野上彌生子さんは十二月中旬におかへりになりました。皆様大変御元気でおかへりになりました。中央公論に何かお書きになつたさうです。附録のソニヤの伝はおしまひまでと思ひましたが紙数の都合でもう二章残つてゐます。大変面白いものです。いろ〳〵な事を考へさゝれました。
□松井静代さんはこの程から麹町三番町の萬源と云ふお料理屋の帳場におすはりになりました。伯父さまのお家だそうです。二月号には何かおかき下さる筈です。
□安田皐月様は誠に止むを得ない理由で彼の店をお止になりました。始終第一義的に情実にまげられないやうに活きやうと努力してお出になるかたとしてはそれも誠に余儀ないことだと思ひます。今は小石川第六天町横田方にお住居です。
□齋賀琴子さんは矢張り宮田先生のお宅で勉強してお出になります。二月号に短歌をどつさり頂けることになつてゐます。
□久しい前から一度お目に懸つて見たいと思つてゐました山田わか子さんをこの間おたづねして見ました。私の想像してゐたのにもまして嬉しい方でした。少しお話してゐますうちに私はすつかりお友達になつてしまひました。健康らしいいゝ血色と蟠まりのない気持のいゝお声と精力が溢れるやうなお体つきを見てゐますと私は自分の貧弱なのがいやになつて仕舞ひました。廿五から英語をおはじめになつたのださうです。そうして今はもう自由に他人にお教へなさることの出来る程なお力を私はうらやましいとも何とも云ひやうのない気持ちで山田さんのお顔をながめてゐました。そうしてその御勉強の最中におなじ年の子供を他人の子ばかりを三人もお育てになつたと聞いては私はたゞもう驚くより他はありませんでした。それにまた四年前からピアノをお初めになつて毎日三時間づゝもお稽古をなさるさうです。そのすべての事に対する山田さんの勇気と忍耐とは日本の家庭の婦人としては実に異数な方だと思ひます。私はかう云ふ方が私たちの前にたつてゐて下さることを力強く思ひます。二月号には『虎さん』と云ふ創作を発表して下さる筈です。
□大正三年の編輯ももう終りですから古く集まつたかさばつた原稿を仕末しやうと思ひましてひろげて見まして其中から拾ひ出したのが二三編御座います。発表する時期が外れてゐて妙にお思ひになるでせうけれどそれはお許し下さいまし。
□面倒でそれ丈けの効果もありませんから爾後しばらくは交換広告は全部止めたいと思ひます。何卒あしからず。なを雑誌の交換は相変らずお願ひしたいとおもひます。
□来年から補助団のために、パンフレツトを時々出そうと思つてゐます。出来る丈けいゝものを選んでやるつもりです。
[『青鞜』第五巻第一号、一九一五年一月号]
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私が文芸春秋社特派員として北支へ行つたのは去年の十月であつた。往復をいれてわづか三週間といふ短い旅であつたが、当時、京漢線方面では、彰徳の攻撃がはじまる前であり、娘子関がまだ落ちず、保定、定県附近には敗残兵が頻々と出没して油断のならぬ頃であつた。石家荘で旧友の飛行部隊長を訪ねたことは「北支物情」のなかへも書いたが、その後、大佐から端書が来て、それにはこんなことが書いてあつた。
「……部下のものがみせてくれたので文芸春秋を読んだ。よく細かなことを覚えてゐるものだと感心した。その節、ステツキを忘れやしなかつたか。多分君のだらうといふことになり、ちやんと本部に保管してあるが、送るのも厄介だし、どうしたものであらう」
云はれてみれば、出発間際に登山用の先に尖つた金具のついたアツシユのステツキを買ひ込み、軍刀代りについて行つたのを、何処かへ置き忘れて来てしまつたので、これもあちらで道づれになつた「志士」堀内鉄洲氏から異国風の珍しい仕込みを貰ひ、帰りにはそれをついて帰つたのであつた。ところが、その仕込みを、うつかり、たゞのステツキのつもりで内地の汽車の中へ持ち込んだものだから下ノ関で私服の刑事に見とがめられ没収されてしまつた。鞘だけでも紀念にとつて置きたいがと相談してみたが許されなかつた。
惰性といふものは恐ろしいもので、戦地ならなんでもないことが、内地では怪しからんことになるよき一例をまざまざと見せつけられ、大いに心を引き締めた次第であつた。
保定で識り合ひになり、一夜をかの「野戦カフエー」で共に飲み明かした御用商五十嵐組の若大将が、先日、ぶらりと東京へやつて来て、電話をかけてよこしたから、私は、彼を銀座の某料亭へ案内し、保定のその後の発展ぶりを聴くことができた。
そのなかで面白い話は、開店の手続に間違ひがあつて、その晩、憲兵にしたゝか膏を搾られ、「満洲へ引返さうか」と途方に暮れてゐたその「カフエー」の女将は、今や、保定第一の女富豪として国防婦人会々長の肩書もいかめしく、部下の女軍を督励して「サーヴイス報国」に邁進してゐるさうである。
五十嵐君は半ば同伴の若い細君に聴かせるやうに、太原附近で便乗の列車が匪賊に襲はれた話をしはじめた。
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一、独立論
独立を唱ふるは善し、然れども如何にして之を実行すべき乎、言ふを休めよ「汝我と共に独立する時は我も独立せん」と 独立とは「独り立つ」といふことなり、他人と共ならでは立ち得ざる人は独立には非らざるなり、独立を望むものは先づ独りで立つべきなり、而して独立の人相集て始めて独立の教会もあり、独立の国家もあるなり、集合的独立を望んで個人的独立を敢てせざるものは独立するとも独立の好結果に与かり得ざるなり、我等は厄介者と共に独立するを甚だ迷惑に感ずるなり、他人の独立する迄は依頼して他人の独立を待つて始めて独立せんとするものは何時迄待ても独立し得ざる人なり。
二、一致の来る時は何時か
是れ宗派的交渉の成りし時にあらざるなり、是れ神学的一致の来りし時に非ざるなり、真正の一致は吾人各々がその奉ずる所の主義を其儘実行する時にあり、約定上の一致は無益なり、我等をして之に信を置かしむる勿れ、実行上の一致のみが頼むに足るの一致なり、自身の主義を実行し得ざる人は人情の秘密を会得し得ざるが故に他を容るゝ雅量を有せず、実際に真面目に生涯の真味を味ひし人のみが互に共に働き得る人なり 宗教を以て茶話席の活題となすに止まるものは言語的捺印的の一致を計れよ、然れども二つとはなき此の生命を捨ても真理の為めに尽さんと欲するものは斯の如き演劇的同盟に加はること能はざるなり、汝一致せんと欲する乎、先づ汝の主義を決行せよ、然らば其時汝は宇宙に存在する総ての誠実なる人と一致せしなり、一致の難は外が来て汝と一致せざるに非ずして汝の誠実ならざるにあり。
三、真面目ならざる宗教家とは誰ぞ
真面目ならざる宗教家とは、直接間接に外国伝道会社の補助に与かり居りながら外国宣教師を悪口批難するものなり、社界の先導者を以て自ら任じ居りながら社界に引摺られつゝ行くものなり、教会内に偽善者の潜伏し居るを知りながら其破壊を恐れて之を排除し得ざるものなり、教会独立を唱へながら世の賛同を得ざるが故に躊躇遁逃するものなり、犠牲だとか精神的教育だとか能弁的に社界に訴へながら自らは米国的安楽主義を採るものなり、即ち義を見て為し得ざる卑怯者なり、即ち脳髄と心臓と性質を異にするものなり、即ち唇と手と一致せざるものなり、即ち宗教を弄するものなり、即ち世の中に誠実てふものゝ実在するを信ぜざるものなり、即ち不実の人なり、即ち未だ真理を会釈せざる人なり。
是等が真面目ならざる宗教家なり、彼等の存在は教会に害あり、社界に害あり、国家に害あり、今日は彼等を排除すべき時なり。
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樹の多い山の手の初夏の景色ほど美しいものはない。始めは樹々の若芽が、黒々とした枝の上に緑の点を打って、遠く見ると匂いやかに煙って居るが、その細かい点が日ごとに大きくなって、やがて一刷毛、黄の勝った一団の緑となるまで、日々微妙な変化を示しながら、色の深さを増して行くのは、朝晩眺め尽しても飽きない景色である。
五月の日に光るかなめの若葉、柿の若葉。読我書屋の狭い庭から、段々遠い林に眼をやって、更にあたりの景色に憧れ、ふら〳〵家を出るのもこの頃である。明るい日は照りながら、どこか大気の中にしっとりとした物があって、梅雨近い空を思わせる。どこかで頓狂に畳を叩く音のするのは、近く来る大掃除の心構えをして居るのであろう。荒物屋、煎餅屋、煙草屋、建具屋、そういう店に交って、出窓に万年青を置いたしもた屋の、古風な潜りのある格子戸には、「焼きつぎ」という古い看板を掛けた家がある。そんな町の中に、珍しい商売の樒問屋があったりして、この山の手の高台の背を走る、狭い町筋の左右に、寺の多いことを語って居る。その町にある狭い横丁、それは急な下り坂になって、小家がちの谷の向うが、又上り坂で、その先は若葉で隠れて居るようなところもある。
そういう低みにはきっと小さな寺があって、その門前には御府内八十八箇所第何番という小さな石が立って居るのである。その又寺の裏には更に細い横丁があって、それを曲って見ると、すぐ後ろは高台で、その下が些かの藪畳になって居る。垣根とも樹だちともつかぬ若葉の樹の隙から、庵室めいた荒れた建物が見え、墓地らしい処も有るので、覗き込んで見ると其の小家の中には、鈍い金色を放つ仏像の見えることもある。そうかと思うと、古い門だけが上の町に立って居て、そこから直ぐ狭い石段が谷深く続き、その底に小さな本堂の立って居るような寺もある。初夏の頃は、その本堂が半ば若葉に埋もれて、更に奥深く静かな趣を見せて居る。
そういう町を、五月の晴れた朝ぶら〳〵歩いて居ると、その低い谷底の本堂の前に、粗末な一挺の葬い駕籠が着いて居る。門前に足を止めて見下ろすと、勿論会葬者などの群れは無くて、ただその駕籠を舁いで来たらしい二三の人足の影が見えるばかりである。東京では、このごろ駕籠の葬式というものは殆ど見掛けなくなって居る。駕籠の中の棺の上に、白無垢や浅黄無垢を懸け、ほんの僅かの人々に送られて、静かに山の手の寺町を行く葬式を見るばかり寂しいものはないが、これこそ真に死というものの、寂しさ静けさを見る気持がして、色々の意味から余りに華やかになり過ぎた今の葬儀を見るよりは、はるかに気もちの良いものである。私は暫くこの門前に散歩の足を止めて、この景色を眺めて居た。
昔東京では提灯引けといって、言わば狐鼠々々と取片附けるというような葬いは、夜の引明けに出したものだそうであるが、それ程ではなくともこうした朝早くの葬式は、やはり見送る人々の仕事の都合や何かを顧慮した、便宜的な質素な葬式なのであろう。然しお祭騒ぎをされずに、瑞々しい若葉の朝を、きわめて小人数の人に護られて来た仏は、貧しいながら何か幸福のようにも思われ、悲しい人事ではあるが、微笑まれもしたのである。この時私はふと何年か昔に、紅葉山人が自分の葬儀の折にこの駕籠を用いさせたことを思い出した。然しそれは万事に質素な其の時分でも、ちと破格過ぎることであった。その折の写真を見ると、流石に当年文壇の第一人者だけあって、銘旗を立てた葬列は長々と続いて居るが、柩はその上に高くかつがれた寝棺ではなくて、文豪と謳われた人の亡きがらを載せた一挺の駕籠が、その葬列の中に、有りとも見えず護られて居るのである。潔癖、意地、凝り、渋み、そういう江戸の伝統を伝えたといわれる此の人の、これが最後の註文の一つであったかと思ったのは、私もまだ年の行かない頃のことであったが、今はからずもそれを思い出したのである。
この高台の通りには、幾つかの横丁があって、それは右へも左へも、平地のままにも折れ曲り、又坂道になって降りても行く。冬過ぎる頃、土塀の崩れからいち早く芽を出して早春を感じさせるにわとこの有る寺があったり、土用の丑の日にへちま加持といふのをする古い真言寺があったり、それらを私は興あることに考えながら静かに杖を曳いて行く。土地に高低のある山の手の町の寺々は、大方山の中腹か、もしくは其の根方に拠って居る。そしてそういう寺の後ろなどの、陰気な湿潤な地域には、極めて細かい家々の建てこんでいるような所もある。今は大方宅地になって居るが、以前は粗末な草花を作っている植木屋がいたり、金魚を作って居る家があったり、昔はこういう辺りから女太夫などが出たのではないかと思うような所もある。今でも芝居や映画の中などには出て来るので、若い人達もその姿だけは知って居るが、ぴしゃんと二つに折ったような編笠を、前のめりに深く冠って少しうつ向いた、帯から裾への恰好が馬鹿に良い。その編笠の紐の緋鹿の子の、くっきりと映えるような美しいのも居たというが、着物はすべて木綿に限ったもので、あの人達ほど木綿の着物をしゃんと着こなして居た者はないと、亡き母の言った言葉を覚えて居る。花に明ける春の巷、柳ちる夕暮の秋の町、三味線を抱えた意気な姿は、今もなおその時代の物を書く画家や文人に使われて居るが、山の手の隅々には、昔こういう人々の住んで居た所が相応にあるようで、私の散歩の折の空想も、折々はこういう方にも飛ぶのである。
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去年の十月、私は或る雑誌社の委嘱によつて、戦乱の地北支那の一部を訪れた。
塘沽に上陸し、天津から飛行機で保定へ、それから貨物列車で石家荘まで行き、引つ返して北京へ、そこで二三日滞在して、陸路大連へ廻り、船で帰つて来た。往復をいれて三週間といふ慌ただしい旅行ではあつたが、私としては、得難い経験であり、また、深く考ふべき多くの問題を拾つた。
この旅行を通じての印象は、「北支日本色」と題する文章で既に読んで下さつた方もあるだらうが、それで書き漏らしたことを少し補つてみよう。
先づ第一に、戦禍に見舞はれた都市乃至村落といふものが、如何に惨澹たるものか、これは自分の眼で見ない限り、恐らく想像もつかぬであらう。それは、単に、家屋が崩れ、人影がさびれ、鉄兜や銃剣が、そここゝに散らばり、ぷすぷすと何かゞ燃えてゐる、あの不気味な光景ばかりではない。占領後二三日もたてば、一度避難した住民は何処からともなくぽつりぽつりと帰つて来て、自分の家が無事と知れば、ほつと胸なでおろして、裏口からおそるおそる中をのぞいてみる。卓子が倒れてゐれば、そいつをおこす。椅子がどこかへ持ち去られてゐる。土間はべとべとしてゐる。背負つてゐる重い包を下におろす。外を通る靴音に耳を澄ます。
日本軍は決して良民に危害を加へるやうなことはないと、たつた今、助役さんに云ひ聞かされたばかりである。しかし、それを信じるには骨が折れる。試しに、女房と子供は山の中へ隠しておいて、自分たち、男だけでやつて来たのである。隣りでも、ごそごそ庭を片づける音がする。
ついこの間まで「打倒日本」を叫んで廻つてゐた保安隊の一人が、もう、腕に日の丸の印をつけて、「みんな役場に集れ。仕事をやるぞ」とふれ歩いてゐる。表へ出る時は、旗を持つて出なければならぬ。敗残兵や便衣隊と間違へられては大変だ。一人では心細いからお隣を誘つて行かう。
めいめいは、さうして、その日から、宣撫斑の指図に従つて、応分の賃銀を稼ぐことができるのである。
北支の黎明は、この不安と恐怖の黒色を次第に安堵と希望の明色に塗りかへつゝあることは事実である。
たゞ、私は、これら支那民衆の表情にくらべて、同じ戦ひを戦ひながら、未だひと度も敵軍の侵入に遇はず、砲弾のうなりを聞かない日本内地の同胞の、世にも恵まれた運命を想ひ、拝跪して天の恩を謝したい気持で胸がいつぱいであつた。
次に、北京で一番不思議に感じたことは、この一見平和な都が、幾度も動乱の中心になつたといふことである。
いくぶん事変色を呈してゐるのは、北京飯店といふホテルの内部だけで、街へ出てみると、住民は何事もないやうな平静な顔をして、ゆつたりとアカシヤの並木の下を歩いてゐる。
市場は賑ひ、劇場は満員である。
戦敗国の悲しみも焦慮も、往き合ふ人々の表情からは読むことができない。
北京人は、それほど「戦争」に馴れ、勝敗に超然とし、自己の生活と国家の運命とを切り離して考へ得るのであらうか?
この疑問に、「然り」と答へるものもあり、「否、君は表面だけしか見てゐない」と答へるものもあつた。
ともかくも、北京は、美しい都である。古都といふ名の、これほどよく似合ふ都は、世界に二つとはあるまい。
そして、それを誰よりも誇りにしてゐるのは北京人なのである。彼等は、北京を愛し、豊かな伝統を守り、この伝統の力強い生命を信じてゐるかのやうである。それゆえ、彼等は、外敵を恐れない。武力の優越は百年の覇を称へるであらうが、文化の根は、千年の実を結ぶと空嘯くのである。三年や十年敗け続けることは、決して敗けたことにはならぬといふ考へ方が北京人に限らず、支那式の考へ方であるらしい。
この自尊心は、ちよつと日本人には歯が立たぬと思はれる。従つて、現に敗け戦さを続けながら、支那人の一人一人は、少くとも、支那人としての自覚をもつた人間は、自分らを戦敗国民だなどとは夢にも思つてゐないかも知れぬ。逃げても勝つたと吹聴するのは、必ずしも、逆宣伝だとばかりは云へないやうな気がするくらゐである。してみると、今度の事変の終末も、彼等は「降参した」といふ言葉は使はずに、子供たちの遊戯のやうにこんな風に合図をするであらう――「もうようしたツと」。
ところで、日本人はどうかといふと、それでは承知すまい。なんでもかんでも、「降参」と云はせるであらう。頭を三度地べたにすりつけろと注文するであらう。
この種の強制は、今日の日本人の癖であり、流儀である。相手がちやんとそれをするまで、「勝つた、勝つた」と、その眼の前で絶叫し、乱舞し、どうかすると、相手の頸筋を押へ、肩を小突き、とうたう、足がらをかけてぶつ倒すのである。
正義日本の名に於て、弱者を辱かしめざらんことを!
中華国民の自尊心は、文化の奴隷たることである。
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著いた晩はどうもなかつたの。繪端書屋の女の子が、あたしのお煎餅を泥坊したのよ。それをあたしがめつけたんで大騷ぎだつたわ。でも姐さんが可哀さうだから勘辨してお遣りつて言ふから、勘辨してやつたの。⦅赤坂のお酌梅龍が去年箱根塔の澤の鈴木で大水に會つた時の話をするのである。姐さんといふのは一時は日本一とまで唄はれた程聞えた美人で、年は若いが極めて落ちついた何事にも襤褸を見せないといふ質の女である。これと同じ内の玉龍といふお酌と、新橋のお酌の若菜といふのと、それから梅龍の内の女中のお富といふのと、斯う五人で箱根へ湯治に行つてゐたのである。梅龍は眼の涼しい鼻の細い如何にも上品な可愛い子だが、食べる事に掛けては、今言つた新橋の若菜と大食のお酌の兩大關と言はれてゐる。梅龍の話に喰べ物の出て來ない事は決して無い、⦆水の出たのはその明くる日の晩よ。あたしお湯へ這入つて髮を洗つてゐたの。洗粉を忘れて行つたんでせう。爲方がないから玉子で洗つたのよ。臭くつて嫌ひだけど我慢して。さうすると、なんだか急にお湯が黒くなつて來て、杉つ葉や何かが下の方から浮いて來るのよ。妙だと思つてると、お富どんが飛んで來て、「水ですから、逃げるんですから、水ですから、逃げるんですから。」ッて大慌てなの。何だか分らないから、よく聞くと、山つなみとかで大水が出たから逃げるんだつて言ふんでせう。それから大急ぎでお湯を出たの。髮がまだよく洗ひ切れないんでせう。氣持が惡いから香水をぶつかけたら、尚臭くなつちまつたの。爲方がないから洗ひ髮をタオルで向う鉢卷なの。好い著物は汚すといけないからつて、お富どんがみんな鞄の中へ納つてしまつたんでせう。あたし宿屋の貸浴衣の長いのをずるずる引き摺つて逃げ出したの。でも若し喰べ物が無くなると困ると思つたから、牛の鑵詰と福神漬の鑵詰の口の明けたのを懷に捩ぢ込んで出たの。ところが慌てて福神漬の口の方を下にしたもんだから、お露がお腹の中へこぼれてぐぢやぐぢやなの。氣味が惡いつたらなかつたわ。
外へ出ると、眞暗で雨がどしや降りなの。半鐘の音だの、人の騷ぐ聲だのは聞えるけど、一體どこにどの位水が出たんだか、まるで分らないのよ。兎に角向う側の春本つて藝者屋へ逃げるんだつて言ふから、あたしも附いて行くと、もうそこの家は人で一ぱいなの。鈴木のお客さんをみんなそこへ逃がしたんでせう。下駄なんか丸でどれが誰のだか分らないやうに澤山脱いであるの。
その内に向う川岸の藝者屋が川へ落ちたつて言ふのよ。なんだか少し恐いと思つてると、水力が切れて電氣がみんな消えてしまつたの。
蝋燭を上げますから一本宛お取りなさいつて言ふ人があるの。それからみんな手探りで一本宛貰ふのよ。あたしそつと二度手を出して二本取つてやつたわ。あたし達はそれから二階へ通されたの。貰つた蝋燭は、大根の輪切りにしてあるのを臺にして、それへ一本宛さして、みんな自分の前へ一つ宛置いてるのよ。姐さんはお守りをちやんと前へ置いて、お行儀よく坐つて兩手を合せて一生懸命に何か拜んでゐるの。
春本の藝者はあたし達を東京の藝者だと思つたらしいの。⦅梅龍は時々こんな物の言ひやうをする。自分は藝者といふ者と一向關係がないやうに言ふのである。それではお孃さんぶつてゐるのかと言ふと、さうでもないのである。要するに唯何でも構はず思つた通りをどしどししやべるのである。⦆だけど、聞くのも惡いと思つたんでせう。なんだかもぢもぢもぢもぢしてるのよ。「こんな所にゐては充りません。」だの何だのつて言ふの。なんだか愚痴見たいな心細い話ばかりするのよ。
その内に向うの山が崩れたッて噂なの。
すると何だか、轉がつて來たものがあるから、見ると、おむすびなの。一つ宛つきや呉れないのよ。それでもお腹が減つてたからおいしかつてよ。姐さんはどうしても喰べられないつて言ふから、あたし姐さんの分も喰べて上げたの。お數は懷の福神漬を出したんだけど、若菜さんは、そんなお腹ん中でこぼれた物なんか穢なくて喰べられないつて言ふの。だから、あたし一人で喰べたわ。
たうとうその晩は夜明かしよ。
朝の三時頃にお星樣が見えたの。その時のみんなの喜びやうつたら無かつたわ。
明くる朝は、又雨風がひどいのよ。いつまでそこの藝者屋にもゐられないし、それにもう塔の澤は一體に危くなつたから、今度は湯本の福住へ逃げるんだつて言ふのよ。
出ようと思ふと、床の間に紙入が一つ乘つてるのよ。あたし姐さんのだと思つたから、澄まして自分の懷に入れつちまつたの。すると、そこへどつかの奧さんが上つて來て、「あの、若しやこの床の間に紙入が乘つてはゐませんでしたかしら。」つて、あたしに聞くのよ。さあ、あたしどうしようかと思つちまつたわ。あたしは確に姐さんのだと思つてるけども、若し姐さんので無ければ、その方のに違ひないでせう。でもそこで自分の懷から出して聞いて見る譯にも行かないわ。自分の懷から出して見せて、若しその奧さんのだつたら、きまりが惡いでせう。だから、あたし目を白つ黒しながら、「いいえ。そんな物ありませんでしたよ。」つて云つたの。さうすると、「さうですか、どうも失禮しました。」つて、その方は直ぐ下へ降りておしまひなすつたの。
姐さんは恐い顏をしてよ。「梅ちやん。お前さん、知つてゐて隱してゐるんぢやあるまいねえ。人間てものは、かういふ時には妙な氣を起し易いもんだから、氣を附けなくちやいけないよ。お前さん若し持つてるなら、お願ひだから出してお呉れ。」つて言ふんでせう。あたし何だか氣味が惡くなつて來て、「だつて、これは姐さんのでせう。」つて、懷から紙入を出して見せたの。すると姐さんは尚と恐い顏になつてよ。「ほら御覽。持つてるぢやないか。よそ樣の物を懷へ入れるといふ事がありますか。」つて言ふの。「だつてあたし姐さんのだと思つたんですもの。」つて言ふと、「直ぐ下へ持つてつてお返しして入らつしやい、」つて言ふのよ。それから、あたし下へ持つてつて、「今よく探しましたら、戸棚のわきにありました。」つてその奧さんに渡したの。奧さんは幾度も幾度もお禮を言ふのよ。ほんとに、あたしあんなに困つた事は無かつたわ。顏がぽつぽして、汗びつしよりなの。
それから仕度をして外へ出ると、ざあざあつて雨なの。橋を渡らうとすると、橋の板が一枚々々めくれさうにしてゐるのよ。姐さんは死んでも渡るのは厭だつていふの。でも逃げないと危いからつて、あたしとお富どんで、抱へるやうにしてやつと渡らせたの。あたしも若菜さんも平氣なものよ。あんな面白い事なかつたわ。⦅大抵な人は一度斯ういふ目に會ふと懲りるものだが、梅龍は一向平氣なものである。これから却つて水が好きになつたと言ふのだから驚く。こなひだも溜池に水が出て、梅龍の家の揚板の下まで水が這入つた時も、自分の荷物だけはちやんと二階の安全な所へ納つて置いてから、尻つぱしよりで下をはしやぎ廻つたといふ利己的な奴である。⦆
やつと湯本の福住へ着いて、やれ安心とお湯へ這入つてると、こゝも危くなつたから、又逃げるんだつて言ふの。大變な雨風で傘も何もさせやしないのよ。姐さんは、お金がないと困るつて、信玄袋だけ持つて逃げたの。
やつと別館へ着いたと思つたら、姐さんが目を廻してひつくり返つて了つたの。別館にはもう大勢お客が逃げて來てゐるのよ。するとそのお客の中から、大學生見たいな方がどういふ訣だか、マントで顏を隱して、コップに注いだ葡萄酒をマントの下から出して下すつたのよ。それを飮むと姐さんは直ぐ氣が附いたの。あんまり心配したり雨に濡れたりしたからなんでせう。⦅この事はその後都新聞へ文章面白く書かれた。その大學生は或博士の祕藏息子であつた。梅龍の姉は大學生の親切が元で思はぬ戀に落ちたといふ風な極古風な艶種であつたが、梅龍はいつも「まさか。」と言つて、否定するのである。⦆それからお醫者を呼ぶと、芝居のお醫者さん見たいなお醫者さんが來てよ。そりやあ、ほんとに芝居の通りよ。いやに勿體ぶつて。それで藪醫者なの。なんにも分りやあしないのよ。たうとう終に分らないものだから、家の方が水で危いからとか何とか言つて、逃げ出して行つてしまつたのよ。ほんとにあんなお醫者つて始めて見たわ。でも、姐さんは直ぐよくなつたの。
別館では大勢で焚き出しをしてるのよ。あたし前の晩におむすび二つ喰べたつきりでせう。お腹が減つてたから隨分喰べてよ。姐さんの分もお富どんの分も大抵あたしが喰べちまつたの。
明くる日お天氣になつたから、玉龍さんと三人で玉簾の瀧へ行つて見たの。方々、水が往來を流れてゐて面白かつたわ。玉簾の庭はめちやめちやなの。瀧はいつもの倍の倍位大きくなつてゐるのよ。あのお池の側の離れ見たいなものね、あれなんかも流れつちまつてゐるのよ。
なんにも喰べる物がないから、お茶屋で懷中じる粉を買つて、お湯で解いて飮んだの。そしたら小さい日の丸の旗が出てよ。旅順口なんて書いてあるの。餘つ程古い懷中じる粉なのねえ。⦅懷中じる粉は買つたのではないのである。お茶屋ではもう何處かへ逃げてしまつて誰もゐなかつたのである。梅龍達はそこらに落ちてゐた懷中じる粉を拾つて來て水で解いて飮んだのである。これはもうお富に聞いて、わたしはちやんと知つてゐる。⦆
それから歸り道に大きな石を拾つたの。それは隨分大きな石なのよ。三人で一生懸命に持ちやげたの。どうかしてこの石で姐さんを欺して遣らうと思つて、新聞屋へ寄つて、新聞紙を一枚貰つたの。それからその新聞紙で石を丁寧に包んで、おはぎの積りで持つて歸つたの。
家へ歸ると姐さんは一人で本を讀んでるのよ。「姐さん、おはぎをお土産に買つて來ましたよ。」つて、石を出すと、姐さんは本から眼を放さないで、「あいよ。」つて手を出したの。受けると馬鹿に重いもんでせう。きやあつて言つて驚いて庭へ投げ出しちまつたの。地響きがしてよ。姐さん隨分怒つたわ。
庭に穴があいたもんだから宿屋の人にも叱られてよ。でも隨分面白かつたわ。
水の時の話はそれつきりだけど、まだ跡で面白い事があつてよ。あたし達の泊つた箱根の春本の藝者で小玉とか何とかいふ人が、この頃赤坂へ來てゐるのよ。こなひだ三河屋で一緒になつたら、向うの方で頻りに水の時の話をしてゐるのよ。あの時は家へ來て泊つた鈴木のお客に餘所行の下駄を二足とも穿いて行かれてしまつて、あんな困つた事はなかつたつて言つてるのよ。水が濟んでから二三日してお座敷へ行かうと思ふと下駄が足駄も駒下駄も兩方とも無かつたんですつて。
あたし、どきつとしてよ。あたしが穿いて出た下駄に違ひないんですもの。あたしあの時なんでも構はず出てゐる下駄を突つかけて出た覺えがあるの。
それから、あたしその小玉さんとか言ふ人にあやまつたわ。あたし、あやまるの大嫌ひだけども、泥坊つて言はれるのは厭だからあやまつたの。そしたら、向うぢやもうあたしの顏よく覺えてゐなかつたわ。損しちやつたわねえ。
(明治四十四年十二月「中央公論」)
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ある夜一人の見も知らぬ学生が訪ねて来た、
洋服の袖口のところが破れてゐて
小さな穴から下着の縞模様をのぞかせてゐた、
学生は――諷刺文学万歳!と叫んで
そして私に握手を求めた
――曙ですよ、
あなたのお仕事の性質は、
日本に諷刺文学が
とにかく真実に起つたといふことは
決定的に我々の勝です、
彼はかう言つて沈黙した、
ところで我々はそれから、
ぺちやくちやしやべつた揚句は
――諷刺作家は
芸術上の暗殺者で
真に洗練された文学的技術者でなければならぬ、
といふ結論に二人は達した、
――ナロードニキ達は、
とまたしても学生は
破れた洋服の袖口をふりまはす、
何故この学生が古臭いナロードニキに
惚れこんでゐるか
それには理由がある
彼は来年大学を卒業する
彼の卒業論文は
『ナロードニキ主義の杜会史的研究』といふのだ、
あまり香ばしい論文の題材ではなかつた
あんな国に材料を求めるのは
教授会議では喜ばない筈だ。
×
こゝで読者諸君と無駄話をしよう、
――人生は永遠なり、といふ世間的な
解釈を僕は信じてゐるものだ、
僕の詩は、閑日月ありだ、
詩は短かいほど純粋なり――といふ
見解をもつた読者は、他の詩人の読者であつても、
僕のための読者ではない、
この種の読者は、日本の長つたらしい
糠味噌臭い小説は読む根気はもつてゐても、
詩人の詩の長さは否定する、
小説には気が永く、詩に対してはセッカチな読者、
この種の読者は、僕の詩をこの辺で放りなげて欲しいものだ、
僕は驢馬のやうに路草を喰ひたいし、
愚かなことを、ながながと語りたいだけだ、
詩の結論――勿論そんなものはない、
結論とは繩のことだ、
僕は諸君をしばる繩をつくりたくない、
僕は詩のリズムを考へない詩人のやうにも
考へちがひをしないでほしい、
ただ世の詩人のやうに
今時七五調のリズムで歌ふ勇気がないだけだ、
『月は糞尿色の雲に取りかこまれ
地へむかつてしたたり落ちる月の光りは
黄金色に稲穂をそめる、
風がやつてきて月の光りを払ひのけると
稲穂は色あせて、
百姓の子供のやうに白く痩せて立つてゐる』
この程度のリズムなら認めるし
かういふ美文が読者が嬉しいのならいくらでも書く、
僕は毛脛をぼりばり掻きながら詩を書いてゐる、
作者が緊張してゐないのに
読者が緊張して読んでゐてはおかしい、
しかも僕はうとうとと
居眠りさへもしてゐるのだ、
省線電車の中で
疲れた子供が体をぐにやぐにやに
柔らかにして眠つてしまふやうにだ、
そこで母親はあわてゝ『これ、これ』と揺りうごかす、
もし読者諸君に作者に対する愛があつたら、
――おい、君、どうした、起き給へ、
そして詩のつづきを語り給へと
僕をゆり起してくれるだらう、
そこで僕は慌てゝ飛び起きる
突拍子もない高い声で話の続きをしやべりだす
ところで民衆の意志派達は
丘の上に立つて農民達に向つて
『われらの農民よ、
自由のために立て――』
と叫んだとき、
燕麦の刈入れに忙がしい百姓達は
ちよつと手を休めて演説者を見上げた
『わしらの為めの旦那衆、
立て、立て、言つても、立つて居られねいだ、
かういふ中腰の恰好でなくちや
燕麦ちゆものは刈れねいだから――』
ときよとんとして辻褄の合はない挨拶をした、
そのとき演説者は
なんて百姓とは判らず屋だらうと
すつかり感傷的になつて
天を仰いで大げさな身振でかういつた
――おゝ、メランコリイよ
おれのロシヤよ、憂鬱な存在だ、
お前の何処の隅に行つても
牛の尻に糞がくつついてゐるやうに
憂愁がくつついてゐるのだ
そこで彼はぶつぶつ呟やいた
解放された農民が
燕麦のことばつかりで
頭の中をいつぱいにしてゐるといふことがあるか、
立て、立て――と焦々と
インテリゲンチャ達は悲しげに喚きたてた、
当時のロシヤでは世の有様は
絶えいるやうな絶望が
地上の空気の一切を色濃くとぢこめてゐた、
ナロードニキ達はヒステリイ化した
彼等の理論家ミハイロフスキイの書く物は
理論のくせにお伽話よりも面白かつた
読者をゲラゲラ笑はせながら
啓蒙的であつたのだ、
ところで曾つての日本のナロードニキ達の
評諭はどうであつたか、
現在残存するところのナロードニキ達はどうか、
ユーモアなものを股の間に
ぶら下げてゐる人間とは思へないほど
ユーモアといふものを解しない奴ばつかりだつた
木の皮だつて、この連中の書く
理論や小説よりも気の利いた味がする
啓蒙とは――つまり笑はせることだといふことを知らない、
真理を嗅ぎ出すトガリ鼻が
たくさん集まつて始めて
この国も文化的な国の資格がある
殿様、若様、坊ちやま、男妾に類した
ノッペリとした面付をした文学
もちまはつた肌ざはりの悪い散文精神、
その種の文学が幅を利かす、
そして我国には諷刺文学が生れる必然性がない――
などと合理化したり逃げを張つたり、
アゴのしやくれた文学、トガリ鼻の文学の
若い芽を摘むことばかり、強いヤキモチが、
それは文学上のヤキモチでなく
杜会的立場からのヤキモチを焼く、
芥川龍之介はさすがに偉らかつた、
彼は杜会的な風邪をひいて
鼻水をだらだら垂らしながら死んでいつたが、
目本の文学の残された仕事に就いて
遺言をのこして死んでいつたが
曰く『鼻の先だけで暮れのこる――』と、
×
『僕は学生なんです――』
とその時、学生は改まつた口調でしやべり出した、
そこで私は彼を押しとどめた
『まあ、さう学生を強調し給ふな』
教科書の頁を飛ばして読まうが、
飛ばして読むまいが
卒業後の就職には一苦労することは同じだ、
出来ることなら学生らしく頁を飛ばさないで、
また、在学中に、作家廻りなどの
悪い癖をつけないがいゝ、
『僕は就職はあきらめたんです
諷刺文学をやらうと思ふのです
よろしく御指導下さい――』
『それはよからう、ゴーゴリの小説に
出て来るやうな人物が
われわれの国には少なくない
人物はゐる、しかし作品が出てこないのだ
君もまた人物としては、諷刺的存在だ、
しかし君は自分の個性を圧倒するやうな
真理の上手な語り手になれるかね、
もし成りそこねたら、
他人が君をカルカチュアのしつ放しで
君は滑稽な人物として一生を終ることになる、
だから諷刺作家になるなら
諷刺負けをしないやうに
大いに諷刺で他人に攻勢に出るんだね、
それがなかなか難しいんだよ、
学生よ、
まあカユイところに手が届かないといつて
さういらいらするな
背中を出し給へ、僕が掻いてやらう、
もし僕が君の背中を掻いてやつて
それで君の気が楽になるのなら
諷刺作家志望などを取り下げて
工場の倉庫番にでも就職し給へ、
ほんとうに君が素裸になつて
自分で自分の背中を掻く力がでたら
また改めて僕の処に訪ねて来給へ、
馬だつて横木に背中をこすりつけて
ごりごりと掻く智慧をもつてゐるよ、
どうせ我々の背中は
千年待つても誰も掻いてくれる筈がないさ、
君はどうも背中が掻くなつて
僕の処にやつてきたらしい
学生よ、ちよつと顔をあげて見せ給へ、
立派な人相だ、
シャクレた頤、諷刺家の骨格を充分備へてゐる、
手の指の動作も、
何物かを掴まなければやまないといつた
美しい痙攣をしてゐる
鼻の利く奴、遠眼の利く奴、
速歩、跳躍的な奴、
お前、諷刺家を望む青年の
骨格上の惨忍性に光栄あれ――、
×
ネバ河の葦の生へた辺りを
うろうろしてゐた一人の男がゐた
彼はそこに立つてぶるぶるつと身ぶるひし
古モーニングを着た狼の恰好で
汚れた毛のぬけた外套の襟を掻き合せたものだ
奴は狼の良い習性を
全く身につけたやうな精悍な男であつた
ステッキをコツコツとついて黙想しながら
ロシヤの将来について考へながら
河岸を歩るいてゐる間に
ステッキの音によつて地の中に
ガラン洞な一個所のあることを発見した
――おや、これは美しい俺の運命がひらかれる時が来た
こいつの穴に生命を投げこむのは
俺の習性にピッタリしてゐるぞ――、
彼はそこで河岸の一枚の石をはねのけた
そこには何処かに通ずる
暗い横穴があつた
彼は石の上蓋をのけてその穴の入口から
地面の中に潜りこんでしまつた
×
ロシヤの霧隠才蔵はその時
ネバ河から通ずる
不思議な奥穴を這つてゐた
全く偶然的に――そして予め設計師に
設計させたもののやうに
おあつらひ向きにクレムリン城廓に通じてゐた
間道は次第に細くなり
四つん這の行進が終つたとき
こゝで人間的にウーンと
背伸びをして立ちあがつた
こゝで人間的な意志の強さを
発揮する番になつた
壁は五寸程のすき間よりない
左右の足の関節を巧みに動かして
クレムリン宮の外廊をまはりだすと
なんと運命は小癪な
喜びをもたらすものだらう、
ひよつこりと会議室の地下に出た、
そつと階段をあがつて
会議室の中をのぞくと
そこの大テーブルの上には
白い花に紅をさしたやうに
小さな簇生的な花は花瓶にさゝれ、
その花の名はわからない、
温室そだちの季節外れの花に違ひない
その花は円卓の上に
お尻をもたげたやうに盛花され
周囲の窓には
垂れ下つたグリーン色の
地厚のカーテンは重さうであつた、
そのとき会議室の一隅のドアは排され
大臣達は一人づゝそのドアの中から
現はれて座についた
そこでロシアの忍術使ひは
そつと階段を下りて地下室にもぐりこむ
そして彼は胸を叩く、踊れ心臓と、
脳のシワもアコオジョンの
蛇腹のやうに揺り動かし眼を輝やかす
私はつぶやいて――さあ、いそがしいぞ、と
水洟もすすらなければならないし
額にさがる髪も掻きあげねばならぬ、
自分の胸から、丸い鉄の心臓をとりだして
それを地下の適当な場所に据ゑねばならないし、
聴耳をたてたり、小唄をくちづさんだり、
ロシアの百姓達のことも考へたり、
嬉し涙をながしたり
なにもかにも一緒にやらねばならない、
おや、おや、頭上には
ロシアの現状についての
深刻ぶつた会議。
×
その真下では今にも彼の丸い心臓が
笑ひだしさうに
それから長い導線を引きだした
煙草嫌ひの心臓さん、
いまにマッチで一服
お前さんに吸はしてあげるよ、
充分煙でむせんだら
パッと火を吐きだしたらいゝ、
可愛い心臓よ、
お前をこゝにのこして
私はそろそろ後退するよ、
だが心配し給ふな
お前と私とは導線でつながつてゐるから
そこで急設の電話で連絡を致しませう、
かういひながら彼は自分の鉄の心臓を
会議室の真下にをいてから
そろりそろりと後退した。
×
僕の処に訪ねてきて学生君よ、
この辺りで話を打切らうか――、
それともくすぐつたい許りで
笑はせてしまはないのが罪だといふなら
それからどうなつたかを話を続けよう、
どうせ僕は君の訪問のために
時間をあけてをいたのだから、
君も諷刺作家として
三つの呪文を唱へる仲間に入らうとしてゐるのだから、
第一に――、批判精神、
第二に――、諷刺性、
第三に――、物質的表現、
この三つの呪文が風の間を
飛びまはるやうにならなくては
日本の平民の生活が楽しくならない、
×
三つの呪文を忘れぬやうに
未来の諷刺作家よ、
クレムリンの住人共が、
万一の場合逃げ路のために
造つてをいた横穴を
逆にネバ河から入りこむ
型変りの戦術家が
殖えるほど人生は明朗だ、
僕はこないだセルロイド工場の火事を見たが、
ポンポンと夜空に打ちあがる
爆発的な笑ひは美しかつた
学生君よ、君の心臓も、あいつの心臓のやうに、
とほくに仕掛けてをいて
導線で密語を交すのだね、
連絡が切れたときは
君の心臓は
火の絨氈をかぶつて
天井まで飛びあがるだらう、
大臣たちはチ切れ飛んだ、
自分の手や足を
探しまはつてゐたさうだ。
×
さあ、三つの呪文を唱へて
学生君よ、
日本の霧隠才蔵である僕の弟子入りをし給へ、
まだ話の残りが気になるのかね、
もつともだ、
丁度、その時、美しく着飾つた
金の冠をかぶつた雄鶏は雌鶏を従へて、
会議の席にのぞんだが、
扉の処で驚ろいて蹴つまづいて
会議室の中へではなく
外へ転げたため、
火の絨氈はかぶらずに救かつた、
その頃、ネバ河の葦の中の
小鳥がチ※(小書き片仮名ヱ)ッと鳴いた。
| 1
|
Hard
| 0.628
| 0.23
| 0.03
| 1
| 5,073
|
とても、店の雰囲気が良かった
| 0.174833
|
Easy
| 0.139867
| 0.15735
| 0.122383
| 0.1049
| 14
|
大和吉野の山中に国栖という一種の異俗の人民が居た。所謂山人の一種で、里人とは大分様子の違ったものであったらしい。応神天皇の十九年に吉野離宮に行幸のあった時、彼ら来朝して醴酒を献じた。日本紀には正に「来朝」という文字を使っている。彼らは人となり淳朴で、常に山菓を取って喰う。また蝦蟆を煮て上味とする。その土は京(応神天皇の都は高市郡の南部大軽の地)よりは東南、山を隔てて吉野河の河上に居る。峯峻しく、谷深く、道路狭巘であるが為に、京よりは遠からずといえども、古来出て来た事が稀であった。これより後しばしば来朝して、栗菌や年魚の類を土毛として献上するとある。践祚大嘗会等の大儀に、彼らが列して、所謂国栖の奏をとなえ、土風の歌舞を演ずる事は儀式上著名な事で、大正御大典の時にも、伶人が国栖代として、これを奏したと承っている。
久須という名義については、北陸方面の蝦夷を高志人と云い、樺太アイヌを苦夷と云い、千島アイヌを「クシ」というと同語で、蝦夷の事であろうという説がある。自分はクシ・コシ・クイ皆同語で、「蝦夷」というも、もとはまた「カイ」の音訳であるべきことを承認し、蝦夷名義考と題して、歴史地理(三十一巻二号及び四号)でこれを論じておいた。しかし国栖に至っては、いかにもその名称は似ているが、彼らの風俗その他、到底蝦夷らしくないという内容の研究から、かつて土蜘蛛論(歴史地理九巻三号)でも、彼らの異民族たるべき事を論じ、蝦夷名義考においても、国栖の名の説明を保留しておいた。その後名義考の補考を著わすに及んで、簡単にこれに及んで記述したが、今やさらに本誌の余白を借りて、これを纏めてみたいと思う。
自分は思う。「久須」はもと「クニス」と呼んだもので、国栖または国主・国樔・国巣など書いたのは、その呼び声のままに文字を当てたのであろうと。この事は本居翁も既に古事記伝において疑うておられる。
吉野の国巣、昔より久受と呼来たれども、此記の例、若し久受ならんには「国」の字は書くまじきを、此にも軽島宮の段にも、又他の古書にも、皆「国」の字を作るを思ふに、上代には「久爾須」といひけんを、やゝ後に音便にて、「久受」とはなれるなるべし。されど正しく久爾須といへること物に見江ねば、姑く旧のまゝに、今も「久受」と訓り。
とある。学者の慎重なる態度として、敬服に値する。なるほど『国』の字を『ク』の仮字に用うる事はいかにも無理だ。故吉田博士は、その地名辞書吉野国樔の条下に、諸国に多き栗栖、小栗栖の名は、『クズ』の転りにあらずやと疑われ、紀伊国栖原浦に久授呂宮あり、社伝に国栖人の吉野より来りて祭れるものとなし、今国主宮と訛るという事実を引かれた、またその国主神社の条下には、
蓋国主は栗栖の訛なり。湯浅村顕国神社も此神を勧請せるにて、国津神とも唱ふ、……名所図会云、『国主神社は古くより久授呂宮と云ひ伝ふ。久授は国栖にて、呂は助語なるべし。寛文中の古記に、上古吉野の国栖人来りて此地に祀る所といへり。○按に、国主・栗栖・国栖の三語は古人相通じて同義となせる如し。続紀『天平神護元年、名草郡大領紀直国栖』と云ふは、紀伊国神名帳『名草郡正一位紀氏栗栖大神』と相因む所あらん、云々。
とある。自分は本居翁と、吉田博士との両説に賛意を表して、いささかこれを補ってみたいと思う。
国栖人の民族的研究の発表は他日を期する。しかし彼らが蝦夷族ではないという事は、十年前と同じく、今もなおこれを信じている。常陸風土記には国巣を俗に土蜘蛛または八掬脛というとある。そして越後風土記には、この国に古く八掬脛というものがいて、土雲の後だとある。そしてその属類は風土記編纂の奈良朝の現実において、なお多く存しているとある。当時蝦夷のなお盛んな越後において、蝦夷とは別に土蜘蛛の後裔と目せらるる人民が多く存していたのであった。この一事のみでも、彼らが蝦夷とは違った民族であることは承知せねばならぬ。したがっていかにクスの名がコシ、クシ、クイ、カイに似ていても、それは偶然の暗合であって、名義はこれを他に求めねばならぬ。
自分は遺物遺蹟の研究上、国栖人を以て、やはり隼人や、肥人や、出雲民族や、海部・土師部などと言われたものと同じく、石器時代から弥生式土器を使った、先住土着の一民族であると考えている。彼らは古伝説において、国津神または地主神として伝えられたものである。土着民の事を国人などと呼ぶ事は、諸所に例が多い。国栖或いはその文字のままに、『クニスミ』すなわち前々から国に住んでいた人の意か。もしくは国主(古事記応神天皇条)とある如く、『クニヌシ』すなわち、地主の民族の義ではなかろうか。『栖』の字が『スミ』の仮名に使われた事は、出雲大社なる天日隅宮を、天日栖宮とも書いてあるので察せられる。この点から云えば、『クニスミ』という方に重きを置きたい。『スミ』が『ス』になるのは、紀伊国伊都郡なる『スミダ』(隅田)八幡宮を、『スダ』と呼んでいるなど、その例が多い。或いは『クスミ』という地名の諸所に多いのは、この『スミ』の語がたまたま保存せられているのかもしれぬ。
『クニス』が約まって『クス』になる最好の適例としては、『ハニシ』(土師)が『ハジ』になり、『クヌガ』(陸)が『クガ』になったものを提供したい。やや不適当ではあるが、『オロガム』(拝)が『オガム』、『ミヅマタ』(水派)が『ミマタ』(用明紀)となる様な類に至っては、際限なく多い。
『ナ』行の音と『ラ』行の音とが相転するに至っては、その例ことに多い。『ツヌガ』(敦賀)が『ツルガ』、『イナニ』(稲荷)が『イナリ』、『ツカニ』(束荷)が『ツカリ』(周防地名)、『タカラベ』(財部)が『タカナベ』(高鍋)(日向地名)、『ヲダニ』(小谷)が『ヲダリ』(信濃地名)、『オヲニ』(男鬼)が『オヲリ』(近江地名)など、まだまだ尋ぬれば、いくらもあろう。そしてこれが多く地名であることも面白い。この傍例のみから類推しても、国栖と栗栖が同語源であるとの吉田博士の説は承認したい。実地についてみても、栗栖、小栗栖、栗瀬などという地は、玖珠(豊後郡名)、久豆(伊勢地名)などと同じく、いかにもかつて先住民の残存しそうな場所に多い。それから思うと、本居翁が疑われた万葉十の歌の、『国栖等の、春菜摘まんとしめの野の云々』の、『国栖等』の三字の如きも、仙覚点の通り『クニスラ』と訓むべきもので、『クスドモ』と訓むのは、古意でないかもしれない。飯田武郷翁は日本書紀通釈において、夫木集の、
遠つ人、吉野のくにすいつしかと、仕へぞまつる年の始に
の歌を提供せられて、『こはたしかなる例ありてよめるにや』と言われたが、やはりこれも『クニス』で差支えないものと思われる。
『クス』がクシ、コシ、カイなどと同語源であるか否かは、自分の民族論に大きな関係のある問題であるから、名義そのものは一向つまらなくとも、他日の発表の予備として、ここに管見を吐露して博識諸賢の叱正を希望する。
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一
近頃読んだいろいろな文章のなかで、私が特にこゝでその読後感を述べたいと思ふのは、それが今の私にとつて可なり重要な問題を含んでをり、それのいづれからも非常に珍しい感動をうけ、しかも、それらが揃ひも揃つて、所謂「非職業作家」の手になつたところの、甚だ示唆に富んでゐる二つの「記録」である。
先づ最初にあげたいのは、女医小川正子さんの手記「小島の春」である。もう大ぶん前のことだが、何気なく家人がそれを読むのを聴いてゐるうちに、私は、これはえらい本が出たと思ひ、感興の深まるにつれて、この本は是非日本の多くの人に読ませたいといふ気になつた。私は暇を得て、それをもう一度読みなほしてみた。ところが、あるところまで読みすゝんで行くと、私は文字どほり泣かれてしまひ、それも、ひとところふたところといふのではなく、ほとんど読み終るまで涙を拭くひまがないくらゐであつた。こんなことは私は未だ嘗て経験したことはない。尤も、たまには、下らぬ芝居や講談などでつい涙ぐむやうなことがあると、きまつて後で腹のたつことうけあひで、さういふ効果をねらつた一切のものを私は排撃して来たのである。しかし、私は断言するが、この「小島の春」からうけた強烈な印象は、決してさういふ後口のわるいものではなく、寧ろこの感動の純粋さは、自分の心がたえず求めてゐる素朴さをやつととりかへした証拠だといふ風にみたのである。
著者の「後記」はこんな文句ではじまつてゐる。
「いつの事であつたらう。園長先生が検診行の記録は全部くはしく書いて置きなさい。時がたつとその時の気分がうすらいで千遍一律の物になつてしまふから「その度々直ぐに書き残しておくんですな。土佐日記は出来てますか」と仰言つた。私が目を丸くして先生の後に突つ立つて居ると「出張してその報告書を提出するのは官吏としての義務ですよ」と重ねて仰言られた。義務といふお言葉が強く心に残つた事がいま忘れられない。さうして拙い手記が出来上つた。」
また、かういふ一節がある。
「現代文化の中にあり、皇恩のあまねき日にさへなほ病者の歎きは深いのに、今から四十年も前の遺伝思想の中に救ひの手の乏しかつた日の病者達のみじめさは想ひを超ゆるものがあつたであらう。その頃から病者の姿を凝視していらつしやつた先生には私達の知らない深い悲惨な病者の実情、出来事が山の様にその胸の中に畳み込まれてあるに違ひない。然し先生は何も仰言らず、また書かれもされぬ。」
更に、その先に、
「少しでも私がこの道に役立つた事があつたとすれば、それは皆その処々に於て隠れたる多くの尽力者があつたからである。」
小川正子さんは昭和四年に東京女子医専を卒業し、同七年、長島の国立癩療養所に職を得、爾来七年間、光田園長の指導下に、同園長の言葉を藉りれば『診療の間を利用し、「つれ〴〵の友となれ」てふ御歌の御心を畏みて、土佐、徳島、岡山等各地の患家訪問』を試みた。その記録がこの「小島の春」なのである。
光田園長の序文の冒頭――
「女医が癩救療に一地歩を築きたるは日本医学史に特筆すべき事実である。先づ服部けさ子女史の草津聖バルナバ医院に於ける、全生に於て西原蕾、嵐正の二女史の如き、大島に高橋竹代女史あり、我が愛生園には曩に大西富美子女史あり、本篇の著者小川正子女史あり。皆一身を此事業に擲つて悔なきの決心を有し、両親親戚の勧告に耳を藉さず、世人の批評に頓着なき男まさりの徒である。」
それから、光田園長は女史を評してかういふ。
「女子の臨床上にも一事を忽せにする事の出来ない特性は家庭訪問の上にも到る処発揮せられてゐる。(中略)此熱誠の根源は何れの処より来るのであるか、之れは畏れ多い事ではあるが、上、皇太后陛下の御軫念を奉戴し、私かに御使であると自任する強烈なる信念より迸り出づるからであらうと信ずる。」
さて、以上、著者並に光田園長の言葉によつて、小川正子さんといふ女性がどういふ環境に身を置き、どういふ仕事に生涯を委ねてゐた人かといふことがあらましわかると思ふ。
そこで、私は、この書物によつて救癩事業の一般を知り、これを現代の社会問題として考察し、この事業に終生を献げつゝある人々の名前を世人は記憶せねばならぬといふやうなことを今更云ひたくはないのである。
もちろん、それがこの書物の第一義的存在理由であらうけれども、寧ろ私は、この書物を書いたために、小川正子さんが他の同僚や先輩たちよりも、その道で特に「英雄的な人物」にはなつてほしくない。また、小川さん自身もそれを望まれないことは明かである。従つて、この記録を通して、著者が自ら語るところの行為は、公人としての半面と私人としての半面とに分けて考へなければ、その善さも美しさも、著者固有のものとはならないところに、作品自体の微妙な価値標準が存することを注意しなければならぬ。
この点は、現在の多くの戦争記録なぞも同様で、作者が自ら「この戦争を戦つてゐる」その行為の全貌のなかで、既に「わが兵士」としての姿が絶対的なあるものを押しつける。それが如何に無意識的なものであつても、読者は、胸をひろげてこれを享け容れざるを得ぬひとつの「感動素」があつて、これだけは必要に応じて批評の圏外におくこともできるのである。
ところが、「小島の春」では、著者が如何に公職を表看板にしようとも、それは問題にならないほど、著者の人間として、女性としての豊かで素直な心が、物語られるすべての事象のなかに浮き出てゐて、読むものゝ胸に、哀しみは深く、喜びは高らかに伝はつて来る。
なるほど、一方から云へば、癩患者の風貌とか心理とかいふやうな異常に凄惨な描写が到るところにあつて、これが全篇の最も緊張した部分をなしてはゐるが、さういふ場面の取扱ひが決して刺戟的でなく、却つて控へ目とさへ云へるくらゐであるのに、一人の患者を囲むその家庭の空気などは、名状すべからざる迫真性と切々たる感情の昂揚のうちに描きだされ、しかも、第三者をして聊かも絶望的な暗さのなかに陥らしめないその筆は、一体、何処から生れるのであらう。
「土佐の秋」中の「秋風の曲」や、「再び土佐へ」中の「暁の鐘」や、「国境の春」中の「合歓の花」や、「榾火」や、「淋しき父母」中の「旧家の嘆き」や、「小島の春」中の「桃畑の女」や、「哀別離苦」や、これら数々の挿話のもつ「悲劇味」の云はゞ古典的な美しさは、今日の如何なる文学のなかにも見出し得ないといふことを、私は、ふと考へ、「近代」が脱ぎすてたかにみえるこの衣装のどこかに、「現代」を装ふに足る新しさがありはせぬかと真面目に首をひねつた。
厳格に云ふならば、この著者は、文筆を専門とするやうな修業はしてゐないであらうし、ことに、もともとかういふ形で世に問ふべく書かれた作品ではないといふところから、散文として月並な形容や調子がちよいちよい混つてはゐるが、全体として、流暢な、水々しい文章で、間に挟んだ一連の和歌の、奔放に歌ひはなしてあるのが、昔の日記文学に通ずる風趣を添へ、烈々たる精神と行為とが、「ものゝあはれ」の近代的表現となつて、当節珍しい形式の報告文学を作りあげてゐる。
二
さういふわけで、私が「小島の春」からうけた感銘は、一言にして云ひ難いが、これを要約すれば、
一、かういふ女性がかういふ事業にこれほどまでに一身を献げてゐるといふ驚異的な事実はまづ措くとして、
二、下村海南氏の序文にも、「一等国である日本には、まだ癩の患者が到るところに、医療の手当にも恵まれずに散らかつてゐる。欧米各国では患者の全部が隔離され収容され、それぞれに手当をうけて余生を送つてゐる。そうした患者が相次いで天命を終つた時に、その国には癩が絶滅されるのである。日本ではまだ万余を数へる伝染病毒を持つ不幸なる患者が野放しになつてゐるのである」と書かれてあるが、その事実は私も予ね〳〵聞き知つて、他の一般社会施設の不備とともに、わが国の恥辱だと思つてゐたのだが、今日までさういふ状態に放置されてゐる原因の最も大きなひとつについて、私はこの「小島の春」にはじめて教へられたと云つてよく、それは、もつと研究をしてみなければはつきりしたことは云へないけれども、少くとも、その大きな原因のひとつといふものをまざまざと知らされることによつて、われわれは、所謂日本人として、声高に日本を弁護するところまで押しやられさうにもなる。が、それとは別の意味で、たゞ、しみじみと、わが家族制度の根深さ、恩愛の束縛の強さに、胸つぶるゝ想ひがするのである。
「小島の春」のわれわれを打つ力の重点は、そもそも、この暴虐な伝統的感情の、痛ましくも見事な詩的表現にあると、私は極言して憚からぬ。
三、しかも、かゝる場面に立ち対ふ、著者小川正子さんの心情の、如何に気高く「日本的」であり、健全に「女性的」であることか!
これがまた、本書のもつ近来稀な魅力を特色づけてゐるのである。
光田園長は、「彼女等の患者に接するや、診療の親切なるに加ふるに女性の綿密を以てする。患者等は女史等を見るに慈母の愛と姉妹の親しみを感ずる」と、述べ、一方、小川女史を評して、「顔を見ればやさしい女性であるが、やる事はやむにやまれぬ男まさりである。(中略)此頃大陸に銀翼を振ふ処の皇軍海陸の荒鷲が、武装都市を爆撃して世界の人心を驚嘆せしめて居るが、女史にして男であつたなら、或は此の途を選んだかもしれない」と、やゝ、その活動ぶりの雄々しさを一面的に強調してゐるけれども、この手記を読むものは、決して、この著者の「男まさり」といふやうな所に感服するのではなく、「男性的」な何ものをも発見せず、却つて、「女性なればこそ」といひたい、柔軟な、しかも、持続的な愛と奉仕の気持に頭がさがるのである。例へば、その性格の凜々しさは、すこしも、天性の潤ひを消さず、科学的な教養もなんら繊細な感情の流露を妨げてゐない。ことに私にとつて興味のあることは、この現代のインテリ女性、一向に自意識の過剰を示してゐないのみならず、批判的ポーズに浮身をやつす傾向からは甚だ遠いといふことである。従つて、その聡明さには一点懐疑の曇りがないうへに、恐ろしく親和的なものが含まれてゐて、単純ともみえるほどの善意が支配してゐる。
この種の仕事に対する情熱は、ある場合、狂信的な身振りを伴ふものであらうが、さういふところもまんざらないとは云へないにしても、それは当然として許される程度で、およそ偽善的な臭みなどといふものは微塵もなく、世俗的な苦労と聖女のやうな静けさを身につけながら、それでゐて、常に、書生つぽらしく振舞ふあの闊達さ、どんな場所でもユウモアを拾ふ感覚のゆとり、まことに驚くばかりである。要するに、その思想にも表現にも、不思議と西洋かぶれのわざとらしさがなく、男の向ふを張るといふやうな厳つさもない。然もなんといふつゝましいコケツトリイがこの一巻を彩つてゐることだらう。著者自身はこれを最も意外に思ふかも知れぬが、私の眼が怪しいかどうか、大方の判断に委せることにしよう。
三
「小島の春」から私が受けた印象のある部分は、もうひとつの作品――即ち、中央公論の二月号に載つてゐる日比野士朗氏の「呉淞クリーク」に共通するものである。
こんな比較は突飛なやうであるが、私の云ひたいところは、このユニツクな戦争文学もまた、その「素直」さで完全に私の心をとらへたといふことである。そこに男性と女性との違ひはあつても、ひとしく、すべてが尋常で、自然で、健康で、場所が場所とは云ひながら、自分の心と周囲の人物とを語る、その語り方のひたむきな善良さに於いて、両者はまさに好一対なのである。
この「神経質な」兵隊の、類のない天真爛漫さは、所謂、逞しい文学的表現といふやうなものと、凡そその感動の質を異にすることは云ふまでもないが、これも亦、一個の得がたい戦争記録、戦争文学の頂点であると私は思ふ。
しかし、かの国民の記憶に深くきざまれた、死闘数々の体験を作者は自己の血をもつて綴つてゐるといふことに、私はこの「呉淞クリーク」の重要な価値をおきたくない。やはり、「小島の春」にみるやうな、徒らに思索者の冷静を衒はず、さうかと云つて、闘士としての思ひあがりもなく、自己と対象とを密着させた位置で、頗る楽天的とも思はれるくらゐ習俗と歩調を合せて歩いてゐる屈托のない姿は、それが一方で果敢ない矜りをもつのであればあるほど、私には厳粛にみえるのである。
豊島与志雄氏は、この作品の短評で、「私」なる人物が他の文学者の従軍記録のやうに薄ぎたない姿をみせないから、その点澄んだ印象を与へるといふ意味のことを云つてゐるが、これは私も大いに同感である。
火野葦平氏の作品もその部類にはひると、豊島氏は書き添へてゐるが、私の考へでは、さういふ見方を一応肯定しつゝ、なほ、火野氏のものは、日比野氏の作品に現はれてゐる「私」とよほど違つた色合で、やはり、少々目障りなポーズができかゝつてゐるのではないかと思ふがどうであらう?
勿論、私は、「呉淞クリーク」を「麦と兵隊」に比べて優れてゐるといふのではない。火野氏は、あまりに「兵隊」として立派にできあがり、自分でも恐らくさう信じ、さう振舞つてゐるところに、ある特色も認める代り、心理的にはいくらか物足らないところもあり、私などは、感心してもさう感動しないといふ変な窮屈さがあるのであるが、日比野氏の場合は、自分が兵隊であることの責任を自覚し、その信念によつて立派に立ち働かうとする決意を示しながら、なほかつ、訓練を遠ざかつた一予備兵としての、そして同時にまた、都会人、文化人としてのある瞬間に於ける弱味を意識し、これをカヴアすべく「教養」の綱にすがる悲痛な足掻きを描いて、われわれの不覚な魂をゆすぶつたのである。これは、今度の事変を通じて、一番時代的な問題を残す記録であるかも知れない。しかもその記録は、現代に於て最も謙譲で伸びやかな青年の手によつて書かれ、その結果はおのづから人の涙を誘ふ一篇の美しく激しい物語になつたとみるべきであらう。
四
この二作は、どちらも、材料そのものに多くの感動的な要素が含まれてゐるにはゐる。しかし、その感動をかういふ風に純粋な形でわれわれに示し得る力は、偶然、この二人の作者が、人間としての美質に恵まれてゐたばかりでなく、「文学的な」素質を身につけながら、一方「文学者的な」表情や趣味、殊に、気どりと計画をまつたく無視してゐるところから来るのだと、私は解したのである。
それと同時に、やはり、今日の若い文学に、これらの作品がもつ素朴な情熱と初々しい驚きとを少しは注ぎ込んでいゝのではないかと思つた。
私一人が特にいまさういふものを求めてゐるのか、それについてはなほもうしばらく考へてみることにする。
最後に久々で私に快い興奮の一つ時を与へてくれた両作者に感謝し、何れも「戦ひ」のために傷いたからだを早く健康にもどされるやう、蔭ながら切に祈つて筆を擱く事にする。(「文学界」昭和十四年三月)
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和染の大家である木村和一氏が大森新井宿の家を引払つて井の頭線浜田山に移られた後、その改築された殆ど新築のやうな意気なお家を私は娘につれられてお訪ねした。大森からはたいへんな田舎のやうに思はれる浜田山で、青々した畑がひろがつてる中に山のやうに樹々のかたまり繁つたところもあり、竹籔もあり、農家が樹のかげにすこし見えたりしてまことに閑静な土地と思つた。空気の新鮮さは信濃の追分あたりを歩いてゐる時のやうで、しみじみ胸に浸み入る感じだつた。この村に自分が越して来ようとはその時少しも考へなかつたが、さて一年ばかりのうちに時勢がひどく悪化して空模様は不安になり、警報が朝から夜まで幾たびも鳴りひびいて、のんきな私も落ちついてゐられなくなつた。ちやうどその時分に娘がまた木村さんをお訪ねして、ぢき近いところに小さな売家があると伺つて来たので、私たちは相談の結果その家を見に行つた。
「この家を買ひませう」と私が即座に言つたのは、気のながい私にしては不思議な事であつたが、さうした廻り合せで私は二十余年住みなれた大森を出て来たのである。殆ど硝子張りといつたやうなアトリエ風の小家で、雨戸や畳もなく壁はテツクスだから、雨かぜの夜は武蔵野のまん中で野宿して濡れしほたれてゐるやうな感じもしたが、私はわりに気らくで、一二年もすればまた大森の家に帰れる、これは疎開の家だといふ風に考へてゐた。浜田山といつても別にどこにも山があるのではなく、ところどころに椎や樫の大樹がしげつて、それが空を被うて山のやうであつた。この土地は開けるのがわりに遅かつたから古い樹々も竹籔も伐られずにゐたのだと思はれる。駅から西にあたつて三井グラウンドのひろびろと青い芝生があり、白ペンキの低い木の柵がめぐらされて何時も明るい清潔な感じを見せてゐる。駅の東の方にやや遠く、広い草原があり、松の大樹が無数にそびえ立つて、松の根もとをうねる細みちにはひる顔の花が咲いたりして、美しい松山があつた。
いつ聞くともなく聞いたのは、この松山がむかし浜田弥兵衛の家のあつた土地で、浜田弥兵衛は長崎や台湾であれだけの働きをした人だから、その名を記念してこの土地を浜田山といふやうになつたといふ話であつた。浜田家はそれほど大へんな豪家ではなく、浜田山だけでは八町八反の地主であつたが、ほかが小さい農家ばかりであつたから、この辺の庄屋の家であつたのだらう。
浜田家のお稲荷さんはこの辺全部の鎮守様みたいなもので、そのお稲荷さんに遠慮して浜田山には一つのお寺もなく神様もないのだと聞いてゐるが、本当かどうか知らない。しかしいちばん近い寺は西永福と永福町とにある。昭和二十年この浜田家の屋敷跡の松山を軍の方で買ひ上げて油の貯蔵所を造り、南と北の入口に番兵が立つやうになつてから、私たちはもう自由にこの松山の草みちを通行ができなくなつた。永福町が焼けたその同じ夜にこの松山にも火が堕ちて油の倉庫が焼けた。黒い煙がまる二日立ちつづけてゐた。その黒けむりを見て「まだ焼けてゐる、まだ焼けてゐる。ずゐぶんたくさん油があつたのだ!」と私たちは感歎したり驚いたりしてゐると、三日経つて煙が消えた。松の大樹が何十本か焼けてしまつた。
その時から五六年も経つて、世の中はとにかく平和になつてゐるが、生活は苦しく忙しく浜田山のいはれなぞ考へることもなく暮してゐた。昨年のこと、ある友人から浜田弥兵衛の話は何かのまちがひではないかと言はれた。武蔵の国の住人が長崎の町人になつて御朱印船を乗り廻したり、台湾であばれたり、あれだけすばらしい働きをしてもう一度うまれ故郷(?)に帰つて隠居をして死んだとも思はれない。あるひはずつと若い少年時代にこの土地を出て行つたのだとも思はれない、長崎の町には浜田家の子孫が今も栄えてゐるといふ話で、何かぴつたりゆかないやうだと言はれた。さういふ事をくはしく訊いて見ようにも浜田山の人はみんな年がわかいのである。私たちの隣家の主人の祖父の時代に浜田弥兵衛の何百年祭とかをしたといふ話で、この土地の事を細かく知つてゐる八十以上の老人がまだ一人この村に生き残つてゐるから、或はその人が何か知つてゐるだらうと言はれたが、私はその家まで訪ねて行く熱心さを持つてゐない。同じ浜田でもちがつた浜田でも少しも差支ないとさへ思ふのだが、それでもお墓参りに行つてみた。軍が浜田家の松山を買つた時、土地の人たちが墓碑を西永福の理性寺に移したといふので、そこへ行つた。古い石でなく新しい墓が立つてゐた。理性寺の住職は折あしく不在で何も話をきかれなかつたが、彼も若い人であるし浜田家の昔からの菩提所ではないのだから、古い事は知つてゐないかもしれなかつた。本堂のうらにこの寺の広い墓地があるけれど、浜田家の墓はそことは別に、門を入つて本堂に向つた右手の樹木のしげみに二つの石碑が立つてゐた。新しい石であつても、雨かぜに曝されて墓の表の字は読みにくかつた。右の方の墓には何々院何々居士と並んで何々院何々大姉と彫られてあるから浜田夫妻の墓である。石の裏面には「武州豊島郡内藤宕上町 俗名浜田五良八事 浜田弥兵衛生年三十九歳」とあつて、石の側面に「宝暦五年乙亥六月初七日」とある。つまり浜田五良八なる通称浜田弥兵衛がその宝暦五年に三十九で死んだのである。並んで立つてゐる左手の石は表の字がまるきり読めない、裏面には、生国 伊勢三重郡浜田住 俗名浜田屋弥兵衛とあつて死亡の年月は彫られてゐない。たぶんこの伊勢国三重郡浜田(今の三重県四日市)にゐた浜田屋弥兵衛が浜田家の先祖であつたのだらう。この浜田屋から長崎に渡つて長崎商人となつた人の家に浜田弥兵衛が生れ出たのか、伊勢の浜田屋から江戸方面に出て来て、豊島郡内藤町に住みついた家から長崎に浜田弥兵衛が出て行つたか、伊勢の浜田屋弥兵衛の死亡の年月が不明のため、その辺の事は分らない。ただ長崎も江戸もみんな伊勢の浜田氏から出た一族であらうと思はれる。
武蔵の住人でこの辺一たいの庄屋であつた浜田五良八は自分の一族に有名な浜田弥兵衛がゐたからといふ訳でなく、先祖からの家の通称浜田弥兵衛を自分も名のつただけの事と思はれる。長崎の浜田弥兵衛が貿易のために九州から呂宋や台湾まで渡つたのは家光の寛永時代で、武蔵の国の彼が死んだ宝暦五年までには百年位の時間が経過してゐる。長崎に今も残る浜田弥兵衛の子孫の家をたづねてみれば、伊勢と武蔵と長崎とのつながりを説明してもらへるかもしれない。戦争前に、東京四谷方面に浜田家の親戚がゐて、浜田山で浜田弥兵衛の祭をした時に立派な自動車に乗つて招ばれて来たといふ話をきいた。昔の豊島郡内藤町に現代まで残つてゐた浜田家の人であらう。その人が今も生きてゐれば、長崎と武蔵豊島の関係も教へてもらへる事とおもふ。
同族の二人の浜田弥兵衛が西と東にゐて、彼等各自の世界に彼等の力いつぱいの仕事をしてゐたと考へるのは愉快なことである。さういふ事を私が言ひ出して浜田山の土地の人たちの夢を破るのは済まないと思ふけれど、武蔵野のひろい松山の中の家にむかし生きてゐた人に私は深い親しみを感じて、私たちが往来する浜田山の土を踏んで三十九年間生きて働いてゐたその人の霊を祝福したいやうに思ふのである。
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このごろ少しく調べることがあって、支那の怪談本――といっても、支那の小説あるいは筆記のたぐいは総てみな怪談本といっても好いのであるが――を猟ってみると、遠くは『今昔物語』、『宇治拾遺物語』の類から、更に下って江戸の著作にあらわれている我国の怪談というものは、大抵は支那から輸入されている。それは勿論、誰でも知っていることで、私自身も今はじめて発見したわけでもないが、読めば読むほどなるほどそうだということがつくづく感じられる。
わたしは支那の書物を多く読んでいない。支那文学研究者の眼から看たらば、殆ど子供に等しいものであろう。その私ですらもこれだけの発見をするのであるから、専門の研究者に聞いてみたらば、我国古来の怪談はことごとく支那から輸入されたもので、我が創作は殆どないということになるかも知れない。
時代の関係上、鎌倉時代の産物たる『今昔物語』その他は、主として漢魏、六朝、唐、宋の怪談で、かの『捜神記』、『酉陽雑爼』、『宣室志』、『夷堅志』、などの系統である。室町時代から江戸時代の初期になると、元明の怪談や伝説が輸入されて元の『輟耕録』や、明の『剪灯新話』などの系統が時を得て来たのである。清朝の書物はあまりに輸入されなかったが、あるいは時代の関係からか、康煕乾隆嘉慶にわたって沢山の著書があらわれているにもかかわらず、江戸時代の怪談にはかの『聊斎志異』を始めとして、『池北偶談』や『子不語』や『閲微草堂筆記』などの系統を引いているものは殆ど見られないようである。大体に於て、わが国の怪談は六朝、唐、五代、宋、金、元、明の輸入品であるといって好かろう。
そこで、いやしくも著作をするほどの人は、支那の書物も読めたであろうが、かの伝説のごときは誰が語り伝えて世に拡めたものか。交通の多い港のような土地には、支那に往来した人も住んでいたであろうし、または来舶の支那人から直接に聞かされたのもあろうが、交通の不便な山村僻地にまでも支那の怪談が行き渡って、そこに種々の伝説を作り出したということは、今から考えると不思議のようでもあるが、事実はどうにも枉げられないのである。
支那では神仙怪異の事という。しかもその神仙のうちで、仙人の話はあまり我国に行われていない。勿論、仙人という言葉もあり、またその事実も伝えられてはいるが、その類例は甚だ少い。仙人はわが国に多く歓迎されなかったと見える。仙人を羨むなどという考えはなかったらしい。支那で最も多いのは、幽鬼、寃鬼即ち人間の幽霊であるが、我国でも人間の幽霊話が最も多いようである。同じ幽霊でも幽鬼は種々の意味でこの世に迷って出るのであるが、寃鬼は何かの恨があって出るに決まっている。わが国には幽鬼も寃鬼も多い。それは支那と同様である。
我国では死人に魔がさして踊り出すとかいって、専らそれを猫の仕業と認めている。支那にも同様の伝説があるがまた別に僵尸とか走尸とかいうものがある。これは死人が棺を破って暴れ出して、むやみに人を追うのであるが、さのみ珍しくない事とみえて、こういう話がしばしば伝えられている。年を経た死体には長い毛が生えているなどという。我国にはこんな怪談はあまり聞かないようである。
幽霊に次いで最も多いのは狐の怪である。支那では狐というものを人間と獣類との中間に位する動物と認めているらしい。従って、狐は人間に化けるどころか、修煉に因ては仙人ともなり、あるいは天狐などというものにもなり得ることになっている。我国では葛の葉狐などが珍しそうに伝えられているが、あんな話は支那には無数というほどに沢山あって、勿論支那から輸入されたものである。狐に次いではやはり蛇の怪が多い。我国では蛇が女に化けたというのが多く、そうして何か執念深いような話に作られている。支那でもかの『西湖佳話』のうちにある雷峰怪蹟の蛇妖のごときは、上田秋成の『雨月物語』に飜案された通りであるが、比較的に妖麗な女に化けるというのは少い。その多くは老人か、偉丈夫に化けて来るのであって、寧ろ男性的である。そうして、その正体は蛇蟒とか、※(虫+(冉の4画目左右に突き出る))蛇とかいうような巨大な物となって現れるのである。我国でもかの八股の大蛇や九州の緒形三郎の父の伝説の如きは、この男性的の系統を引いているらしいが、大体に於て支那の蛇妖は男性的、我国の蛇妖は女性的が多い。
そこで、支那と我国との怪談の相違を求めると、狐狸と一口にいうものの支那では狸の化けたということは比較的少い。決して絶無というわけではなく、老狸の怪談も多少伝えられてはいるが、狐とは比較にならないほどに少い。狸の怪談は我国の方が普遍的であるらしい。もっとも支那では熊が化ける、猿が化ける、猪が化ける、鹿が化ける、兎が化ける、犬が化ける、猫が化けるというわけで、大抵の動物はみな化けるのであるから、狸ばかりが特に跋扈することを許されないのかも知れない。前にもいう通り、猫も勿論化けるのであるが、我国の猫騒動などというような大掛りの怪談はない。我国では、ややもすれば「化け猫」などという言葉を用いるが、支那では猫を怪物とは認めていないらしい。狸と猫は我国に於て、特に化物扱いをされてしまったのである。
生れ変るというのは別問題として、支那では人間が生きながら他の動物に変ずるという怪談が頗る多い。殊に虎に変ずる例が多い。『捜神記』には女が海亀に変じたという話もある。我国には虎が棲まないために、虎の怪談は絶無であるが、さりとて生きながら他の動物に変じたという怪談も少いようである。
支那でも河童というものを全然否認してはいないで、水虎などという名称を与えているのであるが、河童の怪談などは殆ど聞えない。それに似たような怪談は獺か亀のたぐいが名代を勤めているようである。河童の正体は恐らく、すっぽんであろうと察せられるが、どうしてそれが河童として、日本全国に拡められたのか、これだけは殆ど我国の独占といってよい。それに反して、竜は支那の専売である。我国でもたつといい、竜巻きなどともいうが、竜に関する怪異を説いた人は少い。畢竟は竜に類する鰐魚や、巨大な海蛇などが棲息しないためであろうと思われる。
支那には魚妖の話がしばしば伝えられている。魚類が男に化け女に化けて種々の妖をなすのであるが、これも我国には稀れである。支那に鮫人の伝説はあるが、人魚の話はない。ただ一つ『徂異記』のうちに高麗へ使する海中で、紅裳を着けた婦人を見たと伝えている。我国でも西鶴の『武道伝来記』に松前の武士が人魚を射たという話を載せているが、他には人魚の話を書いたのは少く、人魚という名が遍く知られている割合に、その怪談は伝わっていないらしい。
支那にも、我国にも怪鳥という言葉はあるが、さて何が怪鳥であるかということは明瞭でない。普通に見馴れない怪しい鳥を怪鳥ということにしているらしい。我国では、先ず鵺や五位鷺を怪鳥の部に編入し、支那では鵂鵂※(緇のつくり+鳥)は鷹に似てよく人語をなし、好んで小児の脳を啖うなどと伝えられている。天狗も河童と同様で、支那ではあまりに説かれていない。『山海経』に「陰山に獣ありそのかたち狸の如くして白首、名づけて天狗といふ」というのであるから、我国の天狗には当嵌まらない。我国のいわゆる天狗は鷲の類で、人をつかみ去るがために恐れられたのであろう。
こんな風に種類分けをすると、支那とはよほど相違しているようであるが、それは単に形の上の相違にとどまってその怪談の内容は大抵支那から輸入されていることは前にいった通りである。
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彼女は大変頭がいい。
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さて、前置きが長くなった
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畑中さん。
日本に於ける新劇開拓者の一人、そのあなたを、先づかう呼ばして下さい。
僕は、新劇協会の為めに、こゝで一つの苦言を呈したいと思ひます。あなたの才能と、あなたの勇気とに信頼するものは、日本の新劇団、殊に好劇家を通じて、恐らく僕一人ではないと思ひます。あなたが、経済的苦境と闘ひつゝ、遂に、われわれが望んでゐた一つの劇団、現代劇定期上演の場所と人とを有する新劇団、その実現に到達されたことは、今日、最も劇界の注意を惹くべきことです。
それに、どうでせう、あの初日です。見物が僅か三十人余り。招待券の発送が遅れたといふ理由――いゝえ、それは理由にはなりません。世間が知らないのです。あなたは、五日間、毎日三十人の見物があればいゝと仰しやるかもわからない。来たくなければしようがない。然し、知らずにゐるんです。なぜでせう。勿論、宣伝が足らない。宣伝費ですか。そこですよ、あなたに云ふのは。
僕たちは黙つてゐろと仰しやるんですか。僕たちは、少しもお力になることは出来ないのですか。見渡したところ、あなたさへそのつもりにおなりになれば、どういふ方法かで新劇協会の後援者たることを、快く引受けてくれる人が、そしてその後援が精神的に、大きな力をあなたがたの仕事の上に与へるであらうやうな人が随分ありさうぢやありませんか。いくら世智辛い当世でも、いくら自分さへよければの時代でも、あなたの真摯な呼び声に、耳を塞ぐ人ばかりはゐないと思ひます。新聞の三行紹介、演芸欄の噂話、これだけで、あなたの手を握りに行くものはそれや僕ぐらゐなものかも知れません。
自由劇場第一回の試演日です。話は仏蘭西のことです。自然主義の巨頭ゾラ翁は自分の短篇が脚色上演される――それを見に、細君同伴でさゝやかな小屋を訪れました。幕が下ると、いきなり舞台の上に飛び上つて、「うむ、佳い、実に佳い、なあ、エンニック(これは弟子です)――アントワアヌといふのは君か」と驚く座頭をつかまへて「あすもまた来る」かう浴びせかけました。自由劇場は、ゴンクウル、ドオデ、ルナンを立派な後援者にしました。ルメエトル、ボオエル等の名批評家を好意ある鞭撻者としました。彼の周囲には若い作家が集まりました。アントワアヌは傲岸無類な男です。彼は初演の前夜、何百通かの案内状を自分でこれと思ふ人の玄関に配りました。
この若い感激を、もうあなたに求めるのは無理かも知れません。あなたは、押しも押されもしない日本有数の舞台監督です、芸術家です。然しあなたは、やつぱり赤手空拳の事業家ではありませんか。
「まあ見てゐてくれ」ではいけません。「一緒にやらう」でなくては。
あなたのその芸術家らしい、同時に生活の闘士らしい、「まあ見てゐてくれ」は、実際悲壮です。然し「大いにやり給へ」と応じることしか出来ません。
あなたの周囲に、さういふことを考へる人はゐないのですか。
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Medium
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最近偶然の機会から、ある映画運動に関係しかけたのだが、今の処、自分一個として、別にその方面にこれといふ抱負があるわけではない。
改造社の求めで、発表を躊躇してゐたシナリオ風のものを活字にする決心をしたのも最近のことだが、これは、どうも失敗らしい。文芸作品としては、その形式から云つても、表現から云つても、まだまだ完成には遠いものだといふことがわかつて来た。それにしても、あんなものは映画にならないといふ一部専門家の批評を間接に耳にして、聊か不思議に思つてゐる次第である。なるかならないかはして見ないとわからない。僕がなると思つてゐるその「なり方」と、それらの人々のならないと云ふ「ならなさ」とがどうかすると同じものでないかもわからないといふ気がする。強ひて頑張るなら、正宗白鳥氏ではないが、映画としてなつてゐなければ、別に映画といふ名をつけなくてもいゝ。昔通り、活動写真でもかまはない――まあこれは冗談だが――。
説明といふやうなものも、兎角、色々云はれてゐるが、無ければ無くてもいゝし、有れば有つてもいゝだらう。その代り、無ければ無くていゝやうな、有れば有るだけの効果を生ずるやうな映画創作術がなければならないと思ふ。
それに、弁士――と云つてはいけないのでしたかね――説明者と云ふんですか、あれは、いろいろ内情もあることだらうが、どうも時代錯誤だ。説明といふから語弊があるのだが、あれは、歌舞伎のチヨボ乃至希臘劇の合唱団、まあそれと全然同じではないが、それに似た役割を演ずるやうになれば面白くもあり、有意義だと思ふ。それが為めには、説明の文句は、映画の価値相当の文学的表現に達してゐる必要があり、殊に、音声上の素質や、修練や、工夫が、もつと合理的に研究されなければならないと思ふ。所謂弁士口調が型を脱し、映画の性質に応じて、同じ説明者が、様々な調子をその説明のスタイルの上に与へ得るやうになれば占めたものである。
この点、俳優が必ずしも自作自演をやらなくてもいゝやうに、説明者自から説明台本を作らなくてもよい。それなら、それで、なほさら、その台本製作者の文学的素質にもつと注意を払ふべきである。
映画とはかういふもの――ときめてかゝらずに、どんなものでも映画になる、そして、問題は、たゞ、それを如何に映画化するかにある――といふ信念に到達したい。
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Sという少年がありました。
毎日、学校へゆくときも、帰るときも、町の角にあった、菓子屋の前を通りました。その店はきれいに飾ってあって、ガラス戸がはまっていて、外の看板の上には、翼を拡げたかわいらしい天使がとまって、その下を通る人々をながめていたのであります。
少年は、すこし、時間のおくれたときは、急いで、夢中でその前を過ぎてしまいましたけれど、そうでないときは、よくぼんやりと立ち止まって、毎日のように見る天使を、飽かずに仰いでいることがありました。
なぜなら、その天使は、あちらの雲切れのした、北の方の青い空から飛んできて、ここにとまったようにも思われたからでした。少年には、それほど、あちらの遠い空が、なんとなくなつかしかったのであります。そして、その天使と青い空とを結びつけて考えると、美しい、また愉快ないろいろな空想が、ひとりでに、わいてきたからであります。
「おまえは、いつ、あのあちらの空へ帰ってゆくの?」と、小さい声でいったりなどしました。しかし天使は、ただこれを聞いても笑っているばかりでした。
雨の降る日も、天使は、そこにぬれながらじっとしていました。また、霧の降った日も……。けれど、少年は、夜になって、大空がぬぐわれたように星晴れがして、寒い風が吹く真夜中には、きっと、天使が自由に、あの翼をふるって、大空を飛びまわるのであろうと思いました。けれど、人は、だれもそれを知らない。そして、天使は、いつもじっとしているとばかり思っているのだと考えました。
「僕は、おまえが、夜になって、だれも人間が見ていないときに、空を飛びまわるのを知っているのだよ。」と、少年は、天使に向かっていいました。
こういっても、天使は、ただ黙って笑っているばかりでした。
S少年は、病気にかかりました。
もう幾日も学校を休んで、一間にねていました。そのうちに、秋もふけて、いつしか冬になりかかり、木がらしが家のまわりに、吹きすさんだのであります。いろいろの木立の葉が、ざわざわといってささやきました。そして、はげしい風の襲うたびに、それらの葉たちは、ちょうど火の子のように、大空に飛び上がり、あてもなく野原の方へと駆けてゆくのでした。
少年は、窓から、いつしか、さびれきった庭の中をながめていました。かしの木の下に、たくさんどんぐりが落ちていました。また、あちらの垣根のところには、からすうりが、いくつか赤くなってぶらさがっていました。ここから見ると、たいそう寒く、さびしい林の中ではあったけれど、そこにはいい知れぬおもしろいことや、楽しいことがあるとみえて、いろいろの小鳥がやってきて、枝から枝へ飛びうつっては、鳴いているのが見えるのであります。
「もう、じきに雪がくるだろう……。」と、少年は思っていました。
「戸を開けて、寒い風に当たってはいけませんよ。」と、お母さんにいわれて、少年は、また床の中にはいりました。そして、あいかわらず、家の外にすさぶ木がらしの音を聞いていました。
「早く、病気がよくなって、学校へいきたいものだな。」と、少年は思いました。けれど、それまでには、なかなかよくならなかったのであります。
お友だちは、遠慮をして遊びにきませんでした。少年は、もう長いこと、お友だちの顔を見ません。そんなことを思って、さびしがっていました。
ちょうど、そのとき、あらしの中をだれか自分を呼びにきたものがあります。
「Sちゃん、遊ぼう!」と、外で自分を呼んでいました。
はじめは、気のせいではないかと考えました。それで、しばらく、床の中で、じっと考えていました。あらしの音は、いよいよはげしくなって、林の鳴る音や、落ち葉の風にまかれて飛ぶ音などがしていたのであります。また、このあらしの間にまじって、
「Sちゃん、遊ぼう!」と、自分を呼んでいる子供の声がきこえてきました。
「だれだろう?」と、少年は思って、床から出て窓の障子を開きました。すると、あちらに、赤い帽子をかぶった二人と、黒い帽子をかぶった一人の子供が、三人でおもしろそうに遊んでいて、自分を手招ぎしたのであります。
「だれだい?」と、少年は呼びかけて、その三人をじっと見守りました。すると、一人は年ちゃんで、一人は正ちゃんでありました。黒い帽子をかぶっている子供は、まったく知らない子供のように思われました。
「年ちゃんに、正ちゃん、君は、どうしたんだい、死ななかったのかい。不思議だなあ……。」と、少年は、死んだはずの二人の友だちが、このあらしの吹く日に、どこからか帰ってきて、自分を誘いにきたのを、少なからず不思議に考えたのでした。
三人は、しきりに、自分を手招ぎしていました。少年は、お母さんに聞いてみて、すぐにも外へ出ていこうと思いました。彼は、ふらふらとへやの中を歩いて、茶の間の方へいって、
「年ちゃんと正ちゃんが迎えにきたから、いってもいい?」と、お母さんにたずねました。すると、お母さんは、走ってきて、
「なんで、おまえはねていないのです。」といって、しかられました。
少年は、年ちゃんに、正ちゃんが外で呼んでいるから、二人を家へいれてくれと頼みました。
「僕、さびしくて、しかたがないんだから……。」といいますと、お母さんは、青い顔をして、目を大きくみはって、少年をにらみました。
「なんで、年ちゃんや、正ちゃんが、おまえを呼びにくることがあるものか。おまえは、夢を見たんだよ。」といいました。
少年は、それを打ち消すようにして、
「お母さん! ほんとうに、外で僕を呼んでいたんですよ。うそだと思ったら、見てごらんなさい。」と、少年はいいました。
「じゃ、私が見てみよう。そして、もしいたら、しかってやろう!」と、母親はいって、窓から、あちらを見ました。
「だれもいないじゃないか。おまえは夢を見たのだよ。」といって、母親は、寒いので、障子をぴしりと閉めてしまいました。
その日から、少年の病気は、いっそう重くなったので、家の人たちは、みんな心配したのであります。
少年は、窓からのぞいて見ると、お菓子屋の看板の上にとまっている天使が、ひとりで、あらしの中に遊んでいたのでした。
「君は、いつも真夜中になると、人の知らない間に空を飛んで、星の世界へいったり、また林の中へはいったりして遊んでいるのだろう……。」と、少年はたずねました。
天使は、はずかしそうな顔をして笑っています。
「今日は、空がよく晴れて、それに風が寒いから、つい天国が恋しくなって、飛んでいました。」と、天使は、答えました。
少年は、あちらの青い空が、ただなんということなしに慕わしくなりました。それに、海の方へといってみたくなりました。
「僕をつれていってくれないか?」と、天使に向かって頼みました。
小さな天使は、しばらく考えていましたが、魔術で、少年を小さく小さくしてしまいました。
「さあ、しっかりと私の脊中にお負さりなさい。」と、天使はいいました。少年は、天使の白い脊中にしっかりと抱きつきました。いつしか、青い空と白い雲の間を縫うようにして、飛んでいたのであります。
目の下には、海が、悲壮な歌をうたって、はてしもなく、うねりうねりつづいていました。風は、吹いて、吹いていました。少年を乗せた、天使は、北へ、北へと旅をつづけたのであります。
そのうちに、紅い潮の中から、一つの美しい島が産まれました。天使は、その島の空を飛びまわりました。見下ろすと、そこには、真っ白な大理石の建物が、平地にも、丘の上にもありました。その有り様は、見たばかりでも神々しさを覚えたのでした。どんな人がこの島の中に住んでいるだろうか? 少年は、もし美しい人たちで、自分を愛してくれるような、やさしい人々であったら、自分はこの島に住みたいと思いました。しかし、その島は、こんなふうに神々しかったけれど、しんとして音ひとつしなければ、また煙の上っているところもありませんでした。地の上に、赤いところや、白いところの見えるのは、花が咲いているのだと思われました。そのうちに、下の道を白い衣服をまとった人々が、脇見もせずに歩いていくのが見えました。その人々は、尼さんが会堂へゆくときのように、笑いもしなければ、話もしませんでした。これを見ると、体じゅうに寒けを催しましたので、この島へ降りてみようとは思わなくなりました。
「あんまり遅くなると、みんなが心配するから、もう、かえりたい。」と、少年は天使にいいました。
小さな、美しい翼を持った天使は、たそがれ方の空を矢のように、速やかに飛んで、ふたたびなつかしい、わが家の見える野原の方へと飛んできました。
「さあ、ここですよ。」といって、天使がおろしてくれたので、ほっとして少年は、目を開きました。
すると、自分のまくらもとには、心配そうな顔つきをした医者と、青い顔をしたお母さんと、妹と、お父さんたちがすわって、自分の顔を見つめていたのでした。
少年は、どうしたことかと思って、不思議でならなかったのです。
それから、数日たちました。少年の病気は、いいほうに向かいました。医者は、眉を開いて笑いました。母親の顔にもはなやかな笑いが浮かびました。
あいかわらず、あらしは、窓の外に吹いて、雪すらおりおり、風にまじって落ちてきました。けれど、そんなに深くは積もりませんでした。そのうちに、少年の病気はまったくよくなって、元気よく学校へ通うことができるようになったのであります。
ある日、少年は、菓子屋の前を通りかかって、天使は、どうしたろうと思って、仰いでみますと、そこにはありませんでした。驚いて友だちに聞いてみますと、いつかの大きなあらしのとき、落ちて壊れてしまったといいました。少年は、すこしいくと、道のはたに天使の翼のかけらが落ちていたのを見つけました。少年は、天使が、いよいよ大空に上ってしまったのだろうと思いました。それから、つぎの休み日に凍った雪の上を渡っていくと、林の中に赤い帽子が一つ落ちていたのであります。
――一九二五・一〇――
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Medium
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ジロオドウウの戯曲は、その取材と云ひ、構想と云ひ、殊にその文体の一種独特な調子と云ひ、まさに現代フランス劇壇に齎らされた文字通りの新風である。
それはなによりも現代を呼吸する生活人の思想であり、感覚である。十九世紀的な分析の残骸を捨て去つて、直截簡明に原則を捉へる機敏な頭脳を先づ感じさせる。彼のレアリズムこそは「大戦後」のそれであり、民族の伝統と、国際理念との交錯するなかに、最も困難な文学的立場をおいて、身軽に、しかも堂々と、現実・プラス・フアンテジイの世界を展開してみせる憎々しいほどの才人である。
今こゝに訳された「ジイクフリード」一篇は、彼の作としては一番われわれに親み易い内容をもつてゐるといふ点で、訳者の選択眼に誤りはないと私は信ずると共に、その訳筆もまた、原作を知るほどのものからみれば、却つて苦心の跡が眼立たないのを不思議に感じるほどである。訳者木下熊男君は、巴里に滞在中、この作品の上演を六度も観て、翻訳の下ごしらへはとつくにできでゐたのださうである。さもあらうと思ふ。
さて、かういふ作品の日本での上演となると、まつたく私は途方に暮れる。現代の国際人の型は、わが俳優陣に最も欠けたものゝひとつだからである。
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一
最近数年間の文壇及び思想界の動乱は、それにたずさわった多くの人々の心を、著るしく性急にした。意地の悪い言い方をすれば、今日新聞や雑誌の上でよく見受ける「近代的」という言葉の意味は、「性急なる」という事に過ぎないとも言える。同じ見方から、「我々近代人は」というのを「我々性急な者共は」と解した方がその人の言わんとするところの内容を比較的正確にかつ容易に享入れ得る場合が少くない。
人は、自分が従来服従し来ったところのものに対して或る反抗を起さねばならぬような境地(と私は言いたい。理窟は凡て後から生れる者である)に立到り、そしてその反抗を起した場合に、その反抗が自分の反省(実際的には生活の改善)の第一歩であるという事を忘れている事が、往々にして有るものである。言い古した言い方に従えば、建設の為の破壊であるという事を忘れて、破壊の為に破壊している事があるものである。戦争をしている国民が、より多く自国の国力に適合する平和の為という目的を没却して、戦争その物に熱中する態度も、その一つである。そういう心持は、自分自身のその現在に全く没頭しているのであるから、世の中にこれ位性急な(同時に、石鹸玉のように張りつめた、そして、いきり立った老人の姿勢のように隙だらけな)心持はない。……そういう心持が、善いとも、又、悪いとも言うのではない。が、そういう心持になった際に、当然気が付かなければならないところの、今日の仕事は明日の仕事の土台であるという事――従来の定説なり習慣なりに対する反抗は取りも直さず新らしい定説、新らしい習慣を作るが為であるという事に気が付くことが、一日遅ければ一日だけの損だというのである。そしてその損は一人の人間に取っても、一つの時代に取っても、又それが一つの国民である際でも、決して小さい損ではないと言うのである。
妻を有ちながら、他の女に通ぜねばならなくなった、或はそういう事を考えねばならなくなった男があるとする。そして、有妻の男子が他の女と通ずる事を罪悪とし、背倫の行為とし、唾棄すべき事として秋毫寛すなき従来の道徳を、無理であり、苛酷であり、自然に背くものと感じ、本来男女の関係は全く自由なものであるという原始的事実に論拠して、従来の道徳に何処までも服従すべき理由とては無いのだと考えたとする。其処までは可い。もしもその際、問題の目的が「然らば男女関係の上に設くべき、無理でなく、苛酷でなく、自然に背くものでないところの制約はどんなものであらねばならぬか」という事であるのを忘れて了って、既に従来の道徳は必然服従せねばならぬものでない以上、凡ての夫が妻ならぬ女に通じ、凡ての妻が夫ならぬ男に通じても可いものとし、乃至は、そうしない夫と妻とを自覚のない状態にあるものとして愍れむに至っては、性急もまた甚だしいと言わねばならぬ。その結果は、啻に道徳上の破産であるのみならず、凡ての男女関係に対する自分自身の安心というものを全く失って了わねば止まない、乃ち、自己その物の破産である。問題が親子の関係である際も同である。
二
右の例は、一部の人々ならば「近代的」という事に縁が遠いと言われるかも知れぬ。そんなら、この処に一人の男(仮令ば詩を作る事を仕事にしている)があって、自分の神経作用が従来の人々よりも一層鋭敏になっている事に気が付き、そして又、それが近代の人間の一つの特質である事を知り、自分もそれらの人々と共に近代文明に醸されたところの不健康(には違いない)な状態にあるものだと認めたとする。それまでは可い。もしもその際に、近代人の資格は神経の鋭敏という事であると速了して、あたかも入学試験の及第者が喜び勇んで及第者の群に投ずるような気持で、(その実落第者でありながら。――及第者も落第者も共に受験者である如く、神経組織の健全な人間も不健全な人間も共に近代の人間には違いない)その不健全を恃み、かつ誇り、更に、その不健全な状態を昂進すべき色々の手段を採って得意になるとしたら、どうであろう。その結果は言うまでもない。もし又、そうしなければ所謂「新らしい詩」「新らしい文学」は生れぬものとすれば、そういう詩、そういう文学は、我々――少くとも私のように、健康と長寿とを欲し、自己及自己の生活(人間及人間の生活)を出来るだけ改善しようとしている者に取っては、無暗に強烈な酒、路上ででも交接を遂げたそうな顔をしている女、などと共に、全然不必要なものでなければならぬ。時代の弱点を共有しているという事は、如何なる場合の如何なる意味に於ても、かつ如何なる人に取っても決して名誉ではない。
性急な心! その性急な心は、或は特に日本人に於て著るしい性癖の一つではあるまいか、と私は考える事もある。古い事を言えば、あの武士道というものも、古来の迷信家の苦行と共に世界中で最も性急な道徳であるとも言えば言える。……日本はその国家組織の根底の堅く、かつ深い点に於て、何れの国にも優っている国である。従って、もしも此処に真に国家と個人との関係に就いて真面目に疑惑を懐いた人があるとするならば、その人の疑惑乃至反抗は、同じ疑惑を懐いた何れの国の人よりも深く、強く、痛切でなければならぬ筈である。そして、輓近一部の日本人によって起されたところの自然主義の運動なるものは、旧道徳、旧思想、旧習慣のすべてに対して反抗を試みたと全く同じ理由に於て、この国家という既定の権力に対しても、その懐疑の鉾尖を向けねばならぬ性質のものであった。然し我々は、何をその人達から聞き得たであろう。其処にもまた、呪うべく愍れむべき性急な心が頭を擡げて、深く、強く、痛切なるべき考察を回避し、早く既に、あたかも夫に忠実なる妻、妻に忠実なる夫を笑い、神経の過敏でないところの人を笑うと同じ態度を以て、国家というものに就いて真面目に考えている人を笑うような傾向が、或る種類の青年の間に風を成しているような事はないか。少くとも、そういう実際の社会生活上の問題を云々しない事を以て、忠実なる文芸家、溌溂たる近代人の面目であるというように見せている、或いは見ている人はないか。実際上の問題を軽蔑する事を近代の虚無的傾向であるというように速了している人はないか。有る――少くとも、我々をしてそういう風に疑わしめるような傾向が、現代の或る一隅に確に有ると私は思う。
三
性急な心は、目的を失った心である。この山の頂きからあの山の頂きに行かんとして、当然経ねばならぬところの路を踏まずに、一足飛びに、足を地から離した心である。危い事この上もない。目的を失った心は、その人の生活の意義を破産せしめるものである。人生の問題を考察するという人にして、もしも自分自身の生活の内容を成しているところの実際上の諸問題を軽蔑し、自己その物を軽蔑するものでなければならぬ。自己を軽蔑する人、地から足を離している人が、人生について考えるというそれ自体が既に矛盾であり、滑稽であり、かつ悲惨である。我々は何をそういう人々から聞き得るであろうか。安価なる告白とか、空想上の懐疑とかいう批評のある所以である。
田中喜一氏は、そういう現代人の性急なる心を見て、極めて恐るべき笑い方をした。曰く、「あらゆる行為の根底であり、あらゆる思索の方針である智識を有せざる彼等文芸家が、少しでも事を論じようとすると、観察の錯誤と、推理の矛盾と重畳百出するのであるが、これが原因を繹ねると、つまり二つに帰する。その一つは彼等が一時の状態を永久の傾向であると見ることであり、もう一つは局部の側相を全体の本質と考えることである」
自己を軽蔑する心、足を地から離した心、時代の弱所を共有することを誇りとする心、そういう性急な心をもしも「近代的」というものであったならば、否、所謂「近代人」はそういう心を持っているものならぱ、我々は寧ろ退いて、自分がそれ等の人々よりより多く「非近代的」である事を恃み、かつ誇るべきである。そうして、最も性急ならざる心を以て、出来るだけ早く自己の生活その物を改善し、統一し徹底すべきところの努力に従うべきである。
我々日本人が、最近四十年間の新らしい経験から惹き起されたところの反省は、あらゆる意味に於て、まだ浅い。
もしも又、私が此処に指摘したような性急な結論乃至告白を口にし、筆にしながら、一方に於て自分の生活を改善するところの何等かの努力を営み――仮令ば、頽廃的という事を口に讃美しながら、自分の脳神経の不健康を患うて鼻の療治をし、夫婦関係が無意義であると言いながら家庭の事情を緩和すべき或る努力をし、そしてその矛盾に近代人の悲しみ、苦しみ、乃至絶望があるとしている人があるならば、その人の場合に於て「近代的」という事は虚偽である。我々は、そういう人も何時かはその二重の生活を統一し、徹底しようとする要求に出会うものと信じて、何処までも将来の日本人の生活についての信念を力強く把持して行くべきであると思う。
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Hard
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なかなかいい感じで話が進む
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Easy
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彼等の決議
市会議員のムッシュウ・ドュフランははやり唄は嫌いだ。聴いていると馬鹿らしくなる。あんな無意味なものを唄い歩いてよくも生活が出来るものだ。本当に生活が出来るのかしら――こう疑い始めたのが縁で却ってだんだん唄うたいの仲間と馴染が出来てしまった。それに彼の生来の世話好きが手伝って彼はとうとう唄うたいの仲間の世話役になってしまった。
いま巴里には町の唄うたいが三百人ばかりいる。彼等は時々サン・ドニの門の裏町のキャフェに寄る。そこへははやり唄の作者や唄本の発行者も集って来て本の取引かたがた町のはやり唄に対する気受の具合を話し合う。それが次のはやり唄を作る作者の参考にもなる。彼等は繩張のことで血腥い喧嘩もよくする。
はやり唄は場末の家の建壊しの跡などへ手風琴鳴しを一人連れて風の吹き曝しに向って唄い出す。また高いアパルトマンの間の谷底のような狭い露路について忍び込んで来て、其処をわずかにのぞく空の雲行を眺めながらも唄う。幾つものアパルトマンの窓から、女や男や子供がのぞく、覗かないで窓の中でしんと仕事をしながら聴いていて手だけ窓から出し、小銭を投げてやる者もある。別に好い声という訳ではない。むしろ灰汁のある癖の多い声が向く、それに哀愁もいくらか交る。そしてもしその唄が時の巴里の物足りなく思っている感情の欠陥へこつりと嵌まり込めばたちまち巴里じゅうの口から口へ移されて三日目の晩にはもうアンピールあたりの一流の俗謡の唄い手がいろいろな替唄までこしらえて唄い流行らしてくれるし譜本は飛ぶように売れ始まる。
スウ・レ・トアド・パリの唄から“C'est pour mon papa”の唄へ――巴里の感情は最近これらのはやり唄の推移によってスイートソロから陽気な揶揄の諧調へ弾み上ったことが証拠立てられた。このとき他の国の財政の慌てふためきをよそにフランスへは億に次ぐ億の金塊がぐんぐん流れ込んでいた。
だが、やがてこの国にも不況が来た。冬を感ずるのは一番先に小鳥であるように、巴里の不景気を感じたのはまず町の唄うたいだった。
無意味なことで彼等は暮らしていると思っていることの上に一種の愛感を持ってこれまで世話して来たムッシュウ・ドュフランは彼等の急にしょげた様子を見てこれが当り前だとも思い、それ見たことかとも思わぬでもなかったが、兎に角今は自分の世話子達である。困惑はもっと迫っていた。
或日、例のサン・ドニの門の裏町のキャフェで彼等の集りがあった。ムッシュウ・ドュフランは司会のはじめにいった。
「どうだ、この不景気に乗るような唄をこしらえて見ては。節はなるたけ陰気なのがいい。たとえば、ラ――ラ――ラ――とこんな調子にやったならば。」
彼等はげらげら笑った。市会議員の舌の鳴物入りの忠言なんかはこの道で苦労している彼等には真面目に対手になってはいられなかった。中にはドュフランの調子外れのラ――ラ――ラ――を口真似するものさえあった。
「駄目かね、それじゃどうするのだ。」
ドュフランは少しむっとした。
喋り好きの彼等が長時間討議し合ってやっと一つの決議が纒った。それははやり唄うたいを巴里の表通へも流して出られるようドュフランにその筋へ運動して貰うことだった。今まで町で流すことは交通整理上彼等に禁じられている。ドュフランは官署へ出かけて行って警視長官チアベと向い合った。
「わしの子鳥達がこういうんです――」
ドュフランはいつも彼の世話子達をこういう言葉で呼んだ。
「あなたの子供達にこれだけの規則違犯があるのですよ。」
警視長官は笑いながら先手を打って唄うたいの反則事件の調書を見せようとした。ドュフランはそれをまあまあと押えて唄うたいの窮状をくわしく述べ、終りに嘆願の筋を申出た。警視長官は市会議員に対する儀礼としてちょっと熟考の形を取ったが肚は決っていた。
「どう考えて見ましてもこのお申出についてはあなたのお顔を立てかねますな。但、御陳情によりまして以後、唄うたいの新出願者は決して許可しないことにいたしましょう。つまり、巴里の唄うたいの数を現状の三百人より増さんように。」
ドュフランは自分の考えた第二策を今度は持ち出した。
「御厚意を謝します、しかし今一度お考え直しを願いたいことは――もしあれ等がフランス固有の唄も混ぜて唄うとしたらどうでしょう。日々にフランスの国風が頽廃して行くのはお互い識者たるものの嘆じているところです。町の唄うたいが揃ってフランスの歴史的の唄をうたって歩いたらこれあずいぶんこの国の首都に好い感化を与えますぞ。」
警視長官は面白くもない昔の唄を町の唄うたいが義務で唄う表情を想像して笑いたくなったが我慢して穏かに断った。
ムッシュウ・ドュフランはサン・ドニのキャフェへ帰って行った。審議は仕直された。第二の決議が出来た。すこぶる激越の調子を帯びた決議文が成文された。
「われ等はラジオの拡声器を職業の敵と認める。われらは拡声器に対し戦いを宣す。」
この決議文を握らされてムッシュウ・ドュフランはキャフェを押出された。どこへ持って行ってよいのか聴き返す余裕を興奮した世話子達は許さなかった。ムッシュウ・ドュフランは呆れた顔をして夕暮の明るいイタリー街へ出た。店々では食事時の囃し唄を町の通へ賑やかに明け放っていた。ムッシュウ・ドュフランはしばらく立止って聴いていたやがて自分も口惜しくなって町へ向って叫んだ。
「ばか! ラジオの馬鹿!」
ダミア
うめき出す、というのがダミアの唄い方の本当の感じであろう。そして彼女はうめくべく唄の一句毎の前には必らず鼻と咽喉の間へ「フン」といった自嘲風な力声を突上げる。「フン」「セ・モン・ジゴロ……」である。
これに不思議な魅力がある。運命に叩き伏せられたその絶望を支えにしてじりじり下から逆に扱き上げて行くもはや斬っても斬れない情熱の力を感じさせる。その情熱の温度も少し疲れて人間の血と同温である。
彼女の売出しごろには舞台の背景に巴里の場末の魔窟を使い相手役はジゴロ(パリの遊び女の情人)に扮した俳優を使い彼女自身も赤い肩巻に格子縞の Basque という私窩子型通りの服装をして彼女の唄の内容を芝居がかりで補ったものだが、このごろは小唄専門のルウロップ館あたりへ出る場合にはその必要は無い。黒一色の夜会服に静まっても彼女の空気が作れるようになった。
女に娘時代から年増の風格を備えているものがある。ダミアはそれだ。しかもダミアは今は年齢からいっても大年増だ、牛のような大年増だ。頬骨の張った顔。つり合うがっしりした顎。鼻は目立たない。その鼻の位置を狙って両側から皺み込む底の深い鼻唇線は彼女の顔の中央に髑髏の凄惨な感じを与える。だが、眼はこれ等すべてを裏切る憂欝な大きな眼だ。よく見るとごく軽微に眇になっている。その瞳が動くとき娘の情痴のような可憐ななまめきがちらつく。瞳の上を覆う角膜はいつも涙をためたように光っている。決して大年増の莫蓮を荷って行ける逞しさもまた知恵も備えた眼ではない。所詮は矛盾の多い性格の持主で彼女はあるだろう。(矛盾は巴里それ自身の性格でもあるように)何か内へ腐り込まれた毒素があって、たといそれが肉体的のものにしろ精神的のものにしろそれに抗素する女のいのちのうめきが彼女の唄になるのであろう。彼女に正統な音楽の素養は無かったはずだ。町辻でうめき酒場でうめきしているそのうめき声にひとりで節が乗ってとうとう人間のうめきの全幅の諧調を会得するようになったのだ。人間にあってうめかずにいられないところのものこそ彼女の生涯の唄の師である。
彼女が唄うところのものはジゴロ、マクロの小意気さである。私窩子のやるせない憂さ晴しである。あざれた恋の火傷の痕である。死と戯れの凄惨である。暗い場末の横町がそこに哀しくなすり出される。燐花のように無気味な青い瓦斯の洩れ灯が投げられる。凍る深夜の白い息吐きが――そしてたちまちはげしい自棄の嘆きが荒く飛んで聴衆はほとんど腸を露出するまでに彼女の唄の句切りに切りさいなまれると、其処に抉出される人々の心のうずきはうら寂びた巴里の裏街の割栗石の上へ引き廻され、恥かしめられ、おもちゃにされる。だが「幸福」だといって朱い唇でヒステリカルに笑いもする。そして最後はあまくしなやかに唄い和めてくれるのだ。ダミアの唄は嬲殺しと按撫とを一つにしたようなものなのだ。
彼女はもちろん巴里の芸人の大立物だ。しかし彼女の芸質がルンペン性を通じて人間を把握しているものだけに彼女の顧客の範囲は割合に狭い。狭いが深い。
ミスタンゲットを取り去ってもミスタンゲットの顧客は他に慰む手段もあろう。ダミアを取り去るときダミアの顧客に慰む術は無い。同じ意味からいって彼女の芸は巴里の哀れさ寂しさをしみじみ秘めた小さいもろけた小屋ほど適する。ルウロップ館ではまだ晴やかで広すぎる。矢張りモンパルナス裏のしょんぼりした寄席のボビノで開くべきであろう。これを誤算したフランスの一映画会社が彼女をスターにして大仕掛けのフィルム一巻をこしらえた。しかしダミアはどうにも栄えなかった。
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Medium
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古くから、人も知つた有名な引手茶屋。それが去年の吉原の火事で燒けて、假宅で營業をして居たが、續けて營業をするのには、建て復しをしなくてはならぬ。
金主を目付けたが、引手茶屋は、見込がないと云ふので、資本を下さない。
殊に、その引手茶屋には、丁度妙齡になる娘が一人あつて、それがその吉原に居るといふ事を、兼々非常に嫌つて居る。娘は町へ出度いと言ふ。
女房の料簡ぢやあ、廓外へ出て――それこそ新橋なぞは、近來吉原の者も大勢行つて居るから――彼處等へ行つて待合でもすれば、一番間違は無いと思つたのだが、此議は又その娘が大反對で、待合なんといふ家業は、厭だといふ殊勝な思慮。
何をしよう、彼をしようと云ふのが、金主、誰彼の發案で、鳥屋をする事になつた。
而して、まあ或る處へ、然るべき家を借り込むで、庭には燈籠なり、手水鉢も、一寸したものがあらうといふ、一寸氣取つた鳥屋といふ事に話が定つた。
その準備に就いても取々奇な事があるが、それはまあ、お預り申すとして、帳場へ据ゑて算盤を置く、乃至帳面でもつけようといふ、娘はこれを(お帳場〳〵)と言つて居るが、要するに卓子だ。それを買ひ込む邊りから、追々珍談は始まるのだが……
先づ其のお帳場なるものが、直き近所には、四圓五十錢だと、新しいのを賣つて居る。けれども、創業の際ではあるし、成るたけ金を使はないで、吉原に居た時なんぞと異つて、總てに經濟にしてやらなくちや可かんと云ふので、それから其の女房に、娘がついて、其處等をその、ブラ〳〵と、見て歩いたものである。
茲に件の娘たるや、今もお話した通り、吉原に居る事を恥とし、待合を出す事を厭だと云つた心懸なんだから、まあ傍から勸めても、結綿なんぞに結はうよりは、惡くすると廂髮にでもしようといふ――
閑話休題、母子は其處等を見て歩くと、今言つた、其のお帳場が、橋向うの横町に一個あつた。無論古道具屋なんです。
値を聞くと三圓九十錢で、まあ、それは先のよりは安い。が、此奴を行きなり女房は、十錢値切つて、三圓八十錢にお負けなさいと言つたんです。
するとね、これから滑稽があるんだが……その女房の、これを語る時に曰くさ。
「道具屋の女房は、十錢値切つたのを癪に觸らせたのに違ひない。」
本人は、引手茶屋で、勘定を値切られた時と同じに、是は先方(道具屋の女房)も感情を害したものと思つたらしい。
因で、感情を害してるなと、此方では思つてる前方が、件の所謂お帳場なるもの……「貴女、これは持つて行かれますか。」と言つた。
然うすると此方は引手茶屋の女房、先方も癪に觸らせたから、「持てますか。」と言つたんだらう。持てますかと言つたものを、持たれないと云ふ法はない。「あゝ持てますとも」と言つて、受取つて、それを突然、うむと、女房は背負つたものです。
背負ふと云ふと、ひよろ〳〵、ひよろ〳〵。……一足歩き出すと又ひよろ〳〵。……
女房は、弱つちやつた。可恐しく重いんです。が、持たれないといふのは悔しいてんで、それに押されるやうにして、又ひよろ〳〵。
二歩三歩ひよろついてると思ふと、突然、「何をするんだ。」といふ者がある。
本人は目が眩んで居るから、何が何うしたかは分らない。が、「何をするんだ。」と言はれたから、無論打着かつたに違ひない、と思つたんです。で、「眞平御免なさい。」と言ふと、又ひよろ〳〵とそれを背負つて歩く。然うすると、その背後で、娘は、クツクツクツクツ笑ふ。と、背負つてる人は、「何だね、お前、笑ひ事ちやないやね。」と言ひながら又ひよろ〳〵。
偖て、然うなると、この教育のある娘が、何しろ恰好が惡い、第一又持ちやうが惡い、前へ𢌞して膝へ取つて持ち直せといふ。
それから娘が、手傳つて、女房は、それをその、胸の處へ、兩手で抱いた。
抱くと、今度は、足が突張つて動かない。前へ、丁度膝の處へ重しが掛かる。が、それでも腰を据ゑて、ギツクリ〳〵一歩二歩づゝは歩く。
今度は目は眩まない。背後の方も見えるから、振返つて背後を見ると、娘は何故か、途中へ踞んでて動かない。而して横腹を抱へながら、もう止しておくれ〳〵と言つて居る。無論可笑くて立つ事も出來ないのだ。
それが、非常に人の雜沓する、江戸の十字街、電車の交叉點もあるし、大混雜の中で其の有樣なんです。恐らく妙齡の娘が横腹を抱へながら歩いたのも多度はあるまいし、亦お帳場を持つて歩いた女房も澤山はあるまい。何うしても其の光景が、吉原の大門の中で演る仕事なんです。
往來を行交ふもの、これを見て噴出さざるなし。而して、その事を、その女房が語る時に又曰く、
「交番の巡査さんが、クツクツ言つて笑つて居たつけね。」
すると傍から、又その光景を見て居た娘の云ふのには、「その巡査さんがね、洋刀を、カチヤ〳〵カチヤ〳〵搖ぶつて笑つて居た。」と附け足します。
で、客が問うて曰、
「それを家まで持つて來たの、」
女房が答へて、
「串戲言つちや可けません。あれを持つて來ようものなら、河へ落つこつて了つたんです。」と、無論高い俥代を拂つて、俥で家まで持つて來たものです。
今度は買物に出る時は、それに鑑みて、途中からでは足許を見られるといふので、宿車に乘つて家を飛び出した。
その時の買物が笊一つ。而して「三十五錢俥賃を取られたね。」と、女房が言ふと、又娘が傍に居て、「違ふよ、五十錢だよ。」と言ふ。
それから又別の時、手水鉢の傍へ置く、手拭入れを買ひに行つて、それを又十錢値切つたといふ話がありますが、それはまあ節略して――何でも値切るのは十錢づゝ値切るものだと女房は思つて居る。
偖て、店をする、料理人も入つて、お客も一寸々々ある事になる。
と、或お客が手を叩く。……まあ大いに勉強をして、娘が用を聞きに行つた。――さうすると、そのお客が、「鍋下」を持つて來いと言つた。
「はい。」と言つて引下つたが分らない。女房に、「一寸鍋下を持て來い、と言つたが何だらう。」と。
茲に又きいちやんと稱へて、もと、其處の内で内藝妓をして居たのがある。今は堅氣で、手傳ひに來て居る。
と、其のきいちやんの處へ來て、右の鍋下だが、「何だらう、きいちやん知つてるかい。」と矢張り分らない女房が聞くと、これが又「知らない。」と言ふ。
「料理番に聞くのも悔しいし、何だらう……」と三人で考へた。考へた結果、まあ年長だけに女房が分別して、「多分釜敷の事だらう、丁度新らしいのがあるから持つておいでよ。」と言つたんださうです。
然うすると、きいちやん曰、「釜敷? 何にするだらう?」
此處がその、甚く仲の町式で面白いのは、女房が、「何かのお禁呪になるんだらう。」と言つた。因で、その娘が、恭しくお盆に載せて、その釜敷を持つて出る。と、客が妙な顏をして、これを眺めて、察したと見えて噴出して、「火の事だよ〳〵。」と言ふ。
でまあ恁云ふ體裁なんですがね。女中には總て怒鳴らせない事にしてあるんださうだが、帳場へ來てお誂へを通すのに、「ほんごぶになま二イ」と通す。と此を知る者一人もなし。で、誠に困つてる。
と、又、或時その女中が、同じやうに、「れいしゆ。」と言つた。又分らない。「お早く願ひます。」と又女中が言つた。
するとその娘が、「きいちやん、れいしゆあるかい、れいしゆあるかい。」と聞いた。
もと藝妓のきいちやんが、もう一人の手傳ひに向つて、
「あ、早く八百屋へおいで、」と言つた。女中が、
「八百屋へ行つて何うなさるんです。」
きいちやんが、
「だつてあるかないか知らないが、八百屋へ行つたらばれいしゆがあるだらう。」
女中は驚いて、
「冷酒の事ですよ。」
冷酒と茘枝と間違へたんですが……そんなら始めから冷酒なら冷酒と言つてくれれば可いのにと家内中の者は皆言つて居る。又その女中が「けいらん五、」と或時言つた。而して、それは、その、きいちやんたるものが聞きつけて、例の式で、「そんなものはない。」と言つたが、これは教育のある娘が分つた。
「ね、きいちやん、けいらんツて玉子の事だね。」
すると又きいちやんの言つた言葉が面白い。
「そんな奴があるものか。」
「だつて玉子屋の看板には何と書いてある?」
「矢張りたまごと書いてあるだらう。」と云ふんです。
……今の鍋下、おしたぢを、むらさき、ほん五分に生二なぞと來て、しんこと聞くと悚然とする。三つ葉を入れないで葱をくれろといふ時にも女中は「みつなしの本五分ツ」といふ。何うも甚だ癪に障ると、家内中の連中がこぼすんです。
而して、おしたぢならおしたぢ、葱なら葱、三つ葉なら三つ葉でよからうと言つて居る。
――も一つ可笑な話がある。鳥屋のお客が歸る時に、娘が、「こんだいつ被入るの。」と言ふと、女房が又うツかり、「お近い内――」と送り出す。
明治四十五年五月
| 0.368
|
Medium
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| 0.014
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| 3,653
|
○
伊勢の白子浜に鼓が浦という漁村があって、去年からそこに一軒の家を借りまして、夏じゅうだけ避暑といってもよし、海気に親しむといってもよし、家族づれで出かけていって、新鮮な空気と、清涼な海水に触れてくることにしています。
ことしも松篁夫婦に子供づれで出かけましたが、この漁村にも近年ぼつぼつ避暑客が押しかけてきて賑やかになるにつれて、洋風の家なども眼につくようになりましたが、今、私どもの借りている家は、むしろ茶がかりのやや広い隠居所といった風の家でして、うしろには浅い汐入りの川が流れてい、前には砂原を隔ててすぐ海に面しているところです。
うしろの川には小魚が沢山泳いでいて、子どもたちは毎日そこで、雑魚掬いや、蟹つりに懸命になっているのですが、水はごく浅くて、入ってみてもやっと膝っこぞうまでくらいのものですから、幼い子供たちにも、ごく安全なのです。
松篁は方々写生をしてあるいていました。かなりノートも豊富になったらしい様子で、当人は満足しているらしいのです。
日中でも、そう暑苦しいと感じたことがないのですから京都や大阪あたりからみると非常に涼しいに違いありません、この点は十分恵まれた土地です。もっとも僻村なのですから格別に美味しいものとか、贅沢なものとては一つもありませんが、普通一と通りの魚類は売りに来ますし、ここの海でとれとれの新鮮なものも気安く得られますので、その日その日のことには、決して不自由などは感じません。しかし美味しいものが食べたくなれば、ちょいちょい京都へ帰ってくることです。私どもも時々京都へ帰っては、また出かけました。
○
鼓が浦には地蔵さんが祀ってあります。伝説によりますと、この地蔵尊は昔ここの海中から上がったとのことで、堂に祀ってあるそうですが、私はとうとういって見ませんでした。
このことは謡曲の中にもありますが、むかし、なんでもこの漁村の岸に打ちよせる波の音が、鼓の音のようにきこえたので、それで鼓が浦という名がついたのだということをきいています。
こんな伝説などは、むろん事実としては何の根拠もないことなのでしょうけれど、しかし、その土地に史話だとか、伝説などが絡んでいるということは、なんとなく物ゆかしくて、いいものです。
私はことに謡曲が好きなものですから、この鼓が浦にこうした伝説のあるということを、何よりも嬉しいと思っているのです。
○
去年の春の帝展には、あの不出品騒ぎで、私も制作半ばで筆を擱いてしまっていますが、すでに四分通りは出来ているのですから、今度の文展にはぜひこれを完成して出品したいと思っています。図は文金高髷の現代風のお嬢さんが、長い袖の衣裳で仕舞をしているところを描写したものです。私の考えでは、その仕舞というものの、しっとりと落ちついた態勢を十分に出したいと期して筆を執ったもので、舞踊とか西洋風のダンスなどの、あの華やかな姿勢に傾かぬように注意したものです。
仕舞というものは、とても沈着なものでして、些しの騒がしさなど混じっていないところに、その真価も特色もあるのですが、それでいて、その底には、張りきった生き生きとした活気が蔵されているものです。私はそこを描写したいと苦心しています。
私は最初、これを丸髷の若奥さまとして描写してみたのですが、若夫人では、すでに袖の丈がつまっていますからあの袖を、腕の上に巻き返した格好、あれが出来ませんから、あらためて、袖の長い令嬢にしたのでした。仕舞で、袖を上に巻き返したあの格好、あれはとてもいい姿だと思います。
この図を思いついたのは、私がときどき仕舞拝見に出向いたおりに、よく令嬢や若夫人たちが舞っているのを見かけることがありますので、そこにふかい興味をもったからでした。
○
先年、ある作家の描いた仕舞図がありましたが、その図を見ますと、その扇の持ち方に不審な点がありましたので、私はそれを金剛巌氏にきいてみたのでしたが、金剛氏は「それはいけませんな、そんな持ち方などしたら、叱られますよ」といっていられました。
しかし、それは他事ではありません。今度は私自身がその仕舞図を描くことになったのですから、そんな前車の轍をふまないように注意しなくてはいけないと思って緊張しているのです。
仕舞というものは、名人の話によりますと、小指と足の裏に力がはいるようにならないと、まだモノにならないものだそうです。名人のいうことですから、それに相違はないであろうと思いまして、私の今度の仕舞の図にも、十分その心持を取入れて、なるべく、作家としての私自身の考えを、完全に近いものに仕上げようと自分だけは期しているのですが、さあ、果たしてどんなものになりますやら――
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Hard
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とにかく人が大好きだ
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バスルームは廊下の突き当たりにございます。
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(一)
四十年も前の事である。母に死なれた子供達はその父に連れられて凾館から祖父が住む信州に、倅に後添が出来た、孫共は祖父に連れられて再び凾館の倅へといつた次第で、そのをりの私の祖父の手帖に綴ぢた道中記には、確松島見物の歌などもあつた筈ではあるが、東北の人に東北は始めてですかと聞かれれば、始めてですと答へるよりほかにないその東北に、其の一つ一つが珍しい旅をすることができた。尤も私が歩いたのは単に花巻、盛岡、滝沢の範囲だけである。
――▲――
私は最近坪田譲治から宮澤賢治といふ名を始めて聞いた。書店は私に宮澤賢治全集、宮澤賢治名作選、注文の多い料理店等の本を呉れた。また賢治の絵といふものが、東京から盛岡にかけて幾点かある事も聞かされた。
しかしながら自分のやうな者は、本来安井曾太郎と中川一政の二人を偉いと思つてゐればよいので、正直なところ宮澤賢治の故郷花巻のはづれや、盛岡から二つさきの滝沢の放牧場で、向ふの山の麓、あれが啄木の出たところですと人々に指さし教へられても、これはなかなか戦国時代だなあと腹の中に呟きこんでゐたのである。
私はただ、「風の又三郎」の作者を生んだ土地を見、かたがたその又三郎を入れるのに適当な学校を探すため、遥々奥州へも下つてみたのである。
――▲――
斯う書けば、宮澤賢治の敬愛すべき父母、またよきその弟、また数箇かの賢治の会、この賢治の会には、賢治が彼の意図のコンパスを拡げて土を耕し小屋を建て、その小屋に童共を集めてグリムやアンデルセンの物を聞かせてゐたと聞く、当時の童が今日は齢二十四五、農学校に教諭として彼を持つた生徒等の齢は三十三四、斯ういつた人達もゐるであらうに、私の感情が冷たいとの誤解があるかも知れない。
――▲――
私が又三郎を入れる学校は、彼宮澤賢治がその作物を盗みぬかれてゐたその一つ一つの跡へ、薄の穂を一本づゝ揷しておいたといふ畑の横を流れてゐる北上川の渡を渡つて行つた島分教場であつた。
島文教場は児童の在籍数
といふ学校である。
読者はこの学校の所在地を貧弱なものとして考へるかも知れない。私も見ないうちはさう考へてゐた。見ればその部落は甚だ綺麗で、作物も立派であり、家々は少くとも私の家よりは堂々としてをり、そこで豊かに落ついた静かな暮しが想はれるのである。
それに戸毎の戸袋には意匠がほどこしてあるのである。一軒の家に殊に立派なものがあつた。私は一寸見た時始め仏壇が戸外に安置されてゐるのかと思つた。漆喰でかためたものであつた。私の興味は花巻に残つてゐる足軽同心の家よりもあの部落の戸袋に残つてゐる。
(三)
盛岡といふ所も甚だ愉快に思へた。私を愉快にしたのは何も賢治の会の方方ではないのである。私は公園で、オホコノハヅクと梟を楽んで見た。盛岡の高橋さんは私に教師の手帖といふ随筆集を呉れた。高橋さんの随筆集を読めば、梟は善い鳥ではないらしい。しかし、小桶の中に入つては水を浴び、まづ鉄砲玉のやうな目をきよとんとさせては、ぶるぶると羽根をふるはせてゐる梟の顔をみてゐれば、飽きもせぬたのしさに時をすごすものである。
盛岡は明るいユウモワがある土地である。案内役を買つて呉れた高橋さんの兄さんの小泉さんの家に一夜の宿を借りたのであるが、翌朝の私は鳶の声で目が醒めた。寝床に起きなほつて枕の被ひの手拭に目を落すと鷹匠町精衛舎といふ文字が染出されてゐたのである。鳶に鷹がこれほどぴつたりこやうとは思ひもつかなかつた。
――▲――
馬賊髭を生やしよく乾燥した、つまり筋肉が引きしまつて精悍な小泉さんは、滝沢の種畜場に電話をかけて馬車の交渉をして、私を滝沢の放牧地へ連れて行つて呉れたのであるが、南部の鼻まがりに対し何とかのまがり家といつて、居ながらに馬ツ子に注意ができるやうになつてゐる民家を見ながら、相当の距離を走つてゐた時であつた。私達男ばかりがざつと十人も乗り込んでゐる馬車をたつた一人の男が止めたのである。
私は何かと思つた。誰れかが馬車を止めた。相当の年配をした堂々たる体躯の其男に銭を渡した。するとその男が馬車を離れて、馭者が馬に鞭を加へた。
馬車の後ろに席をとつてゐた私には、その男が何者であるかを了解できなかつたのであるが、馬車とその男の間にへだたりができて始めて、股引もなく半纏だけで膝を叩いて笑つてこちらを見送つてゐる、その膝のところに偉大なる物が笑つてゐるのを認めて一切を了解した。私は馬を見にきて馬を見ずに馬のやうな奴を見たと言つた。するとそれ迄は一言も言はなかつた皆が急に陽気に笑つた。ことによると、人々が東北健児の物のサンプルと思はれては困ると心配してゐたのかもしれない。
――▲――
私は私達のその日の愉快なピクニツクで、始めて馬も喰はぬといふ鈴蘭に赤い綺麗な実があるのもみた。馬車の馬も車を離れて飛び廻つての帰途、夫人子供を連れた知事が、朝滝沢の駅から種畜場迄私達を運んだ馬車に乗つて後から駆けてきた。知事に先に路を譲つた私達に知事は目礼して行つたが、私達は知事もやはり偉大なる魔羅に喜捨をとられたであらうと笑ひながら心配してゐた。
以前の場所に以前の男が矢張りゐた。既に喜捨をした一行とみて今度は近よりかけてやめてしまつた。実話雑誌の社長といふものは私達と違つて何でも知つてゐるらしいが、私達が、知事は夫人子供の手前二十銭もとられたらうと騒いだといふ話をしたら、一度見たい、盛岡までは自分はよく行くからと言つてゐた。謹厳な坪田譲治でさへもが、井上友一郎を励ます会に出席してこの滝沢の傑物の話を伝へ人々を喜ばせたさうである。
男子は須からく男根隆々たるべきか。(了)〔『都新聞』昭和一四年一二月一五・一七日〕
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Hard
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野依秀一氏
この人は、思つたよりも底の浅い人です。正直で小胆な処があります。子供らしい可愛さがあります。此人は何時でも予想外な突飛さで人をおどかして、その隙に飛び込んで来やうとする人のやうに思はれます。殊にその突飛さが非常に不自然なと云ふ範囲を何処までも出ないので、少し落ちついてあしらつてゐますと、馬鹿気きつた空々しい処があります。
思つたことを遠慮なく云ふことは気持のいゝ事です。野依さんは真実さう云ふ気持のいゝ処がありますが、ともするともう一歩進んでそれを殊更に衒ふやうな傾きがあつて馬鹿々々しくなつて来る事があります。併し野依さんが自分ひとりいゝ気になつて、とんでもないことを、喋舌つてお出になつても少しも反感が起つて来ないのは不思議です。けれどもそれは或は反感を起す程度にも相手を引き立てゝ考へないからかもしれません。非常に可愛らしい処のある気持のいゝ人ですが気の毒な事には、その唯一のおどかしは凡ての人に役立つ丈けの深味も強みも持つてゐません。随分世間には氏を悪党のやうに云つてゐる人もあるけれども決して悪党でも何でもないと思ひます。悪党処か善人なのだと思ひます。善人が頻りに虚勢を張つてゐると云つた格です。
氏の顔から受ける印象から云つても決してすれつからした悪人じみた処はないやうです。氏の眼は何時でも笑つてゐます。そのひたいは陽気に光つてゐます。陰影と云ふやうなものは殆んど見ることが出来ません。たゞ大変に快活な可愛らしい処のある顔です。態度から云つても悪人と呼ぶだけの落ち付きもしぶとさもありません。何時でもやんちやな小僧のやうに浮ついてゐます。私には何処から云つても悪人らしい印象は少しも受ける事が出来ませんでした。野依さんの頭はまた、決して立派なものではなささうです。話してゐる相手と云ふものに就いて非常に考へなければならないやうな場合にもさう云ふことには全く無頓着のやうに見受けます。相手がどの程度に自分の話を受け取つてゐるかと云ふやうな事を少しでも考へると云ふことは殆んどない事と考へられます。それが野依さんの貴い所でまた抜けてゐる処だと思ひます。そのくせ話すときに、何処までも相手を釣つて行かうとしたり、あてこみがあつたり、絶えずしてゐます。処がその技巧が非常に下手で何処までも相手に見透されるやうな拙劣さです。併し御当人は一向平気のやうです。私が会つた時にも初めから終りまで何かしら私の困るやうな突飛な質問を発してその答へを種々に待ちかまへてからかふつもりだと云ふことは明かによめました。さう云ふ気持で一つ〳〵の問を聞きますと実に馬鹿々々しくなつて来て仕舞ひました。私は再び会つてその空々しさを耐へる気にはとてもなり得ません。もう少し本当に悪人であることを私は望みます。その方が会ふにも話をするにもずつと気持よく取り処があると思ひます。野依さんに、もつとしぶとい腹があつたらと思ひます。また深味と強みが態度の上に出て来るといゝと思ひます。さうしますとあのふわ〳〵した何の手ごたへもない大言が、もうすこしはしつかりした力のあるものになるでせうと思ひます。私は善人の虚勢はいやです。いつそ、それよりも、本当の悪人が好きです。野依さんは、どうしても善人です。子供らしい無邪気と向不見な勇気をもつてゐる人です。人から好かれると云ふのはその点より以外にはないやうです。
私は野依さんに一度きりしか会ひません、一度あつた位の印象はあてには決してなりません。私の迂濶からどんな大事な処を見おとしてゐるかもしれませんがまづこの位の処です。私自身で感じた事だけはそのまゝに書いたつもりです。
中村孤月氏
私が竹早町に居ました時分此の指ヶ谷町の家を見つけて明日にも引越さうとして混雑してゐる夕方私の名を云つて玄関に立つた人がありました。紡績飛白の着物を裾短かに着て同じ地の羽織で胸方に細い小い紐を結んだのがそのぬうと高い異様な眼の光りを持つた人には非常に不釣合に見えました。その人は鳥打帽をぬいで私が「どなたです」と云ふのに答へて早口に「中村孤月と云ふものです」と低く答へてそれから話をしたいと云ふのでした。私は孤月と云ふ名をきくとその玄関の格子を一尺ばかり開けて無作法にその柱と格子に曲げた両腕を突つかつて其処に体の重味をもたして気味の悪い眼付きで私を見てゐる人をぢつと見返しながら急に反感がこみ上げて来ました。併し何か物に臆したやうな何処かおど〳〵したやうな物馴れないやうな調子にいくらか心をひかれながら、いま取り込んでゐるから引越しをした後に尋ねて欲しいと云ふことを云ひました。そうして引越しをしたら直ぐに通知をしやうと云ふことを云つてその人の宿所を聞くと矢張り早口に云つてしまふと体を格子からはなしてガタンと閉めて門を出て行つて仕舞ひました。
一二年前に始終物を評する度びに他人の悪口を必ず云つた人、それから早稲田文学に、「さうすることを思つた」「何々を思つた」と云ふやうな妙な創作を出した人としてもよく私は覚えてゐました。そして私はずつと前の青鞜でその人のことを反感のあまりにこつぴどく批難したことも確かに覚えてゐた。それが幾度も、その人の不法な批評が私達のグループで話題になつたりしたこともありました。私はこの寒中に足袋もはかないで、ぬつと私の前に立つた孤月氏の気味の悪い眼付きと格子戸にもたれて無作法に口をきかれた様子にすつかりその人が、何だか恐くなつたのでした。それから此処に引越してから私は約束どほりに、はがきを出しました。すると、朝早くまだ私が食事の支度の最中に来ました。私は大変当惑して仕舞ひましたが、それでも断はれずに会ひました。私の反感はなをと強くなりました。何かこちらで云ふのをジロリとあの気味の悪い本当に気違ひじみた眼――で見られるのに一々ゾツとして私は体がふるえる程いやでした。この人は口をハキ〳〵きかないのも嫌でたまらない私の神経を焦立たせました。頑丈なやうなかぼそいやうなちつとも落ちついてゐない長い体がまた私の気になりました。体を変にひねつて物を云ふ癖が非常に目立ちました。語尾を消すのもそれから何か云ひかけて途中で切つてしまつたりするのも一つ〳〵私は気にしないではゐられませんでした。初めての時に、私はこの人を非常に神経の鋭い同時にまた思ひ切つて鈍な半面があるのを見のがせませんでした。頭の透明な処があるかと思ひますとまた何か少しも解らないやうな処があるやうな気がしました。幾度も〳〵会う内にそう云ふ点がだん〳〵に私にはつきり会得が出来て来ました。併し非常に人のいゝ処もだん〳〵出て来ました。けれどまた其処が私にはなをのこといやになりました。何時も人の顔色を見て話すと云ふことは私の大変きらいな事の一つであります。孤月氏に、よくそんな態度が見えること、それから執拗らしい処もいやでした。私は自分の性質として、すべてに淡泊な黒白のハツキリした云ひたい事でもずば〳〵云へる人が好きです。孤月氏は私の最も厭やな部類に属する人でした。この人のすることは一つ〳〵私の気に障らないことはありませんでした。孤月氏はまたそれをよく知つてゐられました、で其後用があつても何時でも大抵格子の外から用をたしてゆきました。けれどそれがまた私の気に入りませんでした。これは要するにどう云ふことをしても私の気には入らないことになるのでした。けれど私はそんなに孤月氏を厭つてはゐましたけれども何時でも後になると向ふの人の真実をふみつけにしたやうな不快な自分の態度を責めました。私はたゞ孤月その人から受ける直接の印象が徹頭徹尾いやなのでその人から離れてゐれば別に何でもないのでした。ですから私の眼の前に孤月氏が姿を現はさなければ、私は何時でもその人にさう不快なものを持たなくても済むのでした。あの無気味に光る気狂ひを連想させる眼と、色の黒い痩せた顔と、細長い体単にそれ丈けでも充分私の神経をおびやかすに足るものです。その上にその動作が一つ一つ私とは全で反対でした。好きな人と厭ひな人をハツキリと区別をたてることの出来る程好悪のはげしい私には孤月と云ふ人は実に耐らない人でした。併しこの頃では馴れが少しは私の神経を和げました。それと、以前はこの人の云ふことに依つて何時でもこの一番私の嫌やな人とつながつて他人の口に上つたり聯想されることはなほ一層堪えがたい腹立たしさでありました。それが猶更私の神経を一層焦立たせました。けれどもこの頃は漸くいろ〳〵私のいやがるやうな処が少しづゝ失くなつて来たやうに思ひます。あんな気味の悪い眼付をすることがなくなり、それから、体をゆするくせも、また、妙にはにかんだやうに固くなつたりせずに、ゆつくりおちついて話が出来るやうになつた丈けでも私の張り切つた神経をゆるますことが出来たのです。併し孤月氏の足は非常に遠くなりました。そしてその方がずつと、不快なものがこだはらずにいゝのです。
甲州の女の方との交渉がどうなつた事ですか、私は終りに孤月氏がはやくその方の承諾を得て幸福な、健全な家庭生活をなさることを祈ります。それが、今一番彼の方を幸福にする事であるやうな気がします。
[『中央公論』第三一年第三号、一九一六年三月号]
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第一 韓非の傳
本書の著者韓非は、韓の公室の一族なり。其の人となり、吃にして辯説に拙なれども、文筆に長ず。李斯と與に荀卿の門に學ぶ。李斯其の才能の及ばざるを以て窃かに之を畏る。當時の氣運は、既に戰國一統の任務を、秦に與へたるの時にして、韓國は日に侵略せられ、其危きこと累卵の如き状態なり。然るに韓王(名は安)は法制を明かにして、臣下を御すること能はず、其の外交政略は、徒らに合縱連衡の説客に動かされて、一定の方針なし。韓非之を傍觀するに忍びず、數ば書を上りて之を諫めたれども、用ひられず。是に於て孤憤、五蠧、説難諸篇すべて五十餘篇を著はす。其文詞雄健峭直にして、頗る人情の機微を穿ち、時勢の肯綮に適す。秦王(始皇帝)偶〻之を覽て、大に其才を賞嘆して曰く、寡人もし此人と與に遊ぶを得ば、死すとも恨みずと。是に於て兵を發して韓を攻む。韓王始めて非の言の虚ならざるを知り、之を秦に派遣して、交渉の人に當らしむ。秦王之を悦びたれども、外人なれば未だ十分に信用せず。然るに李斯以爲へらく、韓非もし重用せらるゝときは、自己の地位を奪ふに至るべしと。乃ち姚賈と與に韓非を讒して曰く、大王は韓非を悦ぶも、本と是れ外國の臣なり、豈に我秦の爲に利を計るものならんや、さりとて之を本國に追ひ歸へさば、我秦の状況を泄らすに至るべし、法律に照して之を誅すべしと。(姚賈と韓非との關係は戰國策秦策下を見よ)秦王之を聽きて獄に下し、其罪跡を審判せしむ。韓非自ら陳疏せんとするも、李斯は之を隔てて上聞に達せしめず、且つ毒藥を遣りて其自殺を諷す。秦王後に悔い赦命を下ししも、韓非すでに死したり。其年月詳かならずと雖も、大略秦王の十三年頃にして、西暦紀元前二百三十四年に當る。
第二 韓非子の由來
前述の如く、韓非は孤憤以下十餘萬言を著す、之を韓非子又韓子と稱す。漢書の藝文志に五十五篇となし、史記本傳の正義には、阮孝緒の七略を引いて、二十卷となす、今の通行本二十卷五十五篇と相合す。但し最初の初見秦、存韓及び卷末の忠孝、人主、飭令すべて五篇は、學者或は韓非の筆に非ずとなす。初見秦の文は戰國策秦策に載せたる張儀の建言と、大同小異なるも、文中には張儀以後の事實あれば、果して同人の筆なるや明かならず。故に或は曰く、是れ韓非が先づ秦王の歡心を得んが爲に上りたる者にして、存韓に於て、始めて其の眞意を發揮したるものなりと。之を要するに此二篇は趣旨に於て矛盾し、且つ篇末に「詔以韓客之所上書云云」の敍事ありて、李斯が之に對する駁論をも併載せし者なれば、後人の補綴に出でたること明かなり。又忠孝篇は老子一派の説を駁撃して、韓非子の持論と相合せず、人主篇は韓非子の諸篇を割裂補綴し、飭令篇は商子犿本は、其二篇を佚し、明の趙用覽に至り、更に宋本を得て、缺を補ひ誤を正して舊本に復したり。註釋書は近人王先愼の韓非子集解出づるまでは、支那に於ても觀るべき者なし。然るに我邦に在りては荻生徂徠の讀韓非子、太田方の韓非子翼毳、蒲坂圓の増讀韓非子、韓非子纂聞等皆學者の參考に供するに足る。荻生氏の著は刻本多きを以て得易きも、太田蒲坂兩氏の著は、是まで稀覯の稱あり。近時富山房の漢文大系を編するや、服部博士之を校訂して、始めて世に流布するに至れり。其他藤澤南岳の韓非子全書、津田鳳卿の韓非子解詁、松平康國氏の韓非子國字解皆な善本にして、初學者の階梯と爲すに足る。
第三 韓非子の思想
韓非子は支那哲學史上に於て法家に屬するの人なり。(法家の事に就ては本叢書管子の解題を見よ)其思想は實に史記の本傳に論ぜし如く「刑名法術の學を喜みて其の歸は黄老に本づく」の數言に出でず。今之を論ずるに先だちて、少しく當時の状況を述べんとす。 支那戰國時代は周室の法典制度全く崩壞し、門閥の積威も自ら衰へ、各國各人皆な實力を以て競爭するの状況なり。且つ又當時の列國は、外交問題常に重要なる位置を占め、如何なる國も皆之に苦慮焦心せざるはなし。是に於てか蘇秦張儀以來の合縱連衡は、各人により唱道せらる、之を遊説の士又は説客といふ。此等の説客は一定の君主なく、朝に楚に仕ふるも夕には趙に臣たり。其目的は唯自己の富貴權力にして、其の眼中國利なく民福なし。其の太甚しき者にありては、間牒となり、或は僞りて諸國の臣となる、張儀の楚に於けるが如きは、其の適例なり。然るに當時の人主は多く暗愚にして一定の識見なく、徒らに彼等の博辯宏辭に欺かれて、政策を變更し、遂に大事を誤るに至る。更に彜倫道徳の方面を見るに、臣にして君を簒ひ、子にして父を弑する者、日に益多く、如何なる諸侯の宮庭にも暗鬭行はれざるなし。臣下は徒だ君主の意を迎へて、其の厚祿重賞を貪り、機會に乘じて其の國家を簒奪せんと欲す。田氏の齊に於ける、子之の燕に於ける、其適例にして、忠義の觀念は全く拂ひ去られ、唯だ利あれば從ひ、利なければ去るの風なり。又社會の師表となり、風紀を維持すべき儒者墨者の徒は、唯だ堯舜時代の古典を主張し、仁義を喋喋す、是れ恰も盜賊に對して正廉慈善を説かんと一般なり。其言う所美なるも、實効の擧らざるを如何せん。然るに君主多く之を知らずして、徒らに其言論を喜び、虚名を慕ひ、仁義忠孝を以て實際に有效なりとす、迂闊亦太甚しといふべし。韓非子は平生此等の事實を熟知したれば、自ら其胸中に、第一、説客辯士の有害無益なること、第二、學者の高務に馳せて、實論に暗きこと、第三、臣下の奸妄にして、厚祿大官を貪ることを信ず。然らば則ち之が矯正策は如何にすべき、唯だ法律を嚴守して、賞罰の大權を振ふに在るのみ、此運用法を刑名法術といふ。
第一、刑名とは何ぞや。刑名は形名なり、今卑近なる一例を擧げんに、人あり、君主に建言して曰く、我言を聽かば、歳入一千萬圓を増加せんと。是れ即ち名なり、論なり。君主之に財政を擔當せしめんに、果して其の言の如く、實効を擧ぐるときは、之を刑名相當るといひ、然らざれば刑名相當らずといふ、故に刑とは實行なり、事實なり。而るに相當らざるに二種あり、一は則ち一千萬圓に達せざること、他は則ち之を超過することの場合なり。此際前者の咎むべきは論なきも、後者は寧ろ其成績優良なれば、之を賞すること、常理なるべし。然るに刑名學より論ずる時は、後者と雖も、其相當らざるに於ては同一なれば、齊しく之を罰す。又茲に二人あり、一人は文部大臣にして、一人は陸軍大臣なり。然るに後者もし職務を怠りて、國家に危難を及ぼさんとする場合に、前者は之を傍觀するに忍びず、代りて其事務を補助する事あれば、後者の罰すべきは論なきも、前者は寧ろ臨機の處置を執りたる者となして、之を賞すること、常理なるべし。然るに刑名學より論ずるときは、前者と雖も之を罰す。何となれば臨機の處置即ち實と、文部大臣といふ名と相一致せざればなり。又茲に法律の正文あり、曰く「人を殺す者は死刑に處す」と、然るに同一の殺人刑と雖も、其原因動機に至りては種々あることなれば、司法官たるもの、宜しく之を調査審斷して、自ら輕重寛嚴の差等を設くること、常理なるべし。然るに刑名學よりいふとき、其の原因動機の何たるを問はず、盡く一律に之を判して死罪となす、即ち法律の正文なる名と、殺人といふ實との一致を主眼とすればなり、之を刑名參驗又は刑名參同(主道第三)といふ。
第二、法術とは何ぞや。第一、法は法律にして、國民臣下に公平にし、之によつて賞罰を定む。君主の君主たると否とは、此大權を有ると、有せざるとに在り。君主は一人にして、臣下は多數なるも、なほ一は命じ、一は服する所以は何ぞや、他なし、賞を喜び罰を恐るればなり。君主にして之を失するときは、虎の爪牙を去るが如し、犬猫と擇ぶなけん。(二柄第五)故に商鞅之を以て秦國を治め、大に治績を擧ぐ。第二、術とは君主が臣下を御するの心得をいふ。前述の如く、臣下は常に君主に迎合して、以て其の位地を固くするを勗め、苟くも隙あれば、直に之に乘じ、始めは君主を悦ばしめて信任を博し、漸次に其大權を竊むに至る。故に君主たる者は常に警戒して臣下に臨み、あらゆる手段を應用して、其の正邪善惡を洞察せざるべからず。されば君主もし文學を好めば、臣下たとひ之を好まざるも、皆詩を賦し文を作る。君主もし撃劒を好めば、臣下たとひ之を嫌ふも、皆兵を談じ武を講ず、萬事皆然り。世の人君之を知らずして、眞に文學を嗜み撃劒を好むとなして、之を寵任し、遂に其の聰明を擁蔽せらるゝに至る。故に人君たる者は、其の好惡を臣下に示すべからず、其の胸中を臣下より見すかされず、闇々冥々の中に其身を沒し去り、唯だ臣下の行爲如何によりて、賞罰を下せば可なり。之を例するに、老猫の猾鼠を捕ふるが如し、先づ埋伏して見ざるまねし、聞かざるまねし、以て其の跳梁を俟ち、疾風の如く、一擧に之を咬殺するは老猫の伎倆に非ずや。韓非子の先輩たる申子は、すでに之を用ひたり。之を要するに法術の二者は、相須つて始めて内は君權を強くし、外は國威を張ることを得。
其三、黄老との關係。前述の如く史記に刑名法術を以て黄老に本づくとなししは如何。黄老(即ち今日の老莊に同じ、秦漢時代にて黄老といふ)の説には、虚無因應を主とす。以爲へらく耳目の慾を黜け、學識知能を絶ち、靜かなること秋水の如く、明かなること明鏡の如き心もて世に處すれば、宇宙の眞理を達觀して、之と一致することを得べし。所謂容貌愚なるが如きを以て、聖人となすなり。韓非子は此の態度を君臣の間に應用したる者なり。なほ韓非が如何に老子を解釋したるかは、解老喩老の二篇を見よ。
第四 韓非子の批評
其一、荀子と韓非子。戰國時代に生れたる韓非子が、社會の暗黒方面のみを見て、君臣の關係も父子の關係も、歸する所は利害問題なり、俚諺の所謂「人を見たら泥棒と思へ」といふが如く、如何なる人も信用すべからずとなしたるは、已むを得ざることなるが、更に其の學統を尋ねて、荀子を師としたるを見る時は、決して其の偶然の結論に非ざるを知るべし。荀子は孟子の性善に對して性惡を主張し、之を矯むるが爲に、聖人出でて禮を定めたるを論ず。韓非子が人を專ら利己的と認めたるは、則ち性惡説より來り、其の法の尚とむべきを述べたるは、禮より來りたる者なり。又韓非子の説難は、文學上不朽の文章にして、其の人情を穿ちたる點に於ても極めて犀利なる者なるが、此粉本は、既に荀子非相第五に出づ。曰く「凡そ説の難きは至高を以て至卑に遇ひ、至治を以て至亂に接するなり」と。
其二、始皇帝が韓非子を悦びし所以。秦國は商鞅以來、富國強兵を目的とし、國家至上主義を執り、法治主義を行ふ。由來秦國は春秋時代よりして、稍や列國と異なる色彩を有し、武力を以て著はる。故に往々目的の爲に手段を擇ばざるの國なり。されば左傳襄公十四年に、秦人が涇水の上流に毒を投じて、敵人を殺したるを記す。戰國に至りて孝公商鞅を用ひ、酷法を以て臣下に臨むこと、恰も「スパルタ」に於ける「ライカルカス」の如し。今商鞅の著書商子を讀むに、賞罰を正し、耕戰の士を賞して、商工を却け、文學を賤みたるは、全く韓非子の先驅たり。彼は國家の爲に、如何なる犧牲をも拂ひたるものにして、彼の前には條約もなく仁義もなし、故に魏の太子を欺むいて之を捕へたるが如きは、其の一例なり。如此き武斷的政策は、益〻發達し、昭王に至りては或は楚の懷王を欺き、或は趙を脅かして、和氏の璧を奪はんとせしが如き事あり、其の六國を滅す手段も、多くは流言を放ちて其の君臣を間疎し、或は臣下を賣收し、或は暗殺を行はしむ、されば虎狼の秦とは實に當時の流行語なり。然るに韓非子の所論全く商鞅と一揆に出でて、秦の傳統的政策と一致するものあり、其の眼中には君主あるのみ、國家あるのみ、然かも其國家は偏武的にして、壓制的なり。秦始皇が海内一統の後、苛法を施き書を焚き儒を坑にせしは、李斯の言の聽く所なりと雖も、韓非豫め之が素地をなしたる者といふべし。
其三、韓非と「マキアベリー。」韓非が國家至上主義を唱へ、且つ君主の心得即ち術を細説したるは、頗る「マキアベリー」に似たり。其の「プリンス」(近時興亡史論刊行會に於て本書を譯し君主經國策といふ)の第十五章より第十九章に至るまで數章は、要するに君主に僞善矯飾の必要なるを説きたる者にして、其の前提は人心を以て、專ら利己主義的なりとするに往り。韓非子が老子の説を應用して君主に勸むるに見るも見ざるが如く、知るも知らざるが如くして、只管に臣下の擧動を注意すべしといふは、是れ亦一種の矯飾にして、人を欺くの太甚しき者なり。なほ韓非子一派の政治學説と近時の「トライチケ」との對照に至りては、余既に之を丁酉倫理會雜誌に公表したれば、今之を省略す。
其四政法と道徳との區別。何れの國を問はず、政治法律と道徳とは古來皆混一せられたる者にて「プラトー」の「レパプリック」又は孔孟の學説皆然らざるはなし。然るに西洋に於て、此二者の間に截然たる區別を設けたるの端緒は、實に「マキアベリー」より始まる。韓非子も亦此點に於て、頗る見るべき者あり。彼は孝子必しも忠臣ならず、義士必しも愛國者ならざることを論じたり、儒教に於て、親の仇を不倶戴天となし、之を復するを人子の義務と認めたるも、韓非よりすれば、私鬭の一種なるべし、固より韓非に此の實例あらざるも、五蠧顯學諸篇に於て「君の直臣は父の暴子なり、父の孝子は君の背臣なり」といひ、又私鬭を禁じ儒侠を却けたるを見るときは、少なくとも儒教は所謂「忠臣は孝子の門より出づ」といふ如き思想と、相反する者なきに非ず。是く道徳と政法との間に差違を設けたるは、實に一種の卓見なりといふべし。又韓非子が五蠧篇に於て人の道徳的觀念が、經濟上の變遷により、自ら相異ある者なるを論じ、「マルサス」の人口論に似たる口調もて人口の増加を述べ、人生は畢竟競爭なりと斷じ、古今を一括して「上古は道徳に競ひ、中世は智謀に逐ひ、當今は氣力に爭ふ」となしたるは、既に國際聯盟などの空想に過ぎざるを知るに足るべし。若し韓非子をして今日に生まれしめば「當今は資本に爭ふ」と云はんとす。何となれば、武力的帝國主義は既に過ぎ去りたるも、資本的帝國主義は宇内の大勢を左右して、正義公道の行はれざること、なほ二千年前の外交と異なるなければなり。
小柳司氣太識
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最近二ヶ月ぶりで東京へ出た。用事もあるにはあつたが、その傍ら噂に聞くのみであつた数度に亘る空襲の被害をこの眼でちやんと看ておきたかつたのである。
一方から云ふと聞きしにまさる惨状であるが、また一方から考へると、これが当り前といふ気もする。もちろん到るところ完全な焼け跡が目につくばかりで、空襲当時の不安と混乱と市民の敢闘ぶりは想像の及ばぬものであつたらう。
焼野ヶ原の、その生々しい焼け跡のそここゝに、寄せ集めの材料でバラツクが建てられ、もう着のみ着のまゝの生活が始められてゐるのをみると、私の胸はひとりでに熱くなつた。
それにしても、東京は、まことに、空爆に対しては脆い街であつた。東京市民がさうだといふのではない。東京の都市計画と建築がさうなのである。それを今更気がついたとて何にもならぬが、この経験が教へるものは、単に「防空」といふ一点だけではない。わが国民の戦力のなかに、東京を始め、戦禍の予想外に大きかつた大都市の面影がありはせぬかといふこと、若し、それが無いとはいへぬとすれば、これはそのまゝほうつてはおけぬわけである。
わが信州には、時たま敵機の一二が姿を現はすにすぎぬけれども、その敵機が何を目論んでゐるかはわかる人にはわかつてゐる。「備へあれば憂なし」と云ふけれども、家財道具を運び出し、待避壕を掘り、形式的な防空訓練を繰返すばかりが備へではないのである。
私は、切に県民諸君に訴へたい、「備へ」の完からんためには、空襲を以てはじまる敵の侵寇に対して、国民戦力の基礎を急速に固めなほす必要があるといふことを。
国民戦力の基礎は、存外気のつく人は少いが、実は、われわれの日常生活に外ならぬ。一切の物質生活を超え、しかも、その物質生活を左右さへもする生活の精神面、人間の生き甲斐、働き甲斐、死に甲斐を意味する「その日その日の気持」の問題が、まさに決戦生活の価値を根本に於て決するものである。
私が特に、こゝで、「その日その日の気持」といふ云ひまはしをしたのは、それがたゞ、今日多くの指導者によつて叫ばれてゐる観念的な道義性を更に強調するのでないことを明かにしたいからである。
何よりも先づ、「その日その日の不安」を除かねばならぬ。不安はどこから来るかと云へば、信ずべきものを信ぜざるところから来る。われわれはどうしても、もつとお互を信じてかゝらねばならぬ。人を信ずるだけでなく、人をして信ぜしめよ。例へば、戦災者の数はいくらあらうとも、罹災を免れた国民全部が、これに温い手を差伸べれば、立ちどころに、もとの姿にかへれるではないか。
思ふに、今日の日本人ぐらゐ、他人の気分を尊重せぬ国民はない。自分はそれでゐて、人のすること、云ふことを、馬鹿に気にかける。そのくせ、相手にはうつかり不愉快なものの云ひ方をし、屡々平気で辛く当る。それが、もう一歩突きつめれば、政治の面でも、事務の面でも、生産の面でも、この一点が大きな波紋を描き、官民の疎隔、能率の低下に及んでゐる場合が意外に多いのを注意しなければなるまい。戦力とはかくも平常の力につながる。
まことに、「その日その日の気持」といふものは、自分だけではどうにもならぬやうにみえる。ところが、それをさう思ひ込むのはわれわれの教育のされ方にある。つまり、国民育成の機関と制度とに罪があつたのである。空爆に対して脆い大都市の面影が、そこにもあるではないか。
私はなにも好んで、われわれの弱点のみを挙げたくはない。戦災者のなかには、日本人ならではと思はれる恬淡な気分の持主もゐるし、込み合つた汽車の中でも、同胞なるかなと心の和むやうな風景をみせられることもある。
が、なにはともあれ、敵機は、空の中からも、仔細にわれわれの心理を偵察してゐることを忘れてはならぬ。
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Hard
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一
北の方のある村に、仲のよくない兄弟がありました。父親の死んだ後は兄は弟をば、むごたらしいまでに、いじめました。
弟は、どちらかといえば、気のきかない、おんぼりとした質で、学校へ行っても、あまり物事をよく覚えませんでした。だから、兄は弟をば、つねにばか者扱いにしていたのであります。
弟は気がやさしくて、けっして兄に対して手向かいなどをしたことがありません。いつも兄にいじめられて、しくしく泣いていました。
冬の、ある寒い寒い晩のこと、格別弟が悪いことをしたのではないのに、兄は弟をいじめました。
「おまえみたいなばかは、こんな寒い晩に外に立っているがいい。そして、凍え死んだって、俺はおまえをかわいそうとは思わないぞ。」と、兄はののしりました。
弟は、どうかそんなことはいわずに、家の中に置いてくれいと頼みますのを、兄は無理に弟を戸の外に出して、かぎをかけてしまいました。
家の外は、野にも山にも雪が積もっていました。その晩は、めったにない寒さであって、空は青ガラスを張ったようにさえて、星晴れがしていました。また、皎々とした月が下界を照らしていました。
弟は、雪の上に茫然としていますと、目から流れ出る涙までが凍ってしまうほどでありました。弟は、こんな不運なくらいなら、いっそ河にでも入って死んでしまったほうがいいと思いました。
いつのまにか、寒さのために雪の上は堅く凍っていました。それは鋼鉄のように、飛び上がってもカンカンと響くばかりで、埋まることはありませんでした。
弟は雪の上を渡って、河のある方へいきました。すると、河の水もまた鋼鉄のように凍っていたのであります。
身を投げて死のうにも、水がないし、どうしたらいいだろうと思って、途方に暮れていますと、はるかかなたに、きばのようにとがった高い山が、月に照らされて見えるのでありました。
昔から、あの山の下には、鬼が住んでいるといわれていました。
二
弟は、どうせ死ぬなら、いっそ鬼にでも食われて死んでしまったほうがいいと思いました。それにしても、何十里あるかわかりませんでした。
月光に照らされている、その遠い山影を望みますと、もし雪を渡ってまっすぐにいくことができたならそんなに遠くもないだろう。駆けて、駆けていったら、今夜の中にもいかれないことはないと思われました。
弟は、そう思うと、雪の上をひた走りに走りはじめたのです。河も野もどこも平坦な白い畳を敷き詰めたようでありましたから、どんな近道もできるのでありました。
彼は、駆けて、駆けて、駆けぬきました。そして疲れると、体から汗が出て、これほどの寒さもそんなに寒いとは思いませんでした。彼は、ところどころ休みました。そして行く手にそびえて見える高い山を仰ぎました。月の光が、かすかにその山を浮き出しているのでした。
弟は、ほとんど自分でも、どうしてこうよく走れるかわからないほど走りました。そして、どこをどう走ってきたかわかりませんでした。夜明けごろでありました。赤い火の球が自分の前になって、雪の上をころころと転げていきました。
彼は、これはなんだろうと思いました。きっと魔物にちがいない。けれどもう自分の命を惜しいと思いませんから、それをつかまえようといっしょうけんめいに跡を追いました。すると火の球は、ころころと谷底に転がり落ちました。
彼も、火の球について谷へ下りようとしますと、もはや夜が明けていました。そして、そこは路もないまったく山中で、あのきばのように高い山は、まだ遠くなって見えたのであります。
どうしたらいいかと思って、まごまごしていますと、その中に日の光がさしてきました。雪はしだいに軟らかくなって、弟は、もう一歩も身動きすることができなくなりました。
ちょうどそこへ、薪を負ったおじいさんが通りかかりました。そして弟を見つけて、こんなところに少年がいたのでびっくりいたしました。
三
おじいさんは、この山中にただ一人住んでいる不思議な人間でありました。弟は、おじいさんの小屋につれられてまいりました。
「こんな山中だけれど、なに不自由はない。長くここに住めば、春、夏、秋、冬、いろいろの美しいながめもあれば、楽しみもある。おまえはいいと思ったら、いつまでも住むがいい。」と、おじいさんはいいました。ふもとには、温泉もわいていたのであります。
そのうち雪が消えて春になりました。弟は、故郷が恋しくなりました。いまごろ兄さんはどうしていなさるだろうかと思いました。そのことをおじいさんにいいました。するとおじいさんは、木の実と草の種子を弟に与えました。
「この草の種子は、白すみれだ。おまえが、この種子をまきながらいけば、またここへ帰ってくるような時分に白い花が咲いているので路がわかる。この木の実は、おまえが腹が減ったときに食べるしいの実だ。」といいました。
弟は、最初、この山へくるときには、雪の上を渡って一夜にきましたけれど、雪が消えてからは、森や、林や、河があって、五日も六日も歩かなければ、自分の生まれた村に帰ることができませんでした。彼は、木の実と草の種子をもらって、出発したのであります。そしてある日の暮れ方、彼は、ようやく懐かしい我が家へ帰ったのであります。
「兄さん、ただいま帰りました。」と、弟はいって、敷居をまたぐと、なにかしていた兄は、びっくりして振り向いて、
「おまえは、まだ死ななかったのか。もうおまえみたいなばかには用事がないから、さっさと出ていけ。」といって、弟は、取りつく島がなかったのです。
「自分の真心がいつか、兄さんにわかるときがあろう。」と、弟は、一粒のしいの実を裏庭に埋めて、どこへとなく立ち去りました。
兄は、その後白すみれの花を見て、いじらしい花だと思いました。そして、弟の姿を思い出しました。また、しいの木に風の当たるのを聞いて、悲しいと思い、弟をいじめたことを後悔したそうです。
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Medium
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|
佐世保へいらっしゃるんですって、佐世男が佐世保にいくなんて、なんかおかしいですね――、オホホホホ。あなたさまは日本人でしょう、オホホそれならお行きにならない方がお幸せですわ。……雲仙の旅館の女中は手を振った……。日本人は相手にされませんよ、靴をみがこうとなさっても駄目駄目。
オホホホ、女の子ですって、それこそ鼻もひっかけませんよ。それは北海道の果からも美人がおしかけておりますけれど、あきらめなさった方が、およろしいですよ、なにも佐世保ばかりが女の都といったわけでもありますまい、オホホホ。この雲仙にも、温泉でみがかれた玉の肌の女がおりますわよ――それに高い山の上ですもの霞をのんで生きているような美しい仙女ですよ。およし遊ばせ。ほんとの美人はこのような仙境に、がいしておるものですわ、オホホホ。お買物ですって駄目! 駄目! 日本語ではなんにも買えませんよ、タクシー、とんでもない、およし遊ばせったら、悪いことは申しあげませんよ。私は佐世保にいったことはありませんが、お客様がそのように申しているのを聞いたばかりなのですよ。およし遊ばせったら、およし遊ばせ。
いやもう驚いた。この様子では、せっかく九州の旅をしているのに、佐世保だけがまるで、遠くはるかなる外国のような気がして、志気大いにくじけるではありませんか。
佐世保のステーションに着いたのは黄昏時で、なるほど、下車する人を見ると米軍の士官や水兵達が大きなトランクや袋なぞをかついで、赤帽達が大わらわである。この調子で行くと雲仙の女中さんの話もまんざら嘘でもないらしいぞ。ちょいと心細くなって外へ出ると、タクシーがあった。恐る恐る話しかけて見ると、
O・K・オーケー。
と、ドアーを開けてくれた。やれやれとシートに腰をおろして外をながめると、軍港時代は知らぬがなるほど街は白い西洋菓子のように色どられ、ネオンのチューブがまるで青空の動脈のように色々大空にそびえ、あちらの岡、こちらの山肌とまるでグリーンに白、赤い屋根、白血球と赤血球が群り集ったような異国風景、星条旗がへんぽんとひるがえっている。地球上も時々大きな変化が起って、色々な色彩にぬりかえられるものよ、長生きすれば、するほどまったく、とまどいをしてしまう。
「運転手さん、ここは日本人をまるで相手にしないといわれて来たのだが、ほんとかい」
と、聞くと、
「いや、そんなことはないですが、今はこのように、上陸する兵隊がまるで少くなったので、日本人でも結構相手にしますよ。盛りの時は、キャバレーなんかよりつけられませんな、何しろ外貨獲得で一生懸命でしたもの、日本人なんか相手にしませんでしたよ。しかしこの頃はこの通りでさァ――」
と、なんとなくしょげ切っている。山水楼という旅館に旅装をといたのだが、一風呂あびて部屋に帰ると、アアッと驚いた。スーツケースもスケッチブックも、何もかもなくなって姿はない。さて泥棒かと、女中さんを呼べば、
「ハイ、みんな御あずかりしております」
と、いうので、やれ安心。
「そんなに用心が悪いのかね」
と、聞くと、
「いや、お客様のお持ち物を大切にするあまりでございます。まことに失礼致しました」
と、いうのです。なんと親切な女中さんであろうと感心したものである。
なにしろ、アメリカの艦隊や輸送船の上陸が制限されましたので、佐世保もこのところ困っているのですよ。ここへ落ちる金は莫大なものでごわしてな、それが中絶されたのでまことに不安状態になってしまったのですよ、それに朝鮮の問題が休戦にでもなろうものなら、灯の消えたようになってしまうのですよ。この街の人達も大いに良心的になり、めっぽう高い料金を取ったり、とほうもない価格をつけたり、暴利を注意しましてな、大いに土地の発展に力を入れたいと思っておるのですよ、今までは派遣軍はここで一休みをして英気を養い、戦場に送り込む方式になっていたし、又、戦地で戦った軍人達が一度このところで戦塵を洗い落して行くという、しごくよろしい方式になっておりましたが、米本国の婦人連盟などが、それは若い者にあまり利益にならず、かえって恐ろしきSASEBOKINという菌はこまる……。
「チョッチョットお待ち下さい、そのサセボ菌というのは」
これは失礼しました。そのあのその……その菌というものは新たにキティ台風とか、何々台風とかいったように戦後現れたつまり新発生した菌でありましてな、これが米国本土の息子をもつ婦人連に問題になりまして、まったく汗顔の至りでございますが、これも何もこの土地ばかりが悪いのではなく、発生さした責任者の罪でございまして真にはや困ってしまったのでございます。まったく世の中というものはとんだ所で妙なものが生まれるものですなア――と聞かされたものです。
何時ともなく、この問題の夜の街に現われて見たのです。岡の上に絢爛と不夜城の如くそびえる、銀座にもめずらしいというキャバレーカスパの豪華な入口にユニフォームも素晴しいボーイに送られて、恐る恐る肌もあらわのダンサー達の中に座をしめたのですが、なるほど、天井も高くまるでこの世のこととは思えぬ美しいキャバレーで、ありとあらゆる洋酒のビンがまるで壁の柄の如く飾られ、数人のバーテンダーが腕をまくり、よきハイボール、カクテルをいざ作らん意気込みであるのですが、この向うの霞むような広いホールに二、三人の水兵さんが、ゆらゆらと腰をゆすってマンボ踊りかなんかをやっているだけで、なるほど灯の消えたような淋しさ。そのかわり外人専門のこのキャバレーでも、美しいダンサーに取まかれるというチャンスを得たこの旅人は、何が幸せになるかわからぬといった風に、ハイボールを心地よくのみほしているのである。
「私は北海道よ」
「私は東京よ」
「ミーは大阪」
「この頃東京の盛り場は、ど――オ」
「しごく盛んで景気がいいよ」
「帰りたいわ」
「モー、サセボも駄目よ」
「不景気なんですもの、私達には休戦が一番いけないよ」
私が東京へかえるのだというと、背のすらした銀色のイヴニングをピッチリ美しい姿体に張りきらした肉感的な女性が、
「こういう絵描きさん、知っている」
「知っているどころじゃない、飲み仲間だよ」
というと彼女は、すみませんがと手紙をたくされたのである。土地に不景気風が吹くと、思わぬところでメッセンジャーボーイなぞにさせられるものであるとつくづく考えさせられてしまったのである。
そういいますが、まだ夜の街は水兵で賑わい、まるで映画もどきのセーラーの喧嘩の華がところどころに演じられ、港サセボはなかなか華やかである。BARからキャバレーから夜の女の群へとさまよい歩いて見たのです。日本人専門のハーバーライトは、とてもこみ合って、港で儲けた旦那衆が美人を擁して踊りくるっていた。外人専門の米軍許可を得ている美妓のいる堀ハウスにもいって見たのである。愛らしい純大和撫子が蝶々さんのような和服を着かざったり、上海ドレスにきめの細かい雪の肌を包んで、若いアメリカ水兵さんのピンカートンぶりを愛していた。SASEBOKINもどこへやら、ここばかりは明るい光が窓に輝いている。なんとはなしに、かわいそうなお人形のようで、涙の人生のような気がしてならなかった。明るい夜の街、SASEBOも華やかに火花と輝いていますが、うごめいている人達は、なにか宿命のようなすてばちで、ただ暗い夜空をながめているようでならない。SASEBOは、朝鮮戦線の上り下りがまるで脈搏のようにはっきりひびいてくるのはなんとなく心細い様子である。新しく生きろよ、佐世保の港。歴史にのこる良港よ、もっと遠大な理想に生きてもらいたい。
| 0.538
|
Medium
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| 0.227
| 0.173
| 1
| 3,183
|
あの子はおかあさんといつも一緒だ
| 0.259273
|
Easy
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| 16
|
頭が過敏すぎると、口や、手足の働きが鈍り、かえって、のろまに見えるものです。純吉は、少年の時分にそうでありました。
学校で、ある思慮のない教師が、純吉のことを、
「おまえは、鈍吉だ。」と、いったのが原因となって、生徒たちは、彼のことを鈍ちゃんとあだ名するようになりました。
「ドンチャン、早くおいでよ。」
学校への往復に友だちは、こういったものです。しまいには、本名をいうよりか、仲間の間柄だけに、あだ名で呼ぶほうが、親しみのあった場合もあるが、そばを通ったどらねこに、石を投げるのが遅かったからといって、心から軽蔑した意味で、
「ドンチャンでは、だめだなあ。」と、いったものもあります。
彼は、自分より年下の子供たちからも、
「ドンチャン。」と、いわれることに対して、けっして、快くは感じなかった。ただ、黙っていたまででした。そして、自ら憤りを紛らすために、にやにや笑ってさえいました。だからいっそう、みんなが彼をばかにしたのです。
ときどき、純吉は、自分を侮る相手の顔をじっとながめることがありました。
「あの面に、げんこつをくらわせることはなんでもない。だが、己が、腕に力をいれて打ったら、あの顔が欠けてしまいはせぬか?」
そう、心の中で思うと、なんで、そんなむごたらしいことができましょう。しかし、相手が、いつも自分より弱い、年の少ないものとは、かぎっていませんでした。純吉よりも大きい力の強そうなものもありました。
すると、また彼は、思ったのです。
「おれは、負けてもけっして、あやまりはしない。けんかをしたら、命のあらんかぎり組みついているだろう。その結果は、どうなるのか?」
どちらかが傷ついて倒れるのだと知ると、彼は、そんな事件を引き起こす必要があろうかと疑ったのです。
西の山から、毎朝早く、からすの群れが、村の上空を飛んで、東の方へいきました。そして、晩方になると、それらのからすは、一日の働きを終えて、きれいな列を造り、東から、西へと帰っていくのでした。
彼らは、こうして、つねに友だちといっしょであったけれど、たがいの身を支配する運命は、かならずしも同じではなかったのです。中には、意外な敵と出合って戦い、危うく脱れたとみえ、翼の傷ついたのもあります。
この不幸なからすだけは、みんなから、ややもすると後れがちでした。けれど、殿を承ったからすは、この弱い仲間を、後方に残すことはしなかった。なにか合図をすると、たちまち整った陣形は、しばし乱れて、傷ついたからすを強そうなものの間へ入れて、左右から、勇気づけるようにして、連れていくのでした。
「からすのほうが、よっぽど、偉いや。」
純吉は、空を仰ぎながら、つぶやくと、目の中に熱い涙のわくのを覚えました。
ある日のことです。田圃へ出て、父親の手助けをしていると、ふいに、父親が、
「純や、あれを見い。鳥でさえ、弱いものは、ばかにされるでな。」と、いったのです。
純吉が、父親の指す方を見ると、驚いたのでした。翼の端の取れた哀れなからすを、仲間が意地悪く、列の中から追い出そうとして、右からも、左からも、つついているのでした。
「ああ、わかった。一昨日は、あんなにしんせつにしてやったけれど、いつまでも弱いと、じゃまになるのだな。」
純吉は、自分が弱くないことを、どうしても見せなければならぬ気がしました。だが、自分の強いことを示すために、仲間とけんかをしなければならぬだろうか?
彼は、やはり迷ったのでした。そのうちに、小学校を出ました。もう、だれも、彼のことを、「ドンチャン。」と、いうものもなかったのです。
その後、彼は、村で、気の弱い、おとなしい青年と、見なされていました。
戦争が、はじまって、純吉が出征に召集されたとき、父親は、ただ息子が、村から出た友だちに引けを取らぬことを念じたのでした。
「お父さん、私は、意気地なしではありません。ご心配なさらないでください。」
純吉の家に残した言葉は、ただ、それだけでした。
その日、中隊長は、兵士らを面前において、厳かに、一場の訓示をしました。
「諸君は、なんという幸福者だ。じつに、いいときに生まれて、天皇陛下のために、お国のために、つくすことができるのだぞ。喜んで勇んで、思う存分な働きをしてもらいたい。」
長い眠りから、いま、目がさめたように、満面紅潮を注いで、にっこりとしたものがあります。それは、純吉でした。
「そうだ! いまこそ、ほんとうに、自分の身を粉にして、打ち当たるところができるのだ。」
もっとも勇敢に戦って、華々しく江南の花と散った、勇士の中に、純吉の名がありました。この知らせが、ひとたび村へ伝わると、村の人々は、いまさら、英雄の少年時代を見直さなければならなかったのです。
「さすがに、英雄はちがっていた。なんといわれても、仲間とは、けんかをしなかったからな。」と、その当時、彼のあだ名をいった友だちまでが、語り合いました。
丘に建てられた、新しい墓標の上を、いまも、朝は、西の山から、東の里へ、晩方には、東の空から、西の空へと、帰っていくからすの群れがあります。そして、哀れなものを、労るかと思えば、また、いじめるというふうに、矛盾した光景を空へ描きながら。
| 0.362
|
Medium
| 0.606
| 0.217
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| 2,180
|
ユーザーが左の画像をクリックする
| 0.179
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Easy
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| 16
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裸男が十口坊と共に、梅を久地に探りし時も、山神附纏ひたれば、壬生忠岑の子となりたりき。又裸男が夜光命と共に、梅を江東に探りし時も、山神が附纏ひたれば、矢張壬生忠岑の子となりたりき。忠岑の子は忠見、即ち唯〻見るだけといふ苦しい洒落也。飮みもせず、食ひもせざる也。薩摩守だけの罪は無けれども、『酒なくて何の己れが櫻かな』と云へり、いつも〳〵山神に附纏はれては閉口と、裸男一人にて、越ヶ谷方面の梅を探らむとすれば、山神同行を乞ふ。『梅を見て、歌を詠み得るならば、伴れて行かむ』と云へば、『梅を見るまでも無し。只今直ぐに咏み申さむ』とて、
愛でましし梅の花をば探る身に
歌よましめよ菅原の神
裸男承諾して、午後より共に家を出で、大塚仲町より電車に乘り、廐橋を渡りて、外手町に下り、押上町行きの電車に乘換へむとせしが、雨大いに至る。二人とも傘を持たず。雨に濡れての梅見でもあるまじと斷念して、下るより早く、乘りて引返す。停留場を二つ過ぐる程に、日照る。さらばとて、三つ目の停留場に下り、又乘りて、外手町に達す。我ながら周章てたる男哉。さりながら、多年風雨に鍛へし旅行家の身、我れ一人ならば、如何に老いたりとて、このやうな風雨に弱ることは無けれども、鼻の下の人竝より長きが、裸男の一大缺點、唯〻一つしか無き晴衣を著たる山神を氣の毒に思ひての仕業に外ならずと、分疏するだけが野暮にて、馬鹿の上塗なるべし。外手町にて乘換へて、業平橋に下り、小梅橋を渡りて、淺草驛より東武線の汽車に乘り、五十分かゝりて越ヶ谷驛に下る。平日は下等の賃金片路二十七錢なるが、梅の爲に、大割引となりて、往復の賃金三十錢也。
改札口を經て停車場を出づるは、甚しき迂路なるを以て、別に出口を設けたり。切符を驛夫に渡して直ちに柵外に出づ。雨少しくこぼれ來たる。例の鼻下長の裸男、山神をいたはりて、『この寒きに、御苦勞千萬なり』と云へば、『聞かせ給へ』とて、
雨まじり身を切るごとき寒風も
物の數かは二人し行けば
『宇田川』と染め拔ける印半纏著たる男、後よりすた〳〵歩み來り、『梅園に行かるゝか』と問ふ。『然り』と答ふれば、『之を持たせ給へ』とて、肩にせる二本の傘の一つを山神に渡して、またすた〳〵早足に行く。山神その傘をさすより早く、雨は止みて、傘が却つて手荷物となりたり。
停車場より僅々三町ばかりにして、梅園に達す。園の名を古梅園と稱す。字は大房にて、越ヶ谷町に屬す。掛茶屋四つ五つありて、頻りに客を呼べども、傘を借りたる義理あれば、『宇田川』といふ掛茶屋に就く。ほんの申譯ばかりの垣根が一方にあるだけにて、淨光寺といふ寺に連なり、田に連なり、畑に連なる。天の浮橋とて、老木の一幹は立ち、他の一幹は横になりて、瓢箪池の中央に自然の橋を爲し、彼方にて起つ。可成り大なる老木もありて、花は今を盛りと咲き滿ちたり。されど遊客は、我等夫婦の外には、唯〻一組の男女あるのみ。茶店はいづれも失望せるさま也。山神咏じて曰く、
梅の花にほひ零るゝこの里を
鶯ならで訪ふ人の無き
梅の花は此の園内のみに非ず。傘を貸して呉れたる印半纏の男に導かれて行くに、梅また梅、家あれば必ず梅ありて、その盡くる所を知らず。山神咏じて曰く、
わけ行けば奧より奧に奧ありて
果てしも見えぬ梅の花園
『雲龍』と稱する老木、一茅屋の前に在り。一幹は横はり、一幹は立ちて、枝を垂る。導者曰く、『去年多く實を結びたれば、今年は木弱つて花多からず』と。それでも可成りの花あり。實に見事なる大木也。榜して曰く、『祖先が植ゑたるものにて、今日まで既に十數代を經たり』と。數百年外のもの也。畑の中に、『日の出梅』と稱する梅あり。幹はさまで大ならざれども、枝を四方八方に張ること、恰も孔雀の尾を擴げたるが如く、花も枝に滿ちて、世にも珍らしき梅也。廻り廻りて『宇田川』にもどる。導者曰く、『この村の梅を悉く精しく見むには、一日を要す』と。この村には、桃林もあり。『梅と桃と、いづれが利益多きか』と問へば、『梅なり』といふ。梅干一つ頬張りながら、茶を飮みて去る。
越ヶ谷驛に來り、一汽車後らして、大相模村の不動に詣づることにしけるが、歩きては間に合はず、早く〳〵とて入力車に乘る。街を離るれば、路、元荒川に沿ふ。凡そ二十四五町、堤を右に下りて境内に入る。恰も縁日にて、近郷の男女老若群集して、廣き境内を埋む。新婚の女なるべし、若き女の晴衣著飾りて、老女に伴はるゝものを、二三人見受く。いづれも五枚襲ねなり。東京には見ざる所なりとて、山神目をまるくして見入る。見世物も三つ四つあり。
本堂は十五六年前に燒けて、今在るは假りの粗末なるもの也。山門は燒けずして殘れり。山門を出でむとする右手に、梅園あり。十善梅といふは、幹の廻り一丈三尺、關東第一の梅の大木と稱す。其他みな老木にて、恰も老梅共進會の觀あり。いづれも寄附に係る。幹の上部や大枝をちよん切りたるは、移植上已むを得ざるものと見えたり。梅園の中に、十間四方の藤棚あり。梅園と本堂との間に、高さ僅に一丈三尺、而して東西十一間南北十六間にひろがれる老松もあり。幹の廻り一丈にて、十善梅より稍〻小なる四恩梅は、今上陛下御即位大典の記念に植ゑたるものなりと記せるに、裸男一首うなり出して曰く、
幾千代の雪を凌ぎて梅の花
我大君の御世にあらはる
車を返して久伊豆神社に詣づ。松の竝木長く、池畔の藤棚偉大也。停車場近くまで戻りて、山正園を訪ふ。杉の竝木あり、小亭あり、池あり。圓錐丘の上に淺間祠あり。丘の中程より老松横になり、倒れむとして漸く柱に支へらる。もと淺間御社の境内なりしが、原鐵運送店の主人買收して公開せるなりとは、殊勝なる事也。
停車場に來りしに、まだ時間あり。何かみやげをとて、物賣る家を見廻したれども、これはと思ふものなし。幼兒がマツチ箱のペーパーを集め居ることを思ひ浮べて、まだ所持して居らざるペーパーをやつと一つ探し出して、たつた一箱だけ買ふ。其の價五厘、年とりたる主人、『この頃は物價騰貴で、マツチの價まで昂りて御氣毒さま』といふ。これが此日のみやげ也。裸男、山神に謎をかけて曰く、『吝嗇坊の遊山とかけて何と解く』『分りません』、『斬髮屋』『心は』『きりつむ』。『車だけが惜しいことをしましたね。』(大正五年)
| 0.455
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Medium
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| 2,614
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そのような人が周りにいっぱい居ました
| 0.319879
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Easy
| 0.255903
| 0.287891
| 0.223915
| 0.191927
| 18
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人を訪ねるといふことが非常に憶劫なたちなので、コポオに会ひたいと思ひながら、いよいよその方法を講じる決心をつけるまで凡そ半年もかかつてゐる。
はじめ、アール・エ・アクシオンのララ夫人にその話をすると、「大使の紹介を貰つてらつしやい」と云つて、傍らにゐる夫君に笑ひかけた。ははあ、こいつは不味いと気がついて、僕は大使と懇意でない旨を答へると、夫人は、「誰かお国のえらい方から、文部大臣に話しておもらひなさい。コポオはさういふ風な男ですよ」と、今度は、露骨に片眼をつぶつて見せるのである。
ララ夫人は、御承知の方もあらうが、思想的にはコンミュニストであり、芸術的にはウルトラ・モデルニストであり、コポオが大戦中、仏国政府の命をうけて、亜米利加へ宣伝旅行にでかけたことを、少なからず軽蔑してゐるのだといふことがわかつた。
私は、手をかけて、今度は、ソルボンヌ大学のルボン先生に相談してみた。此の先生は日本の学生を大事にする先生だから、それでは自分が骨を折つてみてやる。その代り、わしの講義には出席しろといふやうなことで、しばらく機会を待つてゐると、丁度、大学へコポオが講演にやつて来た。ルボン先生は、早速、その後で私を呼んで、コポオ宛の紹介状をくれたのである。
それはたしか、一九二一年のセエゾンがはじまつた頃だと思ふ。
コルネイユの「譃つき」が稽古にかけられてゐるある日の午後、私は、恐る恐るヴィユウ・コロンビエ座の裏門をくぐつた。
此の劇場には、舞台の前にプロンプタア・ボックスといふものがない。これは一に舞台の構造が然らしめるのではあるが、またもう一つは、台詞がしつかりはひつてしまつた後でなければ芝居をあけないから、その必要がないとも云へるのである。その代り、舞台の前面右手に、小さな部屋があつて、その部屋には、舞台の方だけが見える格子がついてをり、レジスウルが例のグルナディエ(幕の上げ下ろしをする合図の棒。これで床を叩くのである)を持つて立つてゐるのである。
そこで、私が案内されたのは、此の小さな部屋である。
コポオは、二三人の座員となにか話をしてゐたが、私の顔を見ると、右手で私の手を握り、左手を私の肩にかけて、頗る気軽に応対をしてくれた。
私はその時、予め用意して行つた文句をぶつぶつ云つたことは云つたが、なにしろ気をのまれてゐるので、ろくに舌がまはらず、ただ「ボン、ボン」といふコポオの声が、わけもなく私を感激させた。
やがて、彼は、傍らの一人に向ひ、「おい、バッケ、お前の受持だよ、此の青年は……。家のものと同じだ。なんでも見せてあげるやうに……」
それから、事務員を呼んで、毎回稽古の通知を出すこと、自由に小屋の出入を許すことなどの注意を与へてくれた。
バッケといふのは、「ルルウ爺さんの遺言」で主役をやり、附属演劇学校でデクラマシヨンの講義をしてゐる親切で暢気な俳優である。
何が困難だと云つて、殆ど毎日顔を合はしてゐるコポオと口を利くぐらゐ困難なことはあるまい。彼は一時も、ぢつとしてはゐないのである。
こちらも、また、つまらないことを話しかけて、時間を潰させてはと思ふから、なるべく黙つてゐる。それでも稽古の時など、私が腰かけてゐる席の際に腰をおろしたりすることがあると、舞台に向つて投げかける小言の合間合間に、私の方へ何かと話しかけることがある。それも、大概は、こつちの返辞なんか待つてゐないのである。それを知つてゐるから、私もいちいち返辞なんかせずに、笑つたり、肯いたりしてゐるだけで、うまく調子が合つて行くのである。
「サダヤツコつていふ女優は、あれや、ほんとにえらいんですか。駄目、駄目、その調子は……もう一度やり直し……」
といふ風に、コポオは、人をなんとも思つてゐないらしい。
私はバッケの勧めで、自由に科目を選択してもいいといふ条件で附属演劇学校に籍を置くやうになつたが、コポオの講義だけは欠かさずに聴いた。
その講義は、殆ど座談に近いものである。席に着くと、一座を眺めまはして、ニヤリと笑ふ。なにか悪戯をしたさうな顔つきである。一番前の列に、かしこまつて坐つてゐる一座の若い女優を見つけると、「寒いね」とか、なんとか云ひかける。それから、天井を見上げる。はじめは聴き取れないほどの声で喋舌り出す。少し吃り加減な口調が、次第に熱を帯びて来る。が、眼は絶えず笑つてゐる。そして視線は動いてゐる。
前にも書いたことがあるが、アンドレ・ジイドの「サユル」を稽古にかけ出してから、コポオは非常に気むづかしくなつた。
ある日、私は、作者のジイドと隣り合つて稽古を見てゐた。
コポオは自ら「サユル」に扮するのだが、ある場面で、ジイドが
「おい、君、君、其処は下手へ引込むんだよ」と注意した。
コポオはやり直した。が、また、平気で上手へ引込んでしまつた。
ジイドは、ちらと私の方を顧みて、苦笑した。
「ねえ、コポオ、今のも……」
「わかつてる」とコポオは、冷やかに云ひ放つた。「此の引込みは上手でなけれや不自然だ」
「だつて、庭は下手だよ。そのつもりなんだ」
「どら……」と、またやり直して見て、やつぱり上手へ引込んだ。
ジイドも、流石にあきれて、肩をぴくんと聳やかした。
余談であるが、此の時、ジイドは、私の方に手を出して、英語で、「マッチをおもちですか」と問ふのである。勿論煙草を喫ふためであるが、私は、彼がなんのために、ここでわざわざ英語を使つたか、甚だ腑に落ちないのである。なぜなら、それまで二人は仏蘭西語で話をしてゐたのだから。私が「Voi ci」と云つてマッチの箱を出すと、煙草に火をつけ、また「Thank you」とやつたものである。なるほどかれは、シェイクスピイヤの翻訳をやつてゐる。それだけなら、なんの奇もないが、仏蘭西の文学者で外国語のできるものは甚だ稀れであり、そのことだけが、文名一世に高きアンドレ・ジイドをして、英語で「マッチをおもちですか」と云はせたのだ――といふ皮肉な解釈をして見るのも面白いではないか。尤も此の場合、いろんな理窟もつけられるにはつけられるが。
そんなわけで、私は、しばらく、ヴィユウ・コロンビエ座の隣にある同名のホテルに宿をとつた。南京虫の跋扈する安下宿で、便利だといふ以外に取柄はないが、其処のお神さんは、私を役者だと思つてゐたから可笑しい。
コポオは、朝晩、例の目の荒い碁盤縞の外套をひつかけて、此のホテルの前を通つた。私は、如何なる場合のコポオよりも、その黙々として狭い石畳の上を歩くコポオの姿を、最も鮮やかに思ひ浮べることができる。
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あらかじめ、いくつかのプログラムを用意する
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いつまでも ものを言はなくなつた友人――。
もつとも 若かつたひとり――。
たゞの一度も 話をしたことのない
二三行の手紙も 彼に書いたことのない私――
併し 私の友情を しづかに 享けとつてゐてくれた彼を 感じる。
――友人の死んだ時
私は、嵐の聲を聞いた。
若い世間は、手をあげて迎へるやうに
はなやかに その死を讚へた――。
老成した世間は、もみくしやになつた語で、
澁面を表情した――。
一等高さの教養を持つた人だけが――、
何げない貌で
たゞ その姿を 消ゆるにまかせるだらう――。
さう言ふ この國の爲來りを
彼は信じて 安らかになつたに違ひない。
若い友人は 若いがゆゑの
夢のやうな業蹟を 殘して死んだ。
こればかりは、
若くて過ぎた人なるが故の美しさだ と言ふ思ひが――、
年のいつた私どもの胸に 沁む――。
何げない貌で 死んで行つたが――
ほんたうに 遠く靜かになつた人
もういつまでも ものなんか言はうとしないでもよい。
私の眶を温める ほのかな光りを よこしてくれ
* * *
私などが、太宰君の本の解説を書いて見たところで何の意味もないことである。故人作物の批評や、案内の類の書き物は、手近いところに幾らもあるのだから、そんな點では、私如きは、手を空しくして眺めてゐる外はない。其でも生前、口約束のやうなことを、人をとほしてあり、その作物をこんな風に見てゐる者もあると言ふことだけは、故人に知つて置いて貰はうと思うたこともあるのだから、謂はゞ書くべき義理がない訣でもない。其で、世の人のすなる評判記の類に繋りなく、勝手な感想の二三枚も書いて、故人をくやむ心だけを、その後、知りあひになつた遺族の方々の前に表したい――さう思うて書かうとする訣、全く唯何となく、書いて見るだけのことである。
故人についての知識は、一から十まで、故人の友だち伊馬春部から得たもので、その書き物も大方、あれを讀め、之を讀めと言つては、春部の持つて來てあてがつた物から得たのである。だから相當に讀んでゐても、かう言ふ事をするのに、ひけ目を感じる訣である。今度出るのは、「櫻桃」・「人間失格」、それに「ヴィヨンの妻」――皆故人の名を、その時々に、一段づゝせりあげた作物である。
だが私は、あゝ言ふ變質風な性格や、慾望ばかりを描寫したものが、太宰作風の全體ではないと始終考へてゐるものだから、かう言ふとりあげ方は、外の本屋の傑作選といふ風なものについても、よい氣がしなかつた。これでは、太宰君が可愛相だ――、そんな風に思うて來たものである。だから、角川の文庫の竝べ方についても、あまりぞつとしない氣がしてゐる。そんな訣で、せめて「竹青」を入れてくれ、と希望を述べた位である。
津輕を知らない人は、始終曇つてばかりゐて、人々も重くるしい口ばかりきいて居るやうに思ふかも知れぬし、又故人の作物評にも、さう言つた「人國記」風な概念がまじつて來てゐるやうである。ところが實際の津輕は、廣々とおだやかで、人も上品な暮しにあこがれることを忘れてはゐない。此事は、おなじ地方根生ひの文學を書いた北畠八穗さんや、深田久彌氏のもので見ても訣る。もつと手取りばやいことは、あの優雅な弘前の町を、一わたり歩いて來ることである。
何だかふつと、私の頭を掠めて、「清き憂ひ」と言ふ語が、浮んで來る。これが、津輕びとの性格の裏打ちになつてゐるやうな氣がする。こんなことを言ふと、買ひ被りだと笑はれさうだし、又人間さう一概に、言へるものでないことも訣つてゐるが、尠くとも太宰君は、さう言ふ人だつた氣がする。文學者は、藝術の選民なのだから、彼がさう言ふ人だつた、と思ふ私の考へを、間違ひだと斷言の出來る人はない筈である。
その作物を見て、私はいつもこの清き憂ひに、心を拭はれるやうに感じてゐた。其なればこそ、顏も見たことのない、又顏も見ないでしまつたこの友人の作物を見ることを、喜んで來たのであつた。だから世間の人の言ふ彼の評判へ向けて、私の感じはいつでも、いこぢな對立を守つて讓らなかつた。
「ヴィヨンの妻」や「人間失格」も、かう言ふ範疇に入れて、私は見てゐた。平氣になつて考へると、私の思ひの中の太宰は、とくの昔に、ある部分は、變つて行つてゐたやうである。かう言ふ經歴からすれば、私の考へることなどは、あてになつたものでない。
小説乃至戲曲などいふ文藝に、ずぶの素人である我々からすれば、若い此人の作物は、隨分驚くに堪へた經歴が、織りこんである。われ〳〵が終生それから離れない世間の生活の上に、虚構の生活――といふと、ことばがわるいが――文學者の希求の生活と言つたものが出て來てゐる。誰から許されて、そんな生活をした訣でもないが、其を積んで行く自由を持つてるやうに、彼らはどん〴〵別途の生活の方へ分岐して行く。以前は、こんな生活を、簡單に詩人的だと稱へたものだが、今では、もつと輪をかけた形に、ひろがつて來てゐる。太宰君の文學者としての生活を見ると、いつか作物の上の生活が、世間の生活から、ぐんと岐れて行つてしまつてゐる。自分だけ守る生活といふものを、極度に信じた事から、たゞ一途に、自分の文學を追求して行つた。謂はゞ、筆は生活追求の爲に使はれてゐた。さうして段々、深みに這入りこんだ彼だつた。私などは、それに氣のつくことが遲かつた。斜陽の「新潮」にのりかけたのを見て、はじめて太宰君が何に苦しんでゐるか、といふことをおほよそ知つたくらゐのものである。現實の出發に先じて、虚構が出發してゐたのである。虚構といふと、とりわけ誤解がありさうな作物だから、文學が先に出てゐると言ひ替へてもよい。平易に、文學的作爲と言ふやうな語をつかつてもよい。斜陽の現實よりも、斜陽の虚構の方が先に發足してゐる。さうして展開する虚構の後を追つて、現實が裏打ちをして𢌞つた。――私はかう言ふ風に後を追つて考へてゐる。――事實と全く關係のないことだが――あの小説の女主人公のやうなものを、幻像を持つた作者が、偶然少し誇張を加へれば、幻像にぴつたりするやうな女人を知ることになる。それが、文學志願を抱いた娘なんかであつて、自分の閲歴に近いことを小説體に書いた手記風の書き物を持つてゐた。――さう事實を設定して見れば、説明がし易い。其女性に相當知り合ひになつた彼が、手記を借りて讀む。小説の上の生活は、これから出發する。其と共に、虚構の生活は、先へ〳〵と蹈み出して行く。さうした生活を註釋するやうに、或は確實性を持たせる爲の樣に、小説の上の娘との交渉が進んで行く。謂はゞ、科學者の行ふ實驗のやうに、彼においては、生活の實驗が行はれて行くのである。
――私は斜陽の發表を、次々に見てゐる中に、ふつとそんな氣が起つた。小説の終末が作者の現實の中に留るか、更に虚構の世界にはみ出して行つてしまふか、この二つが頭に浮んで來た。だが、どちらも作者の考へとは喰ひ違つたことになる。これはどうしても、作者の肉體が限界になる。肉體の強靱がものを言つて、虚構を征服してしまはねばならぬ。さうでなければあぶない事になる。こんな危殆な感じが心を掠めたものだつたが、何分實際に作者に行き逢つてゐない。知つてゐるのは、春部の話して聞す太宰君だけである。友人を清く見せることが、自分の生活のよさを示すことだと思ふ癖が、一群の青年にあるのだから、春部も、さういふ風の太宰君だけを語つて、私の太宰觀を清くすることに努めてゐた。だから、勘のわるい私には、太宰君の運命をつきとめて考へることが出來なかつた。又、出來たところで、どうなるものでもなかつたが……。その間に太宰君は小説を超えて、――或はまだ著手しない小説の爲に、中年と若年の間に彷徨してゐる男と、若い女との戀愛を實驗しはじめてゐたのであつた。此未著手の小説は、作者の體力の爲か、現實としても未完成に終つたが、あの境をのり超えてくれゝば、其は其で又、さうした男女關係に一つの解決が與へられたのであらうのに――。
太宰君は勉強家で小説の源頭の枯涸することを虞れて、いろんな古典を讀んだ。さうして其效果は、いろんな形で、その作物の上に現れてゐる。この書物の上に彼の積んだ經驗は、我々安んじて眺めることが出來る。だが、世上人としての經驗は、學生と文學者以外になかつた君である。言はゞ懷子のやうな一生だつた。もつと經歴を積んでくれねばならなかつたのだ。ところが流行作者としての生活が、彼を、家と爲事場と、其から心を養ふ爲の呑み屋とから、遠く離れて遊ぶことを許さなかつた。唯彼は勉強した。からだを摺りへらすばかりに努力した。彼の積んで行く經驗が、彼の健康を贖ふことの出來ぬところまでせりつめて行つた。
そこへ、太宰君の内に、早くからゐた芥川龍之介が、急に勢力を盛り返して來た。悲しんでも、尚あまりあることである。
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紙治で唸らされた印象のまだ消えやらぬ東京人士の頭に、更にその俤を深むる為に上つて来た鴈治郎の忠兵衛。観客の予期と成駒屋の自信と、如何程まで一致したか。其は感情派の批評に任せて、自分は唯旧大阪の遊廓の空気と、浪花風の各種の性格とが、各優人の努力によつて、何れ位実現せられたか、其紹介をすれば足る悠々たる客観党。二階正面の桟敷に陣どつて、前山の雲と脂下る。
女寅のおえん、容貌なら物ごしなら宛然その人である。唯折々野暮な姿を見せるのは、刻明な世話女房と見える虞がある。梅川と忠兵衛とを会はせようと言ふ矢先、鴇母が来るので吃驚して両手で門の戸を押へて、横向きになつたのは物おぢをした様で、華車としては不似合。戸を背にして肩をおとして手を拡げた方が、形もよく、梅川との形の上の調和もとれてよい。とゞ戸を開いて忠兵衛を呼んで、首尾してやるといふあたり、鴈治郎と呼吸がしつくり合つて、何様恋のわけ里のあはれ知りとは十分見えた。八右衛門を嗜めるあたり余り赫となるのは面白くない。今少し冷やかにやつた方が其人らしからう。其間の語気も、くだけた処と改まつた点とが、あまり区別があり過ぎた。此人は上方育ちと聞いて居るのに、大阪弁のまづさ。鴈治郎との対話がしつくり合はないので冷々させられた。
八百蔵の治右衛門、押し出しが立派。同情深さうな挙動はなつかしい。しかし地味な大阪風のおき屋の亭主とよりも、顔役に見えたのは遺憾。喜左衛門では真面目すぎ、三浦屋の亭主では柔みが尠い。困難い役、動きのない役を此程にすれば結構だ。
猿之助の八右衛門、花道の出は立派な色敵。善六になりたがる役に、とも角丹波屋主人といふ処を始終放さなかつたのは流石々々。しかし台詞は、今尠し鴈治郎と打合せて修正して貰つたらどうだつたらう。非常によく調和した所とまるで江戸ツ児になつた所とがある。八右衛門といふのは、決して啖呵をきる様な質ではない。ねつい人間といふ処を目がけて居なかつたのは、感違ひだ。しみつたれとは見えなかつたも此考へが足らないからである。忠兵衛が封を切つたので、驚いて後居に手をついたまゝ、首を捻ぢて忠兵衛を見まもる形は素敵なもの。但蔭口を利くあたりも、毒吐き乍ら帰る辺も、さのみ憎々しくは聞えなかつた。これでは忠兵衛に、段梯子を馳け下らせることは出来まいと案じて居つた。要之人物の腹の位置の違ひと大阪弁で旨く行かなかつたのであるが、個処々々にはよい処があつた。
芝翫の梅川、あまり上品すぎるだらうとは衆口の一致する所だが、はたして然うであつた。あれでは天神とは見えない。なまめかしい処を見せればよいかも知れぬ。奥座敷での首尾のあたり、鴈治郎と情がうつらなかつた。今にも退り居らうと叫びさうだつた。封印切りの場は、忠兵衛の一挙一動に目を配り乍ら、次第に表情を更へる具合、無精な人によくまあと感心した。台詞はすつかり時代で行つたから、却つて忠兵衛の砕けたのとよく調和して居つた。忠兵衛に実を告げられてからは、ぐつと見直した。戦き〳〵門の戸を閉めきつた様が、目に残つて居る。送り出されてから花道の引きこみまで、ぢたばたせなかつたのはうれしかつた。
鴈治郎の忠兵衛、紙治と違つて此役は、非常に明暗の度の甚しい役なのであるから、見せ場も多いといふもの。まづ花道の出から、行きつ戻りつ、梶原源太は俺か知らんで、大股の飛ぶ様な足どり、はしやいだ人間らしかつた。此軽い気質を忘れないで、近日々々の引きこみまで、愁歎の内に軽い味を示して居たのは嬉しい。仁左衛門はあまり重々しすぎた。自分は鴈治郎のに左袒する。封きりは坐つてやつたが、何様此方がよい。立つてやると、あまり向をきりすぎるので、上方町人とは見えない。此方が地味でよい。封をきるに到る激し方には、尠し物足らぬ感じがした。此は猿之助の詞つきが宙ぶらりで、百廿里の合の子詞、浜松あたりの所だつたので、気が乗らなかつたのであらうが、今少し強くやつて欲しい。封切に始終恐怖の念に襲はれて居る心持は、よく表れて居た。まだある〳〵で、金を投げ出す呼吸、封印を切つて仕舞つてがつかりするあたり、梅川に実を明して上手の屋台に逃げこんで首だけを出すあたり、其目其姿、即美術品である。台詞が外の連中が皆不練なので、思ふ様には自分でもつかはれぬ様子、気の毒であつた。
此人は極る処が非常に善く応へる。とに角よい目の正月をした。
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一体、芝居の話といふものは、その芝居を観た同志でなければ、したつてつまらないと思ふのですが。……ですから、どの芝居がどうといふお話は、みなさんが仏蘭西へ一度いらしつてからのことにして、今日は、漫然と、仏蘭西の芝居で、日本の芝居と違ふところを、思ひ出しながらお話をして見ませう。
先づ、仏蘭西の芝居は、大てい晩の八時か八時半頃から初まります。従つて、芝居に行く前に夕食をすませます。ハネるのは、十時から十一時の間が普通ですから、電車のなくなる心配などはまあないわけです。帰りに、カフエーへ寄つて何か一寸したものを食べたり飲んだりすることもできます。そんなことをしないで、行儀よく家へ帰つて寝るとすれば、朝学校へ行くのにねむいなんていふこともありません。
若い娘さんが、独りで芝居に行くといふやうなことは殆どなく、何時でも家の人と一緒ですが、学校で習つた古典劇の実演を、国立劇場へ観に行くなんていふことは、日本ではないことですね。マチネーなどへは、学校から先生が連れて行つてくれることもあります。女学生は、みんな、ラシイヌとか、モリエールとか、コルネイユとかいふ劇作家の名を識つてをり、その脚本の一部分を暗誦してゐるんですから、さういふ場面を舞台で観、名優の口から、台詞としてそれを聴かされる時の感銘も、また一段と深いわけです。
日本では、たまに外国の歌劇団などを迎へて大騒ぎをしてゐますが、巴里には、楽劇を何時でもやつてゐる劇場が沢山あり、そのうちでも、オペラ座と、オペラ・コミツク座とは国家が利益を度外視して経営してゐるのです。オペラ座は、俗に、グラン・トペラと呼んでゐますが、オペラ・コミツク座との区別は、説明しなくてもおわかりでせう。つまり、ファウストや、タイスや、アイイダなどはオペラ座でやり、カルメンや、マダム・バツタアフライなどはオペラ・コミツク座の方でやります。入りの多いことは、何と云つてもオペラ・コミツクです。安い席などは、お昼頃から切符売場の前で待つてゐないと買へません。気の長い話ですが、お弁当のサンドウイツチと編物の道具とを手提袋に入れ、畳椅子をぶら提げて、わざわざ出かけて行くお神さんなどがあります。開幕前までには、さういふ熱心な見物が、劇場の外側に一町も列を作つてゐるやうなことが珍しくありません。そこへまた、「えゝ、プログラムは如何……」「えゝ、ビールは如何」「えゝ、切符は如何」といふやうな呼声が聞えて来ます。これもまた日本では見られない光景です。
しかし、一方に、日本で云へば築地小劇場とか、または新劇協会のやうな、所謂、芸術的劇場が、限られた見物の前で、華やかではありませんが、研究的な舞台を絶えず見せてゐます。そのうちの、ヴィユウ・コロンビエ座といふので上演した脚本を、嘗て築地小劇場でもやり、また近く新劇協会がやることになつてゐるのですから、かういふ種類の芝居は、仏蘭西も日本も、同じ道を歩いてゐると云へるでせう。
独逸の芝居は舞台の趣向に於てすぐれ、仏蘭西の芝居は、役者の演技に於て勝つてゐることは誰でも気のつくことですが、そのために、独逸の芝居は、言葉がわからなくても「面白く」、仏蘭西の芝居は、言葉がわからなければ、あんまり「面白くない」わけです。さういふところから、仏蘭西の芝居は、日本などで、あまりその道の人からよく云はれてゐませんが、これはみなさんに一つ考へていたゞきたいことです。――なんて、どうも少し理窟つぽくなつて来て編輯者に叱られさうですから、このお話は、もうよしますが、私の言ふことが嘘だと思つたら、西条八十さんに聞いて御覧なさい。そして、西条さんが、近々お訳しになるミュッセとポルト・リッシュの戯曲を一度読んで御覧なさい。みなさんは、きつと、仏蘭西の芝居が好きになりますから。
それに、さうさう、みなさんは、シラノ・ド・ベルジュラックといふ芝居を御存じですか。それから、さうさう、みなさんは、サラ・ベルナアルといふ女優を御存じですか。それから、そら、あれを御存じですか……。
仏蘭西の芝居の話を、三四枚の原稿紙に書けなんて、少し令女界の編輯者は無理ですよ。
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彼がずっとカメラを回した
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彼がXにあれこれ思いを巡らせる
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助けていただきたいのです。
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私はファルシャッドです。
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〜と大臣が発言しました
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いい天気が続きます
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すでに人がいた
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彼は若い頃貧乏だったようだ。
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多くの仏学者中に於てルーソー、ボルテールの深刻なる思想を咀嚼し、之を我が邦人に伝へたるもの兆民居士を以て最とす。「民約篇」の飜訳は彼の手に因りて完成せられ、而して仏国の狂暴にして欝怏たる精神も亦た、彼に因りて明治の思想の巨籠中に投げられたり。彼は思想界の一漁師として漁獲多からざるにあらず、社会は彼を以て一部の思想の代表者と指目せしに、何事ぞ、北海に遊商して、遠く世外に超脱するとは。
世、兆民居士を棄てたるか、兆民居士、世を棄てたるか、抑も亦た仏国思想は遂に其の根基を我邦土の上に打建つるに及ばざるか。居士が議会を捨てたるは宜なり、居士が自由党を捨てたるも亦た宜なり、居士は政治家にあらず、居士は政党員たるべき人にあらず、然れども何が故に、居士は一個の哲学者たるを得ざるか。何が故に、此の溷濁なる社会を憤り、此の紛擾たる小人島騒動に激し、以て痛切なる声を思想界の一方に放つことを得ざるか。吾人居士を識らず、然れども竊かに居士の高風を遠羨せしことあるものなり、而して今や居士在らず、徒らに半仙半商の中江篤介、怯懦にして世を避けたる、驕慢にして世を擲げたる中江篤介あるを聞くのみ。バイロンの所謂暴野なるルーソー、理想美の夢想家遂に我邦に縁なくして、英国想の代表者、健全なる共和思想の先達なる民友子をして、仏学者安くにあると嘲らしむ、時勢の変遷、豈に鑑みざるべけんや。
(明治二十六年九月)
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